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20190130(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(3)

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(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(3) 
2019年1月                            (写真は米騒動の結集場所となった宇多須神社)
 
<4>島田清次郎の階級意識
①宗教(暁烏敏)との訣別
 1915年(16歳)ごろ、島清は明達寺(暁烏敏)に通っていた。『死を超ゆる』の掲載(1917年)を中外日報に紹介してくれたのも暁烏敏であった。しかし、1916年から19年にかけての日記・創作メモ『早春』によれば、島清は激しく宗教批判をしている。

 いくつか引用しよう。<(175P)彼の宗教は…百姓達を、その惨めな状態にそのまま安住せしむることなれば、…封建時代の政策でしかない。私はかかる宗教を否定する。百姓よ、現実に眼をひらけ、…革命せよ、反抗せよ>、<(186P)おんみらが宗教家か、…おんみらは悪魔だ、外道だ、利己主義者だ、…百姓達を永遠に「ぐう」の音も出さすまいとする奴らだ>、<(272P)真の宗教家は常に永遠の命の泉より枯渇しがちなこれらの人たちの根を養はねばならぬ。…真の宗教家は常に心理の上より…労働者が抱く純粋なる人間的欲求を地上に実現せしめるやう努むるべきである><(303P)私は今日の既成宗教の無力空虚を思うとうれしくてならない。ああ、廃るものは速やかに廃るがよい! 亡びるものは速やかに亡びるがよい! 新芽はすでに土を破ろうとしている>。

 島清が暁烏敏と訣別したのは、1917年ごろではないか。その背景には、島清の極限的な貧困があり、宗教が何の力にもならなかったこと、加えて大阪や東京の社会主義者との接触から来るのだろう。

 『早春』で島清は自らの貧困について、「(51P)米一粒ない未来」、「(70P)自分にパンを与えよ。その時は既に魂は大部分救はれてゐる」、「(73P)御馳走―鯖の焼いたもの、芋のうま煮、古たくあんの醤油煮。己にとっては珍しいごちさうである」などと書き、その出口を宗教ではなく革命に見出しつつあったのではないか。

 『石川県社会運動史』には、暁烏敏の項が設けられている。1910年代半ば、暁烏は真宗が近代的宗教になるためには、封建的倫理を捨てねばならないと呼びかける高光大船や藤原鉄乗らに合流し、ロシア革命を讃え、米騒動や労働運動を支持し、朝鮮植民地支配に異を唱えている。しかし、その後の暁烏は国家主義に転じていくのだが、転向の軌跡については述べていない。

 暁烏は1928年から41年まで毎年、朝鮮・中国にわたり布教活動をおこなっている。暁烏が1936年にソウルの南山本願寺でおこなった説教講演録(『皇道・神道・仏道・臣道』)の序には<私共は、神道を承り、皇道を承り、仏道を承って、私共自身の臣民道を教えて頂かねばならぬと思います>と、天皇・神道を仏教の上位に置き、本文では<我々は大日本の臣民であります。天皇陛下のやつこらと仰せられる臣民であります>と天皇に最敬礼し、<今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります>、<信ずる心も、念ずる心もすべて他力より起こさしめたまうなり、何から何まで神様仏様や天皇様のお与えものによって今日この生活をさしてもらっておるのであります。…私共は、「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわほとなりて苔のむすまで」と心から歌わしていただける日本臣民であります>と天皇への忠誠を要求している。(『暁烏敏全集』には収録されていない)

 島清は、暁烏の転向を予見していたのだろう。

②資本主義社会観
 まず、島清の資本主義認識について確認しておこう。

 『早春』では、1918年11月の日付を入れて、米騒動について、<(409P)「米騒動」もしくは「米暴動」と云ふ文字を用ひられた今年の夏の、生活脅威によって目覚めさせられた一般的な民衆運動も、今はその一時的な熱情がやうやく……それの内容は運動であったと信ずるからである。そしてその内容精神は…23文字削除…決して非文化的な「騒乱」や「暴動」を要求してはゐなかった>、<(410P)その一般的民衆運動が示した意外の実力と信念と可能性とは…白米、外米の廉売施米を行はしめ、ある種の思想家をして忽ちに国家社会主義の信者と早変わりせしめ、…選挙権拡張の準備をさせてゐるらしい(1918年11月)>と書いている。

 1918年富山県滑川から始まった米騒動は、石川県にも飛び火し、高浜町(8/11)、金沢市(8/12、13)、宇出津町(8/21)、穴水町、松任町(8/26)、山中町、美川町へと広がった。この時期の島清(19歳)は、生活費を稼ぐために鹿島郡役所(七尾)に勤務しており、京都(中外日報社)へ行く直前である。

