20220926 上海爆弾事件前後の在上海日本人の動向
1932年の上海には3万人の日本人がおり、尹奉吉による4・29上海爆弾事件にたいしてどのような反応を示したのだろうかという疑問が浮かんできた。『上海爆弾事件後の尹奉吉』(2020年改訂版)の資料リストに挙げた『上海に生きた日本人』(陳祖恩著2010年)の100頁には、写真入りで上海爆弾事件について、概略が書かれ、238頁には「1930年代初頭、日本人の左翼学生の反戦組織である日支闘争同盟の活動も活発で、領事館警察による捜査・逮捕を招いた」と記録されている。このように、1930年代の上海には、日本人の反帝・反植民地運動があり、1932年4・29爆弾事件について、何らかの言及資料があるのではないかと思い、調べ始めた。
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東亜同文書院に関する書籍があり、そのなかの『革命の上海で』(西里竜夫著1977年)を参考にして、当時の様子をまとめることにした。著者西里竜夫は1907年に生まれ、1926年に上海の東亜同文書院に入学し、28年に「社会科学研究会」を組織した。1929年世界恐慌は上海経済にも大きな打撃を与え、1930年に入ると上海では革命運動が盛り上がった。
この年(1930年)、西里は「上海日報」の記者となり、7月には「中国問題研究会」、9月には「日支闘争同盟」を組織し、在上海日本人、とくに日本陸戦隊への働きかけ(反戦ビラ配布)を開始した。11月には、陸戦隊の兵士がよく通る、通路の塀に、「支那から手を引け! 侵略戦争反対! 日本軍隊は撤退せよ! 日本帝国主義打倒! 労働者・農民・兵士万歳! 日支闘争同盟」のスローガンを大書し、軍部の心胆を寒からしめた。
この頃の上海の中国人労働者は「日本帝国主義者の侵略反対、ソヴェート革命を守れ、生活防衛」を掲げ、デモや集会を頻繁に組織し、たたかいに立ち上がっていた。血の弾圧が繰り返され、集会やデモの際に撒くビラを持ち運びするのも困難だったが、日本人には治外法権の特権があり、西里らはその任を引き受けていた。
1930年12月末、日本海軍艦船の遠洋航海の途中、東亜同文書院の参観にやってきた士官候補生(400人)へのビラ配布がおこなわれ、これにたいする弾圧で、「日支闘争同盟」のメンバーが逮捕された。西里は難を逃れ、日本で非公然活動を続けたが、1931年8月逮捕され、1932年12月まで勾留されているので、満州事変~上海事変にかけては上海にはいなかったが、聞き知ったことを書いている。
満州事変(1931/9/18)にたいし、上海の労働者はゼネストに立ち上がり、学生・市民も立ち上がっていた。上海事変(1932/1/28)にたいしては、「反日犠牲者追悼市民集会」が開催され、東亜同文書院の学生は代表を送り、朝鮮、台湾の仲間とともにデモに参加している。学生は陸軍派遣部隊のために通訳を要請されたが、これを拒否して上海を引き上げており、4・29爆弾事件前後は不在だったようだ。
しかし、日本でも大きく報道されておりながら、日支闘争同盟のメンバーのだれひとりも、尹奉吉のたたかいに触れていないのが腑に落ちないのだ。日支(日中)連帯はあるが、日朝連帯が見えないのだ。
今後、当時の警察資料を探すつもりだが、当時の上海を伝えてくれる関係資料をお教えいただければ、幸いである。
その他の資料
『上海東亜同文書院』(栗田尚弥著1993年)の235頁に、「中西らは、…日支闘争同盟のメンバーとして、学外の反帝国主義運動に奔走する。(1930年)12月26日、…上海に立ち寄った…出雲・八雲乗船の少尉候補生に対し、反戦ビラが配られた。27日…同文書院の手入れをおこない、安斎庫治…の8名を検挙した」。246頁には、「書院内の左翼細胞は、後輩によって引き継がれ、1932,3年頃まで存続する」と書かれているが、1932年4・29爆弾事件については、記載がない。
『上海東亜同文書院風雲録』(西所正道著2001年)の57頁には「第一波の反戦運動を取り仕切ったのは安斎庫治で、中国共産主義青年団書院支部を結成させた」、58頁には「活動は…日支闘争同盟の活動に参加して、日本海軍艦船の乗組員に対して反戦を訴える」、「1930年12月、同文書院に見学に来た、日本海軍少尉候補生に対する反戦ビラの配布」、「(ビラには)支那から手を引け! 侵略戦争反対! 日本軍隊は撤退せよ! 労働者・農民兵士万歳!」、「共青団に所属していた8人の書院生を逮捕した。それ以降、活動はなりをひそめる」と記されている。
『日中に懸ける』(藤田佳久著2012年)の165~6頁に「西里竜夫や安斎庫治、中西功らが反戦運動をするようになり、30年には日本海軍陸戦隊、32年には日本軍人に反戦ビラをまいて逮捕され」と書かれている。
