Quantcast
Channel: アジアと小松
Viewing all 912 articles
Browse latest View live

20180215小松基地第2滑走路について

$
0
0
小松基地第2滑走路建設に反対しよう

 2018年2月14日の『北陸中日新聞』朝刊によれば、県議会で、自民党福村章が小松に第2滑走路建設を要求した。その目的は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を攻撃するための最前線基地建設である。

 福村は、安倍政権による北朝鮮排外主義煽動の尻馬に乗って、ここぞとばかりに北朝鮮を攻撃するための滑走路増設を提案した。石川県知事谷本は「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させなければならない」(2017年6月)と、民族抹殺を煽動しており、両者阿吽の呼吸で戦争体制を作り上げようとしている。

第2滑走路必要論のまやかし
 第2滑走路については、これまでにくり返し提案されてきたが、毎回反対運動で挫折してきた。

 1978年―小松基地司令・川澄貞吉は「民間機と競合するので滑走路がもう1本必要」と発言し、これを受けて、石川県開発部長・高見は「新滑走路は将来計画のなかで検討」(9/16)と答えた。

 1989年―友田勲小松基地司令は着任のあいさつで「千歳のように滑走路を2本にするという発想はあるのではないか」(5/14『北國新聞』)と、滑走路増設を打ち上げた。

 1994年―小松市議会飛行場対策特別委員会で「隣接、海上の2案」(9/17『・・新聞』)が報告された。

 1996年―石川県総務企画委員会で、「石川県は滑走路の増設も検討課題」(12/2『北陸中日新聞』)

 2004年―「カーゴルクス便のため」という理由をこじつけて滑走路のかさ上げと延長に着工した(2006年運用開始)。

 かさ上げ工事のために、仮滑走路を作り、現在(平時)は使用していないが、有事にはいつでも使用できる状態で残されており、自衛隊(小松基地)の悲願は達成されたのである。かさ上げ・延長工事には70億円が費やされ、その3分の1を県民の税金で賄ったのである。

  

 したがって、小松基地にとって、平時の訓練には、新たな滑走路建設は必要なくなり、それ以後、滑走路の増設問題は影を潜めている。すなわち、「北朝鮮有事」の際には民間機の離着陸を制限し、仮滑走路を復活させるという「滑走路2本体制」がすでに出来上がっているからである。

民間機による圧迫は根拠なし
 福村県議は、民間機の離着陸増加が自衛隊の訓練を圧迫しているかのように言っているが、2001年から2009年までの民間機の年平均離着陸数は15074回(41.3回/日)であった。2016年度の離着陸回数は約16000回(『北陸中日新聞』2/14)で、1日平均43.8回であり、急速に増加しているわけではない(6%増)。

 国内線・国際線の時刻表を見ると、最も早い便は7:40(小松発羽田着)であり、最も遅い便は21:00(羽田発小松着)である。この13時間20分(800分)の間に、民航機の離着陸は18.3分に1回程度である。

 しかも、小松市・防衛省(小松基地)間の2002年協定では、「早朝(午前8時以前)及び夜間(午後5時以降)には、離陸及び試運転を中止する」とあり、午前8時以前と午後5時以降に離着陸する民間機(18便=毎日ではない)は自衛隊機の練習を妨げるわけではない。

 したがって、民間機が自衛隊機の通常訓練を圧迫しているという論は成立しない。

「北朝鮮脅威」は幻想
 もうひとつの理由として、「防空識別圏」に進入してくる国籍不明機にたいする緊急発進(スクランブル攻撃)の増加をあげている。

 資料Aも資料Bも航空自衛隊のスクランブルは増加傾向を示しているが、その原因は尖閣諸島(釣魚台)をめぐって、対中国軍機スクランブルが増えており(資料B)、日本がその種をまいているのである。

 他方、小松基地が所属する中部航空方面隊では、2009年(55回)から2014年(102回)にかけて2倍弱しか増加していない。1980年代は小松基地だけで年間200件にも達していたことから見ると、小松基地のスクランブルが増加したから、第2滑走路が必要だという論は成立しない。

 とくに、北朝鮮機にたいするスクランブルは2009から2014年までの6年間で、わずかに17回しかなく、「北朝鮮脅威」は幻想である。





力を合わせて
 以上、自民党石川県連と谷本知事は一体となって北朝鮮侵略戦争のための小松基地強化に乗り出している。くりかえし第2滑走路建設を阻止してき力を結集し、今回の攻撃も、絶対につぶさねばならない。

20180221朝鮮戦争挑発の三沢基地を撤去しよう

$
0
0
朝鮮戦争挑発の三沢基地を撤去しよう

 2月20日、青森県の米軍三沢基地所属のF16戦闘機が離陸直後にエンジン火災を起こし、基地近くにある小川原湖(同県東北町)に燃料タンク2個を投棄した。燃料タンクとみられる物体は、シジミ漁をしていた船から約400メートルの距離に落下。付近では4、5隻が操業していた。

 植民地・日本にたいする理不尽な行為である。2018年1月号の『世界』では、斎藤光政さんが「三沢―攻撃とミサイル防衛の最前線」を掲載し、三沢基地の実態を報告している。

情報戦の最前線基地
 米軍三沢基地には、1985年からF16戦闘機40機が配備された。SEAD(防空網制圧)という対地攻撃のための特殊部隊であり、その槍の穂先は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に向けられている。

 例えば、1994年の米朝危機では、三沢基地のF16戦闘機16機が韓国烏山基地に移動し、北朝鮮の寧辺(5メガワットの核施設)を攻撃しようと待機していた。まさに原爆投下と同様の攻撃態勢に入っていたのである。

 昨年7月には、青森県陸奥湾では日米共同機雷戦・掃海訓練、8月には、三沢基地で米軍特殊部隊による北朝鮮中枢部への攻撃(斬首作戦)を含む、米海兵隊新型輸送機MV22オスプレイとの日米共同演習がおこなわれた。

 青森県津軽半島には空自車力分屯地に米軍Xバンドレーダー(最前線の目)があり、朝鮮半島のデータを統合戦術地上ステーション(JTAGS)のコンピューターシステム(最前線の頭脳)に送られる。また下北半島の釜臥山には空自警戒レーダー(FPSS)が配備され、青森県では日米一体の情報作戦を展開している。

対北朝鮮実戦訓練
 昨年9月9日には、米軍B1B戦略爆撃機ランサーが、グアム(アンダーセン基地)を出発し、東中国海で空自F15と模擬空戦を展開し、朝鮮半島を経由して三沢基地に飛来した。(7月7日にも、B1Bがグアムから朝鮮半島で空対地攻撃訓練をおこない、8月下旬にはB52が日本海上空で空自戦闘機と共同訓練をおこなった)

 10月中旬、奥尻島では、陸自対空ミサイルで守られたレーダーサイトを米軍三沢基地のF16戦闘機とEA18電子戦攻撃機が襲撃するというシナリオの日米共同演習(アイアンスピアー=鉄の槍)がおこなわれたが、これは北朝鮮にたいする摸擬演習であろう。

 三沢空自基地には、2017年度にはF35ステルス戦闘機、2019年度には大型無人偵察機(RQ4グローバルホーク)の配備が予定され、世界最高レベルの情報収集基地になろうとしている。

 朝鮮戦争挑発の基地、沖縄と三沢から基地を撤去しよう。

20171231 北朝鮮パッシングと日本海(東海)大和堆

$
0
0
北朝鮮パッシングと日本海(東海)大和堆

排外主義のテコ
 日本海(東海)大和堆の漁場をめぐって、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)人民にたいする排外主義が民衆レベルで深化拡散している。

 この間、政府はミサイル問題をテコにして、「危機」を煽り、戦争熱を掻き立ててきた。その結果、6月には、谷本石川県知事は「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させなければならない。…北朝鮮の国民には…生活に困窮するくらいの経済制裁を」(6/22「北陸中日新聞」)と、北朝鮮人民へのジェノサイド、民族浄化の暴言を発した。

 谷本発言は特異なケースではなく、保守系政治家の共有する政治感覚であり、9月には、安倍首相は「必要なのは対話ではなく、圧力だ」(9/22同紙)、麻生太郎は「(北朝鮮の)武装難民かもしれない。自衛隊の防衛出動か。じゃぁ射殺か」(9/24同紙)と発言している。ミサイル発射のたびに、新幹線を止めたり、子どもたちに防空訓練をさせては、国民の不安を煽り、北朝鮮にたいする敵愾心を形成してきた安倍政治の結果である。

 米日帝は、経済制裁で北朝鮮人民の生活を根底から破壊している。麻生発言は、もしも難民化して上陸してきたら、「自衛隊を出動させ、射殺せよ」という主張であり、トランプ・安倍による自作自演の戦争準備と一体だ。

排他的経済水域(EEZ)
 しかし、今夏以降日本海(東海)大和堆での北朝鮮漁船によるイカ漁をダシにして、右も左も北朝鮮排外主義にのめり込んでいる。元来は両国漁民は大和堆(+北大和堆)を好漁場として共有してきたのだが、日帝は「大和堆は排他的経済水域(EEZ)である」と主張し、北朝鮮漁船を排除してきた。

 歴史上最初に、領海外の公海上の漁業管理権を宣言したのは、1945年、米帝トルーマン大統領である。その後、1982年の国連海洋法条約で、沿岸国が海洋および海底下の生物・鉱物資源の探査・開発・保存・管理などに関して「主権的権利」をもつ水域として、沿岸から200海里(約370キロメートル)を超えてはならないとされた。

 EEZとは帝国主義の領土拡張主義から発出し、海洋資源を占有するために引いた「国境」である。現在は、約160カ国・地域が排他的経済水域を設定しており、日帝も1996年6月に国連海洋法条約を批准した際、「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」を制定した。

