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1973 二宮金次郎の亡霊 (二宮金次郎像破壊事件上申書) 柴田道子

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二宮金次郎の亡霊 (二宮金次郎像破壊事件上申書) 柴田道子


46年前の事件
 1972年「沖縄返還」の年に、沖縄出身の大城俊雄さんが名古屋から手配師にだまされて金沢に来た。11月2日、大城さんは戸板小学校の校長に「金次郎像は皇国教育のシンボルとして、こどもたちを戦争の担い手として教育した。戦後の今も、このような像が学校に建てられているのはおかしい」と説明し、持っていた大型ハンマーで粉々にしたのである。

 大城さんは逮捕され、4カ月間拘留され、内灘の出島権二さんが身許引受人になり、保釈され、大城さんは私の住居に転がり込んできた。その後、金沢という地方都市の居心地がよほど悪かったのか、早々に名古屋に帰ってしまった。

 この事件は大きく報道され、世論は賛否に分かれ、戸板小の金次郎像は翌1973年3月に再建されたが、2月には小将中、野町小、十一屋小、6月には中村町小、諸江小、小坂小、大野小、大徳小などの金次郎像が攻撃の対象になった。

 この事件をきっかけにして、金次郎像が歴史的に果たした役割を考え、大城さんを支援する輪が広がった。児童文学者の柴田道子さんが裁判所に上申書(二宮金次郎の亡霊)を提出し、『世界』(1973年6月号)に掲載され、大城さんの事件は全国版になった。

 柴田道子さんは1975年8月14日に亡くなったが、私は金沢刑務所の独房で知らされ、41才というあまりに若い死に絶句した。いずれも半世紀前のことだが、その間に教育基本法が改悪され、道徳教育がはじまり、教科書8社の小学校5、6年生の道徳教科書には金次郎が出ている。いま、金次郎像とは何かを改めて確認する必要があり、柴田道子さんの上申書(二宮金次郎の亡霊)を投稿する。

二宮金次郎像破壊事件 上申書 柴田道子

裁判長さま
 昨年11月2日、この日も暮れようとしている頃、一人の男の人が金沢市立戸板小学校玄関横にある、陶器製の二宮金次郎像を壊しました。「子どもの役にたたない……」といって、ハンマーで粉々にしたこの男の人は、沖縄県出身の大城俊雄さんでした。私は大城さんご自身のことを、あまり多く存じあげません。ただ彼が50歳の男でも、20歳の青年でもなく、37歳であるということだけで、私は深い感慨にふけるのであります。「子どもの役にたたない」という彼の叫びとその行為は、私に大きな衝撃をあたえました。大城さんが37歳というお年でなかったならば、おそらく遠い北国で起こったこの事件は、日常のせわしさのなかで、私の記憶のひだに留まることがなかったでしょう。

 その衝撃は、すぎ去った日に打ち砕き葬り去ったはずの亡霊に、再び出あったという驚きであります。かつての亡霊が、生き生きと甦っているのでした。私はこの亡霊について、あなたさまにご報告する義務と責任を、痛く感じている者でございます。失礼とは存じますが、生まれてはじめてこのような上申書というものを書かせていただいております。

頼もしい皇国少女
 私は昭和9年3月に、現在の東京都北馬込に生まれました。大城さんより3年上にあたりますが、学年は私の方が2つ上です。15年戦争の真最中に生まれました。太平洋戦争は私の小学校1年の3月から、6年の8月までにあたります。つまり私は母親の腹の中にいる時から、軍国主義思想のもとで、軍国主義教育を受けて、成長しました。頼もしい皇国少女であった私は、敗戦という体験がなかったならば、今頃は優秀なファシスト小母さんになっていたところでした。

 いわゆる戦中派と呼ばれます、私たちの兄の世代の人々は、世の中には色々な考え方や思想があることを学んでおります。彼らは私たちよりもはるかに「自由」という意味を知っておりました。ところが私たちは、生まれてきた時は、世の中はすでにひとつの価値観でぬりつぶされ、組み変えられておりました。ご存知のとおり軍国主義のもとでは、皇国精神と絶対主義思想のみであります。私たちは皇国少年、少女と呼ばれ「非常時」に成長いたしました。

 絶対主義思想を骨のずいまでたたき込まれたのではなく、そうした思想によって骨肉を作ってきたのです。私たちのなかに流れる血はファシズムそのものでした。直接的にあった権威は、教師と父母であります。その権威は天皇に通じており、私たちを圧制していたのです。もちろん子どもである私たちは、圧制という自覚はなく、真から信じておりました。

家訓としての「二宮翁夜話」
 私の父は静岡県榛原郡の出身です。農家の四男であります。父の叔父にあたる人が、同じ榛原郡の吉田で報徳社をたて、弟子を集めて熱心に布教をしておりました。祖父は資力がなくて、長男にしか学問をさせませんでしたから、向学心に燃えていた四男の父は、足しげく青田の叔父のもとに出入りしていたようです。貧農から身を興し「勤・倹・譲」をもって財を得、幕府の役人にまで上昇した二宮尊徳は、父には最高の師であったに違いありません。

 祖父は子どもたちの中では頭のよい父を、金のかからぬ教員養成所へ入れました。父は養成所へ通うかたわらも、叔父の家に出入りしました。丁度養成所へ通う道すがらに、叔父の家はありました。父がどの程度尊徳の教えを、自らのものにしていたかわかりません。しかし私の察する以上に、尊徳に傾倒していたことは事実であります。それは父のその後の人生にあらわれておりますから。

 父は教員養成所ではものたりなく、やがて上京し、書生をしながら高等教育を受けました。祖父からの援助はあるはずもなく、豆腐を常食として学校に通ったということを、幼少の私はよく父から聞かされております。今日では豆腐は、肉の一枚にあたる高値でありますが、当時は最も安い部類の食品であったようです。月謝が支払えない父は、特待生の恩恵にあずかるべく、終始一番で学校を卒業しております。こうしたことは父の自慢話に聞いたものです。父の生き方、父の子どもに対する教育は、二宮尊徳を離れて考えられません。幼少から私たち兄妹は、毎朝神棚と先祖(仏壇)に手をあわせ、床の間にかけてあった掛け軸の文字を、読まされてからでないと、朝食にあずかれませんでした。私は字が読めない頃から、大きい兄たちと並ばされて、この掛け軸を読んでおります。掛け軸の文字は漢文であり、この意味などわかろうはずがありません。実はその掛け軸は「報徳訓」でした。私は何やら意味のわからぬまま、この報徳訓を暗話しております。

「ホウトククン フボノコンゲンハ テンチノレイメイニアリ……」
「二宮翁夜話」をご家訓として育った私は、生まれてはじめて学校の門をくぐった時、そこに二宮金次郎の銅像があったことに、何の不思議もありませんでした。それどころか大変親しい師が、銅像になっているのだなあと思ったほどです。少年二宮金次郎は、質素・倹約・勤勉、父母に孝に兄弟に友にのお手本でありました。

奉安殿と金次郎像
 金次郎の銅像は、奉安殿と共に小学校時代の私たちに君臨しておりました。天皇・皇后の「御真影」が祭られていた奉安殿は、校庭の正門横の塚にあり、金次郎像は東門横のジャングルジムと並んでありました。当時は一棟しかなかった馬込第三小学校の校舎の、どの教室からもこの2つのシソボルは見えました。支配する者と、支配される者としての2つの精神的象徴は、具体的な形をもって、私たち子どもを圧倒しておりました。登校下校の時私たちは、奉安殿に最敬礼させられております。させられたというのではありません、ごく自然にそうしたのです。生徒が宿題を忘れたり、規律を破ると、教師は薪を背おわせて金次郎像の前に立たせます。薪でなく水の入ったバケツという時もありました。そして何と守らなければならない、多くの規則や規律があったことでしょう。金次郎像は、親しく幼年時代の私たちの血肉を作りました。幼年時代の体験が、どんなにかその人問のその後の人生を支配するか、影響をおよぼすかは、心理学者や精神医学者の言を待ちません。

 柴刈り縄ない/わらじを作り/親の手助け/弟を世話し/兄弟仲よく/孝行つくせ/手本は二宮金次郎
 今から思えば、決して詩的でないこの小学校唱歌を、私たちはうたいながら成長しました。国定教科書に登場するだけではなく、唱歌にまで金次郎が登場したというこの事実は、重大な意味を持っております。金次郎は、皇民化教育の、最も具体的で親しい先生となっていたからです。この土の思想家は、何よりも経済主義者であり実践論者であったことが、民衆の心をつかんだのでありましょう。第1期国定教科書令が公布されましたのは、1903年(明治36年)の4月です。この時から敗戦まで長い間金次郎は、日本の民衆の脳裏に、幼くして先生として焼きつけられました。

平民から出た偉人の役割
 奈良本辰也『二宮尊徳』(岩波新書)は次のように申しております。「井上哲次郎は、国定教科書のなかに二宮尊徳が入れられたことについて次のようにいっている。『国定教科書に二宮翁を加へたるは、最も選の宜しきを待たるものと謂ふ可し。我国史中模範人物としては中江藤樹あり、貝原益軒あり、上杉鷹山あり、水戸の義公あり、烈公あり。共に是れ大和民族の精粋にして、後世の模範となすに足るべきものに相違なきも、鷹山、義公、烈公の如きは、何分大名なるが故に、一般平民に其縁頗る遠く、感化又或は及び難きものあり。独り二宮翁は然らず、翁は平民にして、而も農夫の子として成長せり。故に農家の子女には、其境遇近く、其境涯相似たり。境遇等しきが故に、教師は学びて怠らず、勉めて休まずんば、農家の子女も、亦能二宮翁の如くなり得べしとの希望を抱かしむるに足る』(井上哲次郎「学説上における二宮尊徳」留岡幸助編『二宮翁と諸家』所収)というのである。しかしこれをつぎの言葉と対照するとまことに面白い。それは、やはり同人の言葉であるが『余は一たび国定教科書中に吉田松陰を加へんと欲せしも或人之に反対して日く、精神は兎も角も、彼は時の政府に反対したるもの、小学生徒には終に不適当の人物たるを免れずと。是に於てか遂に松陰を加へざる事となれり。』(同上)まことに意味の深い選択であったといえよう。ここに、政府が尊徳を重んずる理由は顕然たるものがある。このようにして、身長6尺、体重25貫、激せば大藩の重臣をも小児の如くしかりつけて後にひかない、そうした男が、いつまでも16歳のかよわい少年の姿でとらえられ、勤・倹のみが彼を現わす代名詞のようにもなり、あの校庭に立った二宮金次郎の像が彼のすべてを象徴するようになったのであった。」

 金次郎がどのような意味を持って、国民を導く立場にむかえられたか、教科書の編者自身がせきららに語っているではありませんか。太平洋戦争が激化し、菓子屋の店先きには「ほしがりません勝つまでは」という紙がはり出されました。子どもたちの生活までも根こそぎ「鬼畜米英」にむけられたのであります。そうしたなかで、私たちの先生二宮金次郎像は、プロソズであったために弁当箱やなべかまと一緒に、お国のために「出征」していきました。金次郎は大砲の弾になったのです。像になった金次郎も、実によい皇民であったわけです。長刀や竹槍をふりまわす私たち児童を見守る金次郎は、ブロンズから石像にかわりました。お国のために「銃後」を守っていた私たちは、東京空襲がはじまると、学童集団疎開をしました。

学童疎開と隆君の死
 次の世を背おふべき身ぞたくましく、正しくのびよ里に移りて
 皇后陛下の「聖歌」に送られて、私は5年生の春から6年生の秋まで静岡県の伊豆へ、そしてここでも空襲にあい、富山県の西礪波へ再疎開しました。敗戦は西礪波の寺でむかえております。子どもにとっての戦争とは何であったかは、私の学童疎開体験が如実に語ってくれますが、今はくわしくお伝えする余裕がございません。

 疎開中、最高学年になった私は、教師の指導のもとに、下級生を統率してきました。当時教師の権威は絶対的でありました。日常生活の中で、金次郎の教えよろしく、教師の手を助け、弟や妹たちをよく世話しました。石ころがじゃがいもにみえ、ワカモト(薬)を空腹のためにたべてしまうような、食糧難でした。敗戦の年の夏、私たちが手あつく看護した3年生の隆君は、栄養失調と小児結核で疎開先きで死亡しました。寮母先生と交替で隆君を背おい、私は往復5キロの道を、寺から町の医者まで通いました。彼は次第にやせ細り、ミイラのようになって死んだのです。

「おかあさんにあいたい」と隆君は虫の息で私に申しました。生きていた隆君のぬくもりと、彼の最後の言葉「ありがとう」を、私は忘れません。

 私は太平洋戦争で、肉親の一人を失っておりますが、隆君の死はその時受けた悲しみ以上のものでした。小さい生命に襲いかかる死への憎しみは、悲しみをとおりこした怒りとなって、その後の私の中に生きております。当時の私たちに「東京に帰りたい」「おかあさんにあいたい」という言葉は禁句でした。皇国少年、少女たちはよくこの規律を守ったのです。隆君のこの世での最後の言葉が、この禁句であったことが、私の心を大層しめつけました。

 直接的には飢えが、大局的には戦局の深刻さが、私たちの心情を左右しておりました。隆君の死は、私たちに大きな翳りを落しました。次は自分の番ではないかということです。喜びや苦しさやひもじさを、共にしていた私たちです。隆君の死を、自分の一部の死と思いました。彼の死は敗戦直後のことでありましたが、権威に対する不信は、敗戦を待たずして子どもたちの中に不安となって、芽ばえてきていたのです。

 隆君のおとうさんが、角の焼けこげた皮のトラソクを持って、息子の遺骨をむかえにきた時、私たち学童はどうしても隆君の骨を渡さないといって、はじめて教師に刃向かいました。子どもたちは友の骨をかかえて、布団部屋に龍城したのです。私たちは彼の骨をまじえて、誓いあいました。隆君と一緒に生きるのだ、隆君が東京に帰る時は、私たちも帰る時だと。生きたい生きたいと、必死で死と闘いながら死んでいった友の、奪い去られた生命のぶんを、私たちが生きぬくのだと誓いあったのです。

児童文学の道へ
 少女時代の戦争体験が、私を児童文学の道に歩ませました。私はどんなに年をとっても、生きているかぎり子どもの側に身をおき子どもらの実存を、表現していきたいと思いました。それは子どもにとっての太平洋戦争とは何であったかに、はじまっております。子どもも一個の個性を持った人間存在です。彼らにとって、この世はどんな風に存在しているのでしょうか。子どもたちも社会に対して、子どもとしての希望を持ち、反発を持ち、あるいは喜びを持っているはずです。私はそれを表現していこうと思っております。このことが沢山の思いを残して、幼くして死んでいった隆君の心を生きることであると思いました。子どもは社会の仕組の中で、疏外されています。そして子どもは、大人たちに対して自己を防御しにくい存在でもあります。

奪われた教育権
 大城俊雄さんは、隆君と同じ学年であります。彼は敗戦の年3年生であったと申しております。大城さんが幼年期にどのような教育を受けたか、それは私の経験と似ているのではないでしょうか。しかしさらに彼は、沖縄からの出かせぎの父母を持ち、差別と貧困の日常を強いられております。君に忠、親に孝、質素、倹約の二宮先生は、私たち以上に大城さんの幼い心をとらえたことは、信じるに疑いありません。同じ世代で同じような体験を持つ私は、彼の思いが体中で感じられます。

