文弥へ 2021年10月4日
文弥が遠くへ旅立ってから、もう9年も過ぎてしまった。
はじめて会ったのは、あの汚い映研の部室。
段ベッドだったか、天井裏だったか、
ごそごそと音がして、はしごを伝って降りてきて、
やおら鏡に向かって、その濃い髭を剃り、
オールバックの髪をなでつけていた。
まあ、おしゃれな男だった。
そして、
1969年、教養部のバリケード封鎖が始まって、
要求って? 確か「佐藤訪米反対」の政治バリストだった。
手続きだって、ぶっ飛ばして、封鎖してしまったのだ。
民青が封鎖反対のデモをして、
革マル派が封鎖解除に押しかけて来て、
石が飛び、火炎瓶が飛び、
文弥も、当然バリケードのなかで、生き生きとしていた。
父親が心配して駆けつけてきたっけ。
文弥が、ぼくを、手招きして、
「親父を何とかしてくれないか」と。
なんと言ったか、もう忘れたが、
父親は肩を落として帰っていった。
やがて、戦争が始まって、
文弥はぼくの前から消えていった。
長い、音信不通の時間があって、
あるとき、とあるルートで連絡が来て、
とあるデパートの売り場が指定されて、
恋人に会うように、いそいそと、
会いに行ったっけ。
細い足に、ぴったり張り付いたジーパンがまだ似合っていた。
用件が済むと、
「もう会うことはないだろう」と、
軽く一言残して人混みに消えていった。
父親が会いたがっているから、
たまには、顔を見せてもいいんじゃないか、
と、伝えてみたが、
会いに行ったのだろうか。
そのころ、髪がうすくなり、背を丸くした父親が、
ときどきぼくに会いに来て、
「文弥に会わせてほしい」と、父親の情の濃さを感じていたからだ。
それからまた長い長い年月が過ぎて、
肺がんを患った文弥に再会した。
そこには、かつてお会いした父親のような姿があった。
それから、毎年春の、京大の、
反入管交流集会で、顔を合わせ、
最後の別れが近づく日を待っていた。
2012年12月、文弥危篤の知らせが届いたが、
ぼくは、会いには行かなかった。
「やぁ」と声をかけても、
「やぁ」と応えてくれない文弥に会ったところで、…。
ぼくには、「〇〇くん」という声が、
今も耳の奥に残っているから。
それで十分だ。
さようなら、文弥。
それから9年が過ぎた。
文弥が遠くへ旅立ってから、もう9年も過ぎてしまった。
はじめて会ったのは、あの汚い映研の部室。
段ベッドだったか、天井裏だったか、
ごそごそと音がして、はしごを伝って降りてきて、
やおら鏡に向かって、その濃い髭を剃り、
オールバックの髪をなでつけていた。
まあ、おしゃれな男だった。
そして、
1969年、教養部のバリケード封鎖が始まって、
要求って? 確か「佐藤訪米反対」の政治バリストだった。
手続きだって、ぶっ飛ばして、封鎖してしまったのだ。
民青が封鎖反対のデモをして、
革マル派が封鎖解除に押しかけて来て、
石が飛び、火炎瓶が飛び、
文弥も、当然バリケードのなかで、生き生きとしていた。
父親が心配して駆けつけてきたっけ。
文弥が、ぼくを、手招きして、
「親父を何とかしてくれないか」と。
なんと言ったか、もう忘れたが、
父親は肩を落として帰っていった。
やがて、戦争が始まって、
文弥はぼくの前から消えていった。
長い、音信不通の時間があって、
あるとき、とあるルートで連絡が来て、
とあるデパートの売り場が指定されて、
恋人に会うように、いそいそと、
会いに行ったっけ。
細い足に、ぴったり張り付いたジーパンがまだ似合っていた。
用件が済むと、
「もう会うことはないだろう」と、
軽く一言残して人混みに消えていった。
父親が会いたがっているから、
たまには、顔を見せてもいいんじゃないか、
と、伝えてみたが、
会いに行ったのだろうか。
そのころ、髪がうすくなり、背を丸くした父親が、
ときどきぼくに会いに来て、
「文弥に会わせてほしい」と、父親の情の濃さを感じていたからだ。
それからまた長い長い年月が過ぎて、
肺がんを患った文弥に再会した。
そこには、かつてお会いした父親のような姿があった。
それから、毎年春の、京大の、
反入管交流集会で、顔を合わせ、
最後の別れが近づく日を待っていた。
2012年12月、文弥危篤の知らせが届いたが、
ぼくは、会いには行かなかった。
「やぁ」と声をかけても、
「やぁ」と応えてくれない文弥に会ったところで、…。
ぼくには、「〇〇くん」という声が、
今も耳の奥に残っているから。
それで十分だ。
さようなら、文弥。
それから9年が過ぎた。