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20180719 NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を考える(中)

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NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を考える(中)

ナレーション:富を生む仕組みは時代とともに更新されていく。そのとき市場を動かす欲望も変わる。心の底に眠る欲望の形を見つめて。
社会学者D:人間の欲望というものは、もっと根源的というか、昔から身をきれいに飾りたいとか、いろんなものを所有したい、海外の美しい宝石がほしいというのは、資本主義どころか、何千年もの歴史があるわけじゃないですか。だから、もっと根源的に考えたほうがよくて、それ(欲望)をいちばんかなえてくれるものが資本主義なんですよ。Bさんは資本主義が始まった時代については詳しいのですが、資本主義というのは終わりそうなんですか?
→投稿者:資本主義を動かす原動力が個人的な「欲望」であるとして、個人的な問題に解消している。資本主義が「欲望」をかなえてくれるというが、資本間の競争原理にしたがって、コマーシャルで「欲望」を煽り、「欲望」が形成されている。

歴史学者B:かんたんには終わらないのじゃないか。人々が何がほしいとか、欲望をすごく巧みに駆動させるシステムとして、出来上がってきたという経緯が、少なくともここ500年ぐらいあるように感じていて、いきなりなくなるということはないんじゃないかな。
経済学者A:もうひとつ考えなければならない要因としては、エコロジーだと思います。欲望を突きつめていって、大量消費の社会ができて、資本主義を発展させていった。しかし自然は資本主義の理論とかけ離れたもので動いていて、温暖化などの側面を考慮に入れていかないと、生きていくこと自体が危ぶまれ、欲望などといっておれないと思う世代が出てきてもおかしくない。
→<欲望→大量消費→資本主義の発展>…「個人的欲望」が資本主義的生産関係の原動力であるかのように描いている。矮小ではないか。すでに肥大化し、巨大なシステムとして動いている資本主義を救済するために、「個人的な欲望」を抑制すればいいという方向で解決しようとしているのではないか? 温暖化、二酸化炭素の排出問題は資本に抑制的な行動を求める課題であり、資本の論理とは対立する。だから、日産、コベルコ、三菱などがデータをねつぞうし、不必要な費用がかからないようにしている。

社会学者D:資本主義体制下で生きる人はそんなバカじゃないから二酸化炭素の排出量を減らしましょうとか、折り合いをつけてやって来ているように思いますが、それでもまだ足りないですか。
経済学者A:不十分です。
→投稿者:十分か、不十分かの問題ではなく、資本主義自身が利潤追求過程で、「環境破壊」「温暖化」「二酸化炭素問題」を生み出してきたのであり、資本主義のシステムそのものに欠点があることを見なければならない。利潤追求を第1義にする資本(主義)に抜本的な解決を期待出来るはずがない。 

起業家C:ぼくらの欲望が進化する大事な時期にきていると思います。なぜかというと、インターネットが登場してきたことによって、利他的な行動が瞬時に可視化される状態になっている。歴史的に見て大事なことだと思います。この収録のあと、Dさんが車にひかれそうな少年を救ったら、誰かが動画を撮っていて、ツイッターで拡散して、利他的な行動をとったDさんの社会的な価値を上げますね。マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックのCEO)は宝石を買ったりしないじゃないですか、インターネットを可視化するという行動が大事だと思っていて、さらにその行動を加速させたいと思っているでしょう。
→投稿者:資本主義下で発生した「環境問題」について議論が始まったばかりなのに、議論を詰めもせずに、突然話題を変化させている。編集に恣意的なものを感じる。「欲望の進化」というが、技術革新によって齎されたインターネットに対応した「欲望」の創出であり、進化ではなく、変化にしか過ぎない。新たな環境のもとで利潤を生み出し、収奪しているだけだ。

社会学者D:賞賛されにくい行動は起こされにくい。街で交通事故から救うようなわかりやすい行動は評価されるけれども、評価されにくい行動、いかにも貧困者ではない人が貧困者を助けるのは、多分賞賛されにくいが、それでも救われる人が出て来るが、…。
歴史学者B:それは結局ビジネスとして、「共感」ビジネスになってしまうのじゃないですか。光と影の影の部分じゃないですか?
司会者E:「共感」って、時代によってどんどん変わって、不安定なものなんじゃないですか?
社会学者D:曖昧なものをベースにして、社会を作っていくと、確かに不安定さがありますね。
起業家C:確かに定義しにくいですね。「共感」という言葉のなかに、好きとか、感情移入とか、マインドシェア(あるブランドが消費者の心の中で占める割合)が奪われるとか、細かいものがまとめて入っていて、それを「共感」といっているんですよ。
→投稿者:論理的に定義もできないようなターム「共感」に基づいて議論するほど無駄なことはない。貧困問題が階級社会での資本による収奪の問題として措定されていない。富裕層が貧困層を生み出していながら、「救済」によって「解決」するのを可としている。まさに欺瞞である。

経済学者A:最近よく言われるのはアテンションエコノミー(興味、関心が価値を生み、交換材となる経済)で炎上させて、数さえ稼げれば、それでいいんだ。それが企業の儲けとか、知名度の向上に繋がる…。
歴史学者B:「反感」を集めることによっても、「共感」を集めることによっても、同じくビジネスはまわるかもしれないが、どういうふうにそれを…。
経済学者A:テイク(映画・音楽などで、一回分の撮影・録音)とかで注目を集めれば、アテンションエコノミーになる―そうなると、なんでも注目されればそれでいいとなり、信頼とか真理がどんどん揺らいで来ちゃって、さらに民主主義的なものも揺らいでいく。
→投稿者:要するに、「共感ビジネス」など、現代社会(インターネット社会)のあぶくみたいなもので、生まれたり、弾けたりして、過ぎ去っていく程度のものなのに、現代人はそれに振り回されている。

ナレーション:新春の「欲望の資本主義2018年」で、とりわけ大きな反響を呼んだのは、気鋭の哲学者の言葉だった。マルクス・ガブリエル(1980年生まれ)「資本主義は見世物だ。トランプはその象徴だ。今日の資本主義の世界はいわば商品の生産そのものになった。そもそも生産するとは何か?語源は『前に(pro)持って来る(duce)』だ。つまり商品の生産とは、いわば見せるための『ショウ』なのだ。今のアメリカの政権が富を生み出す方法はまさしくショウ形式によるものだ。
(テロップ―フェイクさえ商品になる―)
フェイクニュースのような偽物があふれている理由の一つは、大量生産がなされる状況において、おそらく偽物が理想的な商品だからだ。ベストな商品は安く作れて、浮ついたものなんだ。
(テロップ―『成功ファースト』の資本主義―)
iPhoneを発明しても、同じiPhoneを作り続けてもダメだろう?成功者でいるためには何かを達成するだけでなく、絶えず成功し続け、自ら維持する必要がある。これまで見えていなかったものに、目を向けるのだ。新たに『存在』を見つけ、値段をつける」

経済学者A:資本主義がたえず新しいものを生み続けなければならないという点に関していうと、技術革新の余裕もない状況なんです。そうすると新しい商品が出なくなって、資本主義が行き詰まってくる。
社会学者D:そういうなかで、「共感」というものまで商品化されちゃうのはいいんですかね。
経済学者A:「共感」をビジネスにすることで、(行き詰まりが)一時的に先延ばしになっていると思う。車とか、iPhoneなどに比べたら、雇用するニーズも全然違うし、そこで動くお金も資本主義の観点から見て全然小さいと思うので、行き詰まりは早晩来ると思います。
→投稿者:「共感ビジネス」の行き詰まり程度で、資本主義が行き詰まるなどというのはマンガ的ではないか? 確かに上位にはインターネット関係の資本家が並んでいるが、資本主義の本体は、旧来のモノづくりにあるだろう。

歴史学者B:歴史的に振り返ってみて、そもそも資本主義は何を目的にして、機能を果たしてきたのかを考えると、例えば、事業している人だけでは解決出来ない資本を集めねばならない問題があって、それをそのときどきに解決してきたと見ることができる。だとしたら、いま、自然環境を考えないと、危機的な状況になり、それを解決するときにどういうふうにビジネスチャンスに変えることができるか。
経済学者A:資本主義のもとで、ビジネスはいろんなイノベーションを起こしてきたことは事実だと思いますが、それがある程度まで行くと、さらなるイノベーション、さらなる協働関係を作り出すための足枷になる。特許はそうなっています。
歴史学者B:そうすると自然環境保護にしても、温暖化対策にしても、技術者が活かしていきたいと思っても、競争している会社間で互いに足を引っ張り合うということですか。
経済学者A:資本主義時代で、本当に発展させたかったら、オープンソースとかで、フリーにシェアしてゆけば、できる製品も安くなるが利潤は上げられなくなる。利潤を上げようとしたら、独占しなければならない。しかし、問題を解決するためには協働しなければならない。
社会学者D:このジレンマ(独占と協働)は資本主義の枠内のものなんですか?
歴史学者B:ぼくは資本主義の枠内のものだと感じています。
経済学者A:まったく新しいものというよりも、昔からあるものの変形ですか?
歴史学者B:そうですね。
経済学者A:いままで、新聞を買ったり、本を買ったり、CDを買わなければならなかったのに、コピーされて、一瞬でまったく同じクオリティのものが、ダダで拡散していくことになったら、CD会社もジャーナリズムも脅かされてしまうので、既存のモデルがどんどん壊れていく。
社会学者D:それでも音楽業界はCDの売り上げがなくなっても、ライブを増やし、お金儲けのシステムはまわっているわけで、形態が変わっているだけじゃないですか?

(テロップ―モノからコトへ?―)
起業家C:イノベーションと呼べるほどの市場規模にはならないが、ライブエンターテインメントはそれほど大きくはない。東京ドームとか、日本におけるライブの箱には数に限りがあり、ライブできる回数にも限りがあって、スケールは小さい。
→投稿者:エンタメは疎外労働を強いられている労働者に一時的に癒やしを与える産業である。資本による抑圧と収奪に伴う苦痛からの一時的な逃亡の場である。基幹産業の周縁に発生するあぶくのような産業である。

社会学者D:お金で見るとそれくらいのスケールなんだけど、違う何かが確実にある。
起業家C:それは可処分精神ということです。企業はサービスで奪い合って進化を遂げてきた。50年ぐらい前から奪い合いの歴史を見ると、可処分所得の奪い合いですね。テレビをメーカーが作って、消費者に選択してもらうという可処分所得の奪い合い。その次に、20年ぐらい前からインターネットが出てきて、グーグルとヤフーのどっちに時間を使うかという可処分時間の奪い合いに移っていった。それが今日まで続いています。お金って増やすことができるけれども、時間は増やせないから、時間の方が価値が大きいのじゃないですか。富豪上位の人たちって、可処分時間を奪いまくっている人たちです。次は何かと考えると、マインドエコノミー(定義は?)だとおもいます。可処分精神(定義は?)は何かに振り向ける限界があるから、100%の可処分精神を奪える主体が勝っていく。エンターテインメント、ライブ、映画は可処分精神を奪っている。
→投稿者:「時間は増やせない」というのは誤り。金沢―東京間を鈍行列車ではなく、新幹線で行くことによって、有効活用時間を「増やす」ことができる。また、資本家が労働者を雇用し、資本家のために働かせることによって、資本家は支配下の労働者の時間を所有(増やす)出来る。しかも、ここでは資本主義の根幹ではなく、「スケールの小さい」エンタメ業界のことしか議論していない。「マインドエコノミー」「可処分精神」はきちんと定義をしてから使用すべきである。

(テロップ―奪いあうもの―所得→時間→精神?
社会学者D:時間(?)を持っている会社の時価総額が高いというのはわかるのですが、マインドがお金になるというのはどういう状況ですか? 時間にしても、最近タイムワーク、個人の時間を切り売りするような会社が多いじゃないですか。時間まで商品になる資本主義は持続可能なんでしょうか?
経済学者A:持続可能じゃないでしょう。利子なども信用という時間を買っているという意味では、古典的な商品だと思う。こういうモデル自体は新しい商品を見つけることのむつかしさが、来るところまで来たんじゃないか。
社会学者D:業界は発展すると思っているんですか?
起業家C:可処分精神を正しく奪っている企業体やサービスやモノや人が永続的に繁栄すると思っています。その究極的な形は宗教です。
→投稿者:「宗教が永続的に繁栄する」との主張だが、宗教発生(発展)の歴史的関係性を認識していない。未発達な社会(自然の脅威を対象化出来なかった社会)で発生し、階級社会のなかで虐げられた人々の嘆きとして発展してきた宗教にたいする無理解が現れている。

経済学者A:それこそ商品生産からどんどん離れていく。
歴史学者B:その方がいいということですか?
経済学者A:そういう異質なモノ(可処分精神)を商品化することは、いままでのような資本主義の理解のモデルから、全然違うスキル(能力)に来ていて、お金儲けの手段に取り込んできている。わずか10年、20年のスパンでここまで変わってきたら、50年のスパンで考えたら、全然違う社会が…。
起業家C:そもそも経済の生産性をGDPで計れなくなる。
経済学者A:幸せになったり、コミュニケーションを取れるようになるかもしれないが、GDPという旧来の市場においては計れないものが…。
起業家C:幸せって、数値化して見えてこないんですよね。経済のなかで、それがある種再生数とかPV(ページビュー、閲覧された回数)に変換されて、そこに広告が付いて、広告市場でGDPが見えてくるかもしれないが、多分数値的に可視化しきれないところが多いと思います。
経済学者A:そこで可視化しきれない時間(?)がひとりひとりの人生とか、日々の日常において大きな意味を持つのか?
社会学者D:これは、ファシズムっぽくなりません? 宗教と商品が合体して、国家社会主義的なファシズムで、すごく気持ちが悪い社会になるんじゃないか? それでいいんですか?
歴史学者B:それは、脱中心的になっていくと…。
起業家C:それは多神教で、1個ではない。
経済学者A:危険性としては、プラットホームがフェイスブックだけ、グーグルだけになったら危ういところがあるけれども、分散させていけば…。
→投稿者:「神(商品)」が多数であろうが、単数であろうが、商品を「神」と例えた以上、人間は「神」に従属する存在(転倒した存在=自ら生み出しながら、それに従属する)であり、「(神)商品」を生み出した側(資本=支配階級)による支配(抑圧)に這いつくばることである。「商品=神」こそ、商品の本質的性格を表している。

起業家C:最近、トップページがない。ユーチューブだってトップページがない。
社会学者D:確かに。
起業家C:開いた瞬間に、猫の動画がたくさん出て来るじゃないですか。
社会学者D:その人のカスタマイズ(ユーザーの好みや使い勝手に合わせて、見た目や機能、構成といった製品の仕様を変更すること)されたものが出て。
起業家C:そうです。分散的で、多神教なんです。だから、ファシズムにはならない。猫好きのコミュニティみたいなものが無数に存在していて、そのなかで経済がまわる。
社会学者D:猫好きが猫のなかで、ズーッと暮らしていくのでいいんですか?
司会者E:内向きになっちゃいますね。
起業家C:そうですね。猫好きであり、時にはアニメ好きとか、いろんなコミュニティに同時に属するような感じです。抜けたり入ったりするのは自由です。
歴史学者B:いまの話しは、新しいように見えるが、資本主義のなかの光と影、その影の部分が気になります。ぼくもわからないが、一つ考えられるのは可処分時間を奪いあう、そのなかで「マインドエコノミー」というキーワードですが、人々の気持ちを奪いあう対象にしたいとなったときに、これまでだったら6時間、7時間眠れたのが、これもしたい、あれもしたいなどと時間がどんどん奪われていって、睡眠時間が減っていくのでは?
社会学者D:睡眠時間が減りそう。
歴史学者B:睡眠時間が減っていくことに関して、睡眠時間を守ることをビジネスにすることはあり得るんですか?
経済学者A:資本主義の力でしょうか、常に、どんなものが出てきても、ガブリエルの「異なるものを内に取り込んで商品化する」という力がある。
→投稿者:新たに起きた矛盾や問題を資本の運動で解決しようとする発想の貧困さにはウンザリする。労働者人民の自己解放性への期待のかけらもない。原発建設、運転、事故処理、廃炉をビジネスにし、労働者の健康を破壊し、資本が延命(肥大)していく。資本のあくどさの典型例。

社会学者D:全部売り物(商品)になって、その(資本主義)のグロテスクさがありますね。
起業家C:誰かに労働を指示されて、いやいや労働した結果、睡眠時間が削られるのではなく、猫の動画やAKBの動画を見たくて見たくてしょうがなく、それで睡眠時間が削られているから…。
歴史学者B:見たくてしょうがないんですかね?
社会学者D:そういうふうに駆動させられているともいえる。
→投稿者:食欲、性欲、睡眠は人間の内的な欲求であり、自己回復(労働力商品としての回復)のために必要な睡眠時間を削ってでも、AKBを見たいという欲望を煽る(再生産させ)る資本(コマーシャル)の破壊性。


20180725NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を考える(下)

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NHK「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を考える(下)

歴史学者B:今日、歩いてきたときに雑貨屋さんに入ったんですが、すごく素敵なものを見つけて、いまは買えないが、こういうものを買いたいなという気持ちを、巧みに駆動する形で、みんながもっと働こうとか、もっといい仕事につきたいとか、もっと給料が欲しいとか、ということが繰り返されてきた。その時何が起きているかというと、消費の欲求、他人との比較があります。
経済学者A:そういう欲求だけじゃなくて、資本主義の歴史のなかにも、みんなに安定した生活を実現したいとか、みんなに教育を受けられるようにしたいとか、みんなが医療・介護を受けられるようにしたいとか、そういう連帯、単なる「自分のため」というのではない欲望というのがあって、それが現実に福祉国家を作ってきている歴史があるので、必ずしも資本主義が欲望を作るという側面だけに着目しなくても、もっといろんな側面が、人間にはあると思う。いろんなサービス、図書館、学校教育、労働組合など人々のつながり合いからできてきた制度であって、資本主義の商品交換が作り出してきた制度ではないが、ぼくらが生活するなかで、本質的なパーツになってきている。本質的だからこそ、商品化されていないといっていいかもしれない。
→投稿者:福祉国家形成を人民の連帯から説明しているが、労働者階級のたたかいと良質な労働力の確保と階級対立の安全弁として、資本の最低限の必要経費としての支出でもある。学校教育も、産業の近代化に伴って、労働に必要な教育を労働者に付与することから制度化されてきたのではないか。また福祉が商品化されていないという主張なら、それは誤りだ。労働組合は労働者のたたかう砦・自治の学校であるが、図書館や学校教育と同列に扱うことのインチキさよ。

社会学者D:資本主義が生まれる前には、福祉国家はなかったでしょ。それは資本主義で、社会がリッチになったからですか?
経済学者A:それ以前は共同体的に、人々の生活を保障していたが、(資本主義では)ばらばらに解体されていったのを自覚的にアソシエーションという形でもう1回…。
→投稿者:「アソシエーション社会」とは、生産手段の共有と自立した個人による協同組合的社会のことであるが、資本主義的生産関係下ではごく部分的にしか成立しない。政治革命を経て、全面的に実現の道を歩み始めるが、最近の論調は革命を経ずに資本主義から次第に(自動的に)アソシエーション社会に発展するかのような俗論(ポストキャピタリズム)が、革命的左翼のなかにもはびこっている。

社会学者D:それは本当ですか? 昔の方が暴力が多かったんですよね。資本主義が貧困をつくりだしたわけではなくて、人間にとってのデフォルト(初期状態)が貧困であって、平均寿命も昔は短かったわけじゃないですか。貧困があたりまえ、暴力があたりまえだったのが、資本主義によって人々の生活が豊かになって、暴力が減り、貧困も残ってはいるが減っているわけで、その面を認めた上で、じゃあどうするかという話しだと思います。
→投稿者:階級社会以前(デフォルト=初期状態)では強大な自然との関係で貧困や短命が強いられてきたが、資本主義以前の階級社会では経済外的強制(暴力)によって、資本主義社会では暴力装置の他、賃労働と資本という経済的関係のなかで、階級支配が維持されている。一見非暴力的であるが、階級支配としては本質的に同じである。

歴史学者B:それが、アダム・スミスがとる立場だと思います。格差はなくならないかもしれないが、全体としてパイが増え続けていけば、分業が進んで、社会全体として富が増えていくような状況を作った方が、格差があっても幸せな状況なんだろうか。アダム・スミスが主張したようなマーケットの望ましいあり方だが、それが常に実現していたという議論はしていない。マルクスなら、まったく違う審判を下すのでは?
経済学者A:いまの左派とかリベラルの理論層は経済政策をやって経済成長しないと、パイが広がらないから再分配もできないという話しか、脱成長かで分かれています。前者の意見はトリクルダウン(富裕層が富めば、富は貧困層にもこぼれてくるという仮設)と変わらない。成長しないと再分配出来ない、そうじゃなくて、第3の道として情報とか知とか、モノのシェアとかが進んでいるのであれば、違った形でも持続可能な、ポストキャピタリズム的な成長=単に資本主義的な経済成長にとどまらないような成長モデルを志向すべきではないでしょうか?
→投稿者:Aさんはトリクルダウンには批判的なようだが、かといって脱成長を支持しているわけでもなさそうだ。ポストキャピタリズムへの転換を志向しているようだが、政治革命抜きのポストキャピタリズムか? 国家(政府)は資本(主義)の政治委員会であり、被支配階級にたいする暴力装置を常備し、政治革命を予防している。

