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20180419 川柳 1975年金沢刑務所

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川柳 1975年金沢刑務所

薄暗き アクリル板越し 母の皺
囚われて いつでも会えると 目に涙
泣く母や 耳をふさいで 非転向
哲学書 かかえて面会 セーラー服
釈放の われ乗せて兄 尾行切る
 

20180420 大飯原発訴訟審理再開要請行動

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4・20大飯原発訴訟審理再開要請行動

 4月20日正午過ぎから、名古屋高裁金沢支部門前で審理再開を要求するスタンディングがおこなわれた。晴れ渡った日差しのもとで、ボードを掲げ、マイクを握り、参加者それぞれの思いを、街ゆく人々に訴えた。

 スタンディングに先立って、原告団と弁護団は弁論再開の申し立てをおこない、弁護士会館に移り、大飯原発訴訟の争点についての学習会がおこなわれた。

 ひとつは火山灰問題である。鳥取県の大山噴火による火山灰の影響について、関西電力は10センチに過ぎないと過小評価している。

 3月の原子力規制庁の定例会合で、過去の大山噴火によって、京都府越畑地区(大山から約190キロ)には26センチの降灰層があり、ほぼ同距離の大飯原発でも同程度の降灰の可能性があるとの見解を示した。他の委員からはこの見解に異論が出なかった。

 もうひとつは震源から地表(大飯原発)までの地層のなかに、不整形層や褶曲構造があれば、基準地震動が増幅する場合がある(2007年新潟中越沖地震)。しかし、関西電力は十分な調査をおこなわないで、安全だと主張している。

 関電は火山噴火・降灰による被害を過小評価しており、地層調査も不十分であり、裁判所は審理を再開すべきである。

20180407 韓国ろうそくデモから何を学ぶのか

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韓国ろうそくデモから何を学ぶのか

【1】はじめに
 2016-17韓国ろうそくデモについて、2008ろうそくデモと比較して、平和デモだったから勝利したなどという言説がまかり通っているようですが、表面的な見解ではないでしょうか。下記の韓国近代史略年表を見ながら、ふたつのろうそくデモを考えていきたい。
参考文献は『ろうそくデモを越えて』(2009年)、『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』(2017年)、『レイバーネットニュース』(2016年9月~)など。

<略史>
1960年―学生革命(李承晩打倒)
1963年―朴正煕大統領(12月就任)
1965年―日韓条約締結
1979年―朴正煕射殺事件(背景には全国的デモ)
1980年―全斗煥大統領(9月就任)
1987年―「6月抗争」(大統領直接選挙実現)
1987年―盧泰愚大統領(1988年2月就任)
1988年―ソウルオリンピック・パラリンピック
1989年―文益煥、林秀卿訪北
1991年―「5月闘争」
1992年―金永三大統領(1993年2月就任)
1994年―参与連帯結成(朴元淳現ソウル市長)
1995年―民主労総結成(→1999年合法化)
1997年―金大中大統領(1998年2月就任)
1997年~IMF管理下
2002年―ろうそくデモ(米軍装甲車女子中学生轢殺事件)
2002年―盧武鉉大統領(2003年2月就任)
2003年~平沢米軍基地拡張反対闘争(~2007)
2004年―ろうそくデモ(盧武鉉弾劾裁判反対)
2007年―李明博大統領(2008年2月就任)
2007年―アメリカの住宅バブル崩壊
2008年―ろうそくデモ(BSE輸入5~6月)
2008年―リーマンショック(10月)
2009年―双竜自動車3000人規模の整理解雇(大漢門テント)
2012年―朴槿恵大統領(2013年2月就任)
2014年―セウォル号転覆・沈没(4月)
2015年―ペクナムギさん高圧放水銃で撃たれ意識不明(11/14)→2016年9月死亡
2015年―民主労総委員長に騒擾罪適用(11/14闘争)→1986年(全斗煥)以来29年ぶり
2016年―ろうそくデモ(10/29~朴槿恵辞任)
2017年―文在寅大統領(2017年5月就任)
2018年―ピョンチャン冬季オリンピック

【2】2008年ろうそくデモについて
<1> 2008年ろうそくデモの前史
 文京洙さんによれば、1980年光州蜂起がおおきな転機となり、①反共→容共(マルクス主義)、②反米・自主化(NL派)、③主体思想の台頭を指標に挙げています。1980年代後半から「運動圏」という急進的社会運動がおこり、「87年体制」への転換の原動力となりました。NL派(national liberation=反米自主化、学生・青年)とPD派(people's democracy=マルクス主義)の論争・対立がありました。

 1987年「6月抗争」とは、大統領の直接選挙制改憲を中心とした民主化運動のことです。1987年6月10日から「6・29宣言」が発表されるまでの20日間にわたって繰り広げられました。この民主抗争の結果、大統領直接選挙実現などを約束する「6・29宣言」を全斗煥政権から引き出すことに成功しました。軍事独裁崩壊~民主主義の時代への転換点です。

 1987年大統領選挙では金泳三と金大中が分裂し、盧泰愚(最後の軍人出身)がわずか30数%の支持で当選しました。光州蜂起の聴聞会が開かれ、新軍部政権期の不正や人権弾圧が曝露され、追いつめられた盧泰愚は「運動圏」や労働運動への弾圧で封じ込めをはかりました(「公安政局」という)。

 1990年、公安政局に加えて民主自由党(民主正義党+統一民主党+新民主共和党)が結成され、人権弾圧が多発し、「1991年5月闘争」がたたかわれました。

 徐仲錫(現代史)さんは「1991年5月闘争以後、改良主義的運動が台頭して、市民運動が活性化した」と、「5月闘争」に対しては否定的な評価ですが、「運動圏」は「(その)市民運動は体制の枠内での改良主義、修正主義」と批判しています。 金芝河や金大中も韓国民主化の原動力となった「運動圏」を批判していましたが、文京洙さんは「(5月闘争は)韓国の社会運動の転機を刻む重い経験」と評価しています。

<2> 2008年前後の民主労総
 民主労総は1995年11月に結成(非公認)され、労働法改正後の1999年11月にナショナルセンターとして認可されました。『ろうそくデモを越えて』のなかで、李春子さんは民主労総について、「この世界の主人公である労働者こそが主体となって、政治家に任せず、民主主義、貧困問題を追求し、人間解放をめざす労働組合」と説明しています。

 参与連帯(1994年結成)の安珍傑事務処長は「民主党や正義党などが力をつけていけば、わたしたちが街頭でたたかわなくてよくなる」(『未来』)と言っていますが、この点は民主労総とは真逆の認識です。

 2007年のアメリカ住宅バブル崩壊→リーマンショック(2008年10月)は韓国経済を直撃しました。とくに韓国経済の柱である自動車産業(双竜、大宇、起亜、現代)は深刻な影響を受け、自動車部品を製造する中小企業は休業に追い込まれ、労働者の実質賃金は下落しています。

 このような状況下で、政府は資本を守るために最低賃金をさらに低下させるとか、非正規職の雇用期限を2年から4年に延ばすことについて論議していました。2008年ろうそくデモでは、民主労総は「賃金、構造調整、福祉」をスローガンに掲げましたが、デモ参加者には十分受け入れられなかったようです。

 2009年に双竜自動車は3000人規模の整理解雇をおこない、700人の労働者が工場占拠ストに決起しました。77日目に政府は機動隊を投入し、その後5年間で24人の双竜労働者が自殺に追いこまれました。写真は大漢門でたたかっている双竜労働組合(2012年7月撮影)。

<3> 参与連帯の政治的思想的立場
 他方、『ろうそくデモを越えて』で、文京洙さんは、市民団体の参与連帯について説明しています。参与連帯は1994年9月に朴元淳(現ソウル市長)さんらが、「国民の自発的参与によって…参与民主社会」を目標に、資本主義を否定せず、体制変革をめざさない運動として発足した団体と説明しています。

 また、同書で、朴元淳さんは、参与連帯は中産階層の運動と言い、経実連(経済主義実践市民連合、1989年結成)より進歩的ですが、民主労総の基層民衆運動とは一線を画していると説明しています。【注:経実連とは公正な分配と腐敗の追放、生産共同体運動】

 また、同書で、安珍傑さんは「市民、社会団体(注:学生運動や民主労総をさす)がコントロールする運動から、平凡な市民が主導する真の参加型民主主義社会をめざす」「過剰暴力対応が原因だったとしても、対峙現場における市民の感情的な物理力の使用は望ましくない」と主張し、民主労総とは一線を画した体制内改良主義の市民団体であると書いています。

<4> 2008年李明博政権の性格
 2008年ろうそくデモの前年に当選した李明博政権とはどんな性格の政権だったのでしょうか。1997年にIMF管理下に置かれ、韓国経済は<富者2:貧者8>の社会構造に変化していきました。主要銀行はもちろん公営企業や製造業が外国資本に牛耳られ、資本の利害が最優先にされ、人件費を削減(解雇、構造調整)し、非正規職が増えていきました。

 このように、新自由主義は貧富の格差を生み、全国世帯所得5分位倍率(所得水準上位20%所得を下位20%で割った倍率)は2003年=7.14倍、2007年=7.24倍、2008年=7.46倍へと悪化しました。

 2007年には李明博大統領が当選し、さらに急激な新自由主義政策を押し進めようとしたことにたいして、2008年ろうそくデモでは、「電気、ガス、水道、健康保険の民営化はない」と李明博に約束させましたが、「公営企業先進化」という名目で、ソウル地下鉄では、一律10%の雇用削減が進められ、「史上最悪」と呼ばれるほどの衝突が起きて、100人以上の重懲戒処分や解雇処分をうけました(イ・ホヨンさん、ソウル地下鉄労組)。
 このように李明博政権は格差社会を生み出す新自由主義の経済政策をとっていました。

<5> 2008年ごろの人権動向
 「茶山(タサン)人権センター」のパク・チンさんは2008年ろうそくデモの直前の3月、レイバーネット日本に「戻ってきた白骨団と路地の記憶」を投稿しています。

 「3月15日、行政安全部が李明博大統領に報告した内容のなかには、9月から戦闘警察の代わりに警察官で構成された逮捕専門担当部隊を新設、配置して、デモ現場の不法行為には民事損害賠償請求(仮差押さえ)、即決審判(拘留)等、例外のない司法処理を加えるという方針があった」

 「労働者のスト権、団結権が無視され、社会的弱者の表現の自由が暴力デモという名で殺されている。不法な逮捕と拘禁が乱舞している」

 「法を立てた暴力の前には不法で対抗するほかはなく、白骨団を立てた暴力の前には抵抗で対抗するしかないのではないだろうか」
 このように、李明博政権は人権弾圧の政府として登場していました。

<6> 2008年に至る基地闘争
 民主労総による「米軍基地反対闘争報告」(2006年11月)には、2000年以降の基地闘争について書かれています。

 略記すると、「2000年―梅香里米軍射撃場闘争、2001年―龍山米軍基地返還闘争、2002年―米軍装甲車女子中学生轢殺弾劾闘争、済州和順米軍基地反対闘争、2004年―派兵反対闘争、駐韓米軍撤収闘争、2005年―光州パトリオット米軍基地撤去闘争、平沢米軍基地拡張反対闘争、2006年―平沢米軍基地拡張反対闘争」などが挙げられています。民主労総は、これらの基地闘争を積極的に担っていました。

 とくに平沢(ピョンテク)闘争は2007年に住民の集団移転で決着がつくまでの4年間、何百人ものけが人、数百人の連行・逮捕の弾圧に耐えて、実力闘争としてたたかい続けられました。

 その翌年、BSE問題をきっかけにして始まった2008年ろうそくデモはこのような実力闘争の記憶が鮮明に残り、戦闘警察隊の過剰弾圧とたたかうのはあたりまえと市民側が受けとめていました。にもかかわらず、安珍傑さんが2008年ろうそくデモの「敗北」の原因を「戦闘性」に求めていることに、私は違和感を感じました。

<7> 2008年ろうそくデモ
 以上のように、この時期に至る経済政策、人権弾圧、基地強化などにたいして韓国人民が全力を挙げてたたかったなかで、2008年ろうそくデモへと発展したのではないでしょうか。

 ろうそくデモは5月2日から6月下旬まで続き、当初の牛肉輸入問題から、教育問題、朝鮮半島大運河構想、公企業民営化反対など李明博政権にたいする批判へと争点が拡大しました。しかし、ろうそくデモの性格は政権の交代を求めず、民営化(新自由主義政策)にくさびを打つなど、中産階層の生活課題が中心でしたが、民主労総などがたたかっていた非正規職問題は正面課題になりませんでした。

【3】2016-17年ろうそくデモ
 以上、2008年ろうそくデモに至る韓国の階級関係について概観してきましたが、それでは2016~17年ろうそくデモの時期はどうだったのでしょうか。韓国労働者をとりまく情勢について、『レーバーネットニュース』や『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』(高木望2017年)のなかから引用します。

<1> 朴槿恵政権の末期情勢
 パク・チンさん(「朴槿恵政権退陣非常国民行動」共同状況室長、水原のタサン人権センター)はインタビューで、「その頃(2008年)と今を比べて、警察などの対応が違っていた理由は?」と聞かれて、次のように答えています。

 「ある人は2008年のころは、デモが過激だったからと主張しますけど、わたしはそうは思いません。…デモ隊が過激だったからというより、公権力の側の問題だったと思います。…それは大統領の執権時期という要素があると思いますね。2008年の時は当時の李明博大統領の政権初期でした。…今回は任期があまり残っていない、(朴槿恵)政権の末期ということで、警察や検察、裁判所なども次期政権に対する配慮、つまり野党政権が誕生する可能性も含めて気を遣うという側面もあったでしょうし、何より今回の事件が国家の根幹を揺るがすような、想像を超えた政治スキャンダルだったために、保守、進歩という立場の違いを超えて、事件に対する国民の憤怒を、察しないわけにはいかなかったということがあったと思います。」(『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』)