 この日記には、島清特有の「王の王なる王」による「上からの変革」は消し飛び、「民衆運動が示した意外の実力」を持つ民衆自身による変革への期待感がにじみ出ている。とくに、伏せ字にされた23文字にこそ、「米騒動の精神」が表現されていたと思われるが、権力によって削除されてしまった。

 『地上』第1部(1919年2月脱稿、6月出版)では、<(264P)人類の生活上に重い負担の石を負はす資本家的勢力の専横圧迫の社会的表現であらうか。もしさうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に××(注:革命)の火は燃えるであらう>と資本主義の専横圧迫と革命の必然性を論じている。

 『地上』第2部(1920年)では、<(273P)僕等は虐められ過ぎてゐることを東京へ来て始めてはっきり自覚したのだぜ。…今度の世界大戦争だってよっく考へてみたまへ、僕等にとって何の関係があり、又何を得てゐるだらう。何の関係もない何も! 何も得ていない、何も! 唯幾人かの大金持が出来、幾百千万人の僕等の同胞が死んだ…さうだ、死を得たに過ぎないのだ!>、<今の社会は実に金でしかない。今の社会には生きた人生がないのだ。唯、金がある許りだ。黄金は全人生であり、全人生を支配してゐるのだ。…今の世界のすべてが金のある者にのみ幸福なやうに出来てしまってゐる。金のある者が自分達の都合のいいようにこしらへたのが今の世界である。…金持の楽園は貧乏人の地獄に包まれてゐる。しかもその貧乏人が全人類の大部をしめてゐるんだぜ。…今日の国家制度も、今日の社会組織も、今日の政治も、今日の教育も、今日の法律も、すべてのものは僕等大部の人間にとっては重荷でしかないのだ>と、資本・少数者による生産者・多数者の支配、戦争の本質(資本による略奪)、国家、政治、法律の階級的役割を論じている。

 国会図書館デジタルコレクションで、『地上』第2部を閲覧すると、「僕等大部の人間にとっては重荷でしかない」という部分をさして、欄外に「社会人生のひがみ」「多少過激だ」などと落書きされ、これにたいして「どこが過激だ。社会をよく見ろ」とも書かれている。当時の読者の様子が彷彿とするではないか。

 『閃光雑記』(1920年のメモ、1921年発行)では、島清は<(44項)今の国家は所有者の国家、したがって、労働を利用して、その正当なる価値を認めない国家、かかる国家は労働の奴隷状態の上に安態してゐる。もし、労働が自由になればかかる国家は滅亡するであらう。そして、新しき国家が現はれるであらう。その国家もやはり国家に相違ない>と、マルクス主義国家論及び過渡期論を展開し、<(151項)マルクスの剰余利潤説は資本主義の一部、即ち資本家の主観的立場を明らかにするが、之によって、すべての不労所得が発生した理由を説明するに足りぬ>と、『資本論』に目を通していることを明かしている。

 『閃光雑記』の翌1921年に書かれたメモ『雑記帳』(遺品)では、<(083)普通選挙を実施して、政党を全民衆の基礎の上にをき、その表現者を全民衆の体現者とせよ>、<(088)賀川君ら農民組合を作るの様あり。××(判読不明)君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか>などと、上から目線でいただけないが、具体的政治過程にコミットする意志を内在化させている。

 その上で、『地上』第3部(1921年)では、<(280P)私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である>と、資本主義下の労働者階級の奴隷性を述べている。

 『帝王者』(1921年)では、島清は<(156~159P)労働者、生産者としての当然の道、生きてゆく当然の道を開拓しない資本家であるならば、我々はさうした資本家の下にある機械はもはや社会の生産に寄与するものではなくて、実にゆるしがたい害悪の存在だから、破壊してしまふ! しかも、全工場の全機械を破壊しても、荘田、お前は明日食ふ米の心配はしなくともいいんだ! お前が目腐れ金で馘首した、そして、場合によっては全部を馘首すると云つてるその職工は、その日から、食ふ米の心配をしなくてはならぬのだ>と、資本家階級と労働者階級の非和解性を論じている。

 このように、島清は、1919年2月(『地上』第1部脱稿)以前に、すでに資本主義認識(批判)を主体化していたことがわかる。

 当時、島清が読むことができた社会主義文献としては、1904年には、『共産党宣言』(幸徳秋水訳・即日発禁)、『空想より科学へ』(堺利彦訳)が翻訳され、1906年には『共産党宣言』が全文訳し直されたが、大逆事件(1910年)以降非合法の扱いを受けた。1909年には安部磯雄による『資本論』の部分訳がある。