歴史学者B:マルクス主義とか、いまの資本主義を批判し、乗り越えようと思っている立場と成長とは両立するのですか?
経済学者A:成長はもっと出来ます。その成長というのは、資本の価値増殖=GDPに現れないようなものを成長させていく。
歴史学者B:何が成長するのですか?
司会者E:その成長の度合いを何で測るのですか、曖昧ではありませんか?
経済学者A:今のところは曖昧です。
社会学者D:この20年間で、いろんなものが安くなり、無料になりました。情報はほぼ無料になり、服も安くなった。人々がお金を払う対象として、何が残るんですか? 
経済学者A:そうなると、企業は売り上げを上げられないわけですから、資本主義じゃなくなっている。そこまで受動的に待っていたら、環境問題、地球温暖化が深刻な問題になっているので、早く移行するという議論が必要だと思います。そういう意味では資本主義は難しい段階に来ている。
→投稿者:「情報は無料」…インターネット回線接続料が必要であり、デジタル新聞の閲覧も有料である。「服も安くなった」…植民地・半植民地経済の恩恵ではないのか? 日本国内的な格差問題しか考えていなくて、国家間の格差、収奪については考慮外のようだ。

(テロップ―資本主義はどこへ行く?―)
ナレーション:あらゆるものを商品化していく資本主義。わたしたちに、いま本当に必要なものは? 勝利を求めるゲームの果てに待っている光景は?
学生G:情報を共有することが大前提だったが、普段生活しているなかで、情報は共有されているというよりは自分がいたい集団のなかの情報のみが共有されるという意識があると思いますが、知識の共有が全世界的に進んでいくか疑問があります。
経済学者A:ウィキペディアを考えたらいいです。
学生G:ウィキペディアも自分が調べようと思ったものしか調べません。それがはたして知識の共有といえるのか?
経済学者A:どこでも、ただでアクセス出来る。それは上から与えられたものではなく、自分たちが作りながら消費しているプロシューマー(注)という言葉がありますが、その意味で新しいものといえる。
【注:デジタル用語辞典の解説】プロシューマー=consumer(消費者)とproducer(生産者)を組み合わせた造語で、製品の企画・開発に携わる消費者という意味。未来学者のアルビン・トフラー氏が著書『第三の波』で予見した新しいスタイルの消費者。多様化した消費者のニーズに応えるために、企業が消費者の意見を直接取り入れる形で、消費者が商品の企画・開発に関わるようになってきている。

学生G:それって、現実問題プロシューマーという消費者は本当に同じコミュニティにいるのですか? コミュニティ的には共有されているかどうか怪しいと思っている。
社会学者D:一部のエリートは共有されているんでしょうけど、そもそも検索ワードを知らないとか、調べようとは思わない人との格差が広がっていくのじゃないですか?
経済学者A:それは情報、例えばウィキペディアの構造的な問題ではなくて、教育とか経済に格差がある社会システム上の問題だと思います。だからそれを直していかなければならない。
学生H:情報のプラットホームというのは、だんだん独占的な傾向を強めていく。それが個人情報を保有していたり、それをどういう方法で解決するのか? 独占されることによる弊害は無視出来ないものになっていくと思う。
歴史学者B:マーケットに任せておけばうまくいくというわけではない。常に市場と市民・消費者、働いている人たちとかが複雑な関係を作ってきた。そういう人たちの交渉の過程によってその問題(独占)が解決されるのじゃないですか。
学生H:イノベーションは資本主義の方が確実に起こりやすい。社会主義とかポストキャピタリズムになったときに、ウィキペディアみたいに協力してイノベーションが起きていくという意見もあると思いますが、資本家というのはブルーオーシャン(競争者のいない新しい価値の市場)というか、いまの世の中の人に見えていない部分を開拓していこうとするところを持っている。ぼくはイノベーションは資本主義の方が進んでいくんじゃないかと思う。
→投稿者:イノベーション万能主義のようで、人民が忘れ去られている議論。

歴史学者B:競争原理を経由しないで、協力とか団結とかで、本当にイノベーションとか、これまでと違うことをしようという発想…。
経済学者A:逆にいうと、なぜ競争でないとイノベーションが起きないと思うのですか?
起業家C:敵がいた方が人間の底力を出せるからでしょう。
司会者E:切迫感みたいに?
歴史学者B:「切迫感」について、ぼくがイギリスで研究員をしていたのですが、1年契約、9カ月契約、6カ月契約で、職が安定していない時期というのが7年間ぐらい続いていたのですが、そうすると切羽詰まるじゃないですか。そこではじめてこれまで考えなかったような仕方でアイデアを先鋭化したり、恥ずかしくて自分の研究計画を読んでほしいと頼めなかった人にまで頼みに行って、その人たちと議論しました。
→投稿者:イノベーションのためならば、研究者も労働者も安定的雇用ではなく、短期雇用にした方がよいという意見か。そこまで言うなら、Bさんは安定的な東京大学講師の地位を放棄して、短期雇用の契約研究員になればいいんだ。

経済学者A:最近、目先の業績が出るような論文が増えていて、いまの社会でもう少し広げて、もっとこの活動をしたい、音楽を突きつめたいなどの夢があると思いますが、それが就活しなければならないということで、諦めて、みんなが同じようなことをすることになるという画一性を、実は資本主義のマーケットの力で押しつけられているということを自覚してもいいんじゃないでしょうか。
社会学者D:ギリギリの人がモノを生み出せるのか、それとも余裕のある人の方がモノを生み出せるのか? そこは難しいところ。
経済学者A:あらかじめイノベーションは競争でないと出ないといって、選択肢を狭めてしまうことはないでしょう。
歴史学者B:二者択一が間違っていると思う。
経済学者A:マルクス的社会になったからといって、競争がなくなるか? 協働社会のなかで、よりいいモノを作りたいという欲求がなくなるわけではない。むしろ自然に出て来ると思う。ヘマをやって、クビになって、職を失って、生活出来なくなるというようなことがなくなり、安心して取り組めるのじゃないか。
起業家C:勝ちはあるが、負けはないということですか?
→投稿者:Cさんは「共感ビジネス」などといっているが、結局は協働ではなく、敵を作り、勝者になるという「起業者」の精神に則っている。

(テロップ―向上 画一性)
ナレーション:マーケットは人を向上させるのか、それとも画一性を押しつけるのか。考え方の違いを際立てつつ、議論終了のときが…。
起業家C:もともとぼくは資本主義の立場、価値主義というか、価値経済に共感を得た人たちに、資本主義経済における資本的なもの―お金が集まる時代だと思っています。Aさんの話を聞くまで、そこに社会主義のエッセンスを入れるという発想はなかった。その点は自分にとって考えるべき糧になったと思う。それ(社会主義)をブレンドしたような社会になるかもしれないし、あるいは社会主義的なコミュニティを選択肢の一つとしてあるのかなと。ぼくが想像していたものより、もっと多様で―多神教と言ったのですが―選択肢の幅が広がった未来を想像出来ました。
→投稿者:資本主義の本質的残酷性(収奪、格差、差別、戦争など)については議論されず、したがって自覚もされなかった。Cさんは結局優勝劣敗の社会観から一歩も前に出ることができていない。

司会者E:Aさんは、そう言われていかがです?
経済学者A:そういう意味で言うと、資本主義には、社会主義的なものまで商品化して、お金儲けの手段にしてしまう力があって、歴史において、社会主義・共産主義は負け続けてきました。しかし、エコロジーの問題に直面するなかで、今までのあり方に縛られないような世代が出て来れば、少しは状況も変わってくるかなと、オプチミスティック(楽観的)に考えたい。
→投稿者:Aさんは資本主義の矛盾(とりあえず格差問題)をエコロジー問題に集約している。

歴史学者B:話をうかがっていて、豊かさだと思っていたのが、気がついたら睡眠時間が減ってしまったり、利他的だと思ったのが、いつの間にか搾取と区別がつかない状態になっていたり、そういうむつかしさが残るかもしれません。そういうときに歴史から学んだり、監視の目を光らせ、余裕を持って見別けられるようにする必要がある―今後の課題というか、直面している問題と感じた。
→投稿者:Bさんは、監視を強めれば資本主義でいいということのようだ。

社会学者D:CさんとAさんが××(聞き取れず)が…。
起業家C:いっかい、小さくてもいいですから、Aさんが思い描くコミュニティを作ってほしい。その実験をしたいと思いました。
社会学者D:今のところ、実験は失敗ばかりだから、本当にやるんだったら…。
起業家C:ぼくがコミュニティを作るときに、資本主義的な作り方をしちゃうんですね。敵を作り出したりとか…。
経済学者A:ポストキャピタリズムがやって来ましたら。
→投稿者:やっぱり、経済学者であり、コムニストではないから、政治革命の課題を自分に課さない。

司会者E:今日は新しい経済の形というものを考えました。ありがとうございました。
学生I:新しく出てきたシェアリングエコノミーではなく、大きな市場を持っているような××(産業?)で、利潤を上げるのが難しくなってきているので、(労働者は)長時間労働とか、低賃金で働いています。どうやれば、自分たちで自治をするようなコミュニティを作っていけるのか。にっちもさっちもいかなくなっていくという声もあり、不安であり、そういう点についてもっと話しを聞きたかった。
→投稿者:やがて資本が支配する戦場に出て行く学生にとって、その戦場の現象(長時間労働、低賃金、過労死など)と資本主義の本質との関係を鮮明化させることが求められていたが、学者たちはその期待には応えなかった。

学生D:私自身競争が好きなので、競争があってこその協調であると思っています。自己利益があってこその他の利益だと思っていたのですが、必ずしもそうではないということをみなさんが言っていたが、そうかなと思った。
→投稿者:勝ち上がってきた、すなわち他者を蹴落としてきた東大生の自信に満ちた素顔がある。このような人がやがては官僚となり、資本主義社会の骨格を形成していくのだろう。

学生J:Aさんの話が近くて、共感した部分があって、めざす未来は同じなのかなと思いました。欲望の国の若者ですが、私はそんなに欲望は強いわけではなくて、のんびりいければいいなと思う一方、××(聞き取れず)、まさにジレンマです。
→投稿者:この討論を聞いていた学生からは、起業家もマルクス経済学者もめざすところは同じだと思われてしまった。コムニストの登場が待たれる。

ナレーション:あらゆる物を商品に変え、走り続ける資本主義。モノからコト、コトから心、次は何が商品になるのか? 欲しいから商品になる、商品になるから欲しくなる。目的と手段が逆転するパラドックスを、わたしたちは超えていけるのか。資本主義のジレンマを超えて、対話は終わらない。(終わり)


全体を通しての総括は、乞う次回。

20180802 「NHK 新世代の資本主義論」考

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「NHK 新世代の資本主義論」考

 映画『マルクス・エンゲルス』を観てきた。『ライン新聞』時代から『共産党宣言』までの初期マルクスをある程度読んでいないと、理解できない難解な内容だった。「労働者階級によるたたかいの現場が描かれていない」という映評もあったが、私が20歳代のときなら、「私が歴史に書き込もう」と粋がったことだろう。

 この映画が2017年ドイツで制作され、金沢でも上映開始前には数十人の老若男女が列を作り、アメリカでも「民主社会主義者(DSA)」(NHKでは社会民主主義者の会)というマルクス主義政党が勢いづいており、NHKは「お金もうけのジレンマ~新世代の資本主義論」を放映し、人民の怒りを体制内に収斂しようという意図があるにしても、マルクス主義を俎上にのせねばならない時代が始まったということではないだろうか。

テーマは格差を生む現代資本主義
 NHKのこの番組は1987年生まれ(31歳)のマルクス経済学者・Aさん、1981年生まれ(37歳)の歴史学者・Bさん、1985年生まれ(33歳)の社会学者・Dさん、987年生まれ(31歳)の起業家・Cさんによる討論を編集した番組である。

 冒頭のナレーションでは「…欲望の資本主義…広がる分断―8人の大金持ち(総資産4268億ドル)と世界人口の半分(36億人)が持つ資産とほぼ同じ。持つもの、持たざるものを引き裂く欲望の資本主義」と流され、分断と格差をもたらしている現代資本主義をテーマにしている。
 この番組を寸評し、現代日本資本主義(論)のありようを確認しておきたい。

「共感ビジネス」とは?
 Dさんによる「搾取とは」という問いに、Aさんは「搾取というのは支払われている以上に、労働者が価値を生み出している。利潤がどこから来ているかというと、不払い労働部分から来ている」と回答し、議論が始まった。せっかく、資本と労働の関係を措定しながら、この搾取(映画ではマルクスは「泥棒」と表現していた)が不当なのか、正当なのか、奪いかえすにはどうしたらいいのかについての議論に進まなかった。

 Dさんが「資本主義をまわすためには、労働者を搾取することが必要か?」と質問しても、Aさんは「(資本主義では)特許とか、資金(不足)の関係で(イノベーションのチャンスから)遮断される」と答えて、最も肝心な労働者からの不当な搾取(泥棒)で成り立っている資本主義を正面から批判することを避け、資本主義におけるイノベーションの限界について語るだけだった。

 この番組で、「共感ビジネス」(注1)という言葉を始めて知ることになった。Cさんはお金儲けが目的ではないかのように話し、それを受けてDさんは「(共感ビジネス)は結果的に誰かの何かを搾取しているのでは?」と疑問を呈したにもかかららず、Aさんは「共感ビジネス」を「あからさまな搾取ではなく、…新しい富を産む形態」と、搾取の問題を曖昧化した。Dさんが「あからさまな搾取とハッピーな搾取のどっちがいいんですか」と畳みかけても、Aさんは「同じだ」とは断言せず、「共感ビジネス」を容認しているようだ。

 注1:「共感ビジネス」とは、Cさんの説明によれば「自分は昔引きこもりで外に行くことはできなかったけれども、アイドルを見て救われたから、今度はアイドル側にまわって、救う側にまわっていくんだというストーリーに共感して、そこにお金が投じられる」という。

 Bさんは300年前のイギリスでも、「新鮮な水を飲めるようにします。そうすると生活の質も上がりますよ」などと、関心とか興味を引いて、投資を誘っていたから、「共感ビジネス」というのは今に始まったことではなく、昔からの金集めの手法だと説明し、「共感ビジネス」を「新しい富を産む形態」と持ち上げるAさんを批判した。

 Cさんはお金儲けに後ろめたさがあるようで、自らの「起業」を私利私欲が目的ではなく、欲求階層(注2)をのぼっているだけで、世のなかにたいして社会的価値を与えたときに返ってくる「共感」「感謝」を得た幸せの効用の方が大きいと主張しているが、「起業」の過程で搾取(泥棒)があり、富が蓄積されていることに無自覚なようだ。

 注2:人間の欲求は「生理」「安全」「愛情と所属」「自尊と承認」「自己実現」という5つの階層構造を持っており、前の段階の欲求が充足されて初めて、次の階層の欲求の充足段階へと到達することができる。

「シェアリングエコノミー」について
 Dさんから「資本主義を乗り越えることができるか?」の問いに、Bさんは①オートメーション化による労働時間の減少、②情報とか知のフリー共有、③シェアリングエコノミー(注3)によって、資本主義の根本原理である私的所有とか、価値を追求するという原理が多少は揺らぐが、「資本主義を超えた、社会主義ではなく、ポストキャピタリズム(ポスト資本主義)に行ける」と答えている。Bさんはポストキャピタリズムを社会主義ではないと明言しているが、では一体、ポストキャピタリズムとは何なのか?

 注3:物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。

 Aさんによれば、オープンソース(注4)、クラウドファンディング(注5)による、水平的に分散化した新しい社会的起業を「新しい資本主義のあり方」であると主張しているが、ここでもBさんは300年前にもクラウドファンディングがあり、新しいものとはいえないと反論している。

 注4:ソフトウェアの設計図に当たるソースコードを無償で公開して、誰でも自由にそのソフトウェアを改良して、再配布できるようにすること

 注5:ある目的に向け、賛同者を募り、資金を集める仕組み

 これにたいして、Aさんは現代資本主義は300年前よりもグローバル化し、技術が発達し、速度が違うから従来の「資本主義と違う原理」が出て来ると主張しているが、この「資本主義とは違う原理」については説明していない。グローバリゼーション、イノベーション、シェアリングエコノミーなどに期待しているのだろうが、これだって資本主義の枠内の話しである。

アソシエーション論
 トマ・ピケティは、r(資本の収益率=株式、預金、不動産による収益)がg(労働による所得)より大きいなら、資本家はどんどん大金持ちになって、格差が広がっていくが、課税再配分して、rを抑えればいいと主張している。これにたいして、イギリスの労働党党首・ジェレミー・コービンの「rを労働者自身が取ってしまえばいい」という主張を受けて、Aさんは「協同組合を作って、自分たちでrを管理すればこの問題(格差問題)を解決出来る」と主張した。

 課税再配分など論外だが、「rの労働者管理」も資本主義を前提にした改良案でしかなく、革命の彼岸化以外の何ものでもない。

 Aさんは、資本主義以前の社会では、人々の生活は「共同体的」に相互保障されていたが、資本主義社会では「共同体」が解体され、あらためて自覚的にアソシエーションを再形成しなければならないと主張している。

 田端稔さんの『マルクスとアソシエーション』によれば、「アソシエーション」とは、<諸個人が自由意志にもとづいて、共同の目的を実現するために、力や財を結合するかたちで、「社会」を作る行為及びその「社会」>である。わかりやすくいえば、<生産手段の共有による協同組合的社会>のことであろうが、資本主義的生産関係のもとではごく部分的に、例外的にしか成立しない。プロレタリアート人民による革命を経て、人民の力によって資本を規制し(過渡期)、「アソシエーション社会=共産主義社会」への道を歩み始める必要があるが、最近の論調は革命を経ずに、したがって人民の力に拠らず、資本の運動として、次第に、自動的に、「アソシエーション社会」に移行出来るかのような俗論(資本への屈服)が、革命的左翼のなかにもはびこっている。

 またAさんは、情報、知、モノのシェアを進めて、資本主義的な経済成長にとどまらない「成長モデル」を志向すれば、ポストキャピタリズムへの移行が可能としているが、ポストキャピタリズムという言葉だけが踊っている。

イノベーションについて
 Bさんは「競争原理を経由しないで、協力とか団結とかで、本当にイノベーションが可能なのか?」と問い、Aさんは「なぜ競争でないとイノベーションが起きないと思うのですか?」と問い返している。Cさんは「敵がいた方が人間の底力を出せるからでしょう」と、全員がイノベーション万能主義に侵されているようだ。

 Bさんは、1年契約とか6カ月契約で、職が安定していないほうが、「切迫感」から、アイデアを先鋭化させることができたという個人的な経験で、論証したかのような気分に浸っているようだが、それならBさんは安定的な東京大学講師の地位を放棄して、短期雇用の契約研究員になればいいんだ。

 Aさんは、資本主義はたえずイノベーションしなければ、新しい商品が出なくなって、資本主義が行き詰まるが、オープンソースで、フリーにシェアしてゆけば、できる製品も安くなるが利潤は上げられなくなる。利潤を上げるためには、独占しなければならないと、資本主義の矛盾と限界を語り、問題を解決するためには協働しなければならないと結論づけてはいるが、その「協働社会」への道筋を語ることはしない。

<モノ→時間→精神>の収奪
 Cさんは50年前からのビジネスの変化を、「可処分所得」の収奪から、「可処分時間」の収奪に移り、さらに「マインドエコノミー(「可処分精神」の収奪)」へと移行しつつあると主張している。それが、エンターテインメント、ライブ、映画に顕著に表れているという。

 そして、「可処分精神を奪う企業体は永続的に繁栄する。その究極的な形は宗教である」という、Cさんの発言を受けて、Dさんは「宗教と商品が合体して、国家社会主義的なファシズムになるのじゃないか」と、Aさんは「プラットホームがフェイスブックだけ、グーグルだけになったら危うい」と、資本による精神・意識の全一支配に危機感を吐露している。

 Cさんが守備範囲にしているエンタメ業界が労働者の意識・精神を支配(洗脳)し、遂には睡眠時間さえその収奪対象にしはじめていると言う。食欲、性欲、睡眠は人間の内的な欲求であり、エンタメ業界が睡眠時間を奪うことは、人間の命(労働力)そのものの破壊に繋がる危険性があるが、資本の自己運動は労働力の再生産過程さえ食い物にして肥え太ろうとする怪物だ。

 「可処分精神」の収奪というCさんの指摘は、現代資本主義の行き着く先を暗示しているようだ。1日の労働で疲れ果てた肉体と精神を癒やすためのエンタメが、実は肉体と精神の崩壊へと導く悪魔のささやきであり、そこに資本が投下され、資本が増殖し続けるという構図がそこにある。そして、エンタメを支えているのがイノベーションなのではないか。

 ここで、Cさんは「時間は増やせない」と言っているが、これはは誤りであろう。金沢―東京間を鈍行列車ではなく、新幹線で移動することによって、有効活用時間を「増やす」ことができる。また、労働者を雇用し、働かせることによって、資本家は支配下の労働者の時間を自分のために使うことができる。

