『中学生の教科書―美への渇き』を読む 2016.4
ここしばらく道徳教科書について勉強しており、その関連で見つけた『中学生の教科書―美への渇き』(2000年発行)のなかで、大橋良介が「道徳」について、吉本隆明が「社会」について書いている。
大橋良介の道徳論
大橋良介はドイツ観念論の研究者であり、その観点から「道徳」について書いている。著者は「美は人によって、時代によって、地域によって、文化によって変わる。そういった広がりのなかで、美は道徳と結びつく」と書いているが、直接「道徳」についてあれこれの評価を与えてはいない。
著者にとって「道徳」の前提には「美」があり、そのことから問題を立てている。「美」という文字は「羊+大」と書き、神にささげるための丸々と太った羊を「美しい」という。「善」「義」という文字にも「羊」がおり、美しいものとして、いずれも神にささげられた。
要するに、「花が咲くのは生命の発露―その開花は同時に花が散り、しぼむことへの実現への一歩。咲く(生)ということのなかに、散る(死)ということが内蔵されている」「美しい死は現実の美しい生そのもののなかに在る。美しい生というのは醜を美に転化させたような生だ」としている。
著者は「美というのは人から教わるものではなくて、自分でわかるものなのだ。自分がほんとうに美しいと思えるものを探し続けてごらん」という言葉で締めくくっている。結局は生き方の問題として、美を求め、醜を内在化することが、著者にとっての「道徳」のようだ。著者は国家による「道徳」の強制には、反対しているようだ。
吉本隆明の国家論
吉本隆明は「社会」を担当し、そのなかで、「(勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されたとき)自分が怠けたり、作業を休んで家郷に帰っても、他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が、学生同士の間で成立したとき、私たちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたと思った。…軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。『自由な意志力』以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念は駄目だ」という一文がある。
ここで吉本は、軍国主義下にあって、他者からの強制を受けずに、「自由な意志力」で勤労奉仕をおこなっていたと言いたいようだ。吉本は『超・戦争論』(2002年)のなかで、「太平洋戦争中、ぼくは天皇制軍国主義にいかれていて、その時はあの戦争を肯定していた」と言っているように、少年・吉本は天皇制道徳(修身)によって洗脳された状態にあり、そのようなところに、そもそも「自由な意志力」というものが存在するのだろうか?
当時の青少年は、修身教育によって、強制そのものを自覚できない非理性的状況に置かれ、したがって強制にたいする抵抗は思いもよらず、ネグレクト(怠けたり家郷に帰ったり)が精一杯であったのだ。このような「怠けたり家郷に帰ったり」程度のことで、ファシズムとロシア=マルクス主義を超えたなどと大言壮語しているが、その実、天皇制軍国主義には屈服していたのである。
HP「知の快楽 哲学の森に遊ぶ」には、「カントにとって道徳とは、まず命令とか義務の形をとる。命令とか義務といったものは、当初は外的な強制として現れるが、しかしそれに従う個人が、それをいやいやながら受け入れるのではなく、自分のうちに内在化したうえで積極的に従うのであれば、強制とはならない。それは強制された他律的な行為ではなく、自由な意思に基づいた自律的な行為に転化しうる。この(他律から自律への)転化のプロセスを、カントは道徳哲学の神髄と考えたわけである。」という解説がある。
この解説が正しいのかどうか、よくわからないが、戦時中の吉本は天皇制国家による強制を内在化し、積極的に従い、勤労奉仕(強制労働)を「自由な意志に基づいた自律的な行為に転化」していたのである。
57年も後になって、自らの行為を客観視できる時間が十分のありながら、勤労動員を「自由な意志力」でおこなっていたなどとは、「知の巨人」も堕ちたものだ。朝鮮半島から強制動員された少女たち、「慰安婦(性奴隷)」を強制された女性たちの怒りを思えば、少年・吉本の傷はそれほど深くなかったということである。ここに、帝国主義本国人民の腐敗が現れているのではないか。
少年・吉本と同年代の中学生に語りかける吉本は、国家論を展開するが、かなり粗雑な内容である。原始共同体から国家に成長する歴史的原因については、部族間の対立と戦争、それに付随する部族内強制は語られているが、その根本的要因である生産力の発展と私有財産の発生・占有については触れられていない。しかも、国家が歴史的に発生したことを語りながら、国家の死滅については語っていない。
また、吉本は共産主義(マルクス主義)とソ連(スターリン主義)を意図的に混同して、共産主義を資本主義と同列かそれ以下の「制度」と見なしている。たとえば「資本主義も社会主義も優等者は劣等者より上位、…公共性は私的権限や事情より優先」「職業スポーツはファシズム、マルクス主義、資本主義の世界が作り上げた今世紀最大の悪」などと書き殴っている。
両著を読んで、大橋良介には誠実さを感じたが、吉本隆明にはずるさを感じてしまった。
