20171110 鶴彬のコムニストへの道
10月21日のシンポジウムのテーマは「鶴彬とは何ものか」「鶴彬から何を学ぶか」ということだった。シンポジストから「反戦川柳人」「ポリシーを持った詩人」「非暴力的に平和を希求した川柳人」などという言葉で説明されていたが、現代風の耳障りのいいアレンジではないだろうか。
わたしは、鶴彬は真正のコムニスト以外の何者でもなかったと思っている。軍隊での態度、獄中での非転向、そして川柳にそれが現れている。とくに転向の誘惑を拒否し、満期出所を選択することは、拷問以上に苦痛を伴うことを知らねばならない。
では、鶴彬はどのようにしてコムニストになったかについて、『鶴彬全集』(一叩人編)などで検証してみよう。
1925年
1925年10月、16歳の鶴彬は、『影像』23号に「革新の言葉」を投稿している。そのなかで、鶴彬は「生活様式が、哲学が、宗教が、クライマックスに達した次の瞬間に於て必ずや革新運動の起立…『自我の革新』こそ真の革新である!」と書いている。「自我の革新」すなわち「意識の変革」を問題にしている。16歳の鶴彬はまだ史的唯物論(唯物史観)には接していないと考えられる。
同論文では「革新運動」という言葉がくり返し出て来るが、川柳における「革新か伝統」かを問題にし、「伝統主義者」にたいして、扉を「こつこつ」とノックする側に立つことを鮮明にしている。<この年治安維持法が成立>
1926年
鶴彬は1926年に大阪に働きにでた。鶴彬にとって決定的な、コペ転の事件だったのではないか。そこで鶴彬はマルクスに出会ったと思う。鶴彬が詠った1300余の川柳に「マルクス」が2回出て来る。1回目は1926年12月(17歳)で、「釈尊の手をマルクスはかけめぐり」と詠んでいる。
鶴彬は1924年には、「仏像の虚栄は人の虚栄なる」「救われてそれ神仏の意識なし」「仏像を爪んで見ると軽かった」「仏さま呼べど答えなし」「数珠に手首を締められたり」、1925年には、「仏像を木切と思って食った鼠」「経文へ老僧水洟ぽとりぽとり」「仏像はあわれ虚栄を強いられて」などを詠み、宗教への不信と批判を強めている。
鶴彬は「釈尊の手をマルクスはかけめぐり」と詠み、マルクス主義を対象化しているが、この時点では、マルクスに期待していいのかどうか、疑いの目で見ているようだ。
1927年
鶴彬は大阪から帰郷し、そして上京している。
1927年12月に詠んだ「マルクスの銅像の建つ日は何時ぞ」は、鶴彬がマルクス主義に確信を持つに至ったと思わせる。金沢第7聯隊赤化事件判決文(1931年6月)によれば、「昭和2(1927)年3月頃全日本プロレタリヤ芸術聯盟金沢支部に加盟後は専らマルキシズムに関する文献を渉猟して漸次共産主義思想に傾き…『戦旗』『インターナショナル』『マルクス主義』『無産者新聞』『無産青年』等専ら共産主義に関する記事を掲載せる新聞雑誌を耽読研究」と記されている。
日本プロレタリア芸術聯盟は1927年3月に発足(委員長は山田清三郎、書記長は小堀甚二、委員には中野重治、林房雄、佐々木孝丸、柳瀬正夢など)し、鶴彬は発足直後に加盟していたことになる。18歳のことである。
1927年12月、鶴彬は『川柳人』182号に、「僕らは何を為すべきや」を投稿した。鶴彬は「現代の世界文芸界を通じて二つの傾向が見得らるる。それは一つの古典主義と一つの反古典的な革命主義とである。…ブルジョア芸術派とよぶべきものと、…プロレタリア芸術派とのそれぞれの対立」「最近の新興川柳界は明らかな二つの傾向に分裂した。その一つとは田中五呂八氏によって主張される生命主義派、も一つとは森田一二氏によって唱導されたる社会主義派のそれ」と、川柳理論をめぐる論争の真っただなかに切り込んで、マルクス主義者へと傾斜していったようだ。
1928年
鶴彬は関西や東京で自らを成熟させ、ふたたび高松に戻り、高松川柳研究会を立ち上げ、ここでも仲間を集めてマルクス全集の勉強会をはじめている。
