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20030800 不二越答弁書に対する反論メモ

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資料を整理していて、2003年当時のメモが見つかったので、添付します。

不二越答弁書に対する反論メモ     2003年8月

答弁書の2ページ
-富山地裁判決は強制連行・強制労働があったと認定したものではない
・第1次不二越裁判富山地裁判決では下記の通り、強制連行・強制労働の事実を認定している。
 「原告李は被告工場で就労していた間、被告から賃金を受け取ったことはない」(678P)
 「原告崔は被告工場で働いている間、一度も賃金を受け取ったことはなかった」(683P)
 「原告高は昭和19年10月ごろ、行政当局から2年間被告で働く旨の徴用令書を受け取った」「原告高は…被告工場で就労していた間、被告から賃金を受け取ったことはなく」(687P、689P)
 「被告は原告らに対して遅滞なく賃金を払った旨主張するが、乙25によっては、その主張を認めるには足らず、他にこれを認める証拠はない」(695P)
 「右の勤労手帳及び供託の事実はなんら前記1の認定、判断を左右するものではない」「したがって、被告の弁済の抗弁は失当である」(696P)

-重大な人権侵害を伴う事案ではない
・第1次訴訟の金沢高裁は3人の原告の強制連行・強制労働の事実を認定しているのである。
 「控訴人らの被控訴人工場における労働環境・生活環境が良好ではなく、勤務は昼夜2交替制であって、労働時間も長く、また頻繁に空腹を覚え、辛い思いをしたなどの状況にあったことが一応認められ」(1034P)
 「被控訴人は…控訴人らに対する未払い賃金はない旨主張するが、右弁済の事実を裏付けるに足りる証拠はない」「本件の控訴人ら3名に現実に賃金が支払われていたことを直接裏付ける証拠はない」(1022P)
 「控訴人李は…女子挺身隊員の募集に応募し」「控訴人崔は…女子挺身隊の募集に応募し」「控訴人高は…徴用令書により被控訴人会社に連行され」(1018P)
・当時の朝鮮で女子挺身隊に応募するということ、徴用令書によって連行されたことは強制連行・強制労働以外の何物でもなく、それ自身が重大な人権侵害である。

答弁書の3ページ
-原告らに対する未払い賃金は存在しない
・第1次判決で、不二越が「賃金を支払った」という抗弁が明快に否定されている。
・沙里院経由帰国者の場合(45年7月)
 沙里院へ行くまで一度も支払われていない
 自宅待機の時も支払われていない。中谷清子さんの証言として「別れ際竹山春枝(原告朴貞淑)さんが『渡し、おばさんの家にお世話になっているから、手ぶらでは帰れない。この銀行から必ずお金を送って下さい』と、銀行を指して中谷さんに賃金の振り込みを頼んだ。中谷さんは『努力する』と言いながら、竹山さんの手に自分の財布から出した20円を握らせた」と書かれている。(『毎日新聞』1996年6月6日)
 1947年8月30日に485人分、90325円76銭を日本銀行富山代理店に供託した。第1次不二越訴訟の富山地裁判決では「供託の事実はなんら前記1の認定、判断を左右するものではない」と賃金が未払いであることを判決した。控訴審判決も踏襲した。
・博多経由帰国者の場合(45年10月)
 第1次不二越訴訟乙44号証の早川政雄氏の談話によれば「長沢さんから聞いた話」として「興銀から受け取った4000万円を26000人の退職金に当てた。給料の2か月分と当月までの給料と帰省の費用を支給した。8月15~16日の2日がかりで処置した」となっている。
 長沢氏ら不二越幹部は正午に敗戦を知って、緊急会議を開いて、給料と退職金の支払いを決定してからであるから、実質1日半で、36000人の給与計算をして、26000人の社員に渡したのだろうか。神業ではないだろうか。長沢氏は「徴用工も、朝鮮人も女子挺身隊も含めてすべての人を対象にした」と言っているが、朝鮮から強制連行されてきた挺身隊員と報国隊員全員(沙里院へ行った約500人を除いて、約1000人)の貯金を降ろし、挺身隊の場合は3月から半年分の給料を計算して、報国隊の場合は前年秋からの分を計算して、現金を渡したなどどうして信用できるだろうか。
 会社は朝鮮人の清算を「優先的に清算をした」ということであるから、8月15~16日に、日本人の清算よりも前に、それまでの分を清算したという主張か。
 では、8月17日から帰国の10月中旬までの給料の清算はいつ、どのようにして行なわれたのか。乙第25号証には、1945年8月21日から10月10日までの51日分の休業手当を支給したと記載されている。要するに8月と10月の2度、給料の清算が行なわれたということか。。
 長沢氏は「特に朝鮮人については、戦勝国としての取り扱いをせよという指示が来た。日本人よりも優先的に優遇して金を支払わねばならない」と言っていたそうだが、その指示は8月15~16日の清算の前なのか、後なのか、いつなのか。乙第25号証を見ると、富山労働基準局長からの「朝鮮人労務者等に対する未払い金について」という通達は1946年1月26日に不二越に伝えられている。そして、乙第5号証の1を見ると、沙里院経由で帰国した女子挺身隊員の「退職慰労金不足額、国民貯蓄、預金」の供託は1947年8月30日に行なわれている。優先的でも何でもない。帰国後2年以上たっているのである。
 答弁書の「会社は朝鮮の徴用工、挺身隊に対して日本人よりも優先的に清算をしている」ということはあり得ない。8月15~16日には、26000人の給料の清算をしているとしても、それは日本人に対してであり、朝鮮人に対してではない。
 
