12・2~3 「尹奉吉義士殉国85周年日韓学術会議」から学ぶ
12月2・3日に金沢市内で「尹奉吉義士殉国85周年日韓共同学術会議」が開催された。テーマは「尹奉吉義挙と世界平和運動」で、1日目は「反戦平和運動の表象としての尹奉吉義挙」、2日目は「反戦平和運動の過去と現在そして課題」であった。
尹奉吉義挙とは、1932年4月29日、上海でおこなわれた戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げ、多数の日本軍将校らを殺傷し、朝鮮独立運動の根底的な転換点を形成した事件である。この事件から今日的課題を探るという学術会議が日韓人民によって開かれたということ自体を評価しなければならない。
日本、韓国、アメリカの各地から、両日合わせて250人を超える人びと(筆者推計)が集まり、用意した教科書(日韓両国語、293ページ)が足りなくなった。両日の学術会議は各5時間、合計10時間にわたって、8人が報告し、8人のコメンテーターが内容を精査し、それぞれのレポートの完成度を高めた。
すべてについて報告するにはあまりにも膨大な量と内容であり、かいつまんで報告することをお許しいただきたい。また、学術会議の前に、尹奉吉暗葬地(金沢市)と鶴彬生誕の地(かほく市)のフィールドワークもおこなわれた。
レジスタンスは権利であり、義務である
トップバッターは「尹奉吉共の会」代表の田村光彰さんであり、レポートのテーマは「世界史的な抵抗運動からみた尹奉吉義挙」である。このレポートが2日間を通して最も重要な内容を提起した。
田村さんはドイツファシズムすなわちレジスタンスの研究者であり、その視点から尹奉吉の行動をレジスタンスとして位置づけている。では、レジスタンスとは何か。
田村さんは、ドイツ・ブレーメン州憲法19条の「人権が公権力により憲法に違反して侵害される場合は、各人の抵抗は権利であり義務である」を引用し、民衆が暴力的抵抗に訴えるかどうかは、公権力が他の救済手段を保障するか否かという条件にかかわる。暴力的抵抗それ自体を状況から切り離して論ずることは出来ないと提起し、1930年代の尹奉吉が置かれた時代的条件から判断すべきであると提起した。
すなわち、1930年代の日帝支配下の植民地朝鮮には憲法も議会もなく、朝鮮総督府の暴力(治安維持法など)が支配していた。田村さんはこのような条件下では、朝鮮人にとっては、「武力闘争を含む占領軍に打撃を与えそうなあらゆる活動」が権利であり、義務であると提起し、尹奉吉のたたかいをレジスタンスとして全面的に支持した。
それは85年前の過去の話ではなく、現代に生きるわれわれにとっても、憲法と議会を無視し、国民に批判と抵抗の余地を保障しない公権力にたいしては、レジスタンス=「あらゆる活動(ドイツ軍施設の破壊、列車の爆破、親独派へのたたかい、ストライキ、ナチス高級将校の暗殺など)」をやむを得ない方法としてではなく、正義と公正を実現するたたかいとして積極的に捉えるべきであると締めくくった。
日本人民の責任
2日目の最後は徐勝(ソスン)さんが「東アジア平和運動と韓国民主化運動の現在と課題」で締めくくられた。以下は徐勝さんの報告の要約である(文責:当会)。
平和とは「すべての人が十全に生を全うすることである」「暴力と戦争がなく、人の生命と安全が守られている状態」であり、平和運動とは反戦と国家暴力反対運動に集約され、それは第1次世界大戦時に「侵略戦争を内戦に」のスローガンでたたかった反戦運動から始まった。
日本の平和運動は加害者(日帝の)責任を追及しない運動であり、加害者が被害者であるかのごとき倒錯がおこなわれ、イノセント(無邪気)な戦後日本の平和運動が形成されたと、日本の平和運動の欠陥を指摘している。
