『出島権二さんの死を悼む 内灘闘争の考察』
一九八九年 出島権二さんの死に際して
闘争の歴史的背景
第二次大戦後の一九四〇年代末には、世界資本主義は戦後恐慌に見舞われ、このなかで日本資本主義は輸出の不振・滞貨の累増、大量人員整理、賃下げ、中小資本の系列化、低米価、地方税増税などに直面し、ブルジョアジーは一つの壁に突き当たっていた。そこに朝鮮戦争が起こり「日本経済の回生薬」の役割を果たしたのである。
朝鮮侵略戦争に必要な軍用材の大量発注―特需という名の輸出の増大は重化学工業の発展にとってのカンフル剤の役割を果たし、機械・金属・化学・製材・繊維などを中心とする生産の上昇の結果、一九五一年度に始めて鉱工業生産は戦前の水準を突破した。この期間に独占への集中・集積が一挙に進み、一九五一年以降の独占資本主義としての日本帝国主義の急速な成長の基盤を形成したのである。
他方で日本帝国主義ブルジョアジーは朝鮮侵略戦争遂行のために、一九五〇年に共産党中央委員の追放―アカハタの発行停止、新聞・通信・放送・電産・官公庁へのレッド・パージなど侵略戦争にともなう政治支配体制の「強権的安定化=暴力的暗黒支配」を強行したのである。しかしながら当時の日本プロレタリアート人民は、朝鮮侵略戦争とそれにともなうレッド・パージ攻撃にたいして、はっきりした政治的で攻撃的なたたかいを取り組むことができず、後退を余儀なくされていたのである。
敗戦帝国主義から回復しっつあった日本帝国主義は、一九五二年サンフランシスコ条約と安保条約の発効を転機として、新たな段階に入るのであるが、日本帝国主義は独自の力による人民支配を貫徹するために、治安弾圧法の整備=破壊活動防止法立法攻撃を加えており、これにたいしてプロレタリアート人民は「労闘ストライキ」をもってたたかいぬいていたのである。
朝鮮侵略戦争との対決
内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争下で、レッド・パージや破防法立法があり、他方人民はこれらと必死で闘っている真っ只中で、大衆的実力闘争としてたたかいぬかれたのである。内灘砂丘地接収は米軍特需にうるおう軍需(砲弾)メーカーのための試射場=基地建設であり、侵略戦争のための土地強奪であり、戦前への回帰を意味していたのである。
一九五二年九月「内灘砂丘地接収」の報が伝わるや、漁業を生業とする村民は砂丘と海を死守するために激しく闘い始めた。アメリカ帝国主義にとっても、中国革命に続く朝鮮革命を目のまえにして、日本帝国主義を総動員してでも巻き返さねばならない瀬戸際に立たされていたのである。まさに内灘砂丘をめぐって、互いに譲り合うことのできない階級的攻防戦として、帝国主義と人民が激突したのである。
だが内灘闘争の爆発は、米・日帝国主義の戦争プログラムをズタズタにし、内灘試射場を安定的に使用できるようになったのはようやく一年後であり、朝鮮戦争休戦前夜だったのである。米・日帝国主義にとって最も緊急に必要であったときは、村民のたたかい(坐り込みや強行出漁など)そして全学連や労働者の支援、とりわけ北陸鉄道労働組合の「弾丸輸送拒否ストライキ」に象徴されるたたかいによってほとんど使うことができず、小松製作所などの砲弾メーカーの倉庫には朝鮮向けの砲弾がうずたかく積まれていたのである。
まさに内灘闘争は大衆的実力闘争によって米・日帝国主義の朝鮮侵略戦争に大きな打撃を与えた。内灘闘争こそレーニンの「侵略戦争を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の実践的貫徹形態であった。
内灘闘争に対応できなかった社共
内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争に対する反戦・反基地闘争として、全国民的支援のもとにたたかわれたのであるが、このとき各政党はどのようにたたかっていたのか。
出島権二さんの『一九五三年内灘解放区』によれば、「右派社会党のオルグは途中早々と帰ってしまい、左派のオルグは最後までいたのですが、たった一人では何をするにしても力にはなりません」と書かれているとうり、社会党は両派とも真剣にたたかってはいない。
