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20171113金沢市議会一般会計等決算審査特別委員会を傍聴して

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20171113金沢市議会一般会計等決算審査特別委員会を傍聴して

 傍聴したが、資料の持ち帰りを阻止されてしまい、やむなく、データをメモし、手許の資料と合わせて作成した。



詭弁で市民をだますのか
 11月13日の金沢市議会一般会計等決算審査特別委員会で、2016年度のごみ排出量が提示された。「毎年6月には出していた排出量(暫定値)をなぜ出さなかったのか」の質問に、環境局長は「市民の関心が高く、確定値がまとまるのを待って報告した」と答えたが、これは詭弁だ。

 市民の関心が高いからこそ、「暫定値でもいいから、はやく出す」というのが世間常識だ。まさに、関心が高いから、遅らせたのだ。

 9月21日に、環境政策課を訪問して、ゴミ排出量のデータを出すよう要求したが、そのときは、「12月までは出せない」と答えていたのだ。その後、議員やマスコミが取り上げ、社会問題化したから、渋々11月13日に出したのである。

家庭系ゴミ排出量は減少し、事業系ゴミは増加している
 委員会で、環境局長は2016年度のゴミ排出量(事業系も家庭系も)が前年度より減っていると言っているが、まず、分別後の資源ごみは資源でありごみではないので、<燃やすごみと埋め立てごみ>を対象化する。

 かつ、前年度(2015年度)との単純比較ではなく、2012~2015年度の4年間の平均と比較すると、2016年度の家庭系ゴミ(燃やすごみ+埋め立てごみ)は2012~2015年までの4年間の平均値よりも2.5%減少している。人口増減を加味すれば、1人あたり2.9%減少している。

 2016年度の事業系ゴミ(燃やすごみ+埋め立てごみ)は、2012~2015年までの4年間の平均値よりも1.5%増加している。

 すなわち、家庭系ゴミはこの5年間減少傾向であるが、事業系ゴミは増加傾向に歯止めがかかっていないのである。ごみ減量化のキーワードは「家庭系ごみ有料化」ではなく、「事業系ゴミの減量」「事業系ゴミのゴミステーションへの混入禁止」である。

2012年度西部センター運用後ののゴミ政策に大失敗
 2012年度から西部センターが使われ、金沢市のゴミ収集政策が変更され、燃やすごみからプラゴミを排除しなくてもいいという指針が出された。

 市民はこれまでの厳密な分別をやめ、燃やすごみにプラごみを入れるようになり、その結果、2009~2011年度(3年間)の家庭系燃やすごみの各年度平均は82,024㎏、2012年度~2014年度(3年間)の各年度平均は86,175㎏となり、5.1%増加した。

 それは、東西環境エネルギーセンター維持管理状況の焼却を見ても同じである。2006年度から2011年度までの6年間は順調に減少していた(平均14.0万トン)が、2012年度以降の5年間は平均15.1万トンへと7.9%も増えているのだ。

 家庭系ごみ減量政策の大失敗だった。環境局はきちんと総括すべきである。

 



20170921 Bさんの手記(満州からの引き上げ)を読む

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Bさんの手記(満州からの引き上げ)を読む

 2017年9月21日、とある会合でAさんから、連れあい(Bさん)とその家族に関する話を聞いた。そこで、Bさんの手記が配布された。一般に戦争体験記は悲惨さだけが記録される傾向にあるが、Bさんは自分たちが体験したことを冷静に対象化しており、Aさんの諒解を得て、Bさんの手記を記録として残すことにした。(注1~5は、当会による注記である。)

Bさんの手記
 私が生まれたのは太平洋戦争が始まってすぐの昭和17(1942)年3月で、中国大陸の東北部(旧満州と言われた所)です。母は金沢駅の近くで生まれ育った教員の子で、O町小学校の校長室に祖父の写真が額に入って、飾られています。

 父はM町のT団地の近くの農家の次男坊です。昭和10(1935)年頃というのは世界的大恐慌の時期で、都市には失業者があふれ、農村ではお米と養蚕が不作と暴落で、農家の長男でも働く土地や田んぼを求めて、たくさんの人達が新天地の満州へと渡っていった。(ただし、それは元からそこにいた中国の人の田や畑を、軍隊の武力と日本の国が自分達の言いなりになる満州国と言う国を作り、勝手に取り上げていって日本人に渡した物です【注1】)当然、戦前から南米あたりにいった移民の方の様に全くの荒れ地を開拓してというのとは違う。

 私の父は機械技師だったので、近くに石炭、鉄鉱石の採れる重工業の中心都市である奉天で、陸軍の飛行機を作っていた。

 4歳まで中国にいたのなら、中国語をしゃべれるだろうとよく人に言われるが、現地へ行って、中国の人と一緒に仲良くやっていこうと言うのではなく、日本人だけの居住区を作り、中国人に日本語を押しつけて、日本語をしゃべらせるのだから、日本人は中国語を一切しゃべる必要がない【注2】ので、私もしゃべれません。(戦後の日本の企業が東南アジアに進出して行った時も同じ形です)

 昭和19年になると、アメリカのB29の爆撃機が遥か南太平洋上から、中国大陸の内部にまで入り込み、爆撃が始まり、軍需工場である父の工場が完全に破壊されたので、やむなくさらに北へ400kmほど行った。ハルピンという川のほとりのきれいな町へ移り住みました。(北海道よりも緯度がずっと北で、その上内陸部に入るため)特に冬は寒く、零下40度、二重ドア、二重窓でも、おしっこが逆さ氷柱、黄色い石筍状態はちょっとオーバーかな。大便のほうは確実に積もり、次の人は金槌みたいなもので打ち折らないと、用が足せないとゆうほどの寒さ。

 昭和20(1945)年7月には、そこも爆撃され、8月にはソ連が参戦、ソ連が侵攻し兵士が工場内のものを略奪。父はそこで取り引きをしたおかげで、シベリアに連れて行かれなかった(本来なら35歳で、陸軍航空兵少尉ですから)。普通の兵隊は極寒のシベリアに連れていかれ、何年もの間ツンドラ地帯の凍土を掘り起こしたり、森林の伐採作業をさせられた。

 9月に入り、だんだん寒い冬に向かうし、少しでも日本の近くへというので、南の方に移動する。始めは屋根のないトイレもない貨物列車で、しかもぎゅうぎゅうづめで移動できた。後で聞いた話によると、板の囲いのない床と四角の柱だけの列車に乗せられた人は、列車の揺れるたびに死ぬ思いだったそうです。

 しかしそれも途中までで、日本軍によって鉄橋や駅構内が爆破されていて、後は徒歩で行くしかありません【注3】。朝鮮半島の安東に向かって、大きな木のほとんどない、赤茶けた大地を150人くらいの集団がずっと歩いている光景がいまもしっかり瞼に焼き付いています。しかしその情景には、決して自分たちは入っていなかった。

 中国人の略奪があるため、集団で自衛しながら行動しないといけないのだが、私たちの家族は、母があまり丈夫でなかったので、自分一人が歩くのがやっと、父が乳飲み子の弟をおんぶし、3歳のわたしの手を引いて、わたしが曲がりなりにも、1日何十キロも歩いたので連れて来れたらしい。

 しかしそれでも幼児を連れた私たちの家族は、いつも遅れ遅れになってしまい、このままだと一家4人共倒れになるというので、寝入った3歳のわたしだけを河原に残して出発していったらしい。

 夜中にふと目覚めたら、周りには誰もいない真っ暗闇。必死になって父や母を呼んでも誰の返事もない。その誰もいない、星明かりだけの河原の情景は大人になっても、年に何度もよく夢に見て、夜中に飛び起きたことがあります。びっくりしたのはうちの奥さんだったと思う。夜中に突然、ワーッという声と同時にがばっとベッドに起き上がるのだから。

 その時は、幸いにも両親が思い直してくれて、父が夜通し歩いて、連れて帰ったので目が覚めた時はみんなと一緒だったらしい。

 もう一度は、やはり3歳のわたしが足手まといになるので、木に縛って置いていこうとしたときは、「お利口にするから置いていかないで!」と必死に言うので、置いていけなかったそうです。

 結局、①父がシベリアに抑留されなかったこと、②わたしが一人でずっと歩いたこと、③河原で父親が運良く私を見つけてくれたことなどの幸運が重なって、帰って来れたのだと思う。

 といっても、隊列からはいつも遅れがちな私たちの家族は、中国人の略奪にあい、それこそ弟のおむつの布までも持っていったそうです(逆に言えば、それまでの日本人や日本軍がどれだけ酷いことをしてきたか、裏返しだと思われる)【注4】。

 ようやくたどり着いた朝鮮半島の付け根の安東の地では、中共軍と国民党軍の紛争で戦争状態。その戦火をのがれながら、中国各地を転々として、食べるものもほとんどなく、私はその頃は丸々と太って、中国の人から肉多々よと言われていたので、1年間くらい大丈夫だったけど、乳飲み子の弟は母乳がなくて、痩せてガリガリの栄養失調状態でした。

 ともあれ翌年、昭和21(1946)年8月の今頃、ちょうど60年前になります。ようやく福井県の舞鶴の港が見えたとき、父はそれまで、最後の最後、万が一の時には家族一緒に死のうと、しっかり持っていた青酸カリの袋をようやく海に捨てたそうです。