<2> 支配層から見限られた朴政権
 イ・ホヨンさん(ソウル地下鉄労組教宣室長)の証言もあります。

 「当時(2008年)、組合や市民団体と個人で参加した市民との間に葛藤があったことが今回との違いのひとつだと思います。…多くの市民が『旗を下ろせ!』『旗を下ろせ!』と唱和する場面が何度もあって、…組合や団体の旗を降ろさなくてはならなくなりました。…李明博政権ができて2年目のことですから、…政権そのものを否定するわけではなかったという雰囲気があった。」「それにたいして今回(2017年)は、…すべての人たちが声をそろえて朴政権退陣を叫んだわけです。…活動家にたいする否定的な視線もほとんど感じることはありませんでした。」「もうひとつは、2008年には運動の暴力、非暴力という問題が議論されましたが、今回(2017年)は毎回数十万、多いときは100万を超す市民が集まって進行していったせいで公権力もこれを鎮圧したり、規制することを放棄するしかなかったから問題になりようがなかった。…支配層がもう朴政権を見限ってしまったという状況になったんだと思います。」(『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』)

<3> 政治的経験と財産
 イ・ホヨンさんは続けて、今回の闘いの意義を次のように述べています。

 「強烈に広場の民主主義を経験した若い世代が民主主義に向かおうとするDNAとして次の時代にも受け継いでいくだろうと確信しました。87年の民主化を担った世代が社会から退場し高齢化するにしたがって、やがてあの経験が忘れ去られ、保守化していくだろうという判断が誤りだったことに気付かされました。」「今回の経験を通じてあれほど鉄壁のように思われた保守支配層のヘゲモニーを、市民の力強く、ねばり強い行動によって崩せたということが国民全体の大きな自信となって今後にも生かされるだろうというのが最大の成果でした。」(『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』)

<4> 「セウォル号事件」が基点
 1979年生まれのPさん(出版人)は「朴槿恵政権は以前の朴正煕政権と同じように政治工作をして、不都合なことを覆い隠すことを平気ですると思っていました。…あの局面を乗り越えるためには、北朝鮮との戦闘を局地的に引き起こすようなこともしかねないと心配していたのです」「国民がこういう行動をすることになったのは2014年に起きた『セウォル号事件』以来蓄積されてきたもののためだということです。…政府は国民の生命や安全を守ってくれない…ことを骨身にしみて悟ったんですね。…政治家への不信、…だからもう彼らに任せるのではなく、自ら生命や家族やコミュニティを守るために、…やむにやまれず、国民自らが起ち上がって問題を解決しようとしたということです。」と、証言しています。(『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと』)

<5> 2016-17年ろうそくデモと労働運動
 2016年10月下旬から始まった朴槿恵弾劾ろうそくデモには前史があります。『レイバーネットニュース』の2016年9月末以降の記事を検証すると、そこには韓国経済の不況による賃金未払い、不当解雇があり、それと全力でたたかう民主労総が立っています。記事を拾ってみよう(括弧内は記事掲載月日)。

・「9月27日の公共運輸労組に続き、28日には金属労組と保健医療労組がストライキに突入し、ゼネストに速度がついた。公共運輸労組6万人をはじめ、今日は金属労組11万人、保健医療労組4千人がゼネストに合流した」(2017/9/30)

・「公共運輸労組労働者5万人が汝矣島に集結して、ストライキを続けた。午後3時から始まった公共運輸労組ゼネスト総力闘争大会には、韓国労総の公共連盟1万人も合流」(10/1)

・「約3万の市民と労働者がペク・ナムギ農民追慕と成果年俸制阻止のために 10月1日、ソウル市大学路に集まった」(10/3)

・「連休をすぎても公共部門ストライキが続き、長期化している。ソウル市大学路に集まった約3万の公共部門労働者は、無期限ストライキも辞さないという意志を示した」(10/11)

・「今回のストライキは二大労総の公共部門労働者たちが共に立ち上がった史上最大のストライキに進んでいる」(10/17)

・「韓国昌原市にある日本企業サンケンの韓国法人が整理解雇を行おうとしている。これに反対する労組が整理解雇撤回を求めてたたかっている」(10/19)

・「9月23日の金融労組ストライキを始め、同月27日には公共部門労働者たちが成果年俸制阻止を掲げてストライキに入った。鉄道とソウル地下鉄、都市鉄道、釜山地下鉄労働者が列車を止め、ソウル大病院などの病院や国民年金、健康保険などの公団の労働者が仕事を止めた。その上10月10日には貨物連帯までストライキに突入して物流と交通が止まった」「公共運輸労組ソウル京畿支部所属のソウル市公営駐車場分会の労働者たちは10月26日午前、ソウル市に問題の解決を要求してソウル市庁ロビー座り込みに入った」「鉄道労組が連日、最長期ストライキ記録を更新している」「10月19日、貨物連帯のストライキが10日目に幕を下ろした」(10/30)、

 10/29日1次キャンドル集会(ソウル)に3万人

・「11月30日の民主労総ゼネストを中心として退陣行動(朴槿恵政権退陣非常国民行動)が平日にも最大キャンドル集会を予定し、闘争を拡大している」「民主労総は大統領談話が発表された翌日の今日、22万の組合員がゼネストに突入し、ソウルで2万、全国で6万人が即刻退陣を要求するゼネスト大会とキャンドル集会を続けた」(11/30)

・「大韓航空操縦士労働組合が12月22日0時から10日間のストライキに突入した」(12/26)

・「現代重工労働組合(委員長ペク・ヒョンノク)が12年ぶりに民主労総に復帰する」「韓国サンケン使用者側の生産職勤労者大量解雇は不当だという地方労働委員会の判定が出てきた」(12/27)

・「史上最長の全面ストライキ記録を作ったゴールデンブリッジ投資証券支部が4年ぶりに再ストライキを予告した」(12/31)

・「韓国GM昌原工場の下請企業に所属する非正規職労働者たちが解雇の一日前の30日、使用者側の雇用継承を引き出した。11月30日に解雇を通報されたことで全面ストライキなどの闘争を始めてから一か月目だ」(2017/1/1)

・「起亜自動車労組華城社内下請分会のキム・スオク分会長が、 起亜車正規職労使の20%選別採用強行に反対して無期限ハンスト座り込みに突入した」(1/5)

・「造船業不況で大規模な構造調整の中にある巨済・統営・固城地域の昨年の未払い賃金申告額が、他の地域と比べて急激に増加していることが明らかになった。昨年、全国の未払い賃金が約10%増加したのに比べ、巨済・統営・固城地域の未払い賃金は約270%増加」「大田地裁民事21部(裁判長ムン・ポギョン)は1月31日、全国鉄道労働組合が出した仮処分申請を認め、 成果年俸制の効力を臨時に停止すると明らかにした」(2/9)

【4】さいごに
 2016年の韓国労働者人民のなかに朴槿恵政権と財閥体制にたいする怨嗟の声とたたかう意志が満ちあふれ、それが空前のろうそくデモの地下水脈・底流となっていたことを見逃してはならないと思います。

 また、セウォル号の遺族団体が参加し、事件の真相究明がデモの大きなイシューだったからかもしれません。セウォル号事件を抜きにして、朴槿恵弾劾を語ることはできず、戦闘警察と衝突してでも青瓦台に向かおうという怒りとは別の悲しみがあったのではないでしょうか。

20180426 メモ「東茶屋(郭) 売られし娘(ひと)の 涙染む」

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メモ「東茶屋(郭) 売られし娘(ひと)の 涙染む」

 金沢観光がうわべだけの「観光」で集客しています。先日、南米チリーから従姉弟2人と連れあい1人が金沢観光に訪れ、金沢城と兼六園を案内しました。

 金沢城内でお弁当を食べながら、城主・前田が加賀一向宗門徒を殲滅して入城し、農民から収奪して100万石の金沢城(兼六園)を造成したことまでは伝えたのですが、東西の茶屋(廓=くるわ)については説明しがたく、観光をスルーしました。

 私の叔父さんは1920年ごろに南米・チリーに渡りました。今回来日した2人は1931年生まれ(86歳)と1947年生まれ(71歳)で、日本語はまったく話せず、通訳を通しての、もどかしい会話になりました。

 叔父さん家族の苦労は1941年日米開戦で劇的に深刻化しました。日本とチリーは国交を断絶し、1943年1月27日叔父さん家族はペウモ市の農村に強制居住させられました。毎日午前9時と午後6時に警察署に出頭し、サインしなければなりませんでした。叔父さんは農場の夜間警備の仕事で家族を養い、近くに学校がなかったので子どもたちは通学できませんでした。

 1945年9月2日に日本が降伏文書に調印したあと、半年ぐらいで他の日本人は解放されたのですが、叔父さん家族だけは1949年まで、5年間も強制移住が続きました。

 従姉弟たちは「美しい祖国」を期待して里帰りしたのですが、目に映る風景は美しくても、日本のほんとうの姿を見てもらいたいと思いました。叔父さんが生まれた美川町への移動途中、車窓から田植え前の水田が広がるのを見ていた彼らに、わたしははるか遠くに姿を見せる白山から流れ来る水の恵と稲作を説明し、しかしこの水田はかつて前田家に搾り取られた100万石であることを付け加えることを忘れませんでした。

 従姉弟の父(私の叔父さん)が生まれ暮らした美川町に着き、手取川や日本海を眺め、お墓参りをして、それぞれが昔日に思いを馳せながら、短い時間を過ごしました。

 さて、東茶屋(廓)、西茶屋(廓)について、インターネット検索で調べてみました。いくつかヒットし、ブログ「金沢まちゲーション」(2017.7.31)の「特集 金沢にあった遊廓と現在の姿」がもっともまとまっていると思います。また、『石川県史』に記録されている古資料や春日神社のブログも参考になります。

江戸期・加賀藩政期
 江戸期以降の文献で、金沢での売春=買春の歴史を見ると、『石川県史 第二編』の<賣女と頼母子>には「遊女の初めて記録に見えたるは元和六年【注:1620年】に在り…」「堀川…殷盛【注:繁盛】の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。…寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金銀を濫費し…」「犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫を鬻(ひさ)がしむる【注:売春】ものを生じ…」という記載があります。

 加賀藩は売春=買春を管理するために、1820年に犀川左岸(石坂)と浅野川右岸(愛宕)の両地に遊廓設置を許可しました。廓は塀で囲み、この区域への出入り口には木戸を建て、武士僧侶の入廓を禁じ、廓内で働く遊女は無断で外に出ることが禁じられました。
 1831年には風俗の矯正刷新を理由に両廓の営業は停止されました。当時東西の廓には160軒の茶屋があり、芸妓・遊女などは200人を超えていました。

明治期
 1868年には、石坂及び愛宕の遊郭再開を許可しましたが、『東新地細見のれん鏡』によれば、茶屋数は112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録があります。翌1869年、主計町にも遊廓設置許可が下りました。

 1885年には栄町、松ヶ枝町一帯(武蔵が辻周辺)にあった料亭に貸座敷として営業することを許可(北の廓)しましたが、1899年には西の廓の西方(北石坂新町・石坂一ノ小道)に集団移転させました。明治末期には、西の廓には124軒の紅燈の軒が並び、北の廓には10数軒がありました

昭和期以降
 昭和初期には、経済的危機が襲い、人身売買(娘の身売り)が社会問題として深刻化しています。総力戦態勢下では、1941年には芸妓及び茶屋取り締まり規制、1944年には高級料亭及び茶屋貸座敷の営業停止を命令しています。(下記地図はインターネット上から拝借)



 1945年敗戦後、西、北、東の三廓の営業が許可され、石坂遊廓15軒が米軍専用に供されました。このように売春が公認され、1948年に風俗取締施行条例ができても、青線、赤線として闇で売買春がおこなわれていました。1956年売春禁止法公布され、廓は「料亭」へと名称変更し、生き残りをかけました。一方、1960年代、筆者が野町の友人宅を訪問すると、周辺では隠然と売買春がおこなわれていました。

 ざっと、金沢における売春=買春の歴史をなぞってきましたが、現在観光地としてスポットライトが当てられている東の廓(東茶屋)・西の廓(西茶屋)は売買春の現場でした。そこには、数百年にわたって売られゆく娘達の悲哀があり、売りに行く親たちの嘆きがあったはずです。

 十数年前の金沢観光案内地図には「東の廓」と書かれており、まだ歴史を探る手がかりが残されていましたが、最近の案内地図には、「東茶屋」と書かれています。この歴史的事実を消し去って、光の部分だけを見せて、影の部分を捨象していては、真に金沢を理解することにはならないと思います。

