『尖閣諸島と沖縄(時代に翻弄される島の歴史と自然)』
2013年6月23日に、講演集『尖閣諸島と沖縄(時代に翻弄される島の歴史と自然)』が沖縄大学地域研究所から発行されました。4部構成(?琉球と中国、琉球と日本、?近代の洗礼を受ける沖縄の漁業、?日本・中国・台湾、アホウドリの住む島で)であり、ここでは第1部に収録されている西里喜行さんの「中琉日関係史から見た尖閣諸島」を要約します。
?中琉関係について
500年続いた中琉関係の基本的な要素は冊封と進貢でした。冊封とは中国王朝の皇帝が琉球国王を任命することで、明代には15回、清代には8回おこなわれました。これに対して、琉球の側から中国に毎年のように進貢船(+接貢船)を派遣しました。
福州〜那覇を往来する柵封使船も進貢船・接貢船も尖閣諸島を航路上の目標として利用していました。
?日(薩)琉関係について
1609年に薩摩が琉球に侵攻し、夫馬進さんは「琉球併合」という論を立てていますが、薩摩の琉球侵攻後も、中琉関係は継続していますので、琉球は一国家として日清の両属的な位置にあったのだと思います。
近世期の琉球は薩摩に年頭使を送り、幕府に対しては謝恩使・慶賀使を送っています。江戸時代は幕藩体制を支柱として、石高制、兵農分離、鎖国制(海禁政策)をとっています。対外窓口として?長崎、?対馬、?松前、?薩摩の4ヵ所があり、琉球は外国と位置づけられていました。安良城さんも近世琉球を「幕藩体制の中の異国」と規定しています。他方、豊見山さんは「二重従属国・二重朝貢国」と規定していますが、いずれにしても、琉球処分以前の琉球王国はひとつの国家として認知されていました。
?内外史籍の記載する尖閣諸島について
最も早い時期の冊封使録に陳侃が書いた『使琉球録』があり、福州〜小琉球(台湾)〜釣魚嶼〜黄毛嶼(久場島)〜赤嶼(大正島・久米赤島)の経路を中国名で記しています。しかし最後の冊封使趙新は島々を琉球名で記しています。
琉球側の資料(『中山世鑑』『指南広義』)を見ると、いずれの島も中国名で記され、更に久米山が「琉球西南界の鎮山」と書かれ、『中山世譜』には琉球36島の中に釣魚島を含めていません。
日本側資料では、新井白石の『南島志』には琉球36島中に釣魚島、尖閣諸島は含まれていません。林子平の『三国通覧図説』では黄尾山、赤尾山、釣魚嶼が清国海域と同じ色で彩色されています。
とはいえ、このような史籍における名称や記録は直接的に領土や領有を意味するものではありません。領土・領有概念は近代以降の歴史的所産であり、中国側も琉球側もこれらの諸島の領有意識を持っていませんでした。
?琉球処分・琉球分割条約について
1840年代にフランスの宣教師が来琉し、条約締結を要求しました。この事態に対して、徳川斉昭は琉球の即時併合・対仏琉球血戦論を提唱し、五代秀尭は『琉球秘策』で、?戦(戦争)、?絶(貿易謝絶)、?和(開国)の選択肢を示し、開国を提唱しました。
1850年代には「安政の琉球処分」といわれる琉球に対する内政干渉が始まりますが、大部分の琉球指導層は日清の両属を国是とし、日本との併合統一(薩摩の後ろ盾必要論)を主張する潮流は牧志朝忠ぐらいでした。
1879年4月に「琉球処分」が強行され、琉球国が消滅しましたが、国際的認知はありませんでした。1880年の日清会談で、宮古・八重山を清国に譲渡するという提案がおこなわれましたが、清国は「琉球は清国の一部ではない、日本の一部でもない」として、突っぱねましたが、10月には、琉球分割条約に合意・締結しましたが、亡命琉球人の反対請願や抗議自殺があり、ついに調印に至りませんでした。
釣魚台(尖閣諸島)問題を理解するために、ぜひとも読んでいただきたい本です。