西洋の平和運動は戦争の惨禍にたいする警鐘や博愛主義であるが、東アジアでは、「すべてが自主独立出来ることが平和である」と主張した安重根や、尹奉吉、義烈団、東方無産者同盟、抗日聯軍(満州)など朝鮮人、中国人、ベトナム人などの反帝民族解放闘争としてたたかわれた。それが、延安における日本人民反戦同盟のような侵略者の側からの反戦平和運動を引き出した。―この点が徐勝さんの日本人参加者にいちばん訴えたかったことではないだろうか。
1960年代から1980年光州虐殺事件までの総括として、韓国人民の流血を恐れない不屈のたたかい(反軍部、反国家権力、正義の回復)をとおして、金大中、盧武鉉の改革政権を誕生させ、南北和解・統一政策へとむかった。そして昨年延べ1700万市民が起ち上がったキャンドル行動は政権交代を成し遂げたキャンドル革命とまで評価されている。
その核心は民主主義の根幹である国民主権ないしは主権意識が体験的に、思想的に確認され、参加者たちの内面的価値として定着したことにある。だが、政権についた文在寅は公約(THAAD批判、ピョンヤン訪問など)を反故にし、アメリカの圧力に屈している。
いま、韓国政府のなすべきことは米日の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)いじめに扈従(こじゅう)することではなく、北朝鮮を同族として対し、米日による脅迫・軍事訓練を即時中止させ、対話を開始することである。そこで生まれた北朝鮮との信頼関係を元手に本格的な交流・和解・協力のプロセスをすすめるべきである。
最後に徐勝さんは、「東アジアの平和の根本は帝国主義の排撃、帝国主義支配に起因するすべての負の遺産・負の記憶の清算にある。東アジア諸民族は近代史の原点に立ち返り、反帝国主義の平和連帯をすすめよう」と提起した。徐勝さんの視線は会場を埋めつくす日本人に向けられていた。そのメッセージは、日韓連帯の力で日本帝国主義を打倒することである。
鶴彬から何を学ぶのか
他の6人の報告も、例外なくわたしの心を揺さぶり、知的好奇心をくすぐった。
金沢での尹奉吉の行動は未だに闇のなかにある。大阪から金沢への経路(森本駅か西金沢駅か)、処刑前日の拘禁場所(金沢城)、処刑地(三小牛山)、暗葬地(野田山墓地)、遺体発掘状況などの調査を進めてきた筆者にとって、金祥起(忠南大学教授)さんの研究発表は新たな調査の方向に示唆を与えてくれた。
今回の学術会議のもうひとつのテーマは鶴彬の「半島の生まれ」7句(「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」など)を媒介にして、尹奉吉との共通性を探ることであった。勝村誠さん(立命館大学)の報告は川柳の句評に重点が置かれていて、鶴彬の人生に迫ることが希薄であった。
すなわち、徴兵されるや、世界で最も凶暴な帝国主義軍隊のなかで、反軍工作を開始した鶴彬の知性と感性が川柳の根幹を成しているのであり、ここにこそ焦点をあてるべきだろう。単なる川柳作家ではなく、コムニスト鶴彬にこそ真価があるのではないだろうか。
尹奉吉と鶴彬の共通項に着目し、日韓人民は尹奉吉のように、鶴彬のように、今の時代の生き方を追求することが今回の学術会議の結論であった。
わたしの決意
閉会後、5年ぶりに再会した金祥起さんに誘われて、食事会にも参加することが出来た。ふたりの間でまだ解決出来ていない「処刑前夜に尹奉吉が拘禁された場所の特定(金沢城内)」についての打合せが残っていたからだ。隣り合わせに席をとり、尹素英さん(韓国独立運動史研究所)の通訳で、食事をしながら、今後の調査課題を確認した。
食事会は、お酒がまわるにつれてにぎやかになり、立ち上がり、歌い、踊り、最後は1980年光州民衆蜂起を称える大合唱で幕を下ろした。わたしの間近には朴正煕独裁政権とたたかいぬいた徐勝さんがおり、李佑宰さんがおり、アメリカに亡命した闘士がおり、韓国の民主化運動の息吹をじかに感じる場だった。かつては書物を通してしか知ることが出来なかった人たちと、同じ部屋の空気を吸い、手を握り合って、未来に向かう意志を固める機会を与えられ、わたしの決意はさらに硬くなっていった。
