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Channel: アジアと小松
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20180802 「NHK 新世代の資本主義論」考

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「NHK 新世代の資本主義論」考

 映画『マルクス・エンゲルス』を観てきた。『ライン新聞』時代から『共産党宣言』までの初期マルクスをある程度読んでいないと、理解できない難解な内容だった。「労働者階級によるたたかいの現場が描かれていない」という映評もあったが、私が20歳代のときなら、「私が歴史に書き込もう」と粋がったことだろう。

 この映画が2017年ドイツで制作され、金沢でも上映開始前には数十人の老若男女が列を作り、アメリカでも「民主社会主義者(DSA)」(NHKでは社会民主主義者の会)というマルクス主義政党が勢いづいており、NHKは「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を放映し、人民の怒りを体制内に収斂しようという意図があるにしても、マルクス主義を俎上にのせねばならない時代が始まったということではないだろうか。

テーマは格差を生む現代資本主義
 NHKのこの番組は1987年生まれ(31歳)のマルクス経済学者・Aさん、1981年生まれ(37歳)の歴史学者・Bさん、1985年生まれ(33歳)の社会学者・Dさん、987年生まれ(31歳)の起業家・Cさんによる討論を編集した番組である。

 冒頭のナレーションでは「…欲望の資本主義…広がる分断―8人の大金持ち(総資産4268億ドル)と世界人口の半分(36億人)が持つ資産とほぼ同じ。持つもの、持たざるものを引き裂く欲望の資本主義」と流され、分断と格差をもたらしている現代資本主義をテーマにしている。
 この番組を寸評し、現代日本資本主義(論)のありようを確認しておきたい。

「共感ビジネス」とは?
 Dさんによる「搾取とは」という問いに、Aさんは「搾取というのは支払われている以上に、労働者が価値を生み出している。利潤がどこから来ているかというと、不払い労働部分から来ている」と回答し、議論が始まった。せっかく、資本と労働の関係を措定しながら、この搾取(映画ではマルクスは「泥棒」と表現していた)が不当なのか、正当なのか、奪いかえすにはどうしたらいいのかについての議論に進まなかった。

 Dさんが「資本主義をまわすためには、労働者を搾取することが必要か?」と質問しても、Aさんは「(資本主義では)特許とか、資金(不足)の関係で(イノベーションのチャンスから)遮断される」と答えて、最も肝心な労働者からの不当な搾取(泥棒)で成り立っている資本主義を正面から批判することを避け、資本主義におけるイノベーションの限界について語るだけだった。

 この番組で、「共感ビジネス」(注1)という言葉を始めて知ることになった。Cさんはお金儲けが目的ではないかのように話し、それを受けてDさんは「(共感ビジネス)は結果的に誰かの何かを搾取しているのでは?」と疑問を呈したにもかかららず、Aさんは「共感ビジネス」を「あからさまな搾取ではなく、…新しい富を産む形態」と、搾取の問題を曖昧化した。Dさんが「あからさまな搾取とハッピーな搾取のどっちがいいんですか」と畳みかけても、Aさんは「同じだ」とは断言せず、「共感ビジネス」を容認しているようだ。

 注1:「共感ビジネス」とは、Cさんの説明によれば「自分は昔引きこもりで外に行くことはできなかったけれども、アイドルを見て救われたから、今度はアイドル側にまわって、救う側にまわっていくんだというストーリーに共感して、そこにお金が投じられる」という。

 Bさんは300年前のイギリスでも、「新鮮な水を飲めるようにします。そうすると生活の質も上がりますよ」などと、関心とか興味を引いて、投資を誘っていたから、「共感ビジネス」というのは今に始まったことではなく、昔からの金集めの手法だと説明し、「共感ビジネス」を「新しい富を産む形態」と持ち上げるAさんを批判した。

 Cさんはお金儲けに後ろめたさがあるようで、自らの「起業」を私利私欲が目的ではなく、欲求階層(注2)をのぼっているだけで、世のなかにたいして社会的価値を与えたときに返ってくる「共感」「感謝」を得た幸せの効用の方が大きいと主張しているが、「起業」の過程で搾取(泥棒)があり、富が蓄積されていることに無自覚なようだ。

