20250301 昭和天皇と内灘闘争
『昭和天皇「拝謁記」』(田島道治 2022年)
第1巻 1949年2月~1950年9月
第2巻 1950年10月~1951年10月
第3巻 1951年11月~1952年6月
第4巻 1952年7月~1953年4月
第5巻 1953年5月~1953年12月
ネット上に、昭和天皇が内灘闘争に関してコメントをしているという情報があり、金沢市立図書館から『昭和天皇「拝謁記」』(4巻、5巻)を借り出し、1953年1月から12月までの1年分をチェックした。問題意識としては、昭和天皇が内灘闘争についてどのようなコメントをしていて、その背景は何かにある。
内灘を生け贄にして
1953/5/25「内灘でも浅間でも貸さぬといはれれば、(注:小笠原、奄美大島は)返されず」/11/24「基地の問題でも、…全体の為に之がいゝと分れば、一部(注:内灘)の犠牲は已むを得ぬ」「全体の為にする義務といふ考えがないから困る」「日本の国防といふ事を現状に即して考へて…、誰かがどこか(注:内灘)で不利を忍び犠牲を払はねばならぬ」
内灘闘争の激しいつばぜり合いの真っ只中、5月25日、昭和天皇は小笠原、奄美大島返還のためには、内灘砂丘と村民の生活を生け贄として差し出すのもやむを得ないとしている。この時期は、米軍占領下にある奄美大島(1953/12/25返還)や小笠原諸島(1968/6/26返還)の復帰が取り沙汰されていた。
昭和天皇は、全体(国)のためには一部(内灘)が犠牲に甘んじるべきだと考えている。まさに上から目線であり、戦前の天皇制=全体主義思想そのままである。この場合の「全体」とは皇国日本であり、天皇のために一命を差し出せという戦前そのままの価値観が敗戦8年後の今も、昭和天皇を律している。
1945年2月、近衛文麿は昭和天皇に「このまま戦争を継続すれば敗北は必至。米英は国体改革までいたらず」と、降伏を上奏したが、「もう一度戦果を挙げてからでないと」と、戦争を続行させた。ポツダム宣言(7/26)も無視して戦争を継続し、広島・長崎への原爆投下を受け、ソ連の参戦(8/9)があり、「天皇統治」の維持を条件にして、ポツダム宣言を受諾(8/14)したが、その間に、どれほどの無辜の民が死を強いられただろうか。
革命への恐怖感
1953/6/17「内灘(注:基地反対運動)の問題も、…全学連の連中とか労働者とかが日共的に介在して居るらしいとの話しもしてたが困ったことだ」「日本の軍備がなければ米国が進駐してゝ、守つてくれるより仕方はないのだ。内灘の問題などもその事思へば、已むを得ぬ」/7/14「内灘のやうな問題も早く手を打てばよいのに、どうも共産党に乗ぜられるのを、多寡を括ってどうも楽観的のやうだ」「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てる」/
内灘村民は生業(砂丘地漁業)と生活を守るためにたたかい、全学連や労働組合(コムニスト)が連帯して駆けつけてきており、堅い信頼関係を結んでいた。昭和天皇は、その矛先がアメリカ進駐軍と政府に向かい、さらに体制(象徴天皇制)打倒(革命)に発展することに怯えている。象徴天皇制として辛うじて生きのびた天皇(家)は、「米軍には感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ」(6/2)と、「感謝感激雨霰」の卑屈な姿勢を露わにしている。
昭和天皇は、「現に革命で暗殺されたニコライ2世」(3/17)と語っており、日本革命は天皇処刑と同義語であり、内灘闘争がその導水路になるかもしれないと、恐怖を抱いていたのであろう。
反共・排外主義
1953/6/2「平和をいふなら一葦帯水(注:一衣帯水)の千島や樺太から、侵略の脅威となるものを、先づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい」/6/17「ソ連の平和を口にして侵略的の実行をするのはどうも戒心を要する」、「日本は海ひとつ隔てゝる丈で(注:ソ連は)いつでもやって来れる。それに備へるものがなければ共産勢力は弱いと見れば来るに極ってる」、「米軍には、矢張り感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ」/7/14「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てる」/8/1「ソ連程目的の為に手段を選ばぬ国はない。平和とか何とかいってあんな侵略主義の国はない」/8/11「日本(注:の近くに)は虎視眈々たるソ連が居るのよ」/10/2「中共の事だがネー、…実際は圧制命令で専制なのだし、…共産国の方が侵略だともいへるし、言葉の上で平和といふけれど、何か政府の施策に反すればすぐ反革命とかいってつるし上げをやり、個人の自由はちっともない」/11/11「ソ連は千島を未だ返さず、万事ソ連はひどいのに、…平和の美名の為に迷って、日本は親ソ反米の空気が相当あることは概(なげ)かわしいことだ。此反米感情を和げ、正当に日本はアメリカと仲よくやってく事が必要だと思ふに、ソ連や中共側の宣伝に躍らされてるのは困った事だ」
