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20190201(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(5-最終回)

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20190201(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(5)
2019年1月

<7>差別に向きあう島清
①部落差別にたいする態度
 明治維新後に出された「解放令」により、被差別部落民は形の上では封建的な身分関係から解放されたが、実際にはさまざまな差別が残り、多くの部落民は貧困に苦しんでいた。

 ロシア革命(1917年)や米騒動(1918年)の影響を受け、部落民自身が主体となって差別からの解放を実現しようと、1922年3月には全国水平社(西光万吉ら)を結成した。島清が『地上』をひっさげて登場してきたのは、全国水平社結成の直前である。

 島清は、『地上』第2部(1920年)と『地上』第3部(1921年)のなかで、被差別部落について言及している。『地上』第2部で島清は、<(159P)子供等は手に手に線路の石塊を踏切の向側へ投げつけた。向側にも同じ子供の群が憎悪と復讐の目を輝かして、対抗してゐた。「やるならやって来い、生意気な、××の子が何だい」と此方側の群は叫んで石を投げた。空気は石で鳴った。「金沢のやつら上品ぶるない」向側の群の眼が燃えた。「××め、××め、―死骸を焼く、くそ××めら」>と、差別的状況を描写した。

 『地上』第3部でも、<(369P)単に河べりの部落で生まれたと云ふ事実一つが、あらゆる同輩に軽蔑され、擯斥(ひんせき)され、孤独の状態に取り残され>と、被差別部落への理不尽な差別を描いている。

 杉森久英は『天才と狂人の間』で、1916年ごろ島清母子の住居を<犀川の下流に近い町はずれの貧民窟の、鶏小屋を改造したような小家>と書いており、島清自身も、『地上』第3部で、<(9P)(M街は)××部落に接した貧困な街>と書いている。1916年に東京から戻ってきた島清母子は「M街」で暮らしながら、被差別部落への差別と悲憤を体感していたのであろう。

 しかし、『地上』第3部ではガラリと論調が代わり、<(61P)少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××種属が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ>と、差別に立ち向かう輿四太の姿を描いている。

 第3部は、全国水平社結成(1922年)前年の1921年1月に発行されたが、島清が被差別部落の近くに暮らしていたからといって、「300万部落民の決意」が自動的に内在化するはずがなく、『地上』第3部の構想・執筆(1920年)までの過程で、島清は部落解放の新しい息吹を感じる機会があったのだろう。

 1918年には島清は京都の「中外日報」に就職し、大阪に出かけて労働組合の演説会に参加したり、1920年の東京では新人会の会合に参加し、日本社会主義同盟(堺利彦)に加盟しており、その過程で、部落解放運動との接点があったと思われる。 (注:××は差別語なので伏せ字にした)

②女性差別にたいする態度
 『地上』はラブストーリーとして評価され、1994年に「島清恋愛文学賞」が設けられたが、そのような皮相な評価は見当違いであろう。島清作品の核心は資本主義下の労働者人民の悲惨と、解放への熱情であり、だからこそ支配階級は危険人物と見倣し、検閲で削除し、島清を6年間も病院に幽閉し、遂には死に至らしめたのである(1930年)。

 第1回「島清恋愛文学賞」(1994年)の選考委員に『天才と狂人の間』の著者・杉森久英が入っていた。杉森はその前年1993年7月13日付「北國新聞」で、<(慰安婦は)メーデーの会場へホットドックやコカコーラを売りに来る商人のようなもの>とか、<戦場では、女性も食料や弾薬と同じく、必需品である>、<(戦場では)男の捨てる金を、チャッカリ拾うのが女の仕事である。女たちはそんなのを集めて、国もとへ送金したり、帰ってから豪邸を建てたりする。現代もあちこちの途上国から、日本へ多数押しかけて来るのは、そういう人たちだ>と品性のない、差別丸出しの評論を書き殴っていた。