-会社が政府や朝鮮総督府に働きかけて強制連行を行なったかのような主張は争う
・不二越答弁書の7Pで、「会社の社員が朝鮮の学校に赴き、勧誘に付き添った」ことは認めている-少なくとも、「勧誘」については、「誰か」につき添って行なったことを認めている。「勧誘」は強制連行の最も重要な最初の部分であり、「勧誘」なしには、強制連行は成り立たない。募集を指導していたのは政府であり、募集の担当部局は朝鮮総督府であるから、「誰か」とは政府か朝鮮総督府の役人である。不二越は政府、朝鮮総督府と一体となって、強制連行を行なっていたのである。
・また、1944年1月12日付『北日本新聞』によれば、労働力不足の状態にあった不二越は政府の強制連行方針を歓迎し、1944年1月13日までに、朝鮮からの強制連行労働者を受け入れるために、必要な要員数を富山国民職業指導署に申し込んだのである。
・その結果、同年5月、6月、7月に大量の女子勤労挺身隊が不二越に派遣されたのである。

-会社において朝鮮半島出身の労働者を特別に差別して過酷な労働条件下に置いたり、監禁・虐待したといった事実はない
・日本人入寮者の待遇については、乙第44号証に、稲田、前田、森永さんの証言がある。
 稲田光枝は「門限を守れば後は自由で、休日や退勤後には学習や勉強、習い事をして自由に過ごした」
 前田ハルは「門限は21時で、休日も退勤後も門限までは自由に過ごせた。退勤後にはリンスの編み物の内職をした手紙も自由に出せた」
 森永とし子は「寮からの脱走等考えられない。1人でもいなくなれば、大変なことになっていたはず。日本人でも、夜9時以降は従業員証を見せても病気以外は外出できなかった」
・日本人労働者(寮生活者)の場合は、門限が21時で、自由が保障されていたが、朝鮮人挺身隊員の場合は、外出は原則できなくて、外出が摘発されれば、「事故報告書」が提出された。外出そのものが「事故」扱いとなっていたのである。(乙第16号証)
・原告らが不二越に強制連行される前の、1944年2月3日付の『朝日新聞』富山版によれば、不二越の女子中等学校挺身隊の待遇について、「夕食後の随意時間には…ハーモニカ、バンド、レコードによる音楽鑑賞、碁、将棋、トランプ、カルタ、ピンポンなど女子は裁縫、お花、鼓笛隊…楽しい憩いの時である」と書かれているが、原告には、そのような楽しい憩いの時を過ごしたという証言はない。