<資料1>年表
1603年―江戸幕府成立
1615年~23年(元和年間)―金沢町の荷上場や風呂屋に遊女・湯女(三壺聞書)。<資料2>
1628年(寛永5年)―「金沢街中定書」→風紀を乱す営業禁止。
1631年(寛永8年)―「萬治巳前定書」(風俗に関する法規15条) (加賀藩史料)
1637年(寛永14年)―「慶長以来定書」(士人以下の風俗に関する制限) (加賀藩史料)
1639年(寛永16年)―「慶長以来定書」(風俗に関する取り締まり令) (加賀藩史料)
1670年(寛文年間)―石坂村は家高二件本百姓三人であった。相対請地化の進行により武士・庶民・社寺などが屋敷社殿を構えた。
1804~17年(文化年間)―犀川下川除、観音町坂下、宝円寺裏門坂、母衣町、笹下町などの町家に遊女がいた(金沢俳優伝話)
1811年(文化8年)―石坂村の総件数360件にまで成長した。
1820年(文政3年)―犀川左岸(石坂)と浅野川右岸(愛宕)の両地に遊郭設置を許可
1831年(天保2年)―風俗の矯正刷新を理由に両廓の営業は停止(東西の廓には160軒の茶屋があり、芸妓・遊女等は200人を超えていた)(加賀藩史料)
1833~39年(天保4~10年)―天保の飢饉→国内では至る所で一揆
1846年(弘化3年)―浅野川右岸の郭は「愛宕」(あたご)と名称変更。(加賀藩史料)
1868年(慶応3年)―石坂及び愛宕の遊郭再開を許可(西新地と東新地が誕生)。
         茶屋数112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録。(「東新地細見のれん鏡」)
1869年(明治2年)―浅野川大橋詰め所西方に新たに遊郭設置(主計町)許可
1872年(明治5年)―「芸娼妓解放令」(人身売買禁止)→1879年(明治12年)「貸座敷規則」。
1876年(明治9年)―石坂女紅場規則を制定し、芸妓・娼婦に習字・算術・裁縫を習わせる教習場を設けた。
         「貸座敷、芸妓及び娼婦に関する規則」「売淫罰則」「検黴規則」が制定。
         芸妓と娼妓を明確化…芸妓=芸者(踊り、三味線、笛、太鼓など)。娼妓=遊女。
         娼妓がいる廓は”遊廓”となり、歓楽街化。
1885年(明治18年)―石川県は金沢町の栄町、松ヶ枝町一帯にあった料亭に貸座敷として営業することを許可(北の廓が成立)
1889年(明治22年)―金沢市政へ移行
1896年(明治29年)―金沢市議会において北の廓の移転決定
1899年(明治32年)―「北廓」は北石坂新町・石坂一ノ小道へ集団移転(西の廓はさらに西方に北の廓を設ける)
1901年(明治34年)―「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」に従い営業→昭和初期迄存続。
明治末期以降―西の廓には明確に上町(高級社交場)と下町(庶民の遊楽場)の区別
明治末期―西の廓=石坂町73軒、南石坂町21軒、石坂角場一番丁27軒、石坂角場二番丁3軒の、計124軒の紅燈の軒が並び、
     北の廓を成した北石坂新町に万一桜、大丸桜、扇十屋など10数件があった
大正時代―第1次世界大戦の勃発→特需→成金が廓を賑わわせる→戦後不景気
1923年(大正12年)―関東大震災→金沢の経済界も衰退
1923年(大正12年)―にしの検番所にて芸妓置屋に住む義務教育該当の女児等へ学習義務→野町尋常小学校仮教室。(ターボ教室と俗称)
昭和期―経済界衰退+デフレ政策→人身売買(娘の身売り)が社会問題として深刻化
1941年(昭和16年)―新たな芸妓及び茶屋取り締まり規制。
1944年(昭和19年)―高級料亭及び茶屋貸座敷の営業停止を命令。
1945年(昭和20年)―西、北、東の三廓の営業が許可→石坂遊郭15軒が進駐米軍専用
1946年(昭和21年)―GHQより公娼廃止の覚え書、公認で売春
1948年(昭和23年)―県が風俗取締施行条例(青線、赤線の俗語が使われ始める)
1956年(昭和31年)―売春禁止法公布。西の廓、北の廓→料亭へと名称変更。(西の料亭16軒、北の料亭18軒、芸妓40人前後)
1972年(昭和47年)―北の料亭の灯が消える。

<資料2>『石川県史 第二編』第二章 加賀藩治創始期 第十節 社會種々相 <賣女と頼母子>
 遊女の初めて記録に見えたるは元和六年【注:1620年】に在り。この時淺野川の下流より新川を掘鑿し、石川郡宮腰・大野・粟ヶ崎等より直に物貨を城下に運漕し得べからしめ、因りて之を堀川といひ、その終點を揚場と稱したりしが、附近忽ち殷盛【注:繁盛】の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。是より後寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金銀を濫費し、遊興の資を得んが爲に天狗頼母子の法を案出したりき。是に於いて一攫千金の利を得るものあり。又は恒産を破りて盜賊に變ずるものあり。無頼の青年等亦力士藤繩といふ者を頭首に推し、倉庫を破壞し金品を奪掠せしが、事遂に發覺して刑せられき。藩乃ち此くの如く風紀の紊亂せし理由を、賣色の徒あるに因るとなし、町奉行に命じて之を禁制せしめしに、又犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫を鬻(ひさ)がしむる【注:売春】ものを生じ、藩士中村刑部に屬する足輕の寡婦にして痘痕媽(イモカ)と呼ばれたる者も、亦その娘きちの外多數の婦人を賣女として嫖客【注:遊客=買春客】に接せしめしかば、吏之を知りて風呂屋及び痘痕媽の一族を泉野に於いて磔刑に處したりき。是より後寛永五年八月廿三日附の金澤町中定書には、『一、於二町中一傾城並出合屋堅く御停止之事。一、當町風呂屋遣女之事、妄之作法有レ之に付ては、宿主可レ爲二曲言一事。』と載せ、十四年三月廿五日附の定書にも亦之を繰返して嚴に取締る所ありしに、その弊暫く著しからざるに至れり。

<資料3>『石川県史 第二編』第四章 加賀藩治停頓期 第五節 社會種々相 <遊廓>

 遊女に關する寛永の禁制はこの期に入りても尚廢せられず、寛保三年・明和三年・天明五年等に頻々としてその令を新たにせられしに拘らず、金澤なる淺野川觀音坂・四軒町・寳圓寺裏門坂、或は犀川馬場・笹ヶ町その他所々に賣女ありし外、別に出合屋と稱するものありて婦女を連行宿泊せしむるの風盛に行はれ、士民の良俗を害すること甚だしかりき。卯辰茶屋町の如きも、亦地名によりて夙くこの種の集窟たりしを知るべく、堀樗庵の著越廼白波に寳暦の頃の淺野川母衣町の事情を記して、『其ほとりは風景の青樓多く、城下の目さへ忍ぶの里もの多くかくし、表に蕩子の魂をうごかし、晝夜入ひたる人多し。』といへり。又侠客綿津屋政右衞門の自記に、觀音坂下に座敷女のありたることを記したるが、同じ條に、當時種々の異變ありし内第一大地震にて黒津船の神主が龍宮に引き込まれしことありといひて、その地震は寛政十一年五月二十六日のものを指すが故に、座敷女の存在したるも亦寛政の頃のことなりとすべし。かくて賣女は公然の秘密として行はれたりしかば、文政三年町奉行山崎頼母範侃等は、寧ろ之に許可を與へて監督を嚴にし、困窮に堪へざる子女をして生活を得しむるを策の得たるものなりとし、三月二十五日藩侯齊廣の許可を得、四月四日の令に依りて淺野川卯辰・犀川石坂の兩所に區域を限定して青樓を密集せしめ、一を舊によりて卯辰茶屋町といふに對し一を石坂新地と呼べり。その後者は九月十一日、前者は十月十一日營業を開始す。是に於いて兩遊廓の繁榮日に加はりしが、殊に卯辰茶屋町は絃歌の聲晝夜を分かたざるに至りたりき。

20180504 野田山加洲藩士の墓(修正)

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野田山加洲藩士の墓(修正)

 尹奉吉義士暗葬碑の直ぐ東側に、14基の加洲藩士の墓碑がある。暗葬地を訪問しはじめたころは、すべて立っていたが、数十年を経た今では、半分ほどが倒壊し、落ち葉とシダ類に埋もれている。【松尾芭蕉の「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」に似た情景】

 西側から1~14の番号を付して、読み取ると、
1:加洲藩士 監軍 山田定右衛門賢易 墓(行年五十歳) 慶応四年(戊辰)七月廿五日 越後国古志郡於筒葉村領防戦之際手負 同年八月廿九日於本籍没【注:監軍=軍隊を監督する役職】
2:加洲藩士 郷向導役 多和田平八郎意勝 墓(行年三十七歳)慶応四年九月廿四日 岩代国大沼郡於大芦村領 進撃の際戦死【注:岩代国=福島県】
3:加洲藩士伍長 末岡茂三郎一茂 墓(二十一歳)
4:加洲藩士伍長 小川六三郎永則 墓(二十一歳)
5:加洲藩士伍長 山川文太郎勝之 墓(三十歳)
6:加洲藩士伍長 藤田隼太郎信政 墓(三十五歳)
7:加洲藩士伍長 大館采右衛門晴正 墓(三十六歳)
8:加洲藩士伍長 宮嶋太一郎元晴 墓(二十一歳)
9:加洲藩士伍長 金子五十松雋 墓(十八歳)【注:雋=しゅん、すぐれる】
10:加洲藩士伍長 長谷川清助好政 墓(二十九歳)
11:加洲藩士伍長 竹村伝二郎方建 墓(二十七歳)
12:加洲藩士伍長 安原喜太夫好真 墓(二十六歳)
13:加洲役夫   新右衛門 墓
14:加洲役夫   二七 墓

 14基の墓標の他に、達勲【勲=手柄】と効忠【忠をいたす】の石灯籠がある。



 また、国立国会図書館デジタルコレクションの『加賀藩北越戦史』(千田登文編1921年発行)には106人の戦死者リストがあり、そのなかに野田山墓地の墓碑に刻まれた13人の名前もある。

加賀藩の北越戦争とは
 『石川県の歴史』(1970年発行)所収の年表によれば、「1868年1月5日、前田慶寧、徳川慶喜に協力するため出兵を命ずる。15日、加賀藩兵、進軍をやめ金沢に帰る。3月5日、慶寧、毎年米10万俵を7年間にわたり朝廷に献納することを乞い、許される。4月13日、北越に出兵を命じられる。5月28日、慶寧、越後の官軍に金13万両を送るよう命じられる。」

 『畝源三郎のHP』によれば、「慶応4(1868)年正月3日、鳥羽・伏見の戦端が開かれた。加賀藩主・前田慶寧(よしやす)は、正月6日、徳川方に味方するため、直ちに出兵した。ところが、越前のあたりまで進んだ時、徳川方敗走の報が入り、徳川を朝敵とする勅も出ているので、加賀藩は、福井県坂井市丸岡町長崎まで進軍していた兵を呼び戻し、加賀藩は朝廷方に尽くすと急遽表明した。4月に、加賀藩にも出兵の命令が下り、小川仙之助、箕輪知太夫らの精鋭部隊約7600人が出兵し、長岡城攻撃など、新潟県、山形県にかけて各地を転戦した。加洲藩士106人が戦死した。」(要約)

106人の死と14基の墓碑の意味
 加賀藩主・前田慶寧は当初徳川側に付き、兵を送り、不利とみるや一転して朝廷側に付いた。加賀藩はただただ延命のためにのみ、朝廷に農民から収奪した米を送り、加賀藩士7600人を戦争に差し出し、106人が無残な死を強制されたのだ。その後、日清戦争(台湾略奪など)、日露戦争(朝鮮併合など)、中国・アジア侵略戦争へと突き進んでいった日本帝国主義の姿を暗示しているようだ。さらに言えば、朝鮮民主主義人民共和国に対して経済制裁と軍事包囲を主張し、戦争を煽っている安倍政権とも重なって見える。

 1870年、加賀藩は戊辰(北越)戦争で戦死した人々を祀るため、金沢市郊外の卯辰山に招魂社を建立し、1935年石引町に移転し、1939年石川護国神社(靖国神社の地方版)となって、今日に至っている。護国神社とは戦争の本質を問わず、戦争責任を問わず、不本意な死を強いらた人民を祭神(人質)とする戦争翼賛神社である。 

 いま、150年を経た14基の墓碑を前にして、朽ち果てるままにしておくも好し、または倒れた墓碑を立て直し、草を刈り、150年前に不本意な死を強制した「明治維新」とやらに思いをいたすのも好かろうと思う。

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『市史年表 金沢の百年』より
●明治元年(1868)4月15日
 朝廷から加賀藩に北越への出兵を命じてきた(北越戦争)。
 加賀藩からの出兵数は士卒1,744 監察軍吏953 従僕役夫4,600余等で総計7,600余人に及んだ。戦死者は106人。
 太政官発行の紙幣がまだ流通しなかったので約半歳の間、藩から弾薬銃砲類はもちろん米、塩、みそ、わらじ類まで現地へ送り届けた。
●明治元年(1868)5月18日
 藩の定番御徒、西坂丙四郎が越後長岡で戦死した。
●明治元年(1868)10月10日
 前田慶寧が越後戦争の加賀藩戦死者のため卯辰山に招魂祠を造営した。
●明治元年(1868)10月27日
 津田玄蕃が隊兵を率いて越後戦争から金沢に凱旋した。
●明治元年(1868)11月2日
 卯辰山で越後戦争戦死者の招魂祭がおこなわれた。
●明治三年(1870)12月28日
 戌辰役戦死者のため明治元年に卯辰山庚申塚の地に仮招魂殿を建てたが、前田慶寧の意志により同山鳶ヶ峰に招魂社を建立した。(立柱式は13日)
●明治四年(1871)2月25日
 卯辰山の招魂社の祭典を春は2月25日、秋は8月25日におこなうことになった。
●明治五年(1872)2月25日
 卯辰山で招魂祭を執行、相撲の奉納があった。
●明治二十七年(1894)7月4日
 明治戊辰越後戦争戦死者27年忌追悼会が当時の隊長小川清太の主唱で野田町桃雲寺で催された。
●昭和十年(1935)4月13日
 旧出羽町練兵場に造営の第9師団官祭招魂社が落成、卯辰山の旧社殿から1万5,905柱の遷座祭がおこなわれた。新招魂社は敷地2,656坪、総工費15万円。
●昭和十四年(1939)4月1日
 出羽町の第9師管官祭招魂社が内務大臣指定の石川護国神社と改称された。

20180507 旧優生保護法による強制不妊手術

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旧優生保護法による強制不妊手術

公文書開示の経過
 今年(2018年)の2月ごろから、旧優生保護法を根拠にして、強制不妊手術(石川県でも88人)がおこなわれていたことが報道された(2月24日付『北陸中日新聞』)。

 去る4月18日、石川県知事に、「優生保護法によって障がい者らに不妊手術がおこなわれたことに関する公文書」の開示請求をおこなった。5月2日に開示決定通知があり、7日に1973年3月17日付の①「石川県優生保護審査会の審査決定通知」などの㊙文書を閲覧した。

 開示文書は手術関係12人、審査会関係14人、1973、76、77、78年(4年分)の合計約270枚であった。4年分以外は不存在ということだった。記載事項のほとんどが、「個人に関する情報」という理由で、黒塗りされており、分析作業には役立たないので、ごく一部の38枚のコピーを受け取った。