 それでようやく帰ってきた日本の地なのですが、すぐに父が病気で入院、3年間母と弟が病院に泊まり込み、私1人がまずは母方の祖父母の家に預けられた。みんながおじちゃん、おばあちんの家へたまに遊びに行けば歓迎してくれるが、ずっと居候すればいやがられる。

 ある日、母に会いたくなったのだろうと思うのだが、それまでに2、3度市内電車(その頃市内にちんちん電車)を乗り換えて、往ったことのある金沢駅から兼六園の上の国立病院まで歩いてようやくたどり着いたのに、母は叔父さん達に遠慮して、どうして黙って来たのかと叱られ、追い返された。

 そして、同じ市内にいるからいけないというので、こんどは松任の叔父さんの家へ。ところがそこは農家ですから、5才の子供であろうが毎朝6時に起こされ、まずは稲の束を7、8㎝に切り、額と混ぜて、牛の飼料作り、木の桶にいっぱいの水、それが終わったら納屋の掃き掃除、そしてようやく朝食。日中は田の草取り、家畜の世話、敷きわら作り、一番つらかったのは当時肥料として人糞が使われ、天秤棒の前と後ろを2人で担いで、肥え桶を運び、ひしゃくで田圃にまく。ひっくり返って全身に糞尿まみれ、柄杓で撒くのを失敗してしぶきがかかったりと、それでも2年間は我慢したが。

 その幼児の時期に両親と一緒に生活できなかったというところと、満州で親に捨てられたという思いは、わたしの暗くしゃべらないゆがんだ性格というものは一生残ったようである。

 特に中学生の頃には、激しく親に反抗し、荒れた生活でした。ようやくその事が理解できるようになったのは、30年ほど前の中国残留孤児のことがニュースになるようになってからである。あの人達の苦労を思えば、自分のはなんとちっぽけなことか。

 ソ連国境に近い開拓団の人達はソ連軍の機銃掃射で全員殺されたり、その死体の間に隠れてようやく助かった人、進退窮まって集団自決した開拓団、ハルビンや奉天に出て来るのに、大変な苦労をされ、冬に向かい、飢えと寒さと疫病のまんえんで、亡くなった人がたくさんいたこと。ほとんどの家族に父親がいない。母親だけで子供達を連れてこなければいけない【注5】。

 それこそ小さな子供たちを無事に日本まで連れて帰れるか分からないので、やむを得ず中国人に預けた。その方がその子達が生きのびるだろうと泣く泣く預けた人たち。

 それにしても、戦争や侵略といった行為がいかに人類を不幸にし、悲惨なものにしているか。いまも世界のいたる所で紛争があり、そこでは幼い子供達が犠牲になっています。はやく地球上から戦争や、力で相手を抑えつけるような行為がなくなるようにと、強く強く願って話を終わります。

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【注1】1937年の満州事変までの日本人移民は1000人未満だった。1936年広田内閣は100万戸、500万人の移民計画を立て、関東軍の暴力によって、中国農民から200万ヘクタール以上の農地を強奪し、開拓団を移植した。100~300万人の中国人が農地を喪失し、農地を奪われた農民の怒りがいかに深いか、日本の敗戦によって知らされることになった。

【注2】日本人の満蒙開拓団の性格が侵略者であったことを明らかにしている。現在進行形のイスラエルによるパレスチナにたいする侵略と同じである。

【注3】敗戦時の在満州日本人は195万人で、満州の全開拓人口の30%が死亡したといわれている。敗戦と同時に軍が真っ先に逃亡し、追撃を断ちきるために鉄橋や駅を爆破した。そのことによって、日本人は帰国の道を断たれ、多くの死者を出した。天皇の軍隊(関東軍)は自らの命を守るために「日本人移民」を見捨て、棄民としたのである。

【注4】日本軍に見捨てられた日本人移民は徒歩での帰国を余儀なくされた。日本人移民政策(中国農民の追放政策)が敗戦によって破綻し、それまで武力で押し潰されていた中国人の怒りが帰国過程の日本人に向けられたのである。

【注5】1945年7月10日、敗戦濃厚な情勢のなかで、18歳から45歳までの青年男子が徴兵された。その結果、女性、老人、子どもだけが残され、日本軍はこれらの人々を守らず、真っ先に帰国過程に入り、置き去りにされ、多数が死亡した。

20171119 北朝鮮漁民の遭難死を悼む

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20171119 北朝鮮漁民の遭難死を悼む

 報道によると、日本海(東海)大和堆で、北朝鮮漁船が転覆し、死者が出ている。11月16日、日本海(東海)大和堆周辺で、海上保安庁巡視船が転覆した船の船底に乗って漂流している朝鮮人3人を救助した。5日前に転覆し、15人の乗組員のうち3人が助かり、船内から3人の遺体を収容し、残りの9人が行方不明だ。同日、別の転覆船を発見し、船内から4人の遺体を収容した。

 この痛ましい事故について日本海(東海)で操業している日本の漁業関係者は、テレビ放送のインタビューで、北朝鮮漁民の死に、哀悼の言葉一つかけることなく、「転覆船が漂流していると、衝突するから危ない」と、北朝鮮漁民を蛇蝎のように扱い、罵っている。

 これまでも、日本(人)は北朝鮮漁民を「泥棒」呼ばわりし、放水で蹴散らしていたが、死者にまで唾を吐くような態度をとる日本(人)の人間的感性は排外主義で麻痺してしまったようだ。日本の労働者階級人民の国際主義が問われている。

 国境に なるとは知らぬ 大和堆
 イカ漁の 朝鮮漁民を 罵る日本
 大和堆 日朝漁民が 反目し
 大和堆 ハイテク船に 木造船
 大和堆 小船蹴散らす 放水銃

20171122 核戦略爆撃機B52と小松F15の共同訓練を弾劾する

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核戦略爆撃機B52と小松F15の共同訓練を弾劾する

 11月19日の「朝日新聞」(デジタル版)によれば、

 「今年8月、核兵器を搭載できる米空軍の戦略爆撃機B52が日本列島の上空を横断飛行した後、日本海の空域で航空自衛隊の戦闘機部隊と共同訓練を実施し…空自の戦闘機がB52を護衛する編隊飛行をした」。

 「B52は8月下旬、単独で日本周辺まで飛行。太平洋側から東北地方南部の上空を通過し、日本海へ抜けた。その後、空自小松基地(石川県)から発進した第6航空団所属のF15戦闘機と日本海上空で合流。小松市沖の訓練空域をF15に護衛される編隊を組んで飛行した」。

 「核開発や弾道ミサイルの発射など軍事的挑発」を続ける北朝鮮にたいして、「日米の防衛能力を向上させる」ためと言っているが、全くのウソだ。挑発しているのはトランプであり、その尻馬に乗っている安倍政権だ。

 下記は、今年3月から11月までの日米、米韓共同訓練の一覧表と図である(「北陸中日新聞」切り抜きから)。朝鮮半島を取り囲むように、核攻撃用の戦略爆撃機、潜水艦などがうようよしており、訓練と称して、実戦配備されているのだ。

 わたしたちに求められているのは、沖縄や全国の基地強化に反対し、戦争政策に一直線に向かう安倍政権を何としても打倒することだ。




20171120 大飯原発運転差し止め訴訟結審

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11・20大飯原発運転差し止め訴訟結審

傍聴に殺到
 11月20日の金沢は、今冬いちばんの寒い日だった。名古屋高裁金沢支部前には、早朝から、「再稼働ストップ」ののぼり旗がなびき、マイクアジテーションが続いた。

 午後1時頃には、傍聴希望者の列がどんどん長くなっていった。いつもは、庁舎内で列を作るのに、今回は、この寒さの中を庁舎外にならばせた。ある人は、「傍聴希望者に風邪を引かせるのか。庁舎内に列を移動せよ」と、裁判所職員に訴えている。

 60の傍聴席に、並んだ人々の列の最後尾は219番だった。抽選にはずれた人は兼六園側入口に移動し、片手に傘、片手にメッセージボードを持って、シュプレヒコールを上げた。

弁護士会館で待機
 午後2時から始まった法廷で、何が起きているのか気にかけながら、金沢弁護士会館で待機した。木原壯林さん、木田節子さんなどの訴えが続いた。木田さんは原発事故によって引き起こされた健康被害、妊娠・出産のトラブルについて訴えた。これらの被害について、理解者のなかからも「障がい者差別になる」と公然、隠然の圧力を受け、健康被害について話しづらくなっている。「だれがこの事態を引き起こしたのか! 国と東京電力ではないか!」と、木田さんは涙を溜め、悔しさをかみしめながら話した。福島の苦悩にもっと向きあわねばならないと思った。

裁判報告集会
 法廷から原告団、弁護団、傍聴者が戻り、記者会見が始まった。原告団長の中嶌哲演さんは「裁判長は関電のサーバント(召し使い)だ」と厳しく言い放った。いつも穏やかに話す中嶌さんにふさわしくない語調だった。