 大城さんが「こんなもの子どもの役にたたん」といって金次郎像をたたき壊す時、彼は幼年時代の己の体に、ハンマーを打ちおろしているのであります。そして何よりも重大なことは、彼が戦争中の教育しか受けていないという事実でありましょう。大城さんは、3年生までしか学校に出ておりません。9歳にして公教育からほうり出されているのです。沖縄出身者の家庭に強いられている資質と差別を、想像しないわけにはいきません。沖縄出身者にむけられる巷に生きている迫害は、ぬくぬくと教育を受けてきた私たちには、想像を絶するものがありましょう。

 戦後民主主義教育、あるいは義務教育は、彼のような子どもたちを見捨てていたところに、なりたっていたことを痛く反省させられます。大城さんは教育を受ける権利を、完全に剥奪されてきたのであります。このことへの反省なくして、彼の行為を論ずることはできません。子どもは社会に対して、両親に対して、自己を防御しにくい存在であることを、差別を身をもって体験してこられた大城さんは、よく理解しておりました。彼は手紙の中で次のように書いております。

「現在の社会組織にも絶望を覚えます。金次郎のように何んでもかんでも勉強して最高学府の教育を受けねば人間らしい豊かな生活に達せず天皇や支配者の、屍生贅にされる弱肉強食の組織にかぎりない悲しみといかり絶望を覚えます。ですから児童さんが<教育ママ>に虐待されているのです。」

「こんなものは役にたたん」
 子どもが教育ママに虐待されているという、現実の子どもたちの声をまっすぐ聞きいれ、大城さんはこれを指摘しております。
 敗戦は子どもたちに、何を教えたかと申しますと、大城さんのいう「こんなものは役にたたない」ということでした。母親の腹の中にいる時から、すなわち骨のずいから皇国思想で人間形成された私たちです。敗戦はこの肉をこの血を否定することでありました。大人たちのように、頭の切りかえができる軸など持たされておりませんでしたから。戦争下に自己形成をはじめていた私は、宇宙を支配していたこれまでの権威の崩壊を、目の当たりに見て、これまでの自己を全く否定することを迫られました。信ずるものは、自分以外になく、これから自分が創造していく以外にないということです。私たち疎開児童は、帰京すると二宮金次郎の石像を、自分たちの手で泣きながらこなごなに壊したのでした。この行為は、自分自身を鞭打つ行為だったのです。私は今、大城さんの行為に、27年前の私たちの姿を見たのでした。

 実際教師たちは、これまでの日本の行為は植民地戦争であり侵略戦争であったと、否定すべきものであると私たちに教えました。民主主義というのは、みんなが参加してみんなで創造していくのだと、私たちほ学びました。民主主義は上から降ってこないということです。下から生まれてくるものであると。大城さんは9歳で学校を追われ、いわゆる戦後教育を受けておりません。このことは重要なことです。その後今日まで大城さんは、さまざまに迷いながら戦後を、孤独のうちに模索してきました。この間彼はどのような待遇で、どのような仕事にたずさわり、生活を維持してこられたでしょうか。このことも私はくわしくは存じません。

大城さん一家の苦難
 大城さんのおかあさんは、若くして本土に渡り、紡績女工をして働いております。その後沖縄に帰って、おとうさんと結婚されました。やがて大城さんは3人兄弟の次男として、沖縄で生まれております。一家は職を求めて昭和16年本土に渡り、おとうさんは和歌山県で温泉の釜たきをはじめました。戦況の悪化と、戦時下経済は、釜たきの職をおとうさんから奪い、名古屋の焼け跡に出て、廃墟で養豚業をはじめたということです。生活が苦しく敗戦を迎えると、おかあさんは沖縄の実家へ戻りました。大城さんは貧困のなかで母に去られ、小学校は事実上3年で中退したと申しております。その後は長欠児童であり、やがて学籍簿すらも消されてしまうのです。

 幼い大城さんが食べるために、倒れずに生きるために、どのようにさすらってきたか、彼は「私は業を背負って生きているようなものです」「私の歩んできた道は、到底人に理解してもらえないかもしれない」と手紙で書いております。戦時下の本土と沖縄の混乱の中で、大城さん兄弟は籍を入れられずにすぎ、やがて敗戦とそれにつぐ沖縄の分離下で、彼らは戸籍がないという状況のまま、今日をむかえております。おとうさん勇一氏の出身は、沖組県国頭郡今帰大字親泊であります。おかあさんマツさんは、幼い日の記憶をたどるとグシケンという所で、おかあさんの兄妹はグシケンでキイガヤ商店なる商いをしているということです。大城さんは、本籍はないが「わんやまくとぬうちなわんちゅうです=私は誠の沖組県人」と申しておられます。

 戸籍がないので、パスポートがおりず、大城さんは故郷に帰りたくとも帰ることができませんでした。そして再会できぬまま昨年おかあさんを亡くしております。私は「おかあさんにあいたい」といって死んでいった隆君を、大城さんに見ました。彼は戸籍がないので、本工員として勤めることもできず、臨時工に甘んじなければなりませんでした。港湾、土木建設の労務者として、西に東に放浪しております。大城さんの個人生活は、戦後を迎えておりません。大城さんが「こんなものは子どもたちの役にたたない」といって金次郎像を打ち壊す時、彼は自らの手で戦後を創造しようとしているといえましょう。

 低賃金で転々と渡り歩く大城さんの不幸は、私たちの歴史が沖縄県民に強いた、迫害の歴史でもあります。彼はあまりにもひどい待遇で今辞めてきた職場を後に、明日の職をどこに求めていくか考えながら、ふと足を戸板小学校にむけました。正面玄関横に、大城さんは彼の不幸を形成した二宮金次郎の亡霊を見たのです。この時大城さんは一瞬にして、幼少期を思いおこしたことでしょう。一瞬にして戦後28年の地獄をはうような、生活を思いおこしたことでしょう。大城さんが金次郎像を壊す時、子ども時代に犠牲しか払わなかった戦争責任を追及しているのです。当時は私たちは被害者でした。しかし現在は歴史に、社会に責任を持っております。

事件の動機
 大城さんは手紙で、事件の動機を次のように申しております。「事件の当日は紅葉の秋です。もみじのような可愛らしき手をした幼なき子供さんに、大なる夢を託し重き荷を背負わせるのは、信仰上又は道徳上許しがたき義憤を覚えた訳に、存じますが―」「私は我が身をかえり見て学校当局に望みますのは過去のような矛盾した教育ではなく勝手に大人の考え方を幼い心に吹きこみ重荷を背負せないで子供は平和に生きる道を自らの手でえらび平和を求め行く権利をおてびきして下さるよう学校当局に望みます。ですから<道具衆>としてかつぎだされた<金次郎像>が今日もなお校庭に放置されて居るのは矛盾してふさわしく思えません。第二次大戦では大人の争いや戦いに子供をまきこんだり戦いの道づれにしたのですからその死を悼み永遠にざんげする意味にても<二宮像>を撤去してそれぞれの学校当局の児童犠牲者を校庭に建立したほうが真の平和を求める姿ではなかろうかと考えます。ちなみに小豆島の<二十四の瞳像><沖縄の健児の塔><ひめゆりの塔>などが大人の争や戦いに子供をまきこんだ責任を感じさせ戦争防止に役立のではなかろうかと考えてのこのたびの事件で御座居ます。」

 そして大城さんは、親戚のおばあさん一家に想いをはせておりました。「近卑な一例を取りましても沖縄に住居する私の親戚のおばあさん一家は5人の男子の子宝に恵まれ乍ら第2次大戦で鉄の規律で5人の息子を奪われ、戦いにかりだされ、壮烈戦死の犠牲を被ており、そして何んの報くわれることも、戦争責任者である天皇を遺恨と憎しみの中に死んだとの風の便りです。」

沖縄の子どもたち
 私の学童疎開中の日記(1945年7月1日)には「きょう寮長先生のごくんわに、沖なわの赤国民学校の生徒ぜんいんが、手りゆうだんをもって、敵じんにのりこんでいったと、しんぶんにはうどうされたことをおっしゃいました。私は沖なわの生徒はりっばだと思いました。私はなみだがでてきました。私もがんばりたいといっしょうけんめいに思いました」と書いてあります。

 今次大戦の沖縄決戦で、沖縄の子どもたちがどのような運命と犠牲を強いられたか、これまた本土の子どもとは比較にならないものがあります。私は大城さんが沖絶県出身であることに、深い痛みと反省を覚えます。彼の行為は私への、とりわけ子どもの文学にたずさわる者にむけられた糾弾として、受けとめております。

言語道断の行為
 本件の告訴人は、岡良一氏名義の金沢市長になっております。告訴状は次のようなものでした。「昭和47年3月2日午後4時20分ごろ、金沢市立戸坂小学校前庭において二宮尊徳(陶製)を理由もなく乱打破壊したことは言語道断の行為であり、尊敬する立像を失った児童の精神的影響は極めて大であるため、調査のうえ処罰願います。」

 大城さんが金次郎像を乱打破壊したことは事実であり、彼もこれを認めております。彼の行為には深い動機と理由があったことを、私はこれまでに申し上げてきました。被告人にとっては、表現不可能なほどの、いいつくせぬ理由がありました。しかし私たちの生活する法社会では、破壊行為は非難されるものとなっております。百歩ゆずってそれを受け入れても、被壊せざるを得ない歴史的背景を考えますと、どちらが重たいものでしょうか。答えは明白だと思います。取りかえしのつかない無惨な犠牲のうえに得た28年前の尊い教訓を、被告人は破壊という行為において、金次郎像が象徴している思想にむけたのです。

 子どもたちに死の犠牲を強い、子どもたちにとって侵略戦争のシンボルでありました二宮金次郎像が、市内の小学校校庭にあること自体が、反省されるべきことと思います。戦中からひきつづき建ちつづける金次郎像を擁護することは、赤国民学校児童や無数の隆君の死を歓迎することであります。侵略戦争を掩護することであります。

奴隷の思想
 もともと二宮尊徳の思想は、金次郎に象徴されるもののみではなかったでしょう。しかし問題は、尊徳という経験主義者は、天下国家の大勢も運命も考えなかったことにあります。彼には政治批判がまったくありません。そのことが国民学校児童や、無数の隆君の死を歓迎することになったのです。二宮のいう勤勉と従順は、奴隷の思想でありましょう。権力を持つ者には、都合のよいことに違いありません。尊徳は「貧にして富之非を見出し喧譏するものは不仁なり」(『農家大道鏡』)と書いております。農民一揆は、農民の方に責任があるということのようです。また尊徳は「知足安分」といって、百姓は百姓、工人は工人として分に応じた生活をせよと申しております。身分制度という階級制度を擁護しているのです。時代が時代だったからという理解の仕方はありますが、それと評価とは別の次元で語られなければならないでしょう。ところが尊徳自身は、努力に努力を重ね、農を脱出して士になっております。身分制度の厳しい徳川時代に、これは全く信じられないようなことですが、そこにはこれまた信じられないような力行がありました。

 告訴状は「言語道断の行為」と、確信を持って申され、「尊敬する立像を失った児童の精神的影響は極めて大である」と述べております。果たして金次郎像が、今日の子どもたちの尊敬の立像となっておりますでしょうか。もしそうだとすると、それは恐しいことです。何故なら「いつかきた道」ですから。

 敗戦直後GHQでは、「教育上よろしくない」という意向で、金次郎像を取り払うようアドバイスをしております。GHQの教育担当者が、各県に出むいて指導をしておりますが、地城によりまた担当者の姿勢により、まちまちであったようです。取り払われなかった地方もかなりありました。東京では徹底的に取り払われ、民主化の模範を示したということです。

子どもたちの受けとめ
 現実に今日の子どもたちが、金次郎像を尊敬しているかどうかと申しますと、はっきり言って尊敬もしておりませんし、関心も持っておりません。芸術作品としても美的とはいえないこの像に、関心を持つ子どもは、次のように評価しています。

「この子、交通事故を起こすよ、あぶないよ。この子、目が悪くなるよ。」などであります。この意見が金次郎像からうける、子どもたちの偽りのない言葉です。子どもたちは今のところ金次郎像の持つ思想を、現代的には非合理なものとしてしか、受けとめておりません。しかしそれはあくまでも今のところであります。支配者が意識的に都合のよい金次郎の思想を、子どもたちへ吹き込むことは可能です。そしてこれまで金次郎が登場する場面は、必ず社会不安や内外の情勢の厳しい時でありました。国民に不平をいわさず、しっかりおさえておく必要のある時でした。

教育勅語と道徳教育
 すでにふれましたが、国定教科書令が公布されたのは、1903年であります。この年から画一化された教科書が、全国で使用されるようになりました。金次郎はここにおいて、全国のどのような辺地の子どもたちの前にも、登場するのであります。(1900年、義務教育4年制、1907年、義務教育6年制となる)ところが、これより先き1886年(明治19年)に臨時修史局が設置され、教科書検定条令が公布されました。明治19年に、国定教科書が始まったとみていいでしょう。先きに述べました井上哲次郎の頭の中には、この時金次郎がのぼっておりました。そして明治政府は、1889年(明治22年)に従4位の位を、尊徳に贈っております。彼はここで明治維新に功労のあった元勲たちと肩を並べるのでした。何て意図的なことでしょう。

 明治22年という年は、大日本帝国憲法が発布され、その翌年には教育勅語が発布されました。立憲政治は、権利に目覚めた「市民」をいやおうなくつくりだします。為政者はそれに呼応して「臣民」としての心構えを明らかにしておく必要がありました。教育勅語は、権力操作のために、天皇親政の徹底化としてでてきました。教育勅語こそ、道徳教育の基本でありましょう。

 二宮金次郎が教科書に登場したのと、二宮尊徳が政治上のテコとして、積極的に支配者に利用されはじめたのは、軌を一にしております。1905年11月、日露戦争の直後、二宮尊徳50年祭が、政府の手で行われました。この50年祭を機縁として、内務省、農商務省の官僚が中心となり「報徳会」を結成しました。「報徳会」は政府の地方改良運動の理念的範型となったものでした。報徳会運動は、日露戦争後の社会不安と、内外の情勢の緊迫化の中で進められました。『日本の百年』7巻「明治の栄光」(筑摩書房)によりますと、報徳会結成に参加した顔ぶれを、次のように伝えています。

「内務・農商務官僚のほか、地主、篤農家、郡長、村長、村役場書記、師範学校、小学校長、僧侶、産業組合役員、銀行、会社重役等々いわば日本社会の底辺を支える地方指導者を網羅していた。山路愛山が<日本帝国の4本柱>と呼んだ村役人、学校の先生、寺の坊主、駐在所の巡査のうち、巡査をのぞいた各層の代表者が集まり、その周辺に桑田熊蔵、神戸正雄、内田銀蔵らの学者達も動員されるというかたちをとった。」

 さらに同書は、「報徳会は、尊徳の遺訓とされた4原則―至誠・勤勉・分度・推譲の徳目にもとづいて、社会調和をはかろうとする官民有志の組織であった。その場合、会の主体となるのは地方名望家であり、彼らの指導性を再編することによって、予想される階級対立の激化、社会問題の蔓延を阻止しょうとするものであった。そのため内務官僚たちは、地方名望家層の実情を正確に把捉しょうとつとめた。」といっております。報徳社のねらいは、さらに次のようなところにもありました。

「従来のように郡役所の若い役人が地方の名望家である村長を監督するのではなく、自治を奨励しながら教えを導いてゆく、すなわち指導するということにあった。」(石田雄『明治政治思想史研究』の聞き書き)

