『<会社>と基地建設をめぐる旅』を読んで
2000年3月に小松基地爆音訴訟原告の竹内伊知さんとともに辺野古を訪れたことを思い出しながら、『<会社>と基地建設をめぐる旅』を読んでいます。
1995年に3人の米兵による12歳の少女にたいする強姦事件があり(この30年間どんなに苦しんできたことでしょうか)、普天間基地の名護市辺野古への移転計画が発表され、1997年の名護市住民投票では、投票率82%で、54%の住民が反対票を投じ、1998年にヘリ基地反対協議会が結成され、そのしばらく後の2000年3月に辺野古を訪問しました(嘉手納基地爆音訴訟第2次提訴に参加)。
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その時、辺野古海岸の団結小屋にいたのは金城祐治さんで、小松から来たことを告げると、金城さんの思い出話がはじまりました。金城さんの母親が小松市土居原町出身ということで、いろいろ話が弾んだのですが、飛行機の時間が迫っており、やむなく、そこを辞しました。その後、私は沖縄を訪れる機会もなく、もう25年も過ぎてしまいました。
本書のテーマは、軍事基地を縦軸にして、戦犯企業(死の商人)を横軸にして、軍事基地建設に関わる<会社>を白日のもとに照らし出すことです。小松基地を対象としてきた私の問題意識は、政府と自治体そして住民にあり、<会社>についてはほとんど視野の外にあり、本書を読んで、戦争に絡みつく「死の商人」の姿が現れてきました。
第1章「沖縄・辺野古の海上基地建設」は駆け足で読み進め、43ページにさしかかって、「日本工営―1930年代朝鮮へ―水豊(スブン)ダム建設」に目がとまりました。もしかしたら、台湾の嘉南大圳(烏山頭ダム)建設にも絡んでるのかなと、食指が動きました。
嘉南大圳(烏山頭ダム)建設は在来の台湾農業を破壊し、糖業資本のために、1920年に着工し、1930年に通水しています。このときの工事に携わった企業として、私のレポート(『八田與一 「物語」から「歴史」へ』2022年)には、大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板工業、太田組の名前を挙げています。
第2章「富国強兵と基地建設」の冒頭には、大倉喜八郎の名前があり、大成建設の創業者であり、この<会社>こそ嘉南大圳(烏山頭ダム)建設を請け負った大倉土木の戦後の姿で、今では辺野古基地建設の中心的役割を果たしていることを知らされました。レポートには「大倉土木は2200人を超える朝鮮人を強制連行して大井川電源開発工事をおこない、鹿島組は986人の中国人を花岡鉱山で強制労働させ、418人を死亡させた札付きの戦犯企業である」と念押ししています。まさに、大成建設(大倉土木)は植民地台湾の農民や朝鮮人を食い物にして、戦後も琉球(沖縄)を食い物にして、成長し続けている「死の商人」ですね。
著者は辺野古基地からはじまって、呉鎮守府、所沢陸軍飛行場、浜松基地、松代大本営、小松基地などを対象化していきます。しかし、小松基地の項は、<会社>情報の提供不足で、今後の課題にしなければならないと思いました。
著者は本章(1~4章)では、事実関係を淡々と描き、読者(特に軍事基地問題を対象化している読者)に、軍事基地建設に群がる<企業>へのアタックを促していますが、自らの思いは「エピローグ―東京の路上で」「終わりに―戦争で儲けるな! 戦争を準備するな!」で思いの丈を語っています。
皆さんの精読をお薦めします。 2024年11月23日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『<会社>と基地建設をめぐる旅』(加藤宣子著 ころから出版 2024/11/25)
目次
プロローグ 辺野古の「海上」から
第1章 沖縄・辺野古の海上基地建設
辺野古基地建設の経緯/辺野古基地建設工事の進捗と抗議/<会社>と基地建設
第2章 「富国強兵」と基地建設
鉄砲屋・大倉喜八郎と基地建設/呉鎮守府建設と下請けの水野組/所沢陸軍飛行場
第3章 世界大戦下の基地建設
浜松市と日本楽器が誘致した浜松基地/陸軍軍建協力会・海軍施設協力会の設立と海外進出/松代大本営建設と西松組・鹿島組/
太平洋戦争末期に建設された小松基地(安値で買収された民有地/動員された受刑者と朝鮮人/人力とスコップと/米軍による接収と返還後の拡充)
第4章 敗戦後、日米関係かでの基地建設
沖縄―米軍統治下での基地建設/岩国―沖合移転という名のアジア最大の米軍基地建設/琉球弧の軍事要塞化
コラム <会社>と原発建設
エピローグ 東京の「路上」で
終わりに 戦争で儲けるな! 戦争を準備するな!