12月2・3日に金沢市内で「尹奉吉義士殉国85周年日韓共同学術会議」が開催された。テーマは「尹奉吉義挙と世界平和運動」で、1日目は「反戦平和運動の表象としての尹奉吉義挙」、2日目は「反戦平和運動の過去と現在そして課題」であった。
尹奉吉義挙とは、1932年4月29日、上海でおこなわれた戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げ、多数の日本軍将校らを殺傷し、朝鮮独立運動の根底的な転換点を形成した事件である。この事件から今日的課題を探るという学術会議が日韓人民によって開かれたということ自体を評価しなければならない。
日本、韓国、アメリカの各地から、両日合わせて250人を超える人びと(筆者推計)が集まり、用意した教科書(日韓両国語、293ページ)が足りなくなった。両日の学術会議は各5時間、合計10時間にわたって、8人が報告し、8人のコメンテーターが内容を精査し、それぞれのレポートの完成度を高めた。
すべてについて報告するにはあまりにも膨大な量と内容であり、かいつまんで報告することをお許しいただきたい。また、学術会議の前に、尹奉吉暗葬地(金沢市)と鶴彬生誕の地(かほく市)のフィールドワークもおこなわれた。
レジスタンスは権利であり、義務である
トップバッターは「尹奉吉共の会」代表の田村光彰さんであり、レポートのテーマは「世界史的な抵抗運動からみた尹奉吉義挙」である。このレポートが2日間を通して最も重要な内容を提起した。
田村さんはドイツファシズムすなわちレジスタンスの研究者であり、その視点から尹奉吉の行動をレジスタンスとして位置づけている。では、レジスタンスとは何か。
田村さんは、ドイツ・ブレーメン州憲法19条の「人権が公権力により憲法に違反して侵害される場合は、各人の抵抗は権利であり義務である」を引用し、民衆が暴力的抵抗に訴えるかどうかは、公権力が他の救済手段を保障するか否かという条件にかかわる。暴力的抵抗それ自体を状況から切り離して論ずることは出来ないと提起し、1930年代の尹奉吉が置かれた時代的条件から判断すべきであると提起した。
すなわち、1930年代の日帝支配下の植民地朝鮮には憲法も議会もなく、朝鮮総督府の暴力(治安維持法など)が支配していた。田村さんはこのような条件下では、朝鮮人にとっては、「武力闘争を含む占領軍に打撃を与えそうなあらゆる活動」が権利であり、義務であると提起し、尹奉吉のたたかいをレジスタンスとして全面的に支持した。
それは85年前の過去の話ではなく、現代に生きるわれわれにとっても、憲法と議会を無視し、国民に批判と抵抗の余地を保障しない公権力にたいしては、レジスタンス=「あらゆる活動(ドイツ軍施設の破壊、列車の爆破、親独派へのたたかい、ストライキ、ナチス高級将校の暗殺など)」をやむを得ない方法としてではなく、正義と公正を実現するたたかいとして積極的に捉えるべきであると締めくくった。
日本人民の責任
2日目の最後は徐勝(ソスン)さんが「東アジア平和運動と韓国民主化運動の現在と課題」で締めくくられた。以下は徐勝さんの報告の要約である(文責:当会)。
平和とは「すべての人が十全に生を全うすることである」「暴力と戦争がなく、人の生命と安全が守られている状態」であり、平和運動とは反戦と国家暴力反対運動に集約され、それは第1次世界大戦時に「侵略戦争を内戦に」のスローガンでたたかった反戦運動から始まった。
日本の平和運動は加害者(日帝の)責任を追及しない運動であり、加害者が被害者であるかのごとき倒錯がおこなわれ、イノセント(無邪気)な戦後日本の平和運動が形成されたと、日本の平和運動の欠陥を指摘している。