国づくり、人づくりの手本
 日露戦争後の社会矛盾を克服するために、内務官僚によって推進されました新しい国づくり、人づくりの手本として、二宮尊徳の思想は恰好でありました。民衆は支配者に逆らわず分をわきまえ、農村の矛盾(疲弊)をひたすら努力によって、すなわち勤勉と倹約で解決していくよう導かれたのです。二宮尊徳の「勤・倹・譲」は道徳的な経済生活であります。勤は勤勉であり、一生懸命働くことでした。倹は倹約をすること、譲とは推譲のことで譲道があってはじめて人間の社会がなりたっているとしました。尊徳は申しております。「親にも朋友にも譲らずばあるべからず、村里にも譲らずばあるべからず、国家にも譲らずばあるべからず。」(「夜話」)

 ところで尊徳の譲とは、藩を建てなおし、幕府の困窮を救うものとしてありました。そして確かに彼は、その力を発揮しております。彼は貧しい人びとにも、しばしば救いの手をさしのべておりますが、それは彼らを「勤」に奮起させるための奨励金としてです。貧窮の根元である矛盾を正さずに、それをとりつくろうことに全力が傾けられるのでした。

 明治の天皇制国家が、彼をして民衆の心をとらえようとした意図を、察することができます。赤貧洗うがごとき貧乏から、努力に努力を重ねて、国のためにつくしたという二宮先生は、貧しい民衆のアイドルになりました。貧乏でも高い地位や名誉がなくとも、十分お国のためになれると、民衆を導くことは、為政者にとって結構なことに違いありません。くりかえしますが、義務教育下の国定教科書によって二宮先生の教えは、全国津々浦々の子どもたちの脳裏にやきつきました。そしてまた実生活では、報徳会が全国的に活躍しております。

二宮金次郎の亡霊
 こうした歴史経過を考えあわせますと、これまで放置されておりました金次郎像が、法廷にまで引っはり出されて来たこと自体に、ただならぬ不安を感じるのであります。教科書の反動化が法廷で論じられ、争われている今日、子どもの側に身をおくことに自己を律し、子どもの文化創造を仕事にしている私たちにとって、金次郎像をめぐる今回の事件に、ロをつぐんでいるわけにはいきませんでした。

 アメリカ経済の危機の現われであるドルの低落は、国際資本の圧力を円にもたらしています。経済のことはよく理解できませんが、円の変動相場制は、日本経済の虚弱体質の破れ目ではないでしょうか。消費文化の見せかけだけの繁栄は、目の前に大きな動揺が待っていることを、私たちにひしひしと感じさせます。二宮金次郎の「勤・倹・譲」が動員される危惧をいだくのは、ひとり私だけではないと思います。

「交通事故にあわない、目が悪くならない」時代にかなった金次郎が、現われてこないともかぎりません。経済状況の行きづまり、インフレによる物価高、子殺しをする親が次々と現われ、公害に対する市民の怒りが結集しております社会情勢であります。

 器物損壊という罪名で、4カ月近くも大城さんの身柄を拘束し、なおかつ50万円の保釈金ということに、私は驚きをかくせません。建立当時(昭和初期)、金次郎像は5円か10円であったそうであります。戸板小学校長が、教育委員会に提出した報告書には「時価1万3000円」とあり、検察官の起訴状には「時価10万円」となっております。検察官にはインフレを促進している傾向がみられます。検察官はもしや二宮金次郎像に、精神的思想的「高価」を計算しているのではないでしょうか。ここに二宮金次郎の亡霊が、大手をふって生きていることがわかります。

 今回の大城さんの行為によって、私は太平洋戦争で死んでいった子どもたち、とりわけ私の記憶のひだにたたまれた隆君や、沖縄の赤国民学校の児童たちのことを思いおこし、胸をかきむしられております。

世界の良心と民主主義
 裁判長さま、私はあなたの真理にかなった民主的なお裁きを、二宮金次郎によって自己を形成し、且つ死んでいった無数の子どもたちと共に見守りたいと思います。かつて東京裁判の際、キーナン検事は「原告は世界の良心と民主主義である」と申されました。本件の告訴者は、金沢市長でありますが、お裁きになりますあなたさまは「世界の良心と民主主義」をもって、お裁き下さいますよう、あえてお願い申しあげます。
以上

注:小見出しは当会が付けた。漢数字はアラビア数字に、誤字は補正し、引用文の改行も適宜おこない、読みやすくした。大城俊雄さんに関する原資料を保管していたのだが、長い年月の過程ですべて失ってしまった。金次郎像破壊事件は柴田道子さんの上申書と渡久地政司さんのHP(富村順一さんら救援活動)に依るしかない。

20181101 石川県版ダークツーリズム

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石川県版ダークツーリズム
2018年11月1日

 ダークツーリズムとは戦争・虐殺・災害・公害・事故が起こった被災地や、人権にまつわる不幸な歴史の残る場所を訪問する観光のこと。死・悲劇などの記憶を共有し、史実や被害者に理解を深め、追悼することなどが狙いである。

(1)兼六園
①明治記念之標(天皇制)、前田慶寧像(金属供出で解体)
②ラジオ灯籠(強兵のための体力増進運動)
③長谷川邸跡(メーデー第1回1929年、第2回1930年、第3回1931年)
④海石塔(加藤清正・朝鮮出兵時の戦利品)




★①明治記念之標は中央に日本武尊像が立ち、左側に石川県戦死士尽忠碑がある。1877年西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である(1880年設立)。皇族がらみなので、金属供出はされず、前田慶寧像は供出され残っていない。
★②ラヂオ体操は国民の体力向上と健康の保持や増進を目的として推進された。ラヂオ体操は、1928年11月、天皇裕仁の「御大礼(即位式等)」記念事業として始まり、1932年には、小学生などを組織した「ラジオ体操の会」は内務省、文部省、帝国在郷軍人会が後援することになり、翌年には4400万人が参加した。後に「ラヂオ体操」は「宮城遙拝(皇居に向かい拝礼する)」と一体化し、天皇制と戦争翼賛の国民運動となった。
★③メーデー集会は兼六園長谷川邸跡でおこなわれた。第3回メーデーの写真に慶寧像の一部が写っている。
★④戦前の絵はがきには、海石塔は「朝鮮征伐の時の戦利品」との説明書きがり、朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰り、後に豊臣秀吉から前田利家に贈られたという説がある。

(2)金沢城公園、本多の森公園
①第九師団司令部、軍法会議(鶴彬、治安維持法違反事件裁判)、第六旅団司令部
②衛戍拘禁所(鶴彬、尹奉吉拘禁)
③石川県歴史博物館(第七聯隊兵器庫)



★第九師団の侵略の歴史―1875年金沢城内に第七聯隊司令部設置/1885年歩兵第六旅団司令部設置/1898年第九師団司令部設置/1904年日露戦争に動員/1910年~朝鮮駐箚軍/1932年上海事変に動員/1937年~日中戦争に動員/
★①②鶴彬は1930年に徴兵され、隊内で「無産青年」を配布した廉で治安維持法違反容疑で逮捕された。金沢衛戍監獄に収監され、軍法会議にかけられ、1931年6月の判決で懲役2年が確定し、大阪衛戍監獄に移監された(1933年1月まで)。
★②1932年4月29日、上海戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げて逮捕された尹奉吉も1932年12月18日に金沢衛戍監獄(法務部という説もある)に移され、翌19日三小牛山で銃殺処刑された。
 第六旅団は金沢城公園に残っているが、軍法会議、衛戍監獄とも今は金沢城公園にはなく、地図や写真で確認出来るに過ぎない。第九師団司令部は石川歴史博物館横に移築中である。

(3)侵略戦争の賛美
①石引町―護国神社(至誠通神の碑、大東亜聖戦大碑、清水澄碑など)
②野田山―野田山墓地に長岡戦争戦死者の14墓
③野田町―覚尊院(小川仙之助尽忠碑、泉屋柳子の碑)
④卯辰山―招魂社(護国神社の前身)、北越戦争の碑
⑤出羽町―石川県立美術館裏法面(聖戦大碑「合法化」のための対策)



★①2000年に建てられた大東亜聖戦大碑には、アジア・太平洋侵略戦争を賛美する文言であふれ、朝鮮出身特攻兵、少女ひめゆり学徒隊、鉄血勤皇隊、水戸市立五軒小学校、金沢市菊川小学校有志などが無断で刻銘され、歴史を偽造している。
★⑤聖戦大碑が建てられた場所は護国神社境内であるが、本多の森公園として石川県が管理していた。石川県が碑建設許可を与え、全国的から抗議の声が上がり、石川県は苦肉の策として、護国神社境内を公園敷地から除外し、県立美術館裏の崖を公園敷地に追加し、責任逃れに汲々とした。
★①護国神社境内には戦争を賛美する記念碑が林立している。清水澄は日本国憲法に抗議して自殺した明治憲法学者。
★①至誠通神の碑とは旧歩兵第七連隊営庭(金沢城公園)から現在地に移設。1932年第1次上海事変の戦死者が刻銘されている。

(4)中国侵略に一撃を加えた尹奉吉
①尹奉吉処刑地(三小牛山)
②尹奉吉暗葬地(野田山墓地)
③尹奉吉殉国記念碑(野田山墓地)



★①1932年4月29日尹奉吉は上海虹口公園でおこなわれた戦勝祝賀会壇上に爆弾を投げ、逮捕され、軍法会議で死刑を宣告され、12月19日に金沢市三小牛山で処刑された。公文書には処刑地は「西北谷間」と記載され、略図が添附されていたので、それをもとに2010年処刑地調査をおこなった。基本射撃場の北側の谷間であることが確認された。2010年調査当時は処刑地(自衛隊敷地)に入る事が出来たが、いまは金網で囲われ、入る事が出来ない。
★②処刑後尹奉吉の遺体は野田山墓地内の陸軍墓地管理室から監視できる通路に暗葬された。1946年3月在日朝鮮人によって発掘され、遺骨は故国に送られたが、暗葬地はそのままにされた。1992年、暗葬地の調査がおこなわれ、金沢市から永代使用許可が出され、同年12月暗葬之跡として整備された。
★③1992年4月暗葬地の近くの高台に殉国記念碑が建立された。2012年排外主義者によって「竹島は日本の領土」と書かれた棒杭を立て、説明板に傷がつけられた。

(5)強制連行・強制労働
①額谷地下軍需工場跡(朝鮮人強制労働)
②七尾港(中国人強制連行・強制労働…一衣帯水の碑、中国人殉難烈士慰霊碑)
③尾小屋鉱山(朝鮮人強制労働、戦前労働運動)
④田鶴浜(相馬)飛行場(朝鮮人強制動員)
⑤総持寺無縁供養塔(門前町)



★石川県内の朝鮮人強制労働現場を摘記すると、七尾海陸運送/山中海軍病院/山中病院地下施設/第3火薬燃料廠畑山地下施設/白鳥地下工場/山中航空機地下工場/海軍工廠大聖寺地下工場/陸軍航空工廠坂尻地下工場/下福田溜池/日本電気冶金白菊工場/三菱重工額谷地下工場/朝鮮農業報国隊(富奥)/第3火薬燃料廠滝ヶ原地下施設/小松製作所小松工場/小松製作所粟津工場/日本鉱業尾小屋鉱山/尾小屋鉱山選鉱場/尾小屋鉱山「慰安婦」/海軍小松基地建設/小松海軍航空隊(軍属)/山陰航空隊/海軍田鶴浜相馬飛行場/中島航空機遊泉寺地下工場など多数にのぼる(竹内康人著「戦時朝鮮人強制労働調査資料集」)。
★②1944年11月200人の中国人、1945年4月に199人の中国人が七尾港に強制連行された。中国人は高さ3~4メートルの木の板で囲われた七尾華工管理事務所(事務所兼宿舎)に閉じ込められた。畳みも布団もなく、わらを敷いた上で寝た。1日に12~14時間労働。399人の内15人が死亡し、重症眼病307人(内失明者64人)、皮膚病179人、胃腸炎124人、ほぼ全員が重症状態であった。
 1945年9月18日~「七尾華工事件」~10月3日七尾警察署占拠事件~4日全員逮捕。11月24日七尾港駅~27日博多~29日出港~12月5日中国タンクー(塘沽)港に到着。
 1994年日本政府は中国人強制連行を認めたが、謝罪も補償もしなかった。2005年7月金沢地裁に提訴(原告4人)。2010年7月最高裁で敗訴確定。
 1977年「一衣帯水の碑」設置、2005年「中国人殉難烈士慰霊碑」建立。
★③尾小屋鉱山での朝鮮人強制労働は1940年141人、1943年597人にのぼる。石川県への朝鮮人募集認可数は1939年30人/40年210人/41年210人/42年660人/43年860人/44年960人。
 「1942年ごろから坑内に入っていく人たちの数は日本人と朝鮮人が半々ぐらいになった。…朝鮮から徴用されて来た人たち」(『尾小屋鉱山写真集』1982年)
★⑤総持寺の無縁供養塔には日本各地の火葬残骨灰が埋葬されている。1996年名古屋市東山霊安殿に保管されていた235人の朝鮮人無縁遺骨のうち77人分が身元確認もされずに粉骨され、総持寺の無縁供養塔に合葬された。2007年9月12日、2008年9月12日に総持寺で77人の朝鮮人無縁遺骨の追慕祭を開催した。

(6)1970年代のたたかい
①金沢駅前バス占拠・籠城(1977年5月7日)
②富来町赤住―志賀原発
③珠洲市―珠洲原発建設計画挫折(住民運動)
④七尾市鵜の浦―トクサ火力発電所建設計画挫折(住民運動)
⑤内灘権現森―火力発電所計画挫折(住民運動)



★①1977年5月7日金沢駅前で、障がい者の乗車を拒否した北鉄バスに実力で乗り込み、占拠し、27時間籠城した。その後4年間のたたかいで、1980年12月には「条件付乗車」を認めさせた。
★⑤1970年北陸電力が内灘権現森に火力発電所建設計画発表。反対派(青年共闘会議)が権現森に団結小屋建設。1972年内灘町長リコール運動。1973年町長選挙で反対派の中村小重町長誕生。
★④1973年1月七尾火力発電所建設計画(崎山半島)発表、三室町、鵜浦町で反対決議。1975年4月守友革新市長誕生。12月鵜浦町に団結小屋、1976年1月三室町に団結小屋。1976年7月トクサ団結小屋建設(現地闘争本部)。1978年4月2日北電調査船強行着工―実力阻止闘争。4月17日一斉弾圧14人逮捕。守友市長、赤崎案→世論はトクサ断念。1979年4月守友市長無投票再選→北電工事再延長を断念。1991年11月不当判決確定。
★②1967年11月、北陸電力能登原発建設予定地発表。1993年7月1号機営業運転開始。2006年3月2号機営業運転開始。
★③1984年3月、関電・中電・北電3社が珠洲原発建設予定地(寺家、高屋)発表。2003年12月凍結。

(7)侵略と戦争の足跡
①今町―八田與一記念碑(台湾植民地統治技官僚)
②金沢市立戸板小学校―金次郎像(1972年金次郎像損壊事件)
③七尾市寺島(七尾湾内)―第二能登丸触雷事件
④加賀市庄町―庄小学校校庭の奉安殿(南郷小学校にも?)
⑤小松市本折町―海軍小松飛行場(朝鮮人労務動員、神雷特攻隊)
⑥小坂町―野間神社(731部隊)