 島田広弁護団長は「地裁に続き、高裁でも関西電力を追いつめた。しかし裁判所は安全審査をしないと決定した。国民への裏切りだ」と裁判所を弾劾した。

 笠原一浩弁護団事務局長は裁判の経過を報告した。法廷では、笠原さんが準備書面(34~42)を説明し(下記注)、島田さんが終結の再考を促す弁論をおこない、5人の原告が次々と立って、審理の継続を訴えた。

 裁判所は10分間の休憩後、2人の証人申請を却下した。弁護人海渡雄一さんが立ち、「裁判所の訴訟指揮は不当であり、公正な裁判を妨げている」として、3人の裁判官を忌避した。内藤正之裁判長は簡易却下(即時抗告が出来ない)し、審理を強引に終結させた。しかし、判決期日を指定することが出来ないまま、そそくさと退廷する3人の裁判官に、傍聴席から激しい抗議の声が飛んだ。

 水戸喜世子さんの意見陳述では、連れあいの巌さん(故人)が東海原発裁判で格闘したことをるる裁判官に語りかけ、結審の再考を促した。

次は判決だ
 この日、762筆の署名を裁判所に提出し、合計3478筆になった。福井からはバス2台で60人が駆けつけてきた。次は判決(期日未定)だ。さらに倍する人民の波で、名古屋高裁金沢支部を揺るがそう。

注:第34準備書面と第35準備書面の概要(2017.11.20大飯原発差止訴訟・福井弁護団) 
第34準備書面と山元孝広氏証人尋問
 火山灰が外気取入口に設置されているフィルタに侵入すると、フィルタが閉塞し、その機能が失われ、火山灰が極めて濃い濃度になった場合は全交流電源喪失という事態もありうる。したがって、火山灰が侵入しても機能維持が十分可能なように設計されなければならない。

 1審被告は、大山火山について、運用期間中に大規模噴火の可能性が十分低いと評価したが、巨大噴火の時期や規模について、相当以前の時点で的確に予測できないことは、福岡高裁宮崎支部決定すら認定しており、およそ科学的根拠のあるものではない。また、1審被告が依拠した論文(須藤ほか【2007】、津久井【1984】)にたいしては、近年、産総研活断層・火山研究部門の総括研究主幹である山元孝広氏が、修正を要する重大な問題が含まれていると指摘した。

 そこで我々は、山元氏の証人尋問を申請した。

 なお、2017年7月19日原規委第25回会議では火山灰の基準を100倍以上に引き上げており、大飯原発は現状ではこの基準を満たさない。関電は「追加工事」をしたそうだが、その工事の妥当性については客観的証拠がなく、規制委員会の審査すら経ていない。

第35準備書面と石井吉徳氏証人尋問

 石井氏は、東京大学理学部の地球物理学科を卒業後、石油開発公団などに勤務して、油田の調査などのため、地下の地質構造の探査をおこなってきた。竹下登総理大臣(当時)から日本学術会議会員に任命され、また物理探査学会の会長を複数回務めた、わが国を代表する応用物理学者である。

 石井氏は、1審被告の2015年1月付け「大飯発電所の基準地震動調査について」における分析結果について、一読するや「特異な構造は認められない」(by1審被告)どころか、「特異な構造」だらけと述べ、また1審被告の反射法地震探査は、現在主流である三次元探査ではなく、古典的な二次元探査を用いており、合理的でないと述べた。そこで、我々は、石井氏の証人尋問を申請した。(以上、元号を西暦に変更した)



20171124 川柳4首

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川柳4首

川柳は「手榴弾の詩」「風刺短詩」だという。
ならば、その対象に制限はない。
対象を制限した途端に川柳は死ぬ。
2017年11月24日

軍服を 着る天皇に 生まれかわり
憲法も 天皇もかえ 戦前へ
民主主義 冬へ冬への 衣替え
子どもらに 戦前修身 いま道徳

20171128 石川県調査でも小松基地騒音増確認

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20171128 石川県調査でも騒音増確認
 石川県HPに「小松基地周辺の騒音対策」(H29年10月)がアップされました。
 2011年度から2016年度までの6年分をグラフ化しました。
 2011~2015年度のA+B(5年分)の年平均は734回であり、2016年度の826回と比較すると、12.5%増加しています。
 これは2016年6月に配備されたアグレッサー部隊による増加分と考えられます。
 前年度(2015年度)と比較すると、18.3%増加になります。

20171130 川柳5句

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20171130 川柳5句

来年は獄中初体験から50年。1968年万世橋6号。初心忘れず。

 王子デモ 入れ墨兄いと 雑魚寝かな
 万世橋 学生服が 牢名主
 取り調べ 拷問の血散る 地下室へ
 秀美も ゾルゲもねむる 東拘へ
 『五十六』と『八甲田山』を読む 活動家



20171202ごみ有料化―経済界も「動揺」

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ごみ有料化―経済界も「動揺」

横ばいではない
 11月28日の市議会で、環境政策課は「(家庭系ゴミの前年度比)減少率は1.7%で、若干減りつつあるが、横ばい状態」(北陸中日新聞)と答えたという。おいおい、年率で1.7%減少を「横ばい」などと言うなよな。しかも、この10年間減り続けているではないか。5年経てばどれだけ減少するか想像出来ないのか?

 家庭系ゴミ総排出量(燃+埋+資源)は2006年度(12.2万トン) から10年後の2016年度(10.2万トン)では16.4%も減少している。この5年間だけを見ても、10.8万トン(2011年度)10.2万トンへと、5.6%減少している。

 この1年間の市民の努力(1.7%減少)を「横ばい」と言いなして、「ゼロ評価」するような物言いは、上から目線であり、山野市長の姿勢を反映したものだ。

経済界も無視出来なくなった
 12月1日の『北国新聞』社説では、「金沢経済同友会側が家庭ごみの有料化に触れて『市民からお金を取る前に、街や文化を守るため、観光客からお金をいただくことが先ではないか』と指摘した」「本来ならば、来年2月から家庭ごみの処理を有料化することより、(宿泊税導入の)優先度が高いのではないか」と書いている。『北陸中日新聞』でも、「家庭系ごみ有料化を同友会側が引き合いに『スケジュールありきだ』…との意見も出たという」と書いている。

 『北國新聞』は石川県経済界のオピニオンリーダーであり、これまではごみ有料化問題については、推進のスタンスをとってきたが、ここにきて山野市政に待ったをかけた。3月議会で家庭系ごみ有料化を決めたものの、その後も市民の多くが有料化反対を崩さず、11月18日には「ストップごみ有料化!市民の声」が発会し、有料化反対の声がますます高く、強くなっていることにたいして、経済界も『北国新聞』も無視出来なくなっている。

 その理由のもうひとつの側面では、家庭系ごみ有料化と同時に事業系ゴミ処理料金の値上げも計画されており、物価上昇、景気後退局面にあって、事業所にとっても無視出来ないことである。

つぶやきではなく、声をあげる
 結局は、市民にとっても事業者にとっても、有料化・値上げではなく、さまざまな工夫によってリサイクルを徹底し、ゴミ量を減らすことに舵を切ることである。その旗を振ることが市民から負託された市役所の責任である。

 すでに有料化条令は成立しているが、市民の声が大きくなれば、いったん決めた政策でも変えることができる―これが民主主義なのだ。内向きに不満をつぶやくのではなく、不満を外に向かって、政治家に向かってきちんと伝えるべきときなのではないか。勝機はあるのだ。

12・2~3 「尹奉吉義士殉国85周年日韓学術会議」から学ぶ

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12・2~3 「尹奉吉義士殉国85周年日韓学術会議」から学ぶ

 12月2・3日に金沢市内で「尹奉吉義士殉国85周年日韓共同学術会議」が開催された。テーマは「尹奉吉義挙と世界平和運動」で、1日目は「反戦平和運動の表象としての尹奉吉義挙」、2日目は「反戦平和運動の過去と現在そして課題」であった。

 尹奉吉義挙とは、1932年4月29日、上海でおこなわれた戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げ、多数の日本軍将校らを殺傷し、朝鮮独立運動の根底的な転換点を形成した事件である。この事件から今日的課題を探るという学術会議が日韓人民によって開かれたということ自体を評価しなければならない。

 日本、韓国、アメリカの各地から、両日合わせて250人を超える人びと(筆者推計)が集まり、用意した教科書(日韓両国語、293ページ)が足りなくなった。両日の学術会議は各5時間、合計10時間にわたって、8人が報告し、8人のコメンテーターが内容を精査し、それぞれのレポートの完成度を高めた。

 すべてについて報告するにはあまりにも膨大な量と内容であり、かいつまんで報告することをお許しいただきたい。また、学術会議の前に、尹奉吉暗葬地(金沢市)と鶴彬生誕の地(かほく市)のフィールドワークもおこなわれた。

レジスタンスは権利であり、義務である
 トップバッターは「尹奉吉共の会」代表の田村光彰さんであり、レポートのテーマは「世界史的な抵抗運動からみた尹奉吉義挙」である。このレポートが2日間を通して最も重要な内容を提起した。