環境問題について 
 Aさんは、大量消費の社会が資本主義を発展させたが、自然は資本主義の理論とかけ離れたもので動いていて、温暖化などの側面を考慮に入れないと、生きていくこと自体が危ぶまれてくる、とエコロジー問題について触れている。これにたいして、Dさんは資本主義体制下で生きる人はそんなバカじゃないから二酸化炭素の排出量を減らし、折り合いをつけることができると思いますが、と資本主義下での解決可能性に言及している。

 ここで、環境問題について議論が始まるかと思いきや、突然話題を変化させ、編集に恣意的なものを感じるが、その後Bさんも、自然環境について触れるが、ビジネスチャンスの問題としてしか提案していない。

誰が答えるべきなのか?
 以上、1時間の番組を観て、現代日本資本主義がかかえている具体的な問題に接することができた。それは、映画『マルクスとエンゲルス』の最初のシーン「森で枯れ枝を拾う人々」と重なっている。古くて、新しい問題であることを感じた。

 学生の感想を紹介すると、「(労働者は)長時間労働とか、低賃金で働いています。…不安であり、そういう点についてもっと話しを聞きたかった」と話しているが、やがて資本が支配する戦場に出て行く学生にとって、長時間労働、低賃金、過労死などと資本主義の本質との関係を鮮明化させることが求められていたが、学者たちはその期待には応えなかった。

 1時間の番組を通して、「戦争」という言葉がひとことも発せられず、収奪が平和的におこなわれているかのような錯覚を与えている。出席者の誰しもがイノベーションこそ未来の希望と見ているようだが、資本主義下のイノベーションで、武器が飛躍的に発達し、その結果たくさんの人々が殺され、今後も資本主義下ではその危機は解消しないだろう。

 回答は、学者ではなく、労働者人民自身が準備しなければならないのだろう。

20180807 メモ『優生保護法が犯した罪』から学ぶ

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メモ『優生保護法が犯した罪』(2003年発行)から学ぶ

この間の新聞報道や表記の書籍から、障がい者への強制不妊手術にたいする国賠訴訟の経過を見ると、

1948年―優生保護法
1996年―母体保護法
1997年08月―新聞報道(スウェーデンで1976年まで障がい者に強制不妊手術)
1997年09月―「優生手術にたいする謝罪を求める会」→厚生省に要望書
1997年11月―強制不妊手術被害者ホットライン(第1回)
1998年06月―第2回厚生省交渉
1998年11月―国連「強制不妊手術の被害者への補償」を要請→国は拒否
1999年01月―強制不妊手術被害者ホットライン(第2回)
1999年10月―「あれから3年―『優生保護法』は変わったけど」集会
1999年10月―第3回厚生省交渉→回答:「優生手術は合法的、調査は不要」
2003年09月―『優生保護法が犯した罪』発行

2015年06月―日弁連に人権救済申し立て(宮城県)
2016年03月―国連女性差別撤廃委員会が日本政府に勧告
2017年02月―日弁連、国に意見書提出

2018年
1月30日―仙台地裁に初提訴(Aさん)
3月28日―仙台地裁第1回口頭弁論(Aさん)
5月17日―3人提訴(札幌Bさん、仙台Cさん、東京Dさん)
5月27日―全国弁護団結成(184人)
6月13日―仙台地裁で第2回口頭弁論(Aさん)…5/17仙台地裁提訴のCさん併合審理
6月28日―3人提訴(札幌Eさん、Fさん、熊本Gさん)
7月31日―国は仙台地裁に準備書面提出(救済義務なし、違憲主張なし)
8月06日―東京地裁第1回口頭弁論(Dさん)―国は請求棄却を求めた
(予定)9月12日―仙台地裁第3回口頭弁論の予定(Aさん、Cさん)
(予定)9月28日―札幌地裁第1回口頭弁論の予定(Bさん、Eさん、Fさん)

旧優生保護法の目的
中絶合法化+優生政策の共存―木に竹を接いだもの
●第1条―この法律は優性上の見地から不良の子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。
●戦後の過剰人口対策→1948年中絶の合法化→1949年経済的理由を追加→1952年規制緩和
●障がい者の月経時の介護負担軽減(施設、病院の都合)

旧優生保護法の違憲性
「個人の尊厳や幸福追求の権利を保障する憲法に違反」(2017/12/3毎日新聞)
「旧法は幸福追求権などを保障する憲法に違反する」(2017/12.3日本経済新聞)
「旧優生保護法は子どもを産むことの自己決定権を奪い、違憲だ」(2018/7/23朝日新聞)
「憲法が定める幸福追求権を奪った」(2018/4/12ヘルスプレス)
「自己決定権などを定めた憲法に違反」(2018/5/17琉球新報)
「子供を持つ権利を奪われ、著しい苦痛を受けた」(2018/5/29毎日新聞)

旧優生保護法(運用)の強制性
●医師の申請→優生保護審査会が決定(形式的―石川県の資料では1人10分の審査)
●ガイドライン「優生保護法の施行について」―「審査を要件とする優生手術は、本人の意見に反してもこれを行うことができる……この場合に許される強制の方法は、真にやむをえない限度において身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔等の手段を用いることも許される」

諸外国の例
●ドイツ
 1933~45年まで不妊手術。1934年1月~「遺伝病子孫予防法」施行→40万人強制不妊手術(1000人以上死亡)―①遺伝病を持った子孫の数を減らす、②ドイツ民族体の向上→1980年―強制的な不妊手術をうけた人に5000マルクの補償金支給(謝罪なし)→1984年―強制不妊手術、「安楽死計画」の被害者→ナチスの犠牲者として認定→全国規模の基金→全国的な補償システム(クリスティーネ・テラー)
●スウェーデン
 1935~75年までに6万3000人に不妊手術。うち33%(2万7000人)が不同意の強制・半強制手術。1999年~損害賠償金の支給―現在までに1850人が申請。(二文字理明)
●オランダ
 障がい者本人・保護者の同意を得ずにおこなわれた子宮摘出の記録は1956年まで残っている。1980年に精神障害を持つ女性の不妊手術に関するガイドライン成立→1981年男女両性に適用されると改訂→1989年施設外の精神障がい者にも適用→1997年見直し→2002年見直し(加藤雅枝)
●カナダ
 不妊化手術を強制された人々にたいして国家の謝罪と補償がおこなわれた(米津知子)
●アメリカ
 当時、アメリカでは多くの州で精神障がい者らへの強制不妊手術が可能な法律があり(松原洋子)

政府の態度
1949年―国通達「公益上の問題があり、…憲法の精神に背くものではない」(3/29北中)
1997年9月―国(厚生省)「優生保護法改正で問題は終わった」
1998年6月―国(厚生省)「プライバシー問題があり調査は無理」「当事者の方々にはお気の毒である」「優生手術は合法的、調査は不要」
1999年10月―国(厚生省)「優生手術は合法的」「調査は不要」
2017年2月―日弁連の意見書に、国「当時は適法だった」
2018年7月31日―仙台地裁への国側準備書面「救済義務なし」

翁長さんが亡くなった

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翁長さんが亡くなった

ここに、「同志は倒れぬ」を献げる

正義にもゆるたたかいに 雄々しき君は倒れぬ
血に汚れたる敵の手に  君はたたかい倒れぬ
沖縄人民の旗のため
琉球人民の旗のため
踏みにじられし民衆に  命を君は捧げぬ

20180810シタベニハゴロモ観察記録(7/17レポートの続き)

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シタベニハゴロモ観察記録(7/17レポートの続き)

石川昆虫館のレポートより
・分布―中国、台湾、ベトナム、インド→2006年韓国、2009年小松市
・樹幹部の成虫―数個体ずつ集団形成
・成虫の後脚―跳躍脚で水平または下降2m以内(注:羽を使って4~5mは跳ぶ)
・樹幹部の成虫数―8月下旬に最大→9月前半には最大時の半分→11月下旬には見られない
・求愛行動―9月中旬~11月下旬
・他の動物による捕食―ジョロウグモ、ハラビロカマキリ、オオカマキリ、ハヤシノウマオイ、(コガタスズメバチ、ヒメスズメバチによる攻撃)
・寄生植物―センダン、シンジュ(ニワウルシ)、ミカン科、ブドウ科(韓国ではヨーロッパブドウに加害)
・卵塊5/16~25孵化→6/8~2齢幼虫→6/22~3齢幼虫→7/初~4齢幼虫(幼虫期間は65~70日)→7/25~8/3~羽化(7/30羽化盛期)→9月後半~11月下旬―産卵。

シタベニハゴロモの拡散経過
 2009年―小松市で最初に発見。2013年―能美市、加賀市、あわら市で発見【8~9月―能美市、加賀市、小松市のニワウルシ植栽地80カ所調査→能美市(2カ所),小松市(1カ所),加賀市(2カ所)で確認(2013.11.20「北國新聞」)】
 2015年―白山市、金沢市で発見(時期不明だが、インターネット上には大阪での観察報告もある)。
 4~5mしか跳べない幼虫、成虫がどのようにして小松市→能美市→白山市→金沢市へと、6年間で約30km移動したのか?→人間による卵塊が付着した樹木などの移動か?

金沢市みどり1丁目での観察記録
ニワウルシ植生 A=18本、B=7本、C=2本、G=3本
AB間=150m、AC間=100m、AG間=150m



7/上 A地区―バラ、ムクゲに見慣れない昆虫発見→7/07撮影
7/17 昆虫館に写真を添付し問い合せメール→「外来種シタベニハゴロモの幼虫」との返事
   A地区のニワウルシ樹幹や建物の壁面でシタベニハゴロモの卵塊観察・撮影
7/28 A地区―成虫1匹発見・駆除開始(駆除はA地区の約2.5m以下の成虫を対象)
7/31 A地区―成虫多数駆除
8/01 A地区―成虫多数駆除、B地区―数匹観察、C地区―0匹観察、G地区―未確認
   (7/28~8/1=A地区で40匹程度駆除?)
8/02 A地区―成虫7匹駆除
8/03 A地区―成虫11匹駆除
8/04 A地区―成虫9匹駆除、B地区―5匹観察、C地区―0匹観察、G地区―未確認
8/05 A地区―成虫14匹駆除
8/06 A地区―成虫30匹駆除
8/07 A地区―成虫9匹駆除
8/08 A地区―成虫21匹駆除、G地区観察―1匹確認
8/09 A地区―17匹駆除
8/10 A地区―11匹駆除
(これまでにA地区で駆除した概数=約170匹)

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 7月31日に金沢市役所に問い合わせたところ、環境政策課から、①数年前に金沢市役所付近でも確認、②現段階では、生態系への影響は見られないという返事があり、その後更に幾つかの質問を投げかけているが、返事がない。

20180816 小池都知事―今年も関東大震災朝鮮人虐殺追悼拒否

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小池都知事―今年も関東大震災朝鮮人虐殺追悼拒否

 2016年の関東大震災朝鮮人虐殺追悼会に、小池都知事は「多くの朝鮮人の方々が、いわれのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史のなかでも稀に見る、まことに痛ましい出来事でした」という追悼文を出したが、昨年は追悼文を出さず、今年も出さないという。小池知事にとっては、「(朝鮮人虐殺は)稀に見る、痛ましい出来事」ではなく、「当然のこと」のようだ。

 今年は、追悼文送付を求めて署名運動がおこなわれているが、7月末時点で、8000人と130団体から集まっている(8/2「北陸中日新聞」)。

 小池都知事が追悼文を拒否する理由は関東大震災で亡くなった人々全員を追悼する法要(9/1)に出席するから、虐殺された朝鮮人には追悼文を出す必要ないという。とんでもない誤りだ。自然災害による死ではなく、軍・自警団・警察(日本人)による虐殺には日本人としての責任が伴っている。追悼会への追悼文拒否は虐殺の責任を放棄し、歴史の真実を闇に葬ることになる。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺について、姜徳相さんの『関東大震災』(1975年)、論文「日韓関係からみた関東大震災朝鮮人虐殺」(2013年)などから、いまいちど学んでおこう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
虐殺の始まり
 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「爆弾を投げた」「婦女を強姦した」という流言は、いつ、どこから出たのかという問いに、姜さんは「流言発生は日本人一般ではなく、朝鮮人を監視、取り締まるプロ…憲兵であり、警察である」、「ことあるごとに、官憲説、民間説、横浜説などが出てきて…責任の所在が曖昧にされてきた」という。

 2日午前10時頃には「昨夜来の火災の多くは不逞鮮人の放火または爆弾の投擲によるもの」という流言があり、警察が「朝鮮人は殺してもいい」とふれ回っていたことが確認されているが、曹仁承さんの証言によれば、「(9月1日深夜)12時頃になると、橋の向こう側で激しい銃声が聞こえてきた。…ここではじめて、朝鮮人虐殺の事実を私たちは知ったのである。…橋のたもとにくると、そこは死体で足の踏み場もないくらいであったが、橋の両側も死体で一杯であった」(『関東大震災』64p)とあり、震災当日(9/1)には朝鮮人虐殺がおこなわれていたのである。

意図的計画性
 大杉事件、社会主義者10人虐殺の亀戸事件、朝鮮人虐殺について、塩田庄兵衛さんは「扼殺三大事件」、犬丸義一さんは「三大白色テロル」と主張しているが、姜さんは<大杉事件、社会主義者10人虐殺の亀戸事件>と<朝鮮人虐殺>は異質であるという。

 <「家族3人の生命、社会主義者10人の生命>と<6000人以上の生命>の死者数の差をみると、6000人虐殺には日帝の強烈な意志が見える。また<9/1から始まった朝鮮人虐殺>と<9/4社会主義者虐殺、9/16大杉栄虐殺>という事件発生の時間差にも、朝鮮人虐殺にはあらかじめの意図的計画性が感じられる。それは民族的犯罪である。

 また事後処理においても、社会主義者虐殺については責任者警察署長が謝罪し、大杉栄虐殺では責任者甘粕が投獄されたが、朝鮮人虐殺については、犯人(責任者=官憲)は処罰されておらず、自警団に押しつけたがほとんどが執行猶予にされた。

反帝反植民地闘争への恐怖
 定説では、9月2日午前8時頃に、戒厳令が閣議決定され、午後6時に公布されたとされているが、1日夜半には、すでに軍は動いていたようだ。戒厳令とは軍隊が権力を掌握することであり、内務大臣水野錬太郎は「敵は朝鮮人」と宣戦布告し、軍隊+警察官+在郷軍人+青年団員+消防団員を組織し、震災のその日に動き始めたのである。では、なぜ、それほど朝鮮人を警戒したのか?

 姜さんは日帝の朝鮮侵略・植民地支配の歴史に淵源があるという。1894年甲午農民戦争でのジェノサイド、1896年義兵戦争での大虐殺、1910年朝鮮併合、1919年三一独立万歳運動など、反侵略・反植民地の全歴史が朝鮮人民の血に染まっているのである(憲兵の権限は3カ月以下の懲役、罰金100円以下の犯罪は即決出来た)。

 他方、1923年関東大震災に至る日本の階級情勢は1918年米騒動があり、1922年シベリア干渉軍の敗北があり、1922年日本共産党が結成され、朝鮮労働同盟会が結成(東京、大阪)され、階級間のつばぜり合いのなかで、メーデー弾圧(5月)、共産党一斉検挙(6月)の延長線上に9・1朝鮮人虐殺が位置していたのである。

社会主義者の責任
 また、姜さんは「社会主義者や大杉栄は殺す側にいた」(『関東大震災』姜徳相1975年196p)と主張していたが、この論文では「殺されない側」と訂正している。虐殺された社会主義者10人のうち、8人までが自警団に参加(『関東大震災』194p)しており、「殺す側にいた」ことは間違いなく、訂正の必要はない。この事実は日本人(研究者や活動家)こそが深刻に受けとめねばならない。

 それはいまの沖縄問題にも共通している。政府やマスコミは中国や北朝鮮からの脅威をあおり、日米安保(侵略軍事同盟)の必要性を主張し、米軍基地とその犠牲を沖縄に集中させ、本土の労働者人民は「我関せず」の態度をとり続けてきた。本土の労働者人民は沖縄人民の犠牲の上にあぐらをかいて、「平和」を享受しているという構図は、かつて朝鮮人民の犠牲の上にあぐらをかいていた日本人(社会主義者)の姿と同じではないか。

参考文献
『関東大震災』(姜徳相1975年)
「日韓関係からみた関東大震災朝鮮人虐殺」(姜徳相2013年)
『関東大震災』(現代史の会1983年)
「北陸中日新聞」切り抜き(2017.8.24、9.5、9.6、2018.6.17、8.2)

20180825 植民地朝鮮で国民優生法(断種)適用を検討

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植民地朝鮮で国民優生法(断種)適用を検討

 旧優生保護法下で、1949年から1992年までに約25000人が不本意な不妊手術を強制された。このかん調査が進み、強制不妊手術の実態が明らかになりつつあるが、政府は日弁連の意見書(2017.2)に、「当時は適法だった」と居直り、仙台地裁への国側準備書面(2018.7.31)では「救済義務なし」と、謝罪しようとしない。

 旧優生保護法は戦前の国民優生法(1940~1948年)の戦後版として、1948年に公布された。国民優生法はナチス断種法と同様遺伝病限定主義だったが、旧優生保護法は規制対象を非遺伝性疾患に拡大し、戦前以上に凶暴な障がい者差別・抹殺政策として展開された。

 奈良女子大学・ジェンダー法学の三成美保さんによれば、国民優生法は断種法としてよりも中絶禁止法として機能した。国民優生法のもとで実施された断種手術は538件にしかならず、強制断種は実施されていないと書いている(ブログ「ジェンダー視点で歴史を読み替える」より)。

国民優生法の成立過程
 三成さんによれば、日本における断種法の立法化は、1934年に「民族優生保護法案」としてはじまった。断種の具体化は、1930年3月、保健衛生調査会に民族衛生に関する特別委員会が設置されたことにはじまる 。1930年、内務省保健衛生調査会が設置(34年審議打ち切り)され、1934~38年には、民族優生保護法案(議員提案5回)が帝国議会に提出された。1938年1月、厚生省が創設され、…予防局に優生課が設置された。1938年11月、優生課は民族衛生研究会をつくり、…1940年4月、国民優生法が公布された。(同上ブログより)

 このようにして公布された国民優生法は全20条で構成され、その目的と施行方法を<第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス。第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ処置ニシテ命令ヲ以テ定ムルモノヲ謂フ>と規定されている。
 国民優生法は「悪質なる遺伝性疾患の増加」を防止し、「健全なる素質を有する者」の増加、「国民素質の向上」を目的として、「生殖を不能ならしむる手術」をおこなう法律だった。

植民地朝鮮の人口抑制政策
 1944年当時の資料に、「朝鮮人ノ現在ノ動向二就テ」(外交史料館所蔵、戦前期外務省記録A.5.0.0.1・1の第2巻)に「<極秘>朝鮮統治施策企画上ノ問題案」という公文書がある(今田真人著『極秘公文書と慰安婦強制連行―外交資料館などからの発見資料』より孫引き)。

1、人口配分…地理的、文化的、血族的環境ヨリ生成セル民族感情ヲ大和民族化スルガ為ニハ数的及文化的優位ヲ要請セラルルヲ以テ朝鮮民族ノ数ハ可及的少数ナルヲ適当トスル然ルニ現在既ニ2400万ヲ算スルヲ以テ之ガ同化ヲ促進スルガ為ニハ朝鮮民族ヲ刺激シ却テ同化ヲ困難ナラシメザル留意ノ下ニ一部移住、増加抑制等ノ方策ヲ遂行セザルベカラズ、依ッテ今其ノ数的限界ニ付考慮スルニ朝鮮ハ将来二十年間ニ工業化等ニ依リ少ナクトモ三千万ノ人口包容力ヲ有スルモノト認メラルルヲ以テ朝鮮人ノ増加○○、内地増加人口ノ配置、同化遂行上ノ難易等ノ要請ヨリ比較考慮シ三千万人中朝鮮人二千五百万人、内地…
(1)増加人口ノ抑制。イ、早婚ノ弊風ヲ打破スルト共ニ女子ノ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ2年昂メ20歳以上ニ達セザレバ結婚セシメザルコトトシ男子ニ付テモ概ネ5年昂メル如ク指導ス。ロ、女子勤労ヲ奨励シ女子ヲ内房ヨリ社会ニ解放スル如ク指導ス。ハ、男子ノ単身出稼ヲ奨励シ経済生活ノ向上ヲ企図セシムル如ク指導ス。ニ、抑制方策ニ即応スル優生法ヲ施行ス。本方策実施ノ為ニハ凡ユル機関要スレバ国体又ハ公営ノ機関ヲ通ジ之ガ指導ヲ為サシメ20年間ニ凡ソ500万ヲ抑制スルヲ目途トス

優生法による断種政策の準備
 すなわち、朝鮮人を日本人化するためには、1944年現在2400万人の朝鮮人の一部を移住(強制連行)、晩婚化、優生法(断種)などによって500万人減らして、1900万人にするという計画である。

