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20220630 ロシア兵捕虜と尹奉吉について

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20220630 ロシア兵捕虜と尹奉吉について

ロシア兵捕虜の墓
 金沢野田山にロシア兵捕虜の墓碑が10基あります。「金沢のロシア人墓地 国境を越えた鎮魂の記録」(石川県ロシア協会1992年発行)によれば、奉天会戦(1905年2月~)で降伏したロシア将兵約6000人が金沢市内の勧業博物館(兼六園内)、第7連隊兵舎、広坂兵器支廠、小立野天徳院、大鋸谷機業工場、東西両別院、大乗寺、蛤坂妙慶寺、野町光專寺などに収容されました(3月~)。
 日露講和(1905年9月)の後、重傷者5人を残して全員が帰国しました。帰還前に病死した11人の遺骨のうち、1人分は帰国しましたが、他の10人は野田山陸軍墓地(現戦没者墓苑)の一角に葬られました(1948年に現在地に移転)。(左図:ロシア兵捕虜到着、右図:ロシア兵捕虜病死・葬列)

 

捕虜の原則
 当時の『北国新聞』(1905/3/30)の「俘虜の原則」という記事には、「俘虜は罪人或は復讐の目的とす可きものにあらざるを以て、只敵の戦闘力を殺減する為に、一時其自由を奪ふ所の人物たる観念を以て之を遇し、輸送の途中にありても勉めて自由を束縛せず、殊に近来に至りては其収容地域にありても自由散歩又は民屋居住等を許し、以て精神上肉体上の慰安を与ふることに勉め居れり」と、戦時捕虜は一時的に預かっているだけであり、復讐のために捕獲してきたのではなく、その間、兵士たちの自由を束縛してはならないとしています。
 その上で、「俘虜の給養」という記事には、「海牙(ヘーグ)に於て開かれたる万国平和会議最終決議書陸戦法規宣言第七条」を引用して、「政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務あり」、「食料寝具及被覆に関し、俘虜は之を捕獲したる政府の軍隊と対等の取扱を受く可し」、「我国に於ては…将校下士卒の階級に応じ、日に一円五十銭より五十銭までの給養をなせり」、「各自の希望に因り、自己の為に割烹・掃除等の労を執(と)らしむる外は如何なる労働をも課せず」、「彼等は凡て必要の物品を無代にて支給せられ」などと、具体的な処遇について書かれています。
 「俘虜は罪人或は復讐の目的とす可きものにあらず」と明記されていますが、1932年の上海虹口公園で戦勝集会をおこなっていた侵略の軍隊・日本軍にたいして、爆弾を投擲した韓人愛国団の尹奉吉を戦時捕虜としてではなく、「罪人」として扱い、復讐の目的をもって処刑したことと、あまりにも落差があります。

