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『溶鉱炉の火は消えたり』(3)

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『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』(3)

五 長官に会ふ
 江戸川の終点で電車を棄て、関口台町に向かつて坂道を登つてゆくと、樹立(こだち)に包まれた屋敷町に、黒板塀を繞(めぐ)らす長官邸は直ぐみつかつた。門を這入ると植込。突当りが玄関。十六七の小娘が私の名刺を運んで奥に消えると間もなく、玄関から狭い階段を二階の客間に導かれた。何の飾気もない、十畳の部屋、中央の四畳敷きぐらゐの敷物の上には、約束どほり紫檀の応接机。建物は古びて、天井は低く、凡てが簡素、少年時代によく見かけた田舎の中流郷士の旧宅か、近郊の小寺院の庫裏とでも云つたやうな感じの家だ。近代重工業の精髄たる大製鉄所長官の邸宅らしい臭は何処にもない。私は、八幡市――製鉄所――八幡の広壮な長官々舎と此の古色蒼然たる邸宅との対照に苦笑した。
 余り永くは待たないうちに、地味な和服の小男が、チョコチョコと出てきて、私と対座した。イガ栗頭、半白のチョビ髭、体も小さいが、顔も小さくて円い、温和な相貌。官僚風な尊大さも政治家らしい豪快さもない。
 長官との初対面だ。
「前から一度お目にかかりたいと思つてゐましたが……。御演説は一度拝聴しました……。」
「此の老爺(おやじ)、なかなか喰えぬわい」と思いながら、単刀直入用談に入る。
「労友会の創立、現状等に就いては長官も略ぼ(ほぼ)御承知のことゝ思ひますが、会は最初から闘争団体として組織し、また訓練されて来ました。」
「今、全会員の間に待遇改善の要求を起す計画が熟してゐます。我々は当局の意向や予算の関係から要求運動を差し控へたり、加減したりする意志は毛頭ありませんが、然し、組合の創立後日が浅い、できるならば、十分の闘争力を蓄積するまで待ちたいと思つて、一時は爆発を抑へてみました。が、永年累積の火のやうな要求熱は、誰の力でも抑へきることは到底不可能です。で、愈々決行と決まつたのです。」
「私は素直に申します。職工の要求は十分に容れてやらるべきです。貴下は、部下や警察の報告に基いて、ナァに、大したことではないとタカをくゝつて居られるでせうが、そんな報告だけで見当をつけて居られることは、如何でせう? 万全を期すればこそ、準備が足らぬと危ぶみもしたのですが、イザとなれば、全国を震撼するに足る大争議の基礎工事は出来上がつてゐます。私には深い自信があります。貴下の職工も、何時までも従順(おとな)しい羊ではありません。」
「私は貴方を威嚇するために、こんなことを云つてゐるのではない。誇張でも、カラ元気でもない。私のやうな青二才に威嚇される貴下でもなく、私も亦心にもない、口先の恫喝で事を成さうとするやうな、そんな下劣な人間でも、弱者でもないつもりです。で、貴下も、私の言葉を素直に受け容れて、慎重に考慮して頂きたいのです。」
「然し、お断りしておきますが、私は長官に嘆願に出たのでもなく、また、断じて妥協に参つた者でもありません。私の使命は、一種の宣戦布告です。たゞ、正式に要求書を提出して、戦ひの火蓋を切る前に、一応誠意ある御考慮を求め、此の危機に善処せられんことをお勧めするために参つたのです。」
「で、製鉄所としては、どうせ、屈服するなら、今のうち、要求書の出ない前に、自発的に、進んで職工の要求を容れ、労働条件を改めたが得策でせう。」
「如何でせう? 二万の生命を預かる長官として、くだらない誇りや術策を捨てゝ、静かに御熟考なさっては……」
 語り続けてゆくうちに、勃々たる戦意は胸底に湧き上る。だが、言葉は至極平穏だ。妥協的でさへもあつた。然り。実は、刃(やいば)に衂(ちぬ)らず、一兵をも損せずに戦功を収め得ないとは限らない。若し、戦はないで獲得しうるならば、頼むベからざる頼みではあるけれども、二万五千の労働者と十万の其家族のために、私は身を粉にもせねばならぬ。舌の根の続くかぎり、私の全心根(しんこん)を打ちこんで、長官の心を動かさねばならぬ。私は必死である。辞(ことば)を低うし、心をこめて、長官の誠実な省慮を求めたのである。
 元来、敵に対する場合、私は、全然心にもない嘘、出鱈目を並べて、相手を翻弄し、述中に陥れて敵を屈服させやうとする場合と、百パーセントの真実を相手の胸奥(きょうおく)に投げこんで、其心服を得やうとする場合とがある。今日は其後者である。重き責任を負ふ自分だ。相手は苟(いやしく)も大製鉄所長官であり、事は十万人の死活に懸けての大事である。今、私に用ゆべき区々の術策はない。かけ引は無用だ。嘘もなければ、飾り気もない。たゞ、真裸になつて長官に飛びついたのであつた。