2000年3月に小松基地爆音訴訟原告の竹内伊知さんとともに辺野古を訪れたことを思い出しながら、『<会社>と基地建設をめぐる旅』を読んでいます。
1995年に3人の米兵による12歳の少女にたいする強姦事件があり(この30年間どんなに苦しんできたことでしょうか)、普天間基地の名護市辺野古への移転計画が発表され、1997年の名護市住民投票では、投票率82%で、54%の住民が反対票を投じ、1998年にヘリ基地反対協議会が結成され、そのしばらく後の2000年3月に辺野古を訪問しました(嘉手納基地爆音訴訟第2次提訴に参加)。

その時、辺野古海岸の団結小屋にいたのは金城祐治さんで、小松から来たことを告げると、金城さんの思い出話がはじまりました。金城さんの母親が小松市土居原町出身ということで、いろいろ話が弾んだのですが、飛行機の時間が迫っており、やむなく、そこを辞しました。その後、私は沖縄を訪れる機会もなく、もう25年も過ぎてしまいました。
本書のテーマは、軍事基地を縦軸にして、戦犯企業(死の商人)を横軸にして、軍事基地建設に関わる<会社>を白日のもとに照らし出すことです。小松基地を対象としてきた私の問題意識は、政府と自治体そして住民にあり、<会社>についてはほとんど視野の外にあり、本書を読んで、戦争に絡みつく「死の商人」の姿が現れてきました。
第1章「沖縄・辺野古の海上基地建設」は駆け足で読み進め、43ページにさしかかって、「日本工営―1930年代朝鮮へ―水豊(スブン)ダム建設」に目がとまりました。もしかしたら、台湾の嘉南大圳(烏山頭ダム)建設にも絡んでるのかなと、食指が動きました。
嘉南大圳(烏山頭ダム)建設は在来の台湾農業を破壊し、糖業資本のために、1920年に着工し、1930年に通水しています。このときの工事に携わった企業として、私のレポート(『八田與一 「物語」から「歴史」へ』2022年)には、大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板工業、太田組の名前を挙げています。
第2章「富国強兵と基地建設」の冒頭には、大倉喜八郎の名前があり、大成建設の創業者であり、この<会社>こそ嘉南大圳(烏山頭ダム)建設を請け負った大倉土木の戦後の姿で、今では辺野古基地建設の中心的役割を果たしていることを知らされました。レポートには「大倉土木は2200人を超える朝鮮人を強制連行して大井川電源開発工事をおこない、鹿島組は986人の中国人を花岡鉱山で強制労働させ、418人を死亡させた札付きの戦犯企業である」と念押ししています。まさに、大成建設(大倉土木)は植民地台湾の農民や朝鮮人を食い物にして、戦後も琉球(沖縄)を食い物にして、成長し続けている「死の商人」ですね。
著者は辺野古基地からはじまって、呉鎮守府、所沢陸軍飛行場、浜松基地、松代大本営、小松基地などを対象化していきます。しかし、小松基地の項は、<会社>情報の提供不足で、今後の課題にしなければならないと思いました。
著者は本章(1~4章)では、事実関係を淡々と描き、読者(特に軍事基地問題を対象化している読者)に、軍事基地建設に群がる<企業>へのアタックを促していますが、自らの思いは「エピローグ―東京の路上で」「終わりに―戦争で儲けるな! 戦争を準備するな!」で思いの丈を語っています。
皆さんの精読をお薦めします。 2024年11月23日
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『<会社>と基地建設をめぐる旅』(加藤宣子著 ころから出版 2024/11/25)
目次
プロローグ 辺野古の「海上」から
第1章 沖縄・辺野古の海上基地建設
辺野古基地建設の経緯/辺野古基地建設工事の進捗と抗議/<会社>と基地建設
第2章 「富国強兵」と基地建設
鉄砲屋・大倉喜八郎と基地建設/呉鎮守府建設と下請けの水野組/所沢陸軍飛行場
第3章 世界大戦下の基地建設
浜松市と日本楽器が誘致した浜松基地/陸軍軍建協力会・海軍施設協力会の設立と海外進出/松代大本営建設と西松組・鹿島組/
太平洋戦争末期に建設された小松基地(安値で買収された民有地/動員された受刑者と朝鮮人/人力とスコップと/米軍による接収と返還後の拡充)
第4章 敗戦後、日米関係かでの基地建設
沖縄―米軍統治下での基地建設/岩国―沖合移転という名のアジア最大の米軍基地建設/琉球弧の軍事要塞化
コラム <会社>と原発建設
エピローグ 東京の「路上」で
終わりに 戦争で儲けるな! 戦争を準備するな!