1928年2月(19歳)、鶴彬は『氷原』26号に、「宮島氏の思想に就いて」を発表した。そのなかで鶴彬は「僕らはいずこへ行くか、共産主義的無政府主義へ…世界苦の根元をなすところの資本主義を打ち崩す(ためには、)…建設の前に破壊を要求する」と叫んでいる。
同年5月、鶴彬は『氷原』29号に「生命派の陣営に与ふ」を寄稿した。無産派川柳と生命派川柳の理論闘争が展開されているなかで、鶴彬は「僕はマルクス主義無神論に立脚」(=唯物史観)し、超唯物史観に基づくプロレタリア川柳否定論を論駁している。
鶴彬は「芸術とはボクタノフに従へば、その発生根元において労働の共和より生じたものである。つまり労働の唄が詩の発生である。…搾取なき社会建設に到達する一要素として芸術の政治的闘争的役割…(生命派川柳は)下部構造の反映によらずして芸術が存在し、又その下部構造の反映によらずして、芸術はそれ自体発展しうるといふ、世にも大間違ひなのである。…氏(田中五呂八)等の排撃するものは決して目的意識ではなく、僕等の思想の根底をなす共産主義思想がその目標」と書いている。
ここでは、プロレタリアート鶴彬は、自らをコムニストとして、「田中氏等が難攻不落と誇る神秘城はマルクス的無神論によってのみ征服され得る」と、川柳を武器にして切り込んでいく姿が鮮明だ。鶴彬はマルクス主義(史的唯物論)をもって、神秘主義(=搾取の道具)を論断している。
鶴彬は畳みかけるように、エンゲルスを引用し、「宗教は社会なくして発生しないのである。…社会の権力関係が反映して宗教意識が生じた」。マルクスから「宗教的苦難は一つには現実的苦難の表現であると共に又一つには現実的苦痛に対する抗議である。宗教は抑圧されたる生物の嘆息であり又それが魂なき状態の魂であると等しく、それは無感情の世界の感情である。即ちそれは民衆のための阿片である」を引用し、さらに、レーニンから「恐怖が神をつくった。…プロレタリア及び小有産者に突然の、予期し得ざる、偶然の窮乏を、没落を、乞食、窮民、淫売婦への転化をもたらし、彼らを餓え死せしむる恐怖…これが即ち…近代的宗教の根元である」を引用し、神秘主義を根底から批判した。鶴彬の読書の広さと深さが垣間見える。
ここでは一見、宗教論争の観を呈しているが、プロレタリアート鶴彬の思想的根元を表白しており、コムニストとしての自己を確立しきったとみて良い。<1928年3・15弾圧>
1929年
そして、1929年に高松川柳研究会事件で最初の逮捕弾圧を受ける。1930年1月第九師団第七聯隊に入隊し、翌1931年に『無産青年』を配布(七聯隊赤化事件)した廉で、逮捕(治安維持法違反)され、軍法会議にかけられ、有罪判決を受け、大阪衛戍監獄に移監された。非転向で、1933年満期出獄したが、兵役が残っており、そのまま兵営内で軟禁状態に置かれた。
『無産青年』の隊内配布は、一般的な反戦運動ではなく、帝国主義軍隊のなかに革命党を組織することを目的とした行為である。失敗すれば拘束され、処刑されることを自覚しながらのたたかいである。1905年戦艦ポチョムキンの反乱を思い浮かべていただければ良い。
まさに鶴彬には、帝国主義軍隊への徴兵に反軍工作を以て応えた「反軍川柳人」であり、それはコムニストとしての生き方に確信を持たなければ絶対に出来ない生き方だった。
鶴彬は獄中1年8カ月を含めて4年間の軍隊生活を終え、1933年12月除隊し高松に戻った。
1934年~
除隊後しばらくで上京し、はげしい反戦・反軍川柳を読み続けた。ついに、鶴彬の口を封じるために1937年12月治安維持法違反容疑で逮捕。
逮捕直前の11月15日の『川柳人』に「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」「出征の門標があってがらんどうの小店」「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「胎内の動き知るころ骨がつき」を発表した。これが鶴彬最後の川柳となった。
そこにはコムニスト鶴彬の徹底した戦争批判があった。そして、1938年9月非転向を貫く鶴彬の命を奪ったのである。