尹奉吉は戦時捕虜
 尹奉吉は朝鮮で1908年に生まれ、育ち、日本の植民地支配の不当性を感じ、1927年新幹(韓)会礼山支部を結成するなど、独立運動に係わり、治安維持法による弾圧を予見して、1930年中国に亡命し、上海にある金九らの臨時政府(韓人愛国団)に参加し、1932年1月日本軍が上海に上陸し(上海事変)、侵略戦争の真っ只中で、中国人民とともに日本帝国主義打倒のたたかいに合流しました。
 尹奉吉は上海虹口公園で開かれた「戦勝集会」(1932/4/29)に単身乗り込み、演壇に向かって爆弾を投げ、白川大将らが戦傷死しました。
 すなわち、陸軍省人事局恩給課の公文書(1932/6)によれば、「白川大将の死を普通公務死とせず、戦傷死として取扱う」(下図左)としているとおり、尹奉吉の行為は「交戦者」としての戦争行為であり、その後捕捉されるのですが、上海派遣軍は尹奉吉を捕虜として扱うべきところを、殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反の刑法犯として軍法会議で裁判をおこない、死刑判決を下し、1932年12月19日に金沢三小牛山で銃殺刑に処しました(まさに復讐)。
 捕虜を軍法会議にかける場合は、人道の罪を犯した場合であって、通常の戦闘行為で自軍(日本軍)に被害を与えた「交戦者(敵兵)」を裁くことができるのかどうか、「軍律規定」では、無差別空爆や民間人への攻撃をおこなった敵兵捕虜を処罰対象にしており、尹奉吉を被告人として裁くことができるのか、疑問です。
 注:軍法会議法第1條 軍法会議は左に記載したる者に対し其の犯罪に付き裁判権を有す 四 俘虜
 注:「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦条約1899年)「第2章 俘虜」の第4条(俘虜は敵の政府の権内に属し、…俘虜は人道をもって取り扱うこと)、第7条(政府は其の権内に在る捕虜を給養すへき義務を有する)。
 注:1942年10月19日、防衛総司令官の布告「大日本帝国領土を空襲し、我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして、非道の行為ありたる者は、軍律会議に附し、死または重罰に処す」
   「軍律規定」第2条 軍罰に処す者として、(1)普通人民の威嚇または殺傷を目的とする爆撃、射撃その他の攻撃、(2)非軍事的性質の私有財産の破壊毀損焼毀を目的とする爆撃、射撃その他の攻撃、(3)止むを得ない場合以外の軍事目標以外への爆撃、射撃その他の攻撃、(4)特に人道を無視した暴虐非道の行為を行った者。上記に該当するものは撃墜されて戦時捕虜となっても、死刑(銃殺刑)。

 

第九師団による遺体侮辱
 処刑後、尹奉吉の遺体を遺族に渡さず、密かに野田山墓地の通路に埋め(暗葬地)、金沢市民の踏むに任せるという非人道的な処理をおこない、13年後の1946年3月に在日朝鮮人によって発掘され、遺体は本国に移送され、再埋葬されたが、回収できなかった一部の遺骨はやむなくそのまま埋め戻されました。
 本来ならば、日本人市民(石川県・金沢市の行政)の手で、日本陸軍(第九師団)によって暗葬された尹奉吉を慰霊・追悼すべく、石碑もしくは墓石設置が必要であるにもかかわらず、その後も金沢市民の踏むに任せられました。
 時が過ぎ、1986年には石川県は無神経にも暗葬地の真上にゴミ焼却炉を設置し(1990年撤去、上図右)、1987年に在日朝鮮人の手で尹奉吉暗葬地を再特定し、1992年金沢市が囲いを設けて墓域を保護するまで、金沢市民によって踏まれ続けました(暗葬から60年間)。暗葬地から十数メートル北側に筆者家の墓地があり、墓参の度に暗葬地の上を歩きました。
 このように、尹奉吉は日本陸軍(第九師団)、石川県、金沢市、金沢市民によって死後も虐げられ、踏みにじられてきたのであり、1992年に尹奉吉の慰霊・追悼のために、金沢市が殉国碑建設用地と暗葬地を提供(永代使用)することは人道的見地から見て、当然の責務であり、金沢市当局はその責任を十分に果たしました。

<資料>ロシア兵捕虜(北国新聞)