-過酷な労働条件
・12~13歳の少女に、12時間労働は過酷な労働に当たらないというのか
・12~13歳の少女に、12時間の深夜勤は過酷な労働には当たらないのか
・朴道■さんは食堂雑役係として、休日なしの労働を強制されていたのである。
・原告金啓■さんは仕事の出来が悪い時に、木の棒で、肩や背中を叩かれたと証言しているが、これは過酷な労働に当たらないのか
・少ない食事で、12時間労働することが過酷な労働に当たらないのか

-監禁
・森永とし子「寮からの脱走等考えられない。1人でもいなくなれば、大変なことになっていたはず。日本人でも、夜9時以降は従業員証を見せても病気以外は外出できなかった」(不二越提出乙第44号証)と証言している。-これは監禁に当たらないのか
・1996年6月5日付『毎日新聞』で中谷清子さんは「工場は、人の背丈以上の高い塀に囲まれ」「半島寮と呼ばれ、生活も仕事も日本人と交わることはなかった」「寮長から『外の店に入ってはいけない』という規則も出され、隊員たちは部屋でおしゃべりをするだけの休日」と証言している。-これは監禁に当たらないのか。
・原告の柳贊伊さんのように外出が摘発されると、「事故報告書」が作成され、しかられている。(乙第16号証の3)-これも監禁の証しである。

-虐待
・12~13歳の子供に対する深夜労働や12時間労働はそれ自体が児童虐待である
・「出来の悪い」挺身隊員を棒で叩いて仕事をさせたことは虐待である
・子供を両親から引き離し、遠隔地で労働させたことは虐待である
・空襲が予想され、一方では富山市内の児童を疎開させながら、他方では軍需工場として米軍の標的となっている不二越へ強制連行し、働かせたことは虐待である

答弁書の4ページ
-欺罔、恫喝、虚偽、甘言による勧誘は否認する
・学校に通わせてやる-当時の富山には、昼働いて夜勉強できる夜学校はなかった。当時の不二越には、国民学校卒業生(女性)を受け入れる教育機関はなかった。

-作業現場の状況は良好
・旋盤の高さと子供達の背丈のアンバランス-高さ30センチの箱の上で作業-転倒によるけが
・機械油を注入する時の方法-機械油を口の中に吸い込んだ
・暖房設備がなかった-霜焼け
・塵埃と粉末-1944年9月「工場事業場に対する中等学校低学年並国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」で、「保健に留意、重筋労動危険作業その他衛生上有害有毒著しく塵埃粉末を飛散する業務に従わせしめざる」と通達している。

-福利厚生施設が整備
・売店は給料を受け取っていない者にとって無用の長物、
・売店は工場の外にあり利用出来なかった。存在さえ知らない者がいる。
・理髪室-金啓順さんは「使ったことがない」と証言した。
・大浴場-通常は寮に付属した小さな風呂を使用したり、洗面所でシャワーを使った。旋盤の仕事をしている職場に、風呂があって当たり前。
・食堂はあっても、食事は貧しいものだった。野に生えたせりを食べて下痢をした子供も多かった。

-教育
・体操は教育ではない。軍需生産に耐える基礎体力作りのためであり、軍事訓練である。(乙第14号証の4の写真参照)
・茶道、華道は全くされていないか、アリバイ的に1~2回された程度である。乙第14号証の5、6によれば、開始時間が午後6時であり、12時間労働を常態としていた挺身隊員には時間的にも、体力的にも参加不可能であったと思われる。
・「不二越十訓」「産業道徳」などの講話は精神講話であり(乙第14号証の3)、これを教育というのか。朝鮮人にとって、皇民化教育は教育ではなく、洗脳である。朝鮮人に必要な教育とは民族教育である。

