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20201203尹奉吉暗葬地と刑務所墓地

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尹奉吉暗葬地と刑務所墓地

 1982年の野田山墓地地図明細図には、「刑務所墓地」と書き込まれており、『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉』(2020年版)で、「処刑後の尹奉吉の遺体を、…陸軍墓地と市民墓地の境目で、ひとびとが昇り降りする通路に暗葬したのである。しかも、陸軍墓地に隣接し、暗葬地から十数メートルのところに、刑死した人を葬るための刑務所墓地がありながら、敢えて暗葬に付した。…尹奉吉の遺体の在処を隠したのである」(65ページ)と書いたが、「刑務所墓地」がいつから供用されたのかについての調査を怠ってしまった。

現地調査
 現地を調べると、金沢刑務所の境界標があり、墓碑があり、その両側に立つ灯籠には「昭和36(1961)年建之」と書かれており、「戦前から刑務所墓地として使われていた」という思い込みが崩れた。

  

 刑務所墓地の地番が「野田町野田山4–3」であることがわかり、さっそく金沢地方法務局で、登記簿の写しを入手した。以前に入手した石川県戦没者墓苑(野田山4–2)の登記簿と併せて、検討すると、



 1876(M9)年に、金沢陸軍埋葬地を含む金沢市民墓地が整備され、供用が始まった。
 1884(M17)年に金沢区の所有になり、金沢市に登記された。
 1900(M33)年に、新墓地全体が金沢市に登記された。
 1940(S15)年に陸軍墓地部分(野田山4–2)が陸軍省に贈与され、1962(S37)年に大蔵省に名義変更され、直後に石川県に無償譲与され、今日に至っている。
 刑務所墓地(野田山4–3)は、もともと金沢市の所有地だったが、1961(S36)年に、「交換」によって法務省の所有地となった。

 このように見てくると、尹奉吉が処刑され、暗葬にされた1932年時点では、刑務所墓地(野田山4–3)は存在せず、1962年以降から供用されたと考えるのが自然である。したがって『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉』の記述は誤りであり、ここに謹んで訂正する。

1994年「ファントム騒音の根源は、帝国主義」

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 1970年代以降、50年間、小松基地問題にこだわってきましたが、その中で、さまざまな人にお会いしました。来年は、小松基地の設置~小松基地闘争について、可能な限り総括的な小冊子を作成しようと、決意しました。とりあえず、1994年の住民の声を採録します。

 1994年「ファントム騒音の根源は、帝国主義」
                             第1次ファントム訴訟原告 M・S

小松基地の設置経緯ならびにその目的
 北陸であたりまえの労働運動を目指して苦闘されている皆さんに、小松基地闘争の実状をお知らせし、広範な連帯と共闘の力で小松基地の撤去を成し遂げたいと思っています。

 航空自衛隊小松基地は小松市(人口約10万)の南西部にあり、ほぼ海岸線に平行する2700メートルの滑走路を中心とする諸施設に、F4ファントム戦闘機22機・F15イーグル戦闘機18機の2飛行体と付属諸隊からなる、第6航空団が常駐しています。

 これは大戦末期の1943年に建設された海軍航空隊の飛行場を大幅に拡張して作ったものです。1961年の基地開設にいたるまでと、第2次拡張の時点では住民や労働団体などによるねぼり強い反対運動はあったが、一方では石川県・小松市当局を始めとする基地誘致派・賛成派もあり、とくに買収予定地をもつ4カ町の地権者の結束も不十分なため、基地開設を強行されたことは痛恨の窮みです。

 小松基地は日本列島のほぼ中間に位置して、日本海の全域を制圧し、朝鮮半島とソ連沿海州に対して強力な攻撃が可能であり、帝国主義戦争遂行の軍事力として、すでに大きな役割を果たしつつあるといましょう。

 ところで、1945年に日本の帝国主義は、大きく挫折しました。そのときに国是として採択した平和憲法こそ「ふたたび帝国主義の道は歩まない」という反省と決意に立つものにはかならないのです。なぜならば軍隊のない帝国主義は不可能であり、帝国主義を阻止するには軍隊を持たせないことを第一の要件とするからです。平和憲法の目的を尊重するわれわれとしては、この憲法を現実化する義務があると考えています。

帝国主義とは
 この言葉は政治・経済・社会の制度の基本理念を表わす目的で使われているものではありません。そうではなくて近現代の先進諸国が未開地域や後進弱小諸国を植民地化して支配・搾取している歴史の一側面を批判的に指摘している言葉です。

 このような歴史は人類発生以来続いていますが、とくに甚だしくなったのは16世紀以後のヨーロッパ諸国が世界中の後進国を植民地として支配・搾取してきた歴史です。発達した工業力に支えられた軍事力が侵略の主役を果たしてきたのは勿論です。

 以上を第1の段階として見ると、第2の段階は19世紀初頭に始まる、いはゆる産業革命以後のことになります。蒸気機関の開発を中心とする機械技術の大幅な進歩によって生産力が飛躍的に増大しました。また一方ではフランス革命などの影響によって市民社会の形成があり、資本主義体制は世界の主流として地歩を固めたといえます。

 人間というものは精神的な生き物という側面もありますが、物質なしでは一日も生きられないのですから、生活物資の生産・流通を資本が支配する社会では同時に社会の一切を支配します。政治とか政治家といっても資本の下働きにすぎないわけです。

 外見的には、確かに民主主義の手続きで成立した政府が支配していますが、その議会や政府は資本の力に屈服している多数の国民に支えられています。この社会では自分が資本の奴隷になっていることさえ自覚していないのが大多数であり、また自覚している人でも多大な社会的・経済的不利益や苦痛に耐えてまで抵抗しようとする人はごく少数派です。

 資本は本来国籍とは無関係なものですが、支配される国家はいくつもの主権国家に分かれていますから、現実には国家資本主義という形をとり、その(国家の)間で植民地の分割や利権などをめぐって大小の戦争が繰り返されてきました。帝国主義という言葉は、このような状況をさして言われるのが普通だと思います。

 言うまでもなく、資本そのものは人間が作った機械とか道具みたいなもので、特別な悪意とか善意をもつわけではない。しかしこれを生産関係に導入して運用し始めると、人間は逆に資本の道具になってしまうという論理的必然があります。人間が道具になってしまえば、戦争でも環境破壊でも資本の命ずるままに平気でやります。人間から人間性を奪い去って、道具にしてしまうということが資本主義の持つ根源的な罪悪です。ですから上手に運用すれば良いではないかとは決していえません。上手にやるということはそれだけ罪悪が大きくなるということです。

 人間が物質的幸福を求める欲望にはきりがないのです。地球規模の環境破壊をいくら心配し、論議してみても、資本が政治と社会を支配しているかぎり、これは止まりません。ロシア革命後70年にしてソ連邦が崩壊し、他の諸国にもナダレ現象が起きています。多くの人々は「やはり共産主義が駄目なんだ」と思っているようですが、これは大変な心得遣いというものです。

 マルクスもレーニンも一個の人間として完壁ではありえないのですが、少なくともそこには「欲望の支配から理性の支配へ」という人間が人間として生きるための基本的な理想があります。

 物事の良し悪しと、成功か失敗かとは一全く別のことであって、はっきりと区別すべきものです。社会主義革命を推進した人々の方法論的な過ちは、帝国主義社会との関係存在という基本的な困難を考慮に入れてなお、許すべからざる罪悪を犯したといえましょう。

 私たちはいま、人類史の未来を左右する大きな転機に立っています。先人の失敗を教訓として、またあらゆる主義・イデオロギーの枠にとらわれず、根源的に自由な立場で現状を正しく認識し、批判し、めざすべき理想を模索しなければなりません。

 このような時期であるにもかかわらず、「理想を求めない罪悪」と「求めた理想を放棄する罪悪」についてすら、世界のどこにも論議が起こっていません。全人類は思考停止の状態にあります。かって、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で人間性の回復を唱えましたが、私は今「人が死にかけている」と言いたいのです。

運動の現状とファントム訴訟
 我々は客観情勢の不利と力不足のために、基地開設を阻止しえなかったとはいえ、生活環境の回復と平和日本を希求するものとして、あくまでも基地撤去にむけてたたかい続けなければなりません。そのために新機種の配備・日米共同演習・航空祭行事など、事あるごとに抗議行動をとり、同時にそのことを市民各層に訴え続けてきました。

 そして、1975年9月、F4ファントム機の配備を目前にして、第1次原告12人をもって小松ファントム訴訟を金沢地裁に提訴しました。これは自衛隊基地にたいする初の民事訴訟として、大きく報道されたのでご承知の方も多いと思います。請求内容はF4ファントム戦闘機の離着陸差止と騒音被害を出している不法行為にたいして「国家賠償法」による過去及び将来分の損害賠償です。

 提訴の直接目的は被害の増大を避けるためにF4ファントム機の配備を阻止することと、当然の権利としての賠償請求ならびに自衛隊にたいする憲法判断を司法に迫るということです。間接的には周辺住民の蒙っている被害の実態と憲法に違反する再軍備の犯罪性を全国民に訴えて、統合的反戦運動を構築する一助にとの願いに立つものです。1983年には318人の第2次原告団も結成してたたかってきましたが、3月13日、16年目にしてついに判決を迎えました。ひとことで言って反動判決であります。

 第1審反動判決を弾劾するファントム訴訟をたたかい始めて、19年になります。1991年3月22日に判決がありまして、新聞でも大ききく報道されましたので、だいたいご承知だと思います。

 それは大阪空港あるいは米軍の厚木・横田基地などにたいする騒音公害訴訟への判決と大同小異でして、損害賠償は認められたものの、ファントムの飛行差止めは認められませんでした。私達の生活環境を守るためには、どうしてもファントムの飛行差止めが必要です。これ以外に騒音公害をなくする方法はありませんから。肝心なことが全部退けられ、承服しかねる判決です。したがいまして、3月25日に控訴の手続きを取り、12月20日に名古屋高等裁判所金沢支部で、第一回の控訴審がおこなわれました。

 今度の判決の問題点は、私達が求めていた自衛隊についての憲法判断が全面的に避けられたことです。裁判官が憲法判断をしない理由を「自衛隊のトラックが街を走っていて、交通事故を起こして、相手方に被害を与えた場合に、その訴訟では自衛隊が憲法違反であるかどうかを論じる必要はない」というものです。非常に乱暴な論法でありまして、こういう論法がまかりとおると「違憲立法審査」が一切成り立たなくなります。全てが門前払いになり、非常に重大な問題です。

 もう一つは、周辺住民に非常に大きな騒音被害をかけているにもかかわらず、「公共性」のためにはやむをえないといって、退けています。つまり公共性とは公共の福祉のことです。福祉とは「欲望の充実」ということです。人間が生活していますと、いろいろな欲望が生れ、この欲望をできるだけ充足することが福祉ということですから、多くの人の欲望を充実させるためには、一部の人が迷惑を被ってもやむをえないという論法です。欲望は際限なく起きるものでして、そういうものが人権を侵害してもよい言えるのでしょうか。公共の福祉という場合、本当の意味での福祉とは何かということを問い直さねばならないのではないでしょうか。

 関西新空港や成田空港の「公共性」は、あの大きな空港がパンクするほど海外旅行に出かける人がいるということです。そのために空港を作り、周囲の住民に大変な迷惑をかけ、人権を侵害しているのです。こういう問題を、今回の判決が表現しているのです。

20201210情報公開制度の死―外国人労働者の悲惨を隠蔽

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20201210情報公開制度の死―外国人労働者の悲惨を隠蔽

 2020年はコロナウイルス禍で、外国人労働者(とくに実習生)の窮状が報道などで散見されてきたので、11月19日、石川労働局を訪問して、「2020年4月1日~11月18日までに、石川県内の外国人労働者からの相談(労働相談票)」の開示を請求した。12月8日に開示決定があり、10日に同局を訪問して、開示文書9枚(表裏18ページ)を受け取った。