 では、作品のなかに現れた島清の女性観を見てみよう。
 『帝王者』(1921年)のなかで、島清は染菊に、<(66P)十二の歳に故郷の金沢の街を離れてまる五年の間、一日も真実にしみじみうれしい心持に打ち寛ろいだことのないわたしでございました。くる人もくる人も、会ふ人も会ふ人も、恐ろしい残酷な、表面ばかり柔和でお世辞が巧者で、それでゐて、夜になれば、恥づかしい浅ましいことのみしてゆく男ばかりでございました。…世間の男達は、芸妓といふものは、金で自由になる、自分達の卑しい色慾の玩弄物としか見てはゐません>と語らせ、音羽子に、<(46P)兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな>と語らせている。

 『早春』では、<(339P)無理に淫売しなくてはならぬやうにする遊野郎や、ガリガリ亡者を何故罰せないのか。罰金も拘留も当然うくべきものは女性ではなく「悪い需用者」である>、<(344P)楼主達は…いいかげん、生きた人間の血をしぼる稼行を止したらどうですか>と、島清は激しく追及している。『地上』第3部でも、<(255P)吾等に一人の淫売婦なからしめよ>と叫び、遊廓に売られてくる女性たちの悲惨に肉迫している島清と、戦場の女性を「必需品」と蔑む杉森との間には天文学的な距離を感じずにはおれない。

 杉森は、「ホットドックやコカコーラを買い求める」男としての自己を恬として恥じない人物であり、このような杉森に「愛」を語らせていいのだろうか。わたしは、当時の美川町(竹内町長)に、島清の作品を「恋愛文学」に矮小化することの非と杉森久英を選考委員にすることの不当を訴えて手紙を書いたことがある。

③朝鮮植民地支配にたいする態度
 島清は『早春』(1920年)に、「朝鮮人について」という項を起こしている。

 引用すると<(435P)彼等(注:朝鮮人)を愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない。彼等に選挙権を与へ、彼等に兵役の義務を与へてよい。…彼等は一千万人ゐる。しかも彼等から一人の文学者詩人、思想家のあらはれたる者あるをきかない。これ真に彼等にかかる人間がゐないのであるか、ゐてもあらはれないのであるか、いずれにせよ教育に責任があり、自由なる才能出現の道が必要である>

 この「朝鮮人について」が書かれた時期は、前後の内容から判断すると、『地上』第2部が発行(1920年7月)された後であり、島清は1910年の朝鮮併合は勿論、前年に朝鮮全土で展開された三一独立運動を対象化した上での感想であろう。

 しかし、島清の批判(白刃)の切れ味は非常に悪い。朝鮮併合にたいする批判はなく、朝鮮独立運動への支持もない。「兵役の義務」を与えて、朝鮮人に日本国を守れとまで主張しているかのようだ。

 当時の朝鮮に文学者、詩人、思想家がいないと断定しているが、朝鮮における検閲制度は韓国併合以前の「新聞紙法」(1907年)や「出版法」(1909年)から始まり、1941年には「新聞紙等掲載制限令」が出され、あらゆる角度から緻密に、アリの這い出る隙もない規制内容だった。1945年解放までに2820種の書籍が発行を禁止され、「少年」「青春」「ソウル」「新天地」「新生活」「開闢」などの雑誌も繰り返し発行禁止や廃刊処分を受け、朝鮮人の言論を封殺していた。

 それでも、島清が大洋丸【注】で洋行した1922年には、三一独立運動(1919年)で逮捕された金東仁が『苔刑―獄中記の一節』を発表し、弾圧の激しさを小説化している(『朝鮮近代文学選集』5)。島清幽閉後になるが、1925年には『戦闘』(朴英熙)、『火事だ!火事だ!』(金基鎮)、『地の底へ』(趙抱石)、『桑の葉』(羅稲香)、『民村』(李箕永)、1926年には『白琴』(崔曙海)、1927年には『洛東江』(趙明熙)などが発表されている(『朝鮮短編小説選』)。どの作品も、つらくて重い内容なので、読み進めるのには時間と涙が必要だ。