-タコ部屋、無断外出での制裁は否認する
・高い塀で囲われ、地面と塀のすき間には鉄条網が張られている中で、1部屋に十数人が生活している状態をタコ部屋生活というのである。
・乙第16号証の1は1944年5月1日付の外出事故報告書であるが、高山英子さん達4人が外出して、30歳くらいの男子から声をかけられただけで、「事故」扱いされた。その後高山英子さんの父親と思われる高山銀石さんが7月中順ころ不二越を訪問し、帰国後の7月30日付でお礼の手紙(乙第31号証の3)を出しているが、これは「事故」を起こした高山英子を叱責するために、親を呼び出したのではないかと推測される。
・また乙第16号証の2、3も同じく外出したり、日本人から食べ物をもらったことが「事故」扱いされているように、日本人との接触を厳しく禁止していた証拠である。こういう状態をタコ部屋生活というのである。
 …誰が殴られたのか?

-逃亡者の存在
・李今■
・姜徳■
・第1次弁護団(山田弁護士)の証言-14名の逃亡者

答弁書の5ページ
-寮の厳格な規律は「当然の配慮」「相当の配慮」
・原告12番の安喜■の父親が死亡しても、本人に知らせず、帰国もさせなかった(もう一人?)-これが当時の「社会通念」か
・1944年11月26日付『朝日新聞』富山版には、「(不二越で働く半島出身の)金烈順さんは10月中旬郷里の母から父死亡の報を受けたが…『お国のために尽くし通してから帰ってこい』との父の遺言を守って、帰国もせず奮闘している」と賛美している
・外出禁止は「当然の配慮」か
・反対する親元から引き離して、富山まで連行してきて、何が「若年の女子を預かるものとしての当然の配慮」か。誘拐犯人である不二越がやさしく接しているだけで、誘拐(強制連行)そのものが問題なのである。
・「社会通念に照らして厳し過ぎるものではなかった」と主張しているが、日本人挺身隊員に与えられていた「夜9時までは外出自由」と朝鮮人挺身隊員の「外出禁止」の格差をどう説明するのか。どちらが「社会通念」か。

-貧困な食事-日本人と一緒
・日本人との量的な差別の証言がある
・日本人は家に帰って、不足分を補給できたが、原告らには出される物以外の食べ物がなかった
・原告らは空腹のあまり同僚のお鉢を奪いあっていた
・原告らは野にはえているせりやよもぎを生のままで食べて、下痢をした
・原告らが不二越に来る前の朝鮮での食事よりも、不二越での食事は悪い状態だった
・原告らは衣類を持って、塀の下をくぐり抜け、近隣の村で食糧(豆など)と引き替えて、飢えをしのいだ
・原告らはしかられる危険を冒して、外出し、農家の柿を盗んで飢えをしのごうとしたが、見つかってしかられた

-12時間労働が通常であった-認める
・12~13歳の女子の労働時間として、社会通念の範囲内なのか。
・1944年9月「工場事業場に対する中等学校低学年並国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」で、「通勤を原則とする。1日8時間労働」と通達している。

答弁書の6ページ
-2交替制勤務
・12~13歳の女子についての法律上の制約?
・「当時の基準」とはどんな「基準」なのか?
・文部省通達(1944年7月25日付『朝日新聞』)に、「中学校、高等女学校生3年生以上の深夜勤務」を規定した。国民学校を卒業したばかりの少女たちを深夜労働させることは禁じられていた。