★①日本は1894年日清戦争に勝利して、1995年下関条約で台湾を植民地にした。植民地化に抵抗する台湾人民を100人に1人の割で虐殺して植民地支配をおこなった。台湾総督府の技術官僚八田與一によって、日本の糖業資本のために嘉南水系のダムを建設し潅漑した。台湾農民の抗議・抵抗をねじ伏せて強行した。
★②小学校唱歌には「柴刈り縄ない/わらじを作り/親の手助け/弟を世話し/兄弟仲よく/孝行つくせ/手本は二宮金次郎」とあった。なぜ、金次郎を教材にしたのか。井上哲次郎は「翁は平民にして、而も農夫の子として成長せり。故に農家の子女には、其境遇近く、其境涯相似たり。境遇等しきが故に、教師は学びて怠らず、勉めて休まずんば、農家の子女も、亦能二宮翁の如くなり得べしとの希望を抱かしむるに足る」と説明している。
 二宮尊徳のいう勤勉と従順は、奴隷の思想である。尊徳は「貧にして富之非を見出し喧譏(そしる)するものは不仁なり」(『農家大道鏡』)と書いていて、農民一揆は、農民の方に責任があるという。また尊徳は「知足安分」といって、百姓は百姓、工人は工人として分に応じた生活をせよと、身分制度を擁護している。尊徳の遺訓には「至誠・勤勉・分度・推譲」の4原則がある。
 金沢市内の小学校59校のうち、今も二宮金次郎像が39体残っている(村本さん調査)。小松市では、24体残っている。
★③戦時中の1945年5月25日から終戦までの間に、米軍は七尾湾内に約440個の機雷を投下し、戦後もそのまま残されている。8月28日、第二能登丸は七尾港の矢田新埠頭を出て、能登島の久美で人を下ろし、三室、東島(野崎、日出ケ島など)へ向かうことになっていた。第二能登丸は機雷を避けるために、寺島沖へ向い、機雷に触れ、28人の死者が出た。米軍占領下であり、事件のことは新聞報道されず、事件から38年後の1983年、石川県教組七尾支部の聞き取り調査によって、事件のあらましが明らかになった。
★⑥1932年関東軍防疫班(後に関東軍防疫給水部)が発足した。中国人約3000人を人体実験に使い、細菌兵器を開発。1940年以降中国戦線でペスト菌などの細菌戦を実施。創設者石井四郎は旧制四高卒業→京大医学部→軍医。戸田正三(戦後金沢大学学長)、石川太刀雄(戦後金大医学部教授)、二木秀雄(金沢医科大)が731部隊にかかわっていた。戦後、野間神社に関東軍細菌戦第731部隊の臨時本拠地が置かれ、後始末をおこなった。

(8)プロレタリア文学
①高松町―鶴彬句碑(「胎内の動き知るころ骨がつき」「枯れ芝よ団結をして春を待つ」)
②卯辰山―鶴彬句碑(「暁を抱いて闇にゐる蕾」)
③白山市美川町―島田清次郎(プロレタリア文学=「帝王者」など) 石川近代文学館



★①②鶴彬は川柳作家としてだけではなく、むしろ革命家として評価されねばならない。日帝の戦争と、労働者の悲惨を描いただけではなく、自らそのなかに跳び込んで、たたかい、1931年治安維持法違反で逮捕され、軍法会議にかけられ、懲役2年の判決を受け、非転向を貫いて1933年1月満期出所した。
★③1920年代のベストセラー『地上』はラブストーリーだが、そのなかには深刻な部落差別を告発している。戯曲「帝王者」(『革命前後』所収)はたたかう労働者の姿を描いている。

(9)戦後戦争への準備と犠牲とたたかい
①小松市安宅新町―小松航空プラザ
②小松市浜佐美町―強制移転されて廃墟となった
③輪島市高州山—航空自衛隊レーダー基地
④金沢市泉町―F104J墜落現場(1969年2月8日)
⑤金沢市平和町―陸自金沢駐屯地・尚古館
⑥内灘海岸―米軍内灘試射場(権現森、内灘資料館)
⑦内灘町鶴ヶ丘―林屋亀次郎像(内灘闘争の歪曲)



★①石川県立小松航空プラザには、戦前の海軍小松飛行場に関する資料もあるが、多くは懐古趣味的展示で、懐古的航空ファンを満足させている。
★②1961年小松基地に第6航空団配備。小松基地の役割は朝鮮侵略のための出撃基地として位置づけられ、旧海軍飛行場を拡張し、2700m(+300mのオーバーラン)を建設した。南側の滑走路直下に位置した浜佐美町は強制的に移転させられた。
★③戦前、輪島天神山(300m)に防空監視所があり、戦後1947年に米軍レーダー部隊(30人)が進駐し、標高567mの高州山に移転した。1950年朝鮮戦争時には250人に増強。1956年空自第23警戒群配備。輪島基地は小松基地と一体のレーダー基地で、半径1000キロ、朝鮮半島全体を守備範囲とする。
★④1964年にF104Jが小松基地に配備され、65年(美川沖)、66年(輪島沖)、67年(金石沖)、そして1969年2月8日金沢市街地・泉町に墜落し、4人が虐殺された。
★⑤陸自金沢駐屯地内に資料館(尚古館)がある。戦前の装備品などが懐古趣味的に展示されている。
★⑥1952年11月内灘米軍試射場を閣議決定。1953年3月試射開始。4月参議院選挙で内灘試射場誘致の責任者林屋亀次郎落選。4月内灘接収反対実行委員会結成。5月内灘村議会試射場使用反対決議。6月継続使用決議。権現森座り込み開始。8月強行出漁。愛村同志会結成。9月中山村長リコール請求、10月中山村長辞職。1957年内灘試射場返還。
★⑦1976年鶴ヶ丘の公園に内灘闘争(林屋亀次郎と住民)のレリーフ設置。反対派と賛成派が向かい合った中で、林屋亀次郎が真ん中に立って、仲裁している構図である。しかし林屋は国務大臣として接収推進の旗頭であり、1953年4月参議院選挙では試射場反対を掲げる井村徳二とたたかい落選している。

(10)石川県の黎明期の労働者人民
①東山町―宇多須神社(1918年8月12日、米騒動)→13日兼六園霞ヶ池
②野町―1921年金沢メーデー(六斗林から野町駅30人)
③1929年第1回メーデーは長谷川邸跡



★①1918年の米騒動は富山県滑川から始まった。背景はシベリア出兵による米不足から米価が高騰していた。石川県では、8月11日高浜町、堀松村末吉(志賀町)、12日金沢宇多須神社(3000人)、13日兼六園霞ヶ池(3000人)、21日宇出津町(能都町)、26日穴水町、松任町(白山市)、その他山中町(加賀市)、美川町(白山市)にも波及した。宇多須神社は1858年(江戸時代)の米騒動でも拠点になった。
★②日本で最初のメーデーは1920年におこなわれたが、金沢では1921年六斗林(現六斗広見)に新人会会員ら30人が集まり、野町駅に向かってメーデー行進をおこなった。一部は途中で分岐して、香林坊までデモ行進して逮捕された。
★③金沢での本格的なメーデー集会(長谷川邸跡)・デモ行進は1929年になってようやく実現した。1929年第1回メーデーには300人以上、1930年第2回メーデーには600人以上、1931年第3回メーデーには400人以上が結集した(80人の朝鮮人女性)。1932年錦華紡横50人(日本人10人、朝鮮人40人)結集、検束。1933年、森山小学校裏に40人結集したが解散、7人検束。

(11)差別・排外主義
①東山―ひがし茶屋、野町―にし茶屋(遊女、性売買)
②野田町―覚尊院(泉屋柳子の碑)
③小松市串町―串茶屋
④犀川河畔―戦後在日朝鮮人集住地域
⑤西荒屋―竹川リン記念碑(献体)
⑥富来町福浦港―渤海国との交流(独島=竹島問題)



★①②ひがし茶屋、にし茶屋が金沢観光の眼玉になっているが、上流階層の芸者遊びと下層民衆の性売買が一体的であった。東北など貧困層から売られてきた女性たちの悲しみの坩堝だった。覚尊院には師匠泉柳子を忍ぶ芸妓などの名前が多数刻まれている。
★④犀川河川敷には遊歩道が整備され、市民の憩いの場になっているが、戦前戦中に土地を奪われて日本渡航を余儀なくされた朝鮮人、強制連行され帰国の機会を失った朝鮮人が犀川河川敷などにバラック小屋を建てて戦後期を乗り切った。
★⑤石川県で最初に献体をした竹川リンの記念碑が建てられているが、竹川リンを主人公にした『白蓮華』には明治期の部落(藤内)差別の様子が描かれている。卯辰山に「解剖屍体の塚」「解剖遺骸之碑」がある。
★⑥727年から200年間、渤海国から日本へ34回使節(36回、35回など異説あり)を派遣している。日本からも渤海へ13回使節を派遣。渤海から日本への航路は幾通りもあるが、9世紀初めに于山国(鬱陵島)が新羅の支配から離脱したので、渤海船が鬱陵島近海を航行しても安全となり、鬱陵島(983m、洋上120kmから見える)→独島(竹島)→隠岐島→山陰→越前→福浦の航路が採用されるようになった。日本から渤海国へは、対馬海流にのって北上するか、日本海を七ツ島、舳倉島経由で直接横断した。

(12)市民公園
①広坂町―金沢市役所前広場(「不自由な広場」)、
②四高記念公園(緑を伐採、遊歩道はコンクリート)
③金沢城公園―極楽橋(尾山御坊)
④金沢市駅西新町―姉妹都市公園



★①2017年4月に金沢市役所前に広場が完成したが、市役所が企画を「反体制的」と判断すれば、使用を不許可にすることが出来る条例をつくり、表現の場としての「広場」の使命を奪った。
★②2013年四高記念公園は多くの木々が伐採され、芝地が狭められ、土の遊歩道がコンクリートに覆われた。日陰が減少し、照り返しの強い公園になり、市民の憩いの場からイベント会場に様変わりした。
★③長年月をかけて金沢城公園が整備されている。この地は、<尾山御坊(一向宗の拠点)→前田居城→第九師団→金沢大学>を経て、今日に至っている。この地は、時代ごとに歴史的諸相を顕現してきたが、谷本県政はそのなかから見栄えのいい前田居城のみに特化した公園作りをおこなっている。この地は本来歴史公園として、<尾山御坊(一向宗の拠点)→前田居城→第九師団→金沢大学>の諸相を振り返る公園として整備されるべきであった。
★④金沢市駅西新町に姉妹都市公園がある。金沢市と姉妹都市提携をした7の都市、バッファロー市(アメリカ)、イルクーツク市(ロシア)、ポルト・アレグレ市(ブラジル)、ゲント市(ベルギー)、ナンシー市(フランス)、蘇州市(中国)、全州市(韓国)を紹介するコーナーと、交流広場がある。

20181105『帝王者』(島田清次郎)を読み直す

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『帝王者』(島田清次郎)を読み直す

 石川版ダークツーリズムについて調べたついでに、島田清次郎(島清=一般的には「しませい」だが、美川では「しませ」)の戯曲『帝王者』を再読した。1921年執筆で、1922年発行の『革命前後』に収録されている。島清は1899年に美川で生まれ、金沢にし茶屋で育ち、1919年に『地上』で時の人となり、1930年31才で亡くなった。

 私が戯曲『帝王者』をプロレタリア文学の奔りとして読むべきだと考えているが、世間ではそう捉えていないようだ。日本のプロレタリア文学は1910年代後半から現れてきた文学ジャンルであるが、小林多喜二の『蟹工船』、徳永直の『太陽のない街』は1929年であり、島清の『帝王者』はその7年前である。

 確かに『帝王者』は、『蟹工船』や『太陽のない街』のように、階級関係をわかりやすく表現し、労働者階級を激励し、革命への期待と希望を提示していないが、その作品のなかには、明確に資本主義にたいする怒りと革命への期待が表現されている。

 ごく一部を摘記しておこう。たとえば、音羽子には、旧来の女性の従属的位置を批判させ、男性による女性支配にたいする根底的批判を語らせている。染菊には、島清が育ったにし茶屋における女性の地位を表白させ、島清が少年時代に抱いた同情と怒りが表現されている。真太郎は革命への期待(理想)と裏腹に、労働者の現状から絶望感にさいなまれている一活動家の苦悩を吐露している。広野には、激しくたたかわれる労働争議とその周りの労働者の気概を語らせている。たたかう労働者の側に立って演説する清瀬(島清=しませ)の姿と、その結果特高警察に連行され、獄中の人となっていく様子が語られ、飯森は第1次世界大戦後の日米の対立状況を伏せ字だらけで語っている。

 『帝王者』では、自立した男女の恋愛に焦点があてられるだろうが、その背景は侵略戦争で肥え太っている日本帝国主義と、そのもとで労働者たちが、女性たちが呻吟している様子を読み取ることこそが、島清を読むことではないだろうか。

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『帝王者』島田清次郎 1921年

134~
 (音羽子)兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってほならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな。それは清瀬といふ一人物を評価するに、今の世の道徳や今の世の倫理でもつて評価してはならないと同じことです。清瀬は今の日本にとつては少し勿体なさ過ぎる程豪い男でございます。清瀬と今の世の人とは少くとも一世紀や二世紀の文明の差があるのでございます。

150~
(染菊)いいえ、それはわたしが申さねばならぬ言葉でございます。十二の歳に故郷の金沢の街を離れてまる五年の間、一日も真実にしみじみうれしい心持に打ち寛ろいだことめないわたしでございました。くる人もくる人も、会ふ人も会ふ人も、恐ろしい残酷な、表面ばかり柔和でお世辞が巧者で、それでゐて、夜になれば、恥づかしい浅ましいことのみしてゆく男ばかりでございました。

 私はもう少しのことで、男はみなかうしたものと、思ひ詰め、人生は浅ましい厭な陰気なところと信じこんでしまところでした。どんなに柔しくどんなにお世辞が整つてゐても、底を割つて見れば世間の男達は、芸妓といふものは、金で自由になる、自分達の卑しい色慾の玩弄物としか見てはゐまん。ほんとに、ほほ、猫などとはよく付けた名前ですわ。しかし、わたしは清瀬さん、それ丈けでは満足ができませんでした。向うが金を出してわたしの身体を玩具にするならば、此方は金をとつて、向うの身体も心も深い深い底の知れぬ魅惑の底へ陥落させることが、せめてもの復讐である事位は知らぬではなかつたけれど、私はそれがどんなに恐ろしいことか、一生救はれることのない地獄に身を投げ入れて、自分自ら鬼の一人となることであることが分つてゐました。

 様子のいい男、美しい顔をした男、さう云ふ男には会へないこともなかったけれど、わたしは、わたしを純潔な娘のやうにしてくれる男、清瀬さん、わたし程不幸な女はゐまいとは云へませんけれど、世の中で一番不幸な女の一人である私は、無意識ではあるが、失はれた「純潔な娘」のために嘆き、愛惜し、返らぬ春の尊さを取りかへしたいと陰鬱になってをりました。

 わたしは世の中の多くの娘達のやうに純潔なのびのびしたほがらかな、自分一人丈けのために生きる光明に充ちた明るい娘の時代を持つ代りに、世の中で遠も悲しい淋しい卑しい時を、晴れがましい豊麗な化粧と華やかな唄や三味の音の裏に過さねばなりませんでした。時にはその晴がましさや華やかさに眼を眩されて不自然をも自然と強ひて見た時もないではなかつたけれど、虐げられつくした私の内の魂の芽は、小さいながらも素直に、失はれたものを探し求めて止みませんでした。生一本に、真面目に、わたしの純潔な価値を認めて、青春の娘のやうに取扱ってくれる男を。心の底からわたしの神聖な価値を認めて疑ない男を。