六 腹は読めた
 然し、長官は老獪な官僚であつた。加ふるに、彼は状勢を軽視しきつてゐる。職工の力を軽蔑しきつてゐる。下僚や警察署の報告のみで目算を定めてゐる長官は、私の言葉に別段の注意を払はないらしい。幾十年の官僚生活に馴れきつて、抜き難き支配者意識に凝り固まつてゐる老官僚である。労働者のセッパ詰つた心理が理解できやう道理がない。彼は本質的に私の言葉――労働者の心を諒解し得ない存在なのだ。
「ご親切は誠に有難う……。然し、今のところ、私には御希望に副ふやうな意志はない。」
 長官の言葉はつめたい。
「尤も、年度代りには、何とか考慮してもいゝが、それも、今から御約束出来ない。」
 態度は挑戦的ではないが、底意は明瞭だ。
(製鉄所は職工の要求運動を怖れて折れて出るわけには行かない。それに、一部職工の蠢動はあるらしいが、全部は微動だもしまい。僅か数百名で、何事も起せるものでもなく、起し得たところが、大したことはない)
 長官は腹のなかで私語してゐる。
「それよりも、浅原君!」
 長官は訓話口調である。
「私は君の倍以上の年長だから云ふのだが、君一つ考えなほしてみてはどうだ。西郷南洲翁は偉人には相違ないが、西南戦争を起したのは確かに大失策であつた。大西郷ほどの人物にも、時勢を達観する明がなかつたのだ。郷党子弟の友愛に殉ずると云へば、如何にも美しいが、時勢に逆行する軽挙であつた。翁に今少し時勢を見る明があつたら、あんな無用の大騒動も起さず、有為の子弟を犬死にさせないでもすんだ筈である。人生意気に感ずるもよい。然し、君のやうな有為な青年が労働運動の指導者になつて、労働者に心中だてをするのは、謂はゞ、大西郷の西南戦争と同じことだ。バカバカしいぢやないか。」
 私は黙々と聞く。長官はゆるやかに語り続ける。
「聞けば、君は官界や政治界に相当知人も多いといふ話だから、君さへ其の方面で身を立てる気なら十分に引き立てゝ貰へると思うが、どうです、一つ考へてみませんか、及ばずながら私も力を添へてやるが……」
 長官と私、云ひ廻しは違うが、何だかお互ひに勧告ゴツコをしてゐるやうで、危く吹き出しさうになった、が、私は老人に対する敬意を失わないやうに、一と通り忠告を謹聴した。
 然し、私は言下に、
「御懇篤(ごこんとく)な御忠告は親身に承りましたが、見解は貴下(あなた)と全然違います。私は時勢を見違へてはゐないと確信してゐます。西郷さんが不明であつたかどうかは別問題として、時勢に逆行する者は、私でなくて、長官ではないかと思ひます。誰が何と云はうとも、未来は労働者のものです。私は労働者です。金持の卵でもなければ、お役人のお玉杓子(おたまじゃくし)でもない。私の望むところは、立身出世ではありません。労働者階級解放運動の一兵卒として、斃(たお)るれば、それで満足です。」
 長官の腹のなかは、判りすぎるほど判つた。此の上、無用の折衝を続ける必要はない。長官がまた何か云ひ出さない前にと思つて、私が腰を上げかけると、彼は肩に手をかけて抑へつけんばかりに私を引止めて、今度は見違へるほど真剣に話しかけた。
「一体、君等はこれからどうするんです!」
「要求運動を起します。」
「どんな要求か話してくれませんか。」
「時間短縮、賃金値上げ、其他二三項です。」
「八時間労働にしろといふのかね。」
「さうです。」
「でも、八時間制は無茶だ。官設工場で実施しているところはまだ一つもない。製鉄所が先走りするわけには行かないぢやないか。」
「よい先例は率先してお作りになるべきでせう。」
「それに賃金の方も、予算が決まってゐるから私設工場のやうなわけにはゆかぬ。」
「予算なんてものは、我々の眼中にありません。」
「そんな乱暴な……。若し要求が容れられないとなると、どうなるのだろう?」
「溶鉱炉の火が消えます。」
「ハァ……それで、結局、勝てるかね。」
 私の態度、語調が、多少癪に触ったものか、長官の言葉にもトゲがある。
「勝敗は問題ではない。已むを得ず戦ふのです。」
「お勝てになりますか?」
 長官は繰り返す。唇頭(しんとう=口先)には冷笑が漂ふ。(五百か千の職工が動いたところが、何が出来るものか)、長官の胸はセゝラ笑ふ。
「勝てゝも、勝てなくても、やりまつせぢや」
 覚えず国訛(なまり)が出た。長官の冷嘲(れいちょう=冷ややかに嘲り笑うこと)に対する軽い昂奮からである。
 私は間もなく長官邸を辞去した。
 江戸川の終点へ歩きながら私語する。
「要求は、容れられるどころか、受け付けられもしないだらう。だが、当局は油断してゐる。大した戦備はない。開戦は早いがいゝ。疾風迅雷にやつつけるんだ。」
 最後の決意は電車に乗るまでにハツキリとついた。
 神田錦町の下宿屋に戻ると、暗号電報で八幡の同志に開戦の準備を命じ、その夜十一時発の列車で東京を去つた。



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