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『溶鉱炉の火は消えたり』(5)

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『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』(5)

九 鬨は揚がる
 斯くて、いろいろの小悲喜劇はあつたが、罷工はプログラムどほりに進行した。
 各工場から順次に雪崩出た職工群は、行列を遮ぎらうとする監督連や守衛を××にして、気勢をあげたほかには、別段の故障も、紛擾(ふんじょう)もなく、幾十度となき調練を経た軍隊でもあるかのやうに、隊伍堂々と目的地に進行して行つた。
 八時頃には赤煉瓦の建物前の広場は群衆で埋まつた。二万余の作業服で本事務所は包囲し尽された。此所に集合したのは、全員を集める広場が他にないのと、示威力を発揚する絶好地なのと、四日代表資格を認めないと云つた当局の前に、生きた証拠、二万人の顔をつきつけるためであつた。
 暁からの霙は小雪となつて降り続く。寒風は肌を刺す。当時、製鉄所の人夫は雨中を簑笠で働いてゐたので、沢山の簑が本事務所の前のトロッコに積み込まれてゐた。之を見つけた加藤義雄の命令一下、×××××××××××××。人々は××××××××暖をとる。ある集団で朝飯が始まつた。皆はそれに倣(なら)った。五人、十人と自然に群が出来た。朝出の職工が夜勤で腹の空いてゐる同僚に自分達の中食の弁当を頒(ゎ)けてやつた。
 本事務所正面の玄関の階段に立つて、西田が演説を始めた。降りしきる雪を頭から浴びて立つ彼の顔は蒼白、凄惨。此の異常時に於ける此の男の絶叫。悲壮、痛烈骨を刺される思ひであつたと云ふ。「あの時の西田の演説だけは一生忘れない」と、今も私に述懐する職工は少なくない。引続いて、十数人が入り代わり、立ち替わり、昂奮の極点に登りつめた演説が続いた。生活を叫ぶ者、労働条件の劣悪を罵る者、賃金労働の不合理を論難する者、当局の無誠意を呪ふ男、結束を求め団結を誓ふ者、悲痛、血を吐く叫びが続く。準備せられ、組立てられた他所行の言葉ではない。平常の鬱憤(うっぷん)の爆発だ。胸底からの不平不満が礫(つぶて)となつて叩きつけられるのだ。言々句々、肺腑から迸(ほとばし)り出る血の叫びだ。
 粉雪を浴びて、立ち聴く群衆の昂奮は、刻一刻に高まる。拍手、嵐の如き喊声(かんせい)、怒濤の如き叫喚(きょうかん)。
 急を聞いて駆けつけて警官三十人ばかりも、二百人の守衛・監督も手のつけやうがない。たゞ袖手傍観(しゅうしゅぼうかん)するばかりだ。
 正午前、吉村、広安、鳥居、福住の四代表と書記の山田栄三とが中川次長、竹下工場課長に面会して、前日の嘆願書を要求書として提出した。長官は罷工の第二日目に東京から駆け戻つたが、此の日は留守であつた。折衝三十分余。屋外の大喊声に脅かされて竹下課長の面上、昨日の威容はない。中川次長の顔も当惑、混乱の極を語る。回答期限を当局は四日間、代表者は二日間を主張し、結局代表者の主張が容れられて、二日目の七日午後六時と定めて訣別した。
 代表者の報告。一万五千の大行列は、東門を出、雪をついて春ノ町の豊山公園に引き上げる。演説、指令、結束を誓つて、一と先づ解散。
 一部は工場に残ったが、誰一人働き出す者は勿論ない。働かうにも朝来、重要機関は停止してゐる。三々伍々、群をなして、放歌、高談、鬨を揚げて気勢を煽る。間もなく退散。工場は死の如くに黙然。

