「雑筆」の翻刻を終えて ~助けを求める島清~
石川近代文学館は、「雑筆」(一九三〇年)の閲覧をかたくなに拒んできたが、六月中旬、島清研究者から、原稿用紙十七枚(三四ページ)の「雑筆」の写真を借り受け、さっそく翻刻に取りかかった。
全体は第一項から第八項まであって(プラス第九項)、第一項は六ページのスペースをとって、医師・赤津誠内著『精神衰弱、痴呆と黴毒』のレポートにあてられている。
第二項はドイツのエーベルヒ博士による「財政学」について寸評し、第三項は八年間の在米生活から帰国した木村秀雄一家による面会と息子・生死(しょうじ)の翻訳書『拝金芸術』(一九二五年)の読後感について述べている。
第四項は映画俳優早川雪洲とその夫人青木鶴子の動静を伝え、第五項には、入院中の島清の読書について概略を述べている。そこでは、久米正雄、菊池寛、加能作次郎、泉鏡花、室生犀星、岡田三郎、山本有三、佐藤春夫、小島政次郎の名前をあげている。
何が変わったのか
はっと気付いたことは、一九二一年の「雑記帳」では菊池寛(菊池のごときは黙ってをれ)、堺利彦(堺の娘が)、武者小路実篤(君がいくらジタバタさわいだところで)らを呼び捨てにし、批判罵倒していたが、入院六年目の島清は彼ら全員に敬称をつけ、菊池寛については「精励ぶりを文壇の大いに祝賀せずにはいられない」と肯定的に書いている。第七項でも、「小説わとにかく読んで面白くなければならぬ」と述べる菊池寛に、島清は「全然同感」し、「小説の『切りあげ』の速やかなのにわ全く感服」と、べた褒めである。
また、地元作家三人にも触れ、「加納【能】作次郞氏わすべて抑え目に、地方の新聞や目だヽぬ雑誌に書いていられるのだらうと考えられるが、作品著作の類にいたってわ、菊池氏にも伯中【伯仲】するだらう」、「目ざましい進境を示して突進しているのわ室生犀星氏ではないかと思われる。同氏の書く随筆には、事実、切実な実在味が溢れていて興味深い」と、六年間幽閉されてきた島清のなかには、劇的な変化が起きている。
第六項はニューヨーク滞在中の高峰穣吉の息子の事故死について触れ、島清は寂寞と死の恐怖を感じたと率直に告白している。第七項では、菊池寛について述べたあと、世界の作家・作品について饒舌に述べている。しかし、ここで島清は「西班牙は…現在南米にも多数に植民地があって、余なども、我国の詩人文士などが漸次にこの方面に進むやうになるとよい」と、植民地支配を是としているところはとてもうなずけない。
そして、第八項では、上記の作家・作品からビセンテ・ブラスコ・イバニェスの『血と砂』を敢えて取り上げて、十五ページものスペースを割いて、詳細に述べている。
島清はなぜ、『血と砂』を取り上げたのか。貧困から、闘牛士として絶頂期を迎え、そして若くして闘牛場で死んでいく主人公ガルラァドの人生と、島清自身の人生を重ね合わせているのだろう。「憐れな牛 憐れな闘士!」は、一九三〇年の島清自身の姿であろうか。
そこには、絶頂期を過ぎた島清があり、社会的に葬られたまま、すでに六年の歳月が過ぎ、いつ退院することが出来るか分からない、絶望のどん底感に満ちている。
以上第一項から第八項までの概略を述べたが徳富蘇峰への手紙(一九二五年)で、あれほどの被害妄想を書き連ねながら、一九三〇年には全くそのような気配もない。青年期のとげとげしさはなくなり、社会主義から人道主義へと世界観を移行させ、死に怯えているようではないか。それは良くも悪くも、一九三〇年の島清の姿である。
助けを求める島清
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第八項のあとに、数行のフレーズ【第九項とする】があり、島清自らが消去しているものの、その下に見えてくる島清の最後の思いを覗かせてくれる。
「四月十、一、二、三日頃の夜で、外でわ雨が降っている」と書いているが、一九三〇年四月の気象庁の過去データを調べると、十、十一、十二日は毎日雨が降っている。最後の執筆は二九日の死の直前であったことをうかがわせる。
つづけて、「大正十三年当時、水守亀之助君が『主婦の友』社【の】者とともに来て、大泉黒石君が初対面であるにもかかわらず、春秋社の用を帯びて訪ねられたが、ともにその御厚意わ、余の親戚なるものヽ無智から、余の身にわつかなかった。■■■文壇二、三の士の助力を求めている」と。
島清が庚申塚保養院に幽閉された大正十三年(一九二四年)当時のことを振り返り、島清に幾人かの面会者があり、島清が退院の手助けを懇請しても、実を結ばなかったことを思い出しているようだ。
そして最後に、島清は退院の「助力を求め」ながら、ついにかなえられず、絶筆となったのである。島清の心情を推し量ると、何ともやりきれないではないか。
(二〇一九年七月)
【翻刻】「雑筆」(一九三〇年エッセイ)
島田清次郎未発表遺稿翻刻チーム
(一)医学博士赤津誠内氏【注1】の快著「神経衰弱、痴呆症と黴毒」(実業之日本社、昭和二年十月発行)をやうやく此の頃一読する光栄を得た。病床中で非常な発熱中であったが一晩のうちに一読してしまった。実に痛快な程実力の横溢した余裕しゃくしゃくたる新著である。
序文で赤津博士わ、氏の恩師野口英世博士が、黄熱研究に殉せられた悲報に対し「只跪きて南天を拝するのみ」といっていられる。氏わ先のロックフェラー研究所に於いて親しく野口氏の教導を受け、黴毒トレポネーマについて専心研究を継続しつゝ、「その病毒の戦慄すべきを野口博士の名誉のため、痴呆症の一群を第四期黴毒の名を以て、世に公にするに際し野口博士の悲報に接しられたさうである。
氏わ又、序文で呉【秀三】、杉田【直樹】、三宅【鉱一】の三博士にも敬意を表していられる。内容わ三百十頁にわたり、実に教えられる処が多い。たとえば、梅毒と軟性下疳の区別などである。多くの人わ今時分こんなことを教えられている余の迂闊を笑ふかもしれないが、「この腫物わ軟性下疳といふて梅毒とわ全く異った一種の花柳病で、ジュクレイ氏のストレプトバチルソンといふ黴菌による病気である。この軟性下疳にわ六〇六号わ全く効果のないものである。」
「この病気の重症になったものわ、容易に全快しないものである。糖尿病、肺結核、腎臓病の如き、全身の栄養に障害している人にこの様な重症なものをみることがある。」「軟性下疳にわ沃度フォルムがよく効き、カルシウム剤を注射する。」しかし、「第三期黴毒患者の血液検査をすると、七十%わ血液に陽性反応を示し、三十%わ陰性反応を示す。即ちトレポネーマ【注2】を保有している人でも陽性反応があらわれない。即ち保菌者の三十%わ血液検査をしてもわからないといふのである。」殊に「第三期黴毒わゴム腫期といって、ゴムのやうなかたいかたまりが内臓や皮下組織の中に出来るから、甚だ治療しがたいものである。しかし、このやうな時期にいたっても、十分な駆梅療法を施せば、必ず全治するものであるから、同病にかヽった者わ安心して気長に治療をつゞけるがよい」が、「第三期になるとすべてに破壊作用をたくまずして、それが内臓にくるために生命上の危険が甚だ多い。」
「大動脈にトレポネーマが侵入すると、心臓との境界なる大動脈弁の閉鎖不全症、心臓弁膜閉鎖不全症などにかゝることがある。」
先年亡くなったが、オーストリヤのせき学クレプリン博士【注3】の(スタイナッハ博士と同年位)の統計によれば、第四期黴毒の麻痺性痴呆病わ、梅毒に感染後三年位にあらわれ、その後六、七年にいたって、その数をまし、十年内位が一番多数である。二十年目になると次第にその数を減じ、最も遅いのわ三十年目位に現われる。
氏わ二百五十三頁にいたって、次のやうにのべられ、ついで、実に面白い実話を挿んでいられるのわ何といっても圧巻といわねばならない。
「これまで述べたやうに、トレポネーマわ何年間でも何十年間でも人体内に潜伏してをり、時に出現して多種多様の病状をあらわし、あるいわ人間の生を此の世に受くる前から、あるいわ幼年中年老年と年れい【年齢】をえらばず、時期をきらわず、生存し、その人の死にいたる迄寄生している。故に梅毒病の診断を確実にし、潜伏梅毒の有無を早期に断定し、梅毒蟲寄生によって受ける害毒を幾分なりとも小さくすることわ極めて必要なことである。小児科や外科、産婦人科、その他の科に於いて消化不良、肺炎、生来虚弱等の診断書で死亡届の出ているものの大部分、トレポネーマに殺されたものとみて大なる間違いわない。」「血清反応の一種に野口式人血溶解梅毒反応といふのがある。」
「梅毒専問【専門】の新聞広告を見て、某専門医院にいって治療をうけ六〇八号【注4】を十六回注射されたが、少しも効果がないから来院したといふのである。サルヴァルサン【注4】を注射しながら以前の注射の様子をきいてみると、やはり黄色な液で、注射の時も、これと同じ匂ひであったといふ。二月以来六月迄満四ヶ月以上苦痛と心配との間に、無益な治療をつゞけていたその患者の悦びわ実に限りなく、先生わ神様だ、私にとってわ神様以上だと手を合わせないばかりに感謝していた。
世の中にわこの新聞広告より悪ラツ【悪辣】なのがある。六〇六号【注4】だといって、無色透明な液体を注射されたといふ話しを実際にきいたことがある。それらわ定めて非医者の類だらう。とにかく梅毒淋病専門医といふものの中にわ実に非医者が多いので人間の弱点をつかんで己が利益を得ようとするのであるから甚だ不道徳な行為である。」
神経衰弱と梅毒との関係、以下、誰にも出来る花柳病予防法迄全二十五章、実に近来にない、有益な快著であると信ずる。
(二)余程以前の話だが、男爵工学士石本恵吉【注5】氏から現代独逸の学者エーベルヒ博士の「財政学」の寄贈を受けたが、当時これわ左の財政学か右の財政学かとおたずねしていたが、結局左の財政学で、今の日本にわ何の用をも無さないものであることが明かになった。内容わ然し、なか〳〵に面白い古典の知識などがもられているやうに思われた。ここに氏の好意を謝してをく。
(三)大正十四年の七月、紐育【ニューヨーク】八年の生活をたゝんで、観自在宗祖の一枚看板木村秀雄氏が愛妻の元帝劇女優木村駒子【注6】と愛息の生死君を携えて帰朝するとまもなく余を幽閉の個所え訪ねてくれた。夕暮れで、その日の記憶わ今もうれしいことの一つとして残っている。同氏わ引取りの仕事にかゝると同時に、あべこべ尓【に】とわいえ、梨や団子や蜜柑や、婦人雑誌まで差し入れて下さったもので、今でも非常にうれしく思っている。