-空襲8月の1度だけ
・1945年春以後、空襲警報がしょっちゅう発令されていた-その度に避難して、寝不足になった
・空襲の恐怖によるPTSD

-労災、病気
・原告23人の労災、病気のリストを作る
・労災、病気、死亡した友人の話をまとめる

-韓国に連行したのではなく、帰国の措置
・「帰国の措置」とはどういう意味か
・解雇という意味か
・不二越は原告らに対して「帰国」=親元に帰すとは言っていない
・不二越は沙里院に工場を建てるから、その要員としての転勤である
・工場が未完成なので、一時的に親元に帰しただけである-1か月後に戻るように命令している。
・沙里院経由の帰国者には、その時に、それまでに働いた給料を渡していない
・米国との間で交戦状態であり、日本海は米軍の制圧下にあり、攻撃が予想された-実際に6隻中3隻が沈没させられた。中谷清子さんによれば、新湊出港後、「船は、米潜水艦の魚雷攻撃を避けるため針路を当初予定の釜山から清津へ変えた」と語っている。7月頃は、米軍との間で交戦状態であり、戦後の航行の安全が確保された時期とは全く違う、危険な状態であった。一貫性がないのは不二越の方である。
・「迅速な対応はとれなかった」と言っているが、三菱大門工場の朝鮮人強制連行被害者は9月26日に帰国している。三菱第11製作所大門工場の社長は「追想録(?)」で、不二越の対応の遅れを指摘している。

-帰国旅費支給
・汽車賃、船賃までは、国の負担ではないか。(不二越が負担したと言っているが?)
・不二越を出発してから、帰国船に乗るまでの間、原告らは相当にひもじい思いをさせられた。李慈順さんは1日1個のおにぎりしか渡されなかったと証言している。
・下関到着後、不二越が船を確保するのに手間取っている間に、朴道■さんは隠し持っていたお金で、闇船を確保して、玄界灘を渡った。-闇船で玄界灘を渡ることは命がけの行為であり、たくさんの朝鮮人が死亡した。(林えいだい著『樺太転換坑夫』)

答弁書の7ページ
-強制連行の被害者を働かせていた-否認
・『不二越25年史』第2章、35ページには「朝鮮から半島挺身隊1089名、男子報国隊535名」と記載されているが、強制連行の被害者ではないのか
・強制連行被害者でなければ、一体何なのか。特に、徴用令書で引っ張られてきた男子報国隊535名は名実ともに、国による強制連行被害者である。

-「会社の社員が朝鮮の学校に赴き、勧誘につき添うなどの活動をした」
・不二越社員が直接勧誘にかかわっていたことを認めた。
・不二越社員は勧誘でどのようなことを言ったのか
・不二越社員は誰と一緒だったのか。国の役人か。
・女子挺身隊の受け入れはどのように行なわれたのか
・「44年1月13日までの富山国民職業指導署への要員数申込み」は女子挺身隊か

-男性労働者については…会社が国にその受け入れを申し入れた
・女子勤労挺身隊の受け入れとは違うということか

-工場(全体)が軍の監視下にあったことは認める
・何が目的の監視か
・「日本曹達70年史」(94ページ)には「軍需会社第1次指定会社に指定されると、早速、軍部の監理官が常駐し、工場防衛のため40丁の機関銃が配備された。また、工場内が戦地と同環境の扱いとなり、職員は召集を免除され、召集令状が来ても、これを軍事係に持参すると、『陸亜密101号により召集解除を命ず』という辞令が発せられた」と書かれているように、不二越も軍需会社第1次指定されており、工場が戦地扱いされていた。

答弁書の8ページ
-「賃金を払わなかった」「無償の奴隷労働を強制」は否認する、貯金は本人の意思に基づくもの
・預け入れた銀行は何という銀行か、郵便貯金だったのか
・国民貯蓄とは何か
・通帳は誰が持っていたのか
・賃金はいったん全額本人に渡され、本人がその一部を貯金したのか
・預金の窓口はどこにあったのか
・父母への送金は自由だったのか

