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19980115「尹奉吉義士と不二越強制連行訴訟」

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87年目の尹奉吉義士の命日が近づいてきた。
20年前に、尹奉吉義士について書いた一文であるが、
「尹奉吉追悼の視点」だけでも、読んでいただけたら幸いである。


「尹奉吉義士と不二越強制連行訴訟」

通路に暗葬された尹奉吉
 尹奉吉暗葬の地を一緒に歩いた時、Aはボソツとつぶやいた。
「こんなところに眠っていたの」
さらに当惑した様子で、
「私、この道は何度も通ったわ」
 鬱蒼とした森のなかにあるA家の墓地から、左手を見上げると、深緑色の木々の間から、どんよりとした空が広がっている。軍人墓地管理棟の屋根が、その鉛色の空を切り裂くように、鋭角的にせり出している。この建物に向かって、上り坂の、小道を十メートルもあがっていくと、まだ背丈ほども伸びていない、もちの木とむくげに囲まれた暗葬の地がある。
 Aは小さい頃から、よく父母に連れられてお墓参りに来ていた。そこは、お墓に供える仏花のために、桶に水をいっぱいいれて、落ち葉ですべりそうな足もとを気にしながら降りていく、歩き慣れた小道であった。
 そこは、明らかに墓地ではなかった。石川県戦没者墓苑から金沢市営の一般墓地につながる、すこし落差がある坂道であった。当時の発掘作業を写し出す、写真の背景に、うっすらと雪化粧した小道に、歩き易いようにと切り込みを入れた様子がくっきりと写っている。その坂道の中程に尹奉吉の遺休が、十三年間も埋め捨てられていたのである。

尹奉吉は違法に埋葬された
 どうして、このようなむごい埋葬がおこなわれたのだろうか。今日では、「墓地、埋葬に関する法律」があり、決して許されないことが、戦前なら許されたのだろうか。
 戦前の埋葬に関する法規には、明治十七年に発布された太政官布達二五号「墓地及埋葬取締規則」と、翌年発布された内務省達乙四〇号「同規則施行方」がある。尹奉吉を処刑した後、埋葬が、これらの法規に達反しておこなわれたのかどうかについて見ていきたい。
 「規則、第三条」には、「死休は死後二四時間を経過するに非ざれば、埋葬又は火葬をなすことを得ず」と明記されている。尹奉吉は午前七時二七分に処刑され、四〇分に死亡が確認され、そして十時三〇分には埋葬が完了している。わずか三時間しか経っておらず、遺体にはまだぬくもりが残っていたであろう。
 例外として、「伝染病の死体はこの限にあらず」と規定されているが、尹奉吉はもちろんこの例外規定は適用されない。
 次に、埋葬場所については、「規則第一条 墓地及火葬場は管轄庁より許可したる区域に限る」、「同規則施行方 第三条死刑に処せられたる者は、墓地の一隅を区画して、其内に埋葬するものとす」と規定されている。【当時の野田山墓地には「刑務所墓地」の区画があった=本文写真参照】
 墓苑のなかならどこでも良いというわけではない。あくまでも「許可したる区域」に限っているのである。すなわち、通路を「許可したる区域」「墓地」ということはできない。尹奉吉は墓地以外のところに埋め捨てられたのであり、刑法が規定する「死体遺棄罪」にも相当する犯罪なのである。
 さらに、「規則第四条 区長若くは戸長の認可証を得るに非ざれば埋葬又は火葬をなすことを得ず」と書かれている。「同規則施行方」には、第二条「囚徒の死屍を引取り、埋葬又は火葬せんと欲するものは、獄医の死亡証書写しに司獄官の検印を乞ひて差出すべし」と、十二条には「区戸長は前条の届書証書を領収するにあらざれば、埋火葬の認許証を与ふべからず」と念を押して、埋葬地の行政の長の許可が必要であることを規定している。
 すなわち、尹奉吉を野田山墓地に埋葬する前に、金沢市役所(もしくは内川村役場)に許可を取ることが義務づけられているにもかかわらず、陸軍は一切の手続きを無視して、埋葬を強行したのである。しかも、尹奉吉をどこに埋葬したのかについても、ついに報告しなかったのである。