166~
(染菊)いいえ、わたしこそ、失礼してをりますわ。御免遊ばせ。

(真太郎)あなたが支那へお出になった時も、今も日本の形勢は少しも変つてをりません。私は、時々、今の世の状態に致命的な絶望を感じずにはゐられません。少くとも革命が発生して比の世が一挙にして破壊され、その廃墟に新しい世界が建られるといふことも、同じやぅに、此の世の人類がことごとく美しい浄い魂となって、愛と信と望との理想世界が現出するといふことも.私には信じられないと言ひ切れない迄も、疑はずにはゐられなくなりました。

(清瀬)ふむ、君は当初から、美しい、純粋な理想主義者だった。その理想にヒビがはいりかけたことは、何を意味することになるのかな。

(真太郎)何を意味するのか、それが理解できれば疑ひもしなければ迷いもしません。何が何んだか分らなくなって来ました。此の世の現実といふものが、理想といふ美しい虹の消えてゆく切れ目から、だんだんにその広大な領域を見せて来るのです。そして一切の主観を迷妄と断じさせて今迄私を支持してゐた主義や熱烈な感情を根柢からくつがへし、そのあとへ、恐ろしい絶望と、初めなく終りのない無限無窮の大現実の恐ろしい流動丈けを真実在として残してゆかうとするのです。

(清瀬)一度やって来るにきまってゐる、若い信仰のくづれる時代が、君にも訪れて来てゐると見える。認識の正しさと正しさに比例する恐ろしさには、男はあくまで堪へなくてはならない。が、君には綾子さんがゐる、苦しい時には綾子さんの愛が、君を宇宙が無意味で、虚無で暗黒であるとする認識から救ってくれるだらう。―私がその恐ろしい精神上の危機に打つかつた時は、全くのただの一人だった。

(真太郎)民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働連動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう。婦人運動などと云ふけれど、虚栄心の強い又は器量の悪い二三の女共の空騒ぎ丈けのことですからね。要するに今の世の人間は、互に楽をして自分丈けが、よい家に住み、よい着物を着、よい飯を喰べ、よい女を抱いて寝れば、それで文句のないといふ代物ばかりなのです。どんな奴でも、底を割ればそれ丈けのものなのです。

 マルサスの人口論の結論は誤ってゐても、人間は食慾と色慾の動物であるといふ前提は永久に眞理です。彼等を救済するの彼等をして新しい道に導くなどとは、青年のはかない夢か、自己のカを知らない誇大妄想か、でなければ僭越極まる飛上り思想であるのではないかと考へられて来ました。今日、彼等を救はうなどと云つて見れば、金のある奴は少の包み金で追つ払ひ、うるさい奴だと叱りつけ、金のない奴は真つ赤にしてどなりつけ、手前達に救はれる程お安い命ぢやないと、怒る位ゐのことです。それでゐて、―それでゐて、此の世が誤った軌道を走ってゐること、今の世が悪るい世の中であること、不合理と不正が堂々と白日を闊歩してゐること、その厳然たる事実には変りはないのです。それが分つてゐながら、どうすることもできないといふことは。

(清瀬)どうすることもできぬ現世であると覚悟を一度定めてかかる必要があるのだよ。その覚悟を定めてからの分れ道が大切だがね。西行や芭蕉の故智にならつて世を捨てるものも一つの道だが、西行や芭蕉の心を心として、その大現実の現世に、とても不可能であるところの正義の戦闘を開始し、現社食に悲壮な闘争をつづけることも亦人生の一興ではないか。社会を捨て人を捨てて涯てしらぬ旅路を遍歴することが風流ならば、内心捨ててしまった社会と人を相手に、永久に実現されさうもない正義と真理の実現を試みるのも、ニイチエではないが愉快な遊戯だからね。現世を超越する丈けでは未だ罪が浅い。超越し尽くしたこの当てのはづれた、この己れを裏切りやがつた、この現世を、今度はこっちから玩具にしてやらなくては虫が承知しないぢやないかと、私は考へる。喜ぶもかりそめの遊びであるなら怒るもかりそめの遊び、少し大仕掛な遊戯には国家があり、民族かあり、戦争かあり、産業があり、発明があり、学問があり、そして最後に恋愛がある。恋愛の遊びこそ、あらゆる遊びのうちの唯一の真実なものであるかも知れない。

224~
(広野)あゝ、真さん、あなたに今、会ふたことはいいことか悪いことか、私には分らない。しかし、どうにか逃れることができるのか知らぬと思ってゐた恐ろしい淵へ、私はやっぱり躍り込まなくてはならぬのだといふこと丈けは確かになった。

 実は真さん、私は今、わたしの勤めてゐる荘田機械製作所全労働者の同盟罷工を企ててゐるのだ。しかも、相手の資本家はわたし共の要求を容れないで、強硬に出て、明日限り全部の職工を馘首すると迄言ってゐるのだ。結局、さうなればわたし共は直接行動をやるより仕方がなくなってゐる。そして、更には、全国的な大同盟罷工にまで仕上げねばならなくなってゐる。

 さて、かうなると、何故か、私は恐ろしくて恐ろしくて、ならなくなった。平常からいざといふ時に対する覚悟は十分出来てゐる筈の私ほ未練にも、此の世が名残惜しくなったのだらうか。いやいや単に自分一個の命や蓮命や生活のゆく手が不安で案じられるばかりでなく、この大罷工に参加する筈の全国の労働者の一人一人の生活や運命が、眼底にありありと映じて来た。私は、そこで、寧ろ無意識に申し出でずにゐられなかった。私自身が主動者であり、私自身が指揮すべき経歴でもあり地位でもあり乍ら、今しばらく満を持してふみ止まってくれ、私が、祉長の荘田にもう一度会つて、私達の要求条件を入れさせて見せるから、と。

 そして、今夜の八時を期限に会つたわけだ。私は、最後の望み、はかない望みを抱いて、社長に、その辛辣と苛酷と、悪いことには生じつか思想的背景のあるために、我国実業界の巨頭といはれる荘田の邸の豪華な、壮麗な西洋室会うたわけだ。此方からの要求通り広い室内には荘田一人しかゐないらしく見えた、で、私はもう一度彼にむしろ哀願した位だった。もし、さきに、馘首した九十名の職工を全部復職させ、またわれわれの要求であるところの八時間労働と、工場管理の責任と義務とを委任させてくれるならば、われわれは立処に、この罷工を今夜のうちにも解決するだらうし、その方か、結局貿本家自身のためにも利益であると説いたのだが、―だめだった。

 荘田は一言のもとに、ならぬ、とこたヘた。九十名の職工を復職することがならぬのみでなく、工場の自治などは大それた考へだとぬかしをった! すでに、さきに君達が要求の通り、九時間労働を実現し、賃金も増加し、養老、負傷等の十分の積立制度迄こしらへてゐる以上、この上何をする必要があるのかと云ひをった! もし、君達の方であくまで罷工をつづけるなら、明日にでも君達全部を解雇すると言ひをった! 

 ああ、その時、私は言ふべき、言はねばならぬーつの言葉を知らぬのではなかつたのだ。労働者、生産者としての当然の道、生きてゆく当然の道を開拓しない資本家であるならば、我々はさうした資本家の下にある機械はもはや社会の生産に寄与するものではなくて、実にゆるしがたい害悪の存在だから、破壊してしまふ! しかも、全工場の全機械を破壊しても、荘田、お前は明日食ふ米の心配はしなくともいいんだ! お前が目腐れ金で馘首した、そして、場合によっては全部を馘首すると云つてるその職工は、その日から、食ふ米の心配をしなくてはならぬのだ。

 ―が、私は言へなかった。何故かと言ふに、その酉洋室のカーテンの彼方で、微かに金属性のきしる音がしたから。その薄暗闇に、キラキラと白い佩剣が、白魚の腹のやうに凄く閃めいて見えた。さては、手が廻つてゐるな。その瞬間、ヒヤリと胸にこたへた一種の痛み、その痛みは、とりもなほさず、みや、お前のことを心配する女々しい一念だつたのだ。また、別れてから数年来未だに合へずにゐる眞さんや妹の綾に、会ひたいといふ日頃からの願望だつたのだ。

 私は、無念にも、黙つて、荘田の邸を引き下って来たが、雪の降る中を、わざわざ迎へに来てくれた同志に対しても、みなの者に対しても、申しわけがない、顔むけがないと云ふ想ひで、胸いっぱいだつたのだが、ああ、やっぱり、私の誠意は天に通じたのだ。天は、私の男をすたらせる程無慈悲ぢやなかつたのだ。ありがたい、ありがたい、ありがたい……。

248~
(音羽子)どんなことを、清瀬は話してゐたの。

(綾子)国家の存在は現実の事実であり、私共は国家を否定はしない、しかし資本家と労働者の闘争に関しては国家はどこまでも厳正中立でなくてはならぬ。国家が厳正なる中立者でなくなる処に、労働運動は直接行動に変ずる。労働運動を最後の手段たる直接行動に変ぜしめ、これを未然に防ぐ能はなかったことは一面国家の責任でもある。

 今度の広野源一等の事件もすでに発生してしまった破壊行動であるから、国権の発動は止むを得ないが、法は執行を猶予することもできる。もし、あまりに苛酷なはきちがへた峻厳を実行するやうな場合には、忠良なる全民衆と全労働者は、はじめて国家否認の傾向に陥り、いかなる事変が、起きるかもはかりがたい。

 ―といふやうな論理で、大きく、政府と貿本家をにらまへていらつしゃいましたわ。みんなは、深い感動に、拍手しながら溜息をもらすといふ有様でした。それに演説が終つても、聴衆は一人として青年会館を去らうとはしません。警官達も万一のことが恐ろしかつたものか、強制的に退場を命じかねてゐるのです。なるほど、こんなに深い信頼と熱烈な感動が存在し得るなら、××(革命)も実行が不可能ではないといふ想ひが、わたしの胸にもきざしましたが、聴衆全体の胸にもきざしたに相違ありません。

 しかし、最後に、清瀬さんが、今日はこれで会がすんだのだから、おかへり下さい。といった時には、みんなは、清瀬君万歳!と、いままでこらへてゐた、何とも知れぬ、いかなる事をも敢行し得る猛烈な感情を一度に爆発させるのでした。

256~
(みや子)あの奥様。

(音羽子)はい。

(みや子)大変でございます。警察の方が見えて、今、真太郎さんと何か談じていらっしゃいます。

(音羽子)あなた、お聞きになりまして。

(清瀬)うむ。

(音羽子)裏口から、お逃げ遊ばせ、裏口から。

(清瀬)なに、今日演説のことだらう。驚くには及ばない。

(真太郎)高等係りがお会ひしたいと言つてゐるのです。面倒だから、早くお逃げになってはどうです。

(清瀬)なに、逃げて捕まつては、かへつてみつともない。無体なことさへしなければ、こちらへ通すがよからう。もし、無体なことをすれば、みんなで、引つぱり出すがよい。

(男)大さう恐れ入りますが、今日の御演説に就いて少し取りしらべたいことがありますから、警視庁まで御同行をお願ひしたいと存じます。

(清瀬)ふむ。場合によつてはゆかぬこともないが。

(男)実は、今日の御演説はとうに解散か中止をする予定でしたのを、特に、円満に閉会したわけなので、先生に対しても、あの会場から直ぐに、御同行をお願ひしたかつたのですが、それでは失礼だと存じまして、今、お伺ひした次第です。

(清瀬)何んなら、ここで、このままお答へしてもよいのだが。

(男)ええ、でも、わたし共は分らぬことを、高級な人が、ぜひおたづねしたいと申してゐるのですから。

(清瀬)ふむ、それなら、一寸行って来ようか。

(真太郎)もしお出でになるなら、わたしも御一緒にお附き添ひしませう。

(清瀬)それには及ばないが。―しかし一緒に来てくれるなら、それもよい。いつも御苦労をかけて、申しわけがない。

(真太郎)いゝえ。

(清瀬)ぢや、一寸行ってくるから。今、ゆくから、お前は、あちらで待ってゐろ!

(男)へぇ、どうぞ、お願ひします。

(音羽子)あなたは、又、こんなに、直ぐにいらっしゃるのですか。

(清瀬)仕方がない、一寸、行つてくる。淋しからうが辛抱してくれ。それから、音羽子、もし、私の帰りが少し長引くやうだつたら、実は、今、京都から一人、娘を連れて来てゐるのだ。染菊といふ、未だ十八の紙園の芸妓だ。未だ何も知らぬ娘だが、長い間、この私を眞心から愛してくれた。―今、同じ旅舎にゐるわけだが、その娘の一身を面倒見てやつてくれ。いいか、音羽子、いいか。ここに少しばかりの金があるから、これを置いてゆく。そのほかのことは、一切何も知らぬと言ってゐればいいのだ。

(音羽子)はい。あなた、もう、お出かけになるのですか。

(清瀬)仕方がない、いってくる。それでは、染菊のことは頼んだから、よいだらうな。

(音羽子)はい。

(清瀬)それでは、一寸、いってくるから。



277~
(清瀬)私をからかふのなら、もう止して下さい。それとも、私を楽しませ元気づかせるのなら、それ程弱りきってもをりません。ばかばかしい。―しかし義兄さん、米国と云へば、日米戦争は近い将来に起りませうか。

(飯森)さあ、それは何とも云へぬが、しかし、…………………………………ものとの覚悟は必要であると云へる。しかも、現に、……………………………………………………不可能らしいのだ。もし、……………………しても、今度の欧洲の戦争から類推して孝へると、日本の国力では、……………………、…………………………………………いふのだね、さうなれば、先づ………………………………なくてはならぬのだが、……………………………………現に、重砲を天に向けて待ちかまへてゐるのだから、とても難かしからうな。止むを得ずんば、約一個師団の兵の決死隊でもつて、いはゆるナポレオン式遠征軍を組織して、……………………………、―一師団分の糧食しか輸送できないと言はれてる、―向うを侵略し、向うのバンを食つて戦ふのだなどと、気焔を上げる者もゐるのだが。どう云ふものかな。一度も二度も戦争に行つたやうな連中は、此の頃あふと、よく、ニコライスクの虐殺の話をはじめ出してね、ああ、実に、実に、戦争はいいな、と云ふのだ。おい飯森、な、おい、とやり出すのだ。戦争になるといいな、え、尼港の露助なぞは、…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………のよさは、な、おい、と言ってからに、戦争を讃美する奴もゐる。それはまあ、お前達の仲間で、無暗と火でもつければそれが…………思つてゐるのと大差はあるまいよ。いざ、…………………………………………………………になるのだと、真実らしく言ふものもある。尤も、負けはしまいが。はつはつ。

(清瀬)さうですか。―世間のでたらめには仕方がない。

20181117 「入管難民法改正案」を廃案にせよ!

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「入管難民法改正案」を廃案にせよ!