2013年6月23日に、講演集『尖閣諸島と沖縄(時代に翻弄される島の歴史と自然)』が沖縄大学地域研究所から発行されました。4部構成(?琉球と中国、琉球と日本、?近代の洗礼を受ける沖縄の漁業、?日本・中国・台湾、アホウドリの住む島で)であり、ここでは第1部に収録されている西里喜行さんの「中琉日関係史から見た尖閣諸島」を要約します。
?中琉関係について
500年続いた中琉関係の基本的な要素は冊封と進貢でした。冊封とは中国王朝の皇帝が琉球国王を任命することで、明代には15回、清代には8回おこなわれました。これに対して、琉球の側から中国に毎年のように進貢船(+接貢船)を派遣しました。
福州〜那覇を往来する柵封使船も進貢船・接貢船も尖閣諸島を航路上の目標として利用していました。
?日(薩)琉関係について
1609年に薩摩が琉球に侵攻し、夫馬進さんは「琉球併合」という論を立てていますが、薩摩の琉球侵攻後も、中琉関係は継続していますので、琉球は一国家として日清の両属的な位置にあったのだと思います。
近世期の琉球は薩摩に年頭使を送り、幕府に対しては謝恩使・慶賀使を送っています。江戸時代は幕藩体制を支柱として、石高制、兵農分離、鎖国制(海禁政策)をとっています。対外窓口として?長崎、?対馬、?松前、?薩摩の4ヵ所があり、琉球は外国と位置づけられていました。安良城さんも近世琉球を「幕藩体制の中の異国」と規定しています。他方、豊見山さんは「二重従属国・二重朝貢国」と規定していますが、いずれにしても、琉球処分以前の琉球王国はひとつの国家として認知されていました。
?内外史籍の記載する尖閣諸島について
最も早い時期の冊封使録に陳侃が書いた『使琉球録』があり、福州〜小琉球(台湾)〜釣魚嶼〜黄毛嶼(久場島)〜赤嶼(大正島・久米赤島)の経路を中国名で記しています。しかし最後の冊封使趙新は島々を琉球名で記しています。
琉球側の資料(『中山世鑑』『指南広義』)を見ると、いずれの島も中国名で記され、更に久米山が「琉球西南界の鎮山」と書かれ、『中山世譜』には琉球36島の中に釣魚島を含めていません。
日本側資料では、新井白石の『南島志』には琉球36島中に釣魚島、尖閣諸島は含まれていません。林子平の『三国通覧図説』では黄尾山、赤尾山、釣魚嶼が清国海域と同じ色で彩色されています。
とはいえ、このような史籍における名称や記録は直接的に領土や領有を意味するものではありません。領土・領有概念は近代以降の歴史的所産であり、中国側も琉球側もこれらの諸島の領有意識を持っていませんでした。
?琉球処分・琉球分割条約について
1840年代にフランスの宣教師が来琉し、条約締結を要求しました。この事態に対して、徳川斉昭は琉球の即時併合・対仏琉球血戦論を提唱し、五代秀尭は『琉球秘策』で、?戦(戦争)、?絶(貿易謝絶)、?和(開国)の選択肢を示し、開国を提唱しました。
1850年代には「安政の琉球処分」といわれる琉球に対する内政干渉が始まりますが、大部分の琉球指導層は日清の両属を国是とし、日本との併合統一(薩摩の後ろ盾必要論)を主張する潮流は牧志朝忠ぐらいでした。
1879年4月に「琉球処分」が強行され、琉球国が消滅しましたが、国際的認知はありませんでした。1880年の日清会談で、宮古・八重山を清国に譲渡するという提案がおこなわれましたが、清国は「琉球は清国の一部ではない、日本の一部でもない」として、突っぱねましたが、10月には、琉球分割条約に合意・締結しましたが、亡命琉球人の反対請願や抗議自殺があり、ついに調印に至りませんでした。
釣魚台(尖閣諸島)問題を理解するために、ぜひとも読んでいただきたい本です。