 田村さんはドイツファシズムすなわちレジスタンスの研究者であり、その視点から尹奉吉の行動をレジスタンスとして位置づけている。では、レジスタンスとは何か。

 田村さんは、ドイツ・ブレーメン州憲法19条の「人権が公権力により憲法に違反して侵害される場合は、各人の抵抗は権利であり義務である」を引用し、民衆が暴力的抵抗に訴えるかどうかは、公権力が他の救済手段を保障するか否かという条件にかかわる。暴力的抵抗それ自体を状況から切り離して論ずることは出来ないと提起し、1930年代の尹奉吉が置かれた時代的条件から判断すべきであると提起した。

 すなわち、1930年代の日帝支配下の植民地朝鮮には憲法も議会もなく、朝鮮総督府の暴力(治安維持法など)が支配していた。田村さんはこのような条件下では、朝鮮人にとっては、「武力闘争を含む占領軍に打撃を与えそうなあらゆる活動」が権利であり、義務であると提起し、尹奉吉のたたかいをレジスタンスとして全面的に支持した。

 それは85年前の過去の話ではなく、現代に生きるわれわれにとっても、憲法と議会を無視し、国民に批判と抵抗の余地を保障しない公権力にたいしては、レジスタンス=「あらゆる活動(ドイツ軍施設の破壊、列車の爆破、親独派へのたたかい、ストライキ、ナチス高級将校の暗殺など)」をやむを得ない方法としてではなく、正義と公正を実現するたたかいとして積極的に捉えるべきであると締めくくった。
 
日本人民の責任
 2日目の最後は徐勝(ソスン)さんが「東アジア平和運動と韓国民主化運動の現在と課題」で締めくくられた。以下は徐勝さんの報告の要約である(文責:当会)。

 平和とは「すべての人が十全に生を全うすることである」「暴力と戦争がなく、人の生命と安全が守られている状態」であり、平和運動とは反戦と国家暴力反対運動に集約され、それは第1次世界大戦時に「侵略戦争を内戦に」のスローガンでたたかった反戦運動から始まった。

 日本の平和運動は加害者(日帝の)責任を追及しない運動であり、加害者が被害者であるかのごとき倒錯がおこなわれ、イノセント(無邪気)な戦後日本の平和運動が形成されたと、日本の平和運動の欠陥を指摘している。

 西洋の平和運動は戦争の惨禍にたいする警鐘や博愛主義であるが、東アジアでは、「すべてが自主独立出来ることが平和である」と主張した安重根や、尹奉吉、義烈団、東方無産者同盟、抗日聯軍(満州)など朝鮮人、中国人、ベトナム人などの反帝民族解放闘争としてたたかわれた。それが、延安における日本人民反戦同盟のような侵略者の側からの反戦平和運動を引き出した。―この点が徐勝さんの日本人参加者にいちばん訴えたかったことではないだろうか。

 1960年代から1980年光州虐殺事件までの総括として、韓国人民の流血を恐れない不屈のたたかい(反軍部、反国家権力、正義の回復)をとおして、金大中、盧武鉉の改革政権を誕生させ、南北和解・統一政策へとむかった。そして昨年延べ1700万市民が起ち上がったキャンドル行動は政権交代を成し遂げたキャンドル革命とまで評価されている。

 その核心は民主主義の根幹である国民主権ないしは主権意識が体験的に、思想的に確認され、参加者たちの内面的価値として定着したことにある。だが、政権についた文在寅は公約(THAAD批判、ピョンヤン訪問など)を反故にし、アメリカの圧力に屈している。

 いま、韓国政府のなすべきことは米日の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)いじめに扈従(こじゅう)することではなく、北朝鮮を同族として対し、米日による脅迫・軍事訓練を即時中止させ、対話を開始することである。そこで生まれた北朝鮮との信頼関係を元手に本格的な交流・和解・協力のプロセスをすすめるべきである。

 最後に徐勝さんは、「東アジアの平和の根本は帝国主義の排撃、帝国主義支配に起因するすべての負の遺産・負の記憶の清算にある。東アジア諸民族は近代史の原点に立ち返り、反帝国主義の平和連帯をすすめよう」と提起した。徐勝さんの視線は会場を埋めつくす日本人に向けられていた。そのメッセージは、日韓連帯の力で日本帝国主義を打倒することである。

鶴彬から何を学ぶのか
 他の6人の報告も、例外なくわたしの心を揺さぶり、知的好奇心をくすぐった。

 金沢での尹奉吉の行動は未だに闇のなかにある。大阪から金沢への経路(森本駅か西金沢駅か)、処刑前日の拘禁場所(金沢城)、処刑地(三小牛山)、暗葬地(野田山墓地)、遺体発掘状況などの調査を進めてきた筆者にとって、金祥起(忠南大学教授)さんの研究発表は新たな調査の方向に示唆を与えてくれた。

 今回の学術会議のもうひとつのテーマは鶴彬の「半島の生まれ」7句(「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」など)を媒介にして、尹奉吉との共通性を探ることであった。勝村誠さん(立命館大学)の報告は川柳の句評に重点が置かれていて、鶴彬の人生に迫ることが希薄であった。

 すなわち、徴兵されるや、世界で最も凶暴な帝国主義軍隊のなかで、反軍工作を開始した鶴彬の知性と感性が川柳の根幹を成しているのであり、ここにこそ焦点をあてるべきだろう。単なる川柳作家ではなく、コムニスト鶴彬にこそ真価があるのではないだろうか。
 尹奉吉と鶴彬の共通項に着目し、日韓人民は尹奉吉のように、鶴彬のように、今の時代の生き方を追求することが今回の学術会議の結論であった。

わたしの決意
 閉会後、5年ぶりに再会した金祥起さんに誘われて、食事会にも参加することが出来た。ふたりの間でまだ解決出来ていない「処刑前夜に尹奉吉が拘禁された場所の特定(金沢城内)」についての打合せが残っていたからだ。隣り合わせに席をとり、尹素英さん(韓国独立運動史研究所)の通訳で、食事をしながら、今後の調査課題を確認した。

 食事会は、お酒がまわるにつれてにぎやかになり、立ち上がり、歌い、踊り、最後は1980年光州民衆蜂起を称える大合唱で幕を下ろした。わたしの間近には朴正煕独裁政権とたたかいぬいた徐勝さんがおり、李佑宰さんがおり、アメリカに亡命した闘士がおり、韓国の民主化運動の息吹をじかに感じる場だった。かつては書物を通してしか知ることが出来なかった人たちと、同じ部屋の空気を吸い、手を握り合って、未来に向かう意志を固める機会を与えられ、わたしの決意はさらに硬くなっていった。

20171207 川柳4句  皇族婚姻報道

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20171207 皇族婚姻報道

 持参金 ン億円持って 嫁ぎ先
 妻は「さま」 夫は「さん」と 身分の差
 「さん」と呼び 「さま」と呼ばせる 身分制
 月2万 汝臣民 餓えて死ね

20171212 川柳4句 大飯再稼働福井県知事同意報道(11/28)

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2017年12月12日 11/28大飯再稼働福井県知事同意報道

 再稼働 そこは離岸流 引き返せ
 コベルコの データ改竄 原発も
 安全が 優先ならば そりゃぁ廃炉
 死に体の 東海原発 まだ20年

20171211 川柳12句 小松基地爆音訴訟

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20171218 川柳12句 小松基地爆音訴訟

 12月11日、小松基地爆音訴訟口頭弁論で、戦闘機騒音の健康被害調査をおこなった服部真医師の証人尋問。1998年調査と2011年調査についての詳細な尋問だった。体調不良で、午前中だけ傍聴し、午後はパスした。
 2000年代半ばまで、小松基地騒音地域(80コンター内)で生活していたので、その頃に読んだ川柳をいくつか添付する。

 轟音に 補聴器外して 吸う一服
 教室の ガヤガヤも一瞬 轟音一色
 轟音に 八百屋のミカン 空にらむ
 ランドセル 轟音をつめ かけていく
 戦闘機 ちょん切っていく 立ち話
 フィットする 耳栓のよう 孫の指
 爆音に 埋もれる己が声 セミの声
 青空に 殺人機が描く 白い剣
 轟音に 犬が吠えるも パントマイム
 夜勤明け 昼寝もできぬ パイロット
 爆音調査 うるさいカラスに 石を投げ
 居眠り議員 聞かせてやりたい この爆音

20171226 尹奉吉―金沢での収監場所調査(中間報告)

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20171226 尹奉吉―金沢での収監場所調査(中間報告)

(1)収監先記述
 1932年12月18日、尹奉吉は大阪から森本駅もしくは西金沢駅を経て第九師団の拘禁所に収監されたが、金沢での収監場所について、当時の公文書や新聞記事には下記の記載がある。
<1>「憲高秘1820(警戒に関する件報告)」(12/26))には「金沢衛戍拘禁所ニ収容セリ」。
<2>「九師普524号」(原資料未確認)には、「第九師団法務部西町拘禁所」。
<3>『北国新聞』(12/20)には、「拘禁所は修繕中なりしをもって、法務部に拘禁」「九師団法務部に午後6時頃入った」。
<4>『北陸毎日新聞』(12/20)には「金沢刑務所」(金沢市小立野なので除外)。
<5>「金憲高秘第517号」(12/19)には、「金沢衛戍拘禁所に護送」。

(2)金沢衛戍監獄の歴史
 1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」、1908年「陸軍監獄令」が出された。ウィキペディアによれば、1922年からは「陸軍衛戍監獄」は「陸軍刑務所」に改称(大江志乃夫は「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれた)と書かれている。したがって、1932年に尹奉吉が拘留されたところの名称は「衛戍拘禁所」「陸軍刑務所」「衛戍刑務所」のいずれかになる。

<1>『金沢市史通史3』には、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」と書かれている。

<2>「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日」(7ページ目)には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸付近から第九師団司令部構内(極楽橋付近か?)に移転した。(注1)
(注1)「国会図書館デジタルコレクション1932年4月19日 3213号」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955336

<3>『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載されている。(衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用か?)