-会社は朝鮮の徴用工、挺身隊に対して日本人よりも優先的に清算をしている
・第1次不二越訴訟乙44号証の早川政雄氏の談話「長沢さんから聞いた話」によれば、「興銀から受け取った4000万円を26000人の退職金に当てた。給料の2か月分と当月までの給料と帰省の費用を支給した。8月15~16日の2日がかりで処置した」
・正午に敗戦を知って、緊急会議を開いて、決定してからであるから、実質1日半である。26000人の給与計算をして、それぞれに渡したのだろうか。神業ではないだろうか。早川氏は「徴用工も、朝鮮人も女子挺身隊も含めてすべての人を対象にした」と言っているが、全員の貯金を降ろし、挺身隊の場合は3月から半年分の給料を計算して、報国隊の場合は前年秋からの分を計算して、現金を渡したなどどうして信用できるだろうか。
・「会社は優先的に清算をした」ということであるから、8月15~16日に、日本人の清算よりも前に、それまでの分を清算したという主張か。
・では、8月17日から帰国の10月中旬までの給料の清算はいつ、どのようにして行なわれたのか。要するに8月と10月の2度、給料の清算が行なわれたということか。乙第25号証には、1945年8月21日から10月10日までの51日分の休業手当を支給したと記載されている。
・長沢氏は「特に朝鮮人については、戦勝国としての取り扱いをせよという指示が来た。日本人よりも優先的に優遇して金を支払わねばならない」と言っていたそうだが、その指示は8月15~16日の清算の前なのか、後なのか、いつなのか。
・富山労働基準局長からの「朝鮮人労務者等に対する未払い金について」という通達は1946年1月26日に不二越に伝えられている。(乙第25号証)そして、供託は1947年8月30日に行なわれている。(乙第5号証の1)優先的でも何でもない。
・答弁書の「会社は朝鮮の徴用工、挺身隊に対して日本人よりも優先的に清算をしている」ということはあり得ない。8月15~16日には、26000人の給料の清算をしているとしても、それは日本人に対してであり、朝鮮人に対してではない。

-重大な人権侵害はなかった
・当時の朝鮮で両親の反対を無視して、欺罔によって少女応募させたこと、徴用令書によって連行されたことは強制連行・強制労働以外の何物でもなく、それ自身が本人の意思を無視した重大な人権侵害である。
・第1次訴訟の金沢高裁は3人の原告の強制連行・強制労働の事実を認定しているのである。
 「控訴人らの被控訴人工場における労働環境・生活環境が良好ではなく、勤務は昼夜2交替制であって、労働時間も長く、また頻繁に空腹を覚え、辛い思いをしたなどの状況にあったことが一応認められ」(1034P)
 「被控訴人は…控訴人らに対する未払い賃金はない旨主張するが、右弁済の事実を裏付けるに足りる証拠はない」「本件の控訴人ら3名に現実に賃金が支払われていたことを直接裏付ける証拠はない」(1022P)
 「控訴人李は…女子挺身隊員の募集に応募し」「控訴人崔は…女子挺身隊の募集に応募し」「控訴人高は…徴用令書により被控訴人会社に連行され」(1018P)

答弁書の9ページ、10ページ、11ページ、12ページ
-私企業に条約などが適用される根拠がない
-会社に国際法違反の根拠を主張していない

-入社当時の賃金
 乙第41号証によれば
・女性の見習工手で初任給76銭
・女性の初手で86銭
・女性の三等工手で1円8銭
・入社から3~4か月後には三等工手になっている
・これは基本給であり、残業手当、深夜勤務手当てが計算されていない
・女性日額1円は極めて控えめな計算である。

-会社に名誉毀損の行為が存するわけではない

第3 会社の主張
-原告らに挺身隊として就労した事実があるかどうか確認できていない
・社会保険事務所での調査結果-期間証明
・戸籍謄本、学籍簿による本人確認
・原告所有の写真
・原告の証言
-損害賠償請求権-時効により消滅
-不法行為による損害賠償請求権は除斥期間の経過により法律上消滅
-法律144号による権利の消滅


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