昭和三年秋、生死【しょうじ】君が、はじめて、祖国えかえって来て出版されたものだといふ一冊の自著をとヾけられたが、意外にもそれわ赤い〳〵世間の脅威者である、アプトン・シンクレア【注7】の翻訳で、『拝金芸術』【一九二五年著】といふ書物であったので、余も驚いて、暫くよまずにいたほどであった。ことに金星堂から出ている叢書の一冊として多くのRed Novelistと一緒に出してあるのにわ、余わどうしても賛成できなかった。然し、内容わ、極めて陳腐なむしろ教育上の著書にすぎないもので、ゲーテの情事とか、バイロンの血縁者との情事とかいふことが、ロマンティシズムの衣をはぎすてられて、日本でいえば、警察署の始末書のやうに書き立てゝてある丈けであった。さういふ内容にわ、実わ勿体な過ぎる、流麗にして健全、且つ、若々しい訳筆で、余わ、生死君が、将来、紐育【ニューヨーク】あたりの意気な小説を翻訳されたならよいだらうと考えずにわいられなかった。
同君達の訪問をしばらく受けないが、御目にかゝりたい一家族例として発表するにちゅうちょ【躊躇】するものでわない。
(四)紐育【ニューヨーク】といえば同じ紐育八年の生活を終えて、早川雪洲氏【注8】が夫人の青木鶴子さん【注9】と同伴で、太平洋、横浜経由で、入京している。「時事新報」わ四十六だと書いているが、もう少し若くわないかと記憶をよびさます。相も変わらぬ「ナイス・ゼントルマン」で、歯や眸が美しいといわれているの【が】うれしい。「映画の将来は無声だと思います。」といふことにも無条件で賛成する。それわ、一般からいえば、どうなるか疑問だが、映画から、ドラマ、ステーヂえ、アメリカから欧羅巴えとさかのぼっていた在来の氏の芸術的傾向を知るものわ、みな無条件で賛成するだらう。浅間丸【注10】船上にいる間から、上陸地から、おかしな電報を送るといふやうなことわ実に宜しくないと思ふ。資本金五百万円の雪洲プロダクションが関【国?】西に出来るといふことも実に祝賀にたえない。
同君わ好男子だが、又、ボクシングに巧みで、剣道も二段の腕前のはづで、歓迎会などわ、竹葉【竹馬】あたりばかりでひらくのわ考えものでないかと思ふ。殊に夫人鶴子さんの内助の功といふやうなことわ日本風にいってももっと賞賛すべきことにあるのでわないかと考えられる。
とにかく早川雪洲の皈朝【帰朝】を歓迎し、その事業の成功を祈ってをく。
(五)誰かゞ持って来てくれると、一とほり目を通すことがある丈けなので、大正十三年七月【注11】以来六年間もの間に、雑誌わ主として婦人雑誌、新聞わ大新聞より以外わ目を通していない。
「時事」にのっている久米正雄氏【注12】の連載小説などを近頃ひらいよみしてみることがあるが、大正十二年秋、帝国ホテルに於ける同氏の結婚式にわ、余わ震災前依頼してあった紋服が未だ出来ていなかったので、遠慮したのだったが、同氏のことを考えてみることも多い。
最初に「時事」をよみ、「朝日」をよみ、「国民」をよんで同社が根津嘉一郎氏【注13】の手に渡っていることを知って打ちおどろき、「日々」をよみ、又、「時事」をよんでいる。「婦人画報」や「婦女界」や「主婦の友」や「婦人世界」や「文藝春秋」やを時々ひらいよみしているが、その他大い雑誌を二、三みないでわない。「朝日」とか中途廃刊になったが「太陽」とかいふ雑誌のことだ。又、「実業之日本」とか、廃刊になったが「東京」「ウワード」といふ風な雑誌のことである。新聞雑誌を見ていると何といっても作家として菊池寛氏の精励ぶりを文壇の大いに祝賀せずにいられない気がする。
加納【能】作次郞氏わすべて抑え目に、地方の新聞や目だゝぬ雑誌に書いていられるのだらうと考えられるが、作品著作の類にいたってわ、菊池氏にも伯中【伯仲】するだらうと、考える。
十年前わ泉鏡花氏が修善寺あたりを舞台にした「婦人画報」に、岡田三郎氏が地球など題材にしたり、「国民」紙が同氏のものを再三のせたりしているのわ感興深いことゝ思われた。山本有三氏や佐藤春夫氏が在来あまり発表されなかった長篇小説を発表していられることが、菓子折の包み紙などから知ることがある。
それにもまして、目ざましい進境を示して突進しているのわ室生犀星氏ではないかと思われる。同氏の書く随筆には、事実、切実な実在味が溢れていて興味深い。これわ事実だらう。宇野浩二氏【注14】が雲隠?して、小峰病院に入院していると知らした人があったが、事実らしいので、さうかと考えている。さういふ点から考えると白鳥氏夫妻の生活などゝいうものわ幸福だと考えられる。
「万朝」とか「報知」とか「読売」とかいふ新聞をとっている人もいるが、余わ配布をうけないのでよまずにいるが、小島政次郎氏【注15】の「緑の騎士」とかいふものがもっとよまれるやうになるべきものかもしれぬと考えている。「中央公論」や「改造」が宣伝雑誌のやうな観のある今日、一般の読者わ自然にその興味を婦人雑誌やグラフィックに移すのわ無理ではないと思ふ。
(六)故医学博士高峰譲吉氏の嗣子が、未だやうやく四十代の若さで、紐育【ニューヨーク】に伝来の薬学研究所の事業を受け嗣いでいて、日本橋の「三共製薬」の重役なども兼ねていることわ、専問【専門】家の間でわ著名なことであったが、その人がこの三月、深夜午前二時頃紐育のホテルで二十歳位の踊り子と酒をのんでいて、その八階の窓から落ちて死んだといふことわ、余にある恐ろしい寂寞を久しぶりで感じさせた。
久しぶりで余わ「死」の恐ろしさに慄然とせずにいられなかった。又、紐育市といふ亜米利加人の首都に於ける日本人の紳士生活の寂寞といふことを思いかえさずにいられなかった。高峰氏の突然の死わまさしくこの紐育の市街に於ける日本人としての生活の寂寞が原因しているといわなくてわならない。
同じやうな寂寞を近頃余に感じさせたのわ六十あまりバルチモア市の新聞社長が、飛行機で大阪市に飛来して「大朝」【大阪朝日新聞】社主の村山龍平氏令嬢の花束を受けられた事実である。恐らく一生涯に一度の漫遊だらう。曠草【こうそう・寂れた土地】の中の市街のバルチモア市の朝の清麗さと冷爽と寂しさわ例えようものわない。しかも、新聞事業の競争は飽迄事業のやうに激烈で少しでも怠ると中央都市の大新聞や他の地方新聞に蚕食されてしもう。恐らくその老人わたえず貪欲に経営している事業の一端を頭脳【なや】み浮べていなくてわならないだらう。これらから考えることわ、亜米利加の曠原を知っているものがみな然るやうに、一程の悲哀と寂寞を余に感じさせた。
こういふ悲哀わ外国から、文豪詩人の訪問のあるごとに幾分づゝ考えられていたといわなくてわならない。タゴール【注16】が来朝する度に、その皮ふ【皮膚】の色に対する嫌悪を別にすると、いつも渋沢子爵などにあしらわれて、皈【帰】ってゆく姿わある悲哀を感じさせずにわをかない。南米ブエノスアイレスの精神病院長モレイラ博士が来朝された時なども、やはり同じ感じか、ある民族上の誇りを伴って、第一に起って、その著名の医師の診察を願わうといふやうな考えを吐絶【吐露】させたことを想い出す。
(七)菊池寛氏わよく口ぐせのやうに「小説わとにかく読んで面白くなければならぬ」と、氏の小説観の一端を余に泌らされたやうであったが、この意見わ余わ全然同感であった。ことに氏の近頃の新聞雑誌に書かれる小説の「切りあげ」の速やかなのにわ全く感服の外がない。今の世界の各作家わ、こういふ意味でわ、全部「面白い小説」を書く作家であって、たとえば、ロシヤのゴルキイにせよ、アルツクバセエフにせよ、クープリン【注17】にせよ、イタリイのダヌンツィオ【注18】にせよ、フランスのロマン・ローランにせよ、イギリスのトーマス・ハーディ【注19】、ガルスワーシーのある小説類、ウェルス【注20】の初期の作品、たとえば「空中戦争」などの面白さに一読しなくてわ分らない。コンラッドやアイルランドの作家のある作品、アメリカのフィフスアベニュの著書に並ぶある作品、及、スペインのイヴァニエズの作品などわたしかに、純芸術上の水準を最高にすると同時に、面白い小説に違いないと考えられる。
これらの作家わいふまでもなく、前世紀のトルストイとか、ゾラとか、モウパッサンとか、ゴンクール【注21】とか、さらにさかのぼればユーゴーとかバルザックとか(彼れのユーゴーのやうなロマンテックの匂い高く、ゾラのやうな写実的な作品を余は限りなく愛好せずにいられない。余わ巴里で岡田三郎君の手をわづらわして彼れの全集数十冊をあがなって来たが、不幸にも余の不明で、贈呈先を間違えたので、何らの用をなさなかった。余自身の過誤の一つ例として自ら冷笑している。)、ワイルドとか、いふ作家に少しも劣ってわいない。これらの現代の作家の中、トーマス・ハーディが稀れに高齢で逝ったことわ、何といっても哀惜に堪えない。劇曲家ホーフロマンスタールやズーダーマン【注22】の死の如きも余にある衝動を与えた。
殊に何年前かのノーベル文学賞の受賞者で、セルヴァンテス以来の西班牙の作家イヴァニエズ【注23】が六十一、二歳の年齢で、日本えも来日していったあとで、間もなく亡くなったことわ、一つの悲しむべきことであった。彼れの遺作わ百種にも上り、生前その印税収入わ莫大なものだといわれていて、それわ少くとも彼れが共和思想の所有者として、スペイン王国で、ある種の圧迫を受けても悠々、暖かな南方海岸で、別荘生活を営んで、不断に芸術に精進できる程度であったとみなされている。
彼れの作品で、我国に紹介されているものわすでに数種あるが、「女の仇」、「黙示の四騎士」、「血と砂」などが比較的行われている。余わ「黙示の四騎士」の賞讃者で、その作品にもられた高い人道主義的精神と技巧上の近代的な写実主義とに、実に愛すべき深い教養のあることを感じないではいられない者の一人であった。欧羅巴の戦争をあつかってあれほど面白い小説を書いた人わ外にも珍しいだらうと思ふ。
スペインわ欧州戦争の時わ連合国側で、いふまでもなく、ラテン民族にあたるが、今日、日英米三国会議とか五ヶ国会議とかいふている世界でわ、少しく忘れられ勝ちである。しかし一、二世紀前にわ、有名なスペインの無敵艦隊が地中海、大西洋の海上を横行していて、いわゆるイスパニア人わ我国の南部にも来て、三百年の夢をさましたことがあった。無敵艦隊がネルソンにその海上権をゆづってから、西班牙は衰え出したが、現在南米にも多数に植民地があって、余なども、我国の詩人文士などが漸次にこの方面に進むやうになるとよい【と】考えることがある。
今度四月廿三日倫敦【ロンドン】えさきに訪日された英吉利王子の答礼使としてたゝれる我国第三王子の如きも、わざ〴〵海軍大将の随行を従えさせられて、首府マドリッ
ドを訪ねさせられるといふことである。
(八)余が最近、読んだ今わ亡き西班牙の文豪ウィシェント・ブラスコ・イヴァニエスの傑作「血と砂」(改造社、大正十三年発行)わ、「黙示の四騎士」が全然舞台を欧羅巴にとり、題材が国際的なるに反して、全然舞台を首府マドリッド市及び付近の都邑セビイラの町やら他の農村や田舎に限界し、題材を古代から西班牙王国の国技といわれる闘牛にとっているので、これほど相反した作品わないがその面白い点や文学上の価値に於いてわ他の諸作が皆然るが如く同等といわなくてわならない。