一〇 炉は消えたり
 ストライキへのスタートの状況、当局と会見の始末は、四人の伝令によつて本部に居る私に知らせることになつてゐるが、まだ一人も姿を見せぬ。各工場からの引揚げが成功して本事務所前に集合したら、その時、汽笛を鳴らす約束であつた。その汽笛、中央汽罐(鑵)場の大汽笛が、八時頃五六声鳴り響いて、中絶した。「引き揚げは成功したぞ!」私は病み臥してゐる田崎と二人で、万歳を叫んだ。一旦中絶してゐた汽笛は前よりも急速に鳴り出した。
「成功は確実だ。」今度は鳴り熄まぬ。最高潮の強音は、強く、鋭く、長く、全八幡の空に、ビュー、ビューと鳴り響く、突き破る勝利の雄叫(おたけび)が鳴る。
 聞けば、朝鮮人の金泳文が非常汽笛を鳴らし始めた、と見た十数人の守衛が一気に押寄せ、金君を追ひのけて其場を守備した。その時中絶したのである。それを観た百余の職工は、ドツと殺到、守衛連を突き落して汽笛台を××した、金は再び引綱を掴んだ。乱れた髪、喰ひしばつた歯、蒼白の顔、ランランたる目、彼は四十年の恨を二本の手に託して、死んでも放さない。(注:「四十年の恨」とは1875年江華島事件から。1920年当時、全国で30,149人の朝鮮人が働いていた(内務省警保局調査)。)
 此の汽笛は日露戦争に捕獲せられたロシア船に備付けてゐたものだと聞いてゐる。日露戦争後の×××××××××××の青年が此の大ストライキの凱歌を奏する役目に就いたのだ。
 汽笛は確かに成功を語る。然し伝令が見えない。「大ぢやうぶだ」と思ひながら、一抹の不安が残る。
 八時半頃、来合はせてゐた女事務員を「豊山公園に行つて様子を見て来い」と、買い物に出かける態(てい)で出してやる。もう其の時分、此の診療所は十数人の警官に包囲せられてゐるので、私が今出てゆくわけにはゆかない。
 間もなく帰って来た女事務員は「一と筋の煙も立ってゐない。機関車も一台も動いてゐない。トロツコ一つ動いてゐる様子も見えぬ。工場はガラーンとして人つ子一人姿を見せぬ」といふ。
 だが、自分で様子を見ないと安心がならぬので、和服の着流し、雨傘をさして家を出る。四人の巡査が尾行する。
 豊山公園は全工場を大観するのに、此の附近では一番都合のよい小丘である。懐から望遠鏡を取り出して俯瞰(ふかん)する。
 八幡駅を通過する旅人は見るであらう。あの資本主義の典型的縮図たる大工場の偉観壮観を。八幡の街頭、輝ける太陽と澄み渡る青空を望見しうる日は一年一日も有り得ない。墨汁をブチ撒いた様な煙幕、行人の白服は黒点に彩どられ、鼻孔は煤煙の貯蔵庫となる。黒煙の都! 煤煙の街! 轟然として耳を聾する大機関の響音は、血に餓えたる殺人鬼の狂声のやうに耳を劈(さ)く。狂蛇の如く駛走(しそう=速く走る)する機関車、鳴り破る幾十条の汽笛の声、溶炉の搬出を告知する警鐘の響き、声と響きとの乱舞の巷。
 此の塵埃と煤煙と騒音との渦巻く裡に、生不動の姿其のまゝに働き続ける労働者、地獄絵を観るやうな、焔と肉との相撃つ惨憺たる鎖縛(さばく)の労働状姿よ! 最高無比の大××地、それは政府の名に依つて成され、××の××に懸けて××せらるゝ労働××である。
 その日本最大の大工場は今死淵の底に沈みゆきつゝある。女事務員の報告どほり、煙は絶え、音は消え、響(ひびき)は熄(や)んで、幾百棟の建物は幽魂(ゆうこん)の如く冷然と立つて居る。
 八幡市は二十年前の八幡村に帰つてゐる。
「アゝ炉は消えた!」
 無声の叫びが私の咽喉(のど)を裂く。武者震いか、全身がワナワナと打ち震ふ。握りしめた両掌(りょうて)が汗だ。
 生を此の世に享けて二十余年。爾来十年。私に嘗て此の瞬間の如き激情の時はない。誰かゞ傍にゐたら、私は擲り倒したかもしれぬ。
 本事務所は工場や煙突のかげになつてゐて此所からは見えない。が、時々、ワアツといふ力強い喊声が本事務所と思はれるあたりに揚る。何のための喊声か、眼には見えぬ。然し、その声調は断じて敗者の唸(うめ)きではない。勝利者の歓呼である。進撃者の鯨波(ときのこえ)である。×の本城に突貫する××隊の鬨(かちどき)である。
 此の声、此の叫び、終生忘れ得ざる感銘である。男子一生のうち、斯(こ)の声を聞くは、一度か、二度か、将(は)た三度か? 何たる痛快さだ。言葉がない。現(あらわ)す可き言葉も文字も無い。
「スタートは確かだつた。」
「仕事はこれからだ。」
「さあ、根限り、腕限り、ウントやるぞ!」
 私は独語(ひとりご)しつゝ本部に引返した。手も、足も、目も口も、歓喜に戦(おのの)く。

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