Quantcast
Channel: アジアと小松
Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

20221109 梅棹忠夫・川勝平太の対談(1998年)

$
0
0
梅棹忠夫・川勝平太の対談(1998年)

 知人から薦められて、梅棹忠夫について読むことにした。金沢市立図書館に『文明の生態史観はいま』(2001年)があり、ざっと眺めてみて、第1章は梅棹の自慢話で、第2章「日本文明の未来をかたる」という川勝平太との対談(1998年)を読むことにした。30頁弱の対談のなかには、腑に落ちないやりとりがいくつも見て取れた。

 梅棹は「日本とヨーロッパは対等なんです。後進国説は間違っている。…皆さん自信をもってくださいよ」(54頁)と語っているように、西洋コンプレックスが動機なのではないかと思いたくなる。川勝も「日本はイギリスに負けていませんし、インパールは自滅みたいなもの」と語り、インパール作戦に失敗し、押し戻され、潰走した日本軍の敗北を認めたがらない心情も共通している。

 川勝は江戸時代を「文治主義のもとでの統治」(52頁)と美化し、これに応じて梅棹は「武家は年貢を取り立てるだけで、…生産手段は、日本の場合は全部農民が持っている」(52頁)と話しているが、江戸時代は武装した武士が、農・工・商・被差別民の武装を解除して成立していた。「文治政治」など統治の方便に過ぎず、暴力的階級支配そのものであった。梅棹は現代の農民のように、江戸時代の農民が、生産手段(農地)を持っていたと言うが、これはレトリックである。江戸時代は農民と農地を緊縛して支配するための農奴制を執っており、農地売買の自由もなく、分割相続は制限され、ましてや階級移行の自由もなかった。両者とも、とんでもない江戸時代認識である。

 梅棹は「21世紀の日本は、西太平洋国家連合で行くべき…日本からオーストラリアにかけた海洋国家大連合の世界構想です。…フィリピン、インドネシア、パプア・ニューギニアも…」(55頁)と得意気に話しているが、台湾総督府の土木技師で、嘉南大圳建設の責任者であった八田與一は「豪州・ニューギニアを第二日本国とし、スマドラ、マレー、北ボルネオを第三日本国とします。…東亜連盟の盟主は第一日本とします」(『水明かり』1943年)と書いており、オーストラリアから東南アジアを日本の支配地域に包摂する思想は、戦前から存在していた(八田與一は大川周明や佐藤賢了の影響を受けていた)。

 梅棹はこの侵略イデオロギーを検証することもなく、21世紀に再現しようと主張しているのである。この梅沢発言に、阿吽の呼吸で、川勝は「大東亜共栄圏の場合は、五族協和で、それぞれの民族にところを得せしむという考え方」(58頁)と応じているのだ。「五族協和」とは、日本人を頂点にした他民族支配のイデオロギーであり、各民族に自立を認める(ところを得せしむ)思想とはほど遠い、侵略イデオロギーそのものだった。

 このように、川勝と梅棹は意気投合しており、対談の最後に、梅棹は「そのため(西太平洋島嶼国家連合建設)には教育を見直すべきです。日本の戦後民主主義教育は原理主義になる危険があります。機会の平等は大事ですが、結果の平等はいけません」(59頁)と戦後の民主的教育を否定し、チャレンジの機会は平等に与えるが、もたらされる結果については、優勝劣敗の競争原理で、敗者は貧困にあえげばいいという考え方なのだろう。

 梅棹は「ソビエト崩壊は史的唯物論の破産なんです。…私は(ソ連が崩壊すると)言うていた」とソ連邦崩壊の予測が的中したと喜ぶ姿などは、子供じみている。私たちが歴史学に期待することは、「解釈と予言」ではなく、現実世界変革の学であり、チャレンジが失敗したときには、その理由と再チャレンジの方法を追求することではないだろうか。

 対談がおこなわれた当時の『文藝春秋』(1998/8)に、「20世紀に書かれた心にのこる本」として、①『坂の上の雲』、②『善の研究』、③『吾輩は猫である』、④『文明の生態史観』が挙げられているが、このような感性の持ち主である梅棹がどうしてこんなにもてはやされてきたのだろうか。そのうちに暇になるだろうから、そのときに『文明の生態史観』を読むことにしよう。

ウィキペディアから『文明の生態史観』(1957年)の概略を付記する
 1955年に梅棹忠夫がアフガニスタン、インド、パキスタンへの調査旅行で、感じたことをまとめ、文明にたいする新しい見方を示したものである。前半部分にはその旅行の内容をつづりながら、そこで感じた文化性、または日本との差異、そしてそれぞれの文化における価値観が述べられている。後半部分ではそれに基づき、「西洋と東洋」という枠組みによって世界を区分することを否定し、第一地域と第二地域という区分で文明を説明した。
 それによると、西ヨーロッパと日本は第一地域に属し、その間の広大な大陸部分を第二地域とした。第二地域においては早い時期に巨大な帝国が成立するが、没落していった。逆にその周縁に位置する第一地域においては気候が温暖で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定していて、第二地域よりは発展が遅いものの第二地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成してきた。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

Trending Articles