ここしばらく道徳教科書について勉強しており、その関連で見つけた『中学生の教科書―美への渇き』(2000年発行)のなかで、大橋良介が「道徳」について、吉本隆明が「社会」について書いている。
大橋良介の道徳論
大橋良介はドイツ観念論の研究者であり、その観点から「道徳」について書いている。著者は「美は人によって、時代によって、地域によって、文化によって変わる。そういった広がりのなかで、美は道徳と結びつく」と書いているが、直接「道徳」についてあれこれの評価を与えてはいない。
著者にとって「道徳」の前提には「美」があり、そのことから問題を立てている。「美」という文字は「羊+大」と書き、神にささげるための丸々と太った羊を「美しい」という。「善」「義」という文字にも「羊」がおり、美しいものとして、いずれも神にささげられた。
要するに、「花が咲くのは生命の発露―その開花は同時に花が散り、しぼむことへの実現への一歩。咲く(生)ということのなかに、散る(死)ということが内蔵されている」「美しい死は現実の美しい生そのもののなかに在る。美しい生というのは醜を美に転化させたような生だ」としている。
著者は「美というのは人から教わるものではなくて、自分でわかるものなのだ。自分がほんとうに美しいと思えるものを探し続けてごらん」という言葉で締めくくっている。結局は生き方の問題として、美を求め、醜を内在化することが、著者にとっての「道徳」のようだ。著者は国家による「道徳」の強制には、反対しているようだ。
吉本隆明の国家論
吉本隆明は「社会」を担当し、そのなかで、「(勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されたとき)自分が怠けたり、作業を休んで家郷に帰っても、他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が、学生同士の間で成立したとき、私たちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたと思った。…軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。『自由な意志力』以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念は駄目だ」という一文がある。
ここで吉本は、軍国主義下にあって、他者からの強制を受けずに、「自由な意志力」で勤労奉仕をおこなっていたと言いたいようだ。吉本は『超・戦争論』(2002年)のなかで、「太平洋戦争中、ぼくは天皇制軍国主義にいかれていて、その時はあの戦争を肯定していた」と言っているように、少年・吉本は天皇制道徳(修身)によって洗脳された状態にあり、そのようなところに、そもそも「自由な意志力」というものが存在するのだろうか?
当時の青少年は、修身教育によって、強制そのものを自覚できない非理性的状況に置かれ、したがって強制にたいする抵抗は思いもよらず、ネグレクト(怠けたり家郷に帰ったり)が精一杯であったのだ。このような「怠けたり家郷に帰ったり」程度のことで、ファシズムとロシア=マルクス主義を超えたなどと大言壮語しているが、その実、天皇制軍国主義には屈服していたのである。
HP「知の快楽 哲学の森に遊ぶ」には、「カントにとって道徳とは、まず命令とか義務の形をとる。命令とか義務といったものは、当初は外的な強制として現れるが、しかしそれに従う個人が、それをいやいやながら受け入れるのではなく、自分のうちに内在化したうえで積極的に従うのであれば、強制とはならない。それは強制された他律的な行為ではなく、自由な意思に基づいた自律的な行為に転化しうる。この(他律から自律への)転化のプロセスを、カントは道徳哲学の神髄と考えたわけである。」という解説がある。
この解説が正しいのかどうか、よくわからないが、戦時中の吉本は天皇制国家による強制を内在化し、積極的に従い、勤労奉仕(強制労働)を「自由な意志に基づいた自律的な行為に転化」していたのである。
57年も後になって、自らの行為を客観視できる時間が十分のありながら、勤労動員を「自由な意志力」でおこなっていたなどとは、「知の巨人」も堕ちたものだ。朝鮮半島から強制動員された少女たち、「慰安婦(性奴隷)」を強制された女性たちの怒りを思えば、少年・吉本の傷はそれほど深くなかったということである。ここに、帝国主義本国人民の腐敗が現れているのではないか。
少年・吉本と同年代の中学生に語りかける吉本は、国家論を展開するが、かなり粗雑な内容である。原始共同体から国家に成長する歴史的原因については、部族間の対立と戦争、それに付随する部族内強制は語られているが、その根本的要因である生産力の発展と私有財産の発生・占有については触れられていない。しかも、国家が歴史的に発生したことを語りながら、国家の死滅については語っていない。
また、吉本は共産主義(マルクス主義)とソ連(スターリン主義)を意図的に混同して、共産主義を資本主義と同列かそれ以下の「制度」と見なしている。たとえば「資本主義も社会主義も優等者は劣等者より上位、…公共性は私的権限や事情より優先」「職業スポーツはファシズム、マルクス主義、資本主義の世界が作り上げた今世紀最大の悪」などと書き殴っている。
両著を読んで、大橋良介には誠実さを感じたが、吉本隆明にはずるさを感じてしまった。