まさに、反ソ連・反中国排外主義のオンパレードである。昭和天皇が最も恐れていることは、革命による「皇室の廃止」であり、「平和をいふなら…千島や樺太から、侵略の脅威となるもの(注:ソ連)を、先づ去つて貰ふ運動」(6/2)をせよと、反ソ・反共運動をけしかけている。
かつては「鬼畜米英」と煽って労働者を戦争に駆り立て、数百万の日本人を死地に追いやり、数千万のアジア人民を殺戮したのは誰か。その根源である天皇は、米軍占領支配の手先になることを誓約して、「戦犯」から除外してもらい、命拾いしたが、その返礼として、「米軍には感謝し、酬(むく)ゆる」(6/2)と双手を挙げて賛美している。
戦後、内灘村民や労働者・学生は天皇制による抑圧から解放され、のびのびと自己主張できる時代を迎えた。しかし、昭和天皇は内灘村民や労働者・学生を「中国・ソ連の手先」=「皇室の敵」として、米軍の力を借りてでも叩き潰したいと考えているようだ。
再軍備も、改憲も
1952/2/11「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ」/2/26「軍備といつても国として独立する以上必要である」/3/6「文化国家などといへば、再軍備機運の際に共産党など非軍備派の為に悪用される」/3/11「侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得巳(注:やむを得ず)必要だ」/11/27「忠君愛国そのものゝ適当の範囲ならばそれは悪いことではない」
1953/1/14「私は本当は再軍備を認めて」/5/5「中共のやうな侵略の現実に接する以上、軍備なしには出来ぬものと思ふ」/5/20「私など旧憲法改正の必要はないと思った次第で」/6/2「防衛の軍隊が必要な事は明瞭過ぎる位だ」/6/24「日本も鴨緑江でやめておくべきであった。軍人が満州、大陸と進出したからこういふ事になった」/7/1「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが」/7/14「行きがかりに拘泥しないで再軍備するのだ」/8/11「自分の国の防御を自分でやるのは当り前」/10/14「私も随分軍部と戦ったけれども」/
敗戦からすでに8年を過ぎて、「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが」(7/1)と、かつての国家元首のように、政治・軍事への介入の意思を露わにしている。また、「旧憲法改正の必要はない」(5/20)と、新憲法の国民主権を認めようとしていない。しかも「軍人が満州、大陸と進出したから」(6/24)などと言って、侵略戦争の泥沼化を軍部に責任転嫁し、あたかも「軍部と戦った善良な天皇」(10/14)であったかのように言いなして、自己弁護に努めている。そして、戦後も労働者人民に「忠君愛国」(1952/11/27)を要求しているのである。
隠された歴史を掘り起こせ
もしも1953年当時に、以上のような発言が明らかにされれば、象徴天皇制も粉みじんにされたであろう。だからこそ、ひっそりと隠され、歴史学者以外は注目しないであろう70年後に公表されたのである。
資料『昭和天皇「拝謁記」』第4巻(1953年1~4月)抜粋
(1953/1/11)「近ごろ新聞や雑誌に」宮内庁に関する批判といふか悪口的なものが又多く見るやうになったが、あれはどういふ訳だ」(125P)
(1953/1/14)「世論と称するものも、その根底に横たはるものを検討すれば、或は共産思想かも知れず、無差別の平等とか、全然無階級の思想といふものに根があれば、それは容易に従ふ事はむしろ出来ぬと思ふ。社会に秩序といふものがあり、礼があれば差別は当然出て来る。上下階級も、社会ある以上は必要」(129P)、「民主主義といふものが自分たちの利益を主張するといふことに堕すれば国は危いので、…田中義一内閣頃の…右翼とか青年将校とかいふものが憤慨した。その結果とった彼等の手段は間違って居ったが、動機は必しも悪いとはいへない」(130P)
(1953/2/17)「反米思想に道理のやゝある点に乗じてソ連的になる事の危険」(162P)