 しかし、EEZとは、「主権(他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利)」とは一線を画した「主権的権利」と呼ばれている。したがって、大和堆は日帝の「主権」の及ぶ範囲ではなく、基本的に公海であり、歴史的にも北朝鮮漁民と日本漁民がともに漁業をおこなってきた海域である。しかし、日朝関係の対立的状況(国交断絶)のなかで、日朝漁民を主体にした協議が成立せず、日帝が一方的に大和堆を「主権的権利」のおよぶ海域と指定して、北朝鮮漁船を排除しているのである。

 マスコミ上に乱舞する「排他的経済水域(EEZ)」「違法操業」という言葉はあたかも日本固有の「権利」が侵害されているかのようなニュアンスをかもしだし、この海域で日本の財物が盗まれたような被害者意識を形成している。大和堆で操業している北朝鮮漁船を指して、「赤の他人が家に入り込んで居座り、食糧を盗む」(12/15同紙)という谷本石川県知事の暴言がそのよい例である。

困窮する北朝鮮人民
 大和堆でのイカ漁をめぐる日本漁船と北朝鮮漁船のトラブルが掲載されるようになったのは、7月頃からである。記事内容は、「イカ狙い漁船殺到」「違法操業」「10メートルに満たない木造船」「6~7月の最も多い時期には、500隻いた」「海保は今夏から対応を強化し、退去しない船には放水し、7月以降820隻を退去させた」などと報じている。その後の報道でも、「9月に入って、…海保は警告や放水で退去させ」(12/15同紙)たと戦果を誇っている。

 北朝鮮漁船によるイカ漁の取り締まりを最初に要求(水産庁に)したのは、なんと日本共産党であった(8/9「北陸中日新聞」)。その後8月末に石川県知事らが首相官邸に赴いて要望書を提出したのである(8/31同紙)。共産党は北朝鮮排外主義扇動の先鞭をつけ、共産主義者の基本原則である国際主義のかけらもない。

 11月中旬からは、北朝鮮漁民が粗末な老朽船(10メートル前後)で、日本海(東海)の荒波のなかに漕ぎ出してくる事態の深刻さが明らかになってきた。「船転覆 能登沖で北朝鮮船員救助」という記事(11/16同紙)が最初であり、その後毎日のように、北朝鮮漁船の難破、漂着そして遭難死が報じられている。(11月の漂着・漂流は28件、45人の救助・遺体収容。12月に入っても相次いでいる)

米日帝の北朝鮮包囲作戦
 さて、現下の米日帝及び韓国による北朝鮮包囲、戦争政策を明らかにしておく必要がある。11月19日の「朝日新聞」によれば、「B52(米空軍戦略爆撃機)は8月下旬、単独で日本周辺まで飛行。太平洋側から東北地方南部の上空を通過し、日本海へ抜けた。その後、空自小松基地(石川県)から発進した第6航空団所属のF15戦闘機と日本海上空で合流。小松市沖の訓練空域をF15に護衛される編隊を組んで飛行した」。B52は核弾頭を搭載している現役の戦略爆撃機である(日本政府は訓練前に核弾頭を搭載していないことを確認したと言っているが、信用出来ない)。

 日本政府は口を開けば「北朝鮮の軍事的挑発」と言っているが、全くのウソだ。挑発しているのはトランプであり、その尻馬に乗っている安倍政権だ。南北対話の糸口にするために、韓国政府がピョンチャンオリンピック・パラリンピック期間中(2~3月)の米韓軍事演習の延期を要請しても、トランプは応えようとしていない。

 別表は、今年3月から11月までの日米、米韓共同訓練の一覧表である(「北陸中日新聞」切り抜き)。朝鮮半島周辺では、戦略爆撃機(B1など)、原子力空母(レーガン、ルーズベルト、ニミッツなど)、潜水艦などがうようよしており、訓練と称して実戦配備されているのだ。

問われる連帯の質
 マスコミの紙面に登場する識者は一様に、谷本県知事や麻生太郎、そして共産党と同質であり、北朝鮮漁民をなじり、難破・遭難死を「自業自得」として突き放している。そして北朝鮮人民にたいする排外主義は「無人島窃盗事件」で頂点に達した。

 なぜ、北朝鮮漁民がこの荒波のなかを大和堆での操業を余儀なくされているのか。その最大の原因は米日帝(国際社会)による経済制裁にあり、自国政府の戦争政策を変更させ得ない自身の責任を自覚もせず、北朝鮮漁民の不幸(遭難死)をほくそ笑むという、人間として最悪の感性に堕しているのではないか。

 『M』紙227号では、北朝鮮旅行記が掲載され、そのなかで外国人観光客用のホテルで豊かな食事をして、北朝鮮は豊かな国であるかのような幻想を振りまいていたが、該筆者は遭難(死)を覚悟してでも出漁しなければならない北朝鮮漁民の窮状をどのように見ているのだろうか。

 今、わたしたちに必要なことは、米日帝の包囲下で、核兵器に手をつけ、人民に犠牲を転嫁する北朝鮮政府の現実をも冷静に見なければならないのではないか。わたしたちは北朝鮮政府を徒に美化するのではなく、北朝鮮人民を塗炭の苦しみに追い込んでいる米日帝の戦争政策を押し止め、沖縄や全国の基地強化に反対し、戦争に一直線に向かう安倍政権を打倒し、北朝鮮人民との真の連帯を実現することである。


20180101 新年メッセージ

$
0
0
2018年1月 新年メッセージ

 2018年が開けました。新しい年を迎えて、90年前の鶴彬のメッセージを送ります。

 鶴彬は1930年に徴兵され、翌1931年に「七聯隊赤化事件」(治安維持法違反)の主犯として逮捕・投獄されました。1929年6月に発行された『川柳人』200号への投稿で、青年鶴彬・コムニスト鶴彬の問題意識が最もよくわかる評論です。

 1933年刑期を終え、除隊(12月)し、活動を再開しましたが、1938年12月治安維持法容疑で検挙、翌1939年8月獄死しました。29歳。

芸術における美の階級性と宣伝性 プロレタリア川柳入門のイロハに就いて
鶴 彬

 ····最近の川柳神秘主義紳士諸君らは吾々に対して、プロレタリア川柳の審美論をしきりに要求している。これは吾々にとって笑止千万な要求である。――芸術が芸術として、哲学、科学、宗教、政治、法律、教育等の社会的文化的価値と共に一個の文化価値たり得るという事は、これらの部門における各々本質的価値よりも異なった本質価値をもつからである。

 即ち、芸術とは哲学そのもの自体でもない。科学の相対性原理でもない「美的感情」―感情のクライマックス―を唯一の内容としているのだ。これは、総て芸術入門のイロハだ。

 だが、吾々の忘れてならない事は、こうした入門式イロハではなく、この入門式イロハより出発する芸術の社会的価値の正しい検討でなければならないのだ。

 ····芸術における美とは、その芸術家が属する環境言い換えれば、その階級的立場に立って、初めて決定されるのだ。

 即ち、野口米次郎の場合、現実労働を遊離する、動かずに食い得る、階級的立場に属する故に、お上品な神秘的美感を表現し、森山啓は、現実労働に従事する、働かずして食うことの出来ない階級的立場に属する故に、戦闘的な、プロレタリア的美感に迫り切った詩を創るのだ。…芸術における二様の美とは、各々その芸術の属する、階級的立場によって決定される…実に芸術とは、当時の社会機構を超越して、独立に存在するものではない。

 それは必ず、社会の下部機構としての経済的過程の流動、変革につれて流れ動いているのである。それは常に階級的対立がもたらす階級的対立の枠の中に華咲いて来ているものである。

 ····万葉の歌が、如何に、古代的生産関係における支配階級―貴族階級の立場によって恋愛や哀別や無情や非情を歌いあげているかを、又、野口米次郎や北原白秋の詩が如何に資本主義に依属する知識階級の観念的主観的神秘性や浪漫性を如実に物語っているかを。

 古代封建時代に創られた作者不明の民謡が、如何に当時の農民の偽らざる感情を率直に表現しているかを、そして資本主義生産関係の矛盾によって生成したプロレタリアの芸術が、如何にプロレタリアの感情と意志と希望とを、何よりも先に描かねばならなかった事を、それを吾々は知らねばならない。

 芸術とは、常に階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、感情である。

 ····即ち、一定の階級的イデオロギーの表現は一般読者を対象として、アッピールしはじめる。それは主観主義者共が如何に拒否しようとも、否定すべからざる客観的事実である。

 ····吾々は武者小路実篤の小説を読む、そこに何を発見するか、日く、武者小路式な神秘主義人道主義的イデオロギーの露骨な表現だ。彼はその作品を社会化する事によって、武者小路式なるイデオロギーを一般読者に伝染し、そのイデオロギー下に組織してしまうのだ。

 だが、吾々が先に示したように、必ず一定の階級的立場に結びついていなければならない。この意味において、武者小路の作品は如何なる階級のために役割りするか。

 一言にして言えば、それはブルジョアジィのために役立つのである。先づ、見るがいい。彼の宗教の平和主義思想によって、一切の被圧迫階級の反抗や不満を宗教的観念幻想境に導き入れる。

 そしてあらゆる事物を、生命とか無限とかの漠然とした言葉によって神秘化(吾々の言葉をもって言えば朦朧化)してしまうのだ。これは吾々の見地よりして、ブルジョワジイを護る武器となるものだ。

 考へても見よ、吾々は武者小路式な、いわゆる「新しき村」式な人道主義によって、資本主義がもたらす深刻なる飢餓、失業、病苦の状態から救はれるであろうか。

 否否否、断じて否だ。吾々はその飢餓、失業、病苦から身を救う為には、かく吾々を飢餓、失業、病苦に陥し入れた社会的原因を正しく見とらねばならない。

 それが資本の集中化、小資本家の没落、外国資本主義との市場獲得競争による敗退、生産の過剰、生産合理化、操業短縮等の矛盾による事をはっきり学びとり、それと闘うべき客観的戦術を打ち立てる事によってのみ、資本主義の生産手段の独占の不合理、それによる労働力の搾取、その他一切の矛盾を崩壊せしめる事が可能なのだ。にも拘らず、武者小路式人道主義は、かかる客観的実践的理論をひらりと跳躍し、無抵抗的なる平和的なる「新しき村」式社会を強調する。