【注】大洋丸:1911年11月18日に、ハンブルク―ブエノスアイレス間に就航→1919年4月、アメリカ海軍の軍隊輸送船→1919年末イギリス→1920年日本→1921年から東洋汽船に所属し、大洋丸となり、サンフランシスコ航路に就航→1922年4月島清と八田與一を乗せてアメリカ→1926年から日本郵船所属→1932年11月尹奉吉を乗せて上海から神戸港→1942年5月5日シンガポールへ向かう途中、5月8日沈没し八田與一ら817人死亡→2018年船体発見。

【注】『金東仁作品集』(朝鮮近代文学選集5)「笞刑─獄中記の一節」(1922年)
 「笞刑」は3・1独立万歳運動で逮捕された金東仁の体験を小説化したものである。歴史書などを読んで、3・1独立運動に対する弾圧の苛酷さについては、理解しているつもりだったが、小説は歴史書よりも、感情が移入されている分、訴える力が大きい。
 金東仁は5坪に41人(畳1枚に4人)が詰め込まれた。全員が横になって眠れるわけではない。24時間3交替制にして、3分の1が横になり、残りは立っているというのだ(16時間も!)。それが3・1から、3ヶ月を過ぎ、真夏を迎えても続いているのだ。
 暑熱、汗、臭い、南京虫、熱病、皮膚病が蔓延している。弟も逮捕され、長兄も、父母も行方がわからない。70歳を過ぎた老人にも笞刑90回が科せられ、苦痛に耐えきれずに死んでいった(殺された)。そして、金東仁はその老人を守れなかったことに心がうずいた。
 「あんたは自分が死ぬことばかり心配しているが、あんただけが人間かい。あんたが1人出ていきゃ、この監房にいる40人の場所がそれだけ広くなるってことを忘れたのかい。息子が2人とも弾にあたって死んだってのに、老いぼれ1人生き残ってどうするってんだ。ええ!」という、金東仁の言葉に、「あんたの言うことが正しい。わしの息子はきっと2人とも死んじまったのじゃ。わし1人生きておっても仕方がない。控訴を取り下げてくれ」と言って、看守に引かれていった。そして殺された。

写真:左から、全国水平社チラシ、大洋丸、金東仁作品集
  

<8>新芽はすでに土を破ろうとしている
①島清文学碑(美川平加町)
 美川平加町(道専山)の島清文学碑には「愛する人よ 白刃か 然羅(ら)ずんば しばしの間 涙を湛えて 微笑せよ」と刻まれ、NHK土曜ドラマ(1995年)の標題は「涙たたえて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎」となっている。

 この「詩」は『早春』(1920年)の表紙に書かれ、『地上』第3部(1921年)にも出て来る有名なフレーズであり、「愛」がらみの詩とされている。だが、この「詩」がどういうストーリーのなかで詠まれたのかを見ずに、27文字だけで島清の心情を読みとることはできないのではないか。

 『地上』第3部では、2人の女性(和歌子と輝子)を前にして、大河平一郎(島清)の世界観を披瀝した後に、この詩は詠まれている。そこで平一郎(島清)が語った世界観とは、

 <(225~228P)自分等は自分等の栄養と入用のためのみに労働するであらう。与えられたる一生を全うすることに必要なる労働は、人類全体に平等であり、平等である故に、それはよき享楽となる。…自分達はひとしく人間でありひとしく生きる使命感を与へられたるものである。自分達の間に貴族と平民、資本家と労働者など云ふ階級は一分時にして無くなるであらう。…自分の生きることの自由と絶対を認めることはまた自分以外のすべてのものの生きることの自由と絶対を認めることである。小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほこらう。真の平等、そして真の独立。…自分等をして一切の枯木をよしとする階級より脱却せしめよ。自分達をして真に自由に、吾等の国法をして、自然の法たる「自らの声」と合一せしめよ。吾等の潜めもつ一切の力に自由な解放を与へよ。ああ、吾らの生命を束縛することなからしめよ。…吾等に一人の淫売婦なからしめよ。吾らすべてに心地よき家と、夜具と部屋と、滋養分と、清浄なる衣服とを与へよ、…汝ら市街の政治家よ、…実に汝等は宇宙生命の奪取者であるからである。汝らは地獄に堕つべき輩である。汝らは実に地獄に堕ちてゐるのである。…(削除)…>と、島清は、ほとばしるように自由と平等を求め、資本家階級からの脱却(解放)、売られいく女性への同情と解放を願い、既成政治家の腐敗を弾劾している。