「血と砂」といふのわ、いふ迄もなく闘牛場の白や黄や赤の砂地と、その砂地に流される牛の血や闘牛士の人の血をさして意味しているので、五三七頁、全十章の邦訳わ十分に彼れの筆をつたえて、一読文学上の快楽を満足させる。
主人公わジュアン・ガルラァドといふ一人の三十歳前の青年闘牛士の悲劇的な一生をあつかってあるもので、靴屋の伜に生まれた。その年わ闘牛士になって、三十歳にならぬ前に、闘牛場の砂に、獅子や虎の猛獣よりも恐ろしい西班牙の猛獣である闘牛の角にその腹をつかれて、屍をさらす。それがこの小説の筋といえば筋だが、その間に西班牙の地方色と闘牛に関する知識とガルラァドといふ一人の青年に対する同情とわ、この作家特有の深大さで遺憾なくあらわれてゐる。
第一章でわジュアン・ガルラァドわ西班牙の田舎町カルレ・ド・アルケエラの旅館で、少量の焼肉で食事を、早朝済ましている。
アネェテバの儀式を受けた立派な闘牛士であった。彼れわガラベェトオといふ一人の下男を伴っている。この下男わ彼れの最後まで忠実に彼れに従っている。この下男の條をよむ時、読者わ必然にドン・キ・ホーテを想い起さずにいられないだらう。ガラベェトオわホテルえ出かけてくる多くの彼れの讃美者の群れをあしらい乍ら、闘牛場で主人が用いる衣裳をトランクや籠につめて用意をしている。若いガルラァドわ有名な獰猛な闘牛の飼育者ムイラが養った牛と戦わねばならなかった。
彼れが下男と共にきものをきかえていると、彼れの讃美者である金持の青年が訪問してくる。しばらくすると、ルイス博士がくる。この小説の中で、著者が自分らしいものの片鱗を表わしているのわ、この闘牛上の負傷の容体書を書いたり、マドリッドの闘牛場で倒れる闘牛士を診察して歩いている有名な医者であるルイス博士に就いて丈けである。ガルラアドはこの三十年医者をしているルイス博士を無限に称讃している。
ルイス博士わ「身長の低い、腹部のつき出ている男であった。大きな顔で扁平な鼻で、きたならしい白さに黄を帯びた、いわば囚人のやうな色つやの男で、遠くからみると、いくらかソクラテスの胸像に似ている感があった。彼がつったっていると、突き出て垂れ下っている腹わ大きなズボンの中でだぶ〴〵揺れているやうであった。又彼がすわると、その■部分がへっこんでいる胸の方え押し上げられてゆくやうであった。そのきている洋服といえば、幾日も用いているので古くなってよごれていて、尚その上に他人のガーメントをつけでもしたやうに不調和な身体にわだぶ〴〵しているものであった。彼れの飲んだり食ったりするための部分わたんなる■■して、ふくらんでいたが、それとわ正反対に活動力のための大切な部分わ非常に又細っそりしていた。」
イヴァニエスに会ったことがなくても、以上の描写が、彼れの自画像であることわ、彼れの写真を一目みていると分明する。―ルイス博士にわ心を満たしている二つの偉大な情熱がある。
「それわ革命の情熱と闘牛のそれであった。彼れがのぞんでいるその来るべき漠然たる■■ながら、驚天動地の革命わ彼れが平易に説明している共和主義の意味であって、欧州に現存する総てのものを一括【拭】する者のもので、その何もかも根絶し否定する点でわ、実に判り易い簡単なものであるに過ぎなかった。」
勿論ルイス博士の抱いている共和思想わ我国でいえば、尾崎行雄氏がむかし抱いていたやうな共和思想に過ぎない。(余わしば〴〵友人達から余が同氏に似ているといわれ、迷惑したことがあるが、余わこの機会に、余の年老いたる「名、当代の」■尾崎氏に似ているといふことわ全然間違っているといふことを言ってをく。単に雄弁の点からいっても、今度大阪市から民政党代議士として当選した法学士竹田儀一君【注24】の如きわ、余の知れる範囲内でわ、最も同氏に近い雄弁家の一人で、議会のある機会に竹田氏の雄弁を知る時期があるだらふと思ふ。)
ガルラァドわ「おゝ豪傑」とよびかける博士に、「して、共和国わどうしました、博士?、いつ実現するのです?」などゝたずねる。又、「年齢は、博士? 我々わだん〴〵年をとってゆきます。僕が二頭の牛と戦い、同時に貧困と戦っていた当時わ、こんなことわ何も必要としなかったのです。カピイに出ていたその頃の僕わ、鉄のやうな足を持っていたものでした。」と年齢の悲哀を訴えている。
この点わ牛と人の相違わあるが、ボクシングや、又我国の国技といわれる相撲のチャンピオンが有する悲哀と共通している。講談の面白さでいえば、関取「千両のぼり」【注25】とか、「桜【樅】川次郎蔵」とか、「小池川喜八郎」とか、「雷電為右衛門」【注26】とか、ことごとくこの悲哀をあつかってないものわない。講談本でなくても、国技館の毎年の見物の記憶にかえっても、大砲万右衛門【注27】とか、常陸山【注28】とか、梅ヶ谷【注29】とか、大戸山とか、駒ヶ岳【注30】とか、大錦【注31】とかいふ所謂天下の名力士の生活にわことごとくこの悲哀が伴っている。
余の知っている範囲でも、国技館の幕内力士で、髪を切ってから、料理店などをひらいている巨大な男わ多数になるが、彼等に共通な思想わやはりこの「老」といふことである。此間まで、「兼六山」【注32】といふ幕内力士が、たしか雷部屋から土俵にのぼって相当の成績をあげていたやうだが、浅草辺りの夜店をあさって歩いたりしていた昔と、又、華やかな土俵を下ったあとの無情感とを考えあわせると、ある寂しさを感じさせる。
イヴァニエズの小説のもつこの辺の味わいわ、強いて類例を求めれば花袋氏の作品を想い起さす。
ガルラァドわやがて一座のものをつれて、ホテルから馬車で闘牛場え出かける。彼れわ敬神の念に於いて単純であった。その日最初から非常に心にかゝっていたのわ自分の妻のことであり、母親のことであった。寂しき妻のカルメンはセビルレの町にいて、彼れの電報を待っていた。母のセニョラ・アンガスチァスわ伜が無事に闘牛をやりおはせるかどうかを気使いながら、ラーリンコネエダの田舎で鶏と一緒に平和にくらしていた。
やがて闘牛場で闘牛がはじまる。「闘牛士達わ闘場の砂の上に進み出たとき、自分ながら別人のやうな気がした。彼等わ金銭以上のあるもののために、生命をかけて危険を冒さうとしていた。定めなき運命の不安や恐れを彼等わすでに柵の外に放棄して来た」。しかし「何人も彼れが死に定命【注33】されていて、闘牛場で角につかれて死するものと考えていた。」
ガルラァドはよく闘った。
「牡牛わ最初の突撃の勢いをもって突撃をつゞけた。それの大きな頭の上には剣【つるぎ】の赤い血に染まった𣠽頂が、欛【柄】の方わすっかりさしこまれていて、辛うじて見えていた。急にそれが疾走をとヾめたと思ふと苦しげに膝を折って転げだした。それから前脚を折り重ねて、頭を垂れ、鼻息の荒い鼻先を砂の上につけ、死ぬ時に起こる苦悶の痙攣をみせて、遂に息を引きとっていった。」
ガルラァドわ旅館にかえってくると、サンチョバンサのやうな下男のガラベェトオに「行って家え電報を打ってくれ、『別状なし』って」と命ずる。
第二章わ、彼れの母親アンガステァス夫人が、良人の靴直しのジュアン・ガルラァドに死に別れてから、息子のガルラァドが一人で放浪生活の■から一人前の闘牛士になる迄の近代の小説の型どほりの「過去」が細かに描かれている。貧しい西班牙の田舎町の地方色に、衰えた王国の実状が手にとるやうに分る。
彼れが十八歳になると、彼れの男らしい美しさとそれから彼の辮髪の威光とに心を惹かれる数人の不身持な娘達がいた。彼女達わこの美しい青年を我がものになし得るその身にならうと、恋のあくどい競争になってた。
彼れの姉のエンカアネエチョンわ馬具屋え嫁にいっている。馬具屋わ煙草工場の工女の愛嬌に惚れ込んで、ガルラァドの姉と結婚したものの、弟が何もしないでいる無頼生活を嫌悪していた。エンカアネエチョンと一緒に一度闘牛場で弟の闘牛士の成功ぶりをみると、彼れわ心から喜びに誇りを感じてしもう。
やがてガルラァドわ成功して数軒の古家を買った。その中にわ父が働いていた土間のある家もまじっていた。又、彼れわ町外れで小さい食料品店をひらいている叔父達の世話になっている孤児のカルメンと恋仲で、早くから承知の母親とともに、彼女と結婚してしもう。結婚後四ヶ年ばかりして、ガルラァドわ土地を母と妻に買い与えた。非常に広大な範囲のものであって、全く見渡すことの出来ないほどの土地であった。そしてそこにわ■■■の畑があったり、水原があったり、無数の牧獣が飼われていたりして、セビルレ第一の金持のそれのやうにすばらしい所有地であった。彼れの意見によると、一大農場と無数の家畜の群れとを所有せずしてわ、富裕な人だとわいえなかった。遂に彼れわラ・リンコオネエフタに邸宅つきの牧場を買い求める。
第三章わ、ガルラァドの冬の間の生活を描いている。彼れわ幾月もラ・リンコネエダにわいない。セビルレの町え一座をつれて旅かせぎに出ている。著者わ彼れのどの作品でも然るやうにこの無智な、柔順な、平凡な一青年の対象【対称】として十八番の一人の華族の女性を描き出している。飼育者モライマ侯爵の姪のリル夫人である。外交官の夫人であった彼女わ「ヨオロッパを旅している十年間に、どんなに沢山の君主達を弄んだことでせう。彼女わ事実到処を知っていると共に、到処で人に話せないやうなことをして来ているのです。それですから、何【ど】の頁も秘密なことが書かれている地理学の書物のやうなものです。たしかに彼女わヨオロッパの到る処の首都で幾度となくすばらしい■■【年貢?】を払って来たのです。」…「何といふ妙な婦人なのでせう!」
彼女わセビルレでわ毎朝ギタアの練習をしている。ガルラァドわ支配人と一緒に馬にのってリル夫人の邸宅を訪ねる。モライマ侯爵が家から出て直ぐ馬上の人となる。遂にガルラァドわリル夫人といふ貴婦人を目のあたりにみて、心が混乱してしもう。一行四人わ馬で侯爵の広大な牧場に出かける。ガルラァドわ夫人を闘牛の角の間から救ける。ガルラァドわやがてリル夫人の魅力に完全に征服されて、「自分がそっと身を引寄せ、あの美しい顔に接吻したら、あの女わどうするだらう。」と思ふやうになる。
第四章わ、この靴直しの息子ガルラァドと侯爵モライマとリル夫人との生活がよく描かれている。ことに、どこの王国にも必ずわ、今もなを存在する処の華族の性格の一種を著者わ、モライマ公に就いて、実によく描いている。
第五章でわ、ガルラァドとリル夫人との恋愛生活が特異な地方色と闘牛士といふ異様な衆とともに織り出されている。そこに、ガルラァドやリル夫人や一座の者と母親や妻のいる自宅に泊まっている時、有名な盗賊のプルミタスにおそわれる。プルミタスわ短銃と馬のほか部下の助力というものもなかったが、市の衛兵が召集され、彼れを追跡し逮捕すべく出動したが、彼れわ相手が少数であると、多くの屍を積んでいた。これわアイルランドなどヽひとしい国情にしば〴〵あるスペインの特産物として、よく描かれている。