 これは明らかに反プロレタリア的ブルジョア幻想主義である。それは同時にブルジョア的自由主義の宣伝で、組織である。

 ゲーテを見よ、タゴールを見よ、芭蕉を見よ、一切が、貴族的神秘主義、知識階級的神秘主義の実情であり、組織である。バルザックやモオパッサンや田山花袋は、初期資本主義的知識階級、イデオロギーの組織を、横山利一や池谷信三郎は、没落的資本主義知識階級イデオロギーの伝染を、各々その階級的の立場に忠実なる役割を果しているではないか。

 自然主義は、その絶望的なる主観的世界観の下に、新感覚派はその頽廃的感覚遊戯の下に、ブルジョア生産関係がもたらす複雑なる放射線上の舞踏を続けているのだ。

 吾々はかゝる――彼らが無意識たると否とを問はず――認識の下に、芸術における芸術性、観情性、組織性を意識的に採り上げる。―――一定の階級的イデオロギーのアジプロの為に働かぬ芸術は、この世に一つあり得ないのだ。

 吾々は唯それを意識的に行う。ブルジョア芸術家は無意識的に行うだけだ。プロレタリア芸術の××××××××はかくの如きものとして理解されねばならぬ。

 プロレタリア芸術のアジプロの役割を、その知識的階級的お上品さをもって、芸術は何物にも利用されてはならぬと囀る。吾が神秘主義紳士諸君及び其の一派のふんどし担ぎ、其の抗議は、かゝる芸術の宣伝性、××性の正しき把握の下に一蹴されねばならぬ。

 尚、彼らは、吾々の芸術闘争を中傷する為に、詩を捨てて実践に走れとか、詩を創るより田を作れなどという古くさい抗議を申込んでいるが、それは以上によって明らかにされたところの芸術闘争の実践性を理解出来ない愚劣なたわごとである。

 愛嬌多き神秘主義川柳家諸君! 吾々は諸君に次の如き挨拶を送ることが出来る。

 芸術闘争は、プロレタリア文化確立のための、それ自身の闘争である。詩を創る者は常に田を作らねばならないのだ。――――さて、結論はこうだ!

 芸術における美とは、その芸術家の階級的立場によって決定される。

 それは、その故に、常に一定の階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、×情である。あらねばならぬ。プロレタリア川柳は××――××に結びつかねばならぬ。

 そして吾々が、特に卒業しなければならぬプロレタリア芸術入門のイロハの中のイロハでなければならぬ。(岡田一杜著『川柳人 鬼才鶴彬の生涯』より孫引き)

20180115 鶴彬―金沢衛戍監獄と軍法会議室

$
0
0
鶴彬―金沢衛戍監獄と軍法会議室     2018年1月15日

(1)鶴彬と金沢衛戍監獄
 鶴彬は1930年に徴兵され、1931年『無産青年』を隊内に配布したことで、治安維持法違反に問われて、逮捕された。

 鶴彬が何処に収監され、鶴彬を裁いた軍法会議室(法廷)が何処にあったのかが曖昧だったが、尹奉吉処刑前夜の拘禁場所調査から、その姿が明らかになってきた。

(2)金沢衛戍監獄の歴史
 1975年、旧金沢城内に陸軍歩兵第七聯隊、1898年に第九師団が設置された。ウィキペディアによれば、1881年陸軍刑法、1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」、1908年「陸軍監獄令」が出され、軍事刑務所運用の基本規定となった。

 大江志乃夫によれば、1922年からは「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれており、1932年に鶴彬が拘禁された場所の名称は「衛戍拘禁所」「衛戍刑務所」のいずれかになるが、旧金沢城内諸地図や石川県立歴史博物館(石川歴博)所蔵の「土地履歴表」には、「金沢衛戍拘禁所」(大手町1-1-内)と記載されている。

<1>『金沢市史通史3』には、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」と記載されているが、どこに作られたかについては明記されていない。1905年の金沢市街図には、玉泉院丸あたりに「衛戍拘務所」と記載されている。

<2>「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日」(注)には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸付近から第九師団司令部構内に移転した。(注)「国会図書館デジタルコレクション1932年4月19日 3213号」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955336)

  1923年4月19日官報3213号


<3>『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載され、移転跡の衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用されたようだ。

(3)金沢城地図上の記述
 金沢市立図書館HPの「金沢市街図」などから検証すると、
<1>1905年の「金沢市街図」には玉泉院丸(尾山神社近く)に「金沢衛戍監獄(下右楕円)」、白鳥路付近に「金沢監獄拘置監」(上楕円)という記載がある。下左楕円は憲兵隊本部(敗戦までここに所在)である。

<2>『川柳人鬼才鶴彬の生涯』(岡田一杜著)には、1924年に上空から撮影した金沢城内の空中写真がある。

<3>「1945年以前の口座3号地図」(石川歴博)の衛戍拘禁所は1924年空撮写真と一致する。

<4>1937年「金沢市地図」には、第九師団構内にある各軍機関名が列挙されており、そのなかに司令部のなかには「軍法会議」があり、「金沢衛戍拘禁所」という文字も見える。

<5>1985年住宅地図の極楽橋南側に「動物実験室」と明記されている建物がある。

  1905年地図                1924年空撮               口座3号地図(石川歴博資料)
    

  1937年金沢市街図             1985年金沢住宅地図
  

(4)金沢衛戍拘禁所はここだ!
 多くの地図(1905~1936年)には、玉泉院丸付近に「衛戍拘務所」「衛戍監獄」「拘禁所」の記載があるが、「官報第3213号」「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」によれば、玉泉院丸に設置された衛戍監獄は、1923年には第九師団司令部構内に移転た。

 1930年に鶴彬は入隊し、3月に重営倉入りしている(<3>「口座3号地図」右上「警倉」)が、1931年に治安維持法で逮捕された鶴彬は同地図上の「衛戍拘禁所」に収監された。

 「口座12号地図」(石川歴博)には衛戍拘禁所の平面図もあり、鶴彬が大阪衛戍監獄に送られるまでの間、板張りの監房で辛い獄中生活に耐えていたのである。

   口座12号地図(石川歴博資料)
  

(5)軍法会議(法廷)は師団司令部のどこ?
 今回の資料調査で、第九師団(第52師団)司令部の図面(石川歴博)が見つかり、「法廷・傍聴席」と書かれた部屋があったが、その位置はまだわかっていない。

 ここで軍法会議が開かれ、鶴彬を懲役1年8カ月の判決を出し、大阪衛戍監獄に送ったのである。

  第九師団司令部庁舎(石川歴博資料)                第九師団法廷・傍聴席(石川歴博資料)
   

(6)1990年代まで残されていたか
 1993年までの金沢住宅地図には、元「金沢衛戍拘禁所」の建物に、「法文学部心理学研究室 動物実験室」と説明書きがあり、この頃まで衛戍拘禁所の建物が存在したようだ。1995年の住宅地図では空き地になっている。

 また、『川柳人鬼才鶴彬の生涯』には、1924年空撮写真と一緒に「数年前に取り壊された旧七聯隊衛戍拘禁所跡」という写真が掲載されている。この本は1997年に発行されており、「数年前」といえば、1995年前後であり、住宅地図の変遷と岡田一杜さんの叙述が一致する。

 金沢城公園には、治安維持法下で反戦・反軍活動を展開していた鶴彬の足跡は消し去られているが、金沢城公園を歩いて感じ取って欲しい。






20180122 第25回 志賀原発訴訟口頭弁論

$
0
0
1・22 第25回 志賀原発訴訟口頭弁論

 今回は小法廷(第202号法廷)であり、6人があふれ、そのなかの一人になった。弁護士会館に移動し、大飯原発訴訟結審報告集会のビデオを見ながら待機した。

 30分ほどで、原告団・傍聴者が戻り、報告集会が始まった。
 原告団長は前回の口頭弁論(10/2)から3カ月間を振り返り、「細川・小泉の原発ゼロ法案、立憲民主党のゼロ法案などが国民世論を盛り上げている。司法に期待して裁判に訴えてきたが、政治こそが受け止めるべきである。3年前のパリ協定で、再生可能エネルギーへの転換が加速したが、今年は<低炭素から脱炭素>定着の年だ。この裁判も、提訴から5年半が過ぎ、間もなく6年になろうとしている。息切れの感もあるが、頑張ろう」と訴えた。

 その後、意見陳述した原告からの報告、『日本と原発-4年後』(2/3石川県女性センター)、「柳田邦男講演会」(3/31石川県立看護大学講堂)の案内があり、弁護団が戻って来た。

 弁護団長から、脱原発に舵を切った台湾訪問の報告があり、事務局長から裁判についての解説があった。

 前回口頭弁論で原告側は「即結審」を求めたが、裁判所は規制委員会の「評価書」にある「今後の課題」について北陸電力が何処までおこなったのかを知りたいとして、結審を引き延ばした。この日、北陸電力は、6項の課題のうち5項は終わり、残る1項は1月中に終わるということだった。原告の主張はすでに終わっており、北陸電力の主張も1月中には終わるのだから、次回(3/26)で結審すべきであると責め立てたが、裁判所は、明言を回避した。

 次回(3/26午後2時~金沢地裁)には結審・早期判決を求めて、傍聴席をいっぱいにしよう。

20180127 また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

$
0
0
また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

 昨年8月、小松のTさんが亡くなられました。Tさんは小松市教組三羽ガラスのひとりで、小松・能美地区の革新に力を尽くしていました。わたしが小松基地問題に取り組み始めてから、ときどき訪問してはいろいろ教えていただきました。