「非合法」手段としての暗葬の選択
 陸軍は、裁判から処刑するところまでは、それなりに「合法性」を追求しながら、処刑後の埋葬の段階では、一転して、「非合法」の暗葬の形式を選択した。処刑から埋葬まで、三時間たらずで、すべての行動を終了し、その三〇分後の十一時には記者会見をおこなっている。
 何という手際の良さだろう。尹奉吉が大阪に拘置されていた一カ月間をかけて、陸軍は処刑地や埋葬地の選択、埋葬の方法や手順を検討し、十八日の金沢移送から、十九日記者会見までを、ひとつの軍事作戦として、綿密な計画を立て、実行に移したと考えるのが自然である。まさに、尹奉吉を処刑し、遺休を闇に葬り、そして朝鮮人排外主義をキャンペーンするための計画的な国家犯罪が立案されたのである。
 それでは何故、暗葬でなければならなかったのか。日帝は満州事変、上海事変を引き起こし、国際的非難の真っ只中の四月二九日、上海天長即祝賀行事を爆砕する赤色テロルが尹奉吉によってたたきつけられたのである。そして尹奉吉は拷問と死刑攻撃にもかかわらず、非転向でたたかいいぬいており、この尹奉吉のたたかいが日本の労働者人民、とりわけ在日朝鮮人労働者をどれほど激励したかは計り知れない。
 陸軍中央はまさに、尹奉吉の処刑が労働者人民のたたかいの炎に油を注ぐことになるのではないかと恐怖し、戦慄していたのである。したがって、尹奉吉処刑の公表は朝鮮人排外主義を煽るためにこそおこなわれても、労働者人民のたたかいと結合させてはならなかったのである。陸軍があえて、暗葬という非合法的な方法を選択しなければならなかったのはこのためである。

闘う石川自由労働組合
 尹奉吉が処刑された一九三二年とはどのような年だったのか。一九二八、九年の二度の弾圧で、日本共産党は壊滅的状態に陥っていたが、労働運動の背骨はいまだ折られてはおらず、労働争議、小作争議は全国で頻繁に起きていた。一九三二年の労働組合数は九三二、組合員数は三八万人弱、組織率は約八%、争議件数は二〇〇〇件を越え、そのうちストライキなどが約九〇〇件も起きている。これらの労働組合の力は一九三九年まで継続され、四〇年に産業報国会が組織されるまで労働者はたたかい続けたのである。
 一九三二年の石川県内の労働運動を見ると、十五労組、二〇〇〇人を組織し、組織率は三・五%で、三〇年代のピークに達している。そしてその最先頭で李心喆、李守燮ら多数の在日朝鮮人活動家がたたかっていたのである。
 石川県内の労働運動はロシア革命の翌年、一九一八年頃から胎動を開始している。『石川県特高警察資料』によれば、「大正七年九月、鉄道金沢工場職工を主とする友愛会金沢支部」を結成した。「共産主義者の介在するありて、漸時運動激化するに至り、大正十四年石川合同労組を結成」したが、一九二八年、結社禁止となり、解散させられた。翌二九年金沢市末町の水道工事で、朝鮮人二人、日本人一人が死亡する、大規模な労災死亡事故が起こり、争議に発展した。
 この争議に勝利し、翌一九三〇年四月、犀川工事場の朝鮮人労働者二五〇人を中心にして、若干の日本人労働者も加わって、石川自由労働組合を結成した。「植民地の即時解放」「帝国主義戦争絶対反対」「日鮮労働者団結せよ」のスローガンが掲げられ、迫り来る侵略戦争にたいするたたかいを呼びかけた。結成大会後のデモでは二〇数人が逮捕されたが、三〇〇人の戦闘的な隊列は八キロ先の犀川村までそのままデモ行進を続けた。
 石川県のメーデーは、一九二九年から組織的に取り組まれた。第一回メーデーは、三〇〇人、翌三〇年は石川自由労働組合が動員をかけて六〇〇人の大メーデーとなった。第三回メーデーは五〇〇人、一九三二年の第四回メーデーは自由労働組合と全協の非合法メーデーとなり、激しい弾圧のなかで、朝鮮人労働者四〇人、日本人労働者十人の結集で勝ち取られたのである。まさに、石川県下の労働運動は朝鮮人労働者によって担われていたといっても過言ではないのである。
 そして三二年十二月、再び七輪線工事(七尾線の中島・穴水間)をめぐって朝鮮人労働者のたたかいが展開されている真っただ中で、尹奉吉が金沢三小牛山で処刑され、野田山に暗葬されたのである。
 尹奉吉は「平穏無風の金沢」だから、金沢で処刑されたのではない。むしろ、全国的にも突出している石川県の朝鮮人労働者のたたかいを解体するために、尹奉吉を金沢で処刑し、新聞を使って、在日朝鮮人にたいする排外主義キャンペーンを張ったと考えるべきなのではないだろうか。石川県には、「わが国民の思想を悪化せしめ、且我会員労働者の幸福を阻害する自由労働組合」と批判する在日朝鮮人の右翼的組織「共栄会(協和会)」があり、尹奉吉のたたかいにたいして、「故国を追われてきた人たちは、内心では『良くやった』と声援を送っていた」ものの、共栄会(協和会)幹部は箝口令を出し、「遺体返還運動」を抑えていたと思われる。
 このように、尹奉吉処刑を排外主義的に利用し、朝鮮人労働者と日本人労働者の間に分断のくさびを打ち、その上で翌一九三三年に強行された「5・23大弾圧」で、石川県内の全協=戦闘的労働運動は壊滅させられたのである。