 外国人技能実習制度は、1993年に創設されたが、その実態は外国人奴隷移入制度である。安倍内閣は資本の要請に応えて、移入枠を無制限に拡大しようとしている。
2004年から2015年3月まで、石川労働局に外国人労働者の「労働相談票」を開示請求してきた。中身は、まさに不当労働行為の山である。
 資本はこんなおいしい「宝の山」を、たった3年で帰すなんてもったいないと、労働条件などはそのままにして、長期間の奴隷労働を可能にせよと、安倍政権をせっついている。これが日本のという国の姿である。

 石川労働局が開示した「労働相談票」の一覧表を添付する。





















2012~14年の技能実習生からの労働相談

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2012~14年の技能実習生からの相談

 最近、マスコミも、ようやく技能実習生の労働実態について取り上げるようになったが、それでもまだ具体的な曝露は十分ではない。石川労働局に外国人労働者の「労働相談票」の一覧表(2004~2014年分)を当ブログに投稿したが、そのなかから技能実習生の労働相談票を抽出し、その内容を投稿する。2011年までの原資料は廃棄してしまったので、2012年から2014年までの分である。
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 2012.05.16(局、金沢署、女)相談者は、入社後、1カ月を経ずして退職したものであるが、賃金と外国人登録に係る諸費用が相殺され、賃金未払が生じたものである。局監督課道下係長より電話。局監督課において金沢署管内の事業場の申告を受け付けたので処理をお願いしたいとのこと。詳細は別添えの通り。

2012.05.31(石川局、中国、男)相談者は中国人技能実習生と思われ、日本語が不自由であったが、本職が聞き取れた相談内容は以下のとおり。「私は中国人で、日本に来てもうすぐ丸2年になる。日本にはあと1年いる」「今日は話しを聞きたいだけなので、会社の名前はいわない」「私たちは会社で日本人と同じ仕事をしているが、日本人には『××手当』という手当が支払われているのに、中国人には『××手当』が支払われていない。これは日本の法律に触れないか」「また、受入団体と会社の間では契約書が交わされているようだが、私たちには会社から契約書が渡されていないので、給料などの労働条件が分かる書面がない」

2012.10.31(金沢署、女、繊維製品製造業)平成××年××月××日に入国し、平成××年××月×日まで研修を受けた上で、平成××年××月×日から当該事業場で働き始めた。100時間を超える時間外労働をおこなっているが、時間外手当の単価は平成××年×月××日までは×××円、平成××年×月××日までは×××円、平成××年×月××日からは×××円とのことであった。基本給は120,000円であるので割増賃金の単価がおかしいと考え申告に至った。技能実習生は日本語が話せないので、当該申告に係る処理経過等については、「×××××××××」の×××××××××に連絡がほしいとのこと。通常の労働時間についてはタイムカードでおこなわれているが、時間外労働については技能実習生本人が事業場に置いてあるノートに労働時間を記入し、担当課長がタイムカードに手書きで記載しているとのこと。技能実習生のパスポートと印鑑は事業場が管理しており、寛徳指導時に監督署からパスポート、印鑑を技能実習生に返還するように口頭指導する旨、求められた。休憩時間中に内職をおこなっており、休憩時間はとれなかったとのこと。社員寮の衛生がよくない旨、申し立てた。技能実習生は平成××年××月××日に帰国予定とのことであるが、それまでに当該事案が解決しない場合は、ビザの延長を請求する予定であるとのことである。技能実習生の受入団体は×××××××××とのことである。

2013.03.12(石川局、中国、男)相談者は中国人技能実習生と名乗る者。片言の日本語で「日本語が分からないので、中国語が分かる人に相談した」旨申し出があった。本職より、ここには中国語の出来る人がいないことを説明し、対応を検討するので、後刻改めて連絡したい旨伝えたところ、相談者から再度電話するということであった。

2013.04.03(石川局、中国、男)解雇について。中国人実習生。管理団体の方××××××××が通訳として同伴。勤務して3,4カ月。雇用契約1年。会社から、1カ月前にミスが多く仕事ができないことを理由に解雇を通告された。以前、温泉に行ったとき、××タトゥーを入れていることが分かって、××××といわれたので、解雇理由にタトゥーを入れていることがあるのではないかと思う。

 2013.08.12(七尾署、中国、女、繊維工業)休業手当の相談。相談の経過(本日において)七尾駅前交番に本相談者2名が訪れた→同交番の警察官××××が筆談により相談に応じた→同氏から当署へ連絡があった→本職から、石川国際交流協会(トリフォンの使用)へ架電→同協会から「中国語担当者は8月18日まで長期休暇」と回答(対応可能日程略)→本職、××××の筆談の助力を得ながら相談の概要を把握するため同交番に赴く→同交番にて相談するに、内容はおそらく休業手当未払(所定労働日よりも労働日が少ない、あくまでも推測である、シフト表と明細書の写しを入手)→相談者へ上記日程であれば、通訳しての相談対応可と説明したところ、「8月19日」に両名で当署へ来るとのこと。本相談者は本相談につき秘とするよう強く望む様子であったもの。相談者らは電話番号(住居/携帯)を持っていないもの。


2013.08.19(七尾署、中国、女、繊維工業)相談者から電話があったが、言葉が通じなかったため、石川県国際交流協会の電話番号を伝え、トリフォンにおいて相談を受けた。相談者の相談内容は以下のとおり。相談者は×月××日から上記事業場で勤務を始めた。中国で面接を受けた際には手取で月7万ぐらいもらえるという話しであったが、実際は休みも多く月6万円ほどである。×月××日でビザが切れて帰国する予定(?)であるが、それまでにお金を稼ぎたい。どこかいい仕事場を一緒に探してもらえるか? また、自分で他の仕事を探して仕事を移ってもいいか? 賃金が安すぎないか?(前回相談内容は略)

2013.10.09(金沢署、外国人、男、建設業)外国人 技能実習生からの相談である。①平成25年×月××日から新たな労働契約を結び、それが履行されるはずであったが、平成25年9月分の賃金について履行されなかった。会社に確認したところ、新たな労働契約はまだ仮契約であり、本契約に至っていない。法律に則って対応しているとの回答であった。どうすればいいか。労働者に以前の契約と平成25年×月××日以降の契約内容を確認したところ、具体的にどこがどう変わったのか分からないとのことであった。②休んだ日について労働時間がマイナスされているが問題ないか。③タイムカードを押した時間以外に時間外労働がある。作業日報などで確認出来るとのことであった。④国民健康保険が差し引かれすぎではないか。相談者たちは平成25年×月××日乃至××日から当該事業所に行っていないとのことであった。おそらく無断欠勤となっているとのことであった。平成25年9月30日に支払われる賃金は支払われたとのことだった。

2013.10.10(石川局、中国、男、建設業)10/9に金沢署あてに相談していた中国人技能実習生7名及び通訳として知人1名が来庁。相談概要及び申し立ての詳細は別紙参照。日本人労働者が実習生に手を出したことから、ストライキ発生。×××に話し合い。仮の「和解書」を作成。今後ストライキをしないこと及び賃金の最低補償を(控除後の手取)を×万円に引き上げると約束した。また、口頭で会社都合による休業は100%補償と約束した。しかし、9月になって休業補償が60%のみであったため、手取り額が×万円を下回り、約束が違うとして、再び出勤拒否して現在に至っている。その他、問題点として、保険、年金の保険料や寮費、水道光熱費が高すぎる。会社が搾取しているのではないかとの不満がある。また、年変形労働時間制のカレンダーにたいして、予定外の勤務に対する割増賃金が支払われていないのではないかとの申し立て。
(別紙)
 事業場は木造家屋建築業。労働者7名は中国人の技能実習生で、鳶工として作業に従事。現在、会社の借り上げアパート(2LDK(2部屋)×2室、1部屋に2人)に入居。
 7名のうち2名××××××××の受入団体は××××××××、その他5名×××××××××は×××××××××である。いずれも金沢市内の団体。なお、××××の事務局は、×××××××××、担当者は××××。×××から来ている2名の実習生は、×××で終了・帰国予定。
 技能実習生に付き添ってきた、××××は、現在、×××××××××をしている。中国の送り出し団体に知人がいる関係もあり、実習生から相談を受け、通訳として、以前から会社側とのトラブルの件にも立ち会ってきた。
 日本人労働者が、実習生に暴力行為をしたことを契機に、実習生らは反発して一斉に勤務を拒否し、ストライキを行った。問題解決のため、本年×月××日に、社長、実習生、受入団体×××××の担当者、通訳××らで話し合いの場を持った。
 話し合いの場で、手書きで仮の和解書を作って、社長と×××の実習生5名が署名した。和解書の内容は、実習生は「今後、二度とストライキ等は行わない」及び実習生の賃金は、「基本給140,120」、「残業×××」、「保険、年金、宿舎費、水道光熱費等(×××)は差し引く」、「最低補償×××」となっていた。
 最低祷贋とは、各種控除後も手取り額で×万円は補償するという意味で、以前は最低補償×万円だったのを和解書により引き上げた。和解書の文面からは明確でないが、実習生側は、最低補償には残業代は含まない約束だと考えている。
 仮の和解書に入ってないが、話し合いの場では、出勤日が休みになった場合の休業は有給扱い(賃金控除しない、100%支給)を約束したはずである。
 和解書を交わした後、××××××担当者と××が連絡、調整して、正式な和解書の文面(案)を作成した。その後、社長に正式な和解書への署名捺印を求めると、「こんな約束はしていない、署名はできない」と拒否され、現在に至っている。
 仮の和解書作成後の本年7月、8月は繁忙で休業も少なく、残業もあり、賃金の手取額が最低補償を下回るか否かの具体的な問題は発生しなかった。
 しかし、9月に業務が一段落すると、休業が数回発生し、休業日の控除(日割賃金相当の4割を控除=6割支給)がされた結果、基本給から各種控除を差引いた手取り額が×万円を下回る実習生が数名発生した。なお、残業代を加えた総額では、手取り額は×万円を上回っている。
 実習生側は、6月の和解の際に、「基本給(残業代含まず)から控除後の手取額の最低補償は9万円以上」、「休業日の有給扱い(100%支給)」を約束したはずなのに、約束が守られなかったため契約違反であると反発し、×月××日あるいは××日頃以降、再び一斉に出勤を拒否し、現在に至っている。(ストライキ継続中)
 健康保険料及び年金保険料も不当に高すぎるのではないか、会社側が必要以上に搾取しているのではないか。賃金が他の実習生より低いのに、保険料は他の者より多く控除されている者がおり、辻褄が合わないのではないか。
 現在、建設国保に加入しているが、高いので、国民健康保険に切り替えて欲しい。
 宿舎費、水道光熱費も不当に高すぎるのではないか、会社側が必要以上に搾取しているのではないか。現在、借りているアパートの家賃はそれほど高くないはずである。
 会社は、1年変形の労働時間制を採用しているが、カレンダーの出勤日以外に出勤させられ、後日、代休をもらうことがある。後日代休を取得した場合も、予定外出勤に対して、少なくとも割増分(1.25-1.00=0.25)を支払う必要があるはずなのに、時間数をチヤラにされて割増分が支払われていない。
 これらの問題、不満にたいして実習生のうちの一人××××が、会社に書面で要求書を出したところ、会社側の回返答に××××の担当者が中国語訳を付けた回答書が返ってきた。
 会社側の回答は、××の約束は守っている。法令どおりに対応しているとの内容だった。その他、一部の割増賃金については、確認の上、後日返答するとの返答であった。また、会社側から、①最低補償を×万円にして休業手当を6割とする、②最低補償を×万円として休業手当を100%とする、のいずれかを選択するよう提示された。
 回答書には、職場放棄は正当な行為でないこと、職場放棄を辞めて速やかに職場に戻ること、職場放棄中の賃金は支払わないこと、団体交渉をしたいなら代表者を選任することが記載されていた。なお、実習生側しては、会社に目を付けられたくないので、誰も自らが代表者にはなりたくないと思っている。
 実習生側としても、このまま出勤を拒否し続けて賃金が支払われなかったり、今後の労働者としての身分が失われることは本意ではないので、労働局から会社に対して何かしら指導して欲しい。
                    ××××××××××××××××××

 2013.10.18(石川局、中国、男、製造業)「契約内容の確認について」中国人技能実習生(と思われる)として上記会社で勤務している。会社は、1日当たり7時間45分の勤務で、シフト表に従って勤務している(カレンダーなどから判断するに、1年単位の変形労働時間制を採用していると思われる)。相談者たちは以下の点について、法令に違反しているのではないかと思い、確認のために相談に訪れた。①年間休日97日で、仕事をしている。労働時間としては問題ないのか? ②第二土曜日が出勤日になっている。他の会社は土曜日は全て休みの会社ばかりであるが、これは法律違反ではないのか?

2013.10.18(石川局、中国、男、製造業)中国人技能実習生7名及び通訳として知人1名が、10/9金沢署あてに相談後、10/10に来庁し、解決に向けた話し合いについて助言をした事案。通訳から再度電話があったもの。事案概要は会社と実習生が、賃金の最低補償(控除後の手取り、割増賃金を含まず)を×万円に引き上げること、会社都合の休業の100%補償を約束したが、9月に休業補償が60%のみ支給された結果、手取りが×万円を下回り、約束が違うとして再び出勤拒否し現在に至っている。その他、保険、年金の保険料や寮費、水道光熱費が高すぎる。会社が搾取している。1年変形時間制において予定外の勤務に対する割増賃金が支払われていないなどの申し立て。
 口頭助言の際、事業場からは、最低補償に割増賃金は含まれる、休業手当の100%補償の約束はしていない、不当な控除はしていない、割増賃金の取り扱いの一部不手際が判明し、既に社労士に依頼して差額を遡及計算し10月分賃金で支払う予定であること、実習生に今後の紛争解決に向けた話し合いを求めたが拒否されたなどの申し立てがあった。
 通訳によると、その後、事業場と交渉したが解決せず、×××××に送出機関の担当者が来日し、再び話し合うとのこと。

 2014.08.27(金沢、中国、男、土木事業)×××××××××××の担当者、通訳及び相談者の3名で来署。平成25年×××××××日に被災し、現在も休業補償を受給している外国人実習生から、休業手当に係る相談。相談者は日本に来て2年目の外国人実習生。国籍は中国。平成25年×月か×月に、雪などにより天候が悪いため休業させられた。当該月の賃金は9.5日分しか支払われず、部屋代、雇用保険、国保及び光熱費を控除されたため手取りの賃金はほとんどなかった。当該期間の休業手当について請求することができるか。

20181127 小松基地爆音訴訟口頭弁論  裁判長に笑われた国側弁護団

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20181127 小松基地爆音訴訟口頭弁論  裁判長に笑われた国側弁護団

 7月5日、小松基地騒音による健康被害調査に関する山田証人の主尋問、10月29日、山田証人の反対訊問、10月4日小松基地騒音現場検証(展望デッキのほか3カ所)がおこなわれました。

 11月27日の口頭弁論では、原告弁護団の蕪木弁護士にたいする証人尋問でした。最近小松基地騒音が軽減されているという小松基地・国側の主張への反論と、2016年6月にアグレッサー部隊(F15戦闘機10機)が移駐し、小松基地のF15が50機体制になったことによる騒音被害の拡大についての主張でした。

 蕪木さんは①長年蓄積された原告団による騒音調査資料、②小松市・石川県による騒音調査結果、③小松市の騒音調査の生データ、④小松基地航空管制報告書のデータ、⑤防衛白書などにもとづいて証言しました。

 原告団は小松基地周辺の75コンター、80コンター、85コンター、90コンターで騒音調査をおこなってきました。①騒音曝露回数、②1時間あたりの騒音発生頻度、③騒音最大値、④飛行コースなどの膨大なデータから小松基地周辺の騒音が増加こそすれ、決して軽減されていないことを証言しました。小松市・石川県の調査データ、小松市の調査生データでも同様の結論でした。

 最も動かし難いデータとして、小松基地が作成している航空管制報告書の自衛隊機の管制回数について証言しました。1916年6月のアグレッサー部隊の移駐前に比べて、移駐後の管制回数が23.6%増加しており、騒音被害増加の決定的証拠として、突きつけました。