 2000年8月、大東亜聖戦大碑が除幕され、県内外から激しい批判の声があがり、「ふたたび戦争を許さない映画と講演の集い南加賀実行委員会」の会議で、Tさんは聖戦をめぐる歴史認識についてレポートし、その時の発言録を再掲し、こころからご冥福をお祈りします。
2018年1月 小松基地問題研究会

==============================
「大東亜聖戦大碑とは」(2001年2月1日)

 私は1932年(昭和7年)の生まれで、小学校に入ったのが1939年(昭和14年)4月でした。戦争と共に生まれ、戦争と一緒に小学校を過ごした、そういう年ごろの者です。新聞などを読んでいますと、一部の人の言葉ですが、「満州事変」とか「支那事変」とかいうように、「事変」という言葉が出てきます。また「大東亜戦争」というように、「戦争」という言葉が出てきます。辞典で調べてみますと、「事変」とは「常ならぬ出来事」と書かれており、変乱、暴動、一揆などをさして言います。

 それなのに、なぜ時の政府は日中戦争について「満州事変」とか「支那事変」という言葉を使って、「戦争」という言葉を使わなかったのでしょうか。その理由は、「事変」のもう一つの使い方である、相手に対して宣戦布告をしない戦争という意味で、「事変」と言っているのです。「満州事変」でも、「支那事変」でも宣戦布告が出されていません。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争では、天皇による宣戦の詔書があります。彼らの言う「事変」と「戦争」の違いはここにあるのです。

 実際には、1937年7月7日に盧溝橋で始まった日中戦争は、どんな歴史書を見ても、「支那事変」とは書かれていません。はっきりと日中戦争と書かれています。日本だけではなく、世界中の常識です。それなのに、日本は「コトが起きたんだ。暴動だ」と、戦争ではなく事変だと当時の国民を欺いてきたのです。(先月にも、アフリカを訪問していた森首相が「支那事変」という言葉を使っていました)

<大東亜共栄圏>
 そして、1941年に、太平洋戦争が始まるのですが、時の政府は国民に対して、太平洋戦争という言葉を使用させず、大東亜戦争と呼ばせていました。その裏には、「大東亜共栄圏」の構想があったからです。政府は中国や東南アジアへの侵略戦争を正当化するために、柳条湖事件でわがものにした「満州国」、中国、仏印、タイ、ビルマ、フィリピン、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなどをまとめて、ひとつの仲よしの平和な世界を作り上げようという大義名分を掲げて、大東亜共栄圏という言葉を使ったのです。

 この時の内閣は第2次近衛内閣で、1940年7月の閣議で、大東亜共栄圏を打ち出した「基本国策要綱」を決め、侵略戦争に深々と入っていきました。

<聖戦>
 大東亜聖戦大碑には、「聖戦」と書かれていますが、本当は征服の「征」でしょう。戦争をしかけ、攻めていくことが「征戦」なのですが、それをわざわざ、「聖」という字に置き換えまして、「正義の戦い」であるかのように強調しました。

 「聖王」「聖代」「聖世」という言葉があります。「聖王」とはすぐれた天子、皇帝を意味します。「聖代」「聖世」とはすぐれた天子の御代という意味です。そのすぐれた天皇が行なう戦争だから「聖戦」と言い、そのための軍隊を「皇軍」と言い、当時の国民が正義の戦争をしていたかのようにマインドコントロールしていたのです。

<おほみいくさ>
 また碑には、「大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり」という詩がが書かれています。「おほみ」という言葉は奈良朝や平安朝の古い時代から使われていて、神様とか天皇とかを特別に尊敬して言う時の接頭語です。漢字では「大御」と書きます。その後に「軍」がつけば、「大御軍(おほみいくさ)」となり、「天皇が行なう戦争」という意味です。天皇の威徳は「大御陵威(おほみいつ)」、天皇が作った歌は「大御歌(おほみうた)」、天皇が食べる食事を「大御食(おほみけ)」と言うなど、天皇の行為を表現する接頭語には、だいたい「大御」がつきます。

<八紘為宇>
 さらに、碑の裏面には、「八紘為宇」と大きく書かれています。日本書紀の神武紀の「掩八紘而為宇(八紘を掩いて宇<いえ>と為す)」が語源です。それは中国の道教の影響を受けている言葉で、日本書紀が作られた奈良時代までに輸入されたものです。当時の歴史資料と言われるものに古事記と日本書紀があります。古事記は表音仮名まじりのものですが、日本書紀に地の文は、何処へ行っても通用する漢文で書かれています。

 「八紘」と「八荒」は同義語で、遠い地の果て、世界の隅々、国の隅々、在所の隅々ということです。天地、八方の隅々ということです。時代によって、「八紘」の範囲は具休的には違ってきます。古代では都を離れた辺境をさしますが、東北地方、北海道などはまだ含まれません。
 「八紘一宇」という標語が使われたのは1940年からで、「満州国」、中国、東南アジアなどを含めて、「八紘」と考えて、「一宇(ひとつの家)」=共栄圏にしていこうということです。一つの家をめざした時、古い言葉ですが『戸主』は誰なのか言うまでもありません。

 この言葉は昔から存在し、例えば松尾芭蕉は『奥の細道』で、「恩択八荒にあふれ四民安堵の栖<すみか>穏やかなり…」と書いています。「日光東照宮のお恵みが在所の隅々にいきわたり、穏やかで、平和なところだな…」という意味でしょう。八紘(八荒)という言葉自休は悪い言葉ではないのですが、それを昭和の軍閥が、大東亜共栄圏を作るための「正義の戦争」だと国民をだますために使ったということです。

<真に悼むには>
 太平洋戦争を記念するために作られた碑に「大東亜聖戦大碑」「八紘為宇」と刻銘した人たちは、同じ年ごろの友人・戦友が234万人も死んだことについて、きちんと哀悼の意を表せないということがあるのではないでしょうか。

 間違った政治で始まった戦争で、友人が、アジアや太平洋で死んでいったという事実をはっきりさせることによって、生き残った者として、本当に友人の死を悼むことになるのではないかと思っています。
(2001年2月1日の会合での発言に一部加筆)

20180204メモ「大東亜共栄圏」思想の流れ(修正)

$
0
0
メモ「大東亜共栄圏」思想の流れ

年初から、どこの新聞も「明治150年」を論じていますが、纐纈厚著『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識』を読みました。


<江戸時代―大陸侵略思想の源流>
・林子平 『三国通覧図説』(1785年)、『海国兵談』(1791年)
 ロシアの脅威への対抗から、朝鮮を領有する必要性を説いた最初の人物。
・本多利明 『西域物語』(1798年)、『経政秘策』(1798年)
 南進論の萌芽
・佐藤信淵 『宇内混同秘策』1823年
 「皇大御国は、大地の最初に成れる国として、世界万国の根本なり」→天皇こそ唯一の支配者であるとする強烈な自民族至上主義→ロシア脅威→中国奪取→東南アジアへ【1920~30年代の軍部・右翼は佐藤信淵の侵略思想を繰り返し借用した】

<明治維新―1868年>
・西郷隆盛 「征韓論」
 朝鮮半島の領有によって、国内における権力関係の調整→国内危機の解除

<自由民権運動―1880年代>
・杉田鶉山(じゅんざん) 『東洋恢復論』1880年、『興亜策』1883年
 専制権力による圧制からアジア人民が解放される為には、連帯を通してアジアの地でも民権論の拡張が不可欠―朝鮮・中国は侵略の対象ではなかった。このころの自由民権論者―明治政府の専制権力打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放を主張。転向→日本の近代化のためには、中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化が緊急の課題。
・大井憲太郎―大阪事件(1885年)
 韓国独立党への支援―人類不偏の課題。出獄後→西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸に覇権を求め、大陸を領有することが日本の進むべき途
・樽井藤吉 『大東合邦論』1893年
 日韓両国の文化的、民族的相違性を超越した共通の自然的・先天的な結びつきが存在しており、…両国の発展のためには、両国が将来的に「合邦」することが最善の途。清国との「合邦」は時期尚早、「合従」。 【この論が日清戦争の前に出ていたことに注目→大東亜共栄圏思想へ】

<日清戦争―1894年>
・内村鑑三 日清戦争は「義戦」。新文明が旧文明を乗り越える行為―侵略思想を内包。
・福沢諭吉「脱亜論」―日清戦争は「文明の義戦」―侵略思想を内包。文明的、思想的問題としてのアジア論―「義戦諭」的戦争観を再生産する思想的根拠→「東亜共同体諭」などを経由して、「大東亜共栄圏思想」へ
・徳富蘇峰
 平民主義―西欧近代合理主義の基盤の上に、西欧的市民社会を形成することによる平等主義の実現を説く。日清戦争後―『大日本膨張論』1894年→日本民族膨張主義礼賛論を展開(『国民の友』1896年)―中国の「衝突」に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない。
・陸羯南(くがかつなん)
 アジアの「平和」は日本を主軸に据えた形でしか成立しないと説き、中国への侵略を正当化した。
・高山樗牛
 「日本主義論」―日本国家共同体へ国民を思想的にも精神的にも強制動員し、国家的価値や国家的利益がすべてに優越するものと主張した。
 →日本文化の伝統や遺産に日本民族の一体感を求めず。→西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家の建設の中に民族としての一体感を求めるべし。

【明治を代表する知識人の日清戦争正当化論】
 形式論―欧米諸列強からの日本防衛、朝鮮・中国の改革。本質的には―諸列強の動向を日本国家総体の危機と想定することで、日清戦争を日本国家膨張の一大契機として、積極的に評価。日清戦争で国民意識の中に「アジアの強国日本」のイメージを定着。