 開示文書は「個人に関する情報」の拡大解釈により、申請医師(病院)、手術病院(手術内容)、手術金額(手術内容、個人が類推されるという理由)で黒塗りされた。

 旧優生保護法にもとづいて、1949年から1992年までに約25000人が不本意な不妊手術を強制されている。その責任は旧優生保護法を立法した政府と国会議員、法案を準備した厚生官僚、行政指導した都道府県知事と職員、不妊手術を申請し、執刀した医師のすべてにある。

 にもかかわらず、その責任の重要な一端を担った石川県は、文書開示にあたって、手術内容などの重要事項の隠蔽に走った。開示文書によって明らかになった不当な不妊手術の流れを確認しておきたい。

審査会関係書類
 開示資料によると、1973年3月15日に「石川県優生保護審査会」がひらかれた。出席者は委員8人と事務局4人。午後2時30分に開会され、3時に閉会された。

 議事録には、議件(優生手術をおこなうことの適否に関し審査)は第1号から3号まであり、申請者(黒塗り)、優生手術を受くべき者(黒塗り)、申請書及び調査書を朗読説明(黒塗り)で、閉会は午後3時00分。わずか30分で、3人の審査が終わったのである(1人あたり10分)。

 ②「石川県優生保護審査会の優生手術適否審査書」があり、「申請者」(黒塗り)、「優生手術を受くるべき者」(黒塗り)、「申請の内容」(別紙)の記載事項があり、委員長を除く7人の適否欄はやはり黒塗りである。すなわち、だれが「適」とし、だれが「不適」としたのかを知ることが出来ない。

 そして③「優生手術適否決定通知書」が審査日(3月15日)付けで出されている。「右の者については、優生保護法第5条第1項の規定により審査の結果、次のとおり決定したので通知する。なお、この決定に不服があるときは、この通知書を受けた日から2週間以内に書面で、中央優生保護審査会に対して再審査を申請することができる」として、適否の欄は黒塗りされている。④「優生手術実施医師指定通知書」もあるが黒塗りである。写真をクリックすると拡大されます。

    

 添付書類には、⑤「優生手術申請書(申請者は医師、宛先は石川県優生保護審査会)」、⑥「健康診断書」、⑦「遺伝調査書(本人の血族中遺伝病にかかった者)」、「同意書(右の者について優生保護法第12条の審査を申請することに同意します)」、そして⑧「(黒塗り=被施術者)についての調査書」には、本人の生活歴、⑨家庭の状況、⑩家系図まで添附されている。

          

手術関係書類
 1973年5月17日付けの「優生手術費の支出負担行為について伺」という公文書があり、
(1)支出負担行為をする理由 昭和48(1973)年3月15日開催の石川県優生保護審査会において、優性上、優生手術をおこなうことを適当と認められた。(2行黒塗り)にかかる優生手術について優生保護法第11条の規定に基づき県が費用の支弁をするため支出負担行為をするもの。

(2)支出負担行為伺額 ¥(黒塗り)

(3)積算の根拠 被手術者、手術科、入院料、注射料、処置料、計、手術をおこなう病院(すべて黒塗り)

(4)支払先(黒塗り)

 添付書類として、⑪「石川県知事宛の優生手術費請求書」、⑫「優生手術費請求明細書」、「国民健康保険診療報酬請求明細書」があるが、何もかもが黒く塗られており、概略さえ知ることが出来ない。

  

国家犯罪を弾劾する
 旧優生保護法はナチスの「断種法」の流れをくみ、「遺伝防止のため公益上必要」として、1949~92年までに、25000人に強制不妊手術をおこなった。

 2018年4月22日付『北陸中日新聞』によれば、石川県の手術人数(1948~1996年)は88人と報道されている。今回開示された県文書では審査段階の14人、手術段階の12人だけであり、ほとんどが闇に葬られている。

 人の人生を決定的に左右した過てる政策に光をあてなければならない当事者としての石川県が「個人情報の保護」という理由で、手術内容(金額)さえ秘匿し、旧優生保護法による不妊手術の実態を覆い隠すという悪質な対応に終始している。
 

20180510 アメシロ報告

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アメシロ報告

 昨年は観察だけにして、除去作業はしなかったので、今年は多くのアメシロが発生するだろうと予測した。

 4月29日、アメシロ発生地点の巡回を開始した。すでに、フェロモントラップが設置されており、なかが透き通って見えるランプ型に変わっていた。

 みどり庭園公園前のトラップにはアメシロ成虫(雄)が3匹かかっており、5月8日には8匹に増えていた(底に5匹、側面に3匹)。すなわち、すでに成虫は飛び回っており、卵は産みつけられているだろう。みどり第2児童公園前のトラップにはかかっていない。

 ちなみに、2016年のトラップにかかった最初の週は5月5~11日で、今年はそれよりも1週間早い。昨年の最初のアメシロ巣網の発見は6月3日であった。
 ということで、今年第1回目のアメシロ報告とします。

20180514 小松基地爆音訴訟 傍聴報告

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5・14小松基地爆音訴訟 傍聴報告

 軍事評論家・前田哲男さんの証人尋問が午前10時30分から始まり、90分の予定を超えておこなわれた。午後からは所用があり、後ろ髪を引かれながら12時で退席した。

前田さんの証言要約
 2015年に自衛隊法など11の安保関連法が改正され、自衛隊がどのように変貌したのかを詳細に証言した。11の法案に僅か116時間しかかけず、とうてい審理をしたとはいえない。PKO法で170時間以上かけている。

 従来の政府見解である自衛のための措置は憲法上認められるが、安倍政権による集団的自衛権は、自国ではなく他国を守るための軍事行動であり、憲法上認められない。

 旧自衛隊法には、第3条<自衛隊の任務>に、「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛する」と定められているが、改正法では、「直接侵略及び間接侵略」が削除され、海外での作戦が容認されるようにされた。

 1954年の参議院本会議では、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」で「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する」という決議があげられている。

 集団的自衛権を認めたことによって、相手国に日本軍(自衛隊)を攻撃する権利、先制攻撃をする権利を与えた。

 国会の事前承認とか、事後承認の規定があるが、国会が承認しないからといって、自衛隊が守るべき米軍を見捨てて撤退するなどということは非現実的で不可能なことである。(既成事実のやり逃げである)

 新自衛隊法では、敵地に不時着した味方(米軍)を救助することも含まれ、そのとき自衛隊が攻撃されれば、武器を使用して応戦することになり、これは「交戦権を認めない」という憲法9条に違反すること。

 かつての周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法では、発進準備中の米軍機に給油や整備、弾薬の提供は許されなかったが、重要影響事態法では、後方支援・捜索救助活動を「戦闘行為がおこなわれている現場では実施しない」とされているが、いつ戦闘現場に変わるか分からないので、まったく歯止めにならない規定になっている。

 自衛隊法94条には、国際協力業務のなかに「宿営地の共同防護」が規定されているが、武器の使用を前提にしている。PKO法では紛争が解決したあとだったが、安倍の駆けつけ警護は武器を持って紛争の真っただ中に突入することである。最近の「日報」でも明らかなように、当時のジュバの状況は戦闘状態にあった。

 自衛隊新聞『朝雲』は2015年の自衛隊法改正などの安保関連法は「最大の改革」と誇らしげに書いている。2015年日米ガイドラインと安保関連法によって、日米軍は一体の関係になった。日米軍が共同の軍事行動を取る場合は、その指揮権は米軍にある。

前田さんの証言つづき
 二人目の弁護人が立って、訊問が続けられた。自衛隊の軍事力と他国の比較について。専守防衛の武器から先制攻撃の武器に転換していること。スタンドオフミサイル(長距離弾道ミサイル)は射程900キロあり、小松から発進するF35に搭載されれば、朝鮮半島全域が攻撃範囲になること。

 その後の訊問は所用が迫っており傍聴出来なかった。小松基地の位置づけや今後の小松基地の役割について、ぜひとも聞きたかったのだが、それはかなわなかった。

 次回口頭弁論は5月21日(月)である。この日は大飯原発訴訟原告団による名古屋高裁金沢支部行動が予定されており、正午から午後1時までの1時間、兼六園側入口でスタンディングがおこなわれる。反原発裁判と小松基地爆音訴訟(憲法9条違反)とが結びつく日である。

20180521 小松基地爆音訴訟口頭弁論と大飯原発行動

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5・21 小松基地爆音訴訟口頭弁論と大飯原発行動

 今日は、前回に引き続き4人の原告本人尋問がおこなわれた。被告国側からの主尋問で、「危険への接近」を立証するためである。「住民が危険性(騒音)を知りながら、転居してきた」として、住民に受忍を求めるための訊問であった。人間は社会生活を営んでおり、実家、職場、病院、学校などの条件から住居地を選択せざるをえないことを理解しようとしない、理不尽な尋問がおこなわれた。。

 Aさんの居住歴は加賀市→安宅町→伊切町→安宅町である。Aさんは実家の近くに住居を決めたあと、妻と自分の実家の中間点に家を新築したが、そこが伊切町だったのである。騒音は伊切町の方がひどく、戦闘機が飛ぶと電話もテレビも聞こえない。

 Bさんの場合は丸の内町→城北町→浜田町。Bさんは浜田町にパン屋を開店したが、国側代理人はなぜやかましいことが分かっていて、浜田町に店を出したのかと問う。Bさんは交通量が多く、駐車場が十分あることが店の前提条件で、騒音は二の次だったという。Bさんの店では、騒音が激しくて、客からの注文の電話が聞き取れなくて困っている。遠方から来た客は、突然の離陸轟音に、「戦闘が始まったのか」と聞かれたことがある。店の休日は月曜日なので、昼間の騒音が激しく、気持ちが休まらないことを訴えた。

 Cさんは、大聖寺→小塩町→日末町。結婚を契機に、妻の実家の隣に転居した。妻の両親の面倒を見る必要があったから。

 Dさんは木場町→安宅町→浮城町。安宅町でひとり暮らしをしていたが、結婚を機に妻の実家の近くに転居した。非騒音地域(小松市苗代町)も選択肢にあったが、病院が遠く、生活面で不便だったので、騒音地域であることはわかっていたが、浮城町に決めた。

大飯原発行動
 小松基地爆音訴訟の傍聴後、裁判所兼六園側入口でおこなわれている大飯裁判行動に合流した。関西、福井、石川、富山から、4~50人ほどの仲間が結集し、鳴り物あり、歌あり、演説あり、シュプレヒコールあり、通りがかりの高校生の一群と討論がおこなわれたり、外国人観光客からグッドサインをもらったり、にぎやかな1時間だった。

 連休明けには判決期日が通告されるかと予想していたが、裁判所からは音沙汰なしである。安倍政権の顔色をうかがっているのではないかと勘ぐりたくなる。


20180528 脱北文学から何を学ぶか? 「越えてくるもの、迎えいれる者」を読む

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脱北文学から何を学ぶか?  「越えてくる者、迎えいれる者」を読む

 2015年に韓国で『国境を越える影』が発行された。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から韓国に脱出した作家(脱北作家)の6作品と、韓国在住作家の7作品で、合計13作品が収められている(別記)。同作品は2017年12月に和田とも美さんの翻訳で『越えてくる者、迎えいれる者』(アジアプレス)として発行された。
 日本では、作品に描かれている一言一句を取り上げて、北朝鮮非難の恰好の素材として読まれるのだろう。このような政治的な内容を含む作品を敢えて翻訳し、出版した訳者の心中は複雑なものがあると推測される。

 脱北文学を北朝鮮非難キャンペーンだとして無視するか、北朝鮮から脱出した人々の自己検証の記録文学として読むかが問われている。私は北朝鮮為政者とその人民を明確に区別し、人民による為政者にたいする批判は、記録文学としては重要な要素だと考える。そう考えなければ、文学作品において、政治(為政者)批判は成立しなくなるからだ。

 6作品の脱北文学に描かれている為政者批判は、数量的な差こそあれ、今日の日本でも普通に見られる政治的腐敗にたいする批判と同質である。北朝鮮のことだからと切り捨てることはできない。
 例えば、「いつの間にか幹部課長の手は、チノクが着ていたタートルネックのセーターの上からすっと入って来た。…それ以降、幹部課長はチノクが自分の所有物であるかのように、時折呼んで服を脱がせた」(「チノクという女」85頁)などは、最近の財務省・福田淳一の女性記者セクハラ事件とまさに合同である。
 「食べてゆくことも難しいのに、子どもをたくさん産めという政府の方針が矛盾している」(「チノクという女」98頁)についても、山東昭子(自民)は「子どもを4人産めば表彰する」と言い、加藤寛治(自民)は「3人以上の子どもを産め」と、国のために生むことを要求している。それは、障がい者に強制された不妊手術の対極にある「性の国家管理」である。
 「ポミの母が腸結核の診断を受けたが、医師に渡す礼金を用意出来ず、…そのうち完全に寝込んでしまった」(「つぼみ」49頁)と書かれているが、社会主義朝鮮では医療費・教育費・住居費は無料だという公式見解との落差をどう考えたらいいのだろう。
 ピョンヤンをごく短期間、為政者の管理下で見聞してきた者と北朝鮮で苦難のありったけを体験してきた者との違いから来るのだろう。政治的配慮から、あるものをないと言い、ないものをあると言うのではなく、あるものをあると認識し、ないものをないと認識することからはじめるのがマルクス主義者だろう。
 ついでながら、日本の病院にも、入院患者は医療費に加えて、担当医師に袖の下を渡さないと、十分に面倒を見てくれないという現実がある。またこの作品を読んで、姜敬愛の『地下村』(1936年)に描かれている日帝植民地下の貧農の絶望を思い浮かべた。

 北朝鮮をめぐる国際関係を見れば、脱北文学を反北朝鮮キャンペーンとして、排除したくなる気持ちはわからなくはない。脱北作家にとっては、北朝鮮為政者批判と米日帝国主義批判はいずれも不可欠な要素であるにもかかわらず、6作品には米日帝批判(韓国批判)が極めて希薄(皆無)だからである。
 米日帝国主義の激しい北朝鮮孤立化(経済封鎖、軍事演習)政策から北朝鮮為政者を擁護したいという気持ちが生ずるのは自然な成り行きであろうが、しかし、為政者と人民の間にある矛盾と対立を無視してはならないと考える。
 とある新聞で、高層ビル群の写真を示し、これが勤労者住宅であり、北朝鮮全体が豊かで、欠乏のない社会であるというレポートを読んだが、それでは粗末な木造船で東海(日本海)に漕ぎ出し、荒波にもまれて難破し、多数が遭難死している悲惨な状況をどう見るのだろうか。まさに、東海(日本海)での痛ましい死こそが、フィルターを通さずに見えてくる北朝鮮の姿であり、その責任は米日帝国主義の北朝鮮包囲政策にあることを肝に銘じなければならない。



