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廃琉置県とのたたかい

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廃琉置県とのたたかい
琉球新報社/新垣毅編著の『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』

 9月8日沖縄と政府の話し合いの最終盤を迎えて、菅義偉官房長官は「日本は法治国家だから、取るべき道はしっかり取っていくことに変わりはない」と述べた。民主主義のない「法治国家」は独裁政治であり、ナチスも、天皇制も同じだった。

 9月11日、沖縄県知事の翁長さんはついに「(14日に)辺野古の埋め立て承認を取り消す」と表明した(『琉球新報』号外)。

 琉球新報社/新垣毅編著の『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』を読んでいるところだが、ここ数年間の、とりわけこの1ヶ月間の沖縄と政府の交渉をみると、琉球併合の歴史を彷彿とさせる。

 琉球併合は1872年から79年にかけて、琉球の意志を踏みにじっておこなわれた。台湾併合(1895年)、朝鮮併合(1910年)と同様、天皇制国家の本質が浮き彫りにされている。

 そして、今、140年前と同じことが「わが日本国」によって再現されようとしている。12日、国会前は22000人の人々が沖縄の訴えに応えてたたかいぬかれた。
 以下、『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』から、重要な部分を摘記する。

台湾は無主の島
 1871年宮古住民の船が台風で流され、台湾に漂着した。乗組員69人中54人が殺害されたが、清国(中国)との間では落着しているにもかかわらず、1874年2月、明治政府はむしかえして台湾出兵を閣議決定し、3600人の兵を台湾南端に送り占領した。この時、明治政府は「台湾は無主の島」と主張し、台湾を奪おうとしていた。

小笠原諸島について
 1875年11月、明治政府は小笠原諸島の領有を狙って官吏の派遣を決めた。英国公使パークスと寺島外務卿との会話を見ると、そこには「ほしいからとる」「必要だからとる」という強盗の論理しかない。
パークス「領有の理由は」
寺島「日本に近い」
パークス「理由にならない。近い遠いできまるのなら、琉球島は中国の属地ともいえる」
寺島「10年前琉球にわが官吏を派遣した」
パークス「米国やわが国も官吏を派遣した」
寺島「政府の命令か」
パークス「そうだ」
寺島「最後に派遣したのはわが国だ。近海にある群島をそのままにするのは国のためにならない。最近領有への着手を決めた」

強制収用と軍隊の派遣
 1876年5月、陸軍省は那覇港の近くの真和志間切古波蔵村に、鎮台兵営を設置するために、地主の耕作を禁じ、目印の杭を打った。沖縄における強制的土地収用のはじまりである。9月、琉球における最初の「外国軍(日本軍)」基地(鎮台分営)が完成し、25人の兵士が派遣された。

廃琉(藩)置県
 1879年3月27日、松田道之処分官は随行官9人、内務省官員32人、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴って、首里城に入り、「31日正午までに首里城を立ち退き、熊本鎮台分遣隊に明け渡せ。藩王は東京に移住せよ」という「廃琉(藩)置県」の通達を読み上げた。最初の施策は警察機構の整備であった。

抵抗と不服従
 尚泰王が東京に連行されたが、琉球政府の指導層は「新県政に勤め、給与を得たら、斬首する。反抗し命を落としたら、家族を養う援助をする」という血判誓約書が配布され、抵抗運動が全島に広がった。
 明治政府は大弾圧に乗り出し、両手を縛り、梁に吊し、棒で殴るなど100人余を拷問にかけた。この抵抗は1894年日清戦争まで続いた。

本土の報道
 『朝野新聞』は琉球人を「琉奴」と呼んで差別したが、植木枝盛は「琉球の独立せしむべきを論ず」と主張した。

沖縄植民地政策
 1924年の国税納付額は沖縄485万円、宮崎226万円、鳥取199万円。国費事業は皆無。県庁職員のうち沖縄出身者は25%以下。1890年第1回衆議院議員選挙、沖縄で最初の衆議院議員選挙は1912年。地元住民の分断政策。朝鮮、台湾植民地支配のモデル。

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