 注2:人間の欲求は「生理」「安全」「愛情と所属」「自尊と承認」「自己実現」という5つの階層構造を持っており、前の段階の欲求が充足されて初めて、次の階層の欲求の充足段階へと到達することができる。

「シェアリングエコノミー」について
 Dさんから「資本主義を乗り越えることができるか?」の問いに、Bさんは①オートメーション化による労働時間の減少、②情報とか知のフリー共有、③シェアリングエコノミー(注3)によって、資本主義の根本原理である私的所有とか、価値を追求するという原理が多少は揺らぐが、「資本主義を超えた、社会主義ではなく、ポストキャピタリズム(ポスト資本主義)に行ける」と答えている。Bさんはポストキャピタリズムを社会主義ではないと明言しているが、では一体、ポストキャピタリズムとは何なのか?

 注3:物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。

 Aさんによれば、オープンソース(注4)、クラウドファンディング(注5)による、水平的に分散化した新しい社会的起業を「新しい資本主義のあり方」であると主張しているが、ここでもBさんは300年前にもクラウドファンディングがあり、新しいものとはいえないと反論している。

 注4:ソフトウェアの設計図に当たるソースコードを無償で公開して、誰でも自由にそのソフトウェアを改良して、再配布できるようにすること

 注5:ある目的に向け、賛同者を募り、資金を集める仕組み

 これにたいして、Aさんは現代資本主義は300年前よりもグローバル化し、技術が発達し、速度が違うから従来の「資本主義と違う原理」が出て来ると主張しているが、この「資本主義とは違う原理」については説明していない。グローバリゼーション、イノベーション、シェアリングエコノミーなどに期待しているのだろうが、これだって資本主義の枠内の話しである。

アソシエーション論
 トマ・ピケティは、r(資本の収益率=株式、預金、不動産による収益)がg(労働による所得)より大きいなら、資本家はどんどん大金持ちになって、格差が広がっていくが、課税再配分して、rを抑えればいいと主張している。これにたいして、イギリスの労働党党首・ジェレミー・コービンの「rを労働者自身が取ってしまえばいい」という主張を受けて、Aさんは「協同組合を作って、自分たちでrを管理すればこの問題(格差問題)を解決出来る」と主張した。

 課税再配分など論外だが、「rの労働者管理」も資本主義を前提にした改良案でしかなく、革命の彼岸化以外の何ものでもない。

 Aさんは、資本主義以前の社会では、人々の生活は「共同体的」に相互保障されていたが、資本主義社会では「共同体」が解体され、あらためて自覚的にアソシエーションを再形成しなければならないと主張している。

 田端稔さんの『マルクスとアソシエーション』によれば、「アソシエーション」とは、<諸個人が自由意志にもとづいて、共同の目的を実現するために、力や財を結合するかたちで、「社会」を作る行為及びその「社会」>である。わかりやすくいえば、<生産手段の共有による協同組合的社会>のことであろうが、資本主義的生産関係のもとではごく部分的に、例外的にしか成立しない。プロレタリアート人民による革命を経て、人民の力によって資本を規制し(過渡期)、「アソシエーション社会=共産主義社会」への道を歩み始める必要があるが、最近の論調は革命を経ずに、したがって人民の力に拠らず、資本の運動として、次第に、自動的に、「アソシエーション社会」に移行出来るかのような俗論(資本への屈服)が、革命的左翼のなかにもはびこっている。

 またAさんは、情報、知、モノのシェアを進めて、資本主義的な経済成長にとどまらない「成長モデル」を志向すれば、ポストキャピタリズムへの移行が可能としているが、ポストキャピタリズムという言葉だけが踊っている。

イノベーションについて
 Bさんは「競争原理を経由しないで、協力とか団結とかで、本当にイノベーションが可能なのか?」と問い、Aさんは「なぜ競争でないとイノベーションが起きないと思うのですか?」と問い返している。Cさんは「敵がいた方が人間の底力を出せるからでしょう」と、全員がイノベーション万能主義に侵されているようだ。

 Bさんは、1年契約とか6カ月契約で、職が安定していないほうが、「切迫感」から、アイデアを先鋭化させることができたという個人的な経験で、論証したかのような気分に浸っているようだが、それならBさんは安定的な東京大学講師の地位を放棄して、短期雇用の契約研究員になればいいんだ。