 ところが、植民地朝鮮の人口は1920年=約1726万人、1930年=約2105万人、1940年=約2412万人であり、1920年から1940年にかけて、植民地朝鮮の人口は約40%増加している。1944年以降の人口増加を見込めば(増加率140%)、20年後には約3360万人になり、これを1900万人に抑えるということならば、その差1460万人を何らかの方法(強制連行、晩婚化、断種など)で抑制しようという方針である。

 実際に日帝は成人男性を炭鉱や鉱山に連行して使い捨て、結婚前の少女を朝鮮女子勤労挺身隊として不二越などの工場へ強制連行した【大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』では、日本への朝鮮人労務動員数は72万4787人】。そして最後の手段として優生法による断種の準備にかかっていたのではないか。

 ドイツでは、1934年1月に「遺伝病子孫予防法」が施行され、「遺伝病を持った子孫の数を減らす、ドイツ民族体の向上」を理由に、1945年までの12年間で40万人に不妊手術を強制した。精神病者や障がい者は「健康な人々に負担をかけ、社会のお荷物」として、第2次世界大戦開始から終結までに20万人の大量虐殺を強行した。加えてユダヤ人を600万人以上虐殺した。

負の歴史を繰り返さないために
 戦前の国民優生法はナチスの影響を強く受けて成立し、1944年の「朝鮮統治施策企画上ノ問題案」では、植民地朝鮮の人口抑制のために国民優生法に基づいて断種方針を打ち出したことをうかがわせる。

 朝鮮・中国人民をはじめとするアジア人民による抗日解放戦争によって、日帝に1945年8月の敗戦を強制したことによって、1944年断種方針を頓挫させることができた。この侵略戦争が長引けば、朝鮮では国民優生法(断種)が適用され、さらに多大な犠牲者を生み出すところであったが、朝鮮人民はたたかいをもってこれを阻止したのである。

 いま、旧優生保護法下の強制不妊手術にたいして、被害者の怒りが解放され、裁判が始まっている。わたしたちは再びの惨禍をもたらさないために、思想的にけじめをつけ、被害者とともにたたかわねばならない。


20180831 田中秀雄著『スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記』について

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田中秀雄著『スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記』について

スマラン事件裁判記録の公開
 2014年、スマラン事件裁判記録がインターネット上(「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワークのブログhttp://kokoronokaihuku.blog.fc2.com/)に投稿されるまでは、スマラン事件が日本軍による組織的な強制連行・性奴隷事件であることを否定する記事が横行していた。

 たとえば、「命令違反や個人犯罪」(秦郁彦)、「兵士の個人犯罪」(阿比留瑠比)、「一部の軍人が犯した犯罪行為…、日本軍が加担した`証拠`ではない」(藤岡信勝)、「軍による組織だった強制連行の証拠はない」(百田尚樹)、「軍の方針に反していた」(櫻井よしこ)、「個人レベルの戦争犯罪」(八木秀次)、「一部将兵の軍律違反」(石川水穂)、「末端の兵士が起こした軍紀違反事件」(池田信夫)など、スマラン事件を兵士個人の犯罪とし、誰も彼も軍が組織的にかかわってはいないと主張している。

 しかし、スマラン事件裁判記録が投稿された後は、真実の重さに圧倒されたのか諸氏は沈黙しているようだが、2018年4月、表記の著書(『獄中手記』と略す)が発行された。

『岡田慶治の獄中手記』について
 『獄中手記』の目次は(1)大東亜解放の聖戦へ(仏印、マレー、ビルマ)「青壮日記10」、(2)運命のジャワへ(ジャワ、スマトラ)「青壮日記11」、(3)ボルネオの苦闘(ボルネオの巻)「青壮日記12」、(4)バタビア報復裁判に戦う(復員、再起、戦犯行)「青壮日記13」、(5)「解説 フェミニスト岡田慶治」、(6)岡田慶治の遺書、となっている。

 各章のタイトルは著者・田中が付けており、第1章は「大東亜解放の聖戦へ」としている。田中にとっては、アジア太平洋地域への侵略戦争は「アジア解放の聖戦」であり、岡田慶治は「アジア解放の英傑」のようだ。しかしスマラン事件裁判記録(須磨明筆耕資料―注)は英傑岡田を全否定しており、何としてもこの評価をくつがえしたいというのが、本書の出版動機である。
(注:国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」及び「法務省/平成11年度/4B-23-4956」)

 それは、「解説」で岡田をフェミニストと表現していることにも表れている。フェミニスト(feminist)とは、女性の権利拡張や、男女平等を主張する人(女性解放論者)を意味するが、暴力(軍)を背景にして、女性を性奴隷にする施設(慰安所)を開設した軍人・岡田慶治らをフェミニストと表現する田中秀雄の知性を根底から疑わねばならない。

 また、『獄中手記』は全体で268ページあるが、その大部分は岡田慶治の獄中手記「青壮日記」の復刻で占められ、田中による反論はわずか17ページ分しかなく、スマラン事件批判の事実上の敗北を刻印しているようだ。以下、具体的に著者田中の主張を検証しよう。

慰安所設置~閉鎖のいきさつ
 最初に、裁判記録によってスマラン事件のアウトラインを整理しておこう。1944年1月、南方軍第16軍幹部候補生隊隊長の能崎清次少将(当時)が、池田省一大佐と大久保朝雄大佐から「抑留夫人を慰安所に使いたい」との要望を受けて、新しい慰安所開設を話し合ったことから始まる。この時、能崎少将はジャカルタの第16軍司令部の認可を条件に、部下の岡田慶治少佐に、軍司令部との認可交渉に当たらせた。

 この時、第16軍司令部からは、「自由意志の者だけを雇うこと」を注意され、岡田少佐は女性を集める手配と4軒の慰安所開設の準備を実行した。2月末、4カ所の抑留所から35人のオランダ人女性を集めて、日本語の承諾書にサインさせ、各慰安所に分散連行し、3月上旬から軍支配下の軍人・軍属のための性奴隷とした。

 自分の娘を連れ去られたオランダ人女性が、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により第16軍司令部は、1944年4月末に4カ所の慰安所を閉鎖したが、関係者は処罰されていない。

 裁判記録で明らかになったことは、第1に、軍と警察(憲兵)が慰安所設置に直接関与していることである。スマラン駐屯地司令官の能崎少将と岡田少佐が中心的な役割を果たしている。第2に、軍と警察による暴力的な連行、欺罔による募集である。第3に、慰安所は鉄条網などで囲まれ、出入り口には警備がおり、外出には兵が付いてきた。「慰安所で働くか死ぬか」と脅し、家族を人質にして脅迫している。第4に、必死に抵抗する女性を監禁し、暴力をふるい、強姦を繰り返したのである。

 そして、最も重要なことはインドネシアを占領した日本軍が「女狩り」と称して、現地女性への強姦事件が多発しており、その対策として「慰安所」制度を運用していたことである。日本軍占領下の3年半の間に性暴力の犠牲となったインドネシア女性の数は1万6884人(1995年兵補協会調査―1996.2.14朝日新聞)にのぼっている。亡くなったり、事情があって名乗り出ることが出来なかった女性はその数倍はいたと推測出来る。

 岡田慶治の「青壮日記」でも、その経過を確認しておこう。岡田慶治は1946年3月帰国(復員)後、1947年3月戦犯容疑で巣鴨に収監され、同年8月神戸港からジャカルタチピナン刑務所に送られた。「青壮日記」は1948年11月処刑までの間に執筆された。

 岡田によれば、1944年1月に隊長会議があり、そこで能崎隊長はオランダ人女性の慰安所開設計画を知り、スマランの部隊でも便乗したいという方針が出された。岡田はオランダ人女性がインドネシア人巡査を犯したなど性的スキャンダルの噂を列記して、「慰安婦」にされた女性が娼婦や乱れた女というイメージをあらかじめ形成している(106p)。

 1月末ごろ、第16軍司令部(ジャカルタ)に派遣された岡田慶治が申請手続きをおこなった(180p)。2月25日、36人のオランダ人女性をカナリーランに集め(注:「募集」方法については書かれていない)、マレー語と日本語(注:オランダ語ではない)の承諾書にサインさせ(111p)、岡田が4カ所の慰安所に配分した。そのうち8人の女性が将校倶楽部に配分された(112p)。2月29日、8人の将校の食事会に8人の「慰安婦」を侍らせ、その後各室に分かれ、岡田は道子(L・F)を指名し、道子は進んで受け入れた(117p)。その後も岡田は「時々泊まっていた」。翌日3月1日開業したが、4月下旬閉鎖した。

 戦犯容疑が「慰安所」開設であることを知らされた岡田慶治は「慰安所―あれか、何だ大したことないじゃないか」(226p)、「慰安所に欧州婦人を使ったのがいかんのかなぁ。しかしあれほど可愛がってやった…」(228p)と記し、オランダ人女性の性奴隷化を深刻には受けとめていない。

 自殺した大久保朝雄の遺書(1947.1.17付)を読み、岡田は<皆、何という腰抜けだろう(236p)>、L・Fの供述書を読んで、<(L・Fが)嘘八百を並べている(236p)。…飼い犬(L・F)に手を噛まれた(240p)>などと、自らの罪を棚に上げ、最終意見陳述では、<本事件はもともと、合法的且つ親切心から出たものである(241P)>と、軍権力を使って、抑留所のオランダ人女性を連行し、「慰安婦(性奴隷)」を強制した罪の重大さには、最後まで気付いていない。

岡田慶治とL・Fさん(道子)
 開業前日の2月29日、岡田ら8人の将校は特権を使って、「慰安婦(性奴隷)」として将校倶楽部に連行された8人の女性に性暴力を振るった。岡田の「青壮日記」とL・Fさん(道子)の供述書から、その日の様子を確認しておこう。

<被害者L・Fさんの証言>
 <その晩将校は8名いた。…9時頃岡田は各将校に1名づつ我々を指定した。彼自身には私を選んだ。岡田はマレー語で、寝室へ行けと云ったので、私は行くと、彼は後について来た。約3分間位彼と話をした後、彼は私にベッドに寝ろと云ったので、私は之を拒むと、彼は私の両肩を掴み、私をベッドに押し倒した。私も劇しく抵抗したが、彼が私を寝台の上に投げ出すのを防げなかった。同じ慰安所で働いていた仲間で、憲兵に同じやうなことをやられた人の話では、斯かる際に抵抗するのは虐待されるだけで無駄だと云ふ話を聞いていたので、私は抵抗はいい加減でやめて、岡田に性交を許した。然も、その性交中私は彼の顔面に喰付いてやったら、彼は平手で私の顔を殴った。…斯くして私は岡田に依り暴力を以て陵辱せられたのであった。…岡田は略々定期的に1週間に1、2度私の所に通ってきた。>

<岡田慶治の『青壮日記』>
 <(食事後)皆別れ別れに部屋に帰った。…何人も浮き浮きとした足取りであった。…ピンポン以来、岡田は道子(L・F)を可愛いと思っていた。…2人は近くの道子(L・F)の部屋に入った。…服を脱いでシュミーズ一枚になった。彼女が岡田に裸になれと言う。岡田も立上がってズボンやシャツを脱いだ。越中褌を不思議そうに見ていたが、とうとう紐を解いて彼の手を取って寝台に上がった。(以下、ポルノ小説のような記述が続くので省略)>

 何という落差だろう。「婦女子を強制売春に連行した罪」「売春強制罪」「強姦罪」で訴追されている岡田慶治が獄中で執筆した「手記」である。強姦を、あたかも合意(恋愛)上の性的関係であるかのように描くことによって、責任を回避しようとしている。

 しかも、同時期(1943.11.25)に書かれた遺書「私の良き妻久子へ」には、「私の魂はお前の傍に帰って常にお前達の幸福を守るでせう。否むしろお前達の心の中に入っていくでせう」と締めくくっている。

 L・Fさんの証言と「青壮日記」の落差はもちろん、「遺言状」と「青壮日記」の落差も私には理解できない。妻には貞淑を求め、自らには性的奔放を容認している。戦前の男女間にはこのようないびつな関係が支配し、軍として女性を連行し、慰安所に監禁し、強姦をほしいままにしていたのだ。いずれの女性にとっても、耐えがたい時代だったのだ。そして現在も引き続きこの価値観を継承しようという勢力(橋下徹など)が存在する。「慰安婦」問題が過去の問題ではなく、優れて現在の問題であることを示している。

「(解説)フェミニスト岡田慶治」(田中秀雄)について

 田中は<将校倶楽部においても、女性側の気持ちを尊重し、女性がその気になれば性行為も可能であるとされていた(251p)>と書いているが、他方では、<女性たちにも問題がある。どういう仕事かわかっていても、実際その場になるといやだとなる者も少なくなかった(259p)>とも書いている。「女性の尊重」は設置時の建て前であり、その場で「いやだ」と言って、拒否する女性を「問題がある」と非難しているのである。

 田中は<本書を読めば、徐々に道子(L・Fさん)が岡田を好きになる過程もほの見えてくる。他の女性たちも日本軍人たちと楽しく過ごしていた(251p)>と書いているが、<斯かる際に抵抗するのは虐待されるだけで無駄だと云ふ話を聞いていた>女性たちにとって、銃とサーベルで武装した将校に抵抗する手立てがあっただろうか。ストックホルム症候群を発症していたか、やむなく、自らを偽り「疑似恋愛」につきあうしかなかったのではないか。

 田中は<将校倶楽部の女性たちは結局美味しいものを食べられ、…満足していたのだろう(259p)>と、抑留所の飢餓状態(日本軍の占領政策に責任あり)よりもましだから、性奴隷を甘受せよという非人間的な結論に導くのである。

 田中は<岡田がそう(岡田は自分が全責任を負うから心配無用)言ったとは手記から信じられないし、強制的に「婦女を選出すべく命」じたというのも嘘である。女性たちが泣いているのを知れば、岡田は直ちに必要な措置を講じるはずだ。女性たちが岡田を嫌っていたというのも、手記を読めば信じられない(254p)>と書いている。田中は自らを「日本近代史研究家」と称しているが、自己弁護のための「青壮日記」を基準にして、L・Fさんら被害女性たちをウソつきと断じ、都合の悪い証言を否定しているだけである。

 田中は<日本軍は手違いを放置したのではない。手違いがあって、それを矯正したのである(259p)>とも書いている。「手違い」とは何か? 将校倶楽部などの慰安所を設置したことならば、それは「手違い」ではなく、中曽根康弘も書いているように、日本軍の行く先々で起きる現地住民にたいする強姦対策として「慰安所」を設置したのである。
 第16軍司令部が慰安所を「閉鎖」したのは、交戦国オランダとの関係上まずいと判断したからであり、決して自主的、自律的な「閉鎖」ではなかった。なぜならスマラン慰安所設置に許可を与えたのは第16軍司令部だからである。

 田中は、須磨筆耕資料の松浦攻次郎の供述調書(1962年)から、<岡田少佐の命令を受けて要員の選考にあたったのは石田英一大尉で、岡田少佐からは厳重に希望者に限る旨の注意を受けて引き取りに行っている。(省略)選考に際して希望者を確かめず、また趣旨を徹底させなかったことは石田大尉の重大な過失であった(255p)>という証言を引用して、岡田には責任はなく、石田にあると主張している。

 ところで、田中は松浦証言の非常に重要な部分を省略している。そこには、<多くは良家の子女で、レストランでも働く位で、出てきた者>と書かれており、欺罔して、軍隊「慰安婦」を強制したという事実を伏せている。本当に悪質な、恣意的な資料操作である。

 田中は大久保朝雄の遺書から、<責任は司令部にあり、岡田にのみ責任を負わせるのは不当である(257p)>という好都合な部分を引用して、岡田の罪を軽くしようとしているが、その直前には、<岡田少佐の言動強情に過ぎたると云ふも之亦能崎少将の意向により、又岡田少佐の性格上も亦反影し、迅速に目的を達する如く行はれたる>と、岡田が司令部(能崎少将)の慰安所設置方針を強引に進めたことが伺われる。

 ここで、田中は岡田の量刑(死刑)の不当性を主張をしているようだが、田中の執筆目的は量刑への異議ではなく、スマラン慰安所事件そのものの否定にある。

 田中はスマラン倶楽部に配属されたGMvdH嬢の証言中、<集められたホテルには「札付きの女ばかりがいた」。…8名の女性の実名を上げている(259p)>という部分を恣意的に引用しているが、GMvdH嬢は<私と同じ運命にあった婦人達は次の通りである>と、海軍士官夫人、教師の娘、教師の娘、蘭印軍下士官の娘、教師の娘、絵具工場主の娘、ボルスミ軍士官の娘、裁断師洋装店主、母は映画館所有、警官の娘など20人の実名を上げている。このように田中は前後関係を無視して、あたかも「慰安婦」にされた女性が「プロの女性」たちばかりだったかのようなイメージ操作をおこなっている。たとえ、貧窮から希望したとしても、慰安所に監禁して性奴隷にした日本軍の責任は免れない。

 しかし、少し長いがGMvdH嬢の証言(1944.10.22)を再現すれば、そこには欺罔による連行があり、恐怖に震える女性がおり、暴力による強姦があり、監禁があり、抵抗があり、逃亡未遂があり、自殺未遂がある。

 <私はアンバラワの第四キャンプに抑留されていた。44年2月25日我々年齢18歳-26歳迄の婦人は急に事務所へ呼び出された。年齢に依る呼び出しが不思議であったが、…行って見ると名前、家族等のことを聞かれて、帰された。…翌日、此の名簿にある者は出発準備をせよと云った。我々は何が何だかさっぱり判らぬ中に兎に角鞄を纏めた。既にバスは待ってをり、之に乗って第一キャンプへ廻り、此処でも又一群の娘達を乗せ、ハルマヘラキャンプへ向った。日本人はスマランへ行くと云ったきり、それ以上は何も説明をしなかった。>

 <やがてホテル・スプレンデッドへ着いたが、此処で始めて我々は若干の不安を感じ始めた。何となれば、そこには既に札つきの女ばかりが居たからであった。…翌朝そのメナド人は我々に皆別の一室に入って住むやうに言ったが、われわれは漸く運命が判って来たので之を断った。即ち前の晩我々の中の一名が屋内を見廻り検査室や予防具のあるのを発見した。即ち我々は今や慰安所に入られたことが判ったのである。>

 <然し、拒んでも甲斐なく我々は殴られたり、突かれたりして、皆各部屋に入れられて終った。私は神経が昂ぶりヒステリー症状を呈し、膝がガタガタふるへて、歩行が出来なかった。然し、之も何の容赦もされず、遂に私の番が来て、出来るだけ抵抗したが、終に力つきて、強姦されて終った。>

 <ある時2名の娘が逃亡を企てたが、数時間後には憲兵に連れて帰された。我々はこのホテルで、日中一杯と夜の一部を働かせ続けられた。…ある一人の娘はキニーネを多量に飲んで、自殺を図った。然し、彼女は聾(ママ)になっただけで済んだ。又M・K夫人は半分気狂(ママ)になってアンバラワキャンプへ帰された。>

 田中は<岡田は力で以て女性を征服しなければならないほど、女性に不自由していなかった(251p)>と書いているが、現代に生きる田中にとっても女性は性欲のはけ口でしかないのだろうか。L・Fさんによれば、<岡田は略々定期的に1週間に1、2日度私の処に通って>おり、岡田は戦地にあって、軍幹部の地位を利用して、買春にいそしんでいたのである。

 田中は<この(大久保朝雄)の遺書を土台に、岡田全責任論が作り上げられた(257p)>と書いているが、大久保の遺書は1947年1月付であり、スマラン性奴隷事件の調査は1945年秋にはすでに始まっている。

 被害者GMvdHさんは1945年10月22日、JAO'Hさんは1946年1月10日、JB夫人は5月16日に証言している。また4月3日には、ムンチランキャンプの看護婦・NTEさんが<サーベルで婦人達(抑留者)を追払ひ、その後巡査達が婦人と娘達を連れて行って了った>と証言している。9月9日には、俘虜収容所本部付大尉・小林巌は小田島薫大佐の巡視と慰安所閉鎖のいきさつについて証言している。

 大久保の遺書がジャカルタに届く(1947年1月以降)までにはスマラン性奴隷事件の全容がほぼ明らかになっており、田中の「大久保の遺書を土台に岡田責任論」には現実性はない。大久保の遺書は被害者や関係者の証言を補強し、スマラン事件の全体像を明らかにしているのである。田中の論は木を見て森を見ざるの観がある。

20180902 シタベニハゴロモ観察(第3回)

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シタベニハゴロモ観察(第3回)

 7月末以降、ニワウルシ(シンジュ)18本の周辺を、午前6時頃、午後3時頃の2回観察してきました。前回は8月10日までの観察をレポートしましたが、その続きです。
 その後も、毎日20匹前後のシタベニハゴロモの成虫を捕獲しています。雨の日の捕獲数は一桁台になりました。9月2日までに累計540匹になりました。

・8月14日には、カマキリがシタベニハゴロモの成虫を食べているのを見ました(写真1)。アメリカシロヒトリの観察時に、蜂が食べているところを見たことがあります。



・8月27日、シタベニハゴロモの第4齢幼虫を1匹見つけました。石川昆虫館のレポートでは、7月下旬には羽化しおわるとのことでしたが、これは例外なのだろうか、自然界では普通なのだろうか?
 この日、捕獲に失敗し、肩に止まった成虫を振り払ったら、道路を横切って、20メートルほど離れた建物の壁に止まりました(無風状態)。石川昆虫館のレポートでは2メートル以下と書かれていましたが、この間見ていて、だいたい4~5メートルは普通に飛(跳)んでいました。風があれば、相当飛ぶと思われます。