10月21日のシンポジウムのテーマは「鶴彬とは何ものか」「鶴彬から何を学ぶか」ということだった。シンポジストから「反戦川柳人」「ポリシーを持った詩人」「非暴力的に平和を希求した川柳人」などという言葉で説明されていたが、現代風の耳障りのいいアレンジではないだろうか。
わたしは、鶴彬は真正のコムニスト以外の何者でもなかったと思っている。軍隊での態度、獄中での非転向、そして川柳にそれが現れている。とくに転向の誘惑を拒否し、満期出所を選択することは、拷問以上に苦痛を伴うことを知らねばならない。
では、鶴彬はどのようにしてコムニストになったかについて、『鶴彬全集』(一叩人編)などで検証してみよう。
1925年
1925年10月、16歳の鶴彬は、『影像』23号に「革新の言葉」を投稿している。そのなかで、鶴彬は「生活様式が、哲学が、宗教が、クライマックスに達した次の瞬間に於て必ずや革新運動の起立…『自我の革新』こそ真の革新である!」と書いている。「自我の革新」すなわち「意識の変革」を問題にしている。16歳の鶴彬はまだ史的唯物論(唯物史観)には接していないと考えられる。
同論文では「革新運動」という言葉がくり返し出て来るが、川柳における「革新か伝統」かを問題にし、「伝統主義者」にたいして、扉を「こつこつ」とノックする側に立つことを鮮明にしている。<この年治安維持法が成立>
1926年
鶴彬は1926年に大阪に働きにでた。鶴彬にとって決定的な、コペ転の事件だったのではないか。そこで鶴彬はマルクスに出会ったと思う。鶴彬が詠った1300余の川柳に「マルクス」が2回出て来る。1回目は1926年12月(17歳)で、「釈尊の手をマルクスはかけめぐり」と詠んでいる。
鶴彬は1924年には、「仏像の虚栄は人の虚栄なる」「救われてそれ神仏の意識なし」「仏像を爪んで見ると軽かった」「仏さま呼べど答えなし」「数珠に手首を締められたり」、1925年には、「仏像を木切と思って食った鼠」「経文へ老僧水洟ぽとりぽとり」「仏像はあわれ虚栄を強いられて」などを詠み、宗教への不信と批判を強めている。
鶴彬は「釈尊の手をマルクスはかけめぐり」と詠み、マルクス主義を対象化しているが、この時点では、マルクスに期待していいのかどうか、疑いの目で見ているようだ。
1927年
鶴彬は大阪から帰郷し、そして上京している。
1927年12月に詠んだ「マルクスの銅像の建つ日は何時ぞ」は、鶴彬がマルクス主義に確信を持つに至ったと思わせる。金沢第7聯隊赤化事件判決文(1931年6月)によれば、「昭和2(1927)年3月頃全日本プロレタリヤ芸術聯盟金沢支部に加盟後は専らマルキシズムに関する文献を渉猟して漸次共産主義思想に傾き…『戦旗』『インターナショナル』『マルクス主義』『無産者新聞』『無産青年』等専ら共産主義に関する記事を掲載せる新聞雑誌を耽読研究」と記されている。
日本プロレタリア芸術聯盟は1927年3月に発足(委員長は山田清三郎、書記長は小堀甚二、委員には中野重治、林房雄、佐々木孝丸、柳瀬正夢など)し、鶴彬は発足直後に加盟していたことになる。18歳のことである。
1927年12月、鶴彬は『川柳人』182号に、「僕らは何を為すべきや」を投稿した。鶴彬は「現代の世界文芸界を通じて二つの傾向が見得らるる。それは一つの古典主義と一つの反古典的な革命主義とである。…ブルジョア芸術派とよぶべきものと、…プロレタリア芸術派とのそれぞれの対立」「最近の新興川柳界は明らかな二つの傾向に分裂した。その一つとは田中五呂八氏によって主張される生命主義派、も一つとは森田一二氏によって唱導されたる社会主義派のそれ」と、川柳理論をめぐる論争の真っただなかに切り込んで、マルクス主義者へと傾斜していったようだ。
1928年
鶴彬は関西や東京で自らを成熟させ、ふたたび高松に戻り、高松川柳研究会を立ち上げ、ここでも仲間を集めてマルクス全集の勉強会をはじめている。