 1917年ロシア革命と1918年米騒動での民衆の高揚を背景にして、1919年には『共産党宣言』の第3章だけだが『改造』に掲載され、高畠素之による『資本論解説』(カウツキー)や『経済学批判』が翻訳され、松浦要による『資本論』の部分訳が発行されている。島清はこれらの文献に目を通していたのであろうが、非合法扱いされている『共産党宣言』も生田長江や堺利彦のルートで入手して、読んでいたと考えるのが妥当だろう。

 その後も、1922年に『賃労働と資本』、1924年に『ゴータ綱領批判』、1925年に『フォイエルバッハ論』、『ユダヤ人問題を論ず』、『労賃価格・利潤』、1926年に『哲学の貧困』、『マルクス著作集』などが続々と翻訳公刊されている。

③社会主義社会観
 では、島清がめざす社会主義社会とは、どのようなイメージだったのか。以下の作品(抜萃)を見ると、島清は資本主義下の労働(人間)疎外論を基本にして、疎外(労働)からの解放を社会主義社会に期待している。

 『早春』では<(12P)真の社会主義は平等観の基を「みな真をのぞみて」におく、階級、貧富そんなものをかなぐりすてて、人間の心と心がぴったり合ふ時、…みな平等であって、そしてみな英雄である社会>、<(367P)政治は進歩したる生物の間に必然的に形成せられたる現象…。人類がもっと進歩して、政治と云ふことが無意義になる時期が無いとは云へない>と、不平等、階級、貧富の差を解消し、ついには、政治そのものが死滅する社会を描いている。「英雄」という言葉が使われているが、すべての人々が「心と心がぴったり合う」社会の人民を「英雄」的存在としている。

 別の個所では、島清は<(33P)ニーチェは…えらばれるひととえらばれざる多数の人との区別をたてました。…が、私はすべての人間がえらばれる人であらねばならないと信じます>と、ニーチェを批判し、つづけて<すべての人が超人です。すべての人が超人です。真人です>と、差別を廃した真の自立した人間の社会をめざそうとしていた。

 島清は「王の王なる王」、「帝王者」などという言葉を好んで使っているが、それはここでいう「英雄」、「超人」、「真人」と同義であり、階級社会を廃絶した後の人民の主体的姿を表している。

 『地上』第3部(1921年)では、島清は<(61P)労働がそれ自身愉快な感情を生み出すやうになれば、それはもはや労働でなく、少なくとも今日の「使はれる労働」ではないでせう。今日の労働が苦しい勤めである限り、人は労働ののちに何らかの酬いを予期しないでは働くことは出来ますまい>と、資本主義下の労働を苦役労働(疎外労働)と認識し、労働疎外からの解放を社会主義に求めている。

 さらに、島清は<(255P)自分等は自分等の栄養と入用のためのみに労働するであらう。与えられたる一生を全うすることに必要なる労働は、人類全体に平等であり、平等である故に、それはよき享楽となる。…自分達はひとしく人間でありひとしく生きる使命感を与へられたるものである。自分達の間に貴族と平民、資本家と労働者など云ふ階級は一分時にして無くなるであらう。…自分の生きることの自由と絶対を認めることはまた自分以外のすべてのものの生きることの自由と絶対を認めることである。小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほこらう。真の平等、そして真の独立。…自分等をして一切の枯木をよしとする階級より脱却せしめよ。自分達をして真に自由に、吾等の国法をして、自然の法たる「自らの声」と合一せしめよ。吾等の潜めもつ一切の力に自由な解放を与へよ>と、生産労働からの収奪を批判し、「階級対立の解消」、「生きることの自由」、「真の平等」、「真の独立」と、来たるべき社会を生き生きと描き、資本主義が差別と強制と収奪の社会であり、解放のためには社会革命が必要であり、労働者階級には自己を解放する能力があるという確信を持っていた。

 『閃光雑記』(1920年)や『雑記帳』(1921年)では、<(157項及び4P)万人ことごとく帝王のごとく生きよ、社会主義の原理はこれだ>と呼びかけているように、島清にとっての「帝王」とは一個の独裁者を意味するのではなく、すべての人民が社会の主人公(帝王)となるべきことをイメージしている。そして、まずは自らが社会の主人公(帝王)にならんとする主体的決意を孕んでいるのではないか。『早春』のなかの「英雄」と同じである。

 エンゲルスの『空想から科学へ』(1904年、堺利彦訳)のなかにある、「必然の王国から自由の王国へ」というフレーズを彷彿とさせるではないか。エンゲルスは<社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、したがって生産者にたいする生産物の支配も除去される。…今日まで人間を支配し人間をとりまいている生活条件の外囲は、今や人間の支配と統制の下に服し、人間はここに始めて自然にたいする真の意識的な主人となる。これによって人間は自分自身の社会組織の主人となるからである。…従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなって始めて、人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる。…それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である>(国民文庫版)と、社会主義革命の必然性を説いている。
(つづく)

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