 「1990年代末、飢え死にした死体に取りたてて驚きもしなくなった(「チノクという女」86頁)」。「国家食糧配給が本人だけに実施されることになり、家族の分は自己責任で解決せよと指示…6年が過ぎてもそのまま…飢えのなかで、年越しを迎え…。路地には、群れをなす物乞いと1食分の食糧を求めて東奔西走する群集で、人の波ができていた。…一晩寝て起きると、道端の空き地に新しい墓が数知れずできていた(「不倫の香気」32~33頁)」。「11歳の末っ子ミンチョルがちょっとした病で死生の間をさまようとき、薬ひとつ与えてやれませんでした(「父の手帳」112頁)」。

 これらの作品のなかに、1990年代の経済危機(飢饉)が描かれている。北朝鮮の食糧危機の報道を受けて、1997年小松から、北朝鮮人民に米を送る運動を発信した。ある人からは「なんぼ送っても、軍人に食われてしまい、人民には渡らない」と批判され、「革命的左翼」のなかからも同じような声が漏れ聞こえてきた。
 「対岸で飢えに苦しんでいる友人たちに、おいしいコシヒカリを送ろう」「軍人が食べても有り余るほどの米を送ろう」「金正日政権には反対だが、餓死してからでは遅い」と、各方面からの批判をはね返し、全国から多額のカンパと大量の米を集荷し、新潟港から送り出したのである。
 この運動をとおして、私は「反スタ」と「反共」は紙一重であり、「革命的左翼」よりも人民の方が感性的に豊かであると実感した。その後、第2次不二越強制連行訴訟に取り組んだときも(2000年代)、「血債主義」などとぬかして、有形無形の妨害を働いたが、熱い人民の支援で持ちこたえることができたのである。

 これらの作品群には、私の政治生活をもあぶり出すメッセージが多く孕まれている。みなさんの一読を乞うものである。

「越えてくる者、迎えいれる者 ― 脱北作家・韓国作家共同小説集」
販売価格 1,490円(税込) アジアプレス 訳者:和田とも美
【目次】
はじめに 和田 とも美
第1部 超えてくる者たちの作品-定着地へのメッセージ
「本泥棒」ト・ミョンハク
「不倫の香気」イ・ジミョン
「つぼみ」ユン・ヤンギル
「願い」キム・チョンエ
「チノクという女」ソル・ソンア
「父の手帳」イ・ウンチョル
第2部 迎えいれる者たちの当惑-引き受ける責任
「どこまで来たの」李青海(イチョンヘ)
「僕は、謝りたい」李平宰(イビョンジェ)
「六月の新婦」鄭吉娟(チョンキルユン)
「フィンランド駅の少女」尹厚明(ユンフミョン)
「天国の難民」李星雅(イソンア)
「三水甲山」方珉昊(パンミンホ)
「四つの名」愼珠熙(シンジュヒ)
訳者解説 和田とも美

20180607 アメリカシロヒトリ観察記録(2)

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2018年アメリカシロヒトリ観察記録(2)

<5月28日―緑と花の課様>
 5月26日、天気がよく、時間ができたので周辺を歩いてみました。地図のアメリカ楓(地図省略)にごく初期の巣網がありました。その他では、見あたりませんでした。
 今のうちなら、ピンポイントで、高枝ばさみを使って駆除できます。今後、薬剤散布ではなく、高枝ばさみを使って駆除するならば、アメシロの巣網報告をします。薬剤散布をするなら、知らせないことにします。アメシロの方が、自然界にとって無害ですから。
5月28日

<5月29日―緑と花の課より>
 いつもお世話になっております。金沢市緑と花の課の××(担当者)です。アメシロの報告ありがとうございます。早速、明日、髙枝ばさみでの捕殺を試みたいと思います。金沢市としても薬剤の使用はできる限り避けたいと考えておりますので、今後も継続してこのような情報提供を頂ければ、大変助かります。今後とも、どうぞよろしくお願いします。
5月29日

<6月3日―緑と花の課様>



 まだ、巣網が小さく発見しづらいでしょうが、早い方が効果的です。
6月1日
★みどり庭園公園内のさくら(巣網1カ所除去)
★みどり庭園公園内のアメ楓(巣網数カ所あり)
★みどり庭園公園前(みどり3丁目西方向から③、④、⑤のアメ楓に巣網)
★龍谷高校テニスコート脇アメ楓(北から①、⑤に巣網)
★上安原2丁目アメ楓(ませ歯科医院から④、⑤、中島眼科医院から③、④、⑤、⑥、⑦に巣網)
6月2日
★みどり第2児童公園前アメ楓②、③
★上安原1丁目アメ楓―北側から②、④、⑥、⑦、⑧、⑨、⑩
★上安原1丁目アメ楓―南側から②、③、⑤、⑥、⑧、⑩
★上安原1丁目アメ楓―東側から①、③、⑤、⑥、⑨、⑩、⑬、⑭、⑮
★上安原1丁目アメ楓―西側から⑫/①、②

<緑と花の課より>
 業者に点検を要請しているとの返信メール。
 
<6月7日―緑と花の課様>
 あなた(担当者)が下記のメール(注:5/29メール)を送ったのを覚えていますか?
「高枝ばさみで捕殺をおこなう」と約束したから、続報を送ったのですよ。しかしながら、その約束を反故にして、夏剪定を始めましたね!
 これまでに、何回も、夏剪定は街路樹の役割を放棄する作業だと、言ってきましたが、たった1週間前の「高枝ばさみで捕殺する」という約束さえ反故にして、またやるんですね。緑と花の課には、もう、協力しません。
6月7日

<なぜ夏剪定に反対か>
 街路樹の役割は、殺伐とした街に緑を供給すること、街を歩く人に日陰を提供することです。
 夏剪定は、「アメシロ対策」として、暑い夏に最も必要とするささやかな日陰をもたらす街路樹を丸坊主にすることです。まさに本末転倒の政策です。
 なぜ、アメシロ対策をするのでしょうか? 街路樹としての役割を保持するためでしょう。しかし、夏剪定は街路樹としての役割を潰す「アメシロ対策」です。夏剪定後の街は街路樹の緑も日陰もない街です。
 ここ数年アメシロを観察してきましたが、初期の巣網を高枝ばさみで除去すれば、それでほぼ解決します。


映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」

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映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」
6月23日~7月6日
金沢・シネモンド(金沢市香林坊KOHRINBO109)で上映



20180622 家庭ごみステーションに事業系ごみ

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家庭ごみステーションに事業系ごみ

 2018年6月21日付「北陸中日新聞」によれば、家庭系ごみ量が2月から5月までの4カ月間で、前年同期間比19%減少した。また清掃労働者に、「ごみの開封調査」という不本意な労働を強いている。

 去る3月20日、とある家庭系ゴミステーションに長さ約120センチの蛍光灯が10本も出されていた(写真①②:20日11時23分撮影)。ここは住宅地であり、120センチもの長い蛍光灯を使っている家庭はなく、明らかに事業系ごみである。翌日、同ゴミステーションを確認したが、この長大蛍光灯は跡形もなく、収集日に収集されたようだ(写真③:24日17時41分撮影)。

  

 ここで問題なのは、第1に、事業系ゴミがおおっぴらに出されていることである。第2に、それがそのまま回収されていることである。

 さて、2月から家庭系ごみ処理が有料化され、有料ゴミ袋を使用していないゴミを回収せず、さらに一部は中身をチェックして、排出者に戻しているという。にもかかわらず、市は明らかに事業系ゴミとわかる120センチの蛍光灯を排出者に戻さず、そのまま家庭系ゴミとして回収しているのである。

 もともと、家庭系ゴミステーションには、事業系ゴミが大量に排出されていることは公知の事実でありながら、市は対策もとらずに放置してきた。
 家庭系ごみが有料化されることによって、事業系ごみを「有料ゴミ袋」に入れて出していると考えられる。事業系ゴミをごみ収集業者に処理してもらうよりも、家庭系ゴミとして出す方が安上がりであり、事業者にとってはもってこいであろう。

 まさに、山野市政は市民からは厳しく税(有料ゴミ袋)をとりたて、事業者には安上がりな有料ゴミ袋を使い放題にし、事業者に便宜を図っているのである。まさに、徴税悪代官そのものである。

20180625 映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」を観る

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映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」を観る

 昨日(6/25)「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」(韓国映画2017年)を観てきた。

 1980年5月の光州民衆蜂起を題材にして作られている。光州蜂起を世界に伝えたドイツ人記者と、彼を光州まで送り届けたタクシー運転手の実話をベースに描き、韓国で1200万人を動員する大ヒットを記録した。

 1980年5月18日、民主化を求める大規模な学生・民衆デモが起こり、光州では市民を暴徒とみなした軍が厳戒態勢を敷いていた。「通行禁止時間までに光州に行ったら大金を支払う」というドイツ人記者ピーター(実在のユルゲン・ヒンツペーター)を乗せ、光州をめざすことになったソウルのタクシー運転手マンソプ(実在の金砂福)は、検問を切り抜け、時間ギリギリにピーターを光州まで送り届けることに成功する。

 留守番をさせている11歳の娘が気になり、光州を早く立ち去りたいマンソプだったが、ピーターは大学生のジェシクや、現地のタクシー運転手ファンらの助けを借り、取材を続けていく…。

 映画では、マンソプの目からみた光州市街戦の様子が写し出される。投石する市民に、軍は容赦なく銃撃する。逃げる市民。病院に担ぎこまれる人々。新聞やテレビでは、「一部の学生が暴動をおこし、軍に死者がでている」というフェイクニュースが流されていた。市民の側に立ち、記者や報道関係者が真実を伝える新聞を出そうとするが、会社経営者と軍の力によって、新聞の輪転機が破壊される。

 空挺部隊に拘束されている学生ジェシクは「世界に真実を伝えてくれ」とピーターに叫ぶ。ジェシクに鎮圧棒がうなる。傍観者だったタクシー運転手たちが立ち上がり、ふたりの脱出を守り抜く。最後の検問を通過するとき、若い一兵士(徴兵された兵士を想定される)に見破られるが、その兵士はふたりを見逃して、かろうじて光州を脱出し、ソウルにもどる。ピーターはフイルムを隠し持って、無事に韓国を離れることができ、光州で起きている事実が世界に知られることになった(5月23日)。

ハンカチを忘れないで
 連れあいとふたりで2時間17分を身じろぎもせずに観た。騒然としたなかで、プリパがわき起こっている。

 「われらはプリパ(根っこ派=ラディカルズ)だ チョッタチョア/共に死に共に生き チョッタチョア/ヒザを折って生きるよりは/立ったままで死のうじゃないか/われらはプリパだ われらはプリパだ」。ここで、私はハンカチを出した。

 わたしたちは2008年(?)に見た映画『光州5・18』を思い出していた。ふたりは韓国・光州訪問を話し合った。私は、2000年代を通して、不二越強制連行訴訟準備のために、くりかえし訪韓していたが、一度も個人的な旅をする機会に恵まれなかったからだ。

 2009年6月に「国立5・18民主墓地」に立っている自分たちを思い出していた。そこで、不二越強制連行訴訟原告を支援していた広島のDさんとバッタリとお会いした。



新しい時代が始まるか
 観客はわたしたちの世代だろうと想像していたが、意に反してまばらに坐る20人ほどのうち15人もが20~30代の女性だった。彼女らも身動きひとつせず、咳払いひとつせず、エンディングロールが流れ終わるまで、眼をこらしていた。

 7月21日から8月3日まで、『マルクス・エンゲルス』が上映される(シネモンド金沢)。

 20180630 映画「マルクス・エンゲルス」を観よう

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7/21~8/3(シネモンド金沢) 映画「マルクス・エンゲルス」を観よう

 6月28日に開かれた宇部功さんの講演を聴いた。『鶴彬―おとなの授業』と銘打っていたので、期待して参加したが、宇部さんは大きな影響を受けた人として、石川啄木と田中正造をあげていたが、マルクス(主義)との関係では一言も解説しなかった。

鶴彬の変化
 鶴彬の17歳を境にして、作風が変わっている。鶴彬の17歳とは何か。養父の機屋が倒産して、大阪の街工場で働き始めた年(9月頃)である。

 何が、どう変わったのか? 1926年(17歳)には、森田一二の影響を受けて、左傾化をはじめており、以前には使われていなかった「革命」「資本主義」「ニヒリスト」「虚無」「唯物論」「哲学」「資本家」「ストライキ」という言葉を使い始め、9月大阪に向かった後には「マルクス」という言葉が飛び出している。

 翌年(1927年)以降も、「賃金奴隷」「経済論」「資本」「マルクス」「資本主義」「奴隷」「ストライキ」「資本論」「プロレタリア」「搾取機」「組合旗」「サボタージュ」「革命歌」「だら幹」「ゼネスト」「メーデー歌」。そして1930年第九師団第七聯隊に入営後も、「資本家」「デモ」「アヂビラ」「ゼネスト」「団結」「メーデー」「モップル」などの言葉を選択し、川柳を詠んでいる。

 9月には、「七聯隊赤化事件」の中心人物として、治安維持法違反容疑で逮捕され、軍法会議にかけられ、有罪判決が下され、非転向で懲役刑を終えた。

大阪で何が起きたのか
 マルクス主義との接触である。日本でも、1919年からマルクス・エンゲルスの著作が翻訳出版されている。『資本論―第1分冊』(緑葉社)、『資本論―経済学の批評』(緑葉社)、1922年には『労働と資本』(無産社)、1924年には『ゴータ綱領批判』(内外出版)、1925年には『フォイエルバッハ論』(同人社)、『ユダヤ人問題を論ず』(同人社)、『労賃・価格・利潤』(日独書院)、1926年には『利潤の出処』(無産社)、『哲学の貧困』(弘文堂)、『経済学批判』(叢文堂)などが出版されている。1927年には改造社から『資本論』が出されている。1930年には『ドイツ・イデオロギー』(希望閣)、1931年には『フランスの内乱』(希望閣)が出版されている。