捕虜来(ほりょきたる) (1905年3月28日付『北国新聞』)
 当地に収容さるべき奉天大会戦に於ける露国捕虜の内、下士卒七百名一昨夜の十二時二十二分当駅着の列車にて輸送されしを初めとして、昨日も二回の輸送ありたり。
 其の筋にては万一を慮りて到着の日時を示さず最も秘密に附しありしと雖も、是等憐れむべき珍客の其処(いか)なる様なるかを見んものと急焦(あせ)りし市民等は逸早くも其の日時を聞き知り、其の都度金沢停車場へ押掛けたる者却々(ずいぶん)に多かりき。
 去れば岡本憲兵隊長以下数十名の憲兵及び茂泉警部長以下各警部巡査殆んど総出の姿にて出張警戒をなしたり。
 先づ一昨夜の如きは停車場より白銀町通りを横安江町なる収容所東別院に至る沿道一間毎に巡査等を配置し厳重なる警戒をなし、又た当師団より繰出せる軍隊は兵数殆んど四五百名、何れも着剣にてプラットホームに整列し列車の到着を待構へたり。
 軈(やが)て定刻と覚しき頃、この珍客を乗せたる列車は夜陰の寂莫を破る汽笛の音と共に無事到着しぬ。附添へるは監督将校一名、下士卒十七名、通訳一名にて、先づ一客車置きに下車せしめて点検をなし、更に停車場前の広場に於て整列せしめ、我軍隊は着剣の儘前列二名、後列二名及左右にありて衛護し、捕虜は其の銃剣の光に物怯ぢしつゝ、悄々として予定の収容所なる東別院へと送られたり。
 昨日午前十一時二十一分着の列車にては同じく下士卒約七百名の輸送あり、這も前(こもまえ)同様の順序にて前後左右を護衛されつゝ、歩兵第七連隊兵舎に収容され、又同夜十二時二十二分着にては将校三十名従卒三十名及兵卒五百五十名の輸送あり。将校は停車場より俥にて直に公園内博物館に収用され、従卒は徒歩にて同館に送られ、他の兵卒五百五十名は同じく同連隊兵舎に収容されぬ。
 彼等は其見掛に依らず従順なりしも、哀れむべく其有様を見るに其顔は何れも長日月間戦地に在りて、幾風雨に曝露されし名残を止めて、薄黒く垢染み眼のみ物凄く光らせたり。服装は肩章の附きし黒羅紗もあれば、上着なくして単に毛糸のみなるもあり、カーキー色の外套を着けたるあれば獣皮の外套らしきを着たるあり。中には鍋らしき物を携へたる者、鼠色となりたる袋を肩に掛けたる者など、何れも一種いふべからざる異臭を放ちき。
 斯く服装等には一定の規制なけれど、靴は殆んど皆な赤皮の長靴を穿ち居たり。帽子も下士は赤又は白の大黒帽を冠り、卒は黒又は白の山羊の毛帽子と稍や一定の形跡を留めたり。其の状恰も芝居にて見る百日髭(かづら)の如く、斯の顔にして斯の帽を冠れる一見物凄き許りなりき。
 年齢は二十三四歳と思はるゝが若き者にて、中には五十に近かるべく見受らるゝもあり、身長の如きも一定せず我が普通人より短小なるものあり。概して我が兵士と大差なけれど軀幹偉大にして強兵と頷かるゝ者も少なからず。鬼をも挫(ひし)がん大男の力尽きて我軍門に降(くだ)れるかと思へば、哀れにも亦憐れむべからずや。沿道に群集せる老若男女は此の珍客を見遁すまじと、犇(ひし)めきつゝ、是を迎へ之を送りたりしが、捕虜等は護送の途中も眼を挙げて、変れる山河に故山を偲ぶ悲しげなる色の其の面(おもて)に表はれざるはなかりき。
 昨日の如き東別院に於ける捕虜は三五同門内を逍遙しつゝ、至って呑気らしく見江(みえ)たるも、当人の心の中は呑気にてもあるまじ。思へば彼等も祖国の為に戦へる勇士なり。不幸にして我軍門に降(くだり)を乞はざるべからざるに至り、今敵国に送らるゝ其の心情坐ろに同情に堪へず。可憐なる彼等の為に一滴の涙なき能はざるなり。彼等捕虜は哀れむべきものなり、憎むべき所なし。苟(いやしく)も彼等に向って嘲笑し、非行を為さんは断じて大国民の襟度(きんど=度量)にあらざるなり。

