Quantcast
Channel: アジアと小松
Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

レポート 加賀藩の近世賤民起源について

$
0
0
レポート「加賀藩の近世賤民起源について」   2013.11

 約30年前に金沢で、シンポジウム「加賀一向一揆500年」が開催され、その中で、石尾芳久さんの「一向一揆の身分貶下起源論」が話題になりましたが、当時、加賀一向一揆の身分貶下を確認できる資料がなく、加賀藩における近世賤民(特に藤内)の起源については今後の研究課題とされました。

 田中喜男さんは『部落問題事典』(1986年版)で、「(藤内とは)加賀藩独自の名称であり、加賀藩賤民の最上位に置かれた。成立は明らかではないが、中世以来の賤民系譜の者、落武者、乞食、逃散人、一揆・打ちこわし参加者など、さまざまな人々で形成されていた。最近では中世末から近世初頭にかけ権門化した本願寺の破門で、身分を脱された一向一揆門徒の存在も指摘されている。藤内集団の頭領が藤内頭である。藩初には身分的差別を見ないが、幕藩体制の動揺する元禄期以降に賤民として法的に差別され、寛政期以降には賤民として法的確立をみた。」と書いていますが、田中さんの著書を調べても、加賀藩での身分貶下の根拠となる記述・史料を見いだせませんでした。

 パンフレット『明治政府と部落形成』(村上周成著)には、?近世賤民の起源と?明治以降の部落差別をテーマにして書かれています。著者は、政治的起源説よりも社会的起源説が大手をふるいはじめ、部落差別が権力ではなく社会から自然に発生し、権力が利用しているだけかのように装って、部落解放運動を解体しようとしていることを危惧しています。著者は石尾芳久さんから学び、近畿一円の近世賤民の起源をテーマにしていますが、では、加賀藩の近世賤民制度の起源をどこに求めることができるのでしょうか。

 『東北・北越被差別部落史研究』(1981年)所収の横山勝英論文(被差別部落の規模と分布に関する一考察)、『近世部落の史的研究』(1979年)の田中喜男論文(加賀藩における被差別部落)、『定本 加賀藩被差別部落関係史料集成』(田中喜男著1995年)を参考にしてレポートします。(注:「部落」は明治期以降の呼称ですが、便宜的にこの用語を使います。)

(1)加賀における一向一揆身分貶下の検討
 10年間続いた信長と東本願寺の「石山合戦」は、1580年に「勅命講和」がおこなわれ、終結し、「南加賀二郡を本願寺に返す」ことが確認されました。しかし、信長は約束を反故にして、北加賀を攻撃し、金沢御坊(現金沢城址公園)を攻め落しました(1580年)。1581年山内衆(鈴木出羽守)が再決起し、鳥越城で抵抗しましたが、1582(天正10年)年に、佐久間盛政によって鎮圧され、翌1583年前田利家が金沢御坊に入城しました。

 顕如の『鷺森日記』には、「加洲山内モキリマケテ、三月一日落居、生捕数百人ハタモノ(磔刑)ニアゲラルル」(西田谷功著『加賀一向一揆』)との記録があり、浅香年木さんは「200~300人という数ではなく、数千人という門徒百姓衆の『なで切り』」(『百万石の光と影』)と書いています。

 加賀一向一揆の最終決着は「なで切り」による絶滅型の決着でした。信長はもともと一向一揆を「根切り(根絶やし)」にするという政策をとっていましたが、本能寺の変(1582年)で信長が死んだ後、1585年の秀吉による大田城攻めの戦後処理は「根切り」ではなく、退城衆の幹部を処刑しましたが、多くは殺さないで、身分貶下して近世賤民を形成していきました。

 しかし、鳥越城の落城は、信長の「根切り」政策が、秀吉によって「身分貶下」政策に転換される前の1582年であり、鳥越城でたたかった門徒衆をひとり残らず処刑したようです。したがって、加賀藩では、石尾芳久さんの「一向一揆(身分貶下)起源論」を直接的に適用できないのではないでしょうか。

(2)加賀藩の賤民政策の検討
 (1)中世賤民制度の再編
 横山論文では「利家は1581年に能登に入部したとき、…宮守の藤内にも土地を与えている。この時点ですでに中世賤民の近世賤民への再編に着手している。」と書いています。田中論文では、「前田氏は金沢城に入城すると、藤内・穢多を城下末尾に移し、…近世初頭すでに賤民身分=部落の成立を図った」と書かれています。両者とも、賤民身分の存在を前提にした分析で、起源については確たる論及がありません。