(3)金沢城地図上の記述
 現存の諸地図(注2)から検証すると、
①1905年の「金沢市街図」(下左)には尾山神社近くに「金沢衛戍監獄」の記載があり、白鳥路付近に「金沢監獄拘置監」という記載がある。

  

②1924年の地図(上右)には、尾山神社と玉泉院丸の間に「衛戍拘務所」の記載がある。「衛戍拘務所」は西町のごく近くにあるので、「衛戍拘務所」は「九師普524号」の「西町拘禁所」のことかもしれない。

③『川柳人鶴彬の生涯』(岡田一杜著)には、1924年撮影の空中写真(下左)がある。

  

⑤1936年の「金沢市地図」には、尾山神社と玉泉院丸の間に「衛戍拘禁所」が記載されいる。
⑥1941年の「旧城内配置地図(加工地図)」(上右)には、第九師団司令部庁舎西側の極楽橋南側に、「金澤衛戍拘禁所」の記載がある(原図未確認)。また、石川門の北方に「営倉」と書かれている。

⑦「法務部」と明記されている地図を発見できていない。

(注2)金沢市立図書館HPに「金沢市街図」
 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kanazawashigaizu.htm

(4)中間結論
 多くの地図(1905~1937年)には、玉泉院丸付近に「衛戍監獄」「拘禁所」の記載があるが、「官報第3213号」「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」によれば、玉泉院周辺に設置された衛戍監獄は、1923年には第九師団司令部構内に移転している。
 したがって、極楽橋付近の四角い建物を「第九師団司令部構内」とすれば、尹奉吉は1941年地図上の「衛戍拘禁所」に収監された可能性が高い。ただし、『北國新聞』は「法務部に拘禁された」と報道しており、現時点で尹奉吉が最後の夜をどこに収監されたのかを特定することはできない。
 また、1941年地図には「営倉」が書かれているが、公文書、マスコミとも「営倉」については触れていない。『北陸毎日新聞』(12/20)には「金沢刑務所に身柄を収容」と書かれており、1905年地図の現金沢地裁周辺に「金沢監獄拘置監」があるが、第九師団管轄外であり、除外した。

 今後の調査検討課題は、1924年空撮写真の出所及びその他の空撮写真調査、1941年の旧金沢城配置図の原図(なぜ衛戍拘禁所と確定したのかの確認)、「法務部」の所在確認などがある。

20171231 北朝鮮パッシングと日本海(東海)大和堆

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北朝鮮パッシングと日本海(東海)大和堆

排外主義のテコ
 日本海(東海)大和堆の漁場をめぐって、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)人民にたいする排外主義が民衆レベルで深化拡散している。

 この間、政府はミサイル問題をテコにして、「危機」を煽り、戦争熱を掻き立ててきた。その結果、6月には、谷本石川県知事は「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させなければならない。…北朝鮮の国民には…生活に困窮するくらいの経済制裁を」(6/22「北陸中日新聞」)と、北朝鮮人民へのジェノサイド、民族浄化の暴言を発した。

 谷本発言は特異なケースではなく、保守系政治家の共有する政治感覚であり、9月には、安倍首相は「必要なのは対話ではなく、圧力だ」(9/22同紙)、麻生太郎は「(北朝鮮の)武装難民かもしれない。自衛隊の防衛出動か。じゃぁ射殺か」(9/24同紙)と発言している。ミサイル発射のたびに、新幹線を止めたり、子どもたちに防空訓練をさせては、国民の不安を煽り、北朝鮮にたいする敵愾心を形成してきた安倍政治の結果である。

 米日帝は、経済制裁で北朝鮮人民の生活を根底から破壊している。麻生発言は、もしも難民化して上陸してきたら、「自衛隊を出動させ、射殺せよ」という主張であり、トランプ・安倍による自作自演の戦争準備と一体だ。

排他的経済水域(EEZ)
 しかし、今夏以降日本海(東海)大和堆での北朝鮮漁船によるイカ漁をダシにして、右も左も北朝鮮排外主義にのめり込んでいる。元来は両国漁民は大和堆(+北大和堆)を好漁場として共有してきたのだが、日帝は「大和堆は排他的経済水域(EEZ)である」と主張し、北朝鮮漁船を排除してきた。

 歴史上最初に、領海外の公海上の漁業管理権を宣言したのは、1945年、米帝トルーマン大統領である。その後、1982年の国連海洋法条約で、沿岸国が海洋および海底下の生物・鉱物資源の探査・開発・保存・管理などに関して「主権的権利」をもつ水域として、沿岸から200海里(約370キロメートル)を超えてはならないとされた。

 EEZとは帝国主義の領土拡張主義から発出し、海洋資源を占有するために引いた「国境」である。現在は、約160カ国・地域が排他的経済水域を設定しており、日帝も1996年6月に国連海洋法条約を批准した際、「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」を制定した。

 しかし、EEZとは、「主権(他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利)」とは一線を画した「主権的権利」と呼ばれている。したがって、大和堆は日帝の「主権」の及ぶ範囲ではなく、基本的に公海であり、歴史的にも北朝鮮漁民と日本漁民がともに漁業をおこなってきた海域である。しかし、日朝関係の対立的状況(国交断絶)のなかで、日朝漁民を主体にした協議が成立せず、日帝が一方的に大和堆を「主権的権利」のおよぶ海域と指定して、北朝鮮漁船を排除しているのである。

 マスコミ上に乱舞する「排他的経済水域(EEZ)」「違法操業」という言葉はあたかも日本固有の「権利」が侵害されているかのようなニュアンスをかもしだし、この海域で日本の財物が盗まれたような被害者意識を形成している。大和堆で操業している北朝鮮漁船を指して、「赤の他人が家に入り込んで居座り、食糧を盗む」(12/15同紙)という谷本石川県知事の暴言がそのよい例である。

困窮する北朝鮮人民
 大和堆でのイカ漁をめぐる日本漁船と北朝鮮漁船のトラブルが掲載されるようになったのは、7月頃からである。記事内容は、「イカ狙い漁船殺到」「違法操業」「10メートルに満たない木造船」「6~7月の最も多い時期には、500隻いた」「海保は今夏から対応を強化し、退去しない船には放水し、7月以降820隻を退去させた」などと報じている。その後の報道でも、「9月に入って、…海保は警告や放水で退去させ」(12/15同紙)たと戦果を誇っている。

 北朝鮮漁船によるイカ漁の取り締まりを最初に要求(水産庁に)したのは、なんと日本共産党であった(8/9「北陸中日新聞」)。その後8月末に石川県知事らが首相官邸に赴いて要望書を提出したのである(8/31同紙)。共産党は北朝鮮排外主義扇動の先鞭をつけ、共産主義者の基本原則である国際主義のかけらもない。

 11月中旬からは、北朝鮮漁民が粗末な老朽船(10メートル前後)で、日本海(東海)の荒波のなかに漕ぎ出してくる事態の深刻さが明らかになってきた。「船転覆 能登沖で北朝鮮船員救助」という記事(11/16同紙)が最初であり、その後毎日のように、北朝鮮漁船の難破、漂着そして遭難死が報じられている。(11月の漂着・漂流は28件、45人の救助・遺体収容。12月に入っても相次いでいる)

米日帝の北朝鮮包囲作戦
 さて、現下の米日帝及び韓国による北朝鮮包囲、戦争政策を明らかにしておく必要がある。11月19日の「朝日新聞」によれば、「B52(米空軍戦略爆撃機)は8月下旬、単独で日本周辺まで飛行。太平洋側から東北地方南部の上空を通過し、日本海へ抜けた。その後、空自小松基地(石川県)から発進した第6航空団所属のF15戦闘機と日本海上空で合流。小松市沖の訓練空域をF15に護衛される編隊を組んで飛行した」。B52は核弾頭を搭載している現役の戦略爆撃機である(日本政府は訓練前に核弾頭を搭載していないことを確認したと言っているが、信用出来ない)。

 日本政府は口を開けば「北朝鮮の軍事的挑発」と言っているが、全くのウソだ。挑発しているのはトランプであり、その尻馬に乗っている安倍政権だ。南北対話の糸口にするために、韓国政府がピョンチャンオリンピック・パラリンピック期間中(2~3月)の米韓軍事演習の延期を要請しても、トランプは応えようとしていない。

 別表は、今年3月から11月までの日米、米韓共同訓練の一覧表である(「北陸中日新聞」切り抜き)。朝鮮半島周辺では、戦略爆撃機(B1など)、原子力空母(レーガン、ルーズベルト、ニミッツなど)、潜水艦などがうようよしており、訓練と称して実戦配備されているのだ。