俘虜の取扱法 (1905年3月30日付『「北國新聞」』)
 敵軍新来の俘虜は今や続々到着しつゝあり、露国が戦闘行為を断念せざる以上、今日迄の例を以て推察すれば、今後の会戦に際しても、更に多数の俘虜が我政府の権内に属し来たるや測る可からず。今之が取扱等に関して聞き得たる所を左に記す。▲俘虜の原則 俘虜とは戦闘力を抛棄して我軍の権内に入りたる敵兵なることを言ふまでもなき所なるが、俘虜は国家の俘虜にして、之を揶揄したる一個人又は一軍隊の俘虜にあらず。左れば我政府は各軍に命じて俘虜を得たるときは、成る可く速に内地に輸送して、凡て大本営管理の下に置くことなどとなし居れり。又俘虜は罪人或は復讐の目的とす可きものにあらざるを以て、只敵の戦闘力を殺減する為に、一時其自由を奪ふ所の人物たる観念を以て之を遇し輸送の途中にの途中ありても、勉めて自由を束縛せず、殊に近来に至りては其収容地域にありても自由散歩又は民屋居住等を許し、以て精神上肉体上の慰安を与ふることに勉め居れり。斯くの如きは俘虜の原則に準拠する以外に於て我国の非常なる特遇と謂はざる可からず。▲俘虜の居住 露国にありては千八百十二年仏国との戦役に於て得たる俘虜を西比利亜(シベリア)の寒地に送り、又南北戦争に於て南方政府は之を船内及孤島の狭区に幽閉し、殆んど犯人同様の取扱ひを為したることありしが、我国に於ては日清戦争の当時と雖も、既に懇切周到の注意を以て之を遇し、清国人の如き殊に当時にありて無知の民衆に侮辱せらるゝ資性を有する俘虜に対しては勉めて清浄神聖なる大寺院の境内に留置し、斯かる顧慮ありして外出を禁じたり。露国俘虜に対しては又罪人集治の場所に近づくことを避け、成る可く留守師団の管下に於て、市塵を遠かれる空気清涼四囲快潤の地に居住地を卜(ぼく)し、且更に任意の起臥生活を営ましむることの特典を与へたり。▲俘虜の給養 海牙(ヘーグ)に於て開かれたる万国平和会議最終決議書陸戦法規宣言第七条には「政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務あり」と規定し、「交戦国間に特別の協定なき場合には、食料寝具及被覆に関し、俘虜は之を捕獲したる政府の軍隊と対等の取扱を受く可し」との箇条を設けあるが、我国に於ては彼我の生活程度に相違ありとて、会戦の当初俘虜給養の方法を規定し、将校下士卒の階級に応じ、日に一円五十銭より五十銭までの給養をなせり。又実際取締の必要上一定の場処に留置する場合と雖も将校は別室に置きて兵卒と待遇を異にし、各自の希望に因り、自己の為に割烹・掃除等の労を執(と)らしむる外は如何なる労働をも課せず、将校士官にして給料の支給を受けんとする場合には、之が支給を拒まずと雖も、彼等は凡て必要の物品を無代にて支給せられ、且自己の希望に因りて給養費を受領し、之を以て任意の生活を為し得るの外、被服の給与私有品の保管監督を依頼し居れり。