 まさに鶴彬が大阪に出た1926年前後にマルクス主義文献が多数翻訳され、出版されている。鶴彬が、これらの文献に接し、その結果、マルクス主義の理解が進むにつれて、先ほど挙げた言葉が多用されるようになったのだ。

 こうして、鶴彬の川柳人としての人生は大阪を境にして激しく変わった。金沢第七聯隊赤化事件判決文(1931年6月)によれば、「昭和2(1927)年3月頃全日本プロレタリヤ芸術聯盟金沢支部に加盟後は専らマルキシズムに関する文献を渉猟して漸次共産主義思想に傾き…『戦旗』『インターナショナル』『マルクス主義』『無産者新聞』『無産青年』等専ら共産主義に関する記事を掲載せる新聞雑誌を耽読研究」と記されている。【当ブログ『アジアと小松』中の「鶴彬から学ぶ」(2013.3.8)、「コムニストへの道」(2017.11.11)参照】

映画『マルクス・エンゲルス』
 鶴彬は17歳でコペルニクス的転換を勝ちとり、マルクス主義者としての人生を選択したのである。マルクス主義と切断したところで、石川啄木や田中正造の影響を語っても、それは耳あたりがよく、心地よいであろうが、本質を外した評論である。

 鶴彬を再評価するなら、マルクス主義の再評価が不可欠であろう。まさに、この時、映画『マルクス・エンゲルス』が上映される(7月21日~8月3日 シネモンド金沢)。とある映評によれば、

 若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた。永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。1840年代のヨーロッパでは、産業革命が生んだ社会のひずみが格差をもたらし、貧困の嵐が吹き荒れ、人々は人間の尊厳を奪われて、不当な労働が強いられていた。20代半ばのカール・マルクスは、搾取と不平等な世界に対抗すべく独自に政治批判を展開するが、それによってドイツを追われ、フランスへと辿りつく。パリで彼はフリードリヒ・エンゲルスと運命の再会を果たし、エンゲルスの経済論に着目したマルクスは彼と深い友情をはぐくんでゆく。激しく揺れ動く時代、資本家と労働者の対立が拡大し、人々に革新的理論が待望されるなか、2人はかけがえのない同志である妻たちとともに、時代を超えて読み継がれてゆく『共産党宣言』の執筆に打ち込んでゆく――。

鶴彬(17歳から21歳まで)のマルクス主義への傾斜(階級意識の形成)を示す川柳

【1926年17歳】全224句―養父の機屋倒産→大阪の町工場で働く。裕仁即位→昭和。
去勢してサア革命を云い玉へ/【3月】
虚無時代、恋、心底に冬眠す/
資本主義の工場ニヒリストの煙突/
虚無時代恋心底に冬眠す/
太陽の真下に蟻の唯物論/
哲学の本伏せて見る窓の青葉だ/
資本家の令嬢の美貌に見惚れる/【7月】
妻子飢ゆればストライキに入らず/【7月】
釈尊の手をマルクスはかけめぐり/【12月】
【1927年18歳】全93句―上京し、井上剣花坊を訪問。普通選挙実施→山本宣治当選。
賃金どれい鞭もつ人のあくびかな/
空気からパン経済論第一章/
星すめどサンヂカリズムの地の濁り/
哲学の本読む窓の雀の恋/
高く積む資本に迫る蟻となれ/
マルクスの銅像の立つ日は何時ぞ/
太陽の黒点、軍備、資本主義/

【1928年19歳】全87句―帰郷。ナップ高松支部結成→拘束→釈放後上京。3・15事件。
街に住む奴隷となれば野の声す/
高く積み危く揺るる資本主義かな/
搾取した血に噴水の管をあて/
奴隷ども集め兵器をこさへさせ/
ストライキ夕陽血走って居る/
遂にストライキ踏みにじる兵隊である/
大砲をくわへ肥った資本主義/
プロレタリア生む陣痛に気が狂ひ/
資本論やけど飢えたる群の声/
搾取機をくだくハンマにしたたる血/
指のない手に組合旗握りしめ/

【1929年20歳】全76句―小林多喜二『蟹工船』。山本宣治刺殺。29年恐慌
みんな馘切れば機械のサボタアジュ/
しもやけがわれて夜業の革命歌/
圧死せる奴隷のうらみ子に続き/
搾取した血へど吐かせばぶっ倒れ/
さあみんなかへせとゼネラルストライキ/
肺を病む乳房にプロレタリアの子/
いつしかに鉄の流れとなるメーデー/
惨敗の血にいろどった組合旗/
搾取した金を貰ふてゐるダラ幹/
ポンチ画になってブルジョア残される/
獄窓に微笑んで聞くメーデー歌/
ダラ幹になってスパイに敬まわれ/
生きるため葬儀会社のストライキ/
ゼネストのレポ機械もサボリ出し

【1930年21歳】全24句―1月第九師団七聯隊に入営。9月赤化事件(治安維持法違反)で逮捕。小作・労働争議多発。
資本家の組合法にかしこまり/
職を与へろとデモになる生命を賭けたアヂビラ/
ゼネストだ花が咲こうが咲くまいがよ/
団結へ賭けろどうせ食えない生命じゃねえか/
メーデーよ居ないあいつの分までうたはう/
明日の米代と知りながら買うモップルの団扇よ/
淫売と失業とストライキより記事が無い/
特高がモテ余すデモごっこデモごっこ/

【1931年22歳】―6月第九師団軍法会議で懲役2年の判決→大阪衛戍監獄へ移送。満州事変勃発。
【1932年23歳】―大阪衛戍監獄で受刑。4月上海爆弾事件(11月尹奉吉大阪衛戍監獄移送→12月金沢で処刑)。
【1933年24歳】―12月除隊→帰宅。小林多喜二虐殺。日本、国際連盟脱退。ヒトラードイツ首相に。


20180702 防衛省情報公開室の情報隠蔽を暴く

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防衛相情報公開室の情報隠蔽を暴く

 4月12日付で、防衛相情報公開室に、「小松基地(第6航空団)から航空総隊司令官宛の2017年4月から2018年3月までの緊急着陸報告」の開示を求め、6月11日付で「開示決定通知書(防官文第9407号)」が発行され、後日受け取った。
 受け取った文書は4月4日(29-1,29-2)、4月14日(29-3)、4月24日(29-4)の4件(5ページ分)だった。



しかし、マスコミ発表と比較してみると、下記の4件に関する開示をネグレクトしていることがわかった。
(1)「7月5日午後8時半頃…小松基地所属のF15戦闘機1機が夜間訓練中に、同基地に緊急着陸した」
(2)「10月7日午後1時10分頃、小松基地に米軍三沢基地所属のF16戦闘機3機が緊急着陸した」
(3)「10月24日午後5時半頃、小松空港滑走路に、小松基地所属のF15戦闘機1機が緊急着陸した」
(4)「11月2日パイロット体調不良で小松基地F15戦闘機緊急着陸」

小松基地が報告を上げなかったのか?、本省情報公開室が開示に当たってさじ加減をしたのか?
 いずれにしても何らかの「意図」が働いていると思われる。最近の政府・諸官庁は、自らに都合の悪い情報を隠し、情報を書き替えることなどへっちゃらである。
 防衛相情報公開室に、今回の開示隠蔽事件について、その原因を調査し、公表することを求める。
2018年7月2日
小松基地問題研究会

20180704 大飯原発訴訟控訴審判決報告

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7・4大飯原発訴訟控訴審判決報告
 ―「司法の役割越える」? 否、「司法の役割終える」―

 7月4日、今にも泣き出しそうな空だった。名古屋高裁金沢支部・内藤裁判長の訴訟指揮を見てきて、ワクワク感もドキドキ感もない判決の日に、裁判所に向かった。
 傍聴抽選締め切り(1時30分)の1時間も前に着いたのに、もう裁判所の前は100人ほどの市民が集まり、スピーカーがセットされ、生きのいい音楽が始まっていた。
 石垣に腰を掛け、<stop Nuclear Power plant(原発とめよう)>のボードを掲げると、外国人観光客は物珍しそうにのぞき込み、グッドサインを示して去って行く。
 高校生たちは、金沢では珍しい路上ライブに引き寄せられてか、立ち止まり、スタッフから説明を受けている。

  

抽選に落ちた 裁判所死ね
 午後1時20分に、傍聴抽選の列にならんだ。長い列ができ、最後尾は180番の抽選券を受け取っていた。僅か数分遅れてきた傍聴希望者を冷酷に排除している。裁判所というところは人民の権利を守る砦ではなく、権利を奪うための砦であることを告知しているようだった。
 抽選番号が発表されたが、私の171番はそこにはなかった。「保育園落ちた、日本死ね」を思い出した。原告団・弁護団を先頭にして、法廷へと向かった。残留組はふたたび裁判所前に陣取り、行き交う市民に裁判に注目するよう訴え続けた。

   

梅雨空に 樋口判決 破り捨て
 開廷時間(3時)が迫り、法廷からの連絡を待つ。いつもは、一縷の期待をこめて待つ緊張の時間なのだが、今日は誰も彼も、だらりと待っている。内藤裁判長の顔を思い浮かべれば、絶対に奇跡など起こるはずはないと、だれもが口をそろえる。
 やがて、「不当判決」「司法は福島から目をそむけるのか」が掲げられた。予想通りの判決だ。怒りの声、シュプレヒコール。法廷から出てきた河合弘之弁護人は「馬の耳に念仏判決」と皮肉り、原告団長の中嶌哲演さんは「(内藤裁判長は)関西電力のサーヴァント(召使い)」と厳しく弾劾した。

  
 金沢弁護士会館に移り、判決読み込み・分析評価をおこなう弁護団を待つ。その間、法廷での様子が伝わってきた。内藤裁判長が判決文を読み上げているあいだじゅう、傍聴席から「三権分立はどうした」、「茶番だ」、「あなたの判断は間違っている」、「福島はどうなった」、「最新の知見は入っていない」などの抗議と弾劾、嘲笑が叩きつけられた。マスコミでさえ、「『司法の敗北だ!』、『それなら福島の事故はなかっただろう』などと怒号がやまなかった」と報道している。
 弁護団が到着するまでの間に、原告の浅田正文さんは「三権分立を、特に司法の役割を放棄する酷い判決」、福井県嶺南地方から駆けつけてきた女性は「無責任な判決だ」、大飯原発から30キロの南丹市の男性は「空疎なデタラメ判決」、と口々に内藤判決を批判した。


判決後の記者会見
 午後4時、弁護団が会場に入り、詳細な判決批判がおこなわれた。判決要旨、原告団・弁護団の「抗議声明」が配布され、判決の内容が明らかになった。弁護団長・島田広さんは「原告敗訴は予想通りだったが、その内容は想像を超える酷い判決」、「クリフエッジを越える地震の可能性を指摘しながら、危険ではない」、「福島事故を忘れ去った判決」、「無責任で、ずさんな判決」、「これは裁判じゃない、茶番だ」、「4年間も費やして、何ともみっともない判決」と、こき下ろした。
 井戸謙一弁護人は「クリフエッジを越える地震はありうると言いながら、安全だと言っている。論理矛盾を来している。裁判所が追いつめられている証拠だ。安倍政権下の官僚と同じ構図であり、司法よ! お前もか。ここを突破していこう」と、中嶌さんも「法廷内外でたたかいつづけよう」など、原告団、弁護団の怒りと決意が表明された。

「判決要旨」を読んで、気付いたこと
(判決要旨) 「現在の我が国の法制度は…原子力発電を行うことを認めている。…原子力発電所の運転に伴う本質的・内在的な危険があるからといって,原子力発それ自体で人格権を侵害するということはできない。この点は,法制度ないし政策の選択の問題であり…その当否を巡る判断は,もはや司法の役割を超え…立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄である。」→司法は「統治行為論」をもって、悪政を追認する国家機関と化した。三権分立の否定であり、司法の行政への屈服以外の何ものでもない。

 (判決要旨)「当該原子力発電所が有する危険性は社会通念上無視しうる程度にまで管理され,周辺住民等の人格権を侵害する具体的危険性はない」
 ウィキペディアによれば、「『社会通念』とは民事法では『慣習』や『取引通念』、刑事法では『常識』と同義に使われている。裁判官が妥当と考える結論を述べる際の枕詞として使われることも多い」と説明している。→島崎証言を無視し、科学的議論を避けてきたのはだれか。「社会通念」という枕詞を多用(1500字の「判決要旨」中3回)して、原発の危険性を否定するというレトリックを使っている。原告が原発の危険性を厳密に提起しているのに、慣習や常識(現体制の価値観)で応えている。不誠実この上ない態度である。

 (判決要旨)「本件発電所の安全性審査に用いられた新規制基準は,各分野の専門家が参加し,最新の科学的・専門技術的知見を反映して制定されたもの」「本件発電所の安全性審査に用いられた新規制基準は,各分野の専門家が参加し,最新の科学的・専門技術的知見を反映して制定されたもので」→内藤裁判長は、島崎さんの証言を無視し、その他の証人申請を次々に却下し、大飯原発の危険性の論証の機会を奪い、こんなことがいえるのか。

原発再稼働阻止こそ平和への道
 名古屋高裁金沢支部・内藤裁判長は強引に樋口判決(福井地裁)をひっくり返し、再稼働にゴーサインを出した。志賀原発訴訟でも、原子炉直下に活断層が走っているという致命的な状況下にある北陸電力を救済するために、裁判所は結審・判決を先延ばし、規制委員会の判断を待っている。このように、司法は、その独立性を放棄し、安倍政権の原発再稼働推進に屈服し、言いなりになっている。
 安倍政権のエネルギー基本計画(閣議決定)では、2030年度のエネルギー比率を20~22%に引き上げるとし、原発・核社会に突き進んでいる。すでに日本は、核爆弾5000発分のプルトニウム約47トンを保有し、再稼働推進によってさらに増やそうとしている。朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)に軍事圧力をかけるために、日本は大量のプルトニウム保有を容認されてきた。まさに、日本は原発、プルトニウム政策を推進しながら、北朝鮮に核放棄を要求している。まさに矛盾であり、日帝こそが東アジアの平和を妨げてきたのだ。


