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内灘のたたかいはいまも生きている

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 今年~来年は内灘闘争70周年であり、70年前の朝鮮戦争下の内灘闘争を今日的にどう引き継ぐのかが問われている。45年前の<25周年集会>では、元北陸鉄道労組委員長の内山光雄さんが講演をおこない、出島さんが内灘闘争が小松基地、内灘火電、七尾火電、志賀原発、砂川(立川)基地、日本原、北富士、三里塚、動労千葉などに継承されていることを確認した。出島さんの挨拶を転載する。(左写真:25周年記念集会、右写真:1953年の出島さん)

 

内灘のたたかいはいまも生きている 
出島権二 米軍内灘接収反対闘争25周年集会挨拶(1978年6月11日)

 本日、内灘闘争25周年記念集会に、かくも多数の方々が、お忙しいにもかかわらず、ご参加下さいましたことを、代表者として厚くお礼申し上げます。
 かえりみますと、25年前に内灘の村民は生活を守るために立ち上がりまして、いわゆる「米軍試射場接収反対」を叫んだのであります。このとき、最初は内灘村民1000戸のみでたたかうという考えをもっていましたが、いよいよたたかってみると政府の壁は「1000戸」の力ではどうしても破りきれないということを、たたかいながら学んだのであります。
 そうして、北陸鉄道労組、日教組、国労など県内のあらゆる労働組合のみならず、全国から数十万という人々が「内灘へ、内灘へ」となだれ込んで、われわれを応援して下さいました。
 ただ、すぐには米軍の撤収はできませんでしたが、3年6カ月にして、米軍を撤収できたことは、むろん内灘村民の力は甚大なものがありましたが、骨を惜しむこともなく支援して下さった全国の労働者、学生諸君の力でありました。ここに厚くお礼申し上げます。
 私はこの催しをやるときに、これは内灘村民がたとえ300円であろうと500円であろうと出しあって、他人のお世話にならず、おんぶをしないでやらねばならないと決心いたしまして、老骨にムチ打って内灘町各部落を約1カ月間歩きました。
 最近、林屋亀次郎の顕彰碑が建ち、米軍弾薬庫が撤去されて、この内灘闘争が内灘町民から「忘却の彼方」へ行っているのではないかと心配しておりました。しかし、室(むろ)の端から向こう粟ヶ崎の端まで歩いて、町民と接しましたところ、いや、そうではありませんでした。
 私が行きますと、保守・革新を問わず、「やってくれ」と言って、だいぶんのカンパをして下さいました。それを見て、まだ25年前のたたかいは内灘住民の心に脈々と流れているのを痛感し、心強く感じた次第であります。

七尾、三里塚で考えたこと
 私は七尾火電(火力発電所)反対闘争に参加してまいりました。ここに来ていらっしゃいます鵜浦の磯野さんのお宅に一晩ご厄介になりました。遠くは高く飛んで三里塚にも行ってまいりました(1977/4、1978/3)。
 なぜそういうところに行くのかというと、自分が実行委員長をしていたとき、応援に来てくだされた村外の人々に涙が出るほどうれしかったからです。私はこの5年間、肺結核のために病床におりましたが、やや回復しましたので過去にお世話になった方々にご恩返しをしなければいけないと思い、もうひとつの気持ちは北陸電力とたたかう七尾は5年、三里塚は13年という長いたたかいをどのようにして続けているのかという疑問からであります。
 私はわずか1年のたたかいで箪笥・長持の中身はみんなさらいだしました。もうしばらくでお手上げの状態でありました。5年、13年というたたかいはどうしてできるんだろうということを深く知りたいと思ったのです。それから三里塚では少年行動隊とか青年行動隊を組織して、子どもまでたたかいに参加していますが、この子どもたちの教育ははたしてどうなっているんだろう、これらの点を知りたかったのです。
 私は昨年(1977年)4月14日の三里塚集会に参加し、今年の3月26日のたたかいを挟んで、4日間行ってまいりました。たたかう農民の家に泊まり込み、彼らの本当の考え方を身をもってつかんでまいりました。
 私は動労千葉にも行き、委員長の関川さんとも話してきました。その時はちょうど春闘と三里塚・ジェット燃料輸送阻止闘争と重なって、非常なご多忙なところを時間を割いて2時間ばかり話して下さいました。そこで私は「内灘闘争での北鉄労組の弾丸輸送拒否ストが三里塚で生きているんだな」と身にしみて感じました。関川さんは40歳にしてはじめて労働運動に入った人でございますが、1400人の動労千葉を率いて、たたかっている姿は、並の人ではないと私は見ています。
 私は七尾、三里塚、動労千葉のたたかいを見てきて、そこには全国の支援でたたかいぬいた内灘の試射場接収反対闘争の根本精神が流れていると、痛感して帰ってまいりました。

調査なくして発言権なし
 いま、県内では七尾火電闘争があり、小松にはファントム反対闘争があります。全国には、日本原あるいは北富士、その他多くの住民運動が盛り上がっています。七尾火電反対闘争は非常に厳しいところに立っています。これは少なくとも中西県知事が「内灘がダメなら七尾」というちぐはぐな行政に責任があります。こうして4月2日には社会党の島崎さんと山本信晃さんが北陸電力にたいして「早朝話し合おう」との申し入れを無視して、「トクサ湾海戦」が引き起こされたと聞いております。支援の人々、七尾の住民が暴力を振るっておるという人がいるが、ギリギリいっぱいのたたかいをやるためには、それしかなかったということです。
 内灘村民も松川哲二さんを先頭にして、40人あまりのものが権現森から着弾地に向かって行進したのであります。本気でたたかう者は、自分を捨ててたたかいぬく以外に方法がないということを、私は内灘闘争で学びました。
 私は七尾火電闘争に学び、動労千葉に学び、三里塚に学びました。彼らを批判するときは、自ら現地に乗り込んで、農民と接して、然る後にするべきです。ただ新聞などを読んで、これを批判することは、甚だたたかう人たちにとって迷惑なことであります。
 内灘にしても、七尾、三里塚にしても、「国民のため」とか「公共のため」とか言われていますが、本当のところは「お上の決めたことだから、おまえたちは黙っておれ」、「汝臣民は言うことを聞け」という考え方がまだ政府のなかにあります。これが三里塚や七尾のなかに結果として表れています。
 どうか、今日たたかっている全国の人々にたいして、現地へ行けなければ地元で、行ければ行ってご支援いただくことを心から願うものであります。いろいろお聞き苦しいことがあったかもしれませんが、私は私の考えで述べたのでありますから、悪しからずご了承のほどお願いします。

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