俘虜雑俎 (1905年3月30日付『北國新聞』)
 ▲公園内収容所(勧業博物館内)に於ける将校俘虜の現在数三十七名中大佐一名、中佐三名、一等大尉七名あり、其他は大少尉、大学生等なることは昨紙所報せしが、今右総員の氏名を列挙せば、左の如し。但各官名の上に兵種を記載せざるものは総て歩兵科なり。
 侯爵カンタクージン中佐 シェベレフ中佐 レエオンテイエフ中佐 ウオイノオランスキー中佐 シチェグロフ一等大尉 ゴニヤーク一等大尉 レシノー一等大尉 コルメートスキー一等大尉 カロソフ騎兵一等大尉 マルコフ大尉 トルベーエフ大尉 オヂーズメテフスキー二等大尉 カルダシェフスキー大尉 レンチェフスキー一等大尉 リヤーシク大尉 シャントイリ少尉 アクオーリン少尉 ベルマン少尉 マトウエーエフ少尉、リフテル少尉、マスローフスキ騎兵少尉、ツールチャーロノフ少尉補、大学生ノアノーフ、ザロヂンスキー少尉、リンデマン少尉、ゴルバテンコ少尉補、ボリャーコフ少尉、マクシーロフ少尉、メネニン少尉補、大学生ゼーテクフェールド、大学生エツチテクヘールド、シシマーレフ少尉、ビリーフ少尉、シーバニストイ少尉。
 尤も同収容所には右三十七名の外従卒として曹長三名、軍曹三名、伍長一名、上等兵一名、一・二等卒二十七名収容され居るものと知るべし。▲将校中マスローフスキ騎兵少尉は右肩部に貫通銃創を受け居るも、殆ど全癒の模様なり。又シシマーレフ少尉は目下急性腸加答児(カタル)症に罹り居れり。然れども入院を要する程の重患にあらざれば、所内休養室に於て静養中なり。▲東別院収容所内に収容中の第三十七師団歩兵第百四十五連隊附一等卒ソローヒイームコードラウツエプは肺炎にて、昨日朝食後金沢予備病院伝染病室に移送治療することとなれり。▲翌、収容所本部に於て露語通訳志願者数名の試験を施行したるが、合格採用者は十二名に過ぎざる由。尤も此際通訳は多数を要するに付、教養ある者は精誠(せいぜい)出願を望むと。因(ちなみ)に昨日右受験者中女子一名(富山県八尾町の者にて曾て露領薩哈嗹(サガレン=北樺太)島●港に在留せり)ありしが、不合格なりし由に聞く。▲収容俘虜健康診断の結果第二回(第一回の成績は前号既記)戦傷四名、平病十五名。第三回戦傷三名、外傷一名、平病二名。第四回戦傷九名、外傷一名、平病十三名にして病類は種々なるも花柳病二名(淋病一名、下疳(げかん)一名)ありと云ふ。▲昨日午前十一時二十一分当駅着にて兵卒四百八十三名来着。出羽町収容所(兵器支廠内)同夜十二時二十二分当駅着。其内三百五十名は天徳院収容所。百四十五名は小立野収容所(大鋸屋製糸場)に各収用したり。左れば右にて現在の俘虜総計は将校三十七名、下士卒三千四百四十八名に達せり。▲小立野、天徳院、大乗寺の各収容所は昨日より開始せり。▲二等主計太田佐兵衛氏は金沢俘虜収容所現金出納官吏を昨、命ぜられたり。

俘虜雑俎 (1905年3月30日付『北國新聞』)
 ▲公園内収容所に於ける俘虜将校より本国其他へ差出方を申出でたる書簡は約五百通に達し、本部に於て目下精密に其検閲を為しつゝあるが、係官は之れが為め一層の多忙を極め居れりと。尤も下士卒より同上の申出を為せしもの、昨日迄に未だ一名もなき由なり。▲本部にては各収容所より俘虜銘々簿を徴し、昨今頻りに人種、宗教別等の調査を為し居れるが、右は豫て報道し(…1行不明…)ためなりと。▲俘虜将校、下士卒に対する飲食物は既記一週間の献立表に據り供給しつつあるが、過般青木主計上京打合の結果、右は少しく御馳走的にして平素の食物に適せざる●(かさ)あるに付、近日より稍々(やや)程度を低くし、其分量を多くすることとなる可しと。▲愛国義会の酒保が開始されてより其売上高の最も多き日は各収容所を通じ一日凡(およそ)三百五十円の総額に達せしともある由なるが、頃日(けいじつ)は大抵二百円内外なりと。因みに右義会にては何故か大乗寺其他十二ヶ所の収容所へ未だ酒保を設けざる由にて、是等多数の俘虜は大(おおい)に不便を感じ居る由に聞く。▲西別院収容所に在る歩兵第六十一旅団第二百四十一聯隊第十一中隊附兵卒ヘエヨドル・セーリンは一昨日同所に於て、法則命令を遵奉せざる科に據り、我が陸軍懲罰令第二十三条第十三項に該当するを以て、重営倉三十日に処せられ、同日より直ちに石川門収容所構内営倉に入れられたり。之を俘虜処罰の嚆矢(こうし)と為す。

