島田清次郎研究に欠かせない未発表遺稿
【小冊誌『島田清次郎・未発表作品の翻刻と思想的検証』』(6月下旬発行予定)のあとがきより】
島清遺稿の翻刻作業
私がはじめて、島田清次郎の作品を読んだのは40年以上前になりますが、その時から島清作品にはマルクス主義世界観が反映していると感じていました。昨年秋、「石川県のダークツーリズム」をまとめていて、あらためて島清を読み直そうと思いたち、諸著作を読みはじめ、1月に「論考 島清の思想的検証」を書き上げました。
この論考を書いている途中の12月に石川近代文学館を訪問し、遺品のなかに『雑記帳』『雑筆』などたくさんの未発表遺稿があることを知りました。
1982年に、石川近代文学館に寄贈された島清の未発表原稿は、近代文学館作成のリストによれば700ページ(原稿用紙、罫紙、ノート)以上あります。
遺稿寄贈後、小林輝冶は1983年から90年にかけて、主として作品(小説)の翻刻に注力しており、それらの作品の筋立てには混乱がなく、正当に評価されるべき内容であり、入院後しばらくして統合失調症の症状は安定したのではないかと分析しています。
加えて、遺稿には『雑記帳』『雑筆』(小林輝冶の言う『日記』か?)があり、島清の実像を明らかにするためには、これらを翻刻し、議論の対象に上げるべきと考え、今年1月から、Kさんの協力を得て、『雑記帳』(100頁)の翻刻に取り組みました。小林輝冶と私たちで翻刻した分量はわずか150ページ程度にすぎず、未だ約550ページ分の未発表原稿が残されています。
『雑筆』の閲覧不許可について
5月中旬には、『雑記帳』の翻刻作業もおわり、石川近代文学館の島清遺品リストにある『雑筆』(17頁)の閲覧を申請しましたが、資料の劣化と個人情報を理由に閲覧申請は却下されました。資料の劣化は、これまでに閲覧・翻刻した『雑記帳』も『仏蘭西社会運動慨勢』も同様で、原本ではなく写真化した二次資料の閲覧により、翻刻作業をおこなっており、何ら問題はありませんでした。
閲覧不許可の主要な問題は個人情報だと思い、島清の遺族Nさんに閲覧・翻刻の了解を得て、再度閲覧申請をおこない、責任者と面会しました。
『雑筆』に含まれている個人情報について確認したところ、責任者は、小林豊や舟木芳江の関係ではない、島清及び「他の個人」であり、「他の個人」のプライバシーを配慮して、閲覧不許可にしたと回答しました。話し合いの最後に、「他の個人」が特定される部分を非開示にしてでも、閲覧を許可してほしい旨伝えて、再々度の検討を約束しました。
島清研究
この話し合いのなかで、学芸員から、「小林輝冶先生は島清にとって都合の悪い遺稿は翻刻しなかった。未翻刻の遺稿にはそういう意味がある」という趣旨の発言があり、文学館は島清の実像ではなく、「美しい島清像」を作りたいようです。これでは、「狂人」という虚像で、島清の人格を否定した杉森久英の逆パターンで、新たな虚像を作ろうとしているだけなのではないでしょうか。
しかし、小林輝冶は徳富蘇峰への島清の手紙を翻刻するにあたって、厳しい部落差別も被害妄想の症状もそのまま翻刻しており、決して恣意的に島清の「弱点」を隠そうとはしていません。学芸員は小林輝冶の仕事を誤解しています。
私たちは、島清が作家として大きな仕事をしたこと、島清がソーシャリストを自認していたこと、その思想に基づいて作品を書き、青年大衆の支持を得たこと、そのことによって権力によって否定的対象とされたこと、そして文壇から排除され、生活が成り立たなくなったこと、放浪生活の揚げ句警察に捕まり、精神病院に監置されたこと、病院監置によってむしろ症状が悪化したこと、退院と引き替えにソーシャリズムを捨てようとしたこと、遂に退院はかなわず病死したこと、作品中には部落解放を謳いながら、私信では差別的表現が目立つこと、女性の自立・解放を謳いながら、私生活上ではDV加害者であることなど、プラスマイナスのすべてを島清の全人生として受けとめてこそ、島清を日本文学史のなかに正置することができるのではないでしょうか。
したがって、『雑筆』は島清の絶筆前後の重要な「私記」であり、閲覧・翻刻して、島清の最後を明らかにすることこそ、島清研究者の仕事だと確信しています。
島清理解をこじ開ける鍵
本小冊誌(論考集)は島清作品のなかに、どのようにマルクス主義が反映されているかという問いにたいする私なりの回答です。リベラルな評者は島清を理想主義者と評しても、現実の島清のあり方とのギャップをもって、結局は島清を「変人・狂人」扱いして否定する結果を招いています。