(1953/3/10)「靖国神社は別格であり、明治神宮は官幣大社である。其祭神からいっても私としては明治神宮を先にし、之と同等といふよりは一寸低い位に致したい」(185P)
(1953/3/12)「旧憲法でもどうかと思ふが、新憲法ではとても出来ないが、私が思ふに、真に国家の前途を憂ふるなら保守は大同団結してやるべきで、何か私が出来ればと思って」(188P)
(1953/3/17)「日本でも昔は伝統的に私の写真に敬礼して君が代を歌ふといふ事が伝統的になっていたが、戦後自由主義のはき違へで伝統を重んじなくなったが是はどうかと思ふ」、「ソ連では、…現に革命で暗殺されたニコライ二世」(190P)
(1953/3/31)「中共引揚につき、日赤の外に二つの共産党に関係のありそうな団体があるやうだが、表面国民として反対できぬ問題へ好意的の手伝をして、内実何か考へては居らぬか其真相を知りたいし、又国民もだまされぬやうにせねばならぬ」(208P)
(1953/4/10)「今度の停戦協定の再開、捕虜の問題等も又中共の帰還の問題も何か一貫したあるものがあるやうで、余程注意せぬと先方の宣伝用に美名の下に使はれるだけだ」(216P)
(1953/4/17)「マレンコフの問題だがネー、あれは平和攻勢であって、只管平和にしようといふのではないと思ふ。何れ平和といって米国駐屯の必要がないから撤兵せよとか、中共貿易をして中共の発達に資せりとか何とか、あの圏内の利益を考へてやってる事と想像されるが」(227P)
(1953/4/18)「元皇族に関する事だがねー、…元皇族が多少とも天長節にでも出られぬのを不満に思ふのは、追放と臣籍降下を考へているのではないかと思ふ」(228P)
(1953/4/21)「皇族の国会開会式への出席は特権であるが、同時に私は義務と思ふので義務として出席されるといゝと私は思ふのだがネー」(234P)
(1953/4/24)「労働者も西独のやうに国の事を第一に考へて、ストライキなしで資本家も労働者に出来るだけの事をして相互に協調するやうにして貰ひたい。賃上げ計りを要求してそれを消費面に使ふのでは物価の騰貴となり、どうしても駄目だ。貯蓄をして生産に寄与するといふなら賃上げもいゝが、此点どうももう少し日本の将来に注目して国民全部が真剣になって貰へないものかナー」(238P)
資料『昭和天皇「拝謁記」』第5巻(1953年5~12月)抜粋
(1953/5/5)「世の中に泥棒がなければ警察はいらぬが、事実泥棒のある以上は警察がなければ誰も安心できない。侵略する国家がないとの確乎たる前提あっての再軍備反対ならば別だが、…現に中共のやうな侵略の現実に接する以上、軍備なしには出来ぬものと思ふがネー」(6P)
(1953/5/20)「私など旧憲法改正の必要はないと思った次第で」(29P)
(1953/5/25)「内灘の事で反対運動をやっているやうだが、…小笠原でも、奄美大島でも米国は返さうと思つても 内灘でも浅間でも貸さぬといはれれば返されず、米国の権力下において、そこでやるといふ事になる。米国の力で国防をやる今日、どこか必要なれば我慢して提供し、小笠原等を米国が返すやうにせねばいかんと思ふのに、困つた事だ」(38P)
(1953/6/2)「私は警察も検事も刑事裁判所もない方がいゝと思ふ。又医者でも、私は予防医はあつて、臨床医はない方がいゝと思ふ。然し如何せん、盗人が居る以上警察等は必要だし、病気が絶滅せぬ限り臨床医も必要だ。それを思へば防衛の軍隊が必要な事は明瞭過ぎる位だ。安倍(能成)やなんか平和をいふなら一葦帯水(注:一衣帯水)の千島や樺太から、侵略の脅威となるものを、先づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい。現実を忘れた理想論は困る」(51P)、
(1953/6/2)「安倍(注:能成)は不相変(あいかわらず)、心に又絶対に再軍備すべからずと書いて居りますが、どうも理想に馳せて現実を軽視しているやうで」(51P)
(1953/6/17)「朝鮮(注:戦争)休戦の問題は、成立して悪いとはいへる事ではないが…。内灘(注:基地への反対運動)の問題も、随分京都の先年の全学連の連中とか労働者とかが日共的に介在して居るらしいとの話しもしてたが困ったことだ」(55P)、「日本の軍備がなければ米国が進駐してゝ、守つてくれるより仕方はないのだ。内灘の問題などもその事思へば、已むを得ぬ現状である」(56P)、「ソ連の平和を口にして侵略的の実行をするのはどうも戒心を要する」(58P)、「日本は海ひとつ隔てゝる丈でいつでもやって来れる。それに備へるものがなければ共産勢力は弱いと見れば来るに極ってる」(59P)、「日本の軍備をやめた事は現実の状況としては米軍に依る外ない。米軍中、不都合を働くものは不都合故、これは罰すればよい。…私はむしろ、自国の防衛でない事に当る米軍には、矢張り感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ位に思ふ」(59P)