・9月2日、そろそろシタベニハゴロモの求愛行動が始まりそうなので、関心を持って観察してきましたが、今朝、黒っぽい成虫の周りを白っぽい成虫が羽を震わせながらグルグル廻って、寄り添うように並びました(写真2)。
 昆虫館のレポートでは、求愛行動は9月中旬からということですが、2週間ほど早いですね。左の黒っぽくて大きいほうが雌で、右の白っぽくて小さいほうが雄なのだろう。
 この日は、ニワウルシの樹幹や建物の壁に張り付いた古いシタベニハゴロモの卵塊(抜け殻)を採取しました。古い卵塊(抜け殻)を取り除いて、新しい卵塊をチェック出来るようにしました。




 最近、テレビで外来種クビアカカミキリの報道があり、新聞では外来種タイワンタケクマバチの記事があり、厚労省がネオニコチノイド系農薬の食品残留基準を緩和した、MOX燃料の再処理断念の記事があり、自然はどうなっていくのだろうか。

20180905『竹島問題の起原』(藤井賢二著)について

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『竹島問題の起原』(藤井賢二著)について

 2018年4月、『竹島問題の起原 戦後日韓海洋紛争史』(藤井賢二著)という分厚い本が出版された。右派が「起原」を語るなら、読まねばなるまいと、早速図書館で借りてきた。

 序章で、著者は「(独島が)日韓併合の過程において日本の侵略によって最初に奪われた領土という主張への共感…それは韓国による不法占拠が強行される1953~54年に人為的につくられた認識であるというのが筆者の結論である」(16p)と述べている。

 著者の「独島(竹島)問題の起原」は戦後であり、それ以前には何も問題がなかったという認識のようだ。江戸時代のいきさつも、明治時代のいきさつも、「起原」の検討課題にはならず、「独島(竹島)は日本領」ありきで、論が進められている。

 それでも、一切を無視することができなかったようで、「韓国の主張の整理」(233p)で、<1>歴史的根拠(5件)、<2>1905年の竹島の日本領土編入(8件)、<3>1946年の2つの連合国軍最高司令部の覚書と対日平和条約(5件)、<4>その他(33件)をあげている。

 しかし、著者は韓国の51件の主張にたいして本文中では批判を展開せず、脚注で他の研究者の主張で代用している。自らの責任で、対立する主張を正面から批判するという姿勢はない。

江戸期以前の諸地図
 それでも、著者には付き合わねばならないだろう。<1>歴史的根拠では、江戸期以前の領有権について摘記している。脚注では、川上健三、塚本孝、池内敏の文献を引用して、韓国が独島(竹島)としている島嶼は独島(竹島)ではないと主張しているが、江戸期以前の独島(竹島)に関する古地図がその主張を粉砕している。とくに、林子平の「三国通覧図説」(1785年)」中の「三国接壌地図」には、「朝鮮ノ持ニ」と書かれていることに注目して欲しい。

①最も古い地図で、1530年に編纂された「新証東国與地勝覧」の「八道総図(東覧図)」には、位置が東西逆になっているが、欝陵島(松島)と独島(于山島)が描かれている。

②林子平が1785年に「三国通覧図説」を著していて、その中に「三国接壌地図」が描かれている。日本は緑色で、琉球がオレンジ色で、朝鮮半島は黄色に彩色されている。欝陵島と独島は黄色に彩色され、「朝鮮ノ持ニ」と書かれ、朝鮮の領土として認識されている。

③18世紀の日本の「総絵図」である。欝陵島、独島は黄色に彩色され、「朝鮮ノ持ニ」と書かれ、朝鮮領であることを示している。

(左より①,②,③)


④1822年の「海左全図」(李燦所蔵)には、欝陵島の東側に独島が描かれており、朝鮮の領土であることは明確である。

⑤1836年の「竹島方角図」(竹島渡海一件記)には欝陵島と独島は朝鮮半島と同じ赤色に彩色されている。会津屋八右衛門を逮捕し取り調べたときに作成された地図。

⑥19世紀の「東国全図(東国地図)」(湖厳美術館所蔵)には、朝鮮の領海内に欝陵島と独島が描かれている。

⑦19世紀の「東国地図」(ソウル大学図書館所蔵)の写本である。欝陵島の東側に独島が描かれている。

(左より④、⑤、⑥、⑦)


外務省の主張
 ホームページには、「竹島は,歴史的事実に照らしても,かつ国際法上も明らかに日本固有の領土です。韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり,韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。日本は竹島の領有権を巡る問題について,国際法にのっとり,冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。(注)韓国側からは,日本が竹島を実効的に支配し,領有権を再確認した1905年より前に,韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。」と書かれている。

 外務省は、韓国の主張について、1145年『三国史記』、1454年『世宗実録地理誌』、1531年『新増東国與地勝覧』、1808年『萬機要覧』、1908年『増補文献備考』などを紹介しながら、「記述の混乱」を理由に韓国の領有を否定している。

 『竹島10のポイント』では、1846年の「改正日本輿地路程全図」が取り上げられているが、「日本輿地路程全図」は18世紀末から明治維新後まで幾種類もの版が作成され、独島(竹島)日本領有の決定的証拠とはなりえていない。

 外務省は林子平の②『三国通覧図説』(1785年)、③18世紀の日本の「総絵図」は紹介せず、都合のよい資料に依って、我田引水の解釈をして、「日本固有の領土」と主張している。

 2013年8月2日付「北陸中日新聞」には、「竹島記した最古の地図 1760年代の2枚確認」という大きな記事が掲載されたが、領有を区別する彩色はされていない(「日本図」「改製日本扶桑分里図」)。竹島問題研究会は「鬱陵島よりも本土側の竹島を日本領だという意識で作成したのでは」と、得手勝手な推測で、日本領だと判断している。これでは科学的検証とはいえない。

竹島外一島ヲ版図外ト定ム
 「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」(竹島を日本領外とする)のいきさつについて述べると、1876年10月5日、内務省地理寮係官が島根県の地籍編制係に竹島(鬱陵島)のことを照会した。10月16日、島根県は「日本海内にある竹島外一島の地籍編纂方法に関する伺い書」を出した。内務省は元禄時代の「竹島一件」に関する江戸幕府の記録などを調べ、竹島外一島を本邦に関係ないと判断し、1877年3月17日、「日本海内竹島外一島の地籍編纂方法の伺い書」を右大臣岩倉具視宛に提出した。
 そして、3月20日、「伺ノ趣竹島外一島ノ義 本邦関係無之義ト可相心得事」という指令案が稟議にまわされ、承認・捺印され、3月29日付けで『太政類典』に記録された。

(左より⑧、⑨、⑩)


 ⑧「太政類典第2編、明治10年3月29日」には、「三月廿九日(十年) 日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」と記され、⑨「明治10年3月 公文録 内務省の部 1」には、「右大臣岩倉具視殿 伺之趣竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事 明治十年三月廿九日」と記されている。

 すなわち、1877年(明治10年)、明治政府は欝陵島と独島(竹島)は朝鮮の領土であり、日本と関係はないと結論づけたのである。

 これまで「外一島」は独島(竹島)ではないという主張があったが、2005年5月20日、漆崎英之さんは『公文録』に添附されている⑩「磯竹島略図」を発見した。大きい島には「磯竹島」(鬱陵島)と記され、小さい島には「松島」と記されており、独島(竹島)のことである。「外一島」が「独島ではない」という主張が崩れた決定的な1枚である。

 しかし、外務省のホームページには、未だにこれらの文書・図画について触れられていないし、反論もされていない。

民族主義・排外主義教育のテコ
 さて、藤井さんは「(独島が)日韓併合の過程において日本の侵略によって最初に奪われた領土という主張(は)…人為的につくられた認識である」と結論しているが、叙上のとおり、1877年(明治10年)の日本政府の認識は「独島(竹島)は日本領外」であり、1905年に軍事力を背景に、「先占」(注)によって、独島(竹島)を日本領土に編入したこと自体が誤りだったのである。(先占:国際法において、いずれの国にも属していない無主の土地を、他の国家に先んじて支配を及ぼすこと)

 『竹島問題の起原』は2018年に発行されているが、藤井さんは30年前に発見された「太政官指令」も、13年前に発見された「公文録」に添附された「磯竹島略図」も検討の対象にはしていない。藤井さんはこれらの資料を正面から批判・粉砕しないかぎり、「竹島問題の起原」には到達出来ず、この点を回避して幾百ページ費やしても、蜂の一刺しにもならないのである。

 独島(竹島)については、2012年10月の「アジアと小松」でも論じたが、その後、安倍政権は領土問題をテコにして、民族主義・排外主義教育を推しすすめている。マスコミ報道を見ると、「尖閣・竹島 領土と明記 指導解説書改定 今日通知」(2014.1.28)、「全小学教科書に竹島・尖閣」(2014.4.5)、「竹島・尖閣は固有の領土 新学習指導要領案」(2017.2.15)という見出しが目に入って来る。

 安倍は戦前の教育のように、小学生を領土問題で洗脳し、侵略戦争を担う「少国民」をつくりだそうとしている。おとなこそがこの攻撃に立ちはだからねばならない。

参考資料:『竹島=独島論争 歴史資料から考える』(内藤正中、パクピョンソピ著)など

(備考)
 2012年9月の金沢市議会で、日本共産党は「領土・領有問題に関する意見書」を提案し、「これまで(竹島の)領有権を主張してきたことには歴史的に根拠があります」と主張している。
 2006年4月21日の記者会見で、社会民主党の又市征治幹事長は「歴史的にみれば、竹島は日本固有の領土であり、17世紀のころから、日本が実効支配してきており、正式には1905年に日本の領土であることを明確にした」と述べている。
 2012年8月27日付『前進』は「韓国イミョンバク政権…も、領土問題をむしろ組織しあおって、支配の危機を排外主義と労働者人民の決起の圧殺でのりきろうとしている」と、韓国に自重を求め、日帝を援護している。何とも様変わりしたものだ。

20180911 表現の自由を侵害する公刊誌の押収

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20180911表現の自由を侵害する公刊誌の押収

 ここに2018年9月6日付の「依頼書」という文書がある。

 2003年4月10日に、自宅の家宅捜索がおこなわれ、『コミューン』2冊が押収された。『コミューン』は非合法誌ではなく、当時、書店で普通に販売されていた月刊誌である。

 この日早朝、千葉県警と石川県警十数人が押しかけ、裁判所が発行した捜索令状を示し、家宅捜索をおこなうと通告した。「事件とは関係がない」と捜索を拒否したが、強引に入室し、捜索が始まった。あるはずのない「証拠」を探して、押し入れ、本棚、カバン、ベッドの下を引っかき回し、身体捜索と称して着衣を剥がし、刑事たちは『コミューン』を見つけて、目を輝かし、「事件」について記載されているからといって、押収手続きを始めた。

 わざわざ千葉県から石川県まで来て、全国の書店で販売されている月刊誌を「事件の証拠」だといって押収していくとは。まさに表現の自由の侵害であり、嫌がらせと脅迫でもあった。

 そして13年後、2017年6月23日付の「還付通知書」が届いたのだ。同封の返信用封筒に「不当な捜索と押収であったことを謝罪すること」と一筆したためて返送した。もちろん「回答書」は同封しなかった。

 3カ月後、2017年9月6日付の「依頼書」と「回答書」が再び届いたが、千葉県警の謝罪がないので、当然無視した。さらに1年後、2018年9月6日付の「依頼書」が届いたが、返信用封筒にあらためて謝罪を要求してポストに投函した。

 千葉県警の証拠品倉庫が一杯になり、処理に困ってのことだろうが、それは千葉県警の都合であり、『コミューン』という公刊誌を押収することは表現の自由の侵害であり、「返せばいいでしょ」というものではない。最低限、謝罪が必要である。

  

 その他、度重なる家宅捜索・不当押収でさまざまな書籍が奪われていったが、そのなかでも、自作のドキュメントビデオ『決戦の三里塚を行く』の押収(1995.10.16)には今でも怒りがこみ上げてくる。これは、1988年10月23日から24日にかけて萩原貞一さん(治安維持法弾圧被害者)とともに三里塚を訪問したときの記録映像である。押収は、まさに、表現活動にたいする弾圧であった。(注:DVD『決戦の三里塚を行く』希望者は連絡を)

①タイトル、②富山大学キャンパス、③三里塚第2公園、④木の根砦に向かう萩原さん、⑤市東東一さんと萩原さん

        

20180923【志賀原発訴訟】金沢地裁は審理を再開し、結審せよ!

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【志賀原発訴訟】金沢地裁は審理を再開し、結審せよ!

 志賀原発運転差し止め訴訟は3月26日に審理が止まったまま半年が過ぎた。その間、原告団は8月20日と9月20日に、金沢市内武蔵が辻と金沢地裁前で、「審理の早期再開と結審・判決」を求める行動を展開している。

 9月22日の『北國新聞』には、「規制委『論外』『時間の無駄』―北電資料の不備を指摘」という見出しが躍っている。
 21日に原子力規制委員会が志賀原発2号機の再稼働適合審査会が開催された。本文から規制委員会の発言を摘記すると、
規制庁:評価対象を断定するに当たっての考え方が資料に記されていない。どこにあるのか?
北電:記載されていない。
規制庁:議論をするに値しない。

規制庁:(北電が示した科学的データには)論理の飛躍がある。もっと説得力ある証拠がほしい。

規制庁:この資料に示されているのは参考、考察程度のデータでしかない。

規制庁:誤記を見つけるのがわれわれの仕事ではない。100%ミスをなくせとは言わないが、ちゃんと議論出来るレベルの資料にしてほしい。

規制庁:普通は会合を重ねるごとに充実した資料になっていくが、今回のことは反省し、作り直してもらう必要がある。

規制庁:志賀原発敷地内の断層はそんなに多くない。すべて評価対象として検討してもいいのではないかと思う。

規制庁:審査に臨む姿勢としてどうなのかという印象を受けた。

『北陸中日新聞』では、
規制委:対象の断層として、これまでの5本に2本を追加する必要がある。
規制委:(データの誤記や文献の引用がない点を挙げて)施設の安全確保の一義的な責任は事業者(北電)にある。説明責任を認識したうえで、ちゃんと議論出来る資料を作ってほしい

 何とも北陸電力のずさんさ! こんな態度で、原発を再稼働させようとは!
 まあ、今のままでは、規制委員会は「原子炉直下の断層は活断層」という心証を引っ込めるわけにも行かず、早く「説得力のある資料」を出してほしいのであろう。しかし、そんなに簡単に、打ち出の小槌のように都合のいい資料がでるわけもなく、むしろ北陸電力としては、裁判対策として早く結論を出させないために、規制委員会とじゃれ合っていればよいのだろう。
 規制委員会もそんなことは承知の上で、「もっと資料を!」と応答しているのだ。まあ、狸と狐のやりとりを待っている金沢地裁の加島裁判長も同類であるがね。
 いずれにしても、追いつめられているのは北陸電力であり、救いの手をさしのべているのは金沢地裁加島裁判長である。原告団とともに、口頭弁論再開、早期結審を求めて働きかけよう。

『一九五三年内灘解放区』 出 島 権 二

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 最近(2018年秋)、内灘闘争についてのテレビ番組で、「辻政信が内灘闘争を支援した」などというデマが流された。しかし、事実は、辻政信と東亜連盟が内灘権現森にやって来たのは、座り込みを解除するためであった。『内灘から三里塚へ―出島権二さんの遺志をひきつぐために』(1989年発行)から、出島さんからの聞き書き「1953年内灘解放区」(1970年代)を再掲する。

『一九五三年内灘解放区』 出 島 権 二

弾丸輸送拒否ストライキ
 北陸鉄道労働組合の弾丸輸送拒否ストライキの事からお話しましょう。
 闘いの真っ只中で、内灘村民のなかに「労働者はワッショィ、ワッショイやって、旗振っとるが、それだけやないか。仕事やといってはタマを内灘に運んどるやないか、言っとることとやっとることが反対や」という声が出てきました。私はその時「嫌なこというなあ、忙しいなかをせっかく応援に来ているし、カンパを充分していただいているし、小言はないはずや。困ったなあ」と思っていました。特に北鉄労組は、内山さんが委員長をしていて、内灘闘争の支援に本当に全力をかけていました。村人の不信の声に答えるように北鉄労組は「弾丸輸送拒否スト」を打ち出しました。
 内灘村民は「ほほー、労働者もやるのう。本気でやる気なんだな」と労働組合を信用し始めたのです。このあと村内の空気はガラッと変り、村民自身の闘いも盛り上がり、村民と労働者の絆がグッと深まりました。
 弾丸輸送拒否ストこそ、内灘闘争のいちばん大きな歴史的な成果といえます。当時の北鉄労組の幹部は本当にハラをくくってストライキに入ったのでしょう。レッド・バージの嵐が吹き荒れたあとの反米ストライキだったんですから。今日の労働組合にはこれほどの大闘争はできないでしょうね。

闘いを支える全学連
 学生さんはいつも二〜三百人ほど浜に常駐していました。宿泊所を世話して欲しいと頼まれまして、青年会館を開放しました。賛成派の村民から随分文句が出ましてね。
 全学連は金沢大学の学生が中心になって、統制の取れた行動をしていました。私らが頼みもしないのに、麦刈り、麦植え、さつまいもの植えつけ、草取りを手伝ってくれました。学生たちは農作業を手伝って、村民と仲良くなり、そのまま農家に泊り込み、食住を共にして闘っていました。
 共産党は今日とちがって「山村工作隊」を組織していて、二十代の青年が七〜八名内灘に入り込んでいました。ある篤志家のワラ小屋を借りて住み、「試射場は軍事基地だ」という政治的なビラを撒いては、村民をオルグしていました。
 当時共産党といえば、村民は「身震いするほど」恐れていて、私も同様でした。私の家へ工作隊の青年が来ても、始めの一〜二回は門前払いをしたくらいです。それでも懲りずに来ましてね。「八木君また来たかい、帰れ帰れ」といっても、なかなか愛想のいい男で、「まあ、おじさん、そう言わんと、一服せんかね」などといってヤワヤワと入り込んで、しまいには仲良くなってしまいました。
 私は豆腐屋ですから、お昼頃には仕事が終ります。この時間に八木君が 「豆腐屋、ままくれや」といってくれば、私は「おう! はいれや」といって食べさせてあげたものです。
 工作隊はこのようにジミな活動を展開して、村民の政治意識を高めてくれました。確か、八木君は松任市柏野のひとで、今は八戸で市会議員をしていると聞いています。

全国から内灘へ
 当時の社会党は左右に分裂していまして、両派とも本部からオルグが来ていました。右派のオルグは途中早々と帰ってしまい、左派のオルグは最後までいたのですが、たった一人では何をするにしても力にはなりません。その人は非常に真面目で精一杯闘っていました。私と非常に気が合いました。左派のオルグがやって来た頃はもう宿らしいところもなくなり、「その辺にひとつ建てようか」といって、一緒にアカシャの丸太を十本ほど切ってきて、あちこちの家からムシロやワラを貰ってきて小屋を作り、彼はそこに九月まで住んでいました。
 日本山妙法寺という宗派がありまして、デンツク・デンツクとうちわ太鼓を叩いて、鉄板道路や権現森の坐り込みに参加していました。そのなかに吉本という男の人がいまして、粟崎の南川さんの家に泊りこんで、連日闘争に参加していました。吉本さんは内灘闘争のあと、立川闘争に参加し、デモの最中にポリ公におなかを蹴られて亡くなりました。
 上京して国会前で接収反対の坐り込みをしますと、必ず日本山妙法寺から何名かの応援がありました。
 私達が権現森で坐り込みをしているとき、三十歳半ばの望月という人が「私にも一緒に座らせてください、この小屋に泊まらせてください」と申し出てきました。権現森の小屋にはかまども井戸もなく、炊事ができないので村人は望月さんに握り飯や蒸した芋、一升ビンに水を汲んで持っていってあげては一緒に闘いました。
 望月さんは、あまりものをしゃべらない人で、もの静かな、情熱を内にこめるような人でした。その後望月さんは、立川基地拡張に抗議して、首相官邸のまえでハラを切って自殺しました。
 私達は世の中に「支援カンパ」というものがあるとは知りませんでた。闘い始めたらカンパ、米、缶詰、衣類などずいぶんと全国から寄せられました。お金は百四十万円を越えました。労働者、市民がないなかからカンパして下さいました。本当にありがたく戴きました。北鉄労租がさらに二十万円のカンパを持ってきたのですが、労働者の貴いカンパを貰っても、闘いは終盤を迎えていて、生かすことができないと思い、役員会に諮ってお返しすることにしました。
 また関さんが主催していた中央合唱団が参りました。関さんの夫は共産党員で、戦前の弾圧で獄死されたということです。一行は十五〜六人でした二人の間に生れた女の子がリーダーになって、坐り込みをしている鉄板道路や権現森に来て、その場で作詞・作曲し、振りつけをして、みんなのまえで披露してくれました。夜になれば、青年会館に村民を集めて、花笠踊りなど色々とやっては闘う村民を激励してくださいました。