尹奉吉の戦いと「三二年テーゼ」
 生命を賭けて、日帝軍隊に赤色テロルをたたきつけ、処刑された尹奉吉の叫びを、当時の共産主義者や労働運動活動家はどのように受け止めていたのだろうか。一九七〇年代に、戦前の活動家が中心になって編集した『昭和前期の石川県における労働運動』『昭和七・八年 石川県特高警察資料』には、尹奉吉の戦いと処刑については、巻末の年表以外一行もふれられていない。
 なぜなのだろうか「三二年テーゼ」による路線転換と深い関係があるのではないだろうか。二九年恐慌に始まる三〇年代は、国内では合理化と首切りが労働者を襲い、外に向かっては市場争奪のために中国侵略へと駆り立てられた時代である。三一年の柳条湖事件を突破口とする日帝の中国侵略戦争にたいして、上海虹口公園での尹奉吉の戦いは中国侵略戦争阻止、日帝打倒の烽火となった。
 まさに日本の労働者人民は、尹奉吉の戦いを受け止め、「侵略を内乱へ、日帝打倒」のたたかいに立ち上がらねばならなかったのである。すでに日本共産党満州地方事務局は柳条湖事件直後の九月二一日に、「銃を真の敵、自国ブルジョアジーに差し向けよ!」「帝国主義強盗戦争を打ち倒せ! 日本帝国主義を打ち倒せ!」「中日鮮労働者団結万歳!」と労働者人民に反戦闘争を提起している。
 しかし、日本共産党が打ち出した「三二年テーゼ」では「当面する革命の性質は社会主義革命への強行的転化の傾向を持つブルジョア民主主義革命」と規定し、「当面の段階における主要任務は①天皇制の転覆、②寄生的土地所有の廃止、③七時間労働制の実現…労働者農民兵士ソビエトによる統制の実施」であると規定した。
 日本帝国主義・関東軍が柳条湖事件を引き起こし、中国本土への侵略戦争を拡大しているにもかかわらず、「天皇制と寄生地主制が根本矛盾」であるとし、目の前で進行している侵略戦争に、「民主主義革命」を対置したのである。「三二年テーゼ」によって、日本共産党は、今始まったばかりの日帝の侵略戦争に「内乱を対置して戦う」という革命運動の原則を投げ出してしまったのである(「三二年テーゼ」には、「帝国主義戦争反対」「帝国主義戦争の内乱への転化」が行動スローガンや当面の任務のなかに並べられているが、主要任務からはずされている)。このような、日本共産党の屈服的路線(非合法・非公然の党建設に敗北したことも含めて)への転換のなかで、尹奉吉の大阪移送をキャッチした、反帝同盟は「朝鮮人が産んだ反帝主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を巻き起せ」と、熱烈に呼びかた。しかし、「三二年テーゼ」下の日本共産党には、日帝軍隊に爆弾テロルを敢行した尹奉吉を、今金沢で死刑を執行しようとしている国家権力にたいして、弾劾の行動をとる力もなければ、路線も存在しなかったのである。