(1953/6/24)「朝鮮は常にいづれかに隷属してた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきであった。軍人が満州、大陸と進出したからこういふ事になった」(77P)
(1953/7/1)「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが、今の憲法ではどうすることも出来ない。マア、党首を呼んでお互いに国の為にといふやうな事がいへればだけれども」(86P)
(1953/7/14)「私はMSA(相互防衛援助協定)を受ければ吉田のいふ国力の負担はなくなるのだから、あまり行きがかりに拘泥しないで再軍備するのだ」(97P)、「内灘のやうな問題も早く手を打てばよいのに、どうも共産党に乗ぜられるのを、多寡を括ってどうも楽観的のやうだ」(98P)、「盛厚さんが…紀州の大島のやうな…共産党の連中の工作で矢張り何かいひ出している事をいっていた」(98P)
(1953/8/1)「ソ連程目的の為に手段を選ばぬ国はない。平和とか何とかいってあんな侵略主義の国はない。…日本との不戦条約(注:中立条約)は破るし」(114P)
(1953/8/11)「自分の国の防御を自分でやるのは当り前だから、吉田のやうに楽観して呑気なことをいってるのはどうかと思ふネー。…現に日本は虎視眈々たるソ連が居るのよ」(121P)
(1953/10/2)「中共の事だがネー、どうも説得であって圧制ではない、自発で命令ではないといっているが、あれは表面の話で、実際は圧制命令で専制なのだし、米国は主権はあると称してやってるがソ連はそうでないし、共産国の方が侵略だともいへるし、言葉の上で平和といふけれど、何か政府の施策に反すればすぐ反革命とかいってつるし上げをやり、個人の自由はちっともない」(167P)
(1953/10/9)「柳条湖事件は明かに日本のやった事だが、盧溝橋事件はあの当時から日本側でもなく支那側でもなく第三者(注:ソ連をさす)がやったといふ様な話しをきいてた」(173P)
(1953/10/9)「労働の話も日本の為の労働(注:労働者)であって欲しいので、労働(注:労働者)の為の日本では困る」(174P)
(1953/10/14)「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てるので此点は米国が共産国の専制的の勢力と離れて又力があるのと日本は違ふ」(177P)、「私も随分軍部と戦ったけれども、勢あゝなったのだが、…その時の軍部は軍部あっての国家といふやうな考へであった」(177P)
(1953/11/11)「法務大臣にきいたが、松川事件はアメリカがやって共産党の所為にしたとかいふ事だが、これら過失はあるが汚物を何とかしたというので、司令官が社会党に謝罪にいってるし、日韓関係の事もアメリカは骨折ってるし、奄美大島は返すし、…日本の為になってるは確かだ。これに反してソ連は千島を未だ返さず、万事ソ連はひどいのに、此両方の対照的にも関らず、平和の美名の為に迷って、日本は親ソ反米の空気が相当あることは概かわしいことだと思ふ。此反米感情を和げ、正当に日本はアメリカと仲よくやってく事が必要だと思ふに、ソ連や中共側の宣伝に躍らされてるのは困った事だ」(214P)
(1953/11/24)「基地の問題でも、それぞれの立場上より論ずれば、一応尤(もっとも)と思ふ理由もあらうが、全体の為に之がいゝと分れば、一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りは、一部の犠牲となる人には、全体から補償するといふ事にしなければ、国として存立して行く以上、やりやうない話であるのを、憲法の美しい文句に捕はれて、何もせずに全体が駄目になれば、一部も駄目になつて了ふといふ事を考へなければと私は思ふ」、 「一部一部、自分の利害の上から考へて、自分の利益権利といふ方に重きをおいて、全体の為にする義務といふ考えがないから困ると思ふ。…日本の国防といふ事を現状に即して考へて、日本としてなすべき事たるが分かれば、誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払はねばならぬ。その犠牲には、全体が親切に賠償するといふより仕方ないと私は思うがねー」(228P)