 つづいて、防衛白書を元に、全国の自衛隊機によるスクランブル回数は一時期減少していたが、最近は最も多かった1980年代中期と同程度になっていると証言しました。

 反対訊問に立った小松基地・国側弁護人は原告団の騒音調査の数字上のケアレスミスを取り上げるだけで、騒音が増加傾向にあるという蕪木さんの証言をくつがえすような訊問はありませんでした。

 管制回数については、基地自身が作成した資料なので、反対訊問さえできませんでした。スクランブル発進回数が増加傾向にあるということについて、「小松基地の数字ではない」という趣旨で発言しましたが、証人に対する訊問ではなく、「意見」として述べたので、いつもは厳めしい裁判長が白い歯を見せて笑っていました。傍聴席から、「だったら、小松基地のスクランブル回数を出せよ」と、ヤジも飛び、原告団の騒音調査の苦労が報われた証言で、第1審裁判終結に近づきました。

20181202 島田清次郎再読

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20181202 島田清次郎再読

 来年2019年は島田清次郎(1889~1930)が生まれて120年、『地上』が発表されて100年の年である。島清の著作、杉森久英(1912~1997)の『天才と狂人の間―島田清次郎の生涯』(1962年)を再読し、映画『地上』(1957年・東映)、ドラマ『涙たたえて微笑せよ明治の息子島田清次郎』(1995年・NHK)を観なおした。(杉森の著書標題に差別的表現があるが、書名なのでそのまま使用している)

(1)杉森久英著『天才と狂人の間』について
 『天才と狂人の間』は島清の作品から離れて、島清の私生活上のスキャンダルを曝露して、世間の注目を集めた本であり、島清とその時代を理解するのに、どれほどの役にたつだろうか。杉森は、島清のセクハラとDVについて事細かに書きながら、作品中に現れた島清の女性観とのアンバランスにはまったく関心を持っていない。

 たとえば、戯曲『帝王者』(1921年)のなかでは、島清は次のように書いている。
 「(音羽子)兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな。」

 1920年代の20歳そこそこの青年が旧来の従属的男女関係を真っ向から否定しているのである。すなわち島清の作品(観念)と生活実態との乖離がどこから来たのかをこそ対象化すべきであるにもかかわらず、杉森は島清の作品中に現れた女性観に見向きもしていない。

 杉森が晩年(1993年)に投稿した雑文には、「(軍隊「慰安婦」は)メーデーの会場へホットドックやコカコーラを売りに来る商人のようなもの」「戦場では、女性も食糧や弾薬と同じく、必需品である」(『北國新聞』)などと書き散らしており、このような人物に、女性の自立・解放を対象化しようとしていた島清を理解できるはずがない。

 島清に見られる観念(女性解放)と実態(セクハラ・DV)とのアンバランス=乖離は、革命的左翼のなかにさえ現出している。古い話ではないのである。1970年代初期、革命的左翼は女性活動家からの糾弾を受けとめ、女性解放を重要な課題に据えたにもかかわらず、90年代には私の周辺で、Aによる女性活動家にたいする×××事件が発生した。

 被害女性は10年もの強いられた沈黙と苦悩を打ち破って告発したが、Aは幼児期の性的「体験」を書き連ね、免罪を求める弁明書を提出し、女性解放論の実践者たるべき革命的左翼の自己を欺瞞した。それは、以前からAのなかに女性差別的兆候を見ながら、放置していた私自身の問題でもあった。

 100年前に島清が語った「男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならない」というテーマとそこからほど遠い現実との間の葛藤こそ、まさに今日的課題であるにもかかわらず、杉森は植民地女性の性を「ホットドック」「コカコーラ」「食糧」「弾薬」になぞらえ、非人間化(商品化)して、恬として恥じないのである。このような人物に、島清の自己矛盾とその苦悩に接近することができるはずがない。

(2)戯曲『帝王者』に見られる島清の思想
 では、島清は短い人生のなかで、堺利彦や大杉栄と親交を結んだが、社会主義革命をどのように考えていたのだろうか。堺利彦は『地上』を「社会学的の観察と批判とに於いて頗る徹底してゐる」(1919年)と絶賛された。

 戯曲『帝王者』は文学的要素はかなり低いとみられ、評論の対象にはされず、無視されてきたが、遊廓の現実を見て育った島清の女性観に加えて労働者階級のたたかいがストレートに表現されている。

 『帝王者』のなかで、島清は、「此の世が誤った軌道を走ってゐること、今の世が悪るい世の中であること、不合理と不正が堂々と白日を闊歩してゐること、その厳然たる事実には変りはないのです」と、現実を批判しながら、他方では「民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働運動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう」と、現実の重さにうちひしがれている。

 では、島清はどの程度社会主義文献を読んでいたのだろうか。1904年には幸徳秋水と堺利彦によって、『共産党宣言』(『平民新聞』)が発表されたが、即日発禁となった。1906年に全文が訳しなおされたが、大逆事件(1910年)以後、太平洋戦争が終わるまで非合法の扱いをうけた。1919年に『共産党宣言』の第3章だけが『改造』に掲載されている。

 1917年ロシア革命を契機にマルクスの文献が次々と日本語訳された。1919年には『資本論』『経済学批判』、1922年に『労働と資本』、1924年に『ゴータ綱領批判』、1925年に『フォイエルバッハ論』『ユダヤ人問題を論ず』『労賃価格・利潤』、1926年に『哲学の貧困』『マルクス著作集』などが次々と翻訳発表されている。
 『地上』や『帝王者』執筆以前に、島清がどの程度社会主義文献を読んでいたのだろうか? 堺利彦や大杉栄と「親交」があったようだが、大杉栄の『獄中記』(1919年)を読んだのだろうか? 『改造』(1919年)の『共産党宣言』第3章を読んだのだろうか?
 『帝王者』では労働者階級の自己解放性に依拠するのではなく、すぐれた指導者(帝王者)への期待に終始している。

(3)4つ目の島清記念碑
 今回の再読と調査で、島清に関して新たな情報がいくつか加わった。島清の母方の祖父の出生地・白山市小川町共同墓地にある西野家の墓域の一角に、島清を閉じ込めるように、「島田清次郎追慕之碑」が窮屈に置かれている。

 碑文には「年若き氏の超世革新的思想は時勢に容れられず、保養院に幽閉され快々として楽しまず、遂に同院に死去さる。時に32歳。噫あたら卓越せる青年作家を無為に終わらしむ。世紀の恨事惜しむべし。昭和32年「地上」の映画化を記念して之を建つ」(1957年)と書かれている。

 島清が亡くなって、やがて90年になろうとしているが、「年若き氏の超世革新的思想」は相変わらず時勢に容れられず、幽閉されたままである。
 島清の記念碑としては、美川町南町の「島清生誕地の碑」、同平加町道専山の「島清文学碑」、金沢にし茶屋の「島清記念碑」があり、加えて「島清追慕之碑」が私の視角に入った。

(4)大正期労働者の息遣い
 大正年代にはいって、島清の周辺でもストライキや集会デモが活発化していった。1912年(13歳)日本硬質陶器スト、1914年金沢郵便局電信電話工スト、1918年米騒動、金沢電気電工スト、1919年尾小屋鉱山スト、1920年新人会金沢支部結成、金沢専売局スト、尾小屋鉱山スト、1921年金沢最初のメーデーデモなどである。

 映画『地上』(1957年)では、早熟多感な少年島清が争議で立てこもる日本硬質陶器の労働者への連帯を描いている。古地図(1956年住宅地図、1924年航空写真など)を調べると、日本硬質陶器本社・工場は専売公社(現玉川図書館)の南側にあり、職工600人が働いていた。

 『日本硬質陶器のあゆみ』には、「『地上』に出て来る硬質陶器のスト騒ぎは…当時の新聞にもデカデカと報ぜられたが、ストらしいストは回避された」と、ウソを書いている。1914年(大正3年)には友愛会金沢支部(三井利吉支部長)が結成されたが、1917年(大正6年)ごろから日本硬質陶器の小黒専務らが顧問や相談役として加入し、体制内化を図ったが、日本硬質陶器では1925年にも首切り反対ストがたたかいぬかれている。

 1921年(大正10年)発行の『帝王者』でも、争議の様子を描き、「国家否認」(革命)にまで至るべきと主張している。
 争議の指導者広野は、「私は今、わたしの勤めてゐる荘田機械製作所全労働者の同盟罷工を企ててゐるのだ。しかも、相手の資本家はわたし共の要求を容れないで、強硬に出て、明日限り全部の職工を馘首すると迄言ってゐるのだ。結局、さうなればわたし共は直接行動をやるより仕方がなくなってゐる。そして、更には、全国的な大同盟罷工にまで仕上げねばならなくなってゐる。」「荘田は一言のもとに、ならぬ、とこたヘた。九十名の職工を復職することがならぬのみでなく、工場の自治などは大それた考へだとぬかしをった! …もし、君達の方であくまで罷工をつづけるなら、明日にでも君達全部を解雇すると言ひをった!」と。

 広野の救援に立つ清瀬は、「資本家と労働者の闘争に関しては国家はどこまでも厳正中立でなくてはならぬ。国家が厳正なる中立者でなくなる処に、労働運動は直接行動に変ずる。労働運動を最後の手段たる直接行動に変ぜしめ、これを未然に防ぐ能はなかったことは一面国家の責任でもある。…(国が)あまりに苛酷なはきちがへた峻厳を実行するやうな場合には、忠良なる全民衆と全労働者は、はじめて国家否認の傾向に陥り、いかなる事変が、起きるかもはかりがたい」と訴えた。

   
<金沢市長町の日本硬質陶器> <島田清次郎追慕之碑> <呉竹文庫貸し出し簿>
 
(5)呉竹文庫
 些細なことかもしれないが、杉森は「島清が呉竹文庫によく通った」と書いているが、これは事実に反するだろう。呉竹文庫とは実業家熊田源太郎が開いた美川町湊にある私設図書館である。島清が第二中学校時代(1911年~)、暁烏を訪問していた時代(1914年)、犀川下流の鶏小屋で清貧に甘んじていたころ(1916年)はまだ呉竹文庫は一般には開放されていない。

 呉竹文庫は1919年(大正8年)ごろに開放されたが、この時期以降の島清は『地上』を発行して、すでに時の人となり、金沢と東京を足繁く行き来する多忙な時期であり、呉竹文庫で読書するような余裕はなかったのではないか。むしろ、兼六園内にある石川県立図書館の書籍を漁っていたのではないだろうか。

 私の父も、1921年(16歳)から24年(19歳)にかけてよく呉竹文庫に通い、『死線を超えて』(1920年・賀川豊彦)、『資本家と労働者』(1919年・沼法量)、『獄中記』(1919年・大杉栄)、『死の勝利』(1914年・生田長江訳)、『レーニンとトロツキー』(1921年・山川均)、『文明と女性』(1919年)などの読書に熱中していた。(呉竹文庫に展示してある『図書貸出記入簿』には、当時貸し出した書名と名前が記録されており、懐かしい父、叔父、叔母の名前が散見される)

20181217日韓条約で「完全かつ最終的に解決」か―否!

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日韓条約で「完全かつ最終的に解決」か? ― 否!

 2018年11月29日の立憲民主党のHPによれば、
 「韓国最高裁が元徴用工と主張する韓国人男性らの訴えを認め、三菱重工業に損害賠償を命じた確定判決については、「こうした判決が出るに至ったプロセスも含めて大変遺憾に思っている。国際公法と国際私法、韓国の司法制度との狭間の非常に難しい問題だ。一義的には日韓請求権協定に基づき韓国政府が中心となって解決に向けた努力をするべき。そのことを日本政府としても強く求め促していくべきだと思っている」とコメント。

 2018年10月30日の国民民主党のHPによれば、
 玉木代表は判決について、1965年の日韓請求権協定においてこの問題は解決済であるとして、「受け入れることはできない」と述べた。「日韓関係の基盤を覆すことだ」と今後の日韓関係を懸念し、韓国側への冷静な対応を求めた。日本政府に対しては、抗議するところは抗議し、判決を冷静に受け止めてさまざまな課題に協力して当たっていくという基本原則は引き続き進めていくように求めた。

 しかし、1991年3月26日の内閣委員会で翫正敏さん(石川県選出参議院議員)の質問に、政府は「我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではない」と答え、8月27日に柳井条約局長は「これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」と答えている。
 韓国徴用工や勤労挺身隊の請求は正当であり、韓国大法院の判決も日本政府(柳井条約局長)の見解とは何ら対立するものではない。今ごろになって、日本政府が過去の答弁を無視し、ねじ曲げているのである。

 以下に、当時の答弁内容を掲げておく(インターネット上の情報による)。

1991年3月26日 第120回国会内閣委員会 第3号会議録(12ページ)
【翫(いとう)正敏議員】条約上(※日ソ共同宣言)、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、こういうふうに考えられますが、…本人または遺族の人が個々に賃金を請求する権利はある、こういうことでいいですか。
【高島有終外務大臣官房審議官】私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。

1991年8月27日、第121回国会の参院予算委員会会議録第3号(10ページ1段目)
外務省条約局長(当時)柳井俊二答弁(日韓請求権問題)
 ただいまアジア局長からご答弁申し上げたことに尽きると思いますけれども、あえて私の方から若干捕捉させていただきますと、先刻ご承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。
 その意味するところでございま すが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。
 したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。

※外交保護権:ある国家の国籍を有する私人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合に、国籍国が国際違法行為を行った国に対して国家責任を追及する国際法上の権限のことをいう。
※シベリア抑留者の未払い賃金の請求に対する答弁と整合させるため、そのように答弁せざるを得なかった。

1992年2月26日衆議院外務委員会 
 柳井政府委員 …それで、しからばその個人のいわゆる請求権というものをどう処理したかということになりますが、この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。
 …その国内法によって消滅させていない請求権はしからば何かということになりますが、これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。
 …ただ、これを裁判の結果どういうふうに判断するかということは、これは司法府の方の御判断によるということでございます。

1992年3月9日 衆議院予算委員会
 伊東(秀)委員 …今法制局長官がお答えくださいましたように、外交保護権の放棄が個人の請求権の消滅には何ら影響を及ぼさない、とすれば、全く影響を受けていない個人の請求権が訴権だけだという論理が成り立つか否かという見解、解釈を伺っているのでございますが、いかがでしょう。
 工藤政府委員 訴権だけというふうに申し上げていることではないと存じます。それは、訴えた場合に、それの訴訟が認められるかどうかという問題まで当然裁判所は判断されるものと考えております。

もう、50年も前のこと <1968年金沢大学現代思想研究会のチラシ>

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もう、50年も前のこと <1968年金沢大学現代思想研究会のチラシ>

今や憎むことを恐れてはならない
 今や狂信的であることを恥じてはならない
  ぼくは彼らに不幸の借りがある
               -ポール・ニザン-

絶え間なく降り続く雪の中、君は何処へ行くのか? 
この重苦しい、黄昏の冬の季節、君は如何なる「変身」を遂げようとするのか?