第六章でわ、ガルラァドの家族でもあるカルメンと母親のアンガステアス夫人がリル夫人におぼれているガルラァドの身を気づかって涙を流している。そして光栄ある闘牛士のガルラァドわはじめて牛の角にかヽって、闘場の砂の上に倒れる。
彼れわ舁床【よしょう・担架】にのせられて、演技場から運び出された。ルイス博士が来た。「彼わいつものやうに粗末な身なりをして、何の荷物も持たずにやって来た。彼わ黄色っぽい髭の生えた顔をにこ〳〵させ、だぶ〴〵した上衣をきた身体をゆすりながら歩いた。小さな短い脚と仏様のやうな大きな腹をゆすった。」ガルラァドの傷わルイス博士が予告した通り治っていった。
第七章でわ、衰退し出したガルラァドが母親を喜ばしたりすることが描かれている。
第八章でわ、評判さえ悪くなくなったガルラァドの闘牛士としての生活をマドリッドの市を中心に、著者わつぶさに描いている。彼れわリル夫人にさえ愛想づかされる。
第九章でわ、ガルラァドの生活の末路を哀れ深く落ちついて描かれてゆく。彼れわか年時代に崇拝したといふある闘牛士のペスカデロが、賎しい身装をしているのを見た。
第十章でわ、遂に闘牛士ガルラァドわその短い一生涯を終える。
「ガルラァドわ牛にとびかゝった。すると今迄呼吸までをもつかずに待っていた観衆わ、一度に高く息をした、しかし、衝突しても牛わ死なず、猛烈に咆えながら立った。客席からわ破れるやうな口笛や非難がおこった。前と同じことが、又起ったのであった。ガルラァドわ牛から顔をそむけて、突き刺す瞬間に腋を縮かめた。牛わふら〳〵に倒れかヽっている彼を首にのせて走ったので、数歩進むと、鉄の刀わ内からスポッと抜けて砂上を転げた。」「ガルラァドわ静かに起ち上った。しかし、彼わ苦しさうに身体を曲げて、膝【腹?】に目をやり、うなだれたまヽ危なかしげな足取りで前に進んだ。彼れわ出口を探したいのだが、見つからないかのやうに、二度ばかり首をもたげたが、酔った人のやうによろめいて、遂に地上にばったりたをれた。」
ルイス博士が来た。しかし博士わ悲しげに首をふった。何んとも癒しやうのない恐しい傷のほかに、さらに牛の頭で次々強激につかれたものだ。もう呼吸はない。」「ガルラアドわ死んだ!」「憐れな牛 憐れな闘士!」と著者イヴァニエヌわ結末にいってゐる。(をわり)
(九)四月十、一、二、三日頃の夜【注34】で、外でわ雨が降っている。大正十三年当時、水守亀之助君【注35】が「主婦の友」社【の】者とともに来て、大泉黒石君【注36】が初対面であるにもかかわらず、春秋社の用を帯びて訪ねられたが、ともにその御厚意わ、余の親戚なるものゝ無智から、余の身にわつかなかった。■■■文壇二、三の士の助力を求めている。
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注:「雑筆」翻刻後、島田清次郎の遺族から、公開の許諾をいただきました(2019年8月16日)。
判読不明の文字を■、……で示しました。誤字・脱字を修正し、難解な漢字の読み方や意味、短い注は【 】内に入れました。
注1赤津誠内は1886年生まれ、ロックフェラー研究所勤務。赤津病院院長(皮膚泌尿科)
注2トレポネーマとは、細菌類スピロヘータ目の1属。約10種が知られている。長さ5~20ミクロンの螺旋菌。
注3エミール・クレペリン(1856~1926)は、ドイツの医学者、精神科医。精神障害を遺伝学や大脳生物学といった原因からは分類はできないとして予後から分類し、1899年、精神病を早発性痴呆(統合失調症)と躁うつ病(双極性障害)に分類し、現代の『精神障害の診断と統計マニュアル』まで続く影響を与えることになった。
オイゲン・シュタイナッハ(1861-1944))は、オーストリアの生理学者で、特に若返り手術の発明者として大正期の日本では非常に有名だった人物です。輸精管を結紮すれば睾丸の間質細胞が増殖して回春すると唱え、詩人のイェイツもこの手術を受けていたほどなのですが、現在では有効性は否定されています。
注4六〇六号は、合成したときの番号からついたサルバルサンの別名です。六〇八号という薬品はないので、この部分は六〇六号の間違いでしょう。
サルバルサン は歴史的な梅毒治療薬のひとつ。名称は救世主を意味する "Salvator" と、ヒ素を意味する "arsenic" から取られており、ドイツのIG・ファルベン社の登録商標である。ドイツのパウル・エールリヒと日本の秦佐八郎が合成した有機ヒ素化合物で、スピロヘータ感染症の特効薬。毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。
注5石本恵吉(1887~1951)は男爵、社会運動家、事業家。東京帝国大学卒、新渡戸稲造の門下生で、父の死後家督を継ぐ。大学卒業後、三井鉱山に入社。1914年に広田静枝(加藤シヅエ)と結婚し、鉱山労働者の貧困に触れて労働運動を研究し、革命ロシアへの入国を試みるも、夫総連合を資金面で支援した。1922年の銀行恐慌や1923年の関東大震災による事業損失により資産を減らし、右派へ転向。石本恵吉は、当時大同洋行という輸入書籍取次業を営んでおり、清次郎はこの会社の出版部から外遊報告『世界の現状及将来』を出版する予定だった(舟木芳江事件のため中止)。
注6木村駒子(1887~1980)は、大正・昭和期の日本の女優、フェミニスト、神秘主義研究家。霊能者として夫とともに「観自在宗」を作って霊術治療をする一方、婦人団体「新真婦人会」を組織し、浅草新劇の女優にもなった。島清は、秀雄・駒子夫妻とはニューヨークで出会っている。
注7アプトン・シンクレア(1878~1968)は、アメリカ合衆国の小説家。多くのジャンルでの題材を社会主義者の視点から著し、相当の人気を得た。1906年に出版した『ジャングル(The Jungle)』によって、アメリカ精肉産業での実態を告発し、食肉検査法の可決に至った。
注8早川雪洲(1886~1973)は、日本の俳優。1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。島清はロサンゼルスで雪洲と会っている。
注9青木鶴子(1889~1961)は、無声映画時代にアメリカ合衆国で活躍した日本出身の女優。アメリカにおいて、アジア人として自分の名を冠した映画をもち、映画ポスターに名を飾った初の俳優である。
注10浅間丸は 第2次世界大戦前の日本の豪華客船。日本郵船が横浜~サンフランシスコ間の北米航路に使用するために建造したもので,1929年9月三菱長崎造船所で完成。
注11「大正十三年七月」とは、島清が庚申塚保養院に強制入院させられた時。
注12 久米正雄(1891~1952)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。
注13 国民新聞社は1923年の関東大震災で致命的打撃を受け、主婦之友社の石川武美や甲州財閥の根津嘉一郎らの資力に頼った。
注14 宇野浩二(1891~1961)1929年(38歳)脳貧血で重態となり小峰病院に入院。
注15 小島政二郎(1894~1994)小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。
注16 ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)は、インドの詩人、思想家、作曲家。1929年に最後の来日。
注17
注18 ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863~1938)は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで有名。
注19 トーマス・ハーディ(1840~1928)は、イギリスの小説家、詩人。
注20 ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866~1946)は、イギリスの著作家。小説家としては「SFの父」と呼ばれる。社会活動家や歴史家としても多くの業績を遺した。『タイム・マシン』(1895年)をはじめ、『モロー博士の島』(1896年)、『透明人間』(1897年)、『宇宙戦争』(1898年)など現在でも有名な作品を発表する。
注21 エドモン・ド・ゴンクール(1822~1896)はフランスの作家、美術評論家。
注22 ヘルマン・ズーダーマン(1857~1928)は、ドイツの劇作家、小説家。
注23 ビセンテ・ブラスコ・イバニェス(1867~1928)はスペインの作家。政治的活動のかたわら小説を執筆、闘牛を題材にした『血と砂』、第一次世界大戦を舞台にした『黙示録の四騎士』などで世界的に知られる。
注24 竹田儀一(1894~1973)は、日本の弁護士、実業家、政治家。石川県出身。1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府から立憲民政党公認で立候補し当選
注25 関取千両幟とは、浄瑠璃。世話物。九段。近松半二ほかの合作。1767年大坂竹本座初演。力士の達引きを描いたもの。二段目の「岩川内(髪梳き)」と「相撲場」が有名。
注26 雷電爲右エ門(1767~1825年)は、長野県出身の元大相撲力士。
注27 大砲万右エ門(1869~1918)は、宮城県出身の元大相撲力士。第18代横綱。
注28 常陸山谷右エ門(1874~1922)は、茨城県出身の元大相撲力士。第19代横綱。
注29 梅ヶ谷藤太郎(1845~1928)は、福岡県出身の元大相撲力士。第15代横綱。
注30 駒ヶ嶽國力(1880~1914)は、宮城県出身の元大相撲力士。
注31 大錦卯一郎(1891~1941)は、大阪府出身の元大相撲力士。第26代横綱。
注32 兼六山鉄太郎(1899~1967)は、石川県金沢市出身の元大相撲力士。最高位は西前頭13枚目)。
注33 「定命」とは天から定められた命
注34 東京、4月10日の雨量は3.0ミリ、11日の雨量は2.2ミリ、12日の雨量は4.2ミリ、13日の雨量は0.0ミリ。
注35 水守亀之助(1886~1958)は兵庫県出身の小説家。1907年には田山花袋に入門。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年新潮社に入社。自然主義の影響下に『末路』『帰れる父』などを発表。
注36 大泉黒石(1893~1957)は春秋社の社長とともに病院を訪れて清次郎の原稿を受け取っており、『我世に敗れたり』は春秋社から出版された。ロシア人の父と日本人の母を持つ作家、ロシア文学者で、『老子』『人間廃業』などの著書がある。ベストセラー作家だが、文壇では異端児であり、同じような立場の島清にシンパシーを感じていたのではないかと思われる。俳優の大泉晃の父でもある。