俘虜酒保の非難 (1905年4月2日付『北国新聞』)
 俘虜酒保は前号記載の如く、当初師団当局者が物品の販売価格を制限し、以て不当の利益を貪るの弊を防止せんとするの趣旨よりして、愛国義会の手に於て是を経営せしむることとなりし者にて、義会の眼中決して利益を置くべからざるなり。左れば経営当局者は爾来其販売価格に注意を加へつゝありしが、各種物品中価格廉ならざる者あり。非難多きを以て当事者に対し注意を与へたれば、議会委員は昨日其本部なる商業会議所に集合して協議を遂げたるが、各委員に於ても敢て多大の利益を得るためにあらず、只だ其費用を見積り薄利にて販売をなし居れる者なれば、大に困難を告げ居れりと此模様にては到底直営にて維持するを得ざるべく多分商人に請負はしむることなすべしと云へり。

俘虜の種々(いろいろ) (1905年4月2日付『北国新聞』)
 営地に収容さるべき俘虜の輸送は猶ほ終りを告げざれど、昨今は最早や俘虜とて珍らしからずなりたる故にや、途上に之れを見んと競ふものも一時よりは其の数を減じ来れり。一時は夜中も厭はず押掛けたる連中の帰途飲食する者多く、為めに市中の煮売屋(にうりや)など二、三時頃までも店を閉ぢざる有様なりき。▲各兵舎等に収容されたる俘虜等は各自寝台あれど、各寺院の収容俘虜は寝台なければ、例の藁畳一畳一人宛(づゝ)の割合にてギシギシ押詰まりありといふ。▲将校等は何れも多額の金員を所持し居れど、兵士等は所持金少なきが多く、将校等の所持金を合すれば殆ど三万円にも上るならんといへり。兵士中にも十円金貨など所持せるものあれど、中には五厘銭一個の所持金もなく、例の頭陀袋を差出して堅パンと引替を乞ふ者などもある由。▲露国銀貨の所謂る一円は九十五銭にて、一円紙幣は九十八銭の相場なるより、銀貨にては三銭の得なりとて、兵士等は大(おおい)に懐中(ふところ)を締めつゝ、●銭(つりせん)など銀貨はイヤと首を振りて受取るを肯んぜずといふも、可笑し。▲将校等は公爵大佐を始め何れも通訳を通して洋服の新調をなさんとて、夫れぞれ注文せる由なるが、右は価格金四百三十四円に上り、当地の洋服商は更に大阪へ注文せりとかいふ事なり。滬(こ)を見ても、彼等の有福を知るべし。▲又た公爵大佐は此程白葡萄酒を取寄せたる所、右は八十銭位の物とて、●んなものは呑めるものかと突き返し、更に一円三四十銭のを買取りしといふ。然もるべし。▲俘虜の酒保を引受けたる愛国義会にては、日毎各収容所へ出張し、彼等の便宜を計り居る事なるが、兵士等の嗜好は多く堅パンにして一銭に三ッと二ッのとの二種あれど、安い方が売行き能しとなり。▲同義会にては人の少なきより、西永弁護士なども時々酒保係として出張し居れる由にて、同酒保は却々(なかなか)の多忙を極め居れり。▲茲に最も露国根性を顕はせる一事あり。此程とか同酒保が駄菓子等を持行きたるに、二将校して、之を皆な購求せり。去れば他の兵士等は其の将校に金を出し、譲り呉れと云へど、応ぜず。二人にて鱈腹喰ひ尽せりと。己さへ能ければ主義の甚だしきものならずや。▲各地方にても俘虜の収容多く、為めにパンの供求(給)殆んど手廻り兼ね、当地より大阪等へ注文するも、却々応じ得ざる有様なりといふ。