共産党は、現在の内灘町役場あたりの藁小屋をかりて「山(農)村工作隊」が七~八人常駐していたが、八月には「愛村同志会」に襲撃され、小屋が壊されても何もできない状態だった。今日共産党はあたかも内灘闘争を指導し、闘ったように宣伝しているが、とんでもない歴史の偽造である。
『一九五三年内灘解放区』で出島さんが「東京から来ている社会党・共産党の指導者は、大衆的な基地闘争の経験がなく、接収反対の原則はあるのですが、確たる戦略戦術を持っていないようでした。(中略)局面が転換してもただ眺めているような状態でした」といっているような無指導・無方針の状態であった。「愛村同志会」によって闘争拠点が破壊されても為すすべもなく、極右=東亜連盟員を引き連れた辻政信が権現森着弾地での坐り込みを解除するためにやって来ても、声一つあげることができなかったのだ。
それもそのはず、当時の共産党は綱領・路線転換の真最中であり、混乱の極にたっしていたのだ。一九五〇年十月の「平和と独立」第九号で突然「軍事方針」をうちだし、一九五一年十月の五全協、一九五二年二月「中核自衛隊の組織と戦術」を発表して、いわゆる「武装闘争」をはじめるのであるが、わずか半年で大破産し、以前にも増して極右路線を歩んだのである。
共産党の「武闘路線」から「平和路線(六全協)」への谷間にあって、共産党の党としての指導やたたかいなど全くないなかで、住民のエネルギーの自然発生的な爆発としての大衆的実力闘争としてたたかわれたのである。せっかく非公然に持ち込んでアカシア林に埋め込んだ「銃数挺」も使われず、かといって大衆的実力闘争の先頭にたつこともなく、たたかう村民を孤立させていったのである。
「侵略を内乱へ」の実践的たたかい
共産党は内灘闘争を「反米愛国闘争」として今日的に評価している。一九七四年発行の『日本共産党の半世紀』には多数ある内灘闘争の写真からわざわざ「日の丸」を掲げたものを選び出しているのである。
一九五三年はサンフランシスコ条約・日米安保条約発効の年であり、朝鮮戦争を奇貨として、帝国主義として経済的にも政治的にも自立しつつあったのである。沖縄の分離支配と内灘試射場接収は同じであり、日本帝国主義が自国領土の一部をアメリカに差し出してでも、帝国主義独自の利害を追求したということである。
内灘闘争は、米日帝国主義の強盗同盟=安保条約に基づいて強行する朝鮮(アジア)侵略戦争に対する反戦闘争であり、「革命的祖国敗北主義」を貫徹すべき反帝闘争だったのである。
共産党は帝国主義打倒の戦略としての「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の思想を持ち合わせておらず、ただ現象面のみをみて「反米愛国闘争」と位置付けているのであるが、全くの誤りである。
三里塚闘争こそ内灘の後継者
「土地は万年、金は一時」のスローガンをかかげて着弾地坐り込みや実力出漁をたたかった内灘闘争は、今確実に三里塚、北富士、三宅島、沖縄・小松、志賀のたたかいへと引き継がれている。特に出島さんが三里塚現地で見たものこそ・内灘闘争そのものであった。出島さんが目を閉じたその年に、三里塚闘争は決定的飛躍をかちとったのである。敷地内三戸を核として、「農地死守」の絶対反対同盟が厳然とたち、千葉県土地収用委員会の総辞任をかちとり、さらに天神峰現闘本部を鉄筋コンクリート三階建に増築したのである。
世界的規模での帝国主義、スターリン主義、新植民地主義の危機の時代をむかえて、基軸帝国主義であるァメリカ帝国主義が率先してブロック化を推進し、世界経済はまさに分裂化になだれこんでいる。最弱の帝国主義=日本帝国主義は、迫り来る激動を直感的に受け止め、対外侵略と国内反動にうってでてきた。
労働戦線の再編=総評解散=産業報国会化、天皇の死から代替わりにかけての天皇制(イデオロギー)の強制、そして軍事大国化のための三里塚軍事空港建設強行などである。これら一切の攻撃は侵略戦争体制を作り上げるためのものである。われわれは内灘闘争で端緒的に切り開かれた「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の原則に立ってたたかうことを、出島さんの霊前に固く誓うものである。
