20200227 室生犀星と戦争
『動物詩集』
シタベニハゴロモについて調べていて、室生犀星の『動物詩集』の存在を知った。1943年(54歳)、戦争の真っただ中の詩集である。
序詩には「生きものの/いのちをとらば/生きものはかなしかるらん。/生きものをかなしがらすな。/生きもののいのちをとるな。」とあり、戦時中に、「(人を)殺すな」というメッセージかと思ったが、読み進めていくと、「蛤のうた」があり、「蛤の背中を/とんとんたたくものがゐる/誰だとたづねると/浅蜊だといふ。/蛤と浅蜊は/兄弟のやうなものだらう。/蛤にだかれて/浅蜊は寝てゐます、/蛤の背中に海が怒つて/太平洋はいま戦争中だ。/そしていくさは/大勝利だ。」と、やはり戦争翼賛詩である。
54歳の犀星が戦争の真っただ中で、言論統制の真っただ中で、ひいき目に見て戦争を忌避して、命の大切さを歌っているのだろうが、ならば、戦争という人間の命を奪う行為を賛美していいはずがない。
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『美以久佐(みいくさ)』
それで、犀星と戦争という観点から、インターネット検索すると、国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901269 )に詩集『美以久佐(みいくさ)』がヒットした。目次を見ると、
序詩 勝たせたまへ
日本の歌 みいくさを詠める
臣らの歌/十二月八日/マニラ陥落/日本の朝/怒濤/ふたたびその日/遠天/シンガポール陥落す
みいくさ 銃後を詠める
勝たせたまへ/日本の歌/今年の春/夜半の文/女性大歌
哀笛集 さけがたきもろもろの哀歌
よもすがら/生きのびし人/静か居
野のものの歌 野人生計
歴史の祭典 皇紀二千六百年奉祝日に/希望の正体/きりぎりす/磯浜/天才の世界/乳緑の古典/野に記されたもの/乏しき青果をかざりて/えにしあらば/みみずあはれ/野のものの歌
蝿の歌 続野人生計
僕の庭/僕の家/市井/行春/麗日/塵労/少年行
山ざと 生ける鮎 十首
哀歌 街の歌 九首
あらいそ集 乏しき炭火 十七首
「序詩 勝たせたまへ」
「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」
犀星は心から戦争の勝利を願って、「美以久佐(みいくさ)」を出版したのである。そのなかからいくつか拾ってみよう。
「十二月八日」
「何かを言ひあらはさうとする者/そして言ひあらはせない者/よろこびの大きさに打たれて/そこで凝乎として喜んでゐる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人ははじめて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらはしたいとあせる/勝利を自分のものにするのは勿体ない/それを何かで表はしたい、/何かをつくり上げたい/絵も彫刻も音楽も/そして文学も勝利にぶら下がる/何かをつくり/何かをゑがき/自分のよろこびを人に示したい/自分も臣の一人であり/臣のいのちをまもり/それゆえに壽をつくり上げたい、/菲才いま至らずなどとは云はない、/この日何かをつくり/何かをのこしたい、/文学の徒の一人としてそれをなし遂げたいのだ。」
1941年の犀星は文学者として、パールハーバー奇襲のよろこびを表現し、文学の徒の一人として、これらの詩を後世に残したいと詠いながら、宮木孝子さんによれば、1962年犀星自らが編集した『室生犀星全詩集』では、詩集『美以久佐』の詩をすべて削除している(1967年刊の『室生犀星全集』第8巻には『美以久佐(抄)』が掲載されている)。
削除の理由は、「心の濁りを見たくない」からだという。みずからが天皇の「臣民」として、戦争政策に「迎合」し、戦争を「賛美」した自分自身の姿を見るに耐えなかったのだろうが、犀星自身も、私たちも、戦争詩を戦争詩として見すえ、「私はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩を書くべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書き上げなければならなかった」(犀星)という、「圧政」の事情を詳らかにすることによって、はじめて戦争責任を果たす端緒になるのではないだろうか。