辛うじて、そこからの脱却を試みているのが、奈良正一(1969年「社会主義的な文学」)、小林輝冶(1983年「社会主義的傾向」)、豊崎由美(2004年「プロレタリア文学を予告」)の島清評です。しかし、いずれの評者も島清のソーシャリズム(社会主義)そのものには踏み込まず、島清の本質的思考に迫っていません。
島清の遺族・西野芳顕さんは、島清追慕碑(小川町1957年)に、「超世革新的思想は時勢に容れられず…世紀の恨事惜しむべし」と刻みましたが、60年後の今も受けとめられずにいるようです。島清は『雑記帳』(1921年)で「狂人か偉大人かは、この己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る」と記していますが、島清死後すでに90年が過ぎ、墓碑もすでに苔蒸し、命日にも誰一人訪れなくなっており、今こそ島清の実像を明らかにする時機ではないでしょうか。その鍵は間違いなくマルクス主義哲学にあり、そこから島清(作品)を読解することだと思います。
病院監置で力尽きた島清
島清は1920年に日本社会主義同盟に参加していますが、1921年の『地上』第三部では、ブルジョア人道主義への揺れが垣間見られます。しかし、1921年の『雑記帳』、1922年の『仏蘭西社会運動慨勢』では、島清の社会主義志向にぶれは見られません。
関東大震災の翌年1924年7月に、島清は挙動不審で警察に保護され、金子準二の診察を受けて、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚保養院に強制的に入院させられました(金子準二は「精神病と犯罪は同胞」「共産党と精神異常は関係がある」と主張。1936年の断種法案に反対した精神科医)。島清は徳富蘇峰に、「六畳の机一つない一室」「二名と同室監禁」「生き埋めの如き監禁状態」と、入院中の窮状を訴えているように、厳しい病院監置状態に置かれていました。
強制入院から半年後の1925年4月の手紙では、島清は「(入院の原因は)社会党結社事件に関連する嫌疑」ではないかと書き、しかし「小生はもはやソーシャリスト(注:社会主義者)ではない」(4月)、「外遊後の余の右傾」(9月)と、一刻も早く退院したいがために、転向の意志を伝えた上で、徳富蘇峰に退院の力添えを要請しています。ソーシャリスト島清は、ここで力尽きたのではないでしょうか。
島清のもう一つの属性
1925年4月の徳富蘇峰への手紙では、統合失調症の症状はまだ見られませんが、同年8月と9月の手紙では、「T・Sらによって暗殺が企てられ、家を乗っ取られる」とか、「水平社族か下級警察が余に復讐」などという被害妄想が激しく現れており、島清は精神病院での長期監置による統合失調症の悪化が現れていたと考えられます。
この症状が改善したのか、否かについては、入院中に執筆した作品(一部翻刻)とともに、とくに『雑筆』(1929年絶筆直前ごろの「私記」)を閲覧しなければ解明出来ないでしょう。
1919年『地上』第一部発行からの100年間、島田清次郎に関する評論はかなり多数にのぼっています。その多くは「島清=狂人」論に立ち、島清の人格的否定を結論づけています。とくに、杉森久英の『天才と狂人の間』(1962年)は島清研究のバイブルの位置にあり、その後の島清論に大きな影響を与えてきました。1982年11月1日付『北國新聞』でも、杉森久英は「清次郎は基本的には狂人」と話しています。
統合失調症を理由に島清を全否定するのではなく、島清の属性として受け入れるべきであり、むしろ不当な長期監置が症状を悪化させたことこそが問題だと思います。
最後に
島清存命時には、精神医学者呉秀三らによって、私宅監置の否定、拘束具の使用禁止や作業療法の活用など精神医療での改革が進んでいましたが、島清や家族が退院許可をくりかえし要求しても、敢えて退院の許可を出さなかったのは、権力からの圧力か、権力への忖度があったからではないでしょうか。そこには、島清の作家としての復活を怖れる権力の存在を疑わざるを得ません。
島清研究は、再三述べてきましたが、権力に楯突く作家・島清とそれを封じ込めようとする特高警察と精神障がいを発症した島清の全体像を明らかにすることであり、きわめて今日的な課題だと思います。
注1:論考上、「狂人」という言葉を使いましたが、差別を拡散するためではなく、精神病者差別を批判し、訣別するために使用しました。