(1953/12/15)「政府とは連絡は充分緊密な事必要であるが、政府とか政党とかよりは独立したものたる事は必要だ。経費の点など…自由に出来る皇室費で昔の様に一本だといゝと思ふ」(264P)
『昭和天皇「拝謁記」』(田島道治 2022年)
第1巻 1949年2月~1950年9月
第2巻 1950年10月~1951年10月
第3巻 1951年11月~1952年6月
第4巻 1952年7月~1953年4月
第5巻 1953年5月~1953年12月
ネット上に、昭和天皇が内灘闘争に関してコメントをしているという情報があり、金沢市立図書館から『昭和天皇「拝謁記」』(4巻、5巻)を借り出し、1953年1月から12月までの1年分をチェックした。問題意識としては、昭和天皇が内灘闘争についてどのようなコメントをしていて、その背景は何かにある。
内灘を生け贄にして
1953/5/25「内灘でも浅間でも貸さぬといはれれば、(注:小笠原、奄美大島は)返されず」/11/24「基地の問題でも、…全体の為に之がいゝと分れば、一部(注:内灘)の犠牲は已むを得ぬ」「全体の為にする義務といふ考えがないから困る」「日本の国防といふ事を現状に即して考へて…、誰かがどこか(注:内灘)で不利を忍び犠牲を払はねばならぬ」
内灘闘争の激しいつばぜり合いの真っ只中、5月25日、昭和天皇は小笠原、奄美大島返還のためには、内灘砂丘と村民の生活を生け贄として差し出すのもやむを得ないとしている。この時期は、米軍占領下にある奄美大島(1953/12/25返還)や小笠原諸島(1968/6/26返還)の復帰が取り沙汰されていた。
昭和天皇は、全体(国)のためには一部(内灘)が犠牲に甘んじるべきだと考えている。まさに上から目線であり、戦前の天皇制=全体主義思想そのままである。この場合の「全体」とは皇国日本であり、天皇のために一命を差し出せという戦前そのままの価値観が敗戦8年後の今も、昭和天皇を律している。
1945年2月、近衛文麿は昭和天皇に「このまま戦争を継続すれば敗北は必至。米英は国体改革までいたらず」と、降伏を上奏したが、「もう一度戦果を挙げてからでないと」と、戦争を続行させた。ポツダム宣言(7/26)も無視して戦争を継続し、広島・長崎への原爆投下を受け、ソ連の参戦(8/9)があり、「天皇統治」の維持を条件にして、ポツダム宣言を受諾(8/14)したが、その間に、どれほどの無辜の民が死を強いられただろうか。
革命への恐怖感
1953/6/17「内灘(注:基地反対運動)の問題も、…全学連の連中とか労働者とかが日共的に介在して居るらしいとの話しもしてたが困ったことだ」「日本の軍備がなければ米国が進駐してゝ、守つてくれるより仕方はないのだ。内灘の問題などもその事思へば、已むを得ぬ」/7/14「内灘のやうな問題も早く手を打てばよいのに、どうも共産党に乗ぜられるのを、多寡を括ってどうも楽観的のやうだ」「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てる」/
内灘村民は生業(砂丘地漁業)と生活を守るためにたたかい、全学連や労働組合(コムニスト)が連帯して駆けつけてきており、堅い信頼関係を結んでいた。昭和天皇は、その矛先がアメリカ進駐軍と政府に向かい、さらに体制(象徴天皇制)打倒(革命)に発展することに怯えている。象徴天皇制として辛うじて生きのびた天皇(家)は、「米軍には感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ」(6/2)と、「感謝感激雨霰」の卑屈な姿勢を露わにしている。
昭和天皇は、「現に革命で暗殺されたニコライ2世」(3/17)と語っており、日本革命は天皇処刑と同義語であり、内灘闘争がその導水路になるかもしれないと、恐怖を抱いていたのであろう。
反共・排外主義
1953/6/2「平和をいふなら一葦帯水(注:一衣帯水)の千島や樺太から、侵略の脅威となるものを、先づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい」/6/17「ソ連の平和を口にして侵略的の実行をするのはどうも戒心を要する」、「日本は海ひとつ隔てゝる丈で(注:ソ連は)いつでもやって来れる。それに備へるものがなければ共産勢力は弱いと見れば来るに極ってる」、「米軍には、矢張り感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ」/7/14「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てる」/8/1「ソ連程目的の為に手段を選ばぬ国はない。平和とか何とかいってあんな侵略主義の国はない」/8/11「日本(注:の近くに)は虎視眈々たるソ連が居るのよ」/10/2「中共の事だがネー、…実際は圧制命令で専制なのだし、…共産国の方が侵略だともいへるし、言葉の上で平和といふけれど、何か政府の施策に反すればすぐ反革命とかいってつるし上げをやり、個人の自由はちっともない」/11/11「ソ連は千島を未だ返さず、万事ソ連はひどいのに、…平和の美名の為に迷って、日本は親ソ反米の空気が相当あることは概(なげ)かわしいことだ。此反米感情を和げ、正当に日本はアメリカと仲よくやってく事が必要だと思ふに、ソ連や中共側の宣伝に躍らされてるのは困った事だ」