 おお! おお! おお! 
 「受付年月日」が消されている―これは一体、いつの文書なのか? 
 「相談の区分」も「相談の内容」も消されている。―表題はたしかに「相談票」と書かれているが、本当に労働相談票なのか? 
 下記の添付は、今回開示された9枚のうちの1枚だが、すべてがこんな調子なのだ。これで、外国人労働者が、どのような悩みを持って、相談の電話をしたのか、一切わからない。

 2020年開示文書(受付年月日が消された「相談票」) 
 

 2015年1月26日受付の「相談票」


 当会は石川県内の外国人労働者の「労働相談票」(2012年1月から2015年3月)の開示を請求してきたが、開示文書(百数十ページ分)には相談者の名前や事業所名などは墨塗されているが、受付年月日、相談者の労働形態、相談の内容、事業場の業種・規模はほぼそのまま開示されていた。

 今回の開示のあまりのひどさについて、その理由を問い質すと、個人情報(名前など)だけを墨塗にしても、相談年月日、相談内容を開示したら、個人が特定され、相談者の利益が損なわれるというのだ。職員と数十分間、過去に開示された「労働相談票」のファイルを示して、押し問答したが、らちがあかなかった。

 2014年の「開示決定通知書」と2020年の「開示決定通知書」の不開示理由を比べてみると、①名前などの個人情報、②事業所名などの情報を不開示にする理由については、一字一句違いはないが、③については、2014年文書は「検査、犯罪捜査、監督指導に支障を及ぼす」という理由だが、2020年文書では「相談者の要望を公にすることにより、相談事務の遂行に支障を及ぼす」という文言に代えられている。

 わかりやすく言えば、相談内容を公にすると、相談の敷居が低くなり、相談業務が増えて、「仕事がやりにくくなる」からという理由のようだ。これでは、労働局が誰のためにあるのか、困窮し、パワハラ、不当労働行為に悩む労働者を相談窓口に近づけないようにしているとしか思われない。

2020年12月8日「行政文書開示決定通知書」の不開示理由


2014年8月26日「行政文書開示決定通知書」の不開示理由


 情報公開制度は2001年度から始まったが、当会は大東亜聖戦大碑関係文書、小松基地の管制回数、緊急着陸情報などさまざまな情報開示請求をおこなって、密室から市民が必要とする情報を公にしてきた。制度開始20年目にして、情報公開制度も風前の灯火か、もはやこの制度は臨終を迎えているようだ。

「戦争体験者の責任として」 N・S (第三次小松基地騒音訴訟原告)

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「戦争体験者の責任として」 N・S (第三次小松基地騒音訴訟原告)

 日本は四〇数年前に戦争に負けて、こりごりな目にあいました。戦後私たちは憲法九条によって、どれだけ貧乏しても、二度と戦争をしないと世界に宣言したのです。だから憲法九条は絶対に守らねばならないと思います。

 軍隊なんていらないと思います。「国を守らねばならない」と言いますが、戦争をしなければ守れないような国なら、滅ぼされてもいいのではないですか。この立場にきちっと立たなければ、「自衛隊はいらない」とか「軍備はいらない」とか、はっきりとは言えません。

 「滅ぼされてもいい」と言うときには、そういう戦争が起きないような政治をしなければなりません。だいたい日本が外国に無理を言わなければ、日本に攻めてくる材料はないんです。資源が全然ない国ですから、他の国が攻めてこなければならないような政治を取るければ、攻めてくるはずがありません。

 しかし、今のようなアジア諸国への経済侵略の政治をしていると、軍備が必要になります。他国を侵略しようと思っているから、軍備が必要になるのです。日本が世界で一番貧乏な国でいいんだというところに立てば、武器はいらないし、世界で一番金持ちになりたければ、武器が必要になる―これが仏教の精神です。

 私たちの身のまわりには、軍事大国化の問題、靖国問題、原発問題、北陸新幹線の問題など、納得できないことがいっぱいあります。私は自分の住んでいるところで、間違っていることは間違っているとはっきり言うことにしています。普通の人は、宗教を「自分だけを守るためのもの」と考えているようです。しかし、真宗は日本人のそういう常識を超えていて、なかなかなじめないのではないでしょうか。

 教えを熱心に聞くことができても、その教えにもとづいて発言したり、行動したりすると、それがものすごく非常識な言動に受け取られてしまうのです。まわりからつまはじきされたり、うしろゆびさされたり、「村八分」にされるのではないかと思うと、立ちあがれないことがあります。

 しかし、私の村では九割方農家です。三〇年ほど前までは、毎日のように、朝めしや夕めしのあとに往き来して、みんな親戚のような気持ちで生活していました。それが、今では葬式などの儀礼的なつきあい以外は、おたがいに話をすることもなくなって、みんな自分の生活だけをしっかり守っているありさまです。このように、今日の私たちの生活は互いに孤立した「村八分」の状態なんです。

 私は、このように孤立した生活から、自分自身を解放し、共同性を回復するために、たたかわねばならないと思っています。言いたいことや言わねばならないことを、言い続けていくことに真宗門徒としての歩みが開かれてくると思っています。

 私が小松基地のファントム戦闘機の飛行差止訴訟に決起したのは、このように真宗の教えに従って、戦争反対の立場をを貫こうと思ったからです。私が兵隊に行ったのは、一九四三年で、今のヴェトナム、カンボジアでした。日本軍はヴェトナムで米の強制徴発をおこない、北部では、もともと水田であったところに、軍事用のロープに使う麻を作らせました。不作とも重なり、ヴェトナムではすさまじい食糧不足になり、餓死者が二〇〇万人も出たといわれています。南京虐殺よりもひどいものでした。このようにヴェトナム人にたくさんの餓死者が出ているときでも、私がいた日本軍の兵舎では残飯を大量に捨てていました。日本軍は直接銃剣でアジア人民を虐殺しただけではなく、間接的な形でも住民の虐殺を行なっているのです。

 日本人は日本の侵略戦争のことをあまりにも知らなさすぎると思います。石川県出身の小説家に杉森久英という人がおり、私と同年代で、おそらく戦争にも行ってきたのではないかと思います。彼は「従軍慰安婦」について「軍隊に慰安婦が伴うのは古今東西の常識」「泣き叫ぶのを容赦せず、連行されたと言うが、ほんとかしらん…、そういう話を信じて、救済だの、補償だのと騒ぐのもどんなものかと思う」と書いています。

 戦争で兵隊に取られて、やっと生き帰ってきた年寄りは、一体なにを考えているんでしょうか。靖国に祀られている者は「犬死に」だったのだと思っていないんじゃないですか。戦死者は立派なことをして死んだのじゃない―戦死は「犬死に」であるということを自覚してはじめて、生き帰った者と死んだ者とが一体になれるのではないでしょうか。

 本来ならば、戦争を最も憎まねばならない戦争体験者が、戦争を美化しているんじゃないでしょうか。そのうえ学校教育でも日本の戦争責任について教えないし、「七三一部隊展」が催されても、「気持ちが悪い」とか「恐ろしい」とか言って、ちゃんと見ようとしません。このような時代に、戦争責任を明らかにし、戦争に反対し続けるには、相当の信念が必要です。社会党の村山委員長のように、総理大臣になったとたんに、自衛隊を合憲と言い、靖国も合憲と言い、君が代・日の丸を認め、原発も容認してしまうような、軽薄な人間には出来ないと思います。

 私は、だれがなんと言おうと、侵略戦争を体験してきた者の責任において、小松基地からアジア諸国に侵略の戦闘機を飛ばさせないために、自衛隊違憲訴訟(小松ファントム訴訟)を最後まで貫きたいと考えています。
(一九九四年「小松の空から、朝鮮侵略のファントムを飛ばすな」より)

20201221 小林よしのり著『慰安婦』について

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20201221 小林よしのり著『慰安婦』について

 今年(2020年1月)、小林よしのりがマンガ『慰安婦』を発刊した。マンガは断片的な言葉の恣意的な羅列であり、論理性に欠けるので、論理的批判の対象にはならないが、小林は「吉見義明氏の『従軍慰安婦認識』は『木を見て海だと言い張る』の類いだ!」という5000字程度の文章を載せているので、これを批判する。
 私は2014年に、「インドネシア・スマラン性奴隷事件」について調べたので、その観点から小林の論述を検討する。

 小林は「強姦と売春はどこで区別するのか。それは、その女性が暴力的な拉致・監禁の状況下にあったかどうかの一点にかかる」と書いているが、私もこの判断基準には同意する。

 ところが小林は、この基準を設定しながら、いろいろ書いているが、結局はこの基準を満たさないから、戦時性奴隷は存在しなかったという結論に導いている。

 その論拠をあげると、「一部軍人の軍規違反による暴走行為であり、発覚したものは処罰されている」、「(軍は)慰安婦のためを思って関与」、「強制のない職業に就いている人がいるのだろうか」、「占領地という事情を考えれば、安全に配慮したものかもしれず、その制限が奴隷的に拘束するためであるという証拠はどこにもない」、「(心理戦尋問報告2には)①軍は慰安婦たちの人身売買からは何らの利益も得なかった。②慰安婦は彼女自身が稼いだ額の50%を受け取り、交通費、食費、医療費は無料だった。③憲兵が(慰安婦の安全のために)気を配っていた」を引用して、「どこが性奴隷なのでしょうか」と結んでいる。

 「慰安婦の帰国について便宜を図っていたのである。それが実行できなかったのは戦況の悪化」。「未成年の売春などという、一人の死者を出したわけでもない違反について…国内法の時効」などと、乱雑な「論証」で、小林は戦時性奴隷を批判したつもりでいるようだが、ここからは小林の性奴隷否定論の批判を始めよう。

 なぜ軍が慰安婦制度を作った動機は行軍過程から占領地での兵士による現地女性へのレイプが多発したからである。したがって軍にとっては軍規を守らせるために、慰安所を作ったのであり、「軍は(慰安婦制度に)何らの利益も得なかった」という主張は成立しない。

 ましてや慰安婦制度や慰安所設置を「一部軍人の軍規違反による暴走行為であり、発覚したものは処罰されている」というなら、中曽根のやったことは軍規違反になるが、中曽根は処罰されていない。

バタビア・スマラン事件について
 もともと、法務省はスマラン事件の全容を知ることができる3件の文書綴りを隠し、要旨だけをたった4枚の「調査報告書」として公表していた。この3件の全文が国立公文書館に移管され、2013年9月に全文書(1077ページ)が強制連行真相究明ネットワークに開示された。

 開示文書には起訴状、判決文、供述調書、被害者調書などの日本語訳文、そして戦後に法務省がおこなった関係者への聞き取り調査報告書などがある。その中から、現時点で精査できている4文書(①能崎聴取書1966年4月5日、②松浦供述書1962年2月19日、③起訴状1947年11月22日、④Jさんの被害者調書1946年1月10日)から、スマラン事件の真相に迫りたいと思う。

慰安所設置のいきさつ
 バタビア裁判の公判記録によれば、1944年1月、南方軍の能崎清次少将(当時)が、池田省一大佐と大久保朝雄大佐からの要望で新しい慰安所開設を話し合い、第16軍司令部に新しい慰安所設置を提案したことから始まる。この時、能崎少将は第16軍司令部の認可を条件に、部下の岡田慶治少佐に、軍司令部との認可交渉に当たらせた。
――「一部軍人の軍規違反による暴走行為」という小林の論拠が崩れている。

強制連行の明白な証拠
(1)Jさんの被害調書によれば、岡田少佐が被害者を抑留所から慰安所に連行する指揮を執った。2月23日に日本人が抑留所に来て、「事務所で働く者を選ぶ」と偽って、17~28歳の女性を並ばせ、名簿をチェックした。26日には、激しい抗議と抵抗に対して、「承知しなければ射つ」と脅かして、9人の女性を車に投げ込み、強制的に連行した。
――「どこが性奴隷なのでしょうか」という小林の主張は崩壊している。