 【参照:<福井から原発を止める裁判の会http://adieunpp.com/judge/kousai.html>のホームページにアップされている「判決要旨」、「判決全文」、「原告団・弁護団の抗議声明」】

2018年6、7月 川柳2題(天皇報道、大飯控訴審判決)

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20180614 天皇報道

皇室を 背負ったミチコの 厚化粧
天皇の 上から目線 笑みの裏
川柳人 今も恐れる 不敬罪
 
20180704 大飯原発控訴審判決

判決に 裁判所死ネ 怒りの目
梅雨空に 樋口判決 破り捨て
正義捨て 自己保身の 裁判長
断層も 火山灰も 咎めなし

20180712 NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論~」を考える(上)

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NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論~」を考える(上)

ナレーション:「今、お金ってなんですか」―新春に放映され異色のドキュメント。分断が世界で進む現実に、若い世代からも多くの反響が寄せられた。やめられない。とまらない。欲望が欲望を生む―欲望の資本主義。アメリカファーストを掲げ、ビジネススマイル全開に見えるトランプ大統領の登場で、ますます加速。広がる分断―8人の大金持ち(総資産4268億ドル)と世界人口の半分(36億人)が持つ資産とほぼ同じ。
注:トップ8人(①米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏、②米著名投資家ウォーレン・バフェット氏、③メキシコの大富豪カルロス・スリム氏、④米アマゾン最高経営責任者(CEO)のジェフ・ベゾス氏、⑤米フェイスブックCEO のマーク・ザッカーバーグ氏、⑥スペインファッションブランドZARAの創業者アマンシオ・オルテガ氏、⑦米オラクル会長のラリー・エリソン氏、⑧前ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏である。8人中6人までがアメリカ人である。―2017年1月16日、『日本経済新聞』)

  

ナレーション:持つもの、持たざるものを引き裂く欲望の資本主義。そんななか、アメリカでは社会主義の成立を願う若者たちの姿(テロップ―アメリカ社会民主主義者の会、資本主義反対)。揺れる経済のあり方。そもそもマルクスは資本主義経済が高度に発展したその後に、自由で平等な社会主義が作られると考えた。だが皮肉にも、社会主義が実現したのは、当時まだ貧しかった北の大地。早すぎる壮大な実験は失敗に終わった。
   アメリカでマルクス経済学にめざめたというAさんが今回のジレンマのゲスト。今社会主義にイデオロギーを超えた可能性を見出している新世代の経済学者だ。対するのは、ネットビジネスの最前線で、新機軸を仕掛けるCさん。Cさんが立ち上げたのは、だれもがライブハウスに出来るプラットホーム。エンタメ業界に新たなモデルを打ち出し、注目を集めている。資本主義の発生の歴史から研究するBさんも参加。産業革命発祥に地イギリスに10年以上身を置き、ビジネスと社会の関係を問い続けてきた歴史学者。人生の選択を間近に控えた学生たちも集まった。
   日本でも、産業構造が激変、サラリーマンが安定とはいえない時代に、企業をめざすか、起業か? 新たなマルクス経済学の視点を交え、お金の経済のこれからを語る―「お金儲けのジレンマ~新世代の資本主義論」。
注:「アメリカ社会民主主義者の会」とあるが、ウィキペディアでは、「アメリカ民主社会主義者(DSA)」となっていて、2011年「ウォール街を占拠せよ」に参加し、2016年アメリカ大統領の民主党候補としてサンダースが立候補した。

社会学者D:マルクス主義から見ると、起業はいいものなのか?
経済学者A:資本家になりたいという手段である。日本型雇用で働くことが難しくなってきている。それにたいするオルタナティブ(新しい選択肢、代替案)として自分はこの階級社会で、起業して資本家になりたいという―。

社会学者D:マルクス主義的正解は、労働者として搾取されるのか、資本家として搾取するのか?
経済学者A:マルクス主義的にいえば、当然、そういう対立をなくして、資本家もお金儲けをしなくちゃというプロセスに追われていることからも解放してあげようじゃないかということがある。
→投稿者:階級対立を解消し、支配階級も被支配階級も、ともに解放するという思想。

社会学者D:もともと、搾取ってどういう意味なんですか?
経済学者A:搾取というのは支払われている以上に、労働者が価値を生み出している。利潤がどこから来ているかというと、不払い労働部分から来ている。

ナレーション:マルクスは、「生産手段を持つことで富を蓄積すること」を批判した。搾取され続けた労働者はやがて団結して、資本家を打倒、自ら自由で平等な社会主義社会を建てる。

社会学者D:資本主義をまわすためには、労働者を搾取することが必要?
経済学者A:そうですね、利潤・資本を増やしていくことが資本主義の根本的なメカニズムだとするならば、そのためには必ず労働者が剰余労働をして、自分たちが得ているよりも多くの価値を生み出さなくてはならない。

社会学者D:搾取がなくなったら、お金儲けはできなくなるのか?
経済学者A:そうです。お金儲けをしなくなった状態の方が、イノベーションとかも出て来る。お金儲けのためにイノベーションをしていると、視野が狭くなったり、繋がるようなチャンスがなくなる。特許とか、資金(不足)の関係で(チャンスから)遮断されること(障害)が取り払われるわけですから。

社会学者D:共感とか、応援を受けることを目的にしていて、参加者はお金儲けが目的ではないのか?
起業家C:逆説的なんですが、お金儲けを目的にしても、多分お金は貯まらない。共感ってそういうものなんですね。自分は昔引きこもりで外に行くことはできなかったけれども、アイドルを見て救われたから、今度はアイドル側にまわって、救う側にまわっていくんだというストーリーに共感して、そこにお金が投じられるとか、そういうものなんですよ。

ナレーション:起業家Cによると、だれでも動画をライブ配信出来るプラットホームを応援したい。表現者に、見る人は有料のデジタルギフトをプレゼント。そこに利潤が生まれる。共感がこのビジネスのカギだということだが。

社会学者D:起業体は結果的に誰かの何かを搾取しているのでは?
経済学者A:今の形だと、明らかな搾取ではなくなっている。参加している人たちも、コンテンツをあげて、そのなかで楽しくしている。フリーであげられているコンテンツをもとにして、YouTubeなりショールームなりで、利潤を上げているというのは、これまでは労働者が工場で搾取されているというのとは違う形で、新しい富を産む形態になってきている。
起業家C:供給者と消費者の境目が曖昧になってきているから、単純に搾取とはいえなくなっている。
→投稿者:Aさんは現代資本主義をあからさまな搾取ではなく、新しい「富(利潤)を産む形態」と主張している。Cさんは資本家を供給者、労働者を消費者と呼び変えて、両者の間には「搾取」が存在しないかのように主張している。「新しい形態」を資本と労働、搾取=被搾取の問題として厳密に論じるべきだろう。

社会学者D:Aさんからすると、あからさまな搾取と、ハッピーな搾取でまわっている社会と、どっちがいいんですか?
経済学者A:あからさまな搾取が難しくなってきている。モノをたくさん作って、売るというモデル自身も行き詰まっているし、依然として搾取は続いているので、もっと違うあり方があるんじゃないか。
→投稿者:あからさまな搾取であろうが、ハッピーを感じる搾取であろうが、労働者の剰余労働部分をピンハネしていることに変わりはない。そうでなければ、どこから利潤が生まれるというのだ。Aさんは搾取ではなく、「違うあり方」を模索しているようだが、搾取のない資本主義があり得るのだろうか?

社会学者D:共感をもとに仕事をすることは、今始まったわけではなく、昔からあるんですよね?
歴史学者B:そうですね、例えば300年ほど前ですが、イングランドだったら国内で投資する対象が増えていくという時期があって、イングランド銀行が始まって、ベンチャー企業がたくさん出て来るんです。コーヒーハウスにいろんな人がビラを配っていて、そこで「わたしたちは新鮮な水を飲めるようにします。そうするとすごくいいですよ。生活の質も上がりますよ」などと、あの手この手で、投資を期待して、関心とか興味を買おうとしていました。

社会学者D:今でいうと、NPO、社会的企業と近いのですか?
歴史学者B:極めて近いと思います。

社会学者D:お金儲けなのか、社会的にいいことをしたいのか?
歴史学者B:実際に、本当なのだろうかと、当時も思われていました。結局私利私欲を追求しているだけなんじゃないかと、疑問とか批判とかが常にあって、それ自体も新しくない。

社会学者D:私欲追求型の起業家は流行らない?
起業家C:少ないです。

社会学者D:本気で、私利私欲がないのか、社会のためなのか?
起業家C:ただ、欲求階層(注)をのぼっているだけで、だからお金が増えてもそんなに幸せじゃない。その次の段階の幸せをもたらしてくれるものはなんだと考えたときに、自分がリーダー的行動を起こして、世の中にたいして社会的価値を与えたときに返ってくる共感とか、感謝とかを得た「幸せの効用」の方が大きいことがわかっている。
注:人間の欲求は「生理」「安全」「愛情と所属」「自尊と承認」「自己実現」という5つの階層構造を持っており、前の段階の欲求が充足されて初めて、次の階層の欲求の充足段階へと到達することができる。これを欲求の階層説または自己実現理論と呼びます。<生理的欲求>は、生命維持のための根源的な欲求、つまり、食欲・睡眠欲・性欲といったものを指します。<安全欲求>は、生命維持だけでなく、生命を脅かす可能性のある状況を回避しようとする防衛のための欲求です。<愛情と所属の欲求>は、社会的な関係性をもって居場所を確保したいという欲求です。<自尊と承認の欲求>は、居場所の確保だけでなく、その場において存在する価値のある人間でありたい、他の構成員からの承認を求めたいといった欲求を指します。そして最後が、<自己実現の欲求>自分自身が持っている成長可能性や潜在能力を十分に表現でき、自分らしく創造的に生きていきたいとする欲求です。

司会者E:(学生に向かって)起業したいと思っている人は?―3人挙手―どうですか、今の話しを聞いていて?
学生・F:利潤を追い求めたらあまりよくないという風潮になっていて、ぼくは資本主義が好きだったので、A先生が社会主義なので聞きたいと思って…。利潤についての話しなんですが、価値が出なかったらNPO、価値が出たら普通の株式会社というふうに言っているようにしか感じない。そのちがいは何ですか。自分自身利益を追求してからでないと、自立していない人間が他人にアプローチ出来ません。

社会学者D:今のところ、お金儲けしたいのですか?
学生・F:そうですね。

ナレーション:お金儲けがしたい、さらに富を増やしたい、そんな人間の欲望に免罪符を与えたのが経済学の父アダム・スミス(1723~1790)でした。自らの欲望に従い、それぞれがお金儲けを追求すれば、結果的に分業が達成され、社会は豊かになる。それを「見えざる手」と呼んだ。スミスの理論を根拠に、資本主義は膨らみ続けてきた。だが、実はスミスは倫理学の書物(『道徳感情論』)も残している。「利己心だけではなく、他者への共感が社会の要だ」と書いているのだが。
→投稿者:資本の自己運動性は倫理では抑制できない。だからスミスが生きていた当時から200年後の現在も、資本主義は非倫理的で、格差が広がり続けている。

社会学者D:お金儲けしたいという学生にたいして、Aさんは?
経済学者A:日本自体の経済が、マクロで見て行き詰まってきているなかで、起業したいという背後には、やらなかった人は自己責任だということがついてきます。パイが小さくなってきたら、失敗するかもしれないし、自己責任で切り捨てられない部分があるんじゃないか。そもそも、チャレンジ出来ない人もいるんじゃないか、そういうところに想像力を向けるべきじゃないでしょうか。

社会学者D:最近、国が「起業しよう」と言っています。日本経済を成長させるために、公的ミッションとして扱っているのに、失敗したら本人の責任という、体制に都合のよい存在でもあるわけですね。Bさんは資本主義を乗り越えることができると思って研究しているんですか?
歴史学者B:そうですね。歴史的に資本主義というのは、ここ数百年のシステムであって、いま出てきている傾向性を最大限に推しすすめることによって、資本主義を超えた、社会主義ではなく、ポストキャピタリズム(ポスト資本主義)に行けるのではないかと考えています。イメージで言うと、オートメーション化が進むなかで、労働時間を減らすチャンスが出てきている。2つ目は情報とか知のフリー共有、3つ目はシェアリングエコノミー(注:ネットを用いたモノやサービスを交換・共有する新しい経済の形)で、モノの社会的シェアーが進んで行く。そうすると資本主義の根本原理である私的所有とか、価値を追求するという原理がみんなでシェアするようになったり、みんなで共有するようになると、(注:資本主義の根本原理が)揺らいでくる。そこに突破口があるんじゃないか。そこで伺いたいのは、所有がなくなってしまうと、競争はどうやってするのですか? 競争はいらないという話しですか? そもそもシェアリングエコノミー(sharing economy)(注)とか、オートメーションを可能にしているものがどうやってつくりだされたのかを考えると、例えばシリコンバレーでの競争とか…。
注:物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。
→投稿者:Bさんは<①オートメーション化、②情報・知の共有、③シェアリングエコノミー>によって、資本主義の原理=私的所有、価値(利潤)追求が揺らぐと主張しているが、これで資本主義のワイングラスが砕け散ると本気で思っているのだろうか。2011年「ウォール街を占拠せよ」は未完であり、ますます格差が拡大しているという現実からはじめるべきだ。

経済学者A:よく言われる例ですが、オープンソース(注①)の例で言うと、ウィキペディアとかリナックス(Linux)など、みんなで競争しないで、シェアしたいという気持ちから、あれだけ大きなプログラムができた。シリコンバレーの例を挙げたけど、クラウドファンディング(注②)で、挑戦心のある人を応援したいという人も出て来る。
注①:ソフトウェアの設計図に当たるソースコードを無償で公開して、誰でも自由にそのソフトウェアを改良して、再配布できるようにすること
注②:ある目的に向け、賛同者を募り、資金を集める仕組み→投稿者:株式会社方式とどう違うのか?