<日露戦争―1905年>
・西園寺公望 施政方針演説(1906年)
 「彼の満州経営・韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所にして、国力の発展は一日も緩うすべかざるなり」(戦後経営論)
・大山巌「1906年度日本帝国陸軍作戦計画策定要領」
 「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領とす」←大陸侵略が日本国家の発展と密接不可分なものとして実践の対象となる。
・田中義一 『随感雑録』1906年
 「我帝国の国是に伴う大方針を詳言するは海外に保護国と租借地を有し、且つ日英同盟の結果従来の如く単に守勢作戦を以て国防の本質とせず、必ず攻勢作戦を以て国防の主眼」「国利国権の伸張は先づ清国に向て企画せらるるものとす」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」。
 【田中義一が主張する大陸国家日本の形成という戦略は、明治初期から中期にかけて言論界で盛んに論じられた大陸侵攻論や膨張主義を積極的に採用した結果である】
・山県有朋 『対清政策所見』1907年
 対中国外交に慎重な態度。「帝国国防方針案」では、「将来我国利国権の伸張は清国に向て企画せらるるを有利とす」
・後藤新平 『日本膨張諭』1916年

<東亜新秩序建設声明 1938年>
・陸軍省新聞班 『国防の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフレット)1934年、「日満一体化論」、「日満支一体化論」
・三木清 『東亜共同体論』1937年ごろ
・宮崎正義 『東亜聯盟論』1938年
 「満州国の建国(1932年)こそ…東洋解放とその新建設たる道義的・文化的意義を有する」
・石原莞爾 『東亜連盟論』
・近衛文麿 「東亜新秩序建設声明」1938年11月→大東亜共栄圏思想(1940年~)―巨大な幻想共同体構想

【コメント】
①アジア論に内在する大陸侵略思想は武断主義的基調を回避して、文明論的文化論的色彩で粉飾され、侵略の企画や実態を隠蔽した。
②政治的経済的動機づけからする侵略思想が日本国家の政治的地位向上の手段として位置づけられてきた。

20180215小松基地第2滑走路について

$
0
0
小松基地第2滑走路建設に反対しよう

 2018年2月14日の『北陸中日新聞』朝刊によれば、県議会で、自民党福村章が小松に第2滑走路建設を要求した。その目的は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を攻撃するための最前線基地建設である。

 福村は、安倍政権による北朝鮮排外主義煽動の尻馬に乗って、ここぞとばかりに北朝鮮を攻撃するための滑走路増設を提案した。石川県知事谷本は「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させなければならない」(2017年6月)と、民族抹殺を煽動しており、両者阿吽の呼吸で戦争体制を作り上げようとしている。

第2滑走路必要論のまやかし
 第2滑走路については、これまでにくり返し提案されてきたが、毎回反対運動で挫折してきた。

 1978年―小松基地司令・川澄貞吉は「民間機と競合するので滑走路がもう1本必要」と発言し、これを受けて、石川県開発部長・高見は「新滑走路は将来計画のなかで検討」(9/16)と答えた。

 1989年―友田勲小松基地司令は着任のあいさつで「千歳のように滑走路を2本にするという発想はあるのではないか」(5/14『北國新聞』)と、滑走路増設を打ち上げた。

 1994年―小松市議会飛行場対策特別委員会で「隣接、海上の2案」(9/17『・・新聞』)が報告された。

 1996年―石川県総務企画委員会で、「石川県は滑走路の増設も検討課題」(12/2『北陸中日新聞』)

 2004年―「カーゴルクス便のため」という理由をこじつけて滑走路のかさ上げと延長に着工した(2006年運用開始)。

 かさ上げ工事のために、仮滑走路を作り、現在(平時)は使用していないが、有事にはいつでも使用できる状態で残されており、自衛隊(小松基地)の悲願は達成されたのである。かさ上げ・延長工事には70億円が費やされ、その3分の1を県民の税金で賄ったのである。

  

 したがって、小松基地にとって、平時の訓練には、新たな滑走路建設は必要なくなり、それ以後、滑走路の増設問題は影を潜めている。すなわち、「北朝鮮有事」の際には民間機の離着陸を制限し、仮滑走路を復活させるという「滑走路2本体制」がすでに出来上がっているからである。

民間機による圧迫は根拠なし
 福村県議は、民間機の離着陸増加が自衛隊の訓練を圧迫しているかのように言っているが、2001年から2009年までの民間機の年平均離着陸数は15074回(41.3回/日)であった。2016年度の離着陸回数は約16000回(『北陸中日新聞』2/14)で、1日平均43.8回であり、急速に増加しているわけではない(6%増)。

 国内線・国際線の時刻表を見ると、最も早い便は7:40(小松発羽田着)であり、最も遅い便は21:00(羽田発小松着)である。この13時間20分(800分)の間に、民航機の離着陸は18.3分に1回程度である。

 しかも、小松市・防衛省(小松基地)間の2002年協定では、「早朝(午前8時以前)及び夜間(午後5時以降)には、離陸及び試運転を中止する」とあり、午前8時以前と午後5時以降に離着陸する民間機(18便=毎日ではない)は自衛隊機の練習を妨げるわけではない。

 したがって、民間機が自衛隊機の通常訓練を圧迫しているという論は成立しない。

「北朝鮮脅威」は幻想
 もうひとつの理由として、「防空識別圏」に進入してくる国籍不明機にたいする緊急発進(スクランブル攻撃)の増加をあげている。

 資料Aも資料Bも航空自衛隊のスクランブルは増加傾向を示しているが、その原因は尖閣諸島(釣魚台)をめぐって、対中国軍機スクランブルが増えており(資料B)、日本がその種をまいているのである。

 他方、小松基地が所属する中部航空方面隊では、2009年(55回)から2014年(102回)にかけて2倍弱しか増加していない。1980年代は小松基地だけで年間200件にも達していたことから見ると、小松基地のスクランブルが増加したから、第2滑走路が必要だという論は成立しない。

 とくに、北朝鮮機にたいするスクランブルは2009から2014年までの6年間で、わずかに17回しかなく、「北朝鮮脅威」は幻想である。





力を合わせて
 以上、自民党石川県連と谷本知事は一体となって北朝鮮侵略戦争のための小松基地強化に乗り出している。くりかえし第2滑走路建設を阻止してき力を結集し、今回の攻撃も、絶対につぶさねばならない。

20180221朝鮮戦争挑発の三沢基地を撤去しよう

$
0
0
朝鮮戦争挑発の三沢基地を撤去しよう

 2月20日、青森県の米軍三沢基地所属のF16戦闘機が離陸直後にエンジン火災を起こし、基地近くにある小川原湖(同県東北町)に燃料タンク2個を投棄した。燃料タンクとみられる物体は、シジミ漁をしていた船から約400メートルの距離に落下。付近では4、5隻が操業していた。

 植民地・日本にたいする理不尽な行為である。2018年1月号の『世界』では、斎藤光政さんが「三沢―攻撃とミサイル防衛の最前線」を掲載し、三沢基地の実態を報告している。

情報戦の最前線基地
 米軍三沢基地には、1985年からF16戦闘機40機が配備された。SEAD(防空網制圧)という対地攻撃のための特殊部隊であり、その槍の穂先は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に向けられている。

 例えば、1994年の米朝危機では、三沢基地のF16戦闘機16機が韓国烏山基地に移動し、北朝鮮の寧辺(5メガワットの核施設)を攻撃しようと待機していた。まさに原爆投下と同様の攻撃態勢に入っていたのである。

 昨年7月には、青森県陸奥湾では日米共同機雷戦・掃海訓練、8月には、三沢基地で米軍特殊部隊による北朝鮮中枢部への攻撃(斬首作戦)を含む、米海兵隊新型輸送機MV22オスプレイとの日米共同演習がおこなわれた。

 青森県津軽半島には空自車力分屯地に米軍Xバンドレーダー(最前線の目)があり、朝鮮半島のデータを統合戦術地上ステーション(JTAGS)のコンピューターシステム(最前線の頭脳)に送られる。また下北半島の釜臥山には空自警戒レーダー(FPSS)が配備され、青森県では日米一体の情報作戦を展開している。

対北朝鮮実戦訓練
 昨年9月9日には、米軍B1B戦略爆撃機ランサーが、グアム(アンダーセン基地)を出発し、東中国海で空自F15と模擬空戦を展開し、朝鮮半島を経由して三沢基地に飛来した。(7月7日にも、B1Bがグアムから朝鮮半島で空対地攻撃訓練をおこない、8月下旬にはB52が日本海上空で空自戦闘機と共同訓練をおこなった)

 10月中旬、奥尻島では、陸自対空ミサイルで守られたレーダーサイトを米軍三沢基地のF16戦闘機とEA18電子戦攻撃機が襲撃するというシナリオの日米共同演習(アイアンスピアー=鉄の槍)がおこなわれたが、これは北朝鮮にたいする摸擬演習であろう。

 三沢空自基地には、2017年度にはF35ステルス戦闘機、2019年度には大型無人偵察機(RQ4グローバルホーク)の配備が予定され、世界最高レベルの情報収集基地になろうとしている。

 朝鮮戦争挑発の基地、沖縄と三沢から基地を撤去しよう。

20180222 皇太子記者会見

$
0
0
2/22 皇太子記者会見

 2月22日、皇太子が次期天皇の「決意」として、「時代に即した新しい公務」を語った。「時代」とは「戦争の時代」であり、その時代に即した「新しい公務」とは「神格天皇」であり、「戦争の旗振り」である。
 天皇制にたいする強烈な批判が待たれる。鶴彬の弟子、川柳人こそがその任であろう。

人民の 「総意」無視して 次期天皇
次期天皇 めざすところは 安倍・明治
「象徴」を 蹴っ飛ばして 元首なり
戦争の 時代に即した 新公務
軍服を 着たいとねだる 次期天皇
会見で 語る「決意」に ヤマザキ(※)となれ

※『ヤマザキ!天皇を撃て』(奥崎 謙三)