(2)松浦供述書によれば、「ロスアンゼルスの海外放送でやかましく本件を取り上げ、日本側を非難した。…海外放送の件を承知した軍司令部は慰安所の閉鎖を命じた」とあり、能崎聴取書によれば、軍司令部から婦人を強制連行してきたことを指摘され、「これはしまった。具合が悪いと思ったので、直ちに慰安所閉鎖を決意し、命令した」と証言している。
 この証言は慰安所の閉鎖に関するいきさつを述べているのだが、まさに強制連行がばれ、国際問題になるのを恐れた軍司令部は閉鎖を命令し、能崎駐屯地司令官は抗弁もせず、直ちに慰安所を閉鎖せざるを得なかったのだ。(Jさんは、被害者Aさんの許嫁である日本人が東京に手紙を書いて、その結果慰安所閉鎖の命令が出されたと証言している)

(3)能崎聴取書には、「承諾書の内容についても、…ただサービス業的のこととして曖昧にしか表現されていない」とあり、このやり方は欺罔(法律上、詐欺の目的で人をだまして錯誤に陥らせること)にあたり、強制連行そのものである。
 松浦供述書でも「多くは良家の子女で、レストランにでも働く位で、出てきた者」と、欺罔によって募集し、慰安所に連行してきたことを認めている。ここには任意募集のかけらもない。

(4)能崎聴取書には、「州庁側で選出して、整列させていた婦人(その中には不承諾者も含まれていた)の中から、軍側の若い中尉が勝手に選定して、連れてきた」「若干の人々には多少の強制があった」と話しており、まさに「不承諾者」に対する強制があったことを証言している。
 能崎は「若干の」「多少の」とできるだけ被害を小さく見せようとしているが、日本軍が武装して侵略し、一般のオランダ人を抑留所に詰め込んでおり、その軍隊が「多少の強制」などという言い訳は通用するはずがない。まさに有無を言わさない強制であったことを物語っている。

(5)能崎聴取書には「慰安所は軍の治安や風紀に関係が深いということから、慰安所の管理だけは何処でも軍側がこれを管理することになっていた」と書かれており、これはスマラン駐屯地だけではなく、日本軍がアジアを侵略していく際に、各地に慰安所を開設し、経営は民間業者(軍属)に委託したとしても、管理は直接軍がおこなっていたことの証拠である。
――「一部軍人の軍規違反による暴走行為」という小林の論拠が、ここでも崩れている。

(6)そして最後に能崎は「慰安設備は何れの国の軍隊でも必要ではないだろうか。この種の設備が全然なかったとしたら、軍隊はとても治まりがつかなくなる」と証言している。能崎は敗戦から20年も過ぎた1966年になっても、相変わらず「慰安所必要論」を主張し、骨の髄まで帝国主義軍隊の価値観に染まっている。当時は必要だったという橋下徹発言と同じである。

脅迫と暴行による性奴隷
 ここではJさんの証言とバタビア軍法会議第69号事件の臨時軍法会議附託決定書(起訴状)にもとづいて説明する。
 被害者Jさんは「3月1日の晩7時半頃…三橋は部屋に入るや否や私を椅子の上に引上げ、嫌らしい真似をし始めた。私は出来るだけ抵抗し半時間以上彼を殴たり蹴ったりして身を護ったが、終に彼は私を寝台に寝せ、下着類や月経を装って用心の為にもっていた月経帯迄はぎとられ、終に暴力を以て処女を破られて終った」「 慰安所の生活は私には地獄であった。何時も私は客をとらなければならない時には反抗した。…度々性交を強要する為に暴力が使はれるので、何日も良く歩けなかったり、劇痛を蒙ったりした」「私は或時は一組の揃ひの食器を打ち壊したこともあった。それで或朝のこと下田は私に若しも客を拒んで許り居たら、1日に15人の客をとたなければならない兵隊用慰安所へやるやうにすると云った」と証言している。

 起訴状でも、第3被告(岡田少佐)は「第四及び第六の各収容所に抑留されていた一団約三五名の婦人を連れ出し、スマランにある将校クラブ、スマランクラブ、日の丸及び双葉荘等の慰安所に連行して、売淫を行わせ、売淫を肯(がえ)んぜざるものに対しては、強制して、これを行わせた」「もし彼女らが肉交を求めて同クラブを訪れる日本人に対し、各自自由意志をもってこれを拒絶した場合には、彼女らの家族に最も恐怖すべき手段をもって報復すると威嚇した」「Lなる婦人に対し、腕力をふるって強制的に性交を営んだ」と記している。

 第9被告の軍属(古谷:慰安所経営者)は「日本軍当局によって同所に宿泊せしめられていた約七名の婦女子に対し、売淫を強制し、もし彼女等がその慰安所を訪れた日本人に性交を拒絶した場合には、しばしばそれらの婦女子を殴打」し、 第10被告の軍属(下田:慰安所経営者)は「かねて日本軍当局によって宿泊せしめられていた約七名の婦女子に対し、同慰安所を訪れる日本人と性交を肯んじない場合には、兵卒専用の劣等な慰安所に住み替えさせると脅迫し、売淫行為を強制」し、第11被告の軍属(森本:慰安所経営者)は「約十一名の婦女子に売淫を強制し、もし彼女等が同慰安所を訪れる日本人に対し、性交を拒否した場合には、報復手段として彼女等の家族を収容所に拘置すると威嚇した」「Tなる婦人に対し、腕力をふるって強制的に性交を営んだ」と記している。

 このように日帝軍隊は暴力と脅迫で性奴隷を強制していたのだ。慰安所は軍人軍属による暴力と脅迫と威嚇が支配していたのである。政府は慰安所の経営は民間業者がおこなっていたから国に責任はないと主張しているが、その慰安所経営者は他ならぬ軍属の立場であった。慰安婦経営者の罪を国の責任から外すことは恥ずべき居直りの論理である。

あとがき
 起訴状を裏付ける被害者と被疑者の証言記録(オランダ語)は手書きの走り書きで日本語に翻訳されているが、これらのすべては、『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料集』(編集・発行:強制動員真相究明ネットワーク 2014年8月 1000円 A4、135頁)に載せられている。

 2014年当時、『「慰安婦」問題ってなーに?』というHPに、「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」が全文掲載されていたのですが、今回久しぶりに訪れたのですが、見ることが出来ませんでした。一部は、当ブログにも投稿してありますので、ご覧いただければ幸いです。また、「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」で検索すると、ある程度の情報が得られます。

人力とスコップと 小松飛行場建設期のこと

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小松基地広報紙『はくさん』第一三七号(一九七六年十二月一〇日)

今回は小松基地開設のずっと前、基地一帯が森林におおわれていた頃にはじめて飛行場建設の鍬が入れられた当時の模様を、A町のY・S氏に語ってもらい、過去五回にわたったこのシリーズの最終回を飾りたい。

人力とスコップと 小松飛行場建設期のこと
        (小松基地ができるズッと前のお話)

 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、わが国は米英に対して宣戦を布告した。この日は日本軍がハワイを奇襲して大戦果を挙げ、全国民が忠君奉公の一念に燃えた記念の日となった。

 翌十七年四月、小松商工会(現コマツ商工会議所の前身)の要請により、業界のトップを切って菓子同業組合は勤労報国会を結成し、一個隊十名の構成を整えて待機していたところ、向本折地内のなが山に集合との指令が来た。そこは国有地の砂防林で、黒松や赤松が生い繁った所であったが、この森林を伐採する作業が発表された。慣れぬ手にスコップや鍬をにぎり、松の根を堀り、樹上に登って綱を結び、一同根こそぎ引き倒して根元と枝を切断し、幹は製材工場へ、根株は松根油の製造工場へと運搬した。

 そんなある日のこと、係員から「この伐採作業は飛行場建設用地造成のためである」と、はじめて説明があった。

 このあたりの森林や沼沢地は、なが山をはじめ、むじな山、おちん、お芝、がんだまりなど二十を越えるさまざまな名称で呼ばれていたが、それがまたたく間に開拓統合されて、東西に長く南北に広い一望、数十万坪の平坦地に変貌したのは、昭和十七年の晩秋であった。

 新体制が叫ばれ、戦時体制が進められている時でもあり、間もなくこの地に舞鶴海軍施設部が開庁され、事務所や倉庫、作業庫、炊事場、パネル宿舎などが次々と建てられていった。舞鶴海軍施設部の主力は内地徴用工員、朝鮮徴用工員、北方領土のキスカやアッツ島を玉砕寸前に引き揚げて来た軍属部隊であり、これに囚人部隊も加わって、整地、砕石、土砂運搬やコンクリート打ちなどを、技師の指導の下に風雪に耐えながら汗と涙の突貫作業が進められ、東西に走り、南北に連なる滑走路が、人力とスコップで建設されていった。

 伐採作業を終えた私は商業報国会に参加し、小松製作所や寺西鉄工所へ勤労作業に通い、帰れば町内防護団や警防
団、消防団員として銃後の守りに東奔西走した。

 さらに、十八年十一月に舞施隊を訪れ自家通勤の徴用を志願したところ、翌日二等工員に採用され、現在の民航の道路わき一帯に山積みされた木材の検収や、受払い業務の木材係として二ケ年を過ごすことになった。

 福井県若狭の国、三方、美浜駅から送られてきた角用材、丸太、ベニヤ板など約十五万石が、全部戦争遂行のために使用されていった。

 滑走路や各施設の完成が近づくにつれて、三式戦や零戦、隼機、神雷特攻機が全国の各基地から空襲をさけてこの飛行場へ飛来するようになり戦局の重大さが肌にひしひしと感じられた。

 やがて、一億一心、軍民挙げての戦力も及ばず二十年八月十五日、日本海軍の小松基地は、その機能を停止した。

20201226 資本主義の限界に挑もう

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20201226 資本主義の限界に挑もう

 2019年度の法人企業の内部留保が前年比2.6%増の475兆円に達して、8年連続して過去最高を更新している。そう、金持ち(資本家)は一層金持ちになり、貧乏人はいつまでも貧乏に甘んじなければならない世界なのだ。(2020年10月31日『北陸中日新聞』)



 アメリカの大富豪650人の資産総額が、新型コロナの流行下でも、約104兆円増加し、その資産総額は417兆円に達している。これはアメリカの人口のほぼ半分にあたる資産下位の1億6500万人分の2倍にあたるという。(2020年12月25日『北陸中日新聞』)
 2017年1月17日の「HUFFPOST」(アメリカのリベラル系オンラインメディア)によれば、上位8人の超富豪の資産は約200兆円で、全世界の下位36億人(人口の半数)の資産と同じだと報道している。(見出し画像)



 他方、労働者階級人民こそが富の形成者でありながら、コロナ禍のなかで、鴻毛のごとく解雇され、失業と貧困のなかに突き落とされている。それは自殺者の急増に現れ、とりわけ女性の自殺急増が痛ましい。

   

 ブルジョアジーは資産をため込み、労働者階級人民は塗炭の苦しみにあり、もはやブルジョアジーのための政治委員会=菅政権によっては、労働者階級人民の生活と健康を守れないことが明らかになり始めている。
 ブルジョア経済評論家でさえも、「日本資本主義の限界」を云々し始めたではないか。革命的左翼よ! 今こそ時代の本質を語れ! 資本主義の本質を語れ! 労働者階級人民こそが、主人公となる社会を打ち立て、コロナウイルス禍と対決する以外に、人民に生きる道はない。いつまでも、ブルジョアジーの無策に付き合っている暇はないのだ。




20210110未明 金沢の雪

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2021ねん1がつ10にち、みめい
かなざわが、ゆきにうもれている
がいとうにてらしだされて、なんと、げんそうてきな


そして、もういちまい
フラッシュをたくと、
おお! ゆきが、まっている
よがあければ、ゆきかきもまっている


20210119『 軍都小松からアジアの友へ』

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20210119『小松の空から朝鮮侵略の戦闘機を飛ばすな ― 軍都小松からアジアの友へ』

 第5,6次小松基地爆音訴訟は2020年3月に結審し、名古屋高裁金沢支部での控訴審が間近に迫ってきた。一念発起し、表題の小冊子の執筆に取りかかった。目次は以下の通りだが、そのなかから、「小松基地による生活破壊」を投稿する。近々小冊子ができるので、そのときはご注文を。