石川近代文学館は、「雑筆」(一九三〇年)の閲覧をかたくなに拒んできたが、六月中旬、島清研究者から、原稿用紙十七枚(三四ページ)の「雑筆」の写真を借り受け、さっそく翻刻に取りかかった。
全体は第一項から第八項まであって(プラス第九項)、第一項は六ページのスペースをとって、医師・赤津誠内著『精神衰弱、痴呆と黴毒』のレポートにあてられている。
第二項はドイツのエーベルヒ博士による「財政学」について寸評し、第三項は八年間の在米生活から帰国した木村秀雄一家による面会と息子・生死(しょうじ)の翻訳書『拝金芸術』(一九二五年)の読後感について述べている。
第四項は映画俳優早川雪洲とその夫人青木鶴子の動静を伝え、第五項には、入院中の島清の読書について概略を述べている。そこでは、久米正雄、菊池寛、加能作次郎、泉鏡花、室生犀星、岡田三郎、山本有三、佐藤春夫、小島政次郎の名前をあげている。
何が変わったのか
はっと気付いたことは、一九二一年の「雑記帳」では菊池寛(菊池のごときは黙ってをれ)、堺利彦(堺の娘が)、武者小路実篤(君がいくらジタバタさわいだところで)らを呼び捨てにし、批判罵倒していたが、入院六年目の島清は彼ら全員に敬称をつけ、菊池寛については「精励ぶりを文壇の大いに祝賀せずにはいられない」と肯定的に書いている。第七項でも、「小説わとにかく読んで面白くなければならぬ」と述べる菊池寛に、島清は「全然同感」し、「小説の『切りあげ』の速やかなのにわ全く感服」と、べた褒めである。
また、地元作家三人にも触れ、「加納【能】作次郞氏わすべて抑え目に、地方の新聞や目だヽぬ雑誌に書いていられるのだらうと考えられるが、作品著作の類にいたってわ、菊池氏にも伯中【伯仲】するだらう」、「目ざましい進境を示して突進しているのわ室生犀星氏ではないかと思われる。同氏の書く随筆には、事実、切実な実在味が溢れていて興味深い」と、六年間幽閉されてきた島清のなかには、劇的な変化が起きている。
第六項はニューヨーク滞在中の高峰穣吉の息子の事故死について触れ、島清は寂寞と死の恐怖を感じたと率直に告白している。第七項では、菊池寛について述べたあと、世界の作家・作品について饒舌に述べている。しかし、ここで島清は「西班牙は…現在南米にも多数に植民地があって、余なども、我国の詩人文士などが漸次にこの方面に進むやうになるとよい」と、植民地支配を是としているところはとてもうなずけない。
そして、第八項では、上記の作家・作品からビセンテ・ブラスコ・イバニェスの『血と砂』を敢えて取り上げて、十五ページものスペースを割いて、詳細に述べている。
島清はなぜ、『血と砂』を取り上げたのか。貧困から、闘牛士として絶頂期を迎え、そして若くして闘牛場で死んでいく主人公ガルラァドの人生と、島清自身の人生を重ね合わせているのだろう。「憐れな牛 憐れな闘士!」は、一九三〇年の島清自身の姿であろうか。
そこには、絶頂期を過ぎた島清があり、社会的に葬られたまま、すでに六年の歳月が過ぎ、いつ退院することが出来るか分からない、絶望のどん底感に満ちている。
以上第一項から第八項までの概略を述べたが徳富蘇峰への手紙(一九二五年)で、あれほどの被害妄想を書き連ねながら、一九三〇年には全くそのような気配もない。青年期のとげとげしさはなくなり、社会主義から人道主義へと世界観を移行させ、死に怯えているようではないか。それは良くも悪くも、一九三〇年の島清の姿である。
助けを求める島清


第八項のあとに、数行のフレーズ【第九項とする】があり、島清自らが消去しているものの、その下に見えてくる島清の最後の思いを覗かせてくれる。
「四月十、一、二、三日頃の夜で、外でわ雨が降っている」と書いているが、一九三〇年四月の気象庁の過去データを調べると、十、十一、十二日は毎日雨が降っている。最後の執筆は二九日の死の直前であったことをうかがわせる。
つづけて、「大正十三年当時、水守亀之助君が『主婦の友』社【の】者とともに来て、大泉黒石君が初対面であるにもかかわらず、春秋社の用を帯びて訪ねられたが、ともにその御厚意わ、余の親戚なるものヽ無智から、余の身にわつかなかった。■■■文壇二、三の士の助力を求めている」と。
島清が庚申塚保養院に幽閉された大正十三年(一九二四年)当時のことを振り返り、島清に幾人かの面会者があり、島清が退院の手助けを懇請しても、実を結ばなかったことを思い出しているようだ。
そして最後に、島清は退院の「助力を求め」ながら、ついにかなえられず、絶筆となったのである。島清の心情を推し量ると、何ともやりきれないではないか。
(二〇一九年七月)
【翻刻】「雑筆」(一九三〇年エッセイ)
島田清次郎未発表遺稿翻刻チーム
(一)医学博士赤津誠内氏【注1】の快著「神経衰弱、痴呆症と黴毒」(実業之日本社、昭和二年十月発行)をやうやく此の頃一読する光栄を得た。病床中で非常な発熱中であったが一晩のうちに一読してしまった。実に痛快な程実力の横溢した余裕しゃくしゃくたる新著である。
序文で赤津博士わ、氏の恩師野口英世博士が、黄熱研究に殉せられた悲報に対し「只跪きて南天を拝するのみ」といっていられる。氏わ先のロックフェラー研究所に於いて親しく野口氏の教導を受け、黴毒トレポネーマについて専心研究を継続しつゝ、「その病毒の戦慄すべきを野口博士の名誉のため、痴呆症の一群を第四期黴毒の名を以て、世に公にするに際し野口博士の悲報に接しられたさうである。
氏わ又、序文で呉【秀三】、杉田【直樹】、三宅【鉱一】の三博士にも敬意を表していられる。内容わ三百十頁にわたり、実に教えられる処が多い。たとえば、梅毒と軟性下疳の区別などである。多くの人わ今時分こんなことを教えられている余の迂闊を笑ふかもしれないが、「この腫物わ軟性下疳といふて梅毒とわ全く異った一種の花柳病で、ジュクレイ氏のストレプトバチルソンといふ黴菌による病気である。この軟性下疳にわ六〇六号わ全く効果のないものである。」
「この病気の重症になったものわ、容易に全快しないものである。糖尿病、肺結核、腎臓病の如き、全身の栄養に障害している人にこの様な重症なものをみることがある。」「軟性下疳にわ沃度フォルムがよく効き、カルシウム剤を注射する。」しかし、「第三期黴毒患者の血液検査をすると、七十%わ血液に陽性反応を示し、三十%わ陰性反応を示す。即ちトレポネーマ【注2】を保有している人でも陽性反応があらわれない。即ち保菌者の三十%わ血液検査をしてもわからないといふのである。」殊に「第三期黴毒わゴム腫期といって、ゴムのやうなかたいかたまりが内臓や皮下組織の中に出来るから、甚だ治療しがたいものである。しかし、このやうな時期にいたっても、十分な駆梅療法を施せば、必ず全治するものであるから、同病にかヽった者わ安心して気長に治療をつゞけるがよい」が、「第三期になるとすべてに破壊作用をたくまずして、それが内臓にくるために生命上の危険が甚だ多い。」
「大動脈にトレポネーマが侵入すると、心臓との境界なる大動脈弁の閉鎖不全症、心臓弁膜閉鎖不全症などにかゝることがある。」
先年亡くなったが、オーストリヤのせき学クレプリン博士【注3】の(スタイナッハ博士と同年位)の統計によれば、第四期黴毒の麻痺性痴呆病わ、梅毒に感染後三年位にあらわれ、その後六、七年にいたって、その数をまし、十年内位が一番多数である。二十年目になると次第にその数を減じ、最も遅いのわ三十年目位に現われる。
氏わ二百五十三頁にいたって、次のやうにのべられ、ついで、実に面白い実話を挿んでいられるのわ何といっても圧巻といわねばならない。
「これまで述べたやうに、トレポネーマわ何年間でも何十年間でも人体内に潜伏してをり、時に出現して多種多様の病状をあらわし、あるいわ人間の生を此の世に受くる前から、あるいわ幼年中年老年と年れい【年齢】をえらばず、時期をきらわず、生存し、その人の死にいたる迄寄生している。故に梅毒病の診断を確実にし、潜伏梅毒の有無を早期に断定し、梅毒蟲寄生によって受ける害毒を幾分なりとも小さくすることわ極めて必要なことである。小児科や外科、産婦人科、その他の科に於いて消化不良、肺炎、生来虚弱等の診断書で死亡届の出ているものの大部分、トレポネーマに殺されたものとみて大なる間違いわない。」「血清反応の一種に野口式人血溶解梅毒反応といふのがある。」
「梅毒専問【専門】の新聞広告を見て、某専門医院にいって治療をうけ六〇八号【注4】を十六回注射されたが、少しも効果がないから来院したといふのである。サルヴァルサン【注4】を注射しながら以前の注射の様子をきいてみると、やはり黄色な液で、注射の時も、これと同じ匂ひであったといふ。二月以来六月迄満四ヶ月以上苦痛と心配との間に、無益な治療をつゞけていたその患者の悦びわ実に限りなく、先生わ神様だ、私にとってわ神様以上だと手を合わせないばかりに感謝していた。
世の中にわこの新聞広告より悪ラツ【悪辣】なのがある。六〇六号【注4】だといって、無色透明な液体を注射されたといふ話しを実際にきいたことがある。それらわ定めて非医者の類だらう。とにかく梅毒淋病専門医といふものの中にわ実に非医者が多いので人間の弱点をつかんで己が利益を得ようとするのであるから甚だ不道徳な行為である。」
神経衰弱と梅毒との関係、以下、誰にも出来る花柳病予防法迄全二十五章、実に近来にない、有益な快著であると信ずる。
(二)余程以前の話だが、男爵工学士石本恵吉【注5】氏から現代独逸の学者エーベルヒ博士の「財政学」の寄贈を受けたが、当時これわ左の財政学か右の財政学かとおたずねしていたが、結局左の財政学で、今の日本にわ何の用をも無さないものであることが明かになった。内容わ然し、なか〳〵に面白い古典の知識などがもられているやうに思われた。ここに氏の好意を謝してをく。
(三)大正十四年の七月、紐育【ニューヨーク】八年の生活をたゝんで、観自在宗祖の一枚看板木村秀雄氏が愛妻の元帝劇女優木村駒子【注6】と愛息の生死君を携えて帰朝するとまもなく余を幽閉の個所え訪ねてくれた。夕暮れで、その日の記憶わ今もうれしいことの一つとして残っている。同氏わ引取りの仕事にかゝると同時に、あべこべ尓【に】とわいえ、梨や団子や蜜柑や、婦人雑誌まで差し入れて下さったもので、今でも非常にうれしく思っている。
昭和三年秋、生死【しょうじ】君が、はじめて、祖国えかえって来て出版されたものだといふ一冊の自著をとヾけられたが、意外にもそれわ赤い〳〵世間の脅威者である、アプトン・シンクレア【注7】の翻訳で、『拝金芸術』【一九二五年著】といふ書物であったので、余も驚いて、暫くよまずにいたほどであった。ことに金星堂から出ている叢書の一冊として多くのRed Novelistと一緒に出してあるのにわ、余わどうしても賛成できなかった。然し、内容わ、極めて陳腐なむしろ教育上の著書にすぎないもので、ゲーテの情事とか、バイロンの血縁者との情事とかいふことが、ロマンティシズムの衣をはぎすてられて、日本でいえば、警察署の始末書のやうに書き立てゝてある丈けであった。さういふ内容にわ、実わ勿体な過ぎる、流麗にして健全、且つ、若々しい訳筆で、余わ、生死君が、将来、紐育【ニューヨーク】あたりの意気な小説を翻訳されたならよいだらうと考えずにわいられなかった。