まさに、反ソ連・反中国排外主義のオンパレードである。昭和天皇が最も恐れていることは、革命による「皇室の廃止」であり、「平和をいふなら…千島や樺太から、侵略の脅威となるもの(注:ソ連)を、先づ去つて貰ふ運動」(6/2)をせよと、反ソ・反共運動をけしかけている。
かつては「鬼畜米英」と煽って労働者を戦争に駆り立て、数百万の日本人を死地に追いやり、数千万のアジア人民を殺戮したのは誰か。その根源である天皇は、米軍占領支配の手先になることを誓約して、「戦犯」から除外してもらい、命拾いしたが、その返礼として、「米軍には感謝し、酬(むく)ゆる」(6/2)と双手を挙げて賛美している。
戦後、内灘村民や労働者・学生は天皇制による抑圧から解放され、のびのびと自己主張できる時代を迎えた。しかし、昭和天皇は内灘村民や労働者・学生を「中国・ソ連の手先」=「皇室の敵」として、米軍の力を借りてでも叩き潰したいと考えているようだ。
再軍備も、改憲も
1952/2/11「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ」/2/26「軍備といつても国として独立する以上必要である」/3/6「文化国家などといへば、再軍備機運の際に共産党など非軍備派の為に悪用される」/3/11「侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得巳(注:やむを得ず)必要だ」/11/27「忠君愛国そのものゝ適当の範囲ならばそれは悪いことではない」
1953/1/14「私は本当は再軍備を認めて」/5/5「中共のやうな侵略の現実に接する以上、軍備なしには出来ぬものと思ふ」/5/20「私など旧憲法改正の必要はないと思った次第で」/6/2「防衛の軍隊が必要な事は明瞭過ぎる位だ」/6/24「日本も鴨緑江でやめておくべきであった。軍人が満州、大陸と進出したからこういふ事になった」/7/1「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが」/7/14「行きがかりに拘泥しないで再軍備するのだ」/8/11「自分の国の防御を自分でやるのは当り前」/10/14「私も随分軍部と戦ったけれども」/
敗戦からすでに8年を過ぎて、「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが」(7/1)と、かつての国家元首のように、政治・軍事への介入の意思を露わにしている。また、「旧憲法改正の必要はない」(5/20)と、新憲法の国民主権を認めようとしていない。しかも「軍人が満州、大陸と進出したから」(6/24)などと言って、侵略戦争の泥沼化を軍部に責任転嫁し、あたかも「軍部と戦った善良な天皇」(10/14)であったかのように言いなして、自己弁護に努めている。そして、戦後も労働者人民に「忠君愛国」(1952/11/27)を要求しているのである。
隠された歴史を掘り起こせ
もしも1953年当時に、以上のような発言が明らかにされれば、象徴天皇制も粉みじんにされたであろう。だからこそ、ひっそりと隠され、歴史学者以外は注目しないであろう70年後に公表されたのである。
資料『昭和天皇「拝謁記」』第4巻(1953年1~4月)抜粋
(1953/1/11)「近ごろ新聞や雑誌に」宮内庁に関する批判といふか悪口的なものが又多く見るやうになったが、あれはどういふ訳だ」(125P)
(1953/1/14)「世論と称するものも、その根底に横たはるものを検討すれば、或は共産思想かも知れず、無差別の平等とか、全然無階級の思想といふものに根があれば、それは容易に従ふ事はむしろ出来ぬと思ふ。社会に秩序といふものがあり、礼があれば差別は当然出て来る。上下階級も、社会ある以上は必要」(129P)、「民主主義といふものが自分たちの利益を主張するといふことに堕すれば国は危いので、…田中義一内閣頃の…右翼とか青年将校とかいふものが憤慨した。その結果とった彼等の手段は間違って居ったが、動機は必しも悪いとはいへない」(130P)
(1953/2/17)「反米思想に道理のやゝある点に乗じてソ連的になる事の危険」(162P)