目次
【一】小松基地の歴史と実態
  はじめに/第1 戦時期/第2 戦後反基地闘争/第3 攻撃訓練の強化/第4 基地機能の強化/第5 小松基地による生活破壊/後序
【二】基地周辺住民たちの熱意
【三】第5,6次訴訟傍聴報告
資料目次【①小松基地日誌(戦前~21世紀)/②小松海軍基地建設/③10・4協定/④小松基地の戦力/⑤スクランブルリスト/⑥日米共同演習リスト/⑦緊急着陸リスト/⑧事故リスト(墜落、物品落下など)/⑨滑走路二本化動向/⑩小松基地周辺の住環境/⑪石川県内の軍事施設/⑫「北朝鮮空爆を極秘研究」/⑬小松基地司令=田母神俊雄の場合/⑭領土ナショナリズムと大和堆問題】

第五 小松基地による生活破壊
(1)騒音被害
 小松基地を発着する戦闘機による爆音は基地周辺住民にさまざまな苦痛を与えてきた。

(A)「10・4協定」について
 第5、6次小松基地爆音訴訟で、国・防衛省は「10・4協定」を「精神条項」「紳士協定」「法的義務はない」などと主張している(「第4準備書面」)。
 「1975・10・4協定」締結当時の経過を振り返ると、1971年防衛庁はF4ファントム配備を隠して滑走路かさ上げを発表し、1972年4月にファントム配備を発表し、同年8月に竹内伊知さんが「ファントム配備反対」を掲げて市長選で当選した。ここから防衛庁との交渉が始まった。
 竹内市長は三原則(1975年7月5日)を掲げて防衛庁と折衝した。三原則とは、「第一に国が騒音公害の原因者であることを確認すること、第二に公害対策基本法の精神に基づき、原因者負担の原則を確立すること、第三に環境庁の示した空港周辺環境保全基準を確実に順守すること」というものだった。
 1975年10月に「10・4協定」として決着を見るのであるが、それまでにさまざまな曲折があった。とくに、協定締結の1年前(1974年10月19日)に名古屋防衛施設局は、「小松基地において自主的騒音規制について」(室石保管資料)という文書を小松市に手交している。

 

 摘記すると、「就寝時間帯は飛ばない」「昼食時は飛ばない」「議会中は飛ばない」「入試時は飛ばない」「お旅祭時は飛ばない」「人家を避け北側に離脱する」「東方向へは編隊離陸をしない」「着陸時には市街地に入らない」「サイレンサー、防音提、防音壁を作る」「基地騒音対策機構を特別編成する」などと自ら申し出ているのである。
 市民に約束したことを「紳士協定」「精神条項」というなら、国の約束の総てが「紳士協定」と化し、「遵守義務はない」ことになってしまう。防衛庁の腹のなかは「10・4協定=紳士協定」であり、私たちは「10・4協定=毒まんじゅう」と批判した。「10・4協定」を協定たらしめるか、「紳士協定」に甘んじるかは、政治的力関係にかかっている。

(B)爆音訴訟の歴史
 まさに、「10・4協定」締結の前夜、1975年9月16日、基地周辺住民12人がF4ファントムの飛行差し止めを求めて、金沢地裁に提訴した(第1次訴訟)。「訴訟の準備万端は竹内伊知さんがやっていた」という話を聞いたことがある。住民の力と行政の力を一本の矢にして、弓につがえ、ぐいっと引き絞り、国・防衛庁に放ち、竹内さんが死してなお、今も国・防衛省をがんじがらめにしているのである。
 3年後の1978年に318人が追加提訴(第2次訴訟)し、第1次訴訟と併合して審理された。1991年3月地裁判決、1994年12月名古屋高裁金沢支部判決で、ともに過去の損害賠償は認められたが、飛行差し止めは「不適法」として却下された。
 1995年12月、第3次訴訟(1620人)、翌1996年5月第4次訴訟(146人)を提訴し、2002年3月の地裁判決は過去の損害賠償を認めたが、将来の損害賠償は認めなかった。判決では、服部医学調査による騒音の身体的影響については、「有意の差がある」と認めながら、「身体的障害」「発症の危険性」を認めなかった。控訴審判決は2007年4月におこなわれ、1審判決を踏襲した。
 2008年12月、第5次訴訟(2121人)、2009年4月、第6次訴訟(106人)を提訴し、2020年3月、金沢地裁判決が出され、控訴審に突入した。

(C)騒音による健康被害
 最初の提訴から5回の判決があり、すべての判決で騒音被害を認定し、損害賠償を認めているにもかかわらず、国は真摯に判決を受けとめず、騒音(音源)対策をネグレクトしつづけ、否、むしろ騒音を増大させつづけ、異常な状態がつづいている。
 とくに、騒音による身体的影響の医学的調査報告がおこなわれ、長年月の騒音曝露によって生活上も健康上も大きな被害を蒙ってきたことが立証されてきた。
 しかし、これまでの判決は騒音と健康被害の関係を認めようとせず、第5、6次控訴審の最大の焦点は健康被害を認めさせるかどうかにある。

(D)昼休みと夜間
 1975年「10・4協定」では、「(騒音源対策第2項)早朝、夜間及び昼休み時間には、緊急発進その他特にやむを得ない場合を除き、離着陸および試運転を中止する」としていたが、1989年7月に小松市と小松基地の間で交わされた文書によれば、「従来は10・4協定における『夜間』を20時以降とすることが、基地と市の了解事項であった」と確認され、夜間飛行訓練は年間を通じて20時までに終了していたにもかかわらず、当時の竹田市長は9~3月は従来通り20時まで、4月は21時まで、5~8月は21時30分までと後退させた。小松基地は大手を振って、週2日の夜間訓練をおこなっている。

 

 さらに、2002年に西村市長は昼休み時間の訓練を受け入れ、2012年8月4日(土)には早朝訓練を強行し、「10・4協定」の「騒音源対策第2項」の約束も、すでに形骸化している。「10・4協定」の「騒音源対策第3項」にある「高校入試、お旅祭り、その他市の主催行事で、市が要請する場合は出来るかぎり飛行を制限し、または中止する」と約束しながら、2019年3月6、7日におこなわれた公立高校の入試当日に、戦闘機を飛行させた。
 こうして、今、日々の労働や農作業で疲れた身体に、土日も、昼休みもなく、夜遅くまで騒音が襲っているのである。

(2)人口の停滞
▼人口動態(1970年→1993年)
 1994年に当会は「騒音と人口の関係」を調査した。1970年と1993年の人口を比較すると、全市(D)の人口は9万5681人→10万7922人(13%増)、世帯は2万3290→3万405世帯(31%増)。
 騒音地域(A)では人口が13%減、世帯が4%増だったが、国道8号線周辺の非騒音地域(B)では人口が31%増、世帯が48%増を記録している。山間部(C)は非騒音地域だが、騒音以外の原因で人口9%減、世帯増減0%だった。
 小松基地の騒音が騒音地域の人口を減少させているという事実が歴然としている。この調査結果は小松基地爆音訴訟の書証として提出された。
▼人口動態(2004年→2015年)
 2004年から2015年にかけての世帯数と人口の増減を調べてみた。
 小松市全域(D)の世帯数は17%強増加し、人口は1・3%減少した。他方、騒音地域(A)の世帯数は非騒音地域(B)とほぼ同数の17・8%増加したが、人口は3・2%減少した。
 騒音地域(A)は市中心部と重なり合い、居住条件は良好であるにもかかわらず、人口は相変わらず減少しつづけている。



(3)居住地を奪う基地

   
【A=鶴ヶ島→A′鶴ヶ島/B=浮柳/C=浜佐美→C′浜佐美新/D=安宅新→D′安宅新/E=佐美/F=丸の内/G=城南/H=鹿小屋→H′鹿町/I=浮城町/J=桜木/K=下牧→K′下牧】

 小松基地拡大の歴史は、同時に周辺住民排除の歴史でもあった。1988年に廃村とされた地域を調査し、『小松基地闘争強化のために』のなかで、論考「強制移転を許さず、基地を叩き出そう」にまとめた。
 小松基地周辺では、1961年基地開設、1964年基地拡張・F104J導入以来、1988年までに337戸が移転させられていた。当時の集団移転状況を略記すると、
▼事例1 浜佐美
 浜佐美町(C点)は1879年(明治10年)にはすでに86戸の集落をなし、漁業と製塩業で生計を立てていたが、明治末期には塩の専売制によって、漁業(地引あみ)だけになり、その後漁業も不振に陥り、1957年開墾によって若干の農地を確保し、同時に織物、撚糸を家内工業的におこなっていた。
 1964年、2700m滑走路建設によって、飛行直下になり、F104Jの激甚な騒音に耐えられず、1965〜77年にかけて108戸全部が浜佐美本町(C′点)への移転を余儀なくされた。
▼事例2 鶴ヶ島
 鶴ヶ島町は悌川沿岸の古くからの農村であった(A点)。基地拡張→2700m滑走路によって、騒音直下となり、一番早く移転を始めた(1985年までに50戸)。旧町の北寄りで、滑走路直下を少し避けた前川西岸(A′点)に集団移転し、鶴ヶ島町を名乗った。A′点は決して静かな所ではないが、従来どうり農業を続けながら、墜落事故の危険から逃れることが先決であった。
▼事例3 鹿小屋
 鹿小屋町は小松城の一角(H点)にあり、比較的新しく形成された集落である。滑走路延長線上の真下にあり、もっとも激甚な騒音を受けている。1976年より移転しはじめ、1985年までに26戸が吉竹町地内に鹿町(H′点)を作り、ほとんどの住民が移り住んだ。
▼命からがら
 基地強化による騒音激化と事故多発によって、住民が否応なく居住地から逃れざるをえず、小松基地が強化されていく限り、ひきつづき周辺住民が犠牲にされることを示している。
 その後も集団移転は続き、安宅新町(D点)の住民は早朝からのエンジン調整音に耐えかねて、わずか数十メートル西側で、県道と高速道路の間に新たな安宅新町(D′点)を造成し、1984年から移転を開始し、2019年までに195軒が移転した。下牧町も機種の変更にしたがって、騒音が激しくなり、2000年代から移転が始まり、2019年までに88戸が梯川の対岸へ移転を強いられたのである。
 2019年の『基地と小松』(小松市)を見ると、騒音地域にある11の地域(A~K)から、人々はより静かで、安心の出来る地域への流出が今も続いている。まさに、軍事基地が「発展」するところは、人間が住めなくなるのである。

 

20210120 日本こそが原因者であり、解決の主体

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20210120 日本こそが原因者であり、解決の主体

強制動員真相究明ネットワークから、韓国文大統領記者会見(1月18日)の当該部分の日本語訳が送られてきた。
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 韓日間に解決すべき懸案がある。 まず輸出規制問題があり、強制徴用判決問題がある。それらの問題を外交的に解決するために、両国が数次元の対話をしている。そのような努力をするうちに慰安婦判決問題が加わり、率直に少し困惑したのは事実だ。しかし、私がいつも強調して申し上げたいことは、過去事は過去事であり、韓日間で未来志向的に発展させていかなければならないことは、それとしてやっていかなければならないと考える。

 最近あった慰安婦判決の場合、2015年度に、両国政府間で慰安婦問題に対する合意があった。 韓国政府は、その合意が両国政府間の公式の合意だったという事実を認める。 そうした土台の上で、今回の判決を受けた被害者ハルモニも同意することができる、そんな解決策を見つけていくことができるよう、韓日間で協議していく。

 強制徴用問題も同様だ。こうした部分が強制執行方式で現金化されるとか、判決が実現される方式は韓日両国の関係において望ましいとは思わない。そのような段階になる前に、両国間の外交的解決策を見い出すことがより優先されるべきだが、ただその外交的解決策は、原告が同意できるものでなければならない。