構成詩 「多喜二よ」  林正夫

$
0
0
構成詩 「多喜二よ」  林正夫

 構成詩「多喜二よ」は1984年12月9日の「反戦反核北陸実行委員会」主催の集会で発表された。33年前である。中曽根康弘による国鉄分割・民営化、総評解体など、さまざまな攻撃が吹き荒れており、いま、安倍晋三のもとで共謀罪が新設され、改憲や対北朝鮮戦争挑発など、ふたたび小林多喜二や鶴彬を語らねばならない時代を迎えている。林さんの指導で、朗読した富山大学生たちも、50歳代半ばになっていることだろう。

井之川巨
 小林多喜二
 1933年2月20日
 東京築地所で拷問のため殺される
 その首に細い痕があった
 折られた人差し指があった
 皮下出血の斑点があった
 錐でもまれた穴があった
 足が丸太のようにふくれていた
 その屍は全身で
 警察の拷問を告発していた
 治安維持法を弾劾していた

八代東村
 逮捕?
 急死?
 急死!
 急死 ‼
 急死 ⁈
 ああ、それが何を意味するかいうまでもない
 格闘したから
 道へ倒れたから
 捕縄をかけたから
 それで4時間後の「心臓麻痺」がどうして起こったのだ。
 屍体の解剖まで拒絶され
 病院という病院から
 みな拒絶され
 告別式の参列者まで総検束
 ほんの一読者だった花束を持って来た女性さえ     

水原正康
 多喜二よ。あなたが殺されてから、戦争の足音はだれにも遠慮しなくなったのです。
 軍部の記事の そのたびにのる 陸軍大臣の写真 けさも一面を 占めて笑らえる

松坂二郎
 会場に 佩剣ならし おくれ来て 国防を説く 声大きかり        

坪田孟
 工名変わり 転じてゆきし 工場に 機密保持宣誓書を また書きにけり
 重々と 方向変うる 戦艦のごとくに この財閥は 転向をしぬ         

岡和一
 出征兵が 午前1時に 通るゆえ 見送りせよと ふれて来にけり        

嶋野孝
 令状を 受くるかたえに ははそはの 寄り添いて ただにものをのらさぬ    

中田清次
 兵隊と みれば万歳を 浴せかけ この群集は 狂えるに似つ          

木俣修
 それでも戦争とたたかう人々はいました。
 追われいる 身ぞといいつつ 夕闇に 消えゆきし日より 会うこともなし    

中島栄一
 照れる日の 町並みのもと うつつなし 理由なく 警察に拘引されぬ

出口直日
 特攻に 連れられてゆく 街中に 会いし幼が 母よと呼びぬ 

新島㐂重
 「その通りだ」 たまりかねて 振り上げた男の手 手には指が 三本しかない

大熊信行
 見えぬものまで みなくつがえり 下敷きと なりおりしもの 立ちあがりくる
 眼をあきて おのれの力 覚りしもの こぶしをかため 起きあがりくる

正田篠村
 広島
 天上で 悪鬼どもが 毒槽を くつがえせしか 黒き雨降る
 石炭に あらず黒焦げの 人間なり うづとつみあげ トラック過ぎぬ
 子と母か 繋ぐ手の指 離れざる 二つの屍骸 水槽より出ず

深川宗俊
 長崎  
 天を抱くが ごとく両手 さしのべし 死体の中に まだ生けるあり

豊田情史
 アー水ヲクレマセンカ 咽 ノド 痛イー 夜ガ明ケンノー

河上肇
 あなうれし とにもかくにも 生きのびて 戦やめる けふの日にあふ       

内田穣吉
 ことごとく われらだまされ この日まで ひきずらかしと いきどおりいう

鹿児島寿蔵
 炎天の 焦土に声なし 一切の ことやみたりと われ声をのむ

林正夫
 多喜二よ、
 あなたを殺して戦争をはじめた権力はついに敗れた。
 若い日々、ぼくらは多喜二を兄として、その志を継ぎたいと思った。
 戦後、たたかいのなかで、たくさんの仲間が拘禁されたが、
 さらに多くの仲間が警察を包囲し、
 鉄格子のなかから仲間を奪いかえした。
 警察に赤旗をたてた。
 しかしそれは束の間の解放でしかなかった。

 多喜二よ、
 あなたが殺されてからほぼ半世紀、
 あなたを殺した特高警察は、
 いったん影をひそめたかに見えたが、
 いままた近代警察の装いの下から、
 そっくり葬ろうとしている。
 治安維持法は破防法となり、
 監獄法は改悪されつつあり、
 警察拘禁施設法があらたに上程されようとしている。
 ぼくらが口笛ふきふき街をゆくと、
 突如、不審尋問される。
 あるいは別件逮捕される。
 身に覚えがあろうとなかろうと、
 ぼくらはその日から窃盗犯人だ。
 ときには殺人犯人。
 ときには爆弾犯人にされる。
 新聞が書き、テレビがそう放送する。
 そうなれば間違いなく、
 きみやぼくはもう立派な犯罪者だ。
 警察は犯罪者をなくすところではない。
 犯罪者を製造するところだ。
 彼らはすべて人民を、
 まだ犯罪を犯していない犯罪者とみなす。
 彼らが手にする法律は、
 鉄格子のなかの人たちを狙い撃つだけではない。
 きみやぼくにいつ仕掛けられるか知れない。
 研ぎすまされたワナなのだ。
 破防法。
 監獄法。
 警察拘禁施設。
 これらの悪法は、
 踏みくだいて葬らねばならない。
 小林多喜二が流した無念の血と涙を、
 いまふたたび流させてはならない。

『反戦反核北陸』(第9号1985年1月1日)

20180301 小松基地爆音訴訟傍聴報告

$
0
0
3・1小松基地爆音訴訟傍聴報告

危険への接近
 今日は4人の原告にたいする被告国からの主尋問である。国は「危険への接近」を理由にして原告の訴えを帳消しにするための訊問であった。

 4人にたいして、転居歴と転居の理由を確認し、騒音地域への転居をなじり、「小松基地はその前にあったから、騒音被害を受けるのを我慢せよ」という主張である。おい、おい! 転倒してはいないか。これまでに、音源対策をせよとくり返し判決されているにも拘わらず、みずからは何もせず、騒音をまき散らしつづけていながら、近くに転居してきたやつが悪いなどと言うのは、居直り強盗のような主張ではないか。

やむを得ない理由
 4人には、それぞれやむを得ない理由があって、現住地に居住するようになったのだ。ある人は職場に近い地域を選択する必要があったし、ある人は子育て(教育)や老親の介護のために騒音地域を選択しなければならなかったし、ある人は工場(住居)の立地条件に適した場所が騒音地域にしか見つからなかったし、ある人は非騒音地域より安い土地を求めて、騒音地域を選択しなければならなかったのだ。

 4人はさまざまな困難を斟酌して、騒音地域に住居を構えたのであり、国の基地騒音対策の不十分さを棚に上げて、「あとからやって来たやつはでて行け」と言わんばかりの不遜な態度に終始したのである。

例えば、土地問題
 ここに、2011年に調査した騒音地域と非騒音地域の地価調査(1983~2011)結果を見てほしい(ブログ『アジアと小松』2011年9月24日「小松市住宅地地価調査結果の分析」)。

 1983年を基点にして、その後の最高値の伸び率を計算すると、80コンター(安宅町、浜田町、天神町)は15.8%増、75コンター(寺町、小寺町、旭町)は25.5%増、非騒音地域(沖町、大領町、四丁町、西軽海町)は36.2%増だった。

 80コンター、75コンターは1990年代初めに土地バブルははじけて下落しはじめるが、非騒音地域は1990年代後半まで値上がりが続いたのである。にもかかわらず、騒音地域に住居をかまえざるを得なかった住民を非難するなど、筋違いである。

20180309金沢市家庭系ごみ有料化が始まって1カ月

$
0
0
金沢市家庭系ごみ有料化が始まって1カ月


<見出し画像は可燃ごみ2015~2018年の1月分(上)と2月分(下)の推移(単位:トン)>

2015年1月分→2016年1月分=+4.6%
2016年1月分→2017年1月分=△8.1%
2017年1月分→2018年1月分=△1.3%
 可燃ごみの2018年1月分は前年(2017年)1月よりも減少しており、有料化直前の駆け込みゴミ出しはほとんどなかった。

2015年2月分→2016年2月分=△4.3%
2016年2月分→2017年2月分=△0.8%
2017年2月分→2018年2月分=△1.9%
 この3年間は一貫して可燃ごみは減少し続けており、2018年2月もその延長線上にある。2018年2月に有料化したからといって、金沢市が期待していた「14%減」には遠く及ばなかった。

効果なしの詐欺商法か?
 すなわち金沢市は「有料化=14%削減」といっていたが、大ウソであり、実際は前年度比1.9%減でしかなかった。しかも2015年2月分から2016年2月分では、4.3%も減少しているのに、2018年2月分の前年度比はそれにさえ到達していないのだ。
 このことは何を意味するのか? 金沢市民は有料化という恫喝的方針によらなくてもごみの減量に努力してきたのであり、有料化されたからといって、急に少なくするほどの「無駄な」ごみを持ち合わせていなかったのだ。
 「ごみ有料化=ごみ減量」を主張してきた学者たちの浅はかな学識はくつがえされた。その浅はかな学識を根拠にして有料化を進めてきた金沢市は、その非を認め有料化を撤回すべきである。撤回しないとすれば、それは詐欺に当たる。

市民の自己防衛策
 ごみ有料化後、ある市民はやむなくごみ袋を購入しているが、重さには制限はないから、ぎゅうぎゅうに詰め込んで出している。これまでは週2回ある収集日に毎回1袋づつ出してきたが、有料化後はゴミ出しは週1回にしてしまった。これまでは1袋に1㎏ほど入れて出していたのだが、2月以降は5リッター袋に2~3㎏以上は入れている。そう、量(重さ)は減らないが、袋の数を減らして、無駄な出費を抑えているのだ。