(1953/3/10)「靖国神社は別格であり、明治神宮は官幣大社である。其祭神からいっても私としては明治神宮を先にし、之と同等といふよりは一寸低い位に致したい」(185P)
(1953/3/12)「旧憲法でもどうかと思ふが、新憲法ではとても出来ないが、私が思ふに、真に国家の前途を憂ふるなら保守は大同団結してやるべきで、何か私が出来ればと思って」(188P)
(1953/3/17)「日本でも昔は伝統的に私の写真に敬礼して君が代を歌ふといふ事が伝統的になっていたが、戦後自由主義のはき違へで伝統を重んじなくなったが是はどうかと思ふ」、「ソ連では、…現に革命で暗殺されたニコライ二世」(190P)
(1953/3/31)「中共引揚につき、日赤の外に二つの共産党に関係のありそうな団体があるやうだが、表面国民として反対できぬ問題へ好意的の手伝をして、内実何か考へては居らぬか其真相を知りたいし、又国民もだまされぬやうにせねばならぬ」(208P)
(1953/4/10)「今度の停戦協定の再開、捕虜の問題等も又中共の帰還の問題も何か一貫したあるものがあるやうで、余程注意せぬと先方の宣伝用に美名の下に使はれるだけだ」(216P)
(1953/4/17)「マレンコフの問題だがネー、あれは平和攻勢であって、只管平和にしようといふのではないと思ふ。何れ平和といって米国駐屯の必要がないから撤兵せよとか、中共貿易をして中共の発達に資せりとか何とか、あの圏内の利益を考へてやってる事と想像されるが」(227P)
(1953/4/18)「元皇族に関する事だがねー、…元皇族が多少とも天長節にでも出られぬのを不満に思ふのは、追放と臣籍降下を考へているのではないかと思ふ」(228P)
(1953/4/21)「皇族の国会開会式への出席は特権であるが、同時に私は義務と思ふので義務として出席されるといゝと私は思ふのだがネー」(234P)
(1953/4/24)「労働者も西独のやうに国の事を第一に考へて、ストライキなしで資本家も労働者に出来るだけの事をして相互に協調するやうにして貰ひたい。賃上げ計りを要求してそれを消費面に使ふのでは物価の騰貴となり、どうしても駄目だ。貯蓄をして生産に寄与するといふなら賃上げもいゝが、此点どうももう少し日本の将来に注目して国民全部が真剣になって貰へないものかナー」(238P)
資料『昭和天皇「拝謁記」』第5巻(1953年5~12月)抜粋
(1953/5/5)「世の中に泥棒がなければ警察はいらぬが、事実泥棒のある以上は警察がなければ誰も安心できない。侵略する国家がないとの確乎たる前提あっての再軍備反対ならば別だが、…現に中共のやうな侵略の現実に接する以上、軍備なしには出来ぬものと思ふがネー」(6P)
(1953/5/20)「私など旧憲法改正の必要はないと思った次第で」(29P)
(1953/5/25)「内灘の事で反対運動をやっているやうだが、…小笠原でも、奄美大島でも米国は返さうと思つても 内灘でも浅間でも貸さぬといはれれば返されず、米国の権力下において、そこでやるといふ事になる。米国の力で国防をやる今日、どこか必要なれば我慢して提供し、小笠原等を米国が返すやうにせねばいかんと思ふのに、困つた事だ」(38P)
(1953/6/2)「私は警察も検事も刑事裁判所もない方がいゝと思ふ。又医者でも、私は予防医はあつて、臨床医はない方がいゝと思ふ。然し如何せん、盗人が居る以上警察等は必要だし、病気が絶滅せぬ限り臨床医も必要だ。それを思へば防衛の軍隊が必要な事は明瞭過ぎる位だ。安倍(能成)やなんか平和をいふなら一葦帯水(注:一衣帯水)の千島や樺太から、侵略の脅威となるものを、先づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい。現実を忘れた理想論は困る」(51P)、
(1953/6/2)「安倍(注:能成)は不相変(あいかわらず)、心に又絶対に再軍備すべからずと書いて居りますが、どうも理想に馳せて現実を軽視しているやうで」(51P)
(1953/6/17)「朝鮮(注:戦争)休戦の問題は、成立して悪いとはいへる事ではないが…。内灘(注:基地への反対運動)の問題も、随分京都の先年の全学連の連中とか労働者とかが日共的に介在して居るらしいとの話しもしてたが困ったことだ」(55P)、「日本の軍備がなければ米国が進駐してゝ、守つてくれるより仕方はないのだ。内灘の問題などもその事思へば、已むを得ぬ現状である」(56P)、「ソ連の平和を口にして侵略的の実行をするのはどうも戒心を要する」(58P)、「日本は海ひとつ隔てゝる丈でいつでもやって来れる。それに備へるものがなければ共産勢力は弱いと見れば来るに極ってる」(59P)、「日本の軍備をやめた事は現実の状況としては米軍に依る外ない。米軍中、不都合を働くものは不都合故、これは罰すればよい。…私はむしろ、自国の防衛でない事に当る米軍には、矢張り感謝し、酬(むく)ゆる処なければならぬ位に思ふ」(59P)