俘虜雑俎 (1905年4月27日付『北國新聞』)
 ▲野町(光專寺)、蛤坂(妙慶寺)俘虜収容所は予報の如く昨日閉鎖されたり。▲敦賀へ俘虜五百名輸送の為め輸送指揮官として出張せる歩兵特務曹長園田龍次郞氏は当分の内、同地に滞在すべしと。▲昨、収容所本部に於て露語通訳の採用試験を行ひたるが、志願者十六名の内出席者六名にして、成績稍(やや)佳良なるもの其半数に過ぎざりしと云ふ。▲日本正教会ニコライより来(きたる)三十日復活祭の祝意を表せんが為め、先きに送附し来れる鶏卵は敦賀、鯖江両収容所へも当本部より輸送したりと。但(ただし)他地方に於ける収容所へは祭典用蝋燭をも併せて送り来れる向あるが、当地へは其事なかりし由なり。▲前項復活祭の当日に限り俘虜の散歩を臨時に許さるゝならんとの伝説あるも当収容所に於ては斯る事なしと聞く。▲遠からず俘虜将校に対し自由散歩を許さるゝならんとは既記せし処なるが、当本部に於て右許可に先だち一般に撮影を為すべく其意を通じたるに、多くは新調の服装未だ出来(しゅったい)せざるを以て之を嫌ひ居る姿なりと云へば、右許可迄には尚ほ多少の日子あるべく思はる。▲来月中旬習志野へ俘虜二千名転送の上は多分東西両別院収容所閉鎖さる可しと伝ふ。多分事実ならん。▲野村収容所の狙撃歩兵第四聯隊第六中隊附兵卒ミハーイルバウロフカヅローフは右肋膜炎に罹り一昨日当警備病院に入院したり。

俘虜の葬式 (1905年5月5日付『北國新聞』)
 昨日俘虜兵の葬儀行はる。午後一時横安江町東別院俘虜収容所を出で、先頭十字架の墓標に花環、聖書、賛美歌を唱ふる俘虜十名、僧侶、霊柩、儀仗兵四名、会葬将校の順序にて、横安江町より南町通りを過ぎ、犀川大橋を渡り、野田寺町に出でゝ、野田山陸軍墓地に埋葬せらるる。沿道は例に依りて出張警官憲兵等厳重に警戒せり。

俘虜非戦闘員の解放 (1905年7月7日付『北國新聞』)
 金沢俘虜収容所に於て収用中の非戦闘員を解放すべく、其人員を調査し、その筋に対し、伺中なりしが、今回同準備を為すべく命令ありたる趣なれば、近日の内、愈々解放することとなるべし。尤も人員は下士卒七名、大学々生二名計九名なりとぞ。

俘虜取締巡査召集解除 (1905年8月6日付『北國新聞』)
 曩(さき)に本県に俘虜を収容するの議あるや、警察当局者は親しく各府県の俘虜収容地に出張して、取締の実況を観察したる処、各地とも敵愾の念に駆られて、俘虜に対し石を投ずるもの又は罵詈侮辱を為すもの多く、警察に於て注意警戒を加へたるの数多きは一ヶ月間に六七千件、少なきも千件内外に達し居るの現況なるより、本県警察に於ても一時他の非難あるをも顧みず、充分の警戒を施したる結果、他の収容地に於るが如き事項一件もなく、頗る好成績を現はしたるのみならず、今や収容すべき予定人員も既に収容済となれるより、従来沿道警戒に任じありたる郡部巡査五十余名は今回愈(いよいよ)召集を解除したるを以て、各巡査は何れも夫れぞれ帰郡したりと云ふ。
 俘虜雑俎 ▲俘虜収容所本部附歩兵太尉篠山次郎氏は此程盲腸炎に罹り、一昨日自宅療養を許され、目下引籠中なりと。因みに同日同部へ臨時派遣を命ぜられたる谷村歩兵太尉は氏が代務を執る筈なりといふ。▲一昨日の朝来着したる俘虜将校は三名との事なりしも、其実二名にて一は第八軍団附モスクワ市在住露人チナーセフ少尉(三十一)にて、奉天附近に於て降伏せしもの。一名は同じく同●にて部隊と共に捕獲せられしものにて、ボルユスキー歩兵第十七軍団第三十五旅団第百三十聯隊サウイン少将補トンボウスキー県露人にて、宗教は正教なりと。▲最新に収容したる材木町小学校跡及野田寺町各寺院の俘虜に対し、再昨及一昨の両日健康診断を試みたる処、一日は戦傷五十一名、外傷九名、平病二十四名、二日は戦傷七名、外傷一名、平病十四名をだしたる由にて、是等は例に拠り相当治療を施しつゝありといふ。▲又一昨朝来沢したる俘虜中の一名の赤痢患者を輸送中に於て発見し、着後直に停車場より金沢予備病院に送りたるが、右は目下同院隔離室に収容し、治療中なるも、漸次全癒に赴く模様なりといふ。