同君達の訪問をしばらく受けないが、御目にかゝりたい一家族例として発表するにちゅうちょ【躊躇】するものでわない。
(四)紐育【ニューヨーク】といえば同じ紐育八年の生活を終えて、早川雪洲氏【注8】が夫人の青木鶴子さん【注9】と同伴で、太平洋、横浜経由で、入京している。「時事新報」わ四十六だと書いているが、もう少し若くわないかと記憶をよびさます。相も変わらぬ「ナイス・ゼントルマン」で、歯や眸が美しいといわれているの【が】うれしい。「映画の将来は無声だと思います。」といふことにも無条件で賛成する。それわ、一般からいえば、どうなるか疑問だが、映画から、ドラマ、ステーヂえ、アメリカから欧羅巴えとさかのぼっていた在来の氏の芸術的傾向を知るものわ、みな無条件で賛成するだらう。浅間丸【注10】船上にいる間から、上陸地から、おかしな電報を送るといふやうなことわ実に宜しくないと思ふ。資本金五百万円の雪洲プロダクションが関【国?】西に出来るといふことも実に祝賀にたえない。
同君わ好男子だが、又、ボクシングに巧みで、剣道も二段の腕前のはづで、歓迎会などわ、竹葉【竹馬】あたりばかりでひらくのわ考えものでないかと思ふ。殊に夫人鶴子さんの内助の功といふやうなことわ日本風にいってももっと賞賛すべきことにあるのでわないかと考えられる。
とにかく早川雪洲の皈朝【帰朝】を歓迎し、その事業の成功を祈ってをく。
(五)誰かゞ持って来てくれると、一とほり目を通すことがある丈けなので、大正十三年七月【注11】以来六年間もの間に、雑誌わ主として婦人雑誌、新聞わ大新聞より以外わ目を通していない。
「時事」にのっている久米正雄氏【注12】の連載小説などを近頃ひらいよみしてみることがあるが、大正十二年秋、帝国ホテルに於ける同氏の結婚式にわ、余わ震災前依頼してあった紋服が未だ出来ていなかったので、遠慮したのだったが、同氏のことを考えてみることも多い。
最初に「時事」をよみ、「朝日」をよみ、「国民」をよんで同社が根津嘉一郎氏【注13】の手に渡っていることを知って打ちおどろき、「日々」をよみ、又、「時事」をよんでいる。「婦人画報」や「婦女界」や「主婦の友」や「婦人世界」や「文藝春秋」やを時々ひらいよみしているが、その他大い雑誌を二、三みないでわない。「朝日」とか中途廃刊になったが「太陽」とかいふ雑誌のことだ。又、「実業之日本」とか、廃刊になったが「東京」「ウワード」といふ風な雑誌のことである。新聞雑誌を見ていると何といっても作家として菊池寛氏の精励ぶりを文壇の大いに祝賀せずにいられない気がする。
加納【能】作次郞氏わすべて抑え目に、地方の新聞や目だゝぬ雑誌に書いていられるのだらうと考えられるが、作品著作の類にいたってわ、菊池氏にも伯中【伯仲】するだらうと、考える。
十年前わ泉鏡花氏が修善寺あたりを舞台にした「婦人画報」に、岡田三郎氏が地球など題材にしたり、「国民」紙が同氏のものを再三のせたりしているのわ感興深いことゝ思われた。山本有三氏や佐藤春夫氏が在来あまり発表されなかった長篇小説を発表していられることが、菓子折の包み紙などから知ることがある。
それにもまして、目ざましい進境を示して突進しているのわ室生犀星氏ではないかと思われる。同氏の書く随筆には、事実、切実な実在味が溢れていて興味深い。これわ事実だらう。宇野浩二氏【注14】が雲隠?して、小峰病院に入院していると知らした人があったが、事実らしいので、さうかと考えている。さういふ点から考えると白鳥氏夫妻の生活などゝいうものわ幸福だと考えられる。
「万朝」とか「報知」とか「読売」とかいふ新聞をとっている人もいるが、余わ配布をうけないのでよまずにいるが、小島政次郎氏【注15】の「緑の騎士」とかいふものがもっとよまれるやうになるべきものかもしれぬと考えている。「中央公論」や「改造」が宣伝雑誌のやうな観のある今日、一般の読者わ自然にその興味を婦人雑誌やグラフィックに移すのわ無理ではないと思ふ。
(六)故医学博士高峰譲吉氏の嗣子が、未だやうやく四十代の若さで、紐育【ニューヨーク】に伝来の薬学研究所の事業を受け嗣いでいて、日本橋の「三共製薬」の重役なども兼ねていることわ、専問【専門】家の間でわ著名なことであったが、その人がこの三月、深夜午前二時頃紐育のホテルで二十歳位の踊り子と酒をのんでいて、その八階の窓から落ちて死んだといふことわ、余にある恐ろしい寂寞を久しぶりで感じさせた。
久しぶりで余わ「死」の恐ろしさに慄然とせずにいられなかった。又、紐育市といふ亜米利加人の首都に於ける日本人の紳士生活の寂寞といふことを思いかえさずにいられなかった。高峰氏の突然の死わまさしくこの紐育の市街に於ける日本人としての生活の寂寞が原因しているといわなくてわならない。
同じやうな寂寞を近頃余に感じさせたのわ六十あまりバルチモア市の新聞社長が、飛行機で大阪市に飛来して「大朝」【大阪朝日新聞】社主の村山龍平氏令嬢の花束を受けられた事実である。恐らく一生涯に一度の漫遊だらう。曠草【こうそう・寂れた土地】の中の市街のバルチモア市の朝の清麗さと冷爽と寂しさわ例えようものわない。しかも、新聞事業の競争は飽迄事業のやうに激烈で少しでも怠ると中央都市の大新聞や他の地方新聞に蚕食されてしもう。恐らくその老人わたえず貪欲に経営している事業の一端を頭脳【なや】み浮べていなくてわならないだらう。これらから考えることわ、亜米利加の曠原を知っているものがみな然るやうに、一程の悲哀と寂寞を余に感じさせた。
こういふ悲哀わ外国から、文豪詩人の訪問のあるごとに幾分づゝ考えられていたといわなくてわならない。タゴール【注16】が来朝する度に、その皮ふ【皮膚】の色に対する嫌悪を別にすると、いつも渋沢子爵などにあしらわれて、皈【帰】ってゆく姿わある悲哀を感じさせずにわをかない。南米ブエノスアイレスの精神病院長モレイラ博士が来朝された時なども、やはり同じ感じか、ある民族上の誇りを伴って、第一に起って、その著名の医師の診察を願わうといふやうな考えを吐絶【吐露】させたことを想い出す。
(七)菊池寛氏わよく口ぐせのやうに「小説わとにかく読んで面白くなければならぬ」と、氏の小説観の一端を余に泌らされたやうであったが、この意見わ余わ全然同感であった。ことに氏の近頃の新聞雑誌に書かれる小説の「切りあげ」の速やかなのにわ全く感服の外がない。今の世界の各作家わ、こういふ意味でわ、全部「面白い小説」を書く作家であって、たとえば、ロシヤのゴルキイにせよ、アルツクバセエフにせよ、クープリン【注17】にせよ、イタリイのダヌンツィオ【注18】にせよ、フランスのロマン・ローランにせよ、イギリスのトーマス・ハーディ【注19】、ガルスワーシーのある小説類、ウェルス【注20】の初期の作品、たとえば「空中戦争」などの面白さに一読しなくてわ分らない。コンラッドやアイルランドの作家のある作品、アメリカのフィフスアベニュの著書に並ぶある作品、及、スペインのイヴァニエズの作品などわたしかに、純芸術上の水準を最高にすると同時に、面白い小説に違いないと考えられる。
これらの作家わいふまでもなく、前世紀のトルストイとか、ゾラとか、モウパッサンとか、ゴンクール【注21】とか、さらにさかのぼればユーゴーとかバルザックとか(彼れのユーゴーのやうなロマンテックの匂い高く、ゾラのやうな写実的な作品を余は限りなく愛好せずにいられない。余わ巴里で岡田三郎君の手をわづらわして彼れの全集数十冊をあがなって来たが、不幸にも余の不明で、贈呈先を間違えたので、何らの用をなさなかった。余自身の過誤の一つ例として自ら冷笑している。)、ワイルドとか、いふ作家に少しも劣ってわいない。これらの現代の作家の中、トーマス・ハーディが稀れに高齢で逝ったことわ、何といっても哀惜に堪えない。劇曲家ホーフロマンスタールやズーダーマン【注22】の死の如きも余にある衝動を与えた。
殊に何年前かのノーベル文学賞の受賞者で、セルヴァンテス以来の西班牙の作家イヴァニエズ【注23】が六十一、二歳の年齢で、日本えも来日していったあとで、間もなく亡くなったことわ、一つの悲しむべきことであった。彼れの遺作わ百種にも上り、生前その印税収入わ莫大なものだといわれていて、それわ少くとも彼れが共和思想の所有者として、スペイン王国で、ある種の圧迫を受けても悠々、暖かな南方海岸で、別荘生活を営んで、不断に芸術に精進できる程度であったとみなされている。
彼れの作品で、我国に紹介されているものわすでに数種あるが、「女の仇」、「黙示の四騎士」、「血と砂」などが比較的行われている。余わ「黙示の四騎士」の賞讃者で、その作品にもられた高い人道主義的精神と技巧上の近代的な写実主義とに、実に愛すべき深い教養のあることを感じないではいられない者の一人であった。欧羅巴の戦争をあつかってあれほど面白い小説を書いた人わ外にも珍しいだらうと思ふ。
スペインわ欧州戦争の時わ連合国側で、いふまでもなく、ラテン民族にあたるが、今日、日英米三国会議とか五ヶ国会議とかいふている世界でわ、少しく忘れられ勝ちである。しかし一、二世紀前にわ、有名なスペインの無敵艦隊が地中海、大西洋の海上を横行していて、いわゆるイスパニア人わ我国の南部にも来て、三百年の夢をさましたことがあった。無敵艦隊がネルソンにその海上権をゆづってから、西班牙は衰え出したが、現在南米にも多数に植民地があって、余なども、我国の詩人文士などが漸次にこの方面に進むやうになるとよい【と】考えることがある。
今度四月廿三日倫敦【ロンドン】えさきに訪日された英吉利王子の答礼使としてたゝれる我国第三王子の如きも、わざ〴〵海軍大将の随行を従えさせられて、首府マドリッ
ドを訪ねさせられるといふことである。
(八)余が最近、読んだ今わ亡き西班牙の文豪ウィシェント・ブラスコ・イヴァニエスの傑作「血と砂」(改造社、大正十三年発行)わ、「黙示の四騎士」が全然舞台を欧羅巴にとり、題材が国際的なるに反して、全然舞台を首府マドリッド市及び付近の都邑セビイラの町やら他の農村や田舎に限界し、題材を古代から西班牙王国の国技といわれる闘牛にとっているので、これほど相反した作品わないがその面白い点や文学上の価値に於いてわ他の諸作が皆然るが如く同等といわなくてわならない。
「血と砂」といふのわ、いふ迄もなく闘牛場の白や黄や赤の砂地と、その砂地に流される牛の血や闘牛士の人の血をさして意味しているので、五三七頁、全十章の邦訳わ十分に彼れの筆をつたえて、一読文学上の快楽を満足させる。