問われる連帯の質
 マスコミの紙面に登場する識者は一様に、谷本県知事や麻生太郎、そして共産党と同質であり、北朝鮮漁民をなじり、難破・遭難死を「自業自得」として突き放している。そして北朝鮮人民にたいする排外主義は「無人島窃盗事件」で頂点に達した。

 なぜ、北朝鮮漁民がこの荒波のなかを大和堆での操業を余儀なくされているのか。その最大の原因は米日帝(国際社会)による経済制裁にあり、自国政府の戦争政策を変更させ得ない自身の責任を自覚もせず、北朝鮮漁民の不幸(遭難死)をほくそ笑むという、人間として最悪の感性に堕しているのではないか。

 『M』紙227号では、北朝鮮旅行記が掲載され、そのなかで外国人観光客用のホテルで豊かな食事をして、北朝鮮は豊かな国であるかのような幻想を振りまいていたが、該筆者は遭難(死)を覚悟してでも出漁しなければならない北朝鮮漁民の窮状をどのように見ているのだろうか。

 今、わたしたちに必要なことは、米日帝の包囲下で、核兵器に手をつけ、人民に犠牲を転嫁する北朝鮮政府の現実をも冷静に見なければならないのではないか。わたしたちは北朝鮮政府を徒に美化するのではなく、北朝鮮人民を塗炭の苦しみに追い込んでいる米日帝の戦争政策を押し止め、沖縄や全国の基地強化に反対し、戦争に一直線に向かう安倍政権を打倒し、北朝鮮人民との真の連帯を実現することである。



20180101 新年メッセージ

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2018年1月 新年メッセージ

 2018年が開けました。新しい年を迎えて、90年前の鶴彬のメッセージを送ります。

 鶴彬は1930年に徴兵され、翌1931年に「七聯隊赤化事件」(治安維持法違反)の主犯として逮捕・投獄されました。1929年6月に発行された『川柳人』200号への投稿で、青年鶴彬・コムニスト鶴彬の問題意識が最もよくわかる評論です。

 1933年刑期を終え、除隊(12月)し、活動を再開しましたが、1938年12月治安維持法容疑で検挙、翌1939年8月獄死しました。29歳。

芸術における美の階級性と宣伝性 プロレタリア川柳入門のイロハに就いて
鶴 彬

 ····最近の川柳神秘主義紳士諸君らは吾々に対して、プロレタリア川柳の審美論をしきりに要求している。これは吾々にとって笑止千万な要求である。――芸術が芸術として、哲学、科学、宗教、政治、法律、教育等の社会的文化的価値と共に一個の文化価値たり得るという事は、これらの部門における各々本質的価値よりも異なった本質価値をもつからである。

 即ち、芸術とは哲学そのもの自体でもない。科学の相対性原理でもない「美的感情」―感情のクライマックス―を唯一の内容としているのだ。これは、総て芸術入門のイロハだ。

 だが、吾々の忘れてならない事は、こうした入門式イロハではなく、この入門式イロハより出発する芸術の社会的価値の正しい検討でなければならないのだ。

 ····芸術における美とは、その芸術家が属する環境言い換えれば、その階級的立場に立って、初めて決定されるのだ。

 即ち、野口米次郎の場合、現実労働を遊離する、動かずに食い得る、階級的立場に属する故に、お上品な神秘的美感を表現し、森山啓は、現実労働に従事する、働かずして食うことの出来ない階級的立場に属する故に、戦闘的な、プロレタリア的美感に迫り切った詩を創るのだ。…芸術における二様の美とは、各々その芸術の属する、階級的立場によって決定される…実に芸術とは、当時の社会機構を超越して、独立に存在するものではない。

 それは必ず、社会の下部機構としての経済的過程の流動、変革につれて流れ動いているのである。それは常に階級的対立がもたらす階級的対立の枠の中に華咲いて来ているものである。

 ····万葉の歌が、如何に、古代的生産関係における支配階級―貴族階級の立場によって恋愛や哀別や無情や非情を歌いあげているかを、又、野口米次郎や北原白秋の詩が如何に資本主義に依属する知識階級の観念的主観的神秘性や浪漫性を如実に物語っているかを。

 古代封建時代に創られた作者不明の民謡が、如何に当時の農民の偽らざる感情を率直に表現しているかを、そして資本主義生産関係の矛盾によって生成したプロレタリアの芸術が、如何にプロレタリアの感情と意志と希望とを、何よりも先に描かねばならなかった事を、それを吾々は知らねばならない。

 芸術とは、常に階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、感情である。

 ····即ち、一定の階級的イデオロギーの表現は一般読者を対象として、アッピールしはじめる。それは主観主義者共が如何に拒否しようとも、否定すべからざる客観的事実である。

 ····吾々は武者小路実篤の小説を読む、そこに何を発見するか、日く、武者小路式な神秘主義人道主義的イデオロギーの露骨な表現だ。彼はその作品を社会化する事によって、武者小路式なるイデオロギーを一般読者に伝染し、そのイデオロギー下に組織してしまうのだ。

 だが、吾々が先に示したように、必ず一定の階級的立場に結びついていなければならない。この意味において、武者小路の作品は如何なる階級のために役割りするか。

 一言にして言えば、それはブルジョアジィのために役立つのである。先づ、見るがいい。彼の宗教の平和主義思想によって、一切の被圧迫階級の反抗や不満を宗教的観念幻想境に導き入れる。

 そしてあらゆる事物を、生命とか無限とかの漠然とした言葉によって神秘化(吾々の言葉をもって言えば朦朧化)してしまうのだ。これは吾々の見地よりして、ブルジョワジイを護る武器となるものだ。

 考へても見よ、吾々は武者小路式な、いわゆる「新しき村」式な人道主義によって、資本主義がもたらす深刻なる飢餓、失業、病苦の状態から救はれるであろうか。

 否否否、断じて否だ。吾々はその飢餓、失業、病苦から身を救う為には、かく吾々を飢餓、失業、病苦に陥し入れた社会的原因を正しく見とらねばならない。

 それが資本の集中化、小資本家の没落、外国資本主義との市場獲得競争による敗退、生産の過剰、生産合理化、操業短縮等の矛盾による事をはっきり学びとり、それと闘うべき客観的戦術を打ち立てる事によってのみ、資本主義の生産手段の独占の不合理、それによる労働力の搾取、その他一切の矛盾を崩壊せしめる事が可能なのだ。にも拘らず、武者小路式人道主義は、かかる客観的実践的理論をひらりと跳躍し、無抵抗的なる平和的なる「新しき村」式社会を強調する。

 これは明らかに反プロレタリア的ブルジョア幻想主義である。それは同時にブルジョア的自由主義の宣伝で、組織である。

 ゲーテを見よ、タゴールを見よ、芭蕉を見よ、一切が、貴族的神秘主義、知識階級的神秘主義の実情であり、組織である。バルザックやモオパッサンや田山花袋は、初期資本主義的知識階級、イデオロギーの組織を、横山利一や池谷信三郎は、没落的資本主義知識階級イデオロギーの伝染を、各々その階級的の立場に忠実なる役割を果しているではないか。

 自然主義は、その絶望的なる主観的世界観の下に、新感覚派はその頽廃的感覚遊戯の下に、ブルジョア生産関係がもたらす複雑なる放射線上の舞踏を続けているのだ。

 吾々はかゝる――彼らが無意識たると否とを問はず――認識の下に、芸術における芸術性、観情性、組織性を意識的に採り上げる。―――一定の階級的イデオロギーのアジプロの為に働かぬ芸術は、この世に一つあり得ないのだ。

 吾々は唯それを意識的に行う。ブルジョア芸術家は無意識的に行うだけだ。プロレタリア芸術の××××××××はかくの如きものとして理解されねばならぬ。

 プロレタリア芸術のアジプロの役割を、その知識的階級的お上品さをもって、芸術は何物にも利用されてはならぬと囀る。吾が神秘主義紳士諸君及び其の一派のふんどし担ぎ、其の抗議は、かゝる芸術の宣伝性、××性の正しき把握の下に一蹴されねばならぬ。

 尚、彼らは、吾々の芸術闘争を中傷する為に、詩を捨てて実践に走れとか、詩を創るより田を作れなどという古くさい抗議を申込んでいるが、それは以上によって明らかにされたところの芸術闘争の実践性を理解出来ない愚劣なたわごとである。

 愛嬌多き神秘主義川柳家諸君! 吾々は諸君に次の如き挨拶を送ることが出来る。

 芸術闘争は、プロレタリア文化確立のための、それ自身の闘争である。詩を創る者は常に田を作らねばならないのだ。――――さて、結論はこうだ!