 (2)新たな部落の設置
 1609年、利家は加賀藩の武具・馬具を大量生産するための体制(軍事的)を確立するために、「播磨、木ノ本から皮多を招致」し、第2代藩主利常は「(安土城下)MT町の皮多を浅野川KR橋に移転」「江洲木ノ本の皮多を高岡城下に招致」しています。1634年、第3代藩主家綱が「播磨の皮多を小松に招致した」ことなどが資料的に確認されています。

 横山論文は「近世封建権力によって、職能的に制度化されることによって、賤民の身分に固定化されるものがおり、他方では、中世において賤民視されていた者でも、近世への移行期あるいは近世社会において商人化したり、農民化することによって、脱賤民化を図る者もあった」と書いています。

 加賀藩では、中世賤民のすべてが近世賤民に移行したとは言えないようです。中世賤民の一部を再編しつつ、軍事的政策の展開として、金沢城周辺に新たな部落を創出したとみるべきでしょう。

 (3)藤内の警察的配置
 藩政初期には、多額の御用金の負担を強いられ、物価が高騰し、農民層が分解し、都市への流入・都市下層民の増大を招き、金沢、金石、美川、小松などで、米屋や富豪を襲う打ち壊しが起こり藩体制が動揺しました。

 1652年、城下に他国者や非人乞食が増大し、取り締まるために藤内頭の下役人として、非人頭を浅野川NJ村領と犀川NK村領に置きました。また天和年中(1681~84)に石川郡、河北郡、能美郡にいる藤内に対し、非人締まりを命じ、1691年には盗賊改め方を命じています。このように藤内は警察的な職掌を課せられていました。

 藩権力は藩社会を守るために、藤内に刑政・警察的な末端支配を担わせることによって、藤内は従来以上に社会から疎外され、賤視されていったと考えられます。

 また、加賀藩の部落の配置を見ると、安政5年(1857)に石川県内で騒動が起きた地域と部落所在地の多くが一致し、かつ金沢市内と街道筋に集中しており、これは警察的配置と考えられています。

 (4)藩政危機と賤民政策
 1698年ごろから藩財政が危機に瀕し、農民からの収奪を強化し、農民層が分解し、非人(乞食など)が増大していきました。加賀藩は藤内を「人躰ニ似セ奢申」(1723年)、「元来人外ノ者」「平人エ交リ候筋合之者ニ而ハ無御座(者)」(1776年)と差別キャンペーンを張って、藤内の耕作を制限し、村外移転を決議させたりました。

 天保期(1830~44)にも、藩財政の危機が進行し、村方・町方とも疲弊し、物価が高騰し、農民層が分解し、都市に流入して下層民が増大しました。米屋や富豪を襲う打ち壊しが起き、加賀藩は藤内に刑政・警察的役目を負わせることによって、享和(1801~04)以前は藤内に対してはそれほどの差別意識もなく、同情的であった農民も天保頃になると次第に嫌悪と恐怖の目で見るようになりました。

 (5)加賀藩の非人政策
 1670年代、連年の不作のために、農民が都市に流入し、正業に就けず、無宿者が増大し、非人化(乞食など)していく者が絶えませんでした。非人が金沢に集中したり、盗賊がはびこったりして、社会秩序が不安定になりました。加賀藩は盗賊改め方奉行を設置し、藤内に金沢に入ってくる非人を取り締まらせました。(1698年ごろ、1830年ごろも同様)

 藤内には、耕作を制限し、村外追放するなど、差別政策を強化しましたが、非人に対しては、新田開発、百姓分下人として労働させ、帰農希望者には半年分の飯米を支給しています。これは、非人化した農民を帰農させ、藩財政を立て直す政策です。このように、賤民(藤内と非人)の間にも差別を設けて支配していました。

(3)結び
 田中喜男さんは1986年に発行された『加賀藩被差別部落史研究』のあとがきで、「加賀藩の被差別部落は…幕藩体制が動揺し始める元禄期(1688~1704)に至り法制的差別が始まっている。…差別が幕藩制国家の政治的所産である。しかし、近世被差別部落と中世賤民との関わり、成立期部落民の構成、部落の階層と分化、あるいは天皇制との関わりについては必ずしも明らかにされていない」と語り、10年後の改訂版『定本加賀藩被差別部落関係史料集成』では「加賀藩に見る部落研究は田中論文以降、まったく進展していない」と嘆き、歴史学者の奮起に期待しています。

 以上のように、横山論文、田中論文は、すでに存在している近世賤民(藤内、皮多、非人など)について解説していますが、加賀藩における近世賤民(特に藤内)の起源については明確な回答を与ええていません。

 結論としては、既存の論文では、加賀藩での一向宗門徒の身分貶下は確認できませんでしたが、少なくとも藩体制の危機を迎えるたびに、くりかえし賤民政策を使って、被支配層を分断支配していたことがわかります。部落差別が階級支配と密接に結びついており、権力(天皇制)問題として考えるべきと教えています。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

Trending Articles