訂正と謝罪

$
0
0
訂正と謝罪

 先に、2018年2月分の<東西環境センター焼却量=家庭系+事業系>は6703.70トンで、前年同月(6835.26トン)比1.9%減と報告しましたが、調査不足のために誤りを犯しました。ここに、訂正し謝罪します。

 誤りの原因は、金沢市HP「環境エネルギー維持管理状況」の<東西環境センター焼却量>に基づいて計算したことに因ります。

 3月12日、金沢市議会で山野市長が「2017年2月の燃やすごみは5411トンで、1300トン減少し、2018年2月の燃やすゴミの排出量は前年同月比24.3%減の4094トン、埋め立てごみは41.4%減の106トン」(「北國新聞」「北陸中日新聞」より)と発表し、1.9%減と24.3%減の齟齬はどこから来るのかについて、手許にある資料を再調査しました。

 その結果、HP上の数値は「焼却量」であり、「搬入量」ではないことが原因であることがわかりました。2017年2月の東西センターの焼却量は6835.26トンであり、搬入量は9544.09トンで、焼却量:搬入量=1:1.4の違いがありました(下記資料)。

 すなわち、HP「環境エネルギー維持管理状況」の<東西環境センター焼却量>から前年度比を導き出したことが誤りでした。

 もちろん、金沢市HPでは、焼却量を一般に公表していますが、搬入量を公開していません。情報公開請求で入手した「2016年度維持管理状況」から各月の<搬入量÷焼却量>を比較すると、2月分以外は<-15~+19>の間にあり、2月だけが飛び抜けて<+40>でした。12カ月分の搬入量(148810トン):焼却量(153526トン)=100:97で、ほぼ同量です。

 したがって、2月の搬入量と焼却量の違いは特異なケースであり、この特異性を無視して焼却量の数値に基づいて計算したことが誤りをもたらしました。

 とはいえ、誤りは誤りであり、間違った情報を皆さんに報告したことの責任は痛感しています。今後とも、資料調査を厳密におこない、誤り無きよう努力いたしますので、よろしくお願いします。

3月14日
小松基地問題研究会

  




20180319 川柳 金沢観光を嗤う

$
0
0
20180319 川柳 金沢観光を嗤う

中身なく 表紙だけの 歴史遺産

東茶屋 売られし女(ひと)の 涙見る

一揆衆 みんな殺して 金沢城

農民を 搾った富だ 百万石

前田家を 守るためなり 忍者寺

20180321 検証―尹奉吉義士最後の夜 in 金沢

$
0
0
検証―尹奉吉義士最後の夜 in 金沢    2018年3月

(1)はじめに(略)
(2)第九師団拘禁所設置のいきさつ
(3)収監場所の記述について確認
(4)処刑前夜の拘禁場所特定(A金沢刑務所、B法務部、C衛戍拘禁所、D営倉)
(5)現在はどうなっているのか?
(6)尹奉吉の意志を継承するために(略)



注1:『石川歴史博物館保存工事報告書』中の「1941年金沢城内地図」に13地点を記入した。①金沢衛戍拘禁所(動物実験室、公衆トイレ)、②第九師団司令部・法務部、③第九師団軍法会議(法廷)、④旧衛戍拘務所(玉泉院丸跡、厩)、⑤憲兵隊本部、⑥金沢監獄拘置監、⑦警倉(営倉)、⑧極楽橋、⑨三十間長屋、⑩石川門、⑪甚右衛門坂、⑫尾山神社、⑬いもり堀。
注2:「記述」「資料」の出典は最後に掲載した。原資料(「記述」)の漢数字はアラビア数字に変えた。

(2)第九師団拘禁所設置のいきさつ
 処刑前夜の尹奉吉が拘禁された場所について、具体的検討に入る前に、金沢城内の拘禁施設がどのような経過をたどって設置されたのかについて確認しておきたい。

 1881年「陸軍刑法」、1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」が制定され、それにもとづいて、衛戍監獄が設置された。1908年「陸軍監獄令」が出され、軍事刑務所運用の基本規定となった。1922年からは「陸軍衛戍監獄」は「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれた。

 1875年、旧金沢城内に陸軍歩兵第七聯隊、1898年に第九師団が設置された。『金沢市史通史3』によれば、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」(162ページ)したが、どこに作られたかについては明記されていない。「1905年金沢市街図」には、玉泉院丸跡(1941年城内地図④地点)に「衛戍拘務所」と記載されているので、この地に設置されたと思われる。

 また、『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、「大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、「大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載され、衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用されたようだ。

 工事報告書④地点には、「厩」と記載された建物があり、衛戍監獄(衛戍拘務所)が玉泉院丸跡に設置されていたことが裏付けられる。

 「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日(国会図書館デジタルコレクション)」には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸跡から第九師団司令部構内(金沢城中心部)に移転した。『土地履歴表(昭和11(1936)年11月18日)』(石川歴史博物館資料)には、「金沢衛戍拘禁所 大正12(1923)年3月31日、金沢旧城郭口座より分割、150坪、5250円」と記録されており、1923年に衛戍拘禁所が新たに建てられた。

 すなわち、1932年頃の第九師団の拘禁所は第九師団司令部構内に設置され、「金沢衛戍拘禁所」と呼ばれた。

(3)尹奉吉収監場所の記述
 尹奉吉が拘禁された場所について、1932年当時の公文書、新聞報道に記録されている内容を摘記する。
 記述1:「折柄拘禁所は修善中なりしをもって、法務部に拘禁して徹宵厳重なる警戒」「一路第九師団法務部に午後6時頃入った」(『北國新聞』12/20)
 記述2:「金沢刑務所に収容」(『北陸毎日新聞』12/20)
 記述3:「18日午後5時…同囚人当拘禁所ニ到着収禁ス」(12/21九師団密20号)
 記述4:「午後5時5分金沢衛戍拘禁所ニ収容セリ」「12月29日午前6時30分金沢衛戍拘禁所ヲ出発」「金沢衛戍拘禁所ニ…押送」(12/22金憲高秘522号)
 記述5:「午後5時5分金沢衛戍拘禁所ニ収容セリ」「12月29日午前6時30分金沢衛戍拘禁所ヲ出発」「金沢衛戍拘禁所ニ至ル間…押送」(12/26憲高秘1820号)

 以上によれば、尹奉吉が処刑前夜に収監された場所は「法務部」「金沢刑務所」「衛戍拘禁所」のいずれかということになる。以下、「衛戍拘禁所」「法務部」「金沢刑務所」がどこにあり、尹奉吉がどこに拘禁されたのかについて精査する。

(4)処刑前夜の拘禁場所特定のための考察
A 金沢刑務所
 金沢刑務所は1868年、旧藩政時代の公事場付設牢屋を廃止し、刑法寮(現兼六元町、工事報告書⑥地点)を設置したことに始まる。1881年金沢監獄署と改称し、1886年金沢監獄と改称した。1890年石川県監獄署と改称し、1895年小立野に新築起工し、1903年司法省の直轄となり、金沢監獄と改称した。1907年小立野に新築移転し、1922年金沢刑務所と改称し、1970年まで使われていたが、建物の老朽化により田上町に新築移転した。

 1932年に『北陸毎日新聞』(12/20)が言う金沢刑務所とは、1907年から1970年まで使われていた刑務所であり、金沢城から数キロ離れた小立野にあった。しかも、司法省直轄の施設であり、第九師団管轄外であり、尹奉吉を収監した場所の候補から除外すべきである。

  
 
B 法務部
 『北國新聞』の「法務部」(工事報告書②地点)について考察する。「第九師団司令部庁舎」の平面図を見ると、1階に「法務部事務室」はあるが、「重罪犯人」を拘禁するような気密性の高い部屋は見あたらない。また、司令部庁舎の別棟には、軍法会議(工事報告書③地点)があるが、ここも気密性には問題がある。

 「衛戍拘禁所が修繕中」という理由で、法務部に拘禁したというが、11月25日には、第九師団の根本荘太郎法務部長が大阪に出張し(12/4『北国新聞』)、尹奉吉の処刑を金沢でおこなうための打合せをおこなっている。12月18日になって、「衛戍拘禁所が修善中」というのは極めて不自然である。

 乱暴な推測を敢えてすれば、尹奉吉に猿轡をはめ、後ろ手錠をかけ、法務部事務室の一角に転がしておくことも考えられるが、処刑前に、「軍医ヲシテ健康診断ヲ行ワシメ犯人ノ心身共ニ異常ナキヲ確カメ」(12/19『死刑執行始末書』)と報告しているように、処刑までの健康維持は九師団法務部の義務であり、真冬の床に転がしておいて、処刑前に死に至らしめてはならないのである。また、百歩譲って、衛戍拘禁所が修善中ならば、1階ではなく、2階の一室を使用する方がベターだろうが、そこには獣医部や庶務部の部屋はあるが、法務部関係の部屋はない。

  

C 衛戍拘禁所
 すでに、諸資料で、衛戍拘務所が1923年に第九師団構内に移転したことを確認した。では、第九師団構内のどこなのかについて検証しよう。「(口座12)衛戍拘禁所」(石川歴博資料)、「(口座24)金沢旧城郭」(石川歴博資料)、「(口座3)歩兵第107聯隊」(石川歴博資料)の図面から、衛戍拘禁所は工事報告書①地点に所在していたことが確認出来る。

 「1924年金沢城内の空中写真」、「米軍1946年空中写真」、「1948年北陸大学設置認可申請書付図」などにも、工事報告書①地点に衛戍拘禁所の姿を確認出来る。すなわち、極楽橋東方約45メートルにある建物が衛戍拘禁所であったと断定できる。