 芸術における美とは、その芸術家の階級的立場によって決定される。

 それは、その故に、常に一定の階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、×情である。あらねばならぬ。プロレタリア川柳は××――××に結びつかねばならぬ。

 そして吾々が、特に卒業しなければならぬプロレタリア芸術入門のイロハの中のイロハでなければならぬ。(岡田一杜著『川柳人 鬼才鶴彬の生涯』より孫引き)

20180115 鶴彬―金沢衛戍監獄と軍法会議室

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鶴彬―金沢衛戍監獄と軍法会議室     2018年1月15日

(1)鶴彬と金沢衛戍監獄
 鶴彬は1930年に徴兵され、1931年『無産青年』を隊内に配布したことで、治安維持法違反に問われて、逮捕された。

 鶴彬が何処に収監され、鶴彬を裁いた軍法会議室(法廷)が何処にあったのかが曖昧だったが、尹奉吉処刑前夜の拘禁場所調査から、その姿が明らかになってきた。

(2)金沢衛戍監獄の歴史
 1975年、旧金沢城内に陸軍歩兵第七聯隊、1898年に第九師団が設置された。ウィキペディアによれば、1881年陸軍刑法、1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」、1908年「陸軍監獄令」が出され、軍事刑務所運用の基本規定となった。

 大江志乃夫によれば、1922年からは「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれており、1932年に鶴彬が拘禁された場所の名称は「衛戍拘禁所」「衛戍刑務所」のいずれかになるが、旧金沢城内諸地図や石川県立歴史博物館(石川歴博)所蔵の「土地履歴表」には、「金沢衛戍拘禁所」(大手町1-1-内)と記載されている。

<1>『金沢市史通史3』には、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」と記載されているが、どこに作られたかについては明記されていない。1905年の金沢市街図には、玉泉院丸あたりに「衛戍拘務所」と記載されている。

<2>「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日」(注)には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸付近から第九師団司令部構内に移転した。(注)「国会図書館デジタルコレクション1932年4月19日 3213号」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955336)

  1923年4月19日官報3213号


<3>『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載され、移転跡の衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用されたようだ。

(3)金沢城地図上の記述
 金沢市立図書館HPの「金沢市街図」などから検証すると、
<1>1905年の「金沢市街図」には玉泉院丸(尾山神社近く)に「金沢衛戍監獄(下右楕円)」、白鳥路付近に「金沢監獄拘置監」(上楕円)という記載がある。下左楕円は憲兵隊本部(敗戦までここに所在)である。

<2>『川柳人鬼才鶴彬の生涯』(岡田一杜著)には、1924年に上空から撮影した金沢城内の空中写真がある。

<3>「1945年以前の口座3号地図」(石川歴博)の衛戍拘禁所は1924年空撮写真と一致する。

<4>1937年「金沢市地図」には、第九師団構内にある各軍機関名が列挙されており、そのなかに司令部のなかには「軍法会議」があり、「金沢衛戍拘禁所」という文字も見える。

<5>1985年住宅地図の極楽橋南側に「動物実験室」と明記されている建物がある。

  1905年地図                1924年空撮               口座3号地図(石川歴博資料)
    

  1937年金沢市街図             1985年金沢住宅地図
  

(4)金沢衛戍拘禁所はここだ!
 多くの地図(1905~1936年)には、玉泉院丸付近に「衛戍拘務所」「衛戍監獄」「拘禁所」の記載があるが、「官報第3213号」「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」によれば、玉泉院丸に設置された衛戍監獄は、1923年には第九師団司令部構内に移転た。

 1930年に鶴彬は入隊し、3月に重営倉入りしている(<3>「口座3号地図」右上「警倉」)が、1931年に治安維持法で逮捕された鶴彬は同地図上の「衛戍拘禁所」に収監された。

 「口座12号地図」(石川歴博)には衛戍拘禁所の平面図もあり、鶴彬が大阪衛戍監獄に送られるまでの間、板張りの監房で辛い獄中生活に耐えていたのである。

   口座12号地図(石川歴博資料)
  

(5)軍法会議(法廷)は師団司令部のどこ?
 今回の資料調査で、第九師団(第52師団)司令部の図面(石川歴博)が見つかり、「法廷・傍聴席」と書かれた部屋があったが、その位置はまだわかっていない。

 ここで軍法会議が開かれ、鶴彬を懲役1年8カ月の判決を出し、大阪衛戍監獄に送ったのである。

  第九師団司令部庁舎(石川歴博資料)                第九師団法廷・傍聴席(石川歴博資料)
   

(6)1990年代まで残されていたか
 1993年までの金沢住宅地図には、元「金沢衛戍拘禁所」の建物に、「法文学部心理学研究室 動物実験室」と説明書きがあり、この頃まで衛戍拘禁所の建物が存在したようだ。1995年の住宅地図では空き地になっている。

 また、『川柳人鬼才鶴彬の生涯』には、1924年空撮写真と一緒に「数年前に取り壊された旧七聯隊衛戍拘禁所跡」という写真が掲載されている。この本は1997年に発行されており、「数年前」といえば、1995年前後であり、住宅地図の変遷と岡田一杜さんの叙述が一致する。

 金沢城公園には、治安維持法下で反戦・反軍活動を展開していた鶴彬の足跡は消し去られているが、金沢城公園を歩いて感じ取って欲しい。






20180122 第25回 志賀原発訴訟口頭弁論

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1・22 第25回 志賀原発訴訟口頭弁論

 今回は小法廷(第202号法廷)であり、6人があふれ、そのなかの一人になった。弁護士会館に移動し、大飯原発訴訟結審報告集会のビデオを見ながら待機した。

 30分ほどで、原告団・傍聴者が戻り、報告集会が始まった。
 原告団長は前回の口頭弁論(10/2)から3カ月間を振り返り、「細川・小泉の原発ゼロ法案、立憲民主党のゼロ法案などが国民世論を盛り上げている。司法に期待して裁判に訴えてきたが、政治こそが受け止めるべきである。3年前のパリ協定で、再生可能エネルギーへの転換が加速したが、今年は<低炭素から脱炭素>定着の年だ。この裁判も、提訴から5年半が過ぎ、間もなく6年になろうとしている。息切れの感もあるが、頑張ろう」と訴えた。

 その後、意見陳述した原告からの報告、『日本と原発-4年後』(2/3石川県女性センター)、「柳田邦男講演会」(3/31石川県立看護大学講堂)の案内があり、弁護団が戻って来た。

 弁護団長から、脱原発に舵を切った台湾訪問の報告があり、事務局長から裁判についての解説があった。

 前回口頭弁論で原告側は「即結審」を求めたが、裁判所は規制委員会の「評価書」にある「今後の課題」について北陸電力が何処までおこなったのかを知りたいとして、結審を引き延ばした。この日、北陸電力は、6項の課題のうち5項は終わり、残る1項は1月中に終わるということだった。原告の主張はすでに終わっており、北陸電力の主張も1月中には終わるのだから、次回(3/26)で結審すべきであると責め立てたが、裁判所は、明言を回避した。

 次回(3/26午後2時~金沢地裁)には結審・早期判決を求めて、傍聴席をいっぱいにしよう。

20180127 また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

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また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

 昨年8月、小松のTさんが亡くなられました。Tさんは小松市教組三羽ガラスのひとりで、小松・能美地区の革新に力を尽くしていました。わたしが小松基地問題に取り組み始めてから、ときどき訪問してはいろいろ教えていただきました。

 2000年8月、大東亜聖戦大碑が除幕され、県内外から激しい批判の声があがり、「ふたたび戦争を許さない映画と講演の集い南加賀実行委員会」の会議で、Tさんは聖戦をめぐる歴史認識についてレポートし、その時の発言録を再掲し、こころからご冥福をお祈りします。
2018年1月 小松基地問題研究会

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「大東亜聖戦大碑とは」(2001年2月1日)

 私は1932年(昭和7年)の生まれで、小学校に入ったのが1939年(昭和14年)4月でした。戦争と共に生まれ、戦争と一緒に小学校を過ごした、そういう年ごろの者です。新聞などを読んでいますと、一部の人の言葉ですが、「満州事変」とか「支那事変」とかいうように、「事変」という言葉が出てきます。また「大東亜戦争」というように、「戦争」という言葉が出てきます。辞典で調べてみますと、「事変」とは「常ならぬ出来事」と書かれており、変乱、暴動、一揆などをさして言います。

 それなのに、なぜ時の政府は日中戦争について「満州事変」とか「支那事変」という言葉を使って、「戦争」という言葉を使わなかったのでしょうか。その理由は、「事変」のもう一つの使い方である、相手に対して宣戦布告をしない戦争という意味で、「事変」と言っているのです。「満州事変」でも、「支那事変」でも宣戦布告が出されていません。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争では、天皇による宣戦の詔書があります。彼らの言う「事変」と「戦争」の違いはここにあるのです。

 実際には、1937年7月7日に盧溝橋で始まった日中戦争は、どんな歴史書を見ても、「支那事変」とは書かれていません。はっきりと日中戦争と書かれています。日本だけではなく、世界中の常識です。それなのに、日本は「コトが起きたんだ。暴動だ」と、戦争ではなく事変だと当時の国民を欺いてきたのです。(先月にも、アフリカを訪問していた森首相が「支那事変」という言葉を使っていました)

<大東亜共栄圏>
 そして、1941年に、太平洋戦争が始まるのですが、時の政府は国民に対して、太平洋戦争という言葉を使用させず、大東亜戦争と呼ばせていました。その裏には、「大東亜共栄圏」の構想があったからです。政府は中国や東南アジアへの侵略戦争を正当化するために、柳条湖事件でわがものにした「満州国」、中国、仏印、タイ、ビルマ、フィリピン、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなどをまとめて、ひとつの仲よしの平和な世界を作り上げようという大義名分を掲げて、大東亜共栄圏という言葉を使ったのです。