手段を選ばぬ闘争破壌
 私が委員長になってから、政府は切り崩しのために私に攻撃を集中してきました。親戚や友人を使って私を崩そうと、莫大な金を積んできた事もあります。また実行委員会のメンバーに対しては「収賄罪」をデッチ上げるなど、本当に卑劣なやり口ばかりでした。しかし結束を固め、どれもこれもはねかえして闘い抜きました。
 初夏にもつれこんで、闘いがエスカレートし、ポリ公たちの手に負えなくなってきまして、津幡警察署幹部の肝入りで「愛村同志会」という右翼分裂組織が作られました。お寺で密議をしているという情報が筒抜けに入ってきました。労働組合でいえば第二組合です。闘っている時にこういうものができると非常に障害になります。愛村同志会の指導者はもともと、とても熱心な接収反対派でした。私は当初、その男は弁も筆もたつし、指導力もあり、親方になりたい素振りが見えていたので、委員長にたてるつもりでした。けれれども村議会の宮本議長や中村副議長は私の意見に反対して「おまえがやれ」といってききません。
 私は根っから「根性吉松」なので、うかっにも委員長を引き受けてしまいました。あんな「おおごと」になると解っていたら引き受けるはずがありません。
 津幡署が愛村同志会を組織させたその人物は巡査をしていたときに大根布に転勤してきて、そのまま村のある家に養子にはいって居着いた人です。闘いのあと、この男は養子先の僅かな財産を売り払って、逃げるように東京へ行ってしまいました。
 愛村同志会の活動資金は林屋亀次郎から出ていることがはっきりしていました。また後ろにはポリ公がついているものだから、乱暴のかぎりを尽くしていました。現在では町役場が建っているところに、山村工作隊が活動の拠点にしている粗末な小屋がありました。この小屋を愛村同志会が梯子、ナタ、マサカリを持って襲撃し、かち壊してしまいました。ポリ公はこの暴挙を見ていでも知らん顔ですよ。
 また権現森で坐り込みを続ける村民の前に、右翼東亜連盟員を引き連れた辻政信が現われ、坐り込みを解除させたのですが、何故私達が辻政信を信用したのか。国会前で坐り込んでいたとき、行動を共にしていた日本山妙法寺の僧侶が、辻政信と懇意であり、前を通る度にねぎらってくれるので、段々信用するようになったのです。その頃はもう「藁をもつかむ」という心境になっていて、うかうかとのってしまったが、結局辻政信は闘いを切り崩すためにやって来たのですね。

決死の実力出漁へ
 村民が何故それほどまでに一致団結したのか。米軍は進駐いらい各所で無茶をしているというニュースがはいり、「おっかない」「娘やかあかが危ない」「子どもの教育上悪い」というのが主たる原因でした。はじめはその程度でしたが、坐り込みに行って労組員と話し合ったり、陳情のための国会前坐り込みをやっているといろんな人が来て「内灘は朝鮮侵略のための試射場だ」などと政治的なことを話してくださって、だんだんと成長してゆきました。
 それでも、東京から来ている社会党、共産党の指導者は、大衆的な基地闘争の経験がなく、接収反対の原則はあるのですが、確たる戦略戟術を持っていないようでした。大規模な反基地闘争は内灘がはじめてで、やむを得なかったのでしょうが、局面が転換してもただ眺めているような状態でした。立川闘争ではその点経験が深まって上手にたたかえたようです。
 他方ポリ公もこれほど大規模な大衆運動への弾圧は初めてのことです。大根布に対策本部をもうけ、お宮・お寺・学校に分宿し、入りきれないものはテントを張って野宿していました。最も多いときには二五〇〇人もいました。いろいろ対策を立てていたのでしょうが、住民運動の爆発にどう対処してよいかよくわからないようでした。
 鉄板道路でデモをすれば、警備のポリ公は「ポリ公帰れ」と罵声を浴びせられ、さらにはバーイ・バーイと砂までかけられていました。
 七月末、警備本部のある円照寺にデモをかけたとき、私はポリ公に引っぱりこまれ逮捕されてしまいました。不当逮捕に怒った村民はお寺をぐるりと取り囲んで、石を拾っては屋根にバラバラと投げつけるもんだから、瓦がどんどん割れていきます。住職は真っ青になって「たのんこっちゃ、出島を放してくれ。このままやと寺の瓦がのうなってしもう」と懇請したほどです。私はそのあと程なく釈放されました。
 闘いが本格的にエスカレートした時、私は革命が起るんじゃないかと思いました。というのは村役場を実行委員会が占拠してしまい、「内灘解放区」の司令部として、闘いの指令をそこから出していたのです。村役場の通常業務は一週間ほど止まってしまいました。
 当時の私達は革命なんていうことは全然解らず、支援に来ていた大学生の影響を受けてそういう気分になったのです。大衆が命がけで闘うときの力は物凄いものです。村のどんなボスといえども手が出せなくなるんですから。その時は村長も村会議員も村にはいられなくなり、雲隠れしてしまいました。
 しかし気骨のある二人が残っていました。現町長の中村小重さんと対立候補だった米林三平治さんです。この二人に村民の怒りが集中し、袋だたきにされました。村長はどこかと、手分けして探したところ、役場の近くの家の押し入れに隠れており、こうして村長・村議の権威は完全に地に落ちてしまいました。
 その頃は最近の学生さんが盛んにやっているような「ゲバ棒」の闘いはありませんでした。しかし村民の中から「海へ行って漁をしよう。そうすれば弾丸を撃つのを遠慮するだろう」という声が上がりました。言うのは易しいが、実際に鉄条網を破って、試射場を横切って魚を取るなどということは生易しいことではありません。鉄条網の所々には「入れば罰する」という札が下がっているし、どんどん弾は撃ってくるしね。そんなおっかない所へ中村のおじいさんが「わしには舟もあるし、網もある。わしがやろう」と申し出て下さいました。中村のおじいさんの考えは「日本男児ここにあり。アメリカがやって来て先祖伝来の浜を勝手にすることは許せん」という素朴なものでした。本当に勇気のあるおじいさんでした。

中山村長と中村副議長のこと
 中山さんの姿勢は「村民があれほどイヤだといってるんだから、むりやり持ってこなくてもよかろう」という消極的なものでした。しかし中山さんは、いはゆる「明治生れの気質」をもっていました。「国には法律があるかぎり、これに反対して行動するものは非国民である」と考えているようで、「安保条約に基づいて内灘が接収されるなら、これに従うべきである」との考えです。また反対運動をある程度やらせて、取るものは取ってやろうとも考えていたようです。
 現在、金沢火電絶対反対を掲げる中村小重町長は、当時村議会副議長をしており、真っ正面からの接収賛成派でした。彼は私の従兄弟にあたり、私の家の近くで魚屋をしていました。自転車に乗って金沢まで行き、二〜三箱の魚を買ってきて、近所に売り捌いておりました。豆腐屋の私と同じように、午前中には大半の仕事が終るので、やみのドブロクを飲んでは内灘の将来を語り合っていました。
 内灘の接収問題が起こった時「あぢち(出島権二さんのこと)、ひょっとしたらアメリカさんが来て、試射場が出来るぞ。おまえはどう思う。金の五億も内灘に流れる仕事なら、これを利用して村を建て直そう」と言い、私も同感でした。
 その後中村小重さんは一貫して賛成の立場にたち、私は反対の側にまわりました。最近小重さんは「あんときは、反対運動をある程度やらせて、必要なときにピシッと収めてくれると思って、おまえを委員長に推したのに、性格が性格だから、そのままミイラになってしまった。大闘争があったから、政府折衝が非常に有利だった」と話していました。
 あれほどの大闘争のリーダーが「この辺で止めます」なんていうことは、ちょっとやそっとでできる芸当ではありません。みんなが稼ぎを休んで坐り込んでいるし、豆腐屋はもう長い間休業状態だし、お金どころか箪笥も長持も空っぽになっています。けれども絶対にひっくり返してはいけないと思って闘っていました。私はやっぱり「根性吉松」だから、中山村長や小重さんのようには振る舞えなかったのです。

接収絶対反対の原則
 当初は永久接収ではなく、暫定使用ということで試射を始めました。政府はうまいもんです。「やってしまえば反対の声もなくなるだろう」と既成事実を積みあげて諦めさせるというやり方です。
 また「冬期間だけやらせてくれれば青森の八戸へ行くから。八戸は結氷期で工事ができないから、それまでの暫定的なものです」と言いながら、今も内灘海水浴場に大きな弾薬庫があるでしょう、こういうでかいものを作ってしまい、そのまま居座ってしまったのです。その後三年半にわたって砲弾の試射がおこなわれましたが、内灘接収の政府のやり方はウソとペテンばかりでした。
 それから、村人は「条件闘争」などという言葉も知らず、「浜を渡さない」「接収絶対反対」しかありませんでした。ところが政府は利口でね、闘いを切り崩すために村内から「条件」を出させたのです。「河北潟を埋め立てて欲しい」「船だまりを作って欲しい」「診療所を作って欲しい」などいろんな「条件」が出されました。
 当時無医村だった内灘に反対派がバラックとはいえ診療所を作って村民との交流を深めており、政府は反対派と村民を切り離すためにさっそく五〜六〇〇万円を援助して村営診療所を作りました。
 一番大きいのは漁業補償でした。政府は試射場を内灘から他所へもってゆくわけにもゆかない、のっぴきならないところに追い込まれており、「条件」を飲むいがいに打開できなかったのです。「条件」が出てくると、村民の考えは変わりました。「浜をこうしてやる」「補償はこうだ」という話はなかなか魅力があり、他方反対派はこれに対する適切な方針を打ち出せず、「条件」によって崩されていきました。
 政府のやり方は本当に汚くて、例えば鉄条網のなかの麦畑の補償は賛成派には出すが、反対派には出さないというウワサが流れました。耕作者がウワサの真偽について確認に来たので「そんなことがあるはずがない。賛成・反対にかかわりなく麦の補償が出て当然だ」と説明したのですが、結局反対派農民には麦の補償は一銭も出ませんでした。
 住民運動も基地反対闘争も団結しなければ勝てません。どこから出てくるのでしょうか、切り崩しの金は莫大に流れてきます。男は「酒いっぱいやらんかいや」といわれて飲んでいるうちに、ヘナヘナといってしまう。しかし女は強い。酒は飲まんし、ごまかされんしね。内灘闘争はだからバアサン闘争と言われたぐらいです。金沢火電反対闘争でも、町内に賛成派がかなりいるなかで、反対派が結束して、中本町長リコールまで闘いえたのは何といっても団結と女性の力です。

201306xx 小説『建と好子』

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<2013年6月> 小説『建と好子』

 1932年尹奉吉の処刑からずいぶんと月日が流れた。5・15事件、2・26事件が起き、軍部が横暴を極め、日本は戦争への道を進んでいった。鶴彬は獄中で殺され、石川自由労組も、婦選獲得同盟金沢支部もその力を削がれ、すべてが戦時体制に飲み込まれていった。建の周辺でも、梨木弁護士や妹史子の連れあいが治安維持法容疑で逮捕され、建も沈黙していた。
 1943年には38歳になった建にも白紙徴用がきた。美術欄間の撮影に長けた写真師として、飛行機の部品や精密機械を撮影するために、軍需工場F社に派遣された。建は他の同業者と同じように、スタジオを閉鎖し、家族四人で、F社近くの借家に移り住んだ。
 1944年春を迎えると、朝鮮から12、3歳の少女たちが大挙動員されてきた。おかっぱ頭で、どの顔にも幼さが残っていた。建は少女たちが到着するたびに、愛国寮の講堂で、シャッターを握りしめた。すりガラスに逆さまに写った少女たちを見ていると、12年前の尹奉吉の姿が目に浮かんできた。

 第12愛国寮は高い塀や鉄条網で囲まれていた。外に出ることができるのは、病気やけがで、F社病院へ行くときだけだった。そんな時、ついでに西町のデパートなどに出かける少女もいたが、たいていは見つかり、連れ戻されて始末書を書かされていた。
 お腹を空かせた少女たちは、工場の機械が止まる日曜日になると、鉄条網の破れ目から抜け出して、農家や朝鮮人の家をまわって、母が持たせてくれた衣類と食べ物を交換していた。

「おばさん、貞愛姉さんから聞いてきました。これ、食べ物と換えてください」
 好子がふり返ると、手に、小さな風呂敷包みを持って、12、3歳の少女が立っていた。
「どうしたの」
「お腹が空いているんです」
 好子はじっと、やせ細った少女を見つめ、
「そうけぇ、じゃぁ、入りなさい」と、洗濯の手を止めた。
 なかに入ると、孔(こう)と晨(しん)が遊んでいた。タンスが2本と、隅っこに衣桁があり、無造作に着物が掛けられていた。縁側には、ミシンがあり、縫い物の途中のようで、布きれが散乱していた。少女は風呂敷を広げ、華やかな色合いのチマチョゴリを出した。
 好子は一瞥し、
「それはしまいなさい」と言って、直径1メートルほどの、折りたたみ式の丸い飯台を、カタン、カタン、パッチンと鳴らせて広げた。少女は、うつむいて座っていた。
「こんな時だから、美味しいものはないけどね。」
 少女の前に、白いご飯と身欠きニシンの煮付け、ハマボウフウと鰯のぬた、そして膿みかかったたくあんしかなかった。
「それで、貞愛さんはどうしてるの。」
「お姉さんたちは、急に朝鮮に帰ることになって、その準備をしています。」
「そうけぇ。よかったねぇ。それで、あなたは帰らないの。」
「私たち、帰れないのです。それで、貞愛姉さんにここを教えてもらったんです。朝鮮人に優しいおばさんがいると。」

 好子には、返す言葉がなかった。好子は小松の片田舎に育ち、22歳で、本吉港の建に嫁いできたが、建は何もかも新しかった。2年前に建てたスタジオには、用もないのに青年がよく遊びに来て、小むつかしい話に熱中していた。なかには、朝鮮人も混じっていた。
 聞くとはなしに聞こえてくる話は、朝鮮で、親代々の田んぼをとられてしまって、日本にやってきて、コツコツと小金をためて、舟小屋しか建っていない、浜風が吹き付ける海岸に、家を建て、豚や鶏を飼っていた。車座になって話し込む、建や青年たちと朝鮮人の間には距離はなかった。
 ときどき駐在所の巡査が立ち寄って、お茶を一杯飲んで帰っていった。建の姉妹はすでに、結婚しており、3人の兄たちはチリーに移住していた。なかでも末の妹史子はコムニスト越前と結婚していて、すでに家を出ていたが、時々「建ちゃん、助けて」といって、少しばかりのお金を無心していった。
 10年ほどの結婚生活で、好子にとっても、朝鮮人との距離はなくなっていた。
「みんなおなかがすいていて、お豆でもあれば、持って帰りたいのです。」
「そうけぇ、食べてからにしましょ。ぇや。」と、好子はしっかりした物言いをする12歳の少女を見やった。
 少女は上目遣いに好子を見て、箸に手を伸ばした。小さなご飯茶碗はすぐに軽くなった。

 孔と晨は珍しそうに眺めていた。好子は3合ほどの大豆を紙袋に入れ、風呂敷に包んで、少女のそばに置いた。
「すぐに帰らないといけないの。少し休んでいてもいいわよ。」
「洗濯のお手伝いをしましょうか。」
「いいわよ、他人に見られない方がいいわね。ぇや。」
 孔は不思議そうに、突然やって来たお姉さんに、
「どこから来たの。おうちはどこ。」
「朝鮮からよ。」
「朝鮮って、どこ。」
「とっても遠いところなの。」
「本吉港よりも、もっと遠いの。」
「お船に乗っていかないと、おうちには行けないの。」
 6歳の孔にはとても理解できなかった。孔も、半年前に、本吉港から何時間も汽車に揺られて、引っ越してきたばかりだった。
 少女は、突然涙ぐみ、すすり泣き始めた。

「孔ちゃん、いじめちゃダメよ。こっちに来なさい!」
「かあちゃん、ぼく、そんなことしてない。」と、ほおを膨らませた。
「お姉ちゃんがおうちに帰れないと言って、泣いてるんだもん。」
「お姉ちゃんはね、遠くから連れてこられたの。お母さんにも、お父さんにも会えなくて、さみしいんだから、優しくしてあげなさい。ぇや。」
「うん。」とは言ったものの、孔には、やはり理解できなかった。
 しばらくして、少女はチマチョゴリと豆の入った風呂敷を抱えて、帰って行った。
「お腹が空いたら、いつでも来なさい。少しは食べものがあるから。」と言って、帰したものの、不憫で涙がとまらなかった。
 好子から話を聞いた建はF社にそんな少女が何百人もいることに憤慨していた。

 少女は日曜日になると、好子に会いに来るようになった。友達を連れてくることもあった。少女は李福順(イポクスン)といい、全羅北道の群山で生まれ、父は小さな鉄工所を経営していて、比較的裕福な家庭で育った。
 1945年春、尋常小学校高等科に入ったばかりの13歳の時、長田先生から「働きながら、女学校に通える」と言われ、希望に胸をふくらませ、F社にやってきた。朝鮮では、まだまだ女性を上級学校に通わせる習慣もなく、現実的に朝鮮人のための女学校も少なかったので、福順には夢のような誘惑だった。
 しかし、F社に来たものの、そのような女学校は準備されておらず、その上、旋盤の仕事は辛く、勉強どころではなかった。
「富山は米どころで、お腹いっぱい食べられるし、空襲もない」と言われたが、お腹を満たすほどの食べ物もなかった。朝ご飯のときに、昼弁当の三角パンを食べてしまい、そんな時は、水だけで、夕食まで耐えなければならなかった。
 福順たちが富山に来たころには、すでに毎晩のように空襲があった。警報が鳴った夜は長時間野外で過ごさねばならず、だからといって、翌日の仕事が休みになるわけではなかった。寝不足の目をこすり、居眠りをしながら危険な旋盤作業を続けねばならなかった。機械に髪の毛や指が巻き込まれて、少女たちにはケガが絶えなかった。

「おばさん、ミシンを教えてください。F社に来るとき、ミシンを教えてくれると言っていたのに、一度も教えてくれないんです」
 好子は尋常小学校しか出ていなかったが、裁縫やミシンに長けていた。父は最新式のミシンを持たせて嫁がせてくれた。誰にもミシンに触らせたくはなかったが、「ミシンを教えてやる」と言われて、遠く富山まで連れてこられた福順の気持ちを考えると、断ることはできなかった。
 建は晨を抱きながら、黒光りするミシンの前で、四苦八苦している福順を眺めていた。福順の痩せた背中が痛々しかった。
 福順が一息入れたとき、建は話しかけた。
「尹奉吉って、知ってるか。」
 福順の顔がこわばった。言おうか、言うまいかと、ドギマギしながら、
「はい。」と短く答えた。
「誰から聞いたの。」
「お父さんから。朝鮮の独立のために戦って、処刑されたと。」
「13歳だったね。」
「はい。昭和7年に生まれました。」
「そうか、その年だったね。4月に上海で日本軍に爆弾を投げて、12月に金沢で処刑されたのは。おじさんはね…」と言いかけて、口を濁した。
 建は写真師として尹奉吉の処刑に立ち会ったとは言えなかった。あのときの尹奉吉の手は、刑架にきつく縛られて冷たかった。その目はきつく覆われていたが、その視線ははるかふるさとにあるようだった。

 尹奉吉がこの世を去った年に、福順がこの世にやってきた。
「日本はもうすぐ戦争に負けるし、朝鮮には尹奉吉のような勇気のある人がたくさんいるから、もう少し我慢していれば、朝鮮は必ず独立するからね。そうすれば、胸をはって家に帰れるからね。」
「なんで、おじさんは尹奉吉先生のことを知っているんですか。」
「朝鮮人と親しくてね。」と曖昧にして、話を元に戻した。

「それで、お父さんは許してくれたの。」
「父は猛烈に反対していて、校長先生に掛け合ったのですが、もう、はんこを押していたので変えられませんでした。それに、私はどうしても日本に行きたかったし…。」
 建はさえぎって、
「お父さんがはんこを押したの。」
「いいえ、お父さんが反対すると思って、こっそり学校に持って行ったの。」
「そんなに日本に行きたかったのか」
「女学校に行けるというし、お国のために行きなさいといわれるし…。」
「お父さんが正しかったね。」
「はい。」
 福順は、朝鮮人のことを理解し、心配してくれる日本人がいることに驚いていた。学校では「内鮮一体」と教えられてきたのに、木から落ちた柿の実を拾っただけで、「朝鮮人はあっちへ行け」と追い払われたし、仕事がうまくできないときは、工場長から「半島人」と怒鳴られていた。洗濯をしていると、鉄条網越しに、近所の子供たちから「チョウセン、チョウセン」と囃したてられた。
 福順にとって、空腹よりも悔しいことだった。