主人公わジュアン・ガルラァドといふ一人の三十歳前の青年闘牛士の悲劇的な一生をあつかってあるもので、靴屋の伜に生まれた。その年わ闘牛士になって、三十歳にならぬ前に、闘牛場の砂に、獅子や虎の猛獣よりも恐ろしい西班牙の猛獣である闘牛の角にその腹をつかれて、屍をさらす。それがこの小説の筋といえば筋だが、その間に西班牙の地方色と闘牛に関する知識とガルラァドといふ一人の青年に対する同情とわ、この作家特有の深大さで遺憾なくあらわれてゐる。
第一章でわジュアン・ガルラァドわ西班牙の田舎町カルレ・ド・アルケエラの旅館で、少量の焼肉で食事を、早朝済ましている。
アネェテバの儀式を受けた立派な闘牛士であった。彼れわガラベェトオといふ一人の下男を伴っている。この下男わ彼れの最後まで忠実に彼れに従っている。この下男の條をよむ時、読者わ必然にドン・キ・ホーテを想い起さずにいられないだらう。ガラベェトオわホテルえ出かけてくる多くの彼れの讃美者の群れをあしらい乍ら、闘牛場で主人が用いる衣裳をトランクや籠につめて用意をしている。若いガルラァドわ有名な獰猛な闘牛の飼育者ムイラが養った牛と戦わねばならなかった。
彼れが下男と共にきものをきかえていると、彼れの讃美者である金持の青年が訪問してくる。しばらくすると、ルイス博士がくる。この小説の中で、著者が自分らしいものの片鱗を表わしているのわ、この闘牛上の負傷の容体書を書いたり、マドリッドの闘牛場で倒れる闘牛士を診察して歩いている有名な医者であるルイス博士に就いて丈けである。ガルラアドはこの三十年医者をしているルイス博士を無限に称讃している。
ルイス博士わ「身長の低い、腹部のつき出ている男であった。大きな顔で扁平な鼻で、きたならしい白さに黄を帯びた、いわば囚人のやうな色つやの男で、遠くからみると、いくらかソクラテスの胸像に似ている感があった。彼がつったっていると、突き出て垂れ下っている腹わ大きなズボンの中でだぶ〴〵揺れているやうであった。又彼がすわると、その■部分がへっこんでいる胸の方え押し上げられてゆくやうであった。そのきている洋服といえば、幾日も用いているので古くなってよごれていて、尚その上に他人のガーメントをつけでもしたやうに不調和な身体にわだぶ〴〵しているものであった。彼れの飲んだり食ったりするための部分わたんなる■■して、ふくらんでいたが、それとわ正反対に活動力のための大切な部分わ非常に又細っそりしていた。」
イヴァニエスに会ったことがなくても、以上の描写が、彼れの自画像であることわ、彼れの写真を一目みていると分明する。―ルイス博士にわ心を満たしている二つの偉大な情熱がある。
「それわ革命の情熱と闘牛のそれであった。彼れがのぞんでいるその来るべき漠然たる■■ながら、驚天動地の革命わ彼れが平易に説明している共和主義の意味であって、欧州に現存する総てのものを一括【拭】する者のもので、その何もかも根絶し否定する点でわ、実に判り易い簡単なものであるに過ぎなかった。」
勿論ルイス博士の抱いている共和思想わ我国でいえば、尾崎行雄氏がむかし抱いていたやうな共和思想に過ぎない。(余わしば〴〵友人達から余が同氏に似ているといわれ、迷惑したことがあるが、余わこの機会に、余の年老いたる「名、当代の」■尾崎氏に似ているといふことわ全然間違っているといふことを言ってをく。単に雄弁の点からいっても、今度大阪市から民政党代議士として当選した法学士竹田儀一君【注24】の如きわ、余の知れる範囲内でわ、最も同氏に近い雄弁家の一人で、議会のある機会に竹田氏の雄弁を知る時期があるだらふと思ふ。)
ガルラァドわ「おゝ豪傑」とよびかける博士に、「して、共和国わどうしました、博士?、いつ実現するのです?」などゝたずねる。又、「年齢は、博士? 我々わだん〴〵年をとってゆきます。僕が二頭の牛と戦い、同時に貧困と戦っていた当時わ、こんなことわ何も必要としなかったのです。カピイに出ていたその頃の僕わ、鉄のやうな足を持っていたものでした。」と年齢の悲哀を訴えている。
この点わ牛と人の相違わあるが、ボクシングや、又我国の国技といわれる相撲のチャンピオンが有する悲哀と共通している。講談の面白さでいえば、関取「千両のぼり」【注25】とか、「桜【樅】川次郎蔵」とか、「小池川喜八郎」とか、「雷電為右衛門」【注26】とか、ことごとくこの悲哀をあつかってないものわない。講談本でなくても、国技館の毎年の見物の記憶にかえっても、大砲万右衛門【注27】とか、常陸山【注28】とか、梅ヶ谷【注29】とか、大戸山とか、駒ヶ岳【注30】とか、大錦【注31】とかいふ所謂天下の名力士の生活にわことごとくこの悲哀が伴っている。
余の知っている範囲でも、国技館の幕内力士で、髪を切ってから、料理店などをひらいている巨大な男わ多数になるが、彼等に共通な思想わやはりこの「老」といふことである。此間まで、「兼六山」【注32】といふ幕内力士が、たしか雷部屋から土俵にのぼって相当の成績をあげていたやうだが、浅草辺りの夜店をあさって歩いたりしていた昔と、又、華やかな土俵を下ったあとの無情感とを考えあわせると、ある寂しさを感じさせる。
イヴァニエズの小説のもつこの辺の味わいわ、強いて類例を求めれば花袋氏の作品を想い起さす。
ガルラァドわやがて一座のものをつれて、ホテルから馬車で闘牛場え出かける。彼れわ敬神の念に於いて単純であった。その日最初から非常に心にかゝっていたのわ自分の妻のことであり、母親のことであった。寂しき妻のカルメンはセビルレの町にいて、彼れの電報を待っていた。母のセニョラ・アンガスチァスわ伜が無事に闘牛をやりおはせるかどうかを気使いながら、ラーリンコネエダの田舎で鶏と一緒に平和にくらしていた。
やがて闘牛場で闘牛がはじまる。「闘牛士達わ闘場の砂の上に進み出たとき、自分ながら別人のやうな気がした。彼等わ金銭以上のあるもののために、生命をかけて危険を冒さうとしていた。定めなき運命の不安や恐れを彼等わすでに柵の外に放棄して来た」。しかし「何人も彼れが死に定命【注33】されていて、闘牛場で角につかれて死するものと考えていた。」
ガルラァドはよく闘った。
「牡牛わ最初の突撃の勢いをもって突撃をつゞけた。それの大きな頭の上には剣【つるぎ】の赤い血に染まった𣠽頂が、欛【柄】の方わすっかりさしこまれていて、辛うじて見えていた。急にそれが疾走をとヾめたと思ふと苦しげに膝を折って転げだした。それから前脚を折り重ねて、頭を垂れ、鼻息の荒い鼻先を砂の上につけ、死ぬ時に起こる苦悶の痙攣をみせて、遂に息を引きとっていった。」
ガルラァドわ旅館にかえってくると、サンチョバンサのやうな下男のガラベェトオに「行って家え電報を打ってくれ、『別状なし』って」と命ずる。
第二章わ、彼れの母親アンガステァス夫人が、良人の靴直しのジュアン・ガルラァドに死に別れてから、息子のガルラァドが一人で放浪生活の■から一人前の闘牛士になる迄の近代の小説の型どほりの「過去」が細かに描かれている。貧しい西班牙の田舎町の地方色に、衰えた王国の実状が手にとるやうに分る。
彼れが十八歳になると、彼れの男らしい美しさとそれから彼の辮髪の威光とに心を惹かれる数人の不身持な娘達がいた。彼女達わこの美しい青年を我がものになし得るその身にならうと、恋のあくどい競争になってた。
彼れの姉のエンカアネエチョンわ馬具屋え嫁にいっている。馬具屋わ煙草工場の工女の愛嬌に惚れ込んで、ガルラァドの姉と結婚したものの、弟が何もしないでいる無頼生活を嫌悪していた。エンカアネエチョンと一緒に一度闘牛場で弟の闘牛士の成功ぶりをみると、彼れわ心から喜びに誇りを感じてしもう。
やがてガルラァドわ成功して数軒の古家を買った。その中にわ父が働いていた土間のある家もまじっていた。又、彼れわ町外れで小さい食料品店をひらいている叔父達の世話になっている孤児のカルメンと恋仲で、早くから承知の母親とともに、彼女と結婚してしもう。結婚後四ヶ年ばかりして、ガルラァドわ土地を母と妻に買い与えた。非常に広大な範囲のものであって、全く見渡すことの出来ないほどの土地であった。そしてそこにわ■■■の畑があったり、水原があったり、無数の牧獣が飼われていたりして、セビルレ第一の金持のそれのやうにすばらしい所有地であった。彼れの意見によると、一大農場と無数の家畜の群れとを所有せずしてわ、富裕な人だとわいえなかった。遂に彼れわラ・リンコオネエフタに邸宅つきの牧場を買い求める。
第三章わ、ガルラァドの冬の間の生活を描いている。彼れわ幾月もラ・リンコネエダにわいない。セビルレの町え一座をつれて旅かせぎに出ている。著者わ彼れのどの作品でも然るやうにこの無智な、柔順な、平凡な一青年の対象【対称】として十八番の一人の華族の女性を描き出している。飼育者モライマ侯爵の姪のリル夫人である。外交官の夫人であった彼女わ「ヨオロッパを旅している十年間に、どんなに沢山の君主達を弄んだことでせう。彼女わ事実到処を知っていると共に、到処で人に話せないやうなことをして来ているのです。それですから、何【ど】の頁も秘密なことが書かれている地理学の書物のやうなものです。たしかに彼女わヨオロッパの到る処の首都で幾度となくすばらしい■■【年貢?】を払って来たのです。」…「何といふ妙な婦人なのでせう!」
彼女わセビルレでわ毎朝ギタアの練習をしている。ガルラァドわ支配人と一緒に馬にのってリル夫人の邸宅を訪ねる。モライマ侯爵が家から出て直ぐ馬上の人となる。遂にガルラァドわリル夫人といふ貴婦人を目のあたりにみて、心が混乱してしもう。一行四人わ馬で侯爵の広大な牧場に出かける。ガルラァドわ夫人を闘牛の角の間から救ける。ガルラァドわやがてリル夫人の魅力に完全に征服されて、「自分がそっと身を引寄せ、あの美しい顔に接吻したら、あの女わどうするだらう。」と思ふやうになる。
第四章わ、この靴直しの息子ガルラァドと侯爵モライマとリル夫人との生活がよく描かれている。ことに、どこの王国にも必ずわ、今もなを存在する処の華族の性格の一種を著者わ、モライマ公に就いて、実によく描いている。
第五章でわ、ガルラァドとリル夫人との恋愛生活が特異な地方色と闘牛士といふ異様な衆とともに織り出されている。そこに、ガルラァドやリル夫人や一座の者と母親や妻のいる自宅に泊まっている時、有名な盗賊のプルミタスにおそわれる。プルミタスわ短銃と馬のほか部下の助力というものもなかったが、市の衛兵が召集され、彼れを追跡し逮捕すべく出動したが、彼れわ相手が少数であると、多くの屍を積んでいた。これわアイルランドなどヽひとしい国情にしば〴〵あるスペインの特産物として、よく描かれている。
第六章でわ、ガルラァドの家族でもあるカルメンと母親のアンガステアス夫人がリル夫人におぼれているガルラァドの身を気づかって涙を流している。そして光栄ある闘牛士のガルラァドわはじめて牛の角にかヽって、闘場の砂の上に倒れる。