歴史学者B:クラウドファンディングはまだ資本主義じゃないですか?
経済学者A:だから、資本主義を超えるような、いままでみたいな資本をいっぱい持っていないと大きな企業を作る事が出来ないというモデルから、むしろだれでもチャンスがあって、水平的分散化したような新しい社会的起業をおこなえるのは全然違う資本主義のあり方になってくる。
→投稿者:「だれでも」は億単位の人間を対象にして言っているのか、知から排除された植民地下の人民があらかじめ除外されている。資本主義が戦争をもたらしており、そこで逃げまどっている人民は対象外か? 「資本主義を超える」というが、価値法則の廃絶を射程内に入れているのか? 「資本主義のシステム」を根絶することが本質的解決の道だと確言出来ないのか?

歴史学者B:それって、ぼくが研究の対象としている300年前のイギリスに似ている部分も多い。新しい共感を求めるメッセージで、新しい会社を作ってみようか、ロンドンへ行って一発勝負してみようかな、そうすると当時も、クラウドファンディングが可能になっていたんですね。
経済学者A:おもしろいのは、新しいビジネスがイギリスの時よりも、さらにグローバルに人々をつなげるようになるところに、資本主義と違う原理が出てきちゃう。
→投稿者:グローバル化が「非資本主義的な原理」とでも言いたいのか? 「帝国主義段階」論のように、「亜段階」論として展開するならまだしも、「資本主義と違う原理」が貫かれるシステムするのは明らかに誤りだ。

歴史学者B:ネットワーク化されている状態という点は、300年前とはまったく違うし、速度も違う。
経済学者A:技術が違い、速度も違う。

社会学者D:ポスト資本主義ともいえるし、資本主義の行き着く先です。資本主義が徹底され、共感さえ商品になってきた時代といえる。
経済学者A:ある意味で、人と人のネットワークが強まってきているという側面がある。

社会学者D:AさんとCさんは近いんですか?
経済学者A:そういう新しく出ている技術というのは、実は必ずしもお金儲けではないというところがポストキャピタリズムを示しているんじゃないかな。
起業家C:過渡期だから、説明しにくい現象が起きている。例えば、ウーバーだって、上場しますといって、資本市場でお金を集めたら、資本主義の仕組みのなかでロジックが動きます。

ナレーション:ウーバーは世界80ヶ国ほどで展開されているアプリで、車を呼べるサービス。一般の人が客にもドライバーにもなる。シェアリングエコノミーの実践例として注目を集めている。

起業家C:消費者側に目を向けると、消費者は所有ではなくて共有という、消費者は共有でオーケーで、奪い合いはない。運営している側は奪い合いが起き、タクシーを倒さねばならないし、他のウーバーⅡが出てきたら、それも潰さなければならない。
経済学者A:そこが資本主義が自分らの可能性を抑圧するポイントです。資本主義である限り、ウーバーはそれを手放せないから、そこはこれから階級闘争が必要となる。
→投稿者:Cさんが問題にしているのは階級間の問題ではなく、資本間の競争(闘争)なのではないか?

歴史学者B:例えばショールームみたいな一種のシェアを広げていきますよね、ここまで広がっていったときに、そこまで広がるのは不当だと、独占に近づいているといわれたら、どのように感じるのですか?
起業家C:そのとおりなんですよね。それこそぼくらがかかえているジレンマなんです。一強になってしまうと、歪みの構造になるんですよ。エンタメ業界の権力の偏りの構造は違う(注:まずい)と思っているので、それ(独占、偏り)を分散させるために、個人(歌う、踊る、楽器を弾く)が一定の生計を立てられるまで、ファンを作ることがぼくらのやっていることなんです。それが成立している裏側で、価値がどんどん付いてきて、ぼくらに権力が寄ってしまうんです。行き着く先は、ぼくらに寄った権力を分散させていくことだと思っています。

司会者E:分散というのは、社長さんがやりたいと思ったら資本主義のもとでもできるんですか?
経済学者A:できないですね。知識を独占して、労働者から取り上げたのが資本主義のロジックです。ネットワークが進んできたから、知とか情報を自分たちの側に取り戻せるんじゃないか?
→投稿者:資本主義が「知、知識」を商品化したという延長線上に論が形成されており、ネットワークが発達すれば、資本主義下でも労働者階級は支配階級に奪われた「知、知識」を奪いかえすことができるとしている。資本が作った「知、知識」という商品は資本の所有下にあり、その商品(知、知識)を消費者に販売することによって、利潤を生み出しているのではないか。この商品(知、知識)を購入することを「取り戻す」というのは間違いではないか?

司会者E:自分たちってだれなんですか?
経済学者A:資本家じゃないです。
→投稿者:「資本家じゃない」といいながら、労働者階級とは言わないで、お茶を濁している。

社会学者D:マルクスの主張は工場を持っていなかったら資本家になれないとか、今って、タブレットがあればビジネスができるので、資本家と労働者という昔ほどに強固な対立関係はないと思うのですが?
経済学者A:ぼくは「起業がいつでも、だれでもできる」というのにイデオロギーを感じる。非正規労働者とか、生活が苦しいなかで、日々の生活に追われていたら、そういうことを考える余裕もないし、彼(注:非正規労働者)が求めているのはチャレンジして、ワンチャンスをあてることではなくて、日々の安定とよい生活であり、そういう人たちに目を向けることが重要である。貧困率を見ると、苦しい生活をしている人が極めて多くなってきており、追い込まれている人たちも多いことを考えると、この人たちに「起業しろ、チャンスがあるぞ」というのは…。



社会学者D:確かに、国によるフリーター支援とかの政策を見ていると、フリーターに起業など極端なことを迫っている。フリーター問題の報告書なのに、結論が「起業しましょう」となっていて、それは無意味だなと思うのですよ。起業は大変なんですか?
起業家C:なかなか大変です。「やめなければ成功する」というのがモデルになっていて、資金調達の敷居がさがっていて、起業して壁にぶつかったときに、壁を破る精神があるかどうかにあり、だれもが起業出来るとは思わない。

司会者E:どういう壁があったのですか?
起業家C:例えば、社員が14~5人しかいないのに、10人が辞めると言い出したとき。

社会学者D:みんなに起業を勧めますか?
起業家C:モチベーション(意欲、動機)が高ければ勧めますよ。起業して、「いやなことが起きても、ハッピーに働けます、打ち返せます」というんだったら、勧めます。

社会学者D:そうでなければ、安定した何か(仕事)をやればいい?
起業家C:理想は、選択肢が広がっていけばいい。

歴史学者B:それ(選択肢)を広げるためだったのでしょうが、これまでのように安定した生活をしたい人たちは、逆に苦しくなるかもしれません。そうすると、選択肢が広がったにも拘わらず、それ(起業)を選択しなかった人の責任になる可能性がありませんか?
経済学者A:そうならないように、もうひとつ違う対案を出していく必要があります。社会的に、日本型雇用が難しくなっていて、かといってみんなに起業を求めるのは酷です。イギリスには、新しい案が出てきていて、この番組でもピケティのことが出ています。

ナレーション:資本主義が生む格差を分析した『21世紀の資本』が世界中でベストセラーとなったトマ・ピケティは「重要なのは民主主義がこの強力な市場を正しい方向に導くことです」と主張している。「r(資本の収益率=株式、預金、不動産による収益)>g(労働による所得)」を実証した。富める者がより富むのが資本主義の定めなのか?

経済学者A:rがgより大きいなら、資本を持っている人はどんどん大金持ちになって、格差が広がっていくという議論が流行っています。ピケティはその時に課税再配分して、rを抑えようというのですが、今、イギリスの労働党党首で、ジェレミー・コービンは「rを労働者自身が取ってしまえばいい」、協同組合を作って、自分たちでrを管理すればこの問題を解決出来る。
→投稿者:資本主義のもとでの課税再配分では「取り過ぎた」一部分の再配分程度で、格差を根本的になくすることはできない。資本主義のもとで「rの労働者管理」は矛盾的である。だったら資本を廃絶すればいい。

社会学者D:一部の資本家に利潤が集まりにくい構造を作るということですか?
経済学者A:そうです。企業を売却することになったときに、労働者に先買権を与えて、このビジネスを買いませんかとオファーする。労働者が買うといったら、この企業は協同組合として、労働者が自分たちで生産を管理する企業になります。

社会学者D:実際、職員はピラミッド型の構造にしないと、命令系統をしっかりさせて、兵隊がいないとまわらないと思う。
歴史学者B:それ(注:労働者自主管理)を水平的メカニズムで、どのくらいできるんでしょうか?

社会学者D:人間の能力の差をどういうふうに考えます?
経済学者A:完全に平等である必要はない。責任ある代表がいて、その人の年収が高くてもいいと思う。経営などにかかわりを持てなかった立場にいたときと、自分たちで協同組合的に運営していくときとでは、労働の中身は変わってくるでしょう。その労働の内容も協同組合的に水平的に決めていけるようになったら、少しはまともな共同管理ができていくと思います。

司会者E:私はどちらかというと、生活的に、決定できるような自信もないですし、平でいいんですけど。
起業家C:労働者に当事者意識を持たす方が社会全体にプラスになるという社会の論理があるが、労働者ひとりひとりに聞いてみると、Eさんみたいに、「当事者意識といわれても」と思う人がいるでしょう。

経済学者A:奪われている状態では、「そんなこと言われたって」となっちゃうと思います。そもそも当事者ではなくなっている状態であり、実際に当事者になって、経験を通じて、自分たちで会社を運営する民主主義的な経験が蓄積されていくでしょう。
歴史学者B:ここで民主主義という言葉が出てきたのはすごく大事なことだと思います。みんなが大統領とか政治家のようにたくさんの決定権が必要ではないでしょう。何らかの形で町内会に関わるのと同じような感じで、仕事のなかで町内会的、PTA的感じで。
→投稿者:町内会やPTAは行政の末端組織であるという認識がない。なぜ、労働組合が例として出て来ないのか? マルクスは労働組合を「労働者自治の学校」としてみていた。労働組合(労働者の自立)を忌み嫌う資本主義のなかで、平和的に労働者の自主管理に移行させてくれるようなお人好しの資本家がいるのだろうか? ジェレミー・コービンの話しは、競争に負けて経営危機になった企業を投げ出したときの話しではないのか?

経済学者A:いきなり、「決定権がほしかったら、起業しろ」というのでは、ハードルが高いけど、みんなでこの企業を運営しようとなったら、少しは心のハードルがさがる。
社会学者D:会社を変えるにしても、社会を変えるにしても、フリーライダー(コストを負担せず、便益のみを享受する人)がいちばんお得じゃないですか。自分じゃなくて、誰かがやってくれるのを見ているというのがいちばんお得ですよね。そうじゃなくて、みんなを参加させる仕組みはどうやって作るんですか?
経済学者A:規模をできるだけ小さくして、みんなが参加出来るような規模にする。知とか情報とかテクノロジーが共有されるようになってくると、小さい企業も大きな企業と同じような商品を作れるようになる。そうすれば経営にも参加できるから、民主主義的な経験が生きてくる。
→投稿者:特許権の問題をどう解決するのか?

起業家C:「跳ね返り」だと思います。TVとラインと、どっちが楽しいかと聞くと、ラインだといいます。跳ね返ってくるから、インタラクション(相互作用)があるから。
歴史学者B:そういう意味では、跳ね返りのいいメディアを作ったということですね。
起業家C:跳ね返りがいちばん大事だと思っています。

歴史学者B:他の分野でも少しづつ、そういう跳ね返りを感じ取れるような経験を積み上げていければ、政治においても、自治においても、地元においても。
起業家C:エンタメにおいては、それが証明されているんです。

…続く…

20180717 外来種シタベニハゴロモ発見(修正)

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20180717 外来種シタベニハゴロモ発見

2週間ほど前から、周辺で見慣れない昆虫(写真)が目につき、気になって、インターネット上で調べたがわからなかった。
写真を石川県ふれあい昆虫館に送って問い合わせると、

写真の昆虫ですが、「シタベニハゴロモ」と呼ばれる外来種です。インドや中国、韓国に分布している虫なのですが、2009年に初めて石川県小松市で発見されました。現在は、福井県、小松市、加賀市、白山市などで分布域を拡大しています。
ちなみに、どちらで見られたのでしょうか? (➡金沢市内)

さすがプロ集団だ。さらにインターネットで調べると、石川県ふれあい昆虫館のメンバーによる「石川県におけるシタベニハゴロモの生態」という論文(2013年)の紹介があった。

さらに調べていくと、シタベニハゴロモの卵塊の写真があり、もしかしたらと思って、周辺を調べなおすと、
同じようなものが壁に張り付いており、この写真を石川県昆虫館に送ると、まさに卵塊であることが分かった。



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石川県におけるシタベニハゴロモの生態

著者 石川県ふれあい昆虫館のメンバー5人連記)
出版者 日本昆虫学会
雑誌 昆蟲. ニューシリーズ (ISSN:13438794)
巻号頁・発行日 vol.16, no.1, pp.3-14, 2013-01-05

 シタベニハゴロモの野外における生態を調査した。本種は年1化で、卵越冬する。幼虫は5月下旬から8月初旬にかけて出現する。成虫は7月下旬から11月下旬まで認められ、寿命は3-4ヵ月と推定された。幼虫はおもに新梢部の枝や葉軸から吸汁するので枝先に多く、成虫は樹幹部に集団を形成する傾向が認められた。交尾および産卵行動は9月後半から11月まで認められ、夕方から夜間に行われた。卵は被覆物質で被われた卵塊としてシンジュの枝や幹の雨が直接当たらない下面に産み付けられた。幼虫・成虫を通しての寄主植物としてシンジュとセンダンが確認された。また、エゴノキとアカメガシワでは、成虫においてのみ樹幹部からの吸汁が認められた。

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