 空襲は日本全域に拡大し、7月にはF社軍需工場を朝鮮の沙里院に疎開させることになった。旋盤などとともに、前年から来ていた貞愛さんら420人の少女たちが帰国することになり、今年3月以降に連行されてきた福順たちは残されていた。
 空襲が激化し始めると、工場内にある第8学徒寮は危険だというので、日本人女学生は遠く離れた山室寮に移動したが、福順たちはそのまま工場内の第12愛国寮に留まっていた。
 8月2日未明に米軍の大部隊が富山上空に襲来し、富山市内は灰燼に帰した。福順は戦火を逃れて真夜中の田んぼを右往左往していた。夜が明け、工場に戻る道にはむごたらしく死んだ人々が横たわっていた。ちりぢりに逃げた同僚の中には、帰ってこない少女が何人もいた。
 建が予感していたように、8月15日、日本は敗戦を迎えた。F社は操業をやめ、福順たちは旋盤作業から解放された。福順は早く朝鮮に帰り、母や父に会いたかったが、なかなかその日が訪れなかった。ますます食事が貧しくなっていた。時々、好子おばさんのところへ行ったが、建は軍属を解かれ、配給がとまり、その日の食べものにも事欠き始めていた。

 10月まで待って、希望のその日が来た。福順たちの帰国が決まったのだ。福順は好子おばさんに一刻も早く知らせたかった。今では、鉄条網の破れ目ではなく、正門から堂々と出ることができた。
「おばさん、私たち、帰る日が決まったの。」
「そうけぇ、よかったねぇ。ぇや。」と、好子は目を細めて福順を見やった。福順の笑顔は穏やかだったが、その内側には日本人への不信と怒りが燃えているようだった。
「孔ちゃん、晨ちゃん、もう、さよならね。」
「アンニョン。」と晨がにこにこして答えた。
「私たちも、そろそろ本吉港に帰らねばならないの。福順さん元気でいるのよ。」

 建は、なかなか富山を離れることができなかった。本吉港には、長兄家族が戻っていて、建家族には住む場所がなくなっていた。好子は本吉港には帰りたくないと言っていたが、そうもいかなかった。
 建はスタジオの裏側に2部屋建て増して、4人で暮らすことにした。40歳を過ぎ、15年間の暗い記憶をふり返りながら、ふたたび戦争をしない国にしたいと、漠然と考えていた。 
(了)

「太政官決定」と「磯竹島略図」をめぐる独島(竹島)論争について

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「太政官決定」と「磯竹島略図」をめぐる独島(竹島)論争について

はじめに
 独島(竹島)領有権をめぐって、日韓間で論争が続いている。私は韓国側の史料に依らないで、日本の史料にもとづいて、この論争に決着をつけたいと考えている(韓国側の主張や史料を使うと、非理性的な「韓国の言いなり論」などが横行するので)。
 2005年に『公文録』に綴じられた「磯竹島略図」が発見され、すでに論争に終止符が打たれているのだが、その後も「竹島=日本の領土」派は、「反論」らしからぬ「反論」であがいており、その主張の問題点を整理する。「1877年太政官決定」と「磯竹島略図」については、当ブログですでに取り上げているので、今回はスルーする。


  

「竹島=日本領土」派の主張
 「竹島=日本の領土」派の「太政官指令」「磯竹島略図」にかんする主張としては、(1)「1島2名称」論、(2)「内輪の内緒話」論、(3)「内務省で議論されていない」論、(4)「外一島=チュクド、竹嶼、鬱陵島の右上の小島」論、(5)無視抹殺に類別できる。それぞれの主張と反論を加える。

(1)「1島2名称」論
① 下條正男「竹島の「真実」と独島の《虚偽》」(HP「かえれ島と海」2012年)
 下條さんは「第3回『古文書を見ても独島は韓国領土』でない理由」のなかで、「1877年、太政官指令で『竹島外一島の儀、本邦関係これなし』とされた竹島と外一島は、アルゴノート島(実在しない竹島)と欝陵島である。その事実が確認されたのは、太政官指令から4年後の1881年8月。外務省の指示で調査した北澤正誠が、『今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ、古来我版図外ノ地タルヤ知ルベシ』(『竹島考証』)と報告してからである」と書いている。

② 竹島問題研究会『竹島問題100問100答』(2014年『Will』)
 「Q83 韓国が『竹島朝鮮領』の根拠とする1877年の太政官指令とは何か」の執筆者は塚本孝さんである。塚本さんは「絵図に竹島と松島が描かれていることから、竹島外一島の『ほか一島』が『松島』である」と認めたうえで、「(韓国の主張は)一方的な議論である」として反論している。
 塚本さんは「島根県の伺いの添付資料にある松島は江戸時代の日本の呼称である松島(現在の竹島)であった」、しかし「幕末から明治にかけて…中央においては…竹島、松島のどちらも鬱陵島を指すと考えられていた」、「1877年の太政官指令は、竹島(現在の鬱陵島)および名称上いまひとつの島(松島、これも鬱陵島)について本邦無関係としたものである可能性が高い」と論述している。

③ 杉原隆「明治10年太政官指令をめぐる諸問題」(2011年)
『第2期竹島問題に関する調査研究(中間報告)』に収められた論文である。杉原さんは「磯竹島略図」の出処が大谷家ではなく、小谷家であることを捉えて、「磯竹島略図」の信用性に傷を付けるだけで、略図そのものについては論述を避けている。
 杉原さんが取り上げているのは「竹島紀事」「磯竹島事略」に収められている「1号から4号の4種類の文書」である。そのなかに、「竹島と鬱陵島は一島二名の同じ島…竹島は紛れなく貴国の鬱陵島である…鬱陵島についてだけ記されており、現在の竹島に触れた個所はどこにもない」と結論づけ、「太政官は、鬱陵島が日本と関係ないと指令を出した可能性が濃厚」、「『竹島外一島』の外一島が松島であるとしても、その松島は江戸時代の松島(現在の竹島)ではなく、鬱陵島である」、すなわち「1島2名称」論で締めくくっている。
 以上、下條さん、塚本さん、杉原さんの「1島2名称」論にたいして、池内敏さん、久保井規夫さんらは次のように批判している。

反論① 池内敏『竹島―もうひとつの日韓関係史』(2016年)
 2005年「磯竹島略図」発見直後の2007年に、『竹島=独島論争 歴史資料から考える』(内藤正中、朴炳渉)が出版され、2016年には、池内さんが表記の本を出した。本書では「明治10年太政官指令」という項を起こし、<1876年10月に内務省地理寮が島根県地籍編製係に隠岐国某方向の孤島の調査を指示した。島根県は「磯竹島略図」を添えて、調査の概略を内務省に提出した。添付資料「別紙原由の大略」には、「松島」は「竹島」と同一路線に在る島と指摘し、松島=独島(竹島)であることを明瞭に示した。1877年3月太政官による指令案が作成され、太政官内で稟議され、内務省にたいして「竹島外一島之義本邦関係無之」と指示した(以上要旨)>を確認したうえで、「竹島=日本領土」派に追撃を加えている。
 塚本さんの「幕末から明治にかけて…中央においては…竹島、松島のどちらも鬱陵島を指すと考えられていた」、「1877年の太政官指令は、竹島(現在の鬱陵島)および名称上いまひとつの島(松島、これも鬱陵島)について本邦無関係としたものである可能性が高い」という「1島2名称」論について、池内さんは「外務省が1881年「竹島版図所属考」にもとづいて、1882年内務省返答書(竹島外一島は版図外)のなかで、1877年太政官指令(2島論)を維持しているにもかかわらず、塚本さんが1881年「竹島考証」を根拠にして、この「外一島」が鬱陵島だと強弁していると批判している。
 また、1877年の同時代史料(太政官指令と磯竹島略図)があるにもかかわらず、後年の史料(1881年)をもとに類推する方法は学問的に誤りであることも指摘している。

反論② 久保井規夫『図説 竹島=独島問題の解決』(2014年)
 久保井さんは第5章で、「独島(竹島)=竹島は朝鮮(韓国)領だった」という項を設けて、下條さん、杉原隆さんら竹島問題研究会の「1島2名称」論を批判している。
 下條さんは『竹島は日韓どちらのものか』(2004年)で、軍艦天城の調査結果から、「松島は鬱陵島であり、竹島は鬱陵島の東辺にある竹嶋(注:竹嶼)である」(孫引き)と結論づけているが、これにたいして、久保井さんは「(実測図を見れば)天城が調査したのは松島(鬱陵島)だけであり、今日の独島(竹島)は調査していない。鬱陵島のすぐ横にも竹嶋(注:竹嶼)なる島があるのを見て、『1島2名』説に飛びついた」と批判している。
 その上で、久保井さんは「1877年太政官指令」と「磯竹島略図」を素直に解釈しており、それで必要十分な解釈である。奇策は必要ないのである。

感想
 下條さんは「竹島と外一島」は「アルゴノート島と鬱陵島である」と結論づけているが、アルゴノート島は実在しない島であり、したがって「1島2名称」であり、「外一島」は独島(竹島)ではなく鬱陵島のことだという結論に導いている。下條さんは『竹島は日韓どちらのものか』(2004年)でも「1島2名称」論を主張している。
 「別紙原由の大略」には、「ほかに一島があり、松嶋と呼ぶ。周回は30町ばかり、竹島へ行く航路上にあって隠岐から80里ばかりのところである。樹竹は稀であり、魚獣を獲られる」と具体的に記述されており、「松島」は「竹島」と同一路線にある島とされている。加えて、朝鮮半島、鬱陵島、独島(竹島)、隠岐島が一目瞭然に描かれている「磯竹島略図」を見れば、「1島2名称」論は整合性がつかないのである。
 「竹島=日本領土」を主張する3人に共通している特徴は、「太政官指令」「磯竹島略図」をしぶしぶ認めながら、11点の文書中の「別紙原由の大略」について、決して触れないことである。まさに、都合の悪い資料を外して論じているのである。

(2)「内輪の内緒話」論
茶阿弥 ブログ『日韓近代史資料集』(2018年)投稿
 ブログ上で、茶阿弥さんは、「明治10年太政官指令が…『日本政府内部のやり取り』だからである。…太政官指令は、質問の出どころである島根県を含めても、あくまで日本国の内部の話なのだ。だから、後になって『これは日本のものだ』と言っても外国との関係では別に問題は生じない」「今の竹島を日本の領土ではないと太政官が『思った』から、それを下級機関に指示したに過ぎない。太政官が何かを『思った』からといって、それだけで竹島の客観的な史実に何かの変化が生じるわけではない」「日本の太政官が『その島は日本の領土ではない』と考えたからといって、自動的にその島が現実に外国の領土になるわけではない」「無主地を前提とした日本による竹島の領土編入は、明治10年の太政官が何を思っていたにせよ、有効であることに変わりはない」などと書き散らしている。
 茶阿弥さんは、「太政官指令とか磯竹島略図などは竹島の領有権を語る上では何の関係もない」(2014.4.13)、「島根県が提出した資料に書かれていることがはたして太政官の判断の証明となりうるのか、答は否である」(2014.12.3)などとも書いている。

反論① 朴三憲「明治初年太政官文書の歴史的性格」(2015年)
 『独島・鬱陵島の研究―歴史・考古・地理学的考察』に収録されている論文である。朴さんは「1877年、太政官指令文がたとえ朝鮮と結んだ外交条約でなく日本国内に下りたものに過ぎないとしでも、実際には国家領土の確定をめぐる外交的状況、そしてこれと関連する財政および法制問題を管掌する省卿兼参議らの総体的な検討による結果であったことを示している。しかも明治時期の太政官制が「天皇親政」を名分に掲げでおり、この時期の右大臣は『天皇を輔翼する重官』で、省卿兼参議もまた天皇から『庶政を委任された宰臣』であったため、彼らが決裁した1877年の太政官指令文には明治天皇の意思が反映されている」と、茶阿弥さんの「内輪の内緒話」論を根底から批判している。

感想
 太政官指令は「内務省と太政官の間のやりとり」だから、「日本国内の話し」だから、「太政官(岩倉具視)が何かを思ったから」といって、「太政官が何かを思っていたか」に関係なく、独島(竹島)は1905年に日本の領土になったと、茶阿弥さんが主張しているが、明治政府の公文書である「太政官指令」の位置を無視して、史料解釈をしてはならない。

(3)「内務省で議論されていないから無効」論
 藤井賢二さんは『山陰中央新報』(2016.5.15)で、「太政官決定」や「磯竹島略図」について、「茶阿弥氏は、島根県の伺に添附されていた『磯竹島略図』を内務省や太政官の担当者たちが正確に理解できたかを検討しなければ、『太政官指令』の『竹島外一島』は『鬱陵島と現在の竹島』だとは言えないと主張する。…『太政官指令』がそれをきちんと反映していたかはわからない。…説得力のある主張である」(要旨)と述べている。すなわち「太政官決定」は内務省では議論されずに出されたという趣旨である。
 茶阿弥さんも「島根県が提出した資料に書かれていることがはたして太政官の判断の証明となりうるのか、答は否である」(ブログ『日韓近代史資料集』2014.12.3)と書き、島根県から提出された資料類を検討していないかのように類推している。

反論① 池内敏『竹島―もうひとつの日韓関係史』
 これにたいして、池内さんは『竹島―もうひとつの日韓関係史』で、「内務省廻議用箋に書かれた地理局作成の『磯竹島覚書』がある。『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』における最終決定たる『竹島外一島之義、本邦関係無之義と可相心得事』が出されるのは明治10年3月29日、その直接の前提となる内務省案が太政官に提示されたのが同年3月17日であった。これら期日を見比べるならば、『磯竹島覚書』なる史料は、右の決定に到る過程で内務省地理寮(地理局)が松島(竹島)について調査をおこなったことを明瞭に示すものである」と、具体的に検討過程を明らかにして、反論している。

感想
 「磯竹島略図」は島根県が作成したもので、日本政府が作成したものではないから、「関係ない」(茶阿弥)という乱暴な主張もあるが、では、なぜ、検討の対象にもされなかった「略図」が『公文録』に綴じられていたのか。ここまでくると、もう、言いがかりとしかいいようがない。

(4)「外一島=チュクド、竹嶼、鬱陵島の右上の小島」論
① 田中邦貴さんはHP「構想日本」で、「国立公文書館に所蔵してある『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』には、竹島(鬱陵島)および外一島(存在しないアルゴノート島、一説にはチュクド)は本邦に関係ないとの結論をだした」(「磯竹島略図」が添付されているが、言及はない)。

② フリー百科事典では、「1877年(明治10年)に発せられた太政官指令『竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事』や太政類典の『日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム』とした一文が日韓の竹島における領有権の解釈から問題になっている。…明治期は地図の島名が輻輳していたため、日本ではこの「竹島外一島」は鬱陵島と竹嶼である可能性が大きいとしている」

③ ブログ「きまぐれ備忘録」では、「この画像(磯竹島略図)を見てみると、磯竹島(注:鬱陵島)の右上に何と書かれているか不明ですが、小さな島がある。実はこの島が『竹島外一島』であるというのが、日本側の主張です」と主張し、「太政官指令自体は、1877年3月20日に内務省が出した国内向けの通達であり、…「竹島外一島」と中途半端な記述になってしまった」と、「外一島=竹嶼」論と「内輪の内緒話」論を併用している。

反論① 池内敏さんと久保井紀雄さん
 池内さんは「『別紙原由の大略』には、『松島』は『竹島』と同一路線に在る島と指摘し、松島=独島(竹島)であることを明瞭に示した」を指摘し、久保井さんは「(実測図を見れば)天城が調査したのは松島(鬱陵島)だけであり、今日の独島(竹島)は調査していない。鬱陵島のすぐ横にも竹嶋(注:竹嶼)なる島があるのを見て、『1島2名』説に飛びついた」と、「外一島=チュクド(竹嶼)」論を批判している。

感想
 この主張は「一島2名称」論の亜流である。「外一島」が鬱陵島であるという解釈があまりにも荒唐無稽なので、鬱陵島の北東方向にある「チュクド(竹嶼)」を独島(竹島)だと強弁している。
 だが、「別紙原由の大略」(前掲)を読み、「磯竹島略図」を見れば、チュクド(竹嶼、鬱陵島の右上の小島)が「竹島(鬱陵島)と同一路線に在る島」と見ることは到底無理である。
 そもそも太政官が判断の参考にしない地図を『公文録』に綴じ込むことなどあり得ない。当時の日本政府がシーボルトの「日本図」(1840年)を参考にしたというのならば、なぜその「日本図」を綴じ込まず、「磯竹島略図」を綴じ込んだのか、「竹島=日本の領土」派は説明しなければならない。

 以上、「竹島=日本の領土」派の(1)「1島2名称」論、(2)「内輪の内緒話」論、(3)「内務省で議論されていないから無効」論、(4)「外一島=チュクド、竹嶼、鬱陵島の右上の小島」論を識者とともに検証してきたが、その「論理構造」はまず「竹島=日本の領土」という結論があり、それに添った史料をつまみ食いし、恣意的に解釈して成立しているだけである。

 参考文献(金沢市立図書館と石川県立図書館の蔵書およびインターネット)
2007年『竹島=独島論争 歴史資料から考える』(内藤正中、朴炳渉)→「磯竹島略図」の論述あり
2008年『明治政府の竹島=独島認識』(朴炳渉)→「磯竹島略図」の論述あり
2010年『島根県竹島の新研究(復刻補訂版)』(田村清三郎/島根県総務課)→「磯竹島略図」の論述なし。
2011年『日本海と竹島 第3部』(大西俊輝)→「磯竹島略図」の論述なし。
2011年『日本の国境問題』(孫崎享)→「磯竹島略図」の論述なし。
2011年『第2期竹島問題に関する調査研究(中間報告)』(杉原隆「太政官指令をめぐる諸問題」)→「磯竹島略図」の論述あり。
2012年「竹島の『真実』と独島の《虚偽》」(下條正男HP「かえれ島と海」)→「磯竹島略図」の論述あり
2012年『竹島~日本の領土であることを学ぶ』(島根県)→「磯竹島略図」の論述なし。
2012年『竹島史考』(大熊良一)→「磯竹島略図」の論述なし。
2012年『竹島問題とは何か』(池内敏)→「磯竹島略図」の論述あり
2012年『日本の政治領土問題』(池上彰)→「磯竹島略図」の論述なし。
2012年『日本人と韓国人タテマエとホンネ』(朴一)→「磯竹島略図」の論述なし。
2012年『竹島~日本の領土であることを学ぶ』(島根県)→「磯竹島略図」の論述なし。
2013年「蓋するな竹島『不都合な公文書』」(美根慶樹)→「磯竹島略図」の論述あり
2013年『朝日ジュニア学習年鑑』→「磯竹島略図」の論述なし。
2013年『伝統と革新』10号「竹島問題の基本は歴史認識から」(濱口和久)→「磯竹島略図」の論述なし。
2013年『領土を考える2』(塚本孝/かもがわ出版)→「磯竹島略図」の論述なし。
2013年『どうなるの?日本の領土尖閣・竹島』(武内胡桃)→「磯竹島略図」の論述なし。
2013年『尖閣・竹島問題でわかった歴史のウソ』(黄文雄)→「磯竹島略図」の論述なし。
2014年『竹島問題100問100答』(竹島問題研究会) →「磯竹島略図」の論述あり
2014年『図説 竹島=独島問題の解決』(久保井規夫)→「磯竹島略図」の論述あり
2014年「太政官指令付図磯竹島略図発見の経緯とその意義」(漆崎英之)→「磯竹島略図」の論述あり
2015年『竹島の日 条令制定10周年記念誌』→「磯竹島略図」の論述なし。
2015年『独島・鬱陵島の研究』(洪水性徳、保坂祐二ほか)→「磯竹島略図」の論述あり。
2015年『池上彰の現代史授業』→「磯竹島略図」の論述なし。
2016年『竹島 もうひとつの日韓関係史』(池内敏)→「磯竹島略図」の論述あり
2016年「竹島紛争は国際司法裁判所に持ち込めない?」(玉田大)→「磯竹島略図」の論述なし。
2017年『日本の島じま大研究3―日本の島と領海』(稲葉茂勝)→「磯竹島略図」の論述なし。
2017年『安龍福の供述と竹島問題』(下條正男)→「磯竹島略図」の論述なし。
2018年『竹島問題の起原』(藤井賢二)→「磯竹島略図」の論述なし。

201801010幕末期の赤松小三郎「憲法構想」について

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幕末期の赤松小三郎「憲法構想」について

 安倍政権は明治を美化し、150年の節目として、さまざまな企画を立てているが、はたして明治はそんなに美しい時代だったのか。幕末期の開明的な憲法案を押し潰して明治維新(王政復古)が強行され、その20年後に明治憲法体制を確立し、1945年まで圧政と侵略戦争の時代を導いたのだ。明治維新直前に暗殺された赤松小三郎とその憲法構想についてレポートする。

参考文献:『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基2016年)、『明治前期の憲法構想』(江村栄一他1987年)、『憲法構想』(日本近代思想体系1989年)、『赤松小三郎』(ウィキペデイア)、『明治の憲法』(江村栄一1992年)など

(1)赤松小三郎の略歴(ウィキペディア)
 1831年に信濃国・上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれ、1848年以降、内田弥太郎(数学者)、下曽根信敦(西洋兵学者)に学び、1855年勝海舟に入門し、長崎海軍伝習所でオランダ語、航海、測量、騎兵学などを学んだ。咸臨丸への乗船を希望したが、選ばれなかった。1858年、オランダの兵書『矢ごろのかね 小銃彀率』を翻訳し出版した。