1928年2月(19歳)、鶴彬は『氷原』26号に、「宮島氏の思想に就いて」を発表した。そのなかで鶴彬は「僕らはいずこへ行くか、共産主義的無政府主義へ…世界苦の根元をなすところの資本主義を打ち崩す(ためには、)…建設の前に破壊を要求する」と叫んでいる。
同年5月、鶴彬は『氷原』29号に「生命派の陣営に与ふ」を寄稿した。無産派川柳と生命派川柳の理論闘争が展開されているなかで、鶴彬は「僕はマルクス主義無神論に立脚」(=唯物史観)し、超唯物史観に基づくプロレタリア川柳否定論を論駁している。
鶴彬は「芸術とはボクタノフに従へば、その発生根元において労働の共和より生じたものである。つまり労働の唄が詩の発生である。…搾取なき社会建設に到達する一要素として芸術の政治的闘争的役割…(生命派川柳は)下部構造の反映によらずして芸術が存在し、又その下部構造の反映によらずして、芸術はそれ自体発展しうるといふ、世にも大間違ひなのである。…氏(田中五呂八)等の排撃するものは決して目的意識ではなく、僕等の思想の根底をなす共産主義思想がその目標」と書いている。
ここでは、プロレタリアート鶴彬は、自らをコムニストとして、「田中氏等が難攻不落と誇る神秘城はマルクス的無神論によってのみ征服され得る」と、川柳を武器にして切り込んでいく姿が鮮明だ。鶴彬はマルクス主義(史的唯物論)をもって、神秘主義(=搾取の道具)を論断している。
鶴彬は畳みかけるように、エンゲルスを引用し、「宗教は社会なくして発生しないのである。…社会の権力関係が反映して宗教意識が生じた」。マルクスから「宗教的苦難は一つには現実的苦難の表現であると共に又一つには現実的苦痛に対する抗議である。宗教は抑圧されたる生物の嘆息であり又それが魂なき状態の魂であると等しく、それは無感情の世界の感情である。即ちそれは民衆のための阿片である」を引用し、さらに、レーニンから「恐怖が神をつくった。…プロレタリア及び小有産者に突然の、予期し得ざる、偶然の窮乏を、没落を、乞食、窮民、淫売婦への転化をもたらし、彼らを餓え死せしむる恐怖…これが即ち…近代的宗教の根元である」を引用し、神秘主義を根底から批判した。鶴彬の読書の広さと深さが垣間見える。
ここでは一見、宗教論争の観を呈しているが、プロレタリアート鶴彬の思想的根元を表白しており、コムニストとしての自己を確立しきったとみて良い。<1928年3・15弾圧>
1929年
そして、1929年に高松川柳研究会事件で最初の逮捕弾圧を受ける。1930年1月第九師団第七聯隊に入隊し、翌1931年に『無産青年』を配布(七聯隊赤化事件)した廉で、逮捕(治安維持法違反)され、軍法会議にかけられ、有罪判決を受け、大阪衛戍監獄に移監された。非転向で、1933年満期出獄したが、兵役が残っており、そのまま兵営内で軟禁状態に置かれた。
『無産青年』の隊内配布は、一般的な反戦運動ではなく、帝国主義軍隊のなかに革命党を組織することを目的とした行為である。失敗すれば拘束され、処刑されることを自覚しながらのたたかいである。1905年戦艦ポチョムキンの反乱を思い浮かべていただければ良い。
まさに鶴彬には、帝国主義軍隊への徴兵に反軍工作を以て応えた「反軍川柳人」であり、それはコムニストとしての生き方に確信を持たなければ絶対に出来ない生き方だった。
鶴彬は獄中1年8カ月を含めて4年間の軍隊生活を終え、1933年12月除隊し高松に戻った。
1934年~
除隊後しばらくで上京し、はげしい反戦・反軍川柳を読み続けた。ついに、鶴彬の口を封じるために1937年12月治安維持法違反容疑で逮捕。
逮捕直前の11月15日の『川柳人』に「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」「出征の門標があってがらんどうの小店」「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「胎内の動き知るころ骨がつき」を発表した。これが鶴彬最後の川柳となった。
そこにはコムニスト鶴彬の徹底した戦争批判があった。そして、1938年9月非転向を貫く鶴彬の命を奪ったのである。