「マニラ陥落」
「栄光 十二月八日、/あの日から幾日経つたか、/あの日から何を我々は考へたか、/あの日から世界の国々の眼が、/どんなふうに日本を見直したか、/グアムは陥ち、/ウエーキも陥ち/つひに香港をも陥し入れた。/そして怒りに怒つた軍靴は突進した。/マレーへ/英領ボルネオへ/シンガポールへ/砲は砲を抱き/機は機を招き/鑑(ふね)は鑑列を敷き/歯と歯はカチカチ鳴り/マニラへ/つひにマニラをも袋叩きにした、/マニラは藁(もやし)のやうに崩れた/思うても見よ/我々の祖母が秋の夜の賃取仕事に/ほそい悲しいマニラ麻の紵(からむし)をつなぎ/それら凡てを搾取したあのマニラ、/死んだ多くの祖母よ母だちよ/あなた方を賃仕事でくるしめた/マニラに日本の旗が翻った、/祖母よ 母よ 姉よ/むかし天長節だけに見られた/日の丸の旗がマニラの頂きに建つた、/あなた方の孫達が戦つたのだ、/さあ 表に出て云はう、/有難うとお礼をいはうではないか、」
1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時に東南アジア侵略に踏み込んだ。軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと、踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。マニラに日の丸を立てることが「祖母や母への搾取」にたいする復讐だという。
「紵麻」の歴史は古い。魏志倭人伝(3世紀末)には「紵麻」という記述があり、日本では古来から麻を使って紐や衣服を作っていた。犀星の祖母の世代の女性は農作業の傍ら日本産の麻を使って衣類や農作業用の縄を作っていたのであろう。農村の悲惨は農村の悲惨としてえがき、外に転嫁しないでほしい。それにしても、フィリピン(マニラ)が犀星の祖母を搾取していたというのは、……。
フィリピン自生のマニラ麻は繊維が強く、軍事用ロープに最適なので、ミンダナオ島の日本農場で栽培され、日本に輸入(略奪)されていたのである。
『動物詩集』
シタベニハゴロモについて調べていて、室生犀星の『動物詩集』の存在を知った。1943年(54歳)、戦争の真っただ中の詩集である。
序詩には「生きものの/いのちをとらば/生きものはかなしかるらん。/生きものをかなしがらすな。/生きもののいのちをとるな。」とあり、戦時中に、「(人を)殺すな」というメッセージかと思ったが、読み進めていくと、「蛤のうた」があり、「蛤の背中を/とんとんたたくものがゐる/誰だとたづねると/浅蜊だといふ。/蛤と浅蜊は/兄弟のやうなものだらう。/蛤にだかれて/浅蜊は寝てゐます、/蛤の背中に海が怒つて/太平洋はいま戦争中だ。/そしていくさは/大勝利だ。」と、やはり戦争翼賛詩である。
54歳の犀星が戦争の真っただ中で、言論統制の真っただ中で、ひいき目に見て戦争を忌避して、命の大切さを歌っているのだろうが、ならば、戦争という人間の命を奪う行為を賛美していいはずがない。


『美以久佐(みいくさ)』
それで、犀星と戦争という観点から、インターネット検索すると、国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901269 )に詩集『美以久佐(みいくさ)』がヒットした。目次を見ると、
序詩 勝たせたまへ
日本の歌 みいくさを詠める
臣らの歌/十二月八日/マニラ陥落/日本の朝/怒濤/ふたたびその日/遠天/シンガポール陥落す
みいくさ 銃後を詠める
勝たせたまへ/日本の歌/今年の春/夜半の文/女性大歌
哀笛集 さけがたきもろもろの哀歌
よもすがら/生きのびし人/静か居
野のものの歌 野人生計
歴史の祭典 皇紀二千六百年奉祝日に/希望の正体/きりぎりす/磯浜/天才の世界/乳緑の古典/野に記されたもの/乏しき青果をかざりて/えにしあらば/みみずあはれ/野のものの歌
蝿の歌 続野人生計
僕の庭/僕の家/市井/行春/麗日/塵労/少年行
山ざと 生ける鮎 十首
哀歌 街の歌 九首
あらいそ集 乏しき炭火 十七首
「序詩 勝たせたまへ」
