内灘も美川も
私にとって、北東24キロ先にある内灘についての最初の記憶は1953年6歳(小学1年生)のときである。父とともに、波打ちぎわを歩いていたら、遠くから「ドーン」「ドーン」という低い音が聞こえてきており、父に尋ねると、「遠くの内灘海岸で、アメリカが大砲を撃っている音や」という。そのときはわけもわからず、「ふーん」という程度の反応だったと思う。それは、そのまま心の奥にしまい込まれ、青年期に内灘闘争を対象化したときに、甦ってきた。
私にとっては、物心がつくかつかない頃から、砂丘地(どやま=道專山)は遊び場であり、近所の子供達とともに、どやまへ行き、手頃な太さの多少反り返ったねむの木の枝を切り落とし、握り手の部分だけを残して、樹皮を剥ぐと、白い刀身の刀になる。そして二手に分かれてチャンバラごっこに熱中していた。夏は、背中の皮膚がむけるほどに、海水浴を楽しんだ。秋には、遊び疲れれば、防風林として植えられていたハマグミの小さくて渋い実を頬張ることも出来た。雪が降れば、竹スキーをもって、小高い丘にあがり、滑り降りることに夢中になった。
松林が広がる砂丘地は遊び場だけではなく、収穫の場でもあった。家族総出で、熊手(わが家ではビルバといっていた)と大きなズタ袋をもって、松の落ち葉(当地ではコッサといっていた)を大量にかき集め、近所の建具屋さんから借りてきた荷車で運び、かまどの焚き付けとし、台風が過ぎた後には、白山麓から手取川を流れ下り、海岸に流れ着く枯れ枝(当地ではモクといっていた)を拾い集めて燃料としていた。秋になれば、松林はキノコ狩りの場である。松露(ショウロ=今では幻の高級食材)やハツタケ(当地ではマツミニといった)が採れ、子供ながらも醤油のすまし汁に舌鼓を打っていた。
春は鰯(いわし)漁の最盛期であり、早朝4時頃、母に叩き起こされ、眠い目をこすりながら、カエルが大合唱する畦道を抜けて、海岸に着き、女衆に混じって、漁船から降ろされる漁網を小脇にかかえて、砂地に並べ、女衆は網際にしゃがんで、鰯を丁寧に外し、藁で編んだ籠に入れられたピチピチの鰯はこどもたちによって、一カ所にまとめられた。女衆やこどもの駄賃は現物支給で、その日が大漁であれば10匹ももらえたが、1匹しかもらえないこともあった。春先に顔を出すハマボウフウを摘み、赤紫色の茎と鰯のヌタがおいしかった。
当時の内灘砂丘にも、おそらく美川海岸とそれほど変わらない日常があったのだろうが、米軍試射場によって、海も浜も砂丘地も、その日常が奪われていったのである。
私にとって、北東24キロ先にある内灘についての最初の記憶は1953年6歳(小学1年生)のときである。父とともに、波打ちぎわを歩いていたら、遠くから「ドーン」「ドーン」という低い音が聞こえてきており、父に尋ねると、「遠くの内灘海岸で、アメリカが大砲を撃っている音や」という。そのときはわけもわからず、「ふーん」という程度の反応だったと思う。それは、そのまま心の奥にしまい込まれ、青年期に内灘闘争を対象化したときに、甦ってきた。
私にとっては、物心がつくかつかない頃から、砂丘地(どやま=道專山)は遊び場であり、近所の子供達とともに、どやまへ行き、手頃な太さの多少反り返ったねむの木の枝を切り落とし、握り手の部分だけを残して、樹皮を剥ぐと、白い刀身の刀になる。そして二手に分かれてチャンバラごっこに熱中していた。夏は、背中の皮膚がむけるほどに、海水浴を楽しんだ。秋には、遊び疲れれば、防風林として植えられていたハマグミの小さくて渋い実を頬張ることも出来た。雪が降れば、竹スキーをもって、小高い丘にあがり、滑り降りることに夢中になった。
松林が広がる砂丘地は遊び場だけではなく、収穫の場でもあった。家族総出で、熊手(わが家ではビルバといっていた)と大きなズタ袋をもって、松の落ち葉(当地ではコッサといっていた)を大量にかき集め、近所の建具屋さんから借りてきた荷車で運び、かまどの焚き付けとし、台風が過ぎた後には、白山麓から手取川を流れ下り、海岸に流れ着く枯れ枝(当地ではモクといっていた)を拾い集めて燃料としていた。秋になれば、松林はキノコ狩りの場である。松露(ショウロ=今では幻の高級食材)やハツタケ(当地ではマツミニといった)が採れ、子供ながらも醤油のすまし汁に舌鼓を打っていた。
春は鰯(いわし)漁の最盛期であり、早朝4時頃、母に叩き起こされ、眠い目をこすりながら、カエルが大合唱する畦道を抜けて、海岸に着き、女衆に混じって、漁船から降ろされる漁網を小脇にかかえて、砂地に並べ、女衆は網際にしゃがんで、鰯を丁寧に外し、藁で編んだ籠に入れられたピチピチの鰯はこどもたちによって、一カ所にまとめられた。女衆やこどもの駄賃は現物支給で、その日が大漁であれば10匹ももらえたが、1匹しかもらえないこともあった。春先に顔を出すハマボウフウを摘み、赤紫色の茎と鰯のヌタがおいしかった。
当時の内灘砂丘にも、おそらく美川海岸とそれほど変わらない日常があったのだろうが、米軍試射場によって、海も浜も砂丘地も、その日常が奪われていったのである。