尹奉吉追悼の視点
 尹奉吉は一九三二年(昭和七年)四月二九日、上海で行なわれた「天長節祝賀会」会場の演壇に爆弾を投げ、上海派遣軍司令官=白川義則陸軍大将を爆殺し、他多数を負傷させ逮捕された。同年十二月十九日、金沢市三小牛山で銃殺刑に処せられた。日帝に処刑され、通路に暗葬され、死後も踏みにじられた尹奉吉を私たちはどのように追悼しなければならないのか。
 今日に生きる私たちの人生観の問題である。尹奉吉にたいする歴史的評価の核心は、第一に、尹奉吉が朝鮮・中国にたいして侵略戦争をしかける天皇の軍隊に爆弾を投げ、上海占領軍司令官白川をはじめ軍幹部を多数殲滅したということである。第二は、上海占領軍の天長節祝賀会を粉砕したということである。第三は、日帝の朝鮮・中国侵略戦争にたいして、尹奉吉が朝鮮・中国人民の最先頭で戦い、それ故に処刑され、野田山に暗葬されたということである。
 尹奉吉の戦いを総括する時、この三点から絶対に目をそらせてはならない。とりわけ、尹奉吉追悼の核心中の核心は尹奉吉が爆弾で武装して、虹口公園に行き、侵略軍隊を殲滅したということにある。この核心点を避け、「暗葬」に総括の重点を置くことは誤りである。凶暴な日帝軍隊によって「されるがままのアジア人民」という虚偽のアジア人民像を形成してはならない。アジア人民は、日本の労働者階級人民よりはるかに勇敢に、日帝軍隊と戦いぬいたのである。それゆえ、尹奉吉は処刑され、暗葬されたのである。そこには日帝の朝鮮・中国・アジア人民の戦いにたいする恐怖と危機感が存在しているのである。
 尹奉吉が生命を賭け、上海で挑んだことは朝鮮を植民地化し、中国を侵略しようとしている日帝(軍隊)を打倒することであった。一九三二年尹奉吉は戦いを貴徹し、意志を半ばにして処刑されたが、アジア人民は尹奉吉の戦いに激励され、全域で抵抗し、ついに一九四五年目帝に敗戦を強制したのである。
 しかし日帝は帝国主義として復活し、日米新ガイドラインによってアジア侵略の道に再び踏み込もうとしている。私たちは、今アジア侵略を再開しようとしている日帝にたいして、尹奉吉の意志を引き継いでたたかわねばならない。第一に、アジア侵略のための新ガイドラインと有事立法を絶対に粉砕すること、第二に、沖縄・小松基地をアジアへの出撃基地にさせないこと、第三に、不二越強制連行控訴審をはじめとして、各地で巻き起こる戦争責任追及のたたかいに合流することである。

不二越強制連行裁判との一体性
 日本帝国主義の戦争責任を追及する訴訟が全国的にたたかわれている。名古屋高裁金沢支部では、金景錫さん(不二越訴訟原告団団長、NKK原告)、崔福年さん、李鐘淑さん、高徳煥さんの三人の原告が不二越強制連行訴訟控訴審をたたかっている。富山地裁は三原告の主張を全面的に認めながら、「時効」によって切り捨てた。金沢高裁ではこの「時効」の壁を打ち砕くために全力でたたかっている。
 昨年(一九九七年)九月二五日、富山社会保険事務所は崔福年さんに十八円の「厚生年金脱退手当て金」支給を決定した。朝鮮から強制連行し、給料も支払わずに働かせ、指を奪い、五〇年間謝罪もせず、挙げ句の果てに、たったの「十八円」でケリをつけようというのか。日帝・資本はいつまで朝鮮を植民地扱いすれば気が済むのか。
 だから、不二越訴訟原告団はこの裁判を『第二の独立運動』としてたたかっている。朝鮮、中国、アジアには五〇年後の今も、かつて尹奉吉が上海で抱いたのと同じ怒りが煮えたぎっているのである。
 不二越訴訟原告団は、尹奉吉が処刑され、暗葬され、踏みにじられたた金沢の地で、尹奉吉の意志を受け継ぎ、日帝に謝罪させるまで、絶対に終わらないたたかいであると宣言している。
 日本の労働者階級人民は、不二越強制連行訴訟を階級性回復のたたかいとして全力をあげ、新ガイドラインのもとで、再び侵略を繰り返そうとしている日本帝国主義を根こそぎ打倒することが求められているのである。   (一九九八年一月十五日)

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