「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」
犀星は心から戦争の勝利を願って、「美以久佐(みいくさ)」を出版したのである。そのなかからいくつか拾ってみよう。
「十二月八日」
「何かを言ひあらはさうとする者/そして言ひあらはせない者/よろこびの大きさに打たれて/そこで凝乎として喜んでゐる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人ははじめて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらはしたいとあせる/勝利を自分のものにするのは勿体ない/それを何かで表はしたい、/何かをつくり上げたい/絵も彫刻も音楽も/そして文学も勝利にぶら下がる/何かをつくり/何かをゑがき/自分のよろこびを人に示したい/自分も臣の一人であり/臣のいのちをまもり/それゆえに壽をつくり上げたい、/菲才いま至らずなどとは云はない、/この日何かをつくり/何かをのこしたい、/文学の徒の一人としてそれをなし遂げたいのだ。」
1941年の犀星は文学者として、パールハーバー奇襲のよろこびを表現し、文学の徒の一人として、これらの詩を後世に残したいと詠いながら、宮木孝子さんによれば、1962年犀星自らが編集した『室生犀星全詩集』では、詩集『美以久佐』の詩をすべて削除している(1967年刊の『室生犀星全集』第8巻には『美以久佐(抄)』が掲載されている)。
削除の理由は、「心の濁りを見たくない」からだという。みずからが天皇の「臣民」として、戦争政策に「迎合」し、戦争を「賛美」した自分自身の姿を見るに耐えなかったのだろうが、犀星自身も、私たちも、戦争詩を戦争詩として見すえ、「私はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩を書くべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書き上げなければならなかった」(犀星)という、「圧政」の事情を詳らかにすることによって、はじめて戦争責任を果たす端緒になるのではないだろうか。
「マニラ陥落」
「栄光 十二月八日、/あの日から幾日経つたか、/あの日から何を我々は考へたか、/あの日から世界の国々の眼が、/どんなふうに日本を見直したか、/グアムは陥ち、/ウエーキも陥ち/つひに香港をも陥し入れた。/そして怒りに怒つた軍靴は突進した。/マレーへ/英領ボルネオへ/シンガポールへ/砲は砲を抱き/機は機を招き/鑑(ふね)は鑑列を敷き/歯と歯はカチカチ鳴り/マニラへ/つひにマニラをも袋叩きにした、/マニラは藁(もやし)のやうに崩れた/思うても見よ/我々の祖母が秋の夜の賃取仕事に/ほそい悲しいマニラ麻の紵(からむし)をつなぎ/それら凡てを搾取したあのマニラ、/死んだ多くの祖母よ母だちよ/あなた方を賃仕事でくるしめた/マニラに日本の旗が翻った、/祖母よ 母よ 姉よ/むかし天長節だけに見られた/日の丸の旗がマニラの頂きに建つた、/あなた方の孫達が戦つたのだ、/さあ 表に出て云はう、/有難うとお礼をいはうではないか、」
1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時に東南アジア侵略に踏み込んだ。軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと、踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。マニラに日の丸を立てることが「祖母や母への搾取」にたいする復讐だという。
「紵麻」の歴史は古い。魏志倭人伝(3世紀末)には「紵麻」という記述があり、日本では古来から麻を使って紐や衣服を作っていた。犀星の祖母の世代の女性は農作業の傍ら日本産の麻を使って衣類や農作業用の縄を作っていたのであろう。農村の悲惨は農村の悲惨としてえがき、外に転嫁しないでほしい。それにしても、フィリピン(マニラ)が犀星の祖母を搾取していたというのは、……。
フィリピン自生のマニラ麻は繊維が強く、軍事用ロープに最適なので、ミンダナオ島の日本農場で栽培され、日本に輸入(略奪)されていたのである。