 原告らが同意できる方法を両国政府が合意し、韓国政府がその方策で原告らを最大限説得し、このようなやり方で問題を一つ一つ解決していけると信じている。
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日本こそが原因者であり、解決の主体
 1月19日の商業新聞は文在寅の演説のなかから、「(日本企業の資産売却について)韓日の関係において望ましくない」、「原告の同意が必要」、「原告が同意できる方法を両国政府が協議し、韓国政府は原告を最大限、説得する」などを、つまみ食い的にとりあげて報道している。

 徴用工問題も、「慰安婦」問題も、その原因者は日本であり、日本こそが解決すべき当事者であるにも関わらず、商業新聞は、韓国政府の問題であるかのように言いなして、日本政府の居直り的態度を擁護・支持している。

 新聞記事でも、「(2015年の日韓合意は)両国政府間の公式合意…合意を土台とし、被害者も同意できる解決策を韓日で協議していく」と触れられているように、原因者たる日本政府こそが「被害者が同意できる解決策」を提示すべきであると確認されているにもかかわらず。

20200202 篠弘『戦争と歌人たち―ここにも抵抗があった』

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20210202 篠弘『戦争と歌人たち―ここにも抵抗があった』

 昨年12月、『北陸中日新聞』に表記の本の紹介があり、石川県立図書館にリクエストした。1万円(+税)という高額であり、またあまり読まれそうにもない本なので、却下かと思っていたが、豈図らんや、1月下旬に「購入」の知らせが届き、粗々と読んでいる。
 700ページ近くの膨大な本で、<第1部:苦闘した戦時詠の遺産、第2部:過酷な学徒出陣と勤労動員、第3部:弾圧された運動体、第4部:迷路に入り込む歌壇>と書き綴られている。
 「第3部 弾圧された運動体」の第1節に「戦後に発表された獄中詠」があり、さっそく開くと、いくつかの歌が私の古傷を刺激した。

 渡辺順三が1943年1月に詠じた「東京拘置所にて」
  くちびるを噛みて伏しゐるわが前を朝の点検の看守過ぎゆく
  不覚にも涙こぼれぬ点検にかうべを垂れし畳の上に
  何よりも辛く口惜しき点検にわれはひたひを畳につくる
  監房の高き窓より朝々に差す陽のかげのなつかしきかな
  高窓の隙間より射す日の光二センチばかり壁に斜めに

 50年前の私もこの悔しさを味わった。万世橋署から東京拘置所に移送されたとき、軍隊式行進、整列、点呼を受け、何回かやり直しさせられたときの悔しさが今も残る。当時の私にはまだ、点呼を拒否する図太さはなかった。

 小名木綱夫が1942年2月、扇橋署で、
  もつさう飯の暖みが顔にかかるときせせりて来る涙はやまず
  考えて置けと放たるる監房の冷えがこころ捉へぬ
  まづしさにありて詠へるあらぎものこの精根を枉(ま)げよといふか

 円錐台の型からはき出され、アルミの皿にこんもりと盛られた東拘の麦飯を思い出す。もちろん暖かくもなく、うまくもない。万世橋署は板敷きの「牢屋」で、軍用毛布を折り曲げて敷き布団代わりにしたが、4月でさえも、床からの冷気は防ぎようがなかったが、2月の監房は如何ばかりだったか。東拘では、畳だったので、この点は快適だった。
 
 内田穣吉は1943年3月(31歳)から1944年2月まで、獄中の人となり、
  七人がぐるりと我をとりまきて言へよと迫る小さき室に
  四五人のわが若き友の名を示し皆はいへりと烈しくせめぬ
  言ふ事があらばあるひは云ひもせむ調べの室に日は暮れゆきぬ
  怒りつつ刑事らは皆帰り行けり明日の調べは烈しくならむ

 著者篠弘は、内田穣吉を「ひたむきに応じながらも、かたくなに黙座する。…いかにも若々しい姿が髣髴とする」と書いているが、「ひたむきに(一生懸命、真面目に)応じ」ているのではない。特高に囲まれて、応じる以外にない世界に立たされているのだ。
 「言ふ事があらば」という言葉の裏を想像して欲しい。絶対に言ってはならないことがあり、それは特高が最も聞きたいことであり、「取り調べ」とは両者の精神的肉体的な格闘技であることに思い至るべきだろう。
 刑事は仲間の名前を出し、机にそのケツを載せて、半身になって、「みんなしゃべっているから、隠しても無駄だ」と凄み、しゃべらなければビンタが飛んできたであろう。
 「黙座」とは静かな山中などで、現実世界から自己を隔離し、瞑想の世界に入る精神的作業ではないか。林ではなく、特高に囲まれている内田穣吉に「黙座」のような世界を想像していることに、怒りを覚えた。
 戦後でさえも、黙秘すれば、壁に向かって立たせて、小便もさせずに、何時間も過ぎていく。身体に傷が残らないように、拷問を加えるのだ。そして、今日の取り調べが終わると、ほっとしながらも、明日はもっと厳しくなるだろうと、終わらない明日におびえるのだ。
 内田穣吉は、70年代の私たちと比べものにならない、取り調べの恐怖にさらされていただろう。
 内田穣吉が逮捕された10年前には小林多喜二が、5年前には鶴彬が獄中で殺されているし、まだ生々しい記憶が残っていたであろう。その内田穣吉の苦闘から20数年後の70年代には、数千の若者が同じように闘いぬいていた。その数千人は、今、堅く口を閉ざしてしまっているが、もっとオープンに、「じいちゃんの若いころは」「ばあちゃんの若いころは」と話し始めてもいいのではないだろうか。

 著者篠弘は、1933年生まれ、敗戦時12歳、1951年に大学入学、小学館に入社と順風満帆の青年時代を過ごし、NHH放送文化賞(2014年)や毎日芸術賞(2007年)を受け、宮中歌会始の選者、宮内庁御用掛(2018年)にもなった著者はどのような歌を詠んでいるのだろうか。

20210204  志賀原発廃炉訴訟

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20210204  志賀原発廃炉訴訟

 2月4日、「志賀原発を廃炉に!訴訟」の第32回口頭弁論が開かれた。
 白鳥路兼六園口集合には間に合わず、金沢地裁案内係にきくと、205号法廷で、先着順(37人)ということだった。列に交じり、しばしあれやこれやと雑談を交わし、全員が入廷した。

 原告の意見陳述のあと、裁判長に促されて、被告北陸電力が1月15日の原子力規制委員会の審査会合の状況を、「原子力規制委員会の審査会合は着実に進展している」と報告した。

 原告弁護団からは、
 上申書には、審査会合では、今春以降に現地調査を実施し、最終判断をおこなうとの方針を示したと記載されているが、審査会合では「今春以降」とは言っていない。不正確だ。
 裁判長は他の裁判では迅速な訴訟進行に努めているのに、本件では被告(北電)が具体的な反証のスケジュールを示さないことに何も言わない。
 今回も裁判長は、原子力規制委委員会の判断を待つという方針を変更をする必要はないと従来の方針を繰り返すだけだった。

 次回期日が5月31日に決まり、そそくさと帰り支度をしている裁判長に、原告弁護団が「次回期日の準備事項は何か?」と質問の矢を放つと、裁判長は「準備事項はありません」と、傍聴席から「じゃ、何をするんだ」とヤジが飛び、その姿を消した。

 報告集会では、
 1月15日の会議で、北電は「(鉱物脈法に基づけば)600万年前から動いていない」と主張し始めたようだ。従来は12,3万年以降に地層が動いたかどうかを問題にしていたが、突然50倍も遡るというのだ。早期結審を恐れた北電が闇雲に「主張」の風呂敷を広げはじめたようだ。

 この間の北電の動きを新聞記事で追っておこう。
 2020年
 10月3日―規制委員会の会議(審査対象の断層の選定)
 11月5日―第31回口頭弁論
 12月28日―志賀町で震度1の地震
 2021年
 1月15日―規制委員会の会議、「現地調査が必要」

20210213 金沢市はガス・電力事業の売却をやめろ!

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20210213 金沢市はガス・電力事業の売却をやめろ!

 金沢市は、市営のガス・発電事業を186億円(以上)で、民間資本に譲渡しようとしている。2019年6月、金沢市議会に提案され、同年10月、市が設置した検討委員会が「株式会社に事業譲渡することが適当」と提言し、2021年3月までに優先交渉権者を決定し、2022年4月に譲渡するという。譲渡の条件はガス料金を5年間、現行水準を上回らないことだという。

ガス事業について
 「金沢市ガス事業の概要」によれば、1908年 金沢電気瓦斯株式会社が石炭ガス供給を開始し、1921年に譲り受け、市営ガス事業を開始した。1973年に、石炭ガスを石油系ガスに転換し、2003年に天然ガスへの転換を完了した。
 新潟・富山・三重から液化天然ガス(LNG)をタンクローリーで調達し、金沢市湊3丁目の「港エネルギーセンター」のLNGサテライト設備(LNG大規模基地からタンクローリーで輸送されたLNGを貯蔵し、消費地でガス化して供給するもの)で都市ガスを製造している。平野部を中心に総延長約1,480kmの導管網により、約5500軒(2018年)の家庭と約5500の事業所に都市ガスを供給している。



 家庭用と業務用の年間販売量を比較すると、家庭用は12,536,000㎥(約30%)で、業務用は28,123,000㎥(約70%)です。そして、その料金単価は家庭用=約240円/㎥、業務用=約115円/㎥で、年間販売量の70%を超える業務用の料金が不当に安く(家庭用の半分以下)抑えられ、全体の収益を圧迫しているのではないか。
 譲渡が成立すれば、譲渡企業は大口の顧客(業務用)を確保・優遇するために業務用の単価を下げ、その穴埋めのために小口利用者(家庭用)の単価を引き上げていくのは、目に見えている。これが資本主義の論理である。

金沢市の水力発電事業
 1896年、逓信省は金沢市にたいして、市内を供給区域とする電気供給事業を認可した。翌年金沢電気株式会社が設立され、1900年辰巳発電所が完成し、金沢電気(後の金沢電気瓦斯)が開業した。1921年金沢市と金沢電気瓦斯との間で事業買収契約を締結し、金沢市営電気供給事業が開業した(金沢市電気局設置)。このときの買収金額は663万3700円で、現在の金額にすると100億円を超える(1921年の米価は60㎏=14.2円)。また1921年度の金沢市の歳入は1350万円、歳出は1268万円なので、この買収資金は金沢市の財政に重くのしかかったはずだ。
 1929年には、3万6302戸の家庭、電動機用電力(2833㎾)、その他電力(9971㎾)を供給している。1939年には市営発電所は6カ所、総出力は13190キロワットになった。1940年代には、電力国家管理政策のもとで、北陸三県の12社が合同し、北陸合同電気株式会社が発足したが、金沢市は参加を見送った。1941年配電統制令が施行され、金沢市営事業も対象になり、水力発電所6カ所、送電線17路線、変電所6カ所などが北陸配電に統合され、金沢市営電気供給事業は消滅した。
 戦後、北陸配電に代わって、北陸電力が発足した(1951年)。このとき金沢市は復元運動をおこなったが、北陸電力が観光会館建設に協力するのと引き換えにして、もともとは金沢市の財産であった発送電事業を、北陸電力は手放そうとはしなかった(国家がらみの詐欺だ!)。【参照:「金沢市営電気供給事業」(Wikipedia)】
 1959年に市営発電所の再設置を決定し、1966年に上寺津発電所が完成し、金沢市営の発電事業が再開された。しかし、送電設備は北陸電力に奪われたままであり、各家庭に直接送配電できず、北陸電力に依存する以外になかった。
 現在、犀川水系で5箇所の水力発電所(合計33,230kW)を運営し、一般家庭4万戸(市内の2割)相当の電力を北陸電力に売却(卸供給)している。
〔犀川系〕上寺津発電所(16,200kW)、新辰巳発電所(6,200kW)、新寺津発電所(430kW)、
〔内川系〕新内川発電所(7,400kW)、新内川第二発電所(3,000kW)
〔5発電所合計〕33,230kW