 Aさんは、資本主義はたえずイノベーションしなければ、新しい商品が出なくなって、資本主義が行き詰まるが、オープンソースで、フリーにシェアしてゆけば、できる製品も安くなるが利潤は上げられなくなる。利潤を上げるためには、独占しなければならないと、資本主義の矛盾と限界を語り、問題を解決するためには協働しなければならないと結論づけてはいるが、その「協働社会」への道筋を語ることはしない。

<モノ→時間→精神>の収奪
 Cさんは50年前からのビジネスの変化を、「可処分所得」の収奪から、「可処分時間」の収奪に移り、さらに「マインドエコノミー(「可処分精神」の収奪)」へと移行しつつあると主張している。それが、エンターテインメント、ライブ、映画に顕著に表れているという。

 そして、「可処分精神を奪う企業体は永続的に繁栄する。その究極的な形は宗教である」という、Cさんの発言を受けて、Dさんは「宗教と商品が合体して、国家社会主義的なファシズムになるのじゃないか」と、Aさんは「プラットホームがフェイスブックだけ、グーグルだけになったら危うい」と、資本による精神・意識の全一支配に危機感を吐露している。

 Cさんが守備範囲にしているエンタメ業界が労働者の意識・精神を支配(洗脳)し、遂には睡眠時間さえその収奪対象にしはじめていると言う。食欲、性欲、睡眠は人間の内的な欲求であり、エンタメ業界が睡眠時間を奪うことは、人間の命(労働力)そのものの破壊に繋がる危険性があるが、資本の自己運動は労働力の再生産過程さえ食い物にして肥え太ろうとする怪物だ。

 「可処分精神」の収奪というCさんの指摘は、現代資本主義の行き着く先を暗示しているようだ。1日の労働で疲れ果てた肉体と精神を癒やすためのエンタメが、実は肉体と精神の崩壊へと導く悪魔のささやきであり、そこに資本が投下され、資本が増殖し続けるという構図がそこにある。そして、エンタメを支えているのがイノベーションなのではないか。

 ここで、Cさんは「時間は増やせない」と言っているが、これはは誤りであろう。金沢―東京間を鈍行列車ではなく、新幹線で移動することによって、有効活用時間を「増やす」ことができる。また、労働者を雇用し、働かせることによって、資本家は支配下の労働者の時間を自分のために使うことができる。

環境問題について 
 Aさんは、大量消費の社会が資本主義を発展させたが、自然は資本主義の理論とかけ離れたもので動いていて、温暖化などの側面を考慮に入れないと、生きていくこと自体が危ぶまれてくる、とエコロジー問題について触れている。これにたいして、Dさんは資本主義体制下で生きる人はそんなバカじゃないから二酸化炭素の排出量を減らし、折り合いをつけることができると思いますが、と資本主義下での解決可能性に言及している。

 ここで、環境問題について議論が始まるかと思いきや、突然話題を変化させ、編集に恣意的なものを感じるが、その後Bさんも、自然環境について触れるが、ビジネスチャンスの問題としてしか提案していない。

誰が答えるべきなのか?
 以上、1時間の番組を観て、現代日本資本主義がかかえている具体的な問題に接することができた。それは、映画『マルクスとエンゲルス』の最初のシーン「森で枯れ枝を拾う人々」と重なっている。古くて、新しい問題であることを感じた。

 学生の感想を紹介すると、「(労働者は)長時間労働とか、低賃金で働いています。…不安であり、そういう点についてもっと話しを聞きたかった」と話しているが、やがて資本が支配する戦場に出て行く学生にとって、長時間労働、低賃金、過労死などと資本主義の本質との関係を鮮明化させることが求められていたが、学者たちはその期待には応えなかった。

 1時間の番組を通して、「戦争」という言葉がひとことも発せられず、収奪が平和的におこなわれているかのような錯覚を与えている。出席者の誰しもがイノベーションこそ未来の希望と見ているようだが、資本主義下のイノベーションで、武器が飛躍的に発達し、その結果たくさんの人々が殺され、今後も資本主義下ではその危機は解消しないだろう。

 回答は、学者ではなく、労働者人民自身が準備しなければならないのだろう。


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