 1860年上田に戻り、1862年調練調方御用掛、1863年砲術道具製作御掛となる。1864年第一次長州征伐で江戸へ。イギリス騎兵士官・アプリン大尉から騎兵術、英語を学ぶ。1865年第二次長州征伐で大阪へ。

 1866年『英国歩兵練法』を翻訳、出版。8月「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申上候口上書」を幕府に提出。藩主の松平忠礼に藩内の身分制度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出。薩摩藩から英国兵学の教官としてスカウトされ、京都の薩摩藩邸で開塾する。

 1867年薩摩藩の依頼により『英国歩兵練法』を改訂し、新訳で出版。前福井藩主・松平春嶽に「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。島津久光と幕府にも同じ口上書を提出。9月3日、上田藩に帰国の途上暗殺される。

(2)口上書の内容
 1867年5月17日には前福井藩主・松平春嶽、薩摩藩・島津久光に建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出した。読み下し文は上田市HP、現代語訳文は上田市HP、関良基訳を参考にした。口上書は9項に分かれており、ここでは第1項に重点を置いて、赤松小三郎の憲法構想を紹介する。

①二院政議会
 読み下し文「議政局を立て、上下二局に分ち、其の下局は国の大小に応じて、諸国より数人づつ、道理の明らかなる人を、自国及び隣国人の入札(いれふだ)にて撰抽し、凡そ百三十人に命じ」「上局は堂上方・諸候・御旗本の内にて入札を以って人撰し、凡そ三十人に命じ」、「両局人撰の法は、門閥貴賎に拘らず、道理を明弁し、私なく且つ人望の帰する人を公平に撰むべし」

 赤松は定数130人の下局と定数30人の上局からなる二院制の議会(「議政局」)政治を提唱している。下局は「衆議院」に相当し、上局は、「貴族院」に相当する。

 両局の議員は、門閥や貴賤にかかわらず、道理を明らかに論じ、私欲がなく、人望のある人物を公平に選ぶこと。選挙方法については、下局は国ごとの選挙によって数人ずつ、合計130人の議員を選出するとし、普通選挙を提唱している。

 上局も、公卿、諸侯、旗本のなかからではあるが、やはり選挙で30人を選出するとした。

②議会の権限
 読み下し文「国事は総て此の両局にて決議の上、天朝へ建白し、御許容の上、天朝より国中に命じ、もし御許容なき条は、議政局にて再議し、いよいよ公平の説に帰すれば、此の令は是非とも下さざるを得ざることを天朝へ建白して、直ちに議政局より国中に布告すべし」

 両局で全ての国事を議論し、決議の上で、天朝(内閣=天皇+6人の大臣)に建白し、天朝(内閣)から国中に布告する。布告は天皇ではなく、「天朝(内閣)」がおこなうことと明記している。

 さらに、もし天朝(天皇と内閣)が反対した場合には、その法令を議政局に持ち帰って再度議論し、公正な内容にして、その法令施行の必要性を「天朝(内閣)」に報告し、ただちに議政局から国中に布告すると、議会を国権の最高機関と位置付けている。

 議会の決議事項にたいしては、「天朝(天皇と内閣)」に拒否権はなく、ここが赤松小三郎の口上書の白眉である。この点では明治憲法を超え、戦後日本国憲法に近い議会システムを考えている。

 ここで確認しておきたいことは、この口上書中には「天子」(2回)と「天朝」(6回)を区別して使っており、天子=天皇、天朝=朝廷=天皇+内閣であり、決して天朝=天皇ではない。上田市HPの現代語訳文では意図的に「天朝=天皇」と訳している部分があり、いたずらに混乱させ、天皇の権限を強めている。

③「朝廷」(内閣)の構成
 読み下し文「第一天朝に…六人を侍せしめ、一人は大閣老にて国政を司り、一人は銭貨出納を司り、一人は外国交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相として。其れ以下の諸官吏も、皆門閥を論ぜず人撰して、天子を補佐し奉り、是れを国中の政事を司り、且つ命令を出す朝廷と定め」

 「朝廷」は天皇+6人の閣僚で構成され、閣僚は議会が選任するとしている。すなわち、閣僚は天皇によって任命されるのではなく、人民から選任されるものとしている。諸官吏(官僚)も上からの任命ではなく、人選(選任)することで、出来るかぎり民意を反映しようとしている。陸海軍を統括する軍務大臣も、議会の下位に置かれ、議会によって統制されることになる。明治憲法下では、軍は天皇の統帥権下にあり、議会に超然として存在しており、軍の暴走を喰い止めるシステムはない。

 しかも、「朝廷」で決定した命令は、天子(天皇)ではなく、「朝廷」が出すことになっており、天皇の権限肥大化を防止しようという意志が現れている。

④第1項のまとめ
 以上、第1項をまとめていえば、①上局と下局の二院制議会である。②上局も下局も公正に選挙で選任される。③議会の権限は朝廷(天皇+内閣)の上位にある。④天皇には拒否権はないく、天皇の権限肥大化の防止策が講じられている。⑤下級官吏(官僚)も選挙で選ばれ、民意の反映を促進している。

 このように、1867年(明治維新前年)の赤松小三郎「口上書」は、20年後の1889年公布の明治憲法よりもはるかに開明的内容を備えており、明治維新は赤松小三郎らの意志を裏切るような形で推進されたということが出来る。

⑤第2項以下について
 第2項以下では、主要都市に大学校、小学校を設置し、全国民への教育機会を提供すること。法律学、度量学を盛んにし、各種学校を順次増やし、国中の人民を文明人として教育すること。すべての人民を平等に扱い個性を尊重すること。農民に対する重税を軽減し、他の職種にも公平に課税すること。これまでの金貨・銀貨を改めて、日本中で通用するお金を流通させる。世界で通用する金貨、銀貨、銅貨を鋳造し、貿易の便を図ること。

 必要最小限の兵力(陸軍約28000人、海軍約3000人)を備え、軍人は庶民からも養成し、士族の割合を徐々に減らしていくこと。戦時には国中の男女を民兵として組織すること。西洋から戦艦、大砲、小銃を購入し、顧問を雇って、軍事力を強化すること。肉食を奨励し日本人の体格を改善すること。家畜も品種改良することなど、こまごまと「口上書」に書かれている。

(3)船中八策との比較
 作家の知野文哉は坂本龍馬の船中八策(1867.6)はフィクションであると指摘しているが、「船中八策」を要約すると、①大政奉還、②上下両院の設置による議会政治、③有能な人材の政治への登用、④不平等条約の改定、⑤憲法制定、⑥海軍力の増強、⑦御親兵の設置、⑧金銀の交換レートの変更、である。

 議会開設に関する坂本龍馬の提言では、「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」としか書かれておらず、ほぼ同時期(1867.5)に出された赤松小三郎の「口上書」の方がはるかに内容が具体的で、開明的である。

(4)なぜ敗北(暗殺)したのか
 赤松小三郎は1867年5月に、「口上書(憲法構想)」を書き上げて、方々に送ったが、上田藩から再三の帰国を命じられ、帰国を余儀なくされたが、帰国直前の9月、京都・東洞院通りで薩摩藩士の中村半次郎らに暗殺された。

 赤松小三郎はなぜ「憲法構想」を実現出来なかったのか。それは赤松小三郎は論客(インテリゲンチャ)ではあったが、革命家ではなかったからだろう。旧体制(幕藩体制)を打倒し、新たな体制(「憲法構想」)を実現するための組織論に欠けていたと考えられる。

 マルクスは自らの哲学を実践するために共産主義者同盟を組織した。レーニンはボリシェビキ(赤軍)を組織し、毛沢東は中国共産党(紅軍)を組織し、カストロはモンカディスタ(7・26運動)を組織し、旧体制を打倒したのである。

 私たちが学ぶべき点はここにあるのではないだろうか。明治憲法に「口上書(憲法構想)」を対置してことたれりとするのではなく、赤松小三郎の敗北(暗殺)から学び、革命的な理論とそれを実現するための党建設こそが今日的課題である。

「尹奉吉義士処刑地の調査報告」再掲

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 尹奉吉処刑地調査から9年が過ぎた。処刑地調査報告は本文と資料・写真・地図を分離して報告したが、今回は資料・写真・地図を本文中に埋め込んで、レポートを作成した。その後、書き変えねばならない新情報もないので、2010年12月の報告内容はそのままである。2018年10月14日

「尹奉吉義士処刑地の調査報告」再掲 (尹奉吉義士処刑地調査チーム 2010年12月)

(一)調査の経過
 1946年3月に尹奉吉義士の遺体が発掘されて以降、処刑場所についてそれほど関心が持たれてこなかった。「ユンボンギルと天長節事件始末記」「はらから通信」では、三小牛作業場内の医王山を遠望する「東南高台」が処刑場とされてきたが、その根拠は1932年12月20日の「北国新聞」に掲載された「処刑場の写真」と1946年3月の発掘直後に遺体捜索隊が写した記念写真である。

 尹奉吉義士処刑に関するさまざまな「軍報告文書」のなかに、処刑場所に関する報告、要図、写真があり、遅くとも1932年8月頃から、第九師団(金沢)で尹奉吉義士を処刑するための準備を進め、三小牛陸軍工兵作業場内の「西北谷間」の「金澤・小原間の山中道路の東方」が「交通希薄」「公衆に危険なく」「東方の断崖は高さ約七米ありて、射垜(シャダ)に通適する」として、「刑場に適当なる場所」が指定された。

 2008年春、韓国のSBS放送が尹奉吉の処刑地調査をおこなった。私たちはこの放送番組を見ることが出来ないまま、今春(2010年)4月から処刑場所に関する「文書」「要図」「写真」を検討し、地図を収集し、地元住民の協力を得て、「西北谷間」の現地調査をおこなった。

    

(二)「西北谷間」の検討
 「死刑執行始末書(検察秘録)」「尹奉吉死刑執行顛末ノ件報告(九師密20)」「上海爆弾犯尹奉吉死刑執行竝ニ憲兵ノ警戒ニ関スル報告(憲高秘1820)」「上海爆弾犯人死刑囚尹奉吉死刑執行ニ関スル件報告通牒(金憲高秘522)」等によれば、処刑場所を三小牛陸軍工兵作業場の「西北谷間」「東方に七米突の断崖」「金沢・小原間の山中道路の東方」とし、「要図」2枚と写真3枚が添付されている。

 これらの資料を原資料として、1956年等高線地図、1962年航空写真、2002年地図を検証し、現地調査をおこなった。

①1956年地図の検討
 三小牛山周辺地図は1889年の等高線地図から現在のものまで、数十種類あるが、1932年当時の地形に最も近くて、わかりやすい地図は1956年の等高線地図(3000分の1)、1962年の航空写真(10000分の1)である。

 現在の「西北谷間」は、1975年の農地整備によって、山を削り、谷を埋め、北部分は標高100m、南部分は140mほどに平準化され、なだらかな畑作地になり、北から南に向かって、雀谷川に沿って、上り坂の道が一直線に走っている(2002年地図)。

 1956年の等高線地図を見ると、西側(野田山墓地側)に雀谷川、東側には中尾山川が南北に流れ、長坂用水に合流している。雀谷川と中尾山川の間に2本の道路が並行して通っている。南北 に走る道路の1本(西側)は斜面にあり、もう1本の道路(東側)はほぼ尾根上にある。当時の「西北谷間」は雀谷川と中尾山川を含む谷間全体と考えられる。

②「要図」と1956年地図の比較検討

    

    

 報告書に添付された「要図2」にも、西側から雀谷川(陸軍浄水池)、南北2本の道路、中尾山川が描かれていて、1956年地図と完全に一致する。

 「要図1」に描かれた処刑場所(点線四角内)は尾根上の道路の東側で、中尾山川を跨ぐところにあり、1956年地図上では縦に「大桑町」と書かれている「桑」の字周辺に該当する。

③「全景写真」との比較検討
 報告書に添付された3枚の写真を見ると、処刑場周辺の植生は雑草地(笹藪)である。ところどころに腕ぐらいの太さの灌木が生えているが、まばらであり、林と言えるほどの植生ではない。

 1962年航空写真を見ると、中尾山川の下流部分(北)は生い繁る林で覆われているが、上流(南)は灰白色に写っており、背の低い雑草地(笹藪)が広がっている。1956年の地図には中尾山川の周辺は広葉樹、針葉樹、雑草地の記号が記されている。

 したがって、写真、要図、1956年地図、1962年航空写真を検討すると、処刑地は1956年地図の中尾山川に沿って、「大桑町」の「桑」の字あたりで、1962年航空写真では灰白色に写っているあたりと推認できる。

④1956年地図と2002年地図との比較検討
 2002年地図を見ると、「滑走路(1956年建設)」、「基本射撃場(1974年建設)」とその後に建設された「警備道路」によって、中尾山川の上流部分が埋め立てられ、1956年地図上の「大桑町」の「桑」の字の南側の地形がかなり変形している。

 2002年地図上の中尾山川と「警備道路」の交差点が、1956年等高線地図上の「桑」の字あたりで、1962年航空写真の灰白色部分にあたる。

⑤「全景写真」と「要図1」との比較検討

  

 カメラは尹奉吉義士や警備の憲兵よりも高い位置にあり、見下ろすように写している。カメラよりも低い位置に憲兵や射撃手の位置があり、さらにくぼみ(中尾山川)を挟んで尹奉吉義士が座らされている。尹奉吉義士の後方(東方)は数メートルの崖となっている。周辺は笹藪のような雑草地である。写真には尹奉吉義士から15~20メートルほど南側を東に向かって上り坂で、車が通れる程度の道が写っている。

 「要図1」には、南北の細い道路(点線)上に、射撃手が配置され、尹奉吉義士の南側を東西の道(点線)が描かれている。「要図1」の東西の道(点線)と「全景写真」右側(南側)にある「上り坂の道路」は一致する。
 1956年の地図にも、この中尾山川上流部分に「上り坂の道路」の一部と思われる東西の点線が描かれており、1962年航空写真の灰白色のところにも、道らしい白い筋を幾筋も認めることができる。

⑥現地調査
 2010年の春から11月下旬にかけて、くりかえし地元住民とともに、三小牛演習場(西北谷間)を視察した。

 「警備道路」は中尾山川が流れる谷(幅10メートル)に土管を埋設し、土盛りをして作られていた(写真)。中尾山川との交差点から南方(上流)を見ると、「基本射撃場」建設によって、谷(源流)が埋められている。谷の東西両側は数メートルの高さの崖になっている。

 中尾山川と「警備道路」の交差点から北方(下流)を見ると、深い谷になっている。この谷に降りてみると、細い流れ(中尾山川の源流)が南から北に向かって流れ、土砂流出防止の土留めが設置されている。土留めの東側は数メートルの崖になっている。


    
(三)結論

 以上の調査・検討結果を総合すると、尹奉吉義士は尾根上の道路の東側を流れる中尾山川と「警備道路」の交差点あたりで、東側の崖を射垜(シャダ:弓を射るとき、的の背後に土を山形に築いたところ)にして処刑されたと推定される。

 「警備道路」の南側の谷幅は十メートル程しかなく、「要図」の条件を満たせず、北側の谷幅は20メートル以上あり、「要図」の条件を十分に満たしている。
 SBS調査チームは処刑地を[北緯36度31分31秒 東経136度40分17秒]と発表しており、私たちもほぼ同位置の結論を得たが、あくまでも推定地であり、本格的な再調査によって更に精度が高められることを期待する。

(2016年撮影)

20181017 シタベニハゴロモ観察(第4回)

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シタベニハゴロモ観察(第4回)

 7月末以降、A地区のニワウルシ(シンジュ)18本の周辺を、午前6時頃、午後3時頃の2回観察してきた。観察もそろそろ終末を迎えようとしているので、前回9月上旬までの観察の続きをまとめた。

 毎日の観察記録(数字)はあるが、日によって変動が激しいので、1週間ごとの数字を出すことにした。対象はA地区(ニワウルシ18本)に限定。

 これまでに、A地区で約1000匹のシタベニハゴロモ(成虫)を捕獲したが、7月下旬までにすべての幼虫が成虫になり、徐々に手が届く2m50cmまで降りてきて、私に捕獲されるのだろうか?。確かに、8月に入ってから幼虫を見たのは1回だけである。

 8月までは、1日当たり15~6匹捕獲したが、9月に入ってからは1日11匹前後になり、10月に入るとさらに少なくなってきた。取り尽くしたからだろうか?。少なくはなっているが、10/17現在0匹の日はまだない。

 求愛行動は9月上旬から、10月上旬まで毎日のように目視したが、10日過ぎたころからは見なくなった(個体数自体が少なくなっているからか?)。まだ、目の届くかぎりでは、新しい卵塊を発見していない。

 研究者ならば、捕獲せずに観察するのだろうが、私は外来種シタベニハゴロモの拡大による植生の破壊を防止しようという観点から、取り組んでいるので、この観察結果は歪んだ形で表現されるであろう。

 8月以降の捕獲一覧表とグラフを添附する。


  

20181023 ダークツーリズム(石川版)を考える

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 ダークツーリズム(石川版)を考える

 今年7月に『ダークツーリズム』(井出明)という新書が発行された。私がこだわってきたさまざまなことが、「観光学」として対象化されている。

 2018年10月20日、〈歴史深掘り!「軍都金沢から平和を考える」フィールドワーク〉に参加してみた。
 石川県立博物館のロビーに集合し、博物館(第七聯隊兵器庫)、石川護国神社(至誠通神の碑、大東亜聖戦大碑など)、兼六園(明治記念之標、ラジオ灯籠、長谷川邸跡)、第九師団長官舎などを、元石川歴史博物館の学芸員で、現在星陵大学教授である本康宏史さんの話しを聞きながら、秋の1日を歩いた。

石川県内のダークツーリズムの対象にはどんなものがあるか、思いつくままに書いてみた。
金沢市出羽町―石川県歴史博物館(第七聯隊兵器庫)
金沢市出羽町―護国神社(至誠通神の碑)
金沢市出羽町―護国神社(大東亜聖戦大碑)★
金沢市出羽町―護国神社(清水澄碑など)★
金沢市出羽町―石川県立美術館裏法面(聖戦大碑「合法化」のための対策)★
金沢市三小牛山―尹奉吉処刑地★
金沢市野田山―尹奉吉暗葬地★、殉国記念碑★
金沢市野田山―長岡戦争戦死者の14墓★
金沢市野田山―陸軍墓地
金沢市野田町―覚尊院(泉屋柳子の碑、小川仙之助尽忠碑)★
金沢市額谷町―朝鮮人強制労働
金沢市兼六園―明治記念之標(天皇制)
金沢市兼六園―ラジオ灯籠(強兵のための体力増進運動)
金沢市兼六園―長谷川邸跡(1929年第1回メーデー会場)
金沢市兼六園―海石塔(加藤清正・朝鮮出兵時の戦利品)★
金沢市西荒屋―竹川リン記念碑(献体)★
金沢市卯辰山―招魂社、北越戦争の碑、鶴彬碑
金沢市小坂町―野間神社(731部隊)★、金沢大学医学部(小立野)
金沢市戸板町―戸板小学校金次郎像(1972年金次郎像損壊事件)
金沢城公園―第九師団司令部★、
金沢城公園―軍法会議(鶴彬、治安維持法違反事件裁判)★
金沢城公園―衛戍拘禁所(鶴彬、尹奉吉拘禁)★、
金沢城公園―極楽橋(尾山御坊)
金沢市東山―宇多須神社(1918年8月12日米騒動)→13日兼六園霞ヶ池
金沢市東山―東茶屋(遊女、性売買)★
金沢市野町―西茶屋(遊女、性売買)★
金沢市犀川河畔―在日朝鮮人集住地域
金沢市泉町―F104J墜落現場(1969年2月8日)
金沢市今町―八田與一記念碑(台湾統治技術者)★
金沢市野町―1921年メーデー(六斗林から、30人)★
小松基地―朝鮮人労務動員、神雷特攻隊、朝鮮戦争★
小松市串町―串茶屋の遊女
小松市尾小屋銅山―朝鮮人強制労働、戦前労働運動
内灘海岸―米軍内灘試射場、朝鮮戦争、権現森、内灘資料館★
内灘権現森―火力発電所計画挫折(住民運動)
加賀市庄町―庄小学校校庭の奉安殿
白山市鳥越城―一向一揆
白山市美川町―島田清次郎(プロレタリア文学)★
七尾市鵜の浦―トクサ火力発電所建設計画挫折(住民運動)
七尾市七尾湾―第二能登丸触雷事件
七尾市七尾港―中国人強制連行・強制労働(一衣帯水の碑)★
富来町赤住―志賀原発★
珠洲市―珠洲原発建設計画挫折(住民運動)
福浦港―渤海国との交流(独島=竹島問題)★
高松町―鶴彬(川柳作家、獄中死、卯辰山に記念碑、金沢城公園に衛戍監獄、軍法会議)★
田鶴浜飛行場

随時追加していきます。

★印はブログ「アジアと小松」(http://blog.goo.ne.jp/aehshinnya3)で紹介
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