注2:敬称は省略しました。
【小冊誌『島田清次郎・未発表作品の翻刻と思想的検証』』(6月下旬発行予定)のあとがきより】
島清遺稿の翻刻作業
私がはじめて、島田清次郎の作品を読んだのは40年以上前になりますが、その時から島清作品にはマルクス主義世界観が反映していると感じていました。昨年秋、「石川県のダークツーリズム」をまとめていて、あらためて島清を読み直そうと思いたち、諸著作を読みはじめ、1月に「論考 島清の思想的検証」を書き上げました。
この論考を書いている途中の12月に石川近代文学館を訪問し、遺品のなかに『雑記帳』『雑筆』などたくさんの未発表遺稿があることを知りました。
1982年に、石川近代文学館に寄贈された島清の未発表原稿は、近代文学館作成のリストによれば700ページ(原稿用紙、罫紙、ノート)以上あります。
遺稿寄贈後、小林輝冶は1983年から90年にかけて、主として作品(小説)の翻刻に注力しており、それらの作品の筋立てには混乱がなく、正当に評価されるべき内容であり、入院後しばらくして統合失調症の症状は安定したのではないかと分析しています。
加えて、遺稿には『雑記帳』『雑筆』(小林輝冶の言う『日記』か?)があり、島清の実像を明らかにするためには、これらを翻刻し、議論の対象に上げるべきと考え、今年1月から、Kさんの協力を得て、『雑記帳』(100頁)の翻刻に取り組みました。小林輝冶と私たちで翻刻した分量はわずか150ページ程度にすぎず、未だ約550ページ分の未発表原稿が残されています。
『雑筆』の閲覧不許可について
5月中旬には、『雑記帳』の翻刻作業もおわり、石川近代文学館の島清遺品リストにある『雑筆』(17頁)の閲覧を申請しましたが、資料の劣化と個人情報を理由に閲覧申請は却下されました。資料の劣化は、これまでに閲覧・翻刻した『雑記帳』も『仏蘭西社会運動慨勢』も同様で、原本ではなく写真化した二次資料の閲覧により、翻刻作業をおこなっており、何ら問題はありませんでした。
閲覧不許可の主要な問題は個人情報だと思い、島清の遺族Nさんに閲覧・翻刻の了解を得て、再度閲覧申請をおこない、責任者と面会しました。
『雑筆』に含まれている個人情報について確認したところ、責任者は、小林豊や舟木芳江の関係ではない、島清及び「他の個人」であり、「他の個人」のプライバシーを配慮して、閲覧不許可にしたと回答しました。話し合いの最後に、「他の個人」が特定される部分を非開示にしてでも、閲覧を許可してほしい旨伝えて、再々度の検討を約束しました。
島清研究
この話し合いのなかで、学芸員から、「小林輝冶先生は島清にとって都合の悪い遺稿は翻刻しなかった。未翻刻の遺稿にはそういう意味がある」という趣旨の発言があり、文学館は島清の実像ではなく、「美しい島清像」を作りたいようです。これでは、「狂人」という虚像で、島清の人格を否定した杉森久英の逆パターンで、新たな虚像を作ろうとしているだけなのではないでしょうか。
しかし、小林輝冶は徳富蘇峰への島清の手紙を翻刻するにあたって、厳しい部落差別も被害妄想の症状もそのまま翻刻しており、決して恣意的に島清の「弱点」を隠そうとはしていません。学芸員は小林輝冶の仕事を誤解しています。
私たちは、島清が作家として大きな仕事をしたこと、島清がソーシャリストを自認していたこと、その思想に基づいて作品を書き、青年大衆の支持を得たこと、そのことによって権力によって否定的対象とされたこと、そして文壇から排除され、生活が成り立たなくなったこと、放浪生活の揚げ句警察に捕まり、精神病院に監置されたこと、病院監置によってむしろ症状が悪化したこと、退院と引き替えにソーシャリズムを捨てようとしたこと、遂に退院はかなわず病死したこと、作品中には部落解放を謳いながら、私信では差別的表現が目立つこと、女性の自立・解放を謳いながら、私生活上ではDV加害者であることなど、プラスマイナスのすべてを島清の全人生として受けとめてこそ、島清を日本文学史のなかに正置することができるのではないでしょうか。
したがって、『雑筆』は島清の絶筆前後の重要な「私記」であり、閲覧・翻刻して、島清の最後を明らかにすることこそ、島清研究者の仕事だと確信しています。
島清理解をこじ開ける鍵
本小冊誌(論考集)は島清作品のなかに、どのようにマルクス主義が反映されているかという問いにたいする私なりの回答です。リベラルな評者は島清を理想主義者と評しても、現実の島清のあり方とのギャップをもって、結局は島清を「変人・狂人」扱いして否定する結果を招いています。