(1953/6/24)「朝鮮は常にいづれかに隷属してた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきであった。軍人が満州、大陸と進出したからこういふ事になった」(77P)
(1953/7/1)「旧憲法ならば当然私が出る事が出来るのだが、今の憲法ではどうすることも出来ない。マア、党首を呼んでお互いに国の為にといふやうな事がいへればだけれども」(86P)
(1953/7/14)「私はMSA(相互防衛援助協定)を受ければ吉田のいふ国力の負担はなくなるのだから、あまり行きがかりに拘泥しないで再軍備するのだ」(97P)、「内灘のやうな問題も早く手を打てばよいのに、どうも共産党に乗ぜられるのを、多寡を括ってどうも楽観的のやうだ」(98P)、「盛厚さんが…紀州の大島のやうな…共産党の連中の工作で矢張り何かいひ出している事をいっていた」(98P)
(1953/8/1)「ソ連程目的の為に手段を選ばぬ国はない。平和とか何とかいってあんな侵略主義の国はない。…日本との不戦条約(注:中立条約)は破るし」(114P)
(1953/8/11)「自分の国の防御を自分でやるのは当り前だから、吉田のやうに楽観して呑気なことをいってるのはどうかと思ふネー。…現に日本は虎視眈々たるソ連が居るのよ」(121P)
(1953/10/2)「中共の事だがネー、どうも説得であって圧制ではない、自発で命令ではないといっているが、あれは表面の話で、実際は圧制命令で専制なのだし、米国は主権はあると称してやってるがソ連はそうでないし、共産国の方が侵略だともいへるし、言葉の上で平和といふけれど、何か政府の施策に反すればすぐ反革命とかいってつるし上げをやり、個人の自由はちっともない」(167P)
(1953/10/9)「柳条湖事件は明かに日本のやった事だが、盧溝橋事件はあの当時から日本側でもなく支那側でもなく第三者(注:ソ連をさす)がやったといふ様な話しをきいてた」(173P)
(1953/10/9)「労働の話も日本の為の労働(注:労働者)であって欲しいので、労働(注:労働者)の為の日本では困る」(174P)
(1953/10/14)「日本の将来といふものは中共といふものを控え、共産主義は近づいて来てるので此点は米国が共産国の専制的の勢力と離れて又力があるのと日本は違ふ」(177P)、「私も随分軍部と戦ったけれども、勢あゝなったのだが、…その時の軍部は軍部あっての国家といふやうな考へであった」(177P)
(1953/11/11)「法務大臣にきいたが、松川事件はアメリカがやって共産党の所為にしたとかいふ事だが、これら過失はあるが汚物を何とかしたというので、司令官が社会党に謝罪にいってるし、日韓関係の事もアメリカは骨折ってるし、奄美大島は返すし、…日本の為になってるは確かだ。これに反してソ連は千島を未だ返さず、万事ソ連はひどいのに、此両方の対照的にも関らず、平和の美名の為に迷って、日本は親ソ反米の空気が相当あることは概かわしいことだと思ふ。此反米感情を和げ、正当に日本はアメリカと仲よくやってく事が必要だと思ふに、ソ連や中共側の宣伝に躍らされてるのは困った事だ」(214P)
(1953/11/24)「基地の問題でも、それぞれの立場上より論ずれば、一応尤(もっとも)と思ふ理由もあらうが、全体の為に之がいゝと分れば、一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りは、一部の犠牲となる人には、全体から補償するといふ事にしなければ、国として存立して行く以上、やりやうない話であるのを、憲法の美しい文句に捕はれて、何もせずに全体が駄目になれば、一部も駄目になつて了ふといふ事を考へなければと私は思ふ」、 「一部一部、自分の利害の上から考へて、自分の利益権利といふ方に重きをおいて、全体の為にする義務といふ考えがないから困ると思ふ。…日本の国防といふ事を現状に即して考へて、日本としてなすべき事たるが分かれば、誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払はねばならぬ。その犠牲には、全体が親切に賠償するといふより仕方ないと私は思うがねー」(228P)
(1953/12/15)「政府とは連絡は充分緊密な事必要であるが、政府とか政党とかよりは独立したものたる事は必要だ。経費の点など…自由に出来る皇室費で昔の様に一本だといゝと思ふ」(264P)