一九八九年 出島権二さんの死に際して
闘争の歴史的背景
第二次大戦後の一九四〇年代末には、世界資本主義は戦後恐慌に見舞われ、このなかで日本資本主義は輸出の不振・滞貨の累増、大量人員整理、賃下げ、中小資本の系列化、低米価、地方税増税などに直面し、ブルジョアジーは一つの壁に突き当たっていた。そこに朝鮮戦争が起こり「日本経済の回生薬」の役割を果たしたのである。
朝鮮侵略戦争に必要な軍用材の大量発注―特需という名の輸出の増大は重化学工業の発展にとってのカンフル剤の役割を果たし、機械・金属・化学・製材・繊維などを中心とする生産の上昇の結果、一九五一年度に始めて鉱工業生産は戦前の水準を突破した。この期間に独占への集中・集積が一挙に進み、一九五一年以降の独占資本主義としての日本帝国主義の急速な成長の基盤を形成したのである。
他方で日本帝国主義ブルジョアジーは朝鮮侵略戦争遂行のために、一九五〇年に共産党中央委員の追放―アカハタの発行停止、新聞・通信・放送・電産・官公庁へのレッド・パージなど侵略戦争にともなう政治支配体制の「強権的安定化=暴力的暗黒支配」を強行したのである。しかしながら当時の日本プロレタリアート人民は、朝鮮侵略戦争とそれにともなうレッド・パージ攻撃にたいして、はっきりした政治的で攻撃的なたたかいを取り組むことができず、後退を余儀なくされていたのである。
敗戦帝国主義から回復しっつあった日本帝国主義は、一九五二年サンフランシスコ条約と安保条約の発効を転機として、新たな段階に入るのであるが、日本帝国主義は独自の力による人民支配を貫徹するために、治安弾圧法の整備=破壊活動防止法立法攻撃を加えており、これにたいしてプロレタリアート人民は「労闘ストライキ」をもってたたかいぬいていたのである。
朝鮮侵略戦争との対決
内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争下で、レッド・パージや破防法立法があり、他方人民はこれらと必死で闘っている真っ只中で、大衆的実力闘争としてたたかいぬかれたのである。内灘砂丘地接収は米軍特需にうるおう軍需(砲弾)メーカーのための試射場=基地建設であり、侵略戦争のための土地強奪であり、戦前への回帰を意味していたのである。
一九五二年九月「内灘砂丘地接収」の報が伝わるや、漁業を生業とする村民は砂丘と海を死守するために激しく闘い始めた。アメリカ帝国主義にとっても、中国革命に続く朝鮮革命を目のまえにして、日本帝国主義を総動員してでも巻き返さねばならない瀬戸際に立たされていたのである。まさに内灘砂丘をめぐって、互いに譲り合うことのできない階級的攻防戦として、帝国主義と人民が激突したのである。
だが内灘闘争の爆発は、米・日帝国主義の戦争プログラムをズタズタにし、内灘試射場を安定的に使用できるようになったのはようやく一年後であり、朝鮮戦争休戦前夜だったのである。米・日帝国主義にとって最も緊急に必要であったときは、村民のたたかい(坐り込みや強行出漁など)そして全学連や労働者の支援、とりわけ北陸鉄道労働組合の「弾丸輸送拒否ストライキ」に象徴されるたたかいによってほとんど使うことができず、小松製作所などの砲弾メーカーの倉庫には朝鮮向けの砲弾がうずたかく積まれていたのである。
まさに内灘闘争は大衆的実力闘争によって米・日帝国主義の朝鮮侵略戦争に大きな打撃を与えた。内灘闘争こそレーニンの「侵略戦争を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の実践的貫徹形態であった。
内灘闘争に対応できなかった社共
内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争に対する反戦・反基地闘争として、全国民的支援のもとにたたかわれたのであるが、このとき各政党はどのようにたたかっていたのか。
出島権二さんの『一九五三年内灘解放区』によれば、「右派社会党のオルグは途中早々と帰ってしまい、左派のオルグは最後までいたのですが、たった一人では何をするにしても力にはなりません」と書かれているとうり、社会党は両派とも真剣にたたかってはいない。
