メモ/勲章について
今朝(2016年4月29日)の新聞に旭日小綬章を受章したYさんの笑顔があった。何ともやりきれない笑顔である。かつてYさんは硫黄島での遺骨収集について、『父のいる島―硫黄島』という冊子を発行したが、「父はいまだ硫黄島におり、靖国にはいない」というメッセージが込められている。硫黄島で父を奪われ、母の手一つで育てられ、自らの人生をゆがめた天皇(靖国)との非和解性を宣言した冊子であった。
Yさんは石川県議会議員になるまでは、教職員組合の平和教育の中心にあり、映画『第二能登丸』(本瑞昭監督・撮影)の主役を演じていたように記憶している。
日本軍の硫黄島守備兵力は約21,000人であり、Yさんの父はそのうちの1人だった。1945年2月19日に米軍が上陸し、3月26日に終結したが、皇軍将兵20,129人(96%)が戦死あるいは行方不明になり、1033人が戦傷した(厚生労働省)。
1942年6月ミッドウェー海戦敗北、1944年6月マリアナ沖海戦敗北、10月レイテ沖海戦敗北とつづき、1945年初頭には日本にはもはや一寸の勝機もなかった。1945年2月14日、近衛文麿は「最悪なる事態(敗戦)は遺憾ながら最早必至なりと存候」と、戦争の終結を上奏したが、昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」と降伏を拒否した。直後に開始された硫黄島の戦いで、2万人の将兵は無為な死を強制されたが、その責任は天皇にある。
Yさんの父は昭和天皇に殺されたのであり、天皇が謝罪しないかぎり和解はないはずである。にもかかわらず、Yさんは天皇から旭日小綬章(旭日章には①旭日大綬章、②旭日重光章、③旭日中綬章、④旭日小綬章、⑤旭日双光章、⑥旭日単光章があり、上から4番目)をもらって喜んでいるのである。
叙勲を拒否(辞退)した人には、大江健三郎、本島等(元長崎市長)、竹内伊知(元小松市長)、福沢諭吉、宮沢喜一、細川護熙、村山富市、土井たか子、石橋政嗣、大岡昇平、城山三郎、杉村春子などがいる。イチローも国民栄誉賞を辞退している。
また、川柳作家鶴彬は天皇制の暴圧の真っただ中で、「勲章やレールでふくれたドテッ腹」「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」などと、勲章(天皇制)批判を詠んでいる。
今朝(2016年4月29日)の新聞に旭日小綬章を受章したYさんの笑顔があった。何ともやりきれない笑顔である。かつてYさんは硫黄島での遺骨収集について、『父のいる島―硫黄島』という冊子を発行したが、「父はいまだ硫黄島におり、靖国にはいない」というメッセージが込められている。硫黄島で父を奪われ、母の手一つで育てられ、自らの人生をゆがめた天皇(靖国)との非和解性を宣言した冊子であった。
Yさんは石川県議会議員になるまでは、教職員組合の平和教育の中心にあり、映画『第二能登丸』(本瑞昭監督・撮影)の主役を演じていたように記憶している。
日本軍の硫黄島守備兵力は約21,000人であり、Yさんの父はそのうちの1人だった。1945年2月19日に米軍が上陸し、3月26日に終結したが、皇軍将兵20,129人(96%)が戦死あるいは行方不明になり、1033人が戦傷した(厚生労働省)。
1942年6月ミッドウェー海戦敗北、1944年6月マリアナ沖海戦敗北、10月レイテ沖海戦敗北とつづき、1945年初頭には日本にはもはや一寸の勝機もなかった。1945年2月14日、近衛文麿は「最悪なる事態(敗戦)は遺憾ながら最早必至なりと存候」と、戦争の終結を上奏したが、昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」と降伏を拒否した。直後に開始された硫黄島の戦いで、2万人の将兵は無為な死を強制されたが、その責任は天皇にある。
Yさんの父は昭和天皇に殺されたのであり、天皇が謝罪しないかぎり和解はないはずである。にもかかわらず、Yさんは天皇から旭日小綬章(旭日章には①旭日大綬章、②旭日重光章、③旭日中綬章、④旭日小綬章、⑤旭日双光章、⑥旭日単光章があり、上から4番目)をもらって喜んでいるのである。
叙勲を拒否(辞退)した人には、大江健三郎、本島等(元長崎市長)、竹内伊知(元小松市長)、福沢諭吉、宮沢喜一、細川護熙、村山富市、土井たか子、石橋政嗣、大岡昇平、城山三郎、杉村春子などがいる。イチローも国民栄誉賞を辞退している。
また、川柳作家鶴彬は天皇制の暴圧の真っただ中で、「勲章やレールでふくれたドテッ腹」「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」などと、勲章(天皇制)批判を詠んでいる。