 今回の石川歴博の資料調査で発見された「(口座12)金沢衛戍拘禁所」には「金沢衛戍拘禁所、面積150坪(約500㎡)」と記載され、「コンクリート塀の上部に板塀高17尺、長7間を増設」され、高い囲障に囲まれている。青焼きの「衛戍拘禁所平面図」(石川歴博資料)には、拘禁所の建坪が18坪(60㎡)であり、4つの監房と監視室があり、尹奉吉が板張りの拘禁所で、軍用毛布にくるまって酷寒の金沢の一夜を過ごしたことを彷彿とさせる。

D 営倉(警倉)
 原資料には記述されていないが、1990年代以降のレポートには、拘禁場所として、「営倉」が散見される。工事報告書⑦地点には「営倉」と書かれている建物はあるが、「(口座3号)歩兵第107聯隊」(石川歴博資料)では、同所には「警倉」と書かれており、軽微な命令違反をした兵士にたいする懲罰用監房であり、衛戍拘禁所とは性格がまったく違うので、除外する。

E 結論
 以上、金沢刑務所、法務部、衛戍拘禁所、営倉の4カ所について検討してきたが、金沢刑務所と営倉は疑問の余地なく対象から除外出来るが、法務部と衛戍拘禁所のいずれかが残されている。

 法務部については、何点かの不自然性を指摘したが、重ねて言えば、尹奉吉の金沢移送から処刑・埋葬まで、在日朝鮮人を欺き、撹乱するためにフェイクニュースを流してきたことを勘案すると、『北國新聞』に、意図的に流した情報とも考えることができる。
 したがって、現時点(2018年3月)でのわたしの結論は、尹奉吉最後の夜は衛戍拘禁所であるが、諸氏の検討をお願いしたい。

(5)現在はどうなっているのか?
 1985年の金沢住宅地図には、元金沢衛戍拘禁所に「法文学部心理学研究室 動物実験室」と記載されており、この頃まで衛戍拘禁所の建物が存在したようだが、「金沢大学城内キャンパス現況図(1992年測図)」では空白になっている。

  

 『川柳人鬼才鶴彬の生涯』には、1924年空撮写真と一緒に写真「数年前に取り壊された旧七聯隊衛戍拘禁所跡」が掲載されている。この本は1997年に発行されており、「数年前」といえば、1995年前後であり、住宅地図の変遷と岡田一杜さんの叙述が一致する。

 その後、「2002年金沢城内地図」、「2006年空撮写真」には、元衛戍拘禁所(動物実験室)の跡地に、公衆トイレを見ることができる。

 叙上のとおり1932年12月18日の尹奉吉は、現在は「公衆トイレ」になっている位置にあった衛戍拘禁所で最後の夜を過ごした。衛戍拘禁所の平面図の監視室内には「炉」と記載されているが、いろりのようで、監房にまで暖は伝わらないであろう。数日前から雪が降る極寒の金沢で、「板張り」の床の上で、軍用毛布にくるまって、眠れない一夜を過ごしたのであろうか。

20180326 志賀原発訴訟 第26回口頭弁論報告

$
0
0
20180326 志賀原発訴訟 第26回口頭弁論報告

 裁判長はうつろな目つきで、「次回期日は追って……」と起ち上がるや、傍聴席からは「引っ込め!」とヤジが飛んだ。法廷で何が起きていたのか?

 傍聴席はほぼ満席である。法廷内には被告北陸電力は20人が着席し、傍聴席の後部には「社員バッジ」を外した北電社員が10人ほど座り、ノートを開いてメモに専念している。神頼みか、裁判長頼みか、これまでにない力の入れようである。

 裁判長は今後の方針について話した。活断層について、原子力規制委員会の今後の判断を重視する、結審・判決の機は熟していない、したがって規制委員会による活断層の判断を待って裁判所が判断する、というものだ。

 これじゃ、裁判所なんかいらんじゃないか。規制委員会(行政=国)が決めたことを裁判所がオウム返しに判決するだけじゃないか。三権分立はどこ行ったんだ。規制委員会が結論を出すまでは法廷は開かないってことか。その間に裁判長が異動するんじゃないか、そしたら裁判長の責任放棄じゃないか。おお、何ともおぞましい、ヒラメ裁判官の姿を目の当たりにしたのである。

 原告側から休憩を要求し、法廷は傍聴者を残して、空っぽになった。休憩時間を利用して、原告から幾つかの説明があった。

 裁判が再開され、原告側から裁判所に釈明を求めた。規制委員会の決定はいつになるのか? ―わからない。それまで待つのか? ―待つのは相当。2012年提訴から6年が過ぎ、裁判を受ける権利の侵害だ。次々と立って、翻意を促したが、裁判長はかたくなだった。

 最後に、弁護団長が立って、裁判官3人の忌避を申し立てた。前の裁判長は規制委員会の判断を待つつもりはないと言っていたが、180度変わった。これは行政訴訟ではなく民事訴訟としての判断をすべきである。何時まで待つのかと聞いても、わからないといい、これは迅速な裁判を受ける権利の侵害だ。

 傍聴席から、鳴り止まない拍手と激励を受けて、弁護団長が着席するや、裁判長は冒頭の様子を呈していたのだ。正義よりも出世を選んだ瞬間だった。

 法廷から金沢弁護士会館に移り、記者会見と報告集会がおこなわれた。

 弁護団長から、幾つかのパターンを想定していたが、最も単純明快な方針で、あきれてしまった。前の裁判長は規制委員会の結論を待つつもりはないと明言していたが、今の裁判長は正反対で、何時までも待つというのだ。これでは裁判をやる意味はない、と裁判所を批判した。

 弁護団事務局長からは、裁判所は行政判断を待つと言う。1~2年後に判断が出ても、それから裁判所が判断するということであり、判決を出す気はない。裁判所の役割を放棄している。

3/20大飯行動
 3月20日、名古屋高裁金沢支部正門前で、公正な裁判を求める行動に参加した。寒くて、凍える日だったが20人近くが集まり、ボードを掲げて訴えた。兼六園の近くであり、外国人観光客が多数行き交い、何人もの外国人が連帯の合図を送ってくれた。

20180407庄田望著『白蓮華』(2017年)について

$
0
0
庄田望著『白蓮華』(2017年)について

 昨年、新聞に『白蓮華』の紹介記事が載りました。石川県内で最初に献体した竹川リンを切り口に、加賀藩から明治にかけての被差別身分の実態がテーマです。「藤内」医者長太郎(架空の人物)と竹川リン、村医者松江安見がキーパーソンです。著者は同和教育という立場からこのテーマに接近しています。いくつか感想を書きます。(注:「藤内」とは加賀藩独自の被差別身分でした)

 著者は被差別部落(民)の社会的役割を強調して、部落民と一般民の平等性を描いているのですが、一般民も部落民も労働することによってその生活の糧を得ているのであり、部落民が社会的役割を果たしているか、いないかが問題なのではなく、理不尽な身分差別を受けていたということが問題だと思います。しかも、「藤内」医者を主人公にすることによって、一般民による部落民にたいする差別的対応がソフトに描かれているようです。

 島田清次郎は加賀藩の時代から明治にかけての被差別部落を非常に暗いタッチで、おどろおどろしく描いていますが、その表現が部落差別を再生産する側面があるとしても、一般民から見た被差別部落の暗く、厳しい実態に光をあてていると思いましたが、庄田さんが描く被差別部落には、島田清次郎ほどの暗さも厳しさも表現されておらず、一般民の理解が進み、受け入れられていったかのように描かれています。

 著者が母親を治療した「藤内」医者を調査したが、ついにその足跡を明らかにすることができなかったと述べていることからも、一般民に受け入れられず、記録(記憶)されることもなく、むしろ排除され、その地に暮らすことができず、移転を余儀なくされたことを暗示しているのではないでしょうか。

 この物語は江戸末期から竹川リンがなくなる1984年までを扱っていますが、四民平等の論拠として、1872年に発行された『学問のすすめ』(福沢諭吉著)がくりかえしでてきます。その冒頭に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と書いていますが、「いへり」とは「いわれている」という意味であり、福沢自身の信念から出た言葉ではないことを確認しておく必要があると思います。

 同著には、「凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。(…中略…)かかる愚民を支配するには、迚も道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。」と、非常に差別的感性が満ちているではありませんか。

 また、1984年には日清戦争が始まり、福沢諭吉は「時事新報」(1894.7.29)の社説で、「日清の戦争は文野(文明と野蛮)の戦争なり」と書き、日清戦争を「文明の義戦」と主張して、膨張主義や侵略思想を正当化しています。意地悪く言ってしまえば、2017年に発行された『白蓮華』は徳川幕藩体制から明治時代への転換期を「開明的」として強調することによって、「明治150年」美化キャンペーンの一翼を担うことになるのではないでしょうか? 非常に残念です。

 些細なことですが、全編を通じて「南無阿弥陀仏」の称名が繰り返され、真宗王国石川の実態とはいえ、現世でのあきらめと死後への期待を説く真宗(宗教)の果たした役割についても、もう少し距離をおいた書き方がなかったのだろうかと思いました。

 とはいえ、幕末から明治初期にかけての石川県内の被差別部落(民)のおかれた社会的状況とその変化の兆しを、歴史資料を読むように、わたしたちに伝えて下さった庄田さんに感謝します。また、表紙写真が前後和雄さんの撮影であると付記されており、懐かしい人にも再会出来ました。

20180415大相撲「女性=不浄」セクハラ事件

$
0
0
大相撲「女性=不浄」セクハラ事件

大相撲 女性差別の 神事なり
「不浄」から 生まれた力士も 「不浄」では
関取は 「不浄」とは寝ず 童貞集団か
看護師(婦)の 世話にならない 相撲取り
相撲協会 こちこち頭は はやく去れ
塩まいて 清まるものなら 安倍にまけ 
Viewing all 912 articles
Browse latest View live