 発電事業の財務実績を見ると、安定的に利益を確保し、利益の一部を積み立て、金沢市営美術館用の美術品購入や再エネ設備の導入補助を実施している。企業債は1989年度以降、新規発行がなく、2018年度で償還を完了している。これほどに安定的で、優良施設を売却する必要性はない。

生産手段を資本に渡すな!
 もともと人間は自然から生まれ、自然の一部であり、自然の恩恵を受けて生活し、自然と人類の共生の歴史を刻んできた。長く続いていた原始共産制の内部で、生産力が向上し、社会的分業が発達するに伴って私的所有が形成され,階級社会が発生し(古代)、収奪・被収奪の関係が形成された。とりわけ資本主義への発展過程で、資本の論理は自然と人間の共生関係を破壊し、自然は資本に占有されてきた。例えばイギリスの初期資本主義では農地は囲い込まれ、農民は排除され、羊毛・毛織物(商品)のための牧草地に変えられた。
 私たちの生活を満たしているすべて(衣食住)は、土地も、水も、空気も、食糧も、木も、石も、化石燃料も、自然由来のものであり、資本が新たにつくったものは何一つなく、自然からの預かりものであり、本来、自然から得られる恩恵をすべての人が享受し、再び自然に返すべきものである。しかし、今や、土地も、水も、空気も、食糧も、木も、石も、化石燃料も、すべてが資本の支配下に置かれ、資本の増殖のためにのみ利用されている。

 液化天然ガス(LNG)は新潟港、富山港などに輸入され、金沢市の「港エネルギーセンター」に運び込まれ、LNGサテライト設備で貯蔵し、ガス化して各家庭や事業所に供給している。LNGの貯蔵・ガス化・供給の過程を金沢市企業局(公共企業)が管理することによって、利潤追求を第一にする資本から利用者(特に市民)の利益と安定を守っているのであり、新自由主義者・山野市長はこの事業を資本に譲り渡そうというのである。
 かつては膨大な市税をつぎ込んで建設・維持されてきた水力発電所6カ所、送電線17路線、変電所6カ所などが、国家の統制命令で北陸配電に統合され、戦後は北陸電力に簒奪され、このとき金沢市は復元運動をおこなったが、容れられず、北陸電力のものとなった(国家的な詐欺だ!)。ここでまた、戦後に、市税をつぎ込んで建設・維持してきた5カ所の発電施設(一般家庭4万戸、市内の2割)を端金で、資本に譲渡し、私利の食い物にしようとしている。
 断じて許してはならない。

20210218 読書メモ『99%のためのフェミニズム宣言』

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20210218 読書メモ『99%のためのフェミニズム宣言』
人文書院 2400円+税 シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー共著 惠愛由 訳

 表題の本は2019年に出版され、2020年秋に日本語訳され、すでに25カ国語に訳され、世界中で読まれている。
 本書(『宣言』)は体制内的なフェミニズム批判から始めている。それは、企業フェミニズム、リベラルフェミニズム、リーン・イン・フェミニズム(注:リーン・イン=体制の一員)であり、それに対置してウィメンズ・マーチ(2016.2.1全米)、フェミニスト・ストライキ(2018.3.8スペイン)、フェミニスト・ラジカリズム、キック・バック・フェミニズム(注:キック・バック=跳ね返り)、社会主義フェミニズム、マルクス主義フェミニズムなどと表現している。全体的に横文字(カタカナ)が多く、私のような高齢者にはなかなかなじめないが、若い世代には抵抗なく理解が進むのだろう。
 本書(『宣言』)の特徴は、女性差別をはじめとした現代の差別は、資本主義(新自由主義)にその根っこがあり、その土台となる資本主義社会を打倒した後に生まれる新しい社会においてのみ、差別からの解放があるという、極めて剛直な「宣言(マニフェスト)」にある。

リベラル・フェミニズム
 少し引用すると、前者(リベラル・フェミニズム)については、「ビジネス界の荒波をくぐり抜けて勝ち取る成功こそがジェンダーの平等」(10p)、「平等ではなく能力主義―序列の多様化」(28p)、「少数の特権的な人々が同じ階級の男性たちと同等の地位や給料を得られるようにする」(28p)、「多数を解放するよりも、少数を引き上げる」(30p)、「リーン・イン・フェミニズム…女性も競争に参入し、そこで高い生産性を上げ、マーケットや国家に貢献する(新自由主義の正当化)」(158p)、などと、その特徴を認定している。

 しかし2016年米大統領選挙でクリントンが敗北したことで、「リベラル・フェミニズムは崩壊した」と断じている。なぜなら、クリントンはエリート女性が高官に昇進することをフェミニズムとし、圧倒的多数の差別された人々の共感を得られなかったからだ。

フェミニスト・ラジカリズム
 他方では、著者たちは『宣言』のなかで、繰り返しフェミニスト・ラジカリズム、キック・バック・フェミニズム、社会主義フェミニズムについて述べている。

<現代資本主義(新自由主義)認識>
 「新自由主義とは過去40年にわたって地球を席巻してきた、極めて略奪的かつ金融化された資本主義経済の一形態。新自由主義は大気を汚染し、民主的統治を嘲り、生活環境を悪化させた」(13p)、「新自由主義―社会福祉にたいする国の支出を減らす」(54p)、「ジェンダーに基づく暴力は資本主義社会の基本的構造」(56p)、「個人の「自己責任」の名の下に、新自由主義は社会整備のための予算を大幅に削減した―公共サービスを市場化し、そこから直接的利益」(64p)、「資本主義は本物の民主主義や平和と両立しない―私たちの答えはフェミニスト的な国際主義である」(97p)、「現代社会における抑圧の究極的な基盤は資本主義である」(111p)、「資本主義社会は…生死に関わる根本的な問題を「市場」の支配下に委ねてしまう特質」(119p)、「社会的再生産とは何か?―人間を生み、世話し、生かすことには莫大な時間と費用がかかる、…資本主義社会は何らの価値も認めない」(123p)、「社会的生産とは労働力を産み、補填する」(125p)、「新自由主義は世界中の女性たちを大量に賃金労働へと駆り出した。…女性にとって解放でも何でもなかった―強化された搾取と収奪のシステム」(133p)、「女性の抑圧を性的起源に限定することは階級や人種の問題を無効にする」(164p)

 すなわち、資本主義は民主主義と両立せず、出産、育児、家事などの「社会的再生産」を評価せず(愛にもとづく無償労働)、資本主義こそが差別主義の根幹であり、したがって資本主義とのたたかいを組織し、資本主義を打倒して、新しい社会組織を作り出すべきだと主張している。
 とりわけこれまでの40年間の新自由主義こそが福祉を破壊し、公共サービスを市場化(収奪)し、女性を賃金労働に動員し、搾取と収奪のシステムに投げ込んだ。この点で、著者たちには曖昧性はなく、だからこそ全世界の人民は『宣言』を受け入れ、たたかいに立ち上がっているのではないか。

<真のフェミニズム>
 「階級的指向を持ち、急進的かつ変革の力を具えた、これまでとは異なるフェミニズム」(15p)、「国際主義を貫き、帝国主義と戦争には断固として反対する。…反自由主義だけではなく、反資本主義でもある」(37p)、「私たちは…ジェンダーや階級、人種による制限から、また国家主義や消費主義の歪みから解放するためにたたかう―実現するためには、資本主義ではない、新しい社会のかたちを築かなければならない」(79p)、「真に反人種主義・反帝国主義のフェミニズムは、完全に反資本主義でなければならない」(86p)、「他国の爆撃やアパルトヘイト政権の維持といった汚れた仕事をする支配階級の女性たちをフェミニストと呼ぶことはできない」(102p)、「フェミニスト的マニフェスト―マルクスとエンゲルスが残した知見の上に立たねばならない」(110p)、「社会的再生産をめぐる闘争が求めるものは、人間の形成を利潤よりも優先する社会である。…フェミニズムはパンとバラ(注:ゆとりと文化)のための闘争」(131p)、「99%のためのフェミニズムは反資本主義をうたう不断のフェミニズムである」(152p)

 すなわち、リベラル・フェミニズムにたいしてキック・バック(跳ね返り)し、ラジカル・フェミニズム、社会主義フェミニズムこそが真のフェミニズムであると宣言している。その内容は、国際主義、反帝国主義戦争、反人種主義、反侵略、反アパルトヘイトであり、資本主義打倒(「パンとバラ」のために)を主体的行為として対象化している。

<何を為すべきか>
 「フェミニズムは…搾取され、支配され、抑圧されてきたすべての人々のために立ち上がること」(33p)、「資本にたいする大衆の蜂起…フェミニズムたちはその蜂起の最前線にいるだろうか?…(イエス!)」(45p)、「99%のためのフェミニズムはすべてのラジカルな運動に反資本主義の反乱を呼びかける」(104p)、「フェミニストたちのたたかいは…資本主義を解体するたたかいの要である」(104p)、「現実に必要なのは、資本主義というシステムが生み出した生産と再生産の強固な結びつきを打ち破ることであり、利潤の形成と人間の形成の密接な関係や、前者に後者が従属している状況を解体することだろう」(145p)、

 そして、具体的にどのようにたたかうのかを提案している。資本にたいする大衆蜂起の最前線に立つこと、すなわち多数を獲得すると称して、「反資本主義」を隠すことはせず、明確に革命の必要性を提起し、実現のためにたたかうことを宣言している。

<誰と連帯するのか>
 「資本主義を正しい方法で理解…産業における賃労働者が労働者階級のすべてではない」(108p)、「私たちは…左派の反資本主義の流れと連携する必要がある」(105p)、「賃労働の搾取にばかり注目していても、女性を解放することはできない」(144p)、「フェミニスト・ラジカルは、1970年代、戦争や人種主義、資本主義にたいする反植民地主義の運動が最も勢いづいていたころに興った。そうした革命的精神を受け継ぎ…」(146p)、「自身が受ける搾取と支配に抗ってたたかうことで、労働者階級は世界の圧倒的多数を抑圧する社会構造に対抗…人類全体が共有する大義」(149p)、

 したがって、フェミニスト・ラジカルは、(私たちもその一端を担った)1970年代の反戦、反差別、反植民地をかかげる革命的精神を受け継ぎ、労働者階級(左派)と連帯し、資本主義打倒の最前線に立とうと宣言している。その一端を担った日本の革命的左翼こそがラジカル・フェミニズムの戦列に加わるセンスと歴史(7・7自己批判)を擁しており、ラジカル・フェミニストから合流を呼びかけられている主体だと自認すべきである。

大衆性とラジカリズム
 これらの言葉は「左翼的言葉遊び」ではない。2016年トランプ大統領就任の翌月2月1日には、数百万の「ウイメンズ・マーチ」が街を埋め尽くし、2018年の国際女性労働者デーの3月8日、スペインでは「フェミニスト・ストライキ」が呼びかけられ、500万の参加者によって支持されている。そのスローガンは「性差別的抑圧、搾取、暴力から解放された社会の実現」である。

 私は、「反帝反スタ」を掲げる最も左翼的存在であるという自負をもってたたかいぬいてきたが、革命的左翼の思想的・運動的内実は2000年代以前から変質を始めており、「7・7自己批判」(アジア人民との連帯綱領)を投げ出し(具体的には不二越強制連行訴訟の阻害要因)、階級矛盾を賃労働と資本に切り縮め、「労働運動で革命を」などという、労働者人民の実体的苦悩に接近も連帯もしないスローガンを掲げて、たたかう歴史を踏みにじった。また、革命的左翼の内部でも、女性差別事件が頻発し(北陸でもキャップによるレイプ事件=当時の私には、さまざまな事柄が絡み合って、被害者Aさんに真摯に向き合うことができなかったことを心から反省している)、それをうやむやにし、加害者の再生を排除し、真のフェミニズム確立を阻害してきた。