俘虜病没者追吊会 (1905年11月20日付『北國新聞』)
 当市収用俘虜将校下士卒病没者の為に各宗軍隊布教使及び各宗分骨式追弔会委員●企となり、昨十九日午後一時より西町大谷廟所に於て、追弔法会を執行せり。先づ定刻に至るや僧侶、参詣者、俘虜下士将校等同席、厳かに読経を修し、各参詣者焼香を行ひ、俘虜将校代表者亦た霊前に進みて稔香拝礼を遂げたり。是にて全く式を終り、更に庭内に於て紀念の為、一同撮影を為せり。当の参詣者は文武高等官五十余名にて、俘虜下士将校一同も●に列したりき。
 俘虜追弔会片々 頑固の坊ンさん頭も追々開拓されて、今は異宗教の俘虜追善をさへ催すに至った。お釈迦さまも定めて地下に其進歩発達を喜んで居らつしゃるであらう。▲式上惜しむらくは押野天徳院を見受けなかつた。太壽師が居たなら定めて一議論が起つたであろう。▲俘虜将校下士百余名が本堂に席を列ねたは一異観であつた。併し異臭芬々●参詣者をして鼻を覆はしめたのは大閉口。▲俘虜連の焼香は如何にも当●(あてが)ひ。其線香の匂ひに顔●感の口の中にて、アー臭いと言つたかドウか通弁を介せざれば知るを得ないが、何でも小言を居たげな。▲彼等の無作法なる外套の儘焼香を行ひ、一礼をも行はぬ者さへあつた。実に言語同断だ。▲案内状に曰く、式後日露親善の為、両国々旗が叉の下に紀念撮影をなす云々。即ち日露両国人は雨を侵して、庭前に整列の上紀念の撮影を行ふた。開戦以来露国々旗を日本に樹てたのは是が始めだそうな。坊主さん連も隅には置けず。▲高木所長曰く●過日カ海軍大佐が出発に際し、自腹を切って奢って這(や)つたが、現にカ大佐迄礼状を送りながら、未だ何とも言って寄越さない露スは却々(なかなか)ズルいよ。▲柴参謀曰く、ナーニ君怪む勿れ露スは却々ズルいから、君の自腹を官費待遇だと思惟し、当然として居るよ。アハ・・・。▲同日式上一篇の弔辞もなかつたが、後に僧侶側より左の弔詞を送ったそうな。人生に於て、最も忌はしき惨劇は止み、日露両国々民が共に平和を楽しむの時来り。吾が親愛なる諸士は近き将来に於て本国に帰還せられんとする時に際し、吾等日本仏教僧侶は汝の神が諸士の遠き旅を守らせ給ふ如く、吾が神即ち仏陀も亦諸士の遠き旅を守らせ給ふと云ふ信仰を以て、諸士が無事帰朝せられんことを仏陀に祈ると共に、金沢に於て病没せられたる威厳と光栄とを有する諸士が戦友の霊を弔ふ。
(注:●は解読不明文字)

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