1932年の上海には3万人の日本人がおり、尹奉吉による4・29上海爆弾事件にたいしてどのような反応を示したのだろうかという疑問が浮かんできた。『上海爆弾事件後の尹奉吉』(2020年改訂版)の資料リストに挙げた『上海に生きた日本人』(陳祖恩著2010年)の100頁には、写真入りで上海爆弾事件について、概略が書かれ、238頁には「1930年代初頭、日本人の左翼学生の反戦組織である日支闘争同盟の活動も活発で、領事館警察による捜査・逮捕を招いた」と記録されている。このように、1930年代の上海には、日本人の反帝・反植民地運動があり、1932年4・29爆弾事件について、何らかの言及資料があるのではないかと思い、調べ始めた。

東亜同文書院に関する書籍があり、そのなかの『革命の上海で』(西里竜夫著1977年)を参考にして、当時の様子をまとめることにした。著者西里竜夫は1907年に生まれ、1926年に上海の東亜同文書院に入学し、28年に「社会科学研究会」を組織した。1929年世界恐慌は上海経済にも大きな打撃を与え、1930年に入ると上海では革命運動が盛り上がった。
この年(1930年)、西里は「上海日報」の記者となり、7月には「中国問題研究会」、9月には「日支闘争同盟」を組織し、在上海日本人、とくに日本陸戦隊への働きかけ(反戦ビラ配布)を開始した。11月には、陸戦隊の兵士がよく通る、通路の塀に、「支那から手を引け! 侵略戦争反対! 日本軍隊は撤退せよ! 日本帝国主義打倒! 労働者・農民・兵士万歳! 日支闘争同盟」のスローガンを大書し、軍部の心胆を寒からしめた。
この頃の上海の中国人労働者は「日本帝国主義者の侵略反対、ソヴェート革命を守れ、生活防衛」を掲げ、デモや集会を頻繁に組織し、たたかいに立ち上がっていた。血の弾圧が繰り返され、集会やデモの際に撒くビラを持ち運びするのも困難だったが、日本人には治外法権の特権があり、西里らはその任を引き受けていた。
1930年12月末、日本海軍艦船の遠洋航海の途中、東亜同文書院の参観にやってきた士官候補生(400人)へのビラ配布がおこなわれ、これにたいする弾圧で、「日支闘争同盟」のメンバーが逮捕された。西里は難を逃れ、日本で非公然活動を続けたが、1931年8月逮捕され、1932年12月まで勾留されているので、満州事変~上海事変にかけては上海にはいなかったが、聞き知ったことを書いている。
満州事変(1931/9/18)にたいし、上海の労働者はゼネストに立ち上がり、学生・市民も立ち上がっていた。上海事変(1932/1/28)にたいしては、「反日犠牲者追悼市民集会」が開催され、東亜同文書院の学生は代表を送り、朝鮮、台湾の仲間とともにデモに参加している。学生は陸軍派遣部隊のために通訳を要請されたが、これを拒否して上海を引き上げており、4・29爆弾事件前後は不在だったようだ。
しかし、日本でも大きく報道されておりながら、日支闘争同盟のメンバーのだれひとりも、尹奉吉のたたかいに触れていないのが腑に落ちないのだ。日支(日中)連帯はあるが、日朝連帯が見えないのだ。
今後、当時の警察資料を探すつもりだが、当時の上海を伝えてくれる関係資料をお教えいただければ、幸いである。
その他の資料
『上海東亜同文書院』(栗田尚弥著1993年)の235頁に、「中西らは、…日支闘争同盟のメンバーとして、学外の反帝国主義運動に奔走する。(1930年)12月26日、…上海に立ち寄った…出雲・八雲乗船の少尉候補生に対し、反戦ビラが配られた。27日…同文書院の手入れをおこない、安斎庫治…の8名を検挙した」。246頁には、「書院内の左翼細胞は、後輩によって引き継がれ、1932,3年頃まで存続する」と書かれているが、1932年4・29爆弾事件については、記載がない。
『上海東亜同文書院風雲録』(西所正道著2001年)の57頁には「第一波の反戦運動を取り仕切ったのは安斎庫治で、中国共産主義青年団書院支部を結成させた」、58頁には「活動は…日支闘争同盟の活動に参加して、日本海軍艦船の乗組員に対して反戦を訴える」、「1930年12月、同文書院に見学に来た、日本海軍少尉候補生に対する反戦ビラの配布」、「(ビラには)支那から手を引け! 侵略戦争反対! 日本軍隊は撤退せよ! 労働者・農民兵士万歳!」、「共青団に所属していた8人の書院生を逮捕した。それ以降、活動はなりをひそめる」と記されている。
『日中に懸ける』(藤田佳久著2012年)の165~6頁に「西里竜夫や安斎庫治、中西功らが反戦運動をするようになり、30年には日本海軍陸戦隊、32年には日本軍人に反戦ビラをまいて逮捕され」と書かれている。