 この時の内閣は第2次近衛内閣で、1940年7月の閣議で、大東亜共栄圏を打ち出した「基本国策要綱」を決め、侵略戦争に深々と入っていきました。

<聖戦>
 大東亜聖戦大碑には、「聖戦」と書かれていますが、本当は征服の「征」でしょう。戦争をしかけ、攻めていくことが「征戦」なのですが、それをわざわざ、「聖」という字に置き換えまして、「正義の戦い」であるかのように強調しました。

 「聖王」「聖代」「聖世」という言葉があります。「聖王」とはすぐれた天子、皇帝を意味します。「聖代」「聖世」とはすぐれた天子の御代という意味です。そのすぐれた天皇が行なう戦争だから「聖戦」と言い、そのための軍隊を「皇軍」と言い、当時の国民が正義の戦争をしていたかのようにマインドコントロールしていたのです。

<おほみいくさ>
 また碑には、「大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり」という詩がが書かれています。「おほみ」という言葉は奈良朝や平安朝の古い時代から使われていて、神様とか天皇とかを特別に尊敬して言う時の接頭語です。漢字では「大御」と書きます。その後に「軍」がつけば、「大御軍(おほみいくさ)」となり、「天皇が行なう戦争」という意味です。天皇の威徳は「大御陵威(おほみいつ)」、天皇が作った歌は「大御歌(おほみうた)」、天皇が食べる食事を「大御食(おほみけ)」と言うなど、天皇の行為を表現する接頭語には、だいたい「大御」がつきます。

<八紘為宇>
 さらに、碑の裏面には、「八紘為宇」と大きく書かれています。日本書紀の神武紀の「掩八紘而為宇(八紘を掩いて宇<いえ>と為す)」が語源です。それは中国の道教の影響を受けている言葉で、日本書紀が作られた奈良時代までに輸入されたものです。当時の歴史資料と言われるものに古事記と日本書紀があります。古事記は表音仮名まじりのものですが、日本書紀に地の文は、何処へ行っても通用する漢文で書かれています。

 「八紘」と「八荒」は同義語で、遠い地の果て、世界の隅々、国の隅々、在所の隅々ということです。天地、八方の隅々ということです。時代によって、「八紘」の範囲は具休的には違ってきます。古代では都を離れた辺境をさしますが、東北地方、北海道などはまだ含まれません。
 「八紘一宇」という標語が使われたのは1940年からで、「満州国」、中国、東南アジアなどを含めて、「八紘」と考えて、「一宇(ひとつの家)」=共栄圏にしていこうということです。一つの家をめざした時、古い言葉ですが『戸主』は誰なのか言うまでもありません。

 この言葉は昔から存在し、例えば松尾芭蕉は『奥の細道』で、「恩択八荒にあふれ四民安堵の栖<すみか>穏やかなり…」と書いています。「日光東照宮のお恵みが在所の隅々にいきわたり、穏やかで、平和なところだな…」という意味でしょう。八紘(八荒)という言葉自休は悪い言葉ではないのですが、それを昭和の軍閥が、大東亜共栄圏を作るための「正義の戦争」だと国民をだますために使ったということです。

<真に悼むには>
 太平洋戦争を記念するために作られた碑に「大東亜聖戦大碑」「八紘為宇」と刻銘した人たちは、同じ年ごろの友人・戦友が234万人も死んだことについて、きちんと哀悼の意を表せないということがあるのではないでしょうか。

 間違った政治で始まった戦争で、友人が、アジアや太平洋で死んでいったという事実をはっきりさせることによって、生き残った者として、本当に友人の死を悼むことになるのではないかと思っています。
(2001年2月1日の会合での発言に一部加筆)

20180204メモ「大東亜共栄圏」思想の流れ

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メモ「大東亜共栄圏」思想の流れ

年初から、どこの新聞も「明治150年」を論じていますが、纐纈厚著『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識』を読みました。


<江戸時代>
・林子平 『西域物語』1798年
 ロシアの脅威への対抗から、朝鮮を領有する必要性を説いた最初の人物。
・佐藤信淵 『宇内混同秘策』1823年
 「皇大御国は、大地の最初に成れる国として、世界万国の根本なり」→天皇こそ唯一の支配者であるとする強烈な自民族至上主義→ロシア脅威→中国奪取→東南アジアへ【1920~30年代の軍部・右翼は佐藤信淵の侵略思想を繰り返し借用した】

<明治維新―1868年>
・西郷隆盛 「征韓論」
 朝鮮半島の領有によって、国内における権力関係の調整→国内危機の解除

<自由民権運動―1880年代>
・杉田鶉山(じゅんざん) 『東洋恢復論』1880年、『興亜策』1883年
 専制権力による圧制からアジア人民が解放される為には、連帯を通してアジアの地でも民権論の拡張が不可欠―朝鮮・中国は侵略の対象ではなかった。このころの自由民権論者―明治政府の専制権力打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放を主張。転向→日本の近代化のためには、中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化が緊急の課題。
・大井憲太郎―大阪事件(1885年)
 韓国独立党への支援―人類不偏の課題。出獄後→西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸に覇権を求め、大陸を領有することが日本の進むべき途
・樽井藤吉 『大東合邦論』1893年
 日韓両国の文化的、民族的相違性を超越した共通の自然的・先天的な結びつきが存在しており、…両国の発展のためには、両国が将来的に「合邦」することが最善の途。清国との「合邦」は時期尚早、「合従」。 【この論が日清戦争の前に出ていたことに注目→大東亜共栄圏思想へ】

<日清戦争―1894年>
・内村鑑三 日清戦争は「義戦」。新文明が旧文明を乗り越える行為―侵略思想を内包。
・福沢諭吉「脱亜論」―日清戦争は「文明の義戦」―侵略思想を内包。文明的、思想的問題としてのアジア論―「義戦諭」的戦争観を再生産する思想的根拠→「東亜共同体諭」などを経由して、「大東亜共栄圏思想」へ
・徳富蘇峰
 平民主義―西欧近代合理主義の基盤の上に、西欧的市民社会を形成することによる平等主義の実現を説く。日清戦争後―『大日本膨張論』1894年→日本民族膨張主義礼賛論を展開(『国民の友』1896年)―中国の「衝突」に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない。
・陸羯南(くがかつなん)
 アジアの「平和」は日本を主軸に据えた形でしか成立しないと説き、中国への侵略を正当化した。
・高山樗牛
 「日本主義論」―日本国家共同体へ国民を思想的にも精神的にも強制動員し、国家的価値や国家的利益がすべてに優越するものと主張した。
 →日本文化の伝統や遺産に日本民族の一体感を求めず。→西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家の建設の中に民族としての一体感を求めるべし。

【明治を代表する知識人の日清戦争正当化論】
 形式論―欧米諸列強からの日本防衛、朝鮮・中国の改革。本質的には―諸列強の動向を日本国家総体の危機と想定することで、日清戦争を日本国家膨張の一大契機として、積極的に評価。日清戦争で国民意識の中に「アジアの強国日本」のイメージを定着。

<日露戦争―1905年>
・西園寺公望 施政方針演説(1906年)
 「彼の満州経営・韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所にして、国力の発展は一日も緩うすべかざるなり」(戦後経営論)
・大山巌「1906年度日本帝国陸軍作戦計画策定要領」
 「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領とす」←大陸侵略が日本国家の発展と密接不可分なものとして実践の対象となる。
・田中義一 『随感雑録』1906年
 「我帝国の国是に伴う大方針を詳言するは海外に保護国と租借地を有し、且つ日英同盟の結果従来の如く単に守勢作戦を以て国防の本質とせず、必ず攻勢作戦を以て国防の主眼」「国利国権の伸張は先づ清国に向て企画せらるるものとす」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」。
 【田中義一が主張する大陸国家日本の形成という戦略は、明治初期から中期にかけて言論界で盛んに論じられた大陸侵攻論や膨張主義を積極的に採用した結果である】
・山県有朋 『対清政策所見』1907年
 対中国外交に慎重な態度。「帝国国防方針案」では、「将来我国利国権の伸張は清国に向て企画せらるるを有利とす」
・後藤新平 『日本膨張諭』1916年

<東亜新秩序建設声明 1938年>
・陸軍省新聞班 『国防の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフレット)1934年、「日満一体化論」、「日満支一体化論」
・三木清 『東亜共同体論』1937年ごろ
・宮崎正義 『東亜聯盟論』1938年
 「満州国の建国(1932年)こそ…東洋解放とその新建設たる道義的・文化的意義を有する」
・石原莞爾 『東亜連盟論』
・近衛文麿 「東亜新秩序建設声明」1938年11月→大東亜共栄圏思想(1940年~)―巨大な幻想共同体構想

【コメント】
①アジア論に内在する大陸侵略思想は武断主義的基調を回避して、文明論的文化論的色彩で粉飾され、侵略の企画や実態を隠蔽した。
②政治的経済的動機づけからする侵略思想が日本国家の政治的地位向上の手段として位置づけられてきた。
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