辛うじて、そこからの脱却を試みているのが、奈良正一(1969年「社会主義的な文学」)、小林輝冶(1983年「社会主義的傾向」)、豊崎由美(2004年「プロレタリア文学を予告」)の島清評です。しかし、いずれの評者も島清のソーシャリズム(社会主義)そのものには踏み込まず、島清の本質的思考に迫っていません。
島清の遺族・西野芳顕さんは、島清追慕碑(小川町1957年)に、「超世革新的思想は時勢に容れられず…世紀の恨事惜しむべし」と刻みましたが、60年後の今も受けとめられずにいるようです。島清は『雑記帳』(1921年)で「狂人か偉大人かは、この己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る」と記していますが、島清死後すでに90年が過ぎ、墓碑もすでに苔蒸し、命日にも誰一人訪れなくなっており、今こそ島清の実像を明らかにする時機ではないでしょうか。その鍵は間違いなくマルクス主義哲学にあり、そこから島清(作品)を読解することだと思います。
病院監置で力尽きた島清
島清は1920年に日本社会主義同盟に参加していますが、1921年の『地上』第三部では、ブルジョア人道主義への揺れが垣間見られます。しかし、1921年の『雑記帳』、1922年の『仏蘭西社会運動慨勢』では、島清の社会主義志向にぶれは見られません。
関東大震災の翌年1924年7月に、島清は挙動不審で警察に保護され、金子準二の診察を受けて、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚保養院に強制的に入院させられました(金子準二は「精神病と犯罪は同胞」「共産党と精神異常は関係がある」と主張。1936年の断種法案に反対した精神科医)。島清は徳富蘇峰に、「六畳の机一つない一室」「二名と同室監禁」「生き埋めの如き監禁状態」と、入院中の窮状を訴えているように、厳しい病院監置状態に置かれていました。
強制入院から半年後の1925年4月の手紙では、島清は「(入院の原因は)社会党結社事件に関連する嫌疑」ではないかと書き、しかし「小生はもはやソーシャリスト(注:社会主義者)ではない」(4月)、「外遊後の余の右傾」(9月)と、一刻も早く退院したいがために、転向の意志を伝えた上で、徳富蘇峰に退院の力添えを要請しています。ソーシャリスト島清は、ここで力尽きたのではないでしょうか。
島清のもう一つの属性
1925年4月の徳富蘇峰への手紙では、統合失調症の症状はまだ見られませんが、同年8月と9月の手紙では、「T・Sらによって暗殺が企てられ、家を乗っ取られる」とか、「水平社族か下級警察が余に復讐」などという被害妄想が激しく現れており、島清は精神病院での長期監置による統合失調症の悪化が現れていたと考えられます。
この症状が改善したのか、否かについては、入院中に執筆した作品(一部翻刻)とともに、とくに『雑筆』(1929年絶筆直前ごろの「私記」)を閲覧しなければ解明出来ないでしょう。
1919年『地上』第一部発行からの100年間、島田清次郎に関する評論はかなり多数にのぼっています。その多くは「島清=狂人」論に立ち、島清の人格的否定を結論づけています。とくに、杉森久英の『天才と狂人の間』(1962年)は島清研究のバイブルの位置にあり、その後の島清論に大きな影響を与えてきました。1982年11月1日付『北國新聞』でも、杉森久英は「清次郎は基本的には狂人」と話しています。
統合失調症を理由に島清を全否定するのではなく、島清の属性として受け入れるべきであり、むしろ不当な長期監置が症状を悪化させたことこそが問題だと思います。
最後に
島清存命時には、精神医学者呉秀三らによって、私宅監置の否定、拘束具の使用禁止や作業療法の活用など精神医療での改革が進んでいましたが、島清や家族が退院許可をくりかえし要求しても、敢えて退院の許可を出さなかったのは、権力からの圧力か、権力への忖度があったからではないでしょうか。そこには、島清の作家としての復活を怖れる権力の存在を疑わざるを得ません。
島清研究は、再三述べてきましたが、権力に楯突く作家・島清とそれを封じ込めようとする特高警察と精神障がいを発症した島清の全体像を明らかにすることであり、きわめて今日的な課題だと思います。
注1:論考上、「狂人」という言葉を使いましたが、差別を拡散するためではなく、精神病者差別を批判し、訣別するために使用しました。
注2:敬称は省略しました。