共産党は、現在の内灘町役場あたりの藁小屋をかりて「山(農)村工作隊」が七~八人常駐していたが、八月には「愛村同志会」に襲撃され、小屋が壊されても何もできない状態だった。今日共産党はあたかも内灘闘争を指導し、闘ったように宣伝しているが、とんでもない歴史の偽造である。
『一九五三年内灘解放区』で出島さんが「東京から来ている社会党・共産党の指導者は、大衆的な基地闘争の経験がなく、接収反対の原則はあるのですが、確たる戦略戦術を持っていないようでした。(中略)局面が転換してもただ眺めているような状態でした」といっているような無指導・無方針の状態であった。「愛村同志会」によって闘争拠点が破壊されても為すすべもなく、極右=東亜連盟員を引き連れた辻政信が権現森着弾地での坐り込みを解除するためにやって来ても、声一つあげることができなかったのだ。
それもそのはず、当時の共産党は綱領・路線転換の真最中であり、混乱の極にたっしていたのだ。一九五〇年十月の「平和と独立」第九号で突然「軍事方針」をうちだし、一九五一年十月の五全協、一九五二年二月「中核自衛隊の組織と戦術」を発表して、いわゆる「武装闘争」をはじめるのであるが、わずか半年で大破産し、以前にも増して極右路線を歩んだのである。
共産党の「武闘路線」から「平和路線(六全協)」への谷間にあって、共産党の党としての指導やたたかいなど全くないなかで、住民のエネルギーの自然発生的な爆発としての大衆的実力闘争としてたたかわれたのである。せっかく非公然に持ち込んでアカシア林に埋め込んだ「銃数挺」も使われず、かといって大衆的実力闘争の先頭にたつこともなく、たたかう村民を孤立させていったのである。
「侵略を内乱へ」の実践的たたかい
共産党は内灘闘争を「反米愛国闘争」として今日的に評価している。一九七四年発行の『日本共産党の半世紀』には多数ある内灘闘争の写真からわざわざ「日の丸」を掲げたものを選び出しているのである。
一九五三年はサンフランシスコ条約・日米安保条約発効の年であり、朝鮮戦争を奇貨として、帝国主義として経済的にも政治的にも自立しつつあったのである。沖縄の分離支配と内灘試射場接収は同じであり、日本帝国主義が自国領土の一部をアメリカに差し出してでも、帝国主義独自の利害を追求したということである。
内灘闘争は、米日帝国主義の強盗同盟=安保条約に基づいて強行する朝鮮(アジア)侵略戦争に対する反戦闘争であり、「革命的祖国敗北主義」を貫徹すべき反帝闘争だったのである。
共産党は帝国主義打倒の戦略としての「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の思想を持ち合わせておらず、ただ現象面のみをみて「反米愛国闘争」と位置付けているのであるが、全くの誤りである。
三里塚闘争こそ内灘の後継者
「土地は万年、金は一時」のスローガンをかかげて着弾地坐り込みや実力出漁をたたかった内灘闘争は、今確実に三里塚、北富士、三宅島、沖縄・小松、志賀のたたかいへと引き継がれている。特に出島さんが三里塚現地で見たものこそ・内灘闘争そのものであった。出島さんが目を閉じたその年に、三里塚闘争は決定的飛躍をかちとったのである。敷地内三戸を核として、「農地死守」の絶対反対同盟が厳然とたち、千葉県土地収用委員会の総辞任をかちとり、さらに天神峰現闘本部を鉄筋コンクリート三階建に増築したのである。
世界的規模での帝国主義、スターリン主義、新植民地主義の危機の時代をむかえて、基軸帝国主義であるァメリカ帝国主義が率先してブロック化を推進し、世界経済はまさに分裂化になだれこんでいる。最弱の帝国主義=日本帝国主義は、迫り来る激動を直感的に受け止め、対外侵略と国内反動にうってでてきた。
労働戦線の再編=総評解散=産業報国会化、天皇の死から代替わりにかけての天皇制(イデオロギー)の強制、そして軍事大国化のための三里塚軍事空港建設強行などである。これら一切の攻撃は侵略戦争体制を作り上げるためのものである。われわれは内灘闘争で端緒的に切り開かれた「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の原則に立ってたたかうことを、出島さんの霊前に固く誓うものである。