 そして、平一郎は「個別の愛」の問題ではなく、抑圧され、差別され、虐げられた人々の側に立つこと(解放主体)を宣言して、<(259)愛する人よ、白刃か、然らずんば、しばしの間涙を湛へて微笑せよ>と叫んでいるのである。

 その背後には、<吾等に一人の淫売婦なからしめよ。吾らすべてに心地よき家と、夜具と部屋と、滋養分と、清浄なる衣服とを与へよ>という普遍的な希求があり、決して平一郎と和歌子のあいだの結ばれなかった「愛」を蒸し返したいという願望ではなく、社会変革の主体たらんとする平一郎の決意表明として読むべきではないだろうか。(鈴木晴夫は『国文学解釈と鑑賞』で、この一文を、「内容にとぼしい理想主義的な長広舌」とこき下ろしているが、島清の資本主義批判を理解できなかったのだろう)

②島清追慕碑(小川町)
 島清の母みつ出生地・白山市小川町にある西野家の墓地区画内に、「島田清次郎追慕之碑」が窮屈に置かれている。碑は1957年に建てられ、<年若き氏の超世革新的思想は時勢に容れられず、保養院に幽閉され快々として楽しまず、遂に同院に死去さる。時に32歳。噫あたら卓越せる青年作家を無為に終わらしむ。世紀の恨事惜しむべし>と刻まれている。

 島清が亡くなって、やがて90年になろうとしているが、碑に刻まれた「(島清の)革新的思想」は、今も病者の妄想のように扱われ、今日に至るも相応に評価されず、鉄扉のなかに幽閉されたままである。

 島清の記念碑としては、ほかに美川南町の「島田清次郎生誕地の碑」、金沢にし茶屋の「島田清次郎記念碑」がある。また美川町共同墓地(JR美川駅から徒歩15分ほどの松林)には、わが家の墓地から十数メートルしか離れていない位置に島清の墓碑がある。今年は島清没後89年であり、4月29日には島清の墓参に向かいたい。

写真:左から、島清文学碑、島清追慕碑、美川共同墓地地図
  

③プロレタリア文学
 尾崎秀樹は「『地上』がひろく読まれたのは…主人公の社会への抵抗が支持されたからである」(「大正期人生派の一典型」1974年)、豊崎由美は「プロレタリア文学流行を予告する作品」(『百年の誤読』2004年)、奈良正一は「後来の社会主義的な文学を感じさせ」(『美川町文化誌』)など、少数派だが正当な評価がある。

 今日、プロレタリア文学作家として高く評価されている徳永直は島清と同年に生まれ、小林多喜二はその4年後に生まれ、ほぼ同時代人であり、『地上』から一定の影響を受けているだろう。徳永直は1922年に上京し、植字工として働き、1925年『無産者の恋』、1929年『太陽のない街』を発表した。小林多喜二は1928年『1928年3月15日』、1929年『蟹工船』、1932年『党生活者』を発表した。筆者も『太陽のない街』や『党生活者』に多大の影響を受けて、70年安保期を迎えたように、当時の、50万、100万の読者は島清の「社会主義論」に触発され、大正末期(1920年代)から昭和初期(1930年代)の諸争議をたたかう労働者に成長したのではないだろうか(注:表)。

 山下武は「長い間この国を支配しつづけてきたイビツな文学史観が書きかえられないかぎり、悲劇の作家・島清が文学的復権を獲得する日は、当分まだ来そうにない」(『忘れられた作家、忘れられた本』1987年)と、半ば諦めているが、新芽はすでに土を破ろうとしており、島清にたいする病者差別・批判を乗り越えて、島清作品の歴史的、文学史的役割の再評価にとりかかろうではないか。
(おわり)

写真の多くはインターネット上の画像を利用させていただいた。


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