西洋の平和運動は戦争の惨禍にたいする警鐘や博愛主義であるが、東アジアでは、「すべてが自主独立出来ることが平和である」と主張した安重根や、尹奉吉、義烈団、東方無産者同盟、抗日聯軍(満州)など朝鮮人、中国人、ベトナム人などの反帝民族解放闘争としてたたかわれた。それが、延安における日本人民反戦同盟のような侵略者の側からの反戦平和運動を引き出した。―この点が徐勝さんの日本人参加者にいちばん訴えたかったことではないだろうか。
1960年代から1980年光州虐殺事件までの総括として、韓国人民の流血を恐れない不屈のたたかい(反軍部、反国家権力、正義の回復)をとおして、金大中、盧武鉉の改革政権を誕生させ、南北和解・統一政策へとむかった。そして昨年延べ1700万市民が起ち上がったキャンドル行動は政権交代を成し遂げたキャンドル革命とまで評価されている。
その核心は民主主義の根幹である国民主権ないしは主権意識が体験的に、思想的に確認され、参加者たちの内面的価値として定着したことにある。だが、政権についた文在寅は公約(THAAD批判、ピョンヤン訪問など)を反故にし、アメリカの圧力に屈している。
いま、韓国政府のなすべきことは米日の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)いじめに扈従(こじゅう)することではなく、北朝鮮を同族として対し、米日による脅迫・軍事訓練を即時中止させ、対話を開始することである。そこで生まれた北朝鮮との信頼関係を元手に本格的な交流・和解・協力のプロセスをすすめるべきである。
最後に徐勝さんは、「東アジアの平和の根本は帝国主義の排撃、帝国主義支配に起因するすべての負の遺産・負の記憶の清算にある。東アジア諸民族は近代史の原点に立ち返り、反帝国主義の平和連帯をすすめよう」と提起した。徐勝さんの視線は会場を埋めつくす日本人に向けられていた。そのメッセージは、日韓連帯の力で日本帝国主義を打倒することである。
鶴彬から何を学ぶのか
他の6人の報告も、例外なくわたしの心を揺さぶり、知的好奇心をくすぐった。
金沢での尹奉吉の行動は未だに闇のなかにある。大阪から金沢への経路(森本駅か西金沢駅か)、処刑前日の拘禁場所(金沢城)、処刑地(三小牛山)、暗葬地(野田山墓地)、遺体発掘状況などの調査を進めてきた筆者にとって、金祥起(忠南大学教授)さんの研究発表は新たな調査の方向に示唆を与えてくれた。
今回の学術会議のもうひとつのテーマは鶴彬の「半島の生まれ」7句(「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」など)を媒介にして、尹奉吉との共通性を探ることであった。勝村誠さん(立命館大学)の報告は川柳の句評に重点が置かれていて、鶴彬の人生に迫ることが希薄であった。
すなわち、徴兵されるや、世界で最も凶暴な帝国主義軍隊のなかで、反軍工作を開始した鶴彬の知性と感性が川柳の根幹を成しているのであり、ここにこそ焦点をあてるべきだろう。単なる川柳作家ではなく、コムニスト鶴彬にこそ真価があるのではないだろうか。
尹奉吉と鶴彬の共通項に着目し、日韓人民は尹奉吉のように、鶴彬のように、今の時代の生き方を追求することが今回の学術会議の結論であった。
わたしの決意
閉会後、5年ぶりに再会した金祥起さんに誘われて、食事会にも参加することが出来た。ふたりの間でまだ解決出来ていない「処刑前夜に尹奉吉が拘禁された場所の特定(金沢城内)」についての打合せが残っていたからだ。隣り合わせに席をとり、尹素英さん(韓国独立運動史研究所)の通訳で、食事をしながら、今後の調査課題を確認した。
食事会は、お酒がまわるにつれてにぎやかになり、立ち上がり、歌い、踊り、最後は1980年光州民衆蜂起を称える大合唱で幕を下ろした。わたしの間近には朴正煕独裁政権とたたかいぬいた徐勝さんがおり、李佑宰さんがおり、アメリカに亡命した闘士がおり、韓国の民主化運動の息吹をじかに感じる場だった。かつては書物を通してしか知ることが出来なかった人たちと、同じ部屋の空気を吸い、手を握り合って、未来に向かう意志を固める機会を与えられ、わたしの決意はさらに硬くなっていった。