 『宣言』は資本主義下の階級関係を「賃労働と資本」に限定してはならず、社会的再生産(賃労働の担い手の再生産)の領域をも対象化すべきであると、繰り返し忠告している。これらの視点は、私たちにそのまま当てはまる批判的視点であり、私たちの体内に「負の体質」として深く刻まれており、今こそラジカル・フェミニズムから学ばなければならないのではないだろうか。
 『宣言』が掲げる「パンとバラ」こそが、地球上の70億人を超えるすべての人民の目標であり、だからこそ、『宣言』は「99%のため」と特記しているのであるから。
 

『今こそ、不戦を誓う ―小松からアジアの友へ―』

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小松基地の歴史と現状を知る小冊子
『今こそ、不戦を誓う ―小松からアジアの友へ―』
内容:155頁 代金:600円+送料310円
注文はこちら→【郵便振替口座番号:00710-3-84795 口座名:アジアと小松】

はじめに
 今から80年前の1941年、小松基地の前身・海軍飛行場建設に着手し、私の叔父たちが動員され、スコップと鍬で完成させた。敗戦で、元の農民(農地)に帰るべき飛行場用地はそのまま米軍に接収され、1951年朝鮮侵略戦争の一翼を担い、その後自衛隊基地とされ、かつての植民地支配と戦争への反省もなく、日々増強されながら今日に至っている。
 1951年小松市民と金沢大学生の抵抗、1961年基地拡張反対の住民闘争、1975年ファントム訴訟が始まり、未だ「勝利」の二文字を得られてはいないが、70年間のたたかいの蓄積は日帝の戦争政策を拒む人々の堡塁となってきた。
 1978年小松基地問題研究会を結成し、微力ながらも小松基地批判を発信し続け、43年が過ぎた。小松基地の地政学上の位置、その軍事的役割、とくに住民の熱意について、次の世代に伝えるべく、この小冊子を企画した。
                                       2021年2月 
目次
【一】朝鮮侵略の戦闘機を飛ばすな ――1頁~
  はじめに
  第一 戦時期 ――2頁~
  (1)食糧増産から軍事基地建設へ/(2)強制連行してきた朝鮮人を動員
  第二 戦後反基地闘争 ――4頁~
  (1)第6航空団設置/(2)第2次拡張とF104J配備/(3)F4ファントム配備と「10・4協定」/
  (4)45年つづく差し止め訴訟
  第三 攻撃訓練の強化 ――7頁~
  (1)小松基地の位置と戦力/(2)質量ともに増える日米共同演習/(3)G空域での訓練強化/
  (4)緊急着陸
  第四 基地機能の強化 ――9頁~
  (1)防空要塞化、新管制塔/(2)アグレッサー部隊の小松移転/(3)滑走路かさ上げと二本化/
  (4)F35導入計画
  第五 小松基地による生活破壊 ――16頁~
  (1)騒音被害/(2)空から落ちてくる/(3)人口の停滞/(4)地価の低迷/
  (5)居住地を奪う基地
  後序 ――26頁~
【二】基地周辺住民たちの熱意 ――29頁~
【三】第5・6次訴訟傍聴報告 ――49頁~
【四】資料 ――78頁~
 ①小松基地日誌(戦前~二一世紀)――79頁~
 ②小松海軍基地建設 ――88頁~
 ③10・4協定 ――92頁~
 ④小松基地の戦力 ――102頁~
 ⑤スクランブルリスト ――106頁~
 ⑥日米共同演習リスト ――107頁~
 ⑦緊急着陸リスト ――111頁~
 ⑧事故リスト(墜落、物品落下など) ――116頁~
 ⑨滑走路2本化動向 ――117頁~
 ⑩小松基地周辺の住環境 ――126頁~
 ⑪石川県内の軍事施設 ――130頁~
 ⑫「北朝鮮空爆を極秘研究」 ――135頁~
 ⑬小松基地司令=田母神俊雄の場合 ――136頁~
 ⑭領土ナショナリズムと大和堆問題 ――139頁~
 ⑮論考「戦後30年の小松」(1976年)――147頁~
 ⑯小松基地問題研究会小冊子・全目次――150頁~

20210222 島田清次郎資料集のプレゼント

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 20210222 島田清次郎資料集のプレゼント

 一昨年8月に小冊子『島田清次郎 未発表エッセイから読み解く、その実像』を出したが、それほど注目はされず、50冊ほどが残ってしまった。それで、送料(310円)だけ負担していただければ、お送りすることにした。
【注文:送料310円。郵便振替口座番号:00710-3-84795 口座名:アジアと小松】

目 次          
写 真・遺稿「雑記帳」
翻 刻・遺稿「雑記帳」全文(1921年エッセイ)
翻 刻・遺稿「雑筆」全文(1930年エッセイ)    
翻 刻・遺稿「仏蘭西社会運動慨勢」全文(1922年) 
論 考・「雑記帳」の翻刻を終えて~体制順応に逆らう島清
短 評・「雑筆」の翻刻を終えて~助けを求める島清   
論 考・島田清次郎青年期の思想的核心
資料1・橋場忠三郎「自伝」抜萃(1943年)
資料2・写真と地図で見る 島田清次郎の美川 
資料3・島田清次郎年譜          
資料4・島田清次郎作品評論リスト    
資料5・石川近代文学館所蔵リスト
後 序・あるがままの島清を受容するために

 この小冊子の特筆すべき点は、Kさんのご厚意で、島清最後の『雑筆』を翻刻し、全文掲載できたことである。島清は1930年4月29日に31歳で亡くなったが、その2週間前まで書き続け、「四月十、一、二、三日頃の夜で、…文壇二、三の士の助力を求めている。」と、悲痛な叫びで絶筆となっている。

 昨年2月19日の『北陸中日新聞』には下記のような投稿もあり、島清はまだまだ生き続けている。



 

20210305 M・Sさんを偲ぶ

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 M・Sさんを偲ぶ
 2月4日、M・Sさんが亡くなりました。思い出せば、切りがありません。
 はじめてお会いしたのは、M・Sさんがファントム裁判(1975年~)の第1次原告になられて(たったの12人、今はもう、原告は何千人です)、茨の道を切り開いたしばらく後でした。
 M・Sさんは1921年に生まれ、中国戦線に配属され、敗戦を迎えました。戦地でのことは、あまり語りませんでした。小松基地問題に取り組み、北富士、三里塚、ヤスクニ行動などに出かけることは、その反省からだと思っていましたので、特に聞きませんでした。
 2000年にN・SさんとM・Sさんの『兵戈無用―真宗門徒から、21世紀へのメッセージ』を発行しました。そのなかに、「なぜ、私は宗教を求めるのか」(1995年)、「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)、「帝国主義と排外主義」(1992年)などが収められ、M・Sさんの世界観を見ることができます。500冊全部売れて、手元には2冊しかなく、私の宝物です。ここに、M・Sさんを偲んで、「昭和天皇に戦争責任あり」を再録します。
 個人的には、一緒に北海道を旅し、積丹半島のニッコウキスゲの群生には、二人とも見惚れました。自宅の庭には2本の梅の木があり、実をいただいて梅干しを作りました(とてもいい梅の実でした)。
 私の母はM・Sさんが住む佐美近くの安宅生まれで、小松弁で、よく「○○○、なりゃこそ(おかげで)」と、言っていました。今、私は、「Mさん、なりゃこそ」とつぶやいて、別れたいと思います。

「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)
<象徴天皇制について>
 私が天皇について考えることは、もちろん天皇ヒロヒトということもありますが、そのまえに天皇制そのもの、とりわけ象徴天皇制についてひとこと述べたいと思います。
 象徴ということ自休はっきりしないわけですが、たとえば日本国・国民に象徴がいるとしても、世襲性の特定の家に生まれた人間を象徴にすること自休、非常に不合理なことだと思います。
 特定の人間を国家・国民の象徴にすれば政治的に利用されるおそれが十分にあるわけで、かりにどうしても象徴が必要だとするならば、例えば桜の花にするとか、富士山にすればよいと思うのです。そうすれば日本人にとっても外国人にとっても納得がいくのではないでしょうか。だいたい、桜の花や富士山を政治的に利用しようとしても、利用しようがないわけですから。したがって、私は象徴天皇制はまちがっていると思いますし、廃止しなければならんと思っています。
<天皇の戦争責任は明白>
 そのうえで、天皇ヒロヒトの戦争責任ということについてですが、アジアなど諸外国からも批判をうけているし、日本国内でもいろいろ論議が起こっています。だいたいにおいては良心的に考えている専門家の間では、明らかに戦争責任はある、という意見が大勢をしめています。
 戦前は明治憲法下であったわけですが、そこでは統師権は天皇に属していました。天皇を擁護する側の人たちは「統師部というところがあって、補弼をおこない、天皇はただそれを承認していたにすぎないから、天皇に戦争責任はない」という言い方をしています。しかし統師部というところは、作戦をたてたり、いろいろ討議をかわす機関にすぎないのであって、統師権のある天皇が最終的な決断をしたことは明白な事実です。したがって、天皇は人間的にも法律的にも責任は免れないわけです。
 またこれは賛成の人も、反対の人も一致した見解ですが、天皇ヒロヒトという人は旧憲法を護持することを、最高至上の生涯の課題として貫いた人物です。しかし、この旧憲法を守るということは、とりもなおさず国休を守るということなのですが、この国体たるや実に反人民的なものであったわけです。それが反人民的なものであることを知っていたか、否かは別にしても、間違ったことを自分の生涯の指針にしていたという、重大な責任を免れることはできません。
 もし知らなかったとすればなおさらのこと、最高責任者であるという立場からいって、無知自体が罪であって、責任は重いといわねばなりません。
<過ちを繰り返さないために>
 私たちはこうして天皇の戦争責任を追及しているわけですが、私自身も兵士の一人として中国戦線に行っていました。私たちは被害者であるけれども、同時に天皇の手先になって働いた人間であることも事実です。もちろんそれが間違ったことであることを知らなかったのではありますが、さきほども述べたように、だからといって無実の理由にはならないとおもいます。また、人間の歴史的・社会的存在ということを考えると、戦後生まれの若い人たちにしても、日本人である以上、アジアの人々にたいして責任は感じなければならないと思います。
 戦後、西ドイツの首相を務めたワイツゼッカーという人の有名な国連演説があります。ワイツゼッカーは戦争中ナチスに協力したわけでもなく、むしろナチスに反対して投獄された人なのですが、次のように言っています。「ナチスが犯した犯罪は、それを許したドイツ国民もひとしく負うべき責任として、謝罪しなければならない」と。
 ヒロヒトに戦争責任ありと、あくまで追及しつづけることが、とりもなおさず私自身がヒロヒトに協力した責任を問いつづけることだと思っています。私たちが犯した大きな過ちを、今後二度とくりかえさないために、どこまでも戦争責任を追及していかなければならない、私はそのように確信しています。

20210304 小松基地騒音の人口・世帯に与える影響

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20210304 小松基地騒音の人口・世帯に与える影響

 今から28年前に、1970年から1993年(23年間)にかけての小松基地騒音と小松市人口との関係を調査した。その結果は75W以上の地域では12.6%減少し、75W未満の地域(山間地を除外)では30.5%増加した(『今こそ不戦を誓う―小松からアジアの友へ』に再掲)。
 今回、1970年から2018年にかけて、48年間の小松市各校下の人口の増減を、『小松市統計書』、『小松市人口動態白書』、『基地と小松』などで調査した。

(1)前提的確認事項
 航空機騒音と人口の増減についての調査なので、75Wライン(図①のA~B)を境にして、ⓐ75W以上とⓑⓒ75W未満に分けて比較した。騒音よりも山間部なるが故の過疎・衰退の要素が大きく影響しているⓒ(金野、西尾、波佐谷、那谷、大杉)は除外し、平野部のⓐ、ⓑ間の違いを検証することにした。
 1970年校下別人口には、ⓑ群の東陵校下、能美校下はないが、同じ?群の第一校下、中海校下から編入しているので、ⓑ群全体の比較には差し障りがない。
 <C>75Wラインにまたがっている校下がいくつかあり(表2-❷、図①)、能美校下の場合は159戸中の153戸(96.2%)、串校下の場合は777戸中の571戸(73.5%)が75W外にあり、それぞれⓑ群に入れた。今江校下(64.0%)、向本折校下(67.2%)とも過半数が75Wコンター内にあるので、ⓐ群に入れたが、一定の齟齬は免れない。
 <D>『基地と小松』(1984、2018)には、「住宅防音実施状況」の一覧表があり、各町の騒音コンター(80W以上、70W、区域外)が記載されており、それに基づいて各校下のコンターを特定した(表2)。