彼れわ舁床【よしょう・担架】にのせられて、演技場から運び出された。ルイス博士が来た。「彼わいつものやうに粗末な身なりをして、何の荷物も持たずにやって来た。彼わ黄色っぽい髭の生えた顔をにこ〳〵させ、だぶ〴〵した上衣をきた身体をゆすりながら歩いた。小さな短い脚と仏様のやうな大きな腹をゆすった。」ガルラァドの傷わルイス博士が予告した通り治っていった。
第七章でわ、衰退し出したガルラァドが母親を喜ばしたりすることが描かれている。
第八章でわ、評判さえ悪くなくなったガルラァドの闘牛士としての生活をマドリッドの市を中心に、著者わつぶさに描いている。彼れわリル夫人にさえ愛想づかされる。
第九章でわ、ガルラァドの生活の末路を哀れ深く落ちついて描かれてゆく。彼れわか年時代に崇拝したといふある闘牛士のペスカデロが、賎しい身装をしているのを見た。
第十章でわ、遂に闘牛士ガルラァドわその短い一生涯を終える。
「ガルラァドわ牛にとびかゝった。すると今迄呼吸までをもつかずに待っていた観衆わ、一度に高く息をした、しかし、衝突しても牛わ死なず、猛烈に咆えながら立った。客席からわ破れるやうな口笛や非難がおこった。前と同じことが、又起ったのであった。ガルラァドわ牛から顔をそむけて、突き刺す瞬間に腋を縮かめた。牛わふら〳〵に倒れかヽっている彼を首にのせて走ったので、数歩進むと、鉄の刀わ内からスポッと抜けて砂上を転げた。」「ガルラァドわ静かに起ち上った。しかし、彼わ苦しさうに身体を曲げて、膝【腹?】に目をやり、うなだれたまヽ危なかしげな足取りで前に進んだ。彼れわ出口を探したいのだが、見つからないかのやうに、二度ばかり首をもたげたが、酔った人のやうによろめいて、遂に地上にばったりたをれた。」
ルイス博士が来た。しかし博士わ悲しげに首をふった。何んとも癒しやうのない恐しい傷のほかに、さらに牛の頭で次々強激につかれたものだ。もう呼吸はない。」「ガルラアドわ死んだ!」「憐れな牛 憐れな闘士!」と著者イヴァニエヌわ結末にいってゐる。(をわり)
(九)四月十、一、二、三日頃の夜【注34】で、外でわ雨が降っている。大正十三年当時、水守亀之助君【注35】が「主婦の友」社【の】者とともに来て、大泉黒石君【注36】が初対面であるにもかかわらず、春秋社の用を帯びて訪ねられたが、ともにその御厚意わ、余の親戚なるものゝ無智から、余の身にわつかなかった。■■■文壇二、三の士の助力を求めている。
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注:「雑筆」翻刻後、島田清次郎の遺族から、公開の許諾をいただきました(2019年8月16日)。
判読不明の文字を■、……で示しました。誤字・脱字を修正し、難解な漢字の読み方や意味、短い注は【 】内に入れました。
注1赤津誠内は1886年生まれ、ロックフェラー研究所勤務。赤津病院院長(皮膚泌尿科)
注2トレポネーマとは、細菌類スピロヘータ目の1属。約10種が知られている。長さ5~20ミクロンの螺旋菌。
注3エミール・クレペリン(1856~1926)は、ドイツの医学者、精神科医。精神障害を遺伝学や大脳生物学といった原因からは分類はできないとして予後から分類し、1899年、精神病を早発性痴呆(統合失調症)と躁うつ病(双極性障害)に分類し、現代の『精神障害の診断と統計マニュアル』まで続く影響を与えることになった。
オイゲン・シュタイナッハ(1861-1944))は、オーストリアの生理学者で、特に若返り手術の発明者として大正期の日本では非常に有名だった人物です。輸精管を結紮すれば睾丸の間質細胞が増殖して回春すると唱え、詩人のイェイツもこの手術を受けていたほどなのですが、現在では有効性は否定されています。
注4六〇六号は、合成したときの番号からついたサルバルサンの別名です。六〇八号という薬品はないので、この部分は六〇六号の間違いでしょう。
サルバルサン は歴史的な梅毒治療薬のひとつ。名称は救世主を意味する "Salvator" と、ヒ素を意味する "arsenic" から取られており、ドイツのIG・ファルベン社の登録商標である。ドイツのパウル・エールリヒと日本の秦佐八郎が合成した有機ヒ素化合物で、スピロヘータ感染症の特効薬。毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。
注5石本恵吉(1887~1951)は男爵、社会運動家、事業家。東京帝国大学卒、新渡戸稲造の門下生で、父の死後家督を継ぐ。大学卒業後、三井鉱山に入社。1914年に広田静枝(加藤シヅエ)と結婚し、鉱山労働者の貧困に触れて労働運動を研究し、革命ロシアへの入国を試みるも、夫総連合を資金面で支援した。1922年の銀行恐慌や1923年の関東大震災による事業損失により資産を減らし、右派へ転向。石本恵吉は、当時大同洋行という輸入書籍取次業を営んでおり、清次郎はこの会社の出版部から外遊報告『世界の現状及将来』を出版する予定だった(舟木芳江事件のため中止)。
注6木村駒子(1887~1980)は、大正・昭和期の日本の女優、フェミニスト、神秘主義研究家。霊能者として夫とともに「観自在宗」を作って霊術治療をする一方、婦人団体「新真婦人会」を組織し、浅草新劇の女優にもなった。島清は、秀雄・駒子夫妻とはニューヨークで出会っている。
注7アプトン・シンクレア(1878~1968)は、アメリカ合衆国の小説家。多くのジャンルでの題材を社会主義者の視点から著し、相当の人気を得た。1906年に出版した『ジャングル(The Jungle)』によって、アメリカ精肉産業での実態を告発し、食肉検査法の可決に至った。
注8早川雪洲(1886~1973)は、日本の俳優。1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。島清はロサンゼルスで雪洲と会っている。
注9青木鶴子(1889~1961)は、無声映画時代にアメリカ合衆国で活躍した日本出身の女優。アメリカにおいて、アジア人として自分の名を冠した映画をもち、映画ポスターに名を飾った初の俳優である。
注10浅間丸は 第2次世界大戦前の日本の豪華客船。日本郵船が横浜~サンフランシスコ間の北米航路に使用するために建造したもので,1929年9月三菱長崎造船所で完成。
注11「大正十三年七月」とは、島清が庚申塚保養院に強制入院させられた時。
注12 久米正雄(1891~1952)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。
注13 国民新聞社は1923年の関東大震災で致命的打撃を受け、主婦之友社の石川武美や甲州財閥の根津嘉一郎らの資力に頼った。
注14 宇野浩二(1891~1961)1929年(38歳)脳貧血で重態となり小峰病院に入院。
注15 小島政二郎(1894~1994)小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。
注16 ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)は、インドの詩人、思想家、作曲家。1929年に最後の来日。
注17
注18 ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863~1938)は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで有名。
注19 トーマス・ハーディ(1840~1928)は、イギリスの小説家、詩人。
注20 ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866~1946)は、イギリスの著作家。小説家としては「SFの父」と呼ばれる。社会活動家や歴史家としても多くの業績を遺した。『タイム・マシン』(1895年)をはじめ、『モロー博士の島』(1896年)、『透明人間』(1897年)、『宇宙戦争』(1898年)など現在でも有名な作品を発表する。
注21 エドモン・ド・ゴンクール(1822~1896)はフランスの作家、美術評論家。
注22 ヘルマン・ズーダーマン(1857~1928)は、ドイツの劇作家、小説家。
注23 ビセンテ・ブラスコ・イバニェス(1867~1928)はスペインの作家。政治的活動のかたわら小説を執筆、闘牛を題材にした『血と砂』、第一次世界大戦を舞台にした『黙示録の四騎士』などで世界的に知られる。
注24 竹田儀一(1894~1973)は、日本の弁護士、実業家、政治家。石川県出身。1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府から立憲民政党公認で立候補し当選
注25 関取千両幟とは、浄瑠璃。世話物。九段。近松半二ほかの合作。1767年大坂竹本座初演。力士の達引きを描いたもの。二段目の「岩川内(髪梳き)」と「相撲場」が有名。
注26 雷電爲右エ門(1767~1825年)は、長野県出身の元大相撲力士。
注27 大砲万右エ門(1869~1918)は、宮城県出身の元大相撲力士。第18代横綱。
注28 常陸山谷右エ門(1874~1922)は、茨城県出身の元大相撲力士。第19代横綱。
注29 梅ヶ谷藤太郎(1845~1928)は、福岡県出身の元大相撲力士。第15代横綱。
注30 駒ヶ嶽國力(1880~1914)は、宮城県出身の元大相撲力士。
注31 大錦卯一郎(1891~1941)は、大阪府出身の元大相撲力士。第26代横綱。
注32 兼六山鉄太郎(1899~1967)は、石川県金沢市出身の元大相撲力士。最高位は西前頭13枚目)。
注33 「定命」とは天から定められた命
注34 東京、4月10日の雨量は3.0ミリ、11日の雨量は2.2ミリ、12日の雨量は4.2ミリ、13日の雨量は0.0ミリ。
注35 水守亀之助(1886~1958)は兵庫県出身の小説家。1907年には田山花袋に入門。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年新潮社に入社。自然主義の影響下に『末路』『帰れる父』などを発表。
注36 大泉黒石(1893~1957)は春秋社の社長とともに病院を訪れて清次郎の原稿を受け取っており、『我世に敗れたり』は春秋社から出版された。ロシア人の父と日本人の母を持つ作家、ロシア文学者で、『老子』『人間廃業』などの著書がある。ベストセラー作家だが、文壇では異端児であり、同じような立場の島清にシンパシーを感じていたのではないかと思われる。俳優の大泉晃の父でもある。