(2)集計の結果
 1961年に自衛隊小松基地が開設され(F86F配備)、1965年にF104Jが配備され、1976年F4ファントム、1882年日米共同演習が始まり、1996年F15イーグル、2007年米軍移転訓練が始まり、2016年アグレッサー部隊が配備され、航空機騒音被害が年ごとに増大してきた。
75W地域は人口減少
 小松市全域の人口は、1970年=95072人、2018年=108827人であり、14.5%の増加を示している(1965年=91163人→19.4%増)。
 旧市街地(小松基地から約2㎞の人口密集地)以西は小松基地を取り囲むように、ⓐ75Wコンターにすっぽりと含まれ(図①)、居住環境はジェット機騒音で悪化し、人口は10.6%も減少している(表①ⓐ小計)。
 他方、小松基地から3㎞以上離れたJR北陸線以東の田園地帯はⓑ75W未満であり、高度成長下で住宅地として開発され、商業施設も集中して、56.7%の人口増加(表①ⓑ小計)をもたらし、両者の増減差は73.1ポイントに上る。

集団移転
 基地直近や離着陸コース直下の激甚騒音地域では、1964年から集団移転が始まり(鶴ヶ島)、浮柳、浜佐美(1965年)、佐美(1972年)、丸の内(1975年)、浮城、鹿小屋、桜木、城南、安宅新(1976年)、下牧(1977年)が続き、2019年までに676世帯が移転を余儀なくされた(表3)。
 特に、浜佐美町、鹿小屋町、安宅新町、鶴ヶ島町などの旧町は、戦時期の要塞地帯(注1)のように扱われ、人々は排除され、廃村と化してしまった。これが平和と民主主義を謳う国の姿なのだろうか。
(注1)要塞地帯法に基づき、要塞を中心に一定距離内を要塞地帯と指定され、この地域においては、立入り、撮影、模写、測量、築造物の変更、地形の改造、樹木の伐採などが禁止もしくは制限され、罰則をもうけて厳重に管理された。

(3)資料
(表1)75Wコンター内外の人口増減の比較一覧表
  【原資料:小松市『人口動態白書』(2018年版など)】


 (注2) ⓐ75W以上/ⓑ75W未満/ⓒ山間部(75W未満)
 (注3)小松市は1955、6年に9町村と合併して、現在の市域となった。合併後の1960年の小松市の総人口は89085人、1965年は91163人。まだ現在のような校区は成立しておらず、橋北(稚小)、橋南(芦城)、安宅、牧、板津、白江、苗代、今江、御幸、粟津、矢田野、月津、那谷、中海、金野、西尾、国府、大杉、新丸の19校区に分けられていた。1970年代に28校区、1993年代以降は26校区となっている。
   現在の中海校区は荒木田町と西軽海町を東陵校区に移動し、山間部の原校区を加えて今日に至っている。東陵校区は1974年に第一校区の希望ヶ丘、中海校区の荒木田町、西軽海で発足した。能美校区は第一校区の川辺、千代、能美、一針、平面が独立して発足した。西尾校区には尾小屋、西俣、新丸が合流した。
 (注4※)ⓑ75W未満の<❶~❹比較(%)>は1970年の小計に<原校区=1056人>を加えた<39438人>を使って計算した。
   小松基地開設(1961年)後の、少なくとも1965年からの人口推移を調べたかったのだが、現在の校区とは隔たりがあり、やむを得ず、1970年の人口統計から始めることにした。

(表2)75W以上の世帯(戸)数の比較一覧表
  【原資料:「住宅防音工事町別集計表」(『基地と小松』1984、2018)】


 (注5) ⓐ75Wコンター以上 ⓑ75Wコンター未満。

(表3)騒音被害による家屋移転
  【原資料:「小松飛行場周辺移転補償処理実績表」(『基地と小松』1984、1997、2006、2020)】


(注6)浜佐美町、安宅新町、鹿小屋町は集団移転で、廃村となった。
(注7)草野町、向本折町、日末町では家屋移転は0戸。
(注8)各年の数値は単年度の移転数ではなく、累積数である。

(図①)小松市の小学校・校区地図



<参考資料>
 「小松市校下別人口と世帯数の変遷」(2018年版『人口動態白書』)/「住宅防音工事町別集計表」(『基地と小松』2020、1984、1997、2006年版)/「小松飛行場周辺移転補償処理実績表」(『基地と小松』1984、1997、2006、2020年版)/1970年校下別・町別人口統計(小松市提供)/「校下、男女、年齢別人口」(小松市HP)/「小松市の小学校区」(『学区マップ』)/小松市立小・中学校通学区域町別編成表(2018年)/『小松市統計要覧』1966年版/『小松市統計書』1973年版/「校下、男女、年齢階級別人口」(2005年、2018年)

20200325 北陸電力に水の管理ができるのか?

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20200325 北陸電力に水の管理ができるのか?

 金沢市は長年月をかけて維持してきた5発電所(新寺津、上寺津、新辰巳、新内川、新内川第2)と1ダム(上寺津)を売却しようとしています。ここでは、上寺津ダムについてレポートします。
 

 上寺津ダムは図のように、犀川水系にあります。上寺津ダムと上寺津発電所は名称は同じですが、上寺津発電所は犀川ダムとの落差を利用した発電所であり、どちらかというと犀川ダムの付属発電所の位置を持っています。
 上寺津発電所で使われた水は上寺津ダム(逆調整池)に貯められ、①再び犀川に戻す水もあり(水量調整による洪水対策も兼ねる)、②下流の新辰巳発電所に送られて再び発電に使う水もあり、③末浄水場へ送られて、上水道用水(飲み水などの生活水)にされる水があります。上寺津ダムにはこの3つの役割があります。

洪水対策
 「金沢市上寺津ダム操作規定」(注2)に洪水警戒時(5条)や予備警戒時(6条)の規定があり、上寺津ダムの所有者になれば、洪水時の放流量調整の責任が発生するのではないでしょうか? そして私は利潤追求を第1義とする北陸電力に、豪雨時に計画的に放流(事前放流)するなどの仕事をちゃんとできるのかどうか疑問を持っています。

水質管理問題
 上水道用水の水質管理は最終的には浄水場(この場合末浄水場)でおこなわれるのですが、だからと言って北陸電力がその上流の上寺津ダム湖(逆調整池)の水質に責任を持たなくてもよいとはならないでしょう。上流の上寺津ダム湖(逆調整池)で汚染水が発生すれば、下流の末浄水場で被害が発生します。

責任を持つのは誰か
 ですから、洪水対策や上水道に係わる水の管理は利潤追求を本旨とする私企業ではなく、全市民に責任を持つ公共団体(金沢市)こそがその事業に責任を持つべきだと思います。すなわち、市民生活の安全(洪水対策と上水道)を守るためには、上寺津ダムを手放してはならず、あくまでも公共団体としての金沢市の責任で管理し、それが赤字であろうが、黒字であろうが、市民生活を守るべきだと思います。

(注1)浄水場とは
 浄水場は水をきれいにして水道水を作るところです。 川から取り入れた水には、泥や砂などの小さな汚れがまざっていて、そのままでは飲むことができません。消費者に安心で安全な水を確実に供給するということです。 私たちの日常生活に欠かせない水は、飲み水としてはもちろんのこと、毎日の調理やお風呂など、それ以外の用途でも安心して使える水でなければなりません。

(注2)「金沢市上寺津ダム操作規定」
(洪水及び洪水時)
 第4条 この規程において「洪水」とは、貯水池への流入量(以下「流入量」という。)が毎秒110立方メートル以上であることをいい、「洪水時」とは、洪水が発生している時をいう。
(洪水警戒時)
 第5条 この規程において「洪水警戒時」とは、金沢市を対象として洪水警報又は大雨警報が行われ、その他流入量が毎秒55立方メートルに達し洪水が発生するおそれが大きいと認められるに至った時から、洪水時に至るまで又は洪水時に至ることがなくこれらの警報が解除され、若しくは切り替えられ、その他洪水が発生するおそれが少ないと認められるに至るまでの間をいう。(平5公営企訓令甲1・平25公営企訓令甲3・一部改正)
(予備警戒時)
 第6条 この規程において「予備警戒時」とは、金沢市を対象として洪水注意報又は大雨注意報が行われ、その他流入量が毎秒30立方メートルに達し洪水が発生するおそれがあると認められるに至った時から、洪水警戒時に至るまで又は洪水警戒時に至ることがなくこれらの注意報が解除され、若しくは切り替えられ、その他洪水が発生するおそれがないと認められるに至るまでの間をいう。

20210325 PwCアドバイザリーの「最終報告書(2018.11.30)」閲覧

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20210325 最終報告書の閲覧

 3月24日、金沢市企業局に開示請求していた「PwCアドバイザリー合同会社の最終報告(2018.11.30)」(300頁以上)が開示され、閲覧してきた。
 「発電事業編」によれば、金沢市の発電事業の民間譲渡について、「事業・組織・財務の観点から、肯定的要素・否定的要素の双方を下記に記す。ガス事業に比べると、(発電事業の)財務面を中心に否定的要素もあるため、民間譲渡の緊急性は低いと考えられる」(116頁)という結論が出されている。
 民間譲渡の否定要素(財務)として、①原発停止継続に伴う電源不足による高い電源ニーズ/②民間譲渡による現行の市内委託先企業への発注減少/③新市場創設や固定価格買い取り制度による水力発電電力の市場価値向上/④市民・企業の環境意識向上に伴う水力発電電力の価値向上/⑤金沢市内におけるオール電化住宅の普及による小売り電力需要の増加の5点が挙げられている。


急いで譲渡する必要はない
 要するに、①当分のところは原発が稼働しないので、水力発電の電気が売れる、②民間譲渡によって、これまで取り引きしていた市内の業者に仕事が回らなくなる、④環境意識の高まりによって、水力発電の価値が向上する、⑤オール電化住宅が普及していくので、今、慌てて発電所を売却する必要はないという結論である(③については意味がよくわからない)。
 2018年に上記のような報告書が出されているが、この5点について、市議会でも十分な議論がなされていないようだ。都合が悪いのか、「みよみよ日記」によれば、この最終報告書は「金沢市ガス・発電あり方検討委員会」には提出せずに、「株式会社に譲渡することが適当」という結論に、恣意的に導いたのである。
 マスコミも2020年11月26日に、『北陸中日新聞』が「発電事業の民間譲渡の緊急性は低い」と、報告書の結論部分を報じただけで、突っ込んだ記事にはなっていない。

長いあいだ、買い叩かれてきた
 2018年最終報告書「発電事業編」の82頁には、全国の地方公営企業法適用団体のうち、水力発電事業を運営しているのは25団体あり、…最も高い売電単価は新潟県で、16.48円/kwh。25団体の平均は9.50円/kwh。金沢市は6.11円/kwhで(下から2番目)、格安価格で売電してきたと報告されている。
 こんなにも、北陸電力に買いたたかれてきたにもかかわらず、金沢市の2018年の発電事業は、収益=11億1820万円、費用=8億4460万円であり、したがって2億7360万円の利益を上げている。
 送電網を持たず、売電の相手が北陸電力しかないとしても、金沢市の姿勢はあまりにも卑屈ではないか? せめて、全国平均の値段(9.50円/kwh)で北陸電力に売電すれば、企業局の職員数(2020年4月現在の正規職員=343人、非正規職員=12人)を増やし、労働条件をよくすることができるのではないだろうか。

 結局この最終報告書「発電事業編」は120頁も費やしながら、経営面からしか見ておらず、ダム管理の社会的責任については、完全に無視している。
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