きみ! 耳をすませ、眼をこらせ! そこに君は、状況が、体制が、君の首を絞めようとしているのを見出すだろう。
Unvisibleな、しかし、確実な、僕たちをだめにしようとしている状況。

その中で、ぼくたちに残された選択は、今や、二つしかない。加担するのか、それとも闘うかだ。
マイホーム主義への、日常生活への埋没は、体制、秩序への加担であり、精神的な自殺であり、逃亡でしかない。
それは“緩慢な死”の選択を意味する。

そして、いま、そのような状況の中、自己回復の、困難で果てしない旅へ出発しようとする一群の人々がいる。
己の生を、自分に繋がる全ての人間の生を真に生きぬくために。

一切の無駄話をやめよ。
ぼくらの関与すべきは、個々の不幸、事件、具体的な生活であり、しかも、それに埋没するのではなく、それを、そして自分を、変革すること、即ち、生きるということなのだ。

いまや、ぼくたちは、ひとつの問いかけに直面している。
すべての虚妄、怠惰、怯儒と決別すること。訣別すること。
ぼくたちに精神的な死を強いるこの巨大な体制に真っ向うから、「否(ノン)」を叫ぶこと。

日常性への埋没。思想的、精神的自殺。それらすべてを、甘美な誘いを拒否せよ。
逃げてみたところでなんにもならないのだ!
20年近い己の生を総括し、新たなる変革を企てること。

いま、この、空気の流れさえ止まってしまったかのような静かな冬の季節。
その中で、ぼくたちに迫られているのは、ひとりひとりの深刻な総括と「変身」だ!!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
時間よ おれはおまへにきくが
 おまへの未来はギラギラ光るか?
                    -草野心平詩集より-

かじかんだ両手をあてて、喪われてゆきそうな自分自身の感受性をそっと確かめる。
それがおそらく、ぼくらの営みの始まりだ。
この静かな厳粛な町にいて、君は明るい未来を、ギラギラ光る未来を見出すか?

20181227島田清次郎の階級意識

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島田清次郎の階級意識

島清の資本主義観
 まず、島清の資本主義批判について確認しておこう。『地上』第1部(1919年2月脱稿、6月出版)では、
 <人類の生活上に重い負担の石を負はす資本家的勢力の専横圧迫の社会的表現であらうか。もしさうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に××(注:革命)の火は燃えるであらう>と。

 『地上』第2部(1920年出版)では、
 <僕等は虐められ過ぎてゐることを東京へ来て始めてはっきり自覚したのだぜ。…今度の世界大戦争だってよっく考へてみたまへ、僕等にとって何の関係があり、又何を得てゐるだらう。何の関係もない何も! 何も得ていない、何も! 唯幾人かの大金持が出来、幾百千万人の僕等の同胞が死んだ…さうだ、死を得たに過ぎないのだ!>、<今の社会は実に金でしかない。今の社会には生きた人生がないのだ。唯、金がある許りだ。黄金は全人生であり、全人生を支配してゐるのだ。…今の世界のすべてが金のある者にのみ幸福なやうに出来てしまってゐる。金のある者が自分達の都合のいいようにこしらへたのが今の世界である。…金持の楽園は貧乏人の地獄に包まれてゐる。しかもその貧乏人が全人類の大部をしめてゐるんだぜ>と。

 『閃光雑記』(1921年出版)では、
 島清は<マルクスの剰余利潤説は資本主義の一部、即ち資本家の主観的立場を明らかにするが、之によって、すべての不労所得が発生した理由を説明するに足りぬ>(151)と、『資本論』を読んだことを明かしている。

 その上で、『地上』第3部(1921年)では、
 <私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である>と、資本主義下の労働者階級の様子を述べている。

 『帝王者』(1921年出版)では、
 島清は<労働者、生産者としての当然の道、生きてゆく当然の道を開拓しない資本家であるならば、我々はさうした資本家の下にある機械はもはや社会の生産に寄与するものではなくて、実にゆるしがたい害悪の存在だから、破壊してしまふ! しかも、全工場の全機械を破壊しても、荘田、お前は明日食ふ米の心配はしなくともいいんだ! お前が目腐れ金で馘首した、そして、場合によっては全部を馘首すると云つてるその職工は、その日から、食ふ米の心配をしなくてはならぬのだ>と、資本家階級と労働者階級の非和解性を論じている。

 このように、島清は、1919年2月(『地上』第1部脱稿)以前に、すでに資本主義批判を主体化していたことがわかる。

 当時、島清が読むことができた社会主義文献としては、1904年には、『共産党宣言』(幸徳秋水訳・即日発禁)、『空想より科学へ』(堺利彦訳)が翻訳され、1906年には『共産党宣言』が全文訳し直されたが、大逆事件(1910年)以降非合法の扱いを受けた。1909年には安部磯雄による『資本論』の部分訳がある。

 1917年ロシア革命と1918年米騒動での民衆の高揚を背景にして、1919年には『共産党宣言』の第3章だけだが『改造』に掲載され、『資本論解説』(カウツキー)が高畠素之によって翻訳され、松浦要による『資本論』の部分訳や『経済学批判』が発行されている。島清はこれらの文献に目を通していたのであろうが、非合法扱いされている『共産党宣言』も生田長江や堺利彦のルートで入手して、読んでいたと考えるのが妥当だろう。

 その後も、1922年に『労働と資本』、1924年に『ゴータ綱領批判』、1925年に『フォイエルバッハ論』、『ユダヤ人問題を論ず』、『労賃価格・利潤』、1926年に『哲学の貧困』、『マルクス著作集』などが続々と翻訳公刊されている。

島清の社会主義社会観
 島清は、資本主義を打倒したあとの社会主義社会をどのようにイメージしていたか。資本主義下の労働(人間)疎外論が語られている。

 『地上』第3部(1921年)では、
 島清は<労働がそれ自身愉快な感情を生み出すやうになれば、それはもはや労働でなく、少なくとも今日の「使はれる労働」ではないでせう。今日の労働が苦しい勤めである限り、人は労働ののちに何らかの酬いを予期しないでは働くことは出来ますまい>と。

 さらに、島清は<自分等は自分等の栄養と入用のためのみに労働するであらう。与えられたる一生を全うすることに必要なる労働は、人類全体に平等であり、平等である故に、それはよき享楽となる。…自分達はひとしく人間でありひとしく生きる使命感を与へられたるものである。自分達の間に貴族と平民、資本家と労働者など云ふ階級は一分時にして無くなるであらう。…自分の生きることの自由と絶対を認めることはまた自分以外のすべてのものの生きることの自由と絶対を認めることである。小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほこらう。真の平等、そして真の独立。…自分等をして一切の枯木をよしとする階級より脱却せしめよ。自分達をして真に自由に、吾等の国法をして、自然の法たる「自らの声」と合一せしめよ。吾等の潜めもつ一切の力に自由な解放を与へよ>と。

 島清は、「強制された労働からの解放」、「階級対立の解消」、「生きることの自由」、「真の平等」、「真の独立」と、来たるべき社会を生き生きと描き、資本主義が差別と強制と収奪の社会であり、差別と強制と収奪を否定するためには社会革命が必要であり、不可避であるという確信を持っていた。

 『閃光雑記(157)』(1921年)では、<万人ことごとく帝王のごとく生きよ、社会主義の原理はこれだ>と呼びかけているように、島清にとっての「帝王」とは一個の独裁者を意味するのではなく、すべての人民が社会の主人公(帝王)となることをイメージしている。そして、まずは自らが主人公(帝王)にならんとしていたが、それはまさに観念論的であった。

 エンゲルスの『空想から科学へ』(1904年、堺利彦訳)のなかにある、「必然の王国から自由の王国へ」というフレーズを彷彿とさせるではないか。
 エンゲルスは<社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、したがって生産者にたいする生産物の支配も除去される。…今日まで人間を支配し人間をとりまいている生活条件の外囲は、今や人間の支配と統制の下に服し、人間はここに始めて自然にたいする真の意識的な主人となる。これによって人間は自分自身の社会組織の主人となるからである。…従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなって始めて、人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる。…それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である>と、プロレタリア革命の必然性を説いている。

20181229 島田清次郎の動揺 社会主義か、国家社会主義か

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島田清次郎の動揺 社会主義か、国家社会主義か

①日本社会主義同盟加盟
 島清は1920年8月に、堺利彦、山川均、大杉栄ら社会主義者、赤松克麿(新人会)、和田巌(建設者同盟)、麻生久(大日本労働総同盟友愛会)、布留川桂(正進会)など労働組合代表、大庭柯公(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、小川未明など幅広い団体と個人30人によって呼びかけられた日本社会主義同盟に加盟している。3000人もが加盟したが、翌年5月には解散させられた。

 島清は『閃光雑記(85)』(1921年)で、日本社会主義同盟に加盟する意志を、<私は目下現前のまゝなる社会主義同盟そのものには大した期待を持つてゐない。…麻生、赤松その他壮年有為の諸君が態度を明らかにしたこと、数年来の同主義者の一種の総勘定をやつたこと、旧来の種々の歴史をもつ人々が表面引退して、新しき気分がほのみえたことなどは今後の同主義運動のためによいことであらうと考へる。…私が名前を出したのは、「社会主義」と云ふ一つの大義名分へ敬意を表しての行為である>と、醒めたまなざしで見ており、そこには労働者階級と心底一体化できない自己があると思われる。

②社会主義か国家社会主義か
 島清は、1920年に日本社会主義同盟に加盟したが、その年に公刊した『二つの道』(1920年)では、社会主義か、国家社会主義かを問うている。先ず、自称「隠れたる革命党員」丘真太郎の主張を見ていこう。

 <(僕は)純正社会主義の実現を基礎づけ、あらゆる反対を根本的に破砕する(注:研究をしている)>、<僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家(注:資本主義国家?)との戦であると思ふ>、<現世界大戦によつて諸(もろもろ)の国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨張と生存を主張して次の大戦を呼び起す>、<僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない>、<僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから>、<僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアットであると共に日本主義者である>、<今日の国際連盟は世界的大強盗の相談だよ>、<君の云ふやうな「地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和」といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか>、<二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ>、<マルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、彼奴等支配階級に対して同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以後に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりもつとひどい誤謬でありこつけいである>、<君(北輝雄)は国家や民族の差異を重大視してゐない>

 次に、対する北輝雄の主張を見ておこう。
 <階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血…そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない>、<己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心して>、<人生の経済的基礎の改革はもちろん必要で重大で必然な人類の運命>、<経済的改革はたゞ、最も重要な、そして最初になされねばならない手段である>、<貧乏と疾病と犯罪とが何より先に地上から全滅されなくてはならない>、<彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくないニセ文明>、<丘君、僕は実にこの何とも云ひやうのない慟哭と身もだえの境地から苦しみに鍛錬されながら一歩を超越してゐるのだ>

 両者の論争では、国家社会主義(=丘)と社会主義(=北)の相異を明らかにしている。丘真太郎は「もつと地理的環境や人種的差別を重んぜ」、「支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要」、「僕は社会主義者であると共に国家主義者である、…日本主義者である」、「地上を通じての階級戦は…国家民族の消滅」、「国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、…今日の第一の必要」と畳みかけるように主張し、社会主義から国家社会主義への「転向」を刻印している。丘真太郎の思想は日本主義、民族主義そして侵略主義以外の何ものでもない。

 他方、丘真太郎から、「君は国家や民族の差異を重大視してゐない」と詰問された北輝雄の対応はかなり動揺的であり、客観主義ではあるが、明らかに国家社会主義にたいする疑心・警戒心があらわれている。

 『帝王者』(1921年)のなかで、丘真太郎は
 <民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働連動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう。婦人運動などと云ふけれど、虚栄心の強い又は器量の悪い二三の女共の空騒ぎ丈けのことですからね>と語っていることにも共通している。
 丘真太郎には、社会主義革命への挫折と人民蔑視が蔓延しているようだ。

③国家社会主義への変質
 ここで、当時の社会主義と国家社会主義について概観しておこう。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)後には、日本の資本主義化が進み、貧富の差が拡大し、労働争議が多発し、社会主義思想が広がっていった。

 幸徳秋水や安部磯雄(1909年『資本論』部分翻訳)らは、日露戦争前後から社会主義へと傾斜している。幸徳秋水は1901年に結成された社会民主党に創立者として参画し、1903年秋水と堺は非戦論を訴え続けるために平民社を興し、週刊『平民新聞』を創刊した。1904年には秋水と堺利彦は『共産党宣言』を翻訳発表したが、即日発禁になった。1920年には日本社会主義同盟が結成され、島清も加盟している。

 1919年6月に脱稿した『二つの道』のなかで、島清は『資本論』について触れており、安部磯雄の『資本論』(1909年翻訳)を知っていたか、それとも1919年2月には『資本論』の訳者・生田長江と接しており、『資本論』の概要を知らされたとも考えられる。

 ところで、北一輝は1906年『国体論及び純正社会主義』を刊行し(発禁)、天皇機関説に基づき天皇の神格化を否定し、山路愛山(1905年「国家社会党」創立)の国家社会主義などを批判した。北一輝は1910年の大逆事件で逮捕されたが、その後、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義と訣別し、国家社会主義(国家を前提とした社会主義)の方向へたどり、1917年大川周明らと合流し、1918年1月猶存社に入った。1936年「2・26事件」に係わり、1937年に処刑された。

 1919年に『資本論解説』(カウツキー)を翻訳した高畠素之も、階級対立が消滅した後も、国家は消滅するのではなく、国家本来の機能として支配・統制が行われるとする「国家社会主義」を提唱した。

 すなわち、当時(1919年ごろ)の島清は社会主義と国家社会主義との間で、内部葛藤し、揺れ動いていたのではないだろうか。

 『誰にも愛されなかった男』(風野春樹著2016年)では、著者は北輝雄は北一輝を模しており、島清自身だとして、「(島清は)社会主義よりも、むしろファシズムに近い」(104ページ)と見ているが、これは誤読ではないだろうか。北一輝は1917年大川周明らと合流し、1918年1月猶存社に入ったが、他方島清は1920年日本社会主義同盟に加盟しており、「島清=北一輝=ファシズム」とすることはできない。

20181231 島田清次郎少年期の社会と思想形成過程

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島清少年期の社会的背景

 島田清次郎(戸籍は嶋田)は1899年に、石川県美川町南町で、海漕業の島田常吉とみつの間に生まれた。当時の日本は1894年日清戦争(賠償金と台湾略奪)後の、強兵富国政策を強硬に推しすすめ、資本主義を強引に成熟させる過程であり、それは天皇制暴力を背骨にした弾圧と専制の政治支配であった。島清が生まれる直前の1897年は凶作と恐慌が重なり、労働者農民の生活は困窮を極め、労働組合の結成・争議が相次ぎ(近代的労働運動の開始)、社会主義思想も広がった。

 政府は労働者階級のたたかいを予防するために、1900年治安警察法(労働組合死刑法)を公布し、1901年社会民主党(片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水、河上清、西川光二郎)結成にたいして、第8条2項により即日禁止処分にした。

 石川県は農業を中心とした産業構造をもつ後進地域であったが、1900年代に入って、日本硬質陶器、津田駒、石川製錬などが設立され、労働者層が形成され、さまざまな職種での争議・ストライキが多発していった。

 島清が野町小学校から金沢第二中学校に進学した1912年には、長町の日本硬質陶器でストライキが起きている。『地上』第2部では、<陶器会社…角のやうに2本の煙突がにゆつとつき出てゐ、烈風に流るる煤煙のうねりがまきこまれ、機械の壮大な音響が周囲を巻き込むやうに、ごおつと力を帯びて聴えてゐた>と書かれ、映画『地上』(1957年)では、日本硬質陶器の争議が描かれ、少年島清が会社に立てこもる友人に会うために、塀を乗り越えていく様子が描かれている。

 古地図(1956年住宅地図、1924年航空写真など)を見ると、当時の日本硬質陶器は専売公社(現玉川図書館)の南側(現玉川公園)に本社・工場があり、職工600人が働いていたが、現在は松任駅西側に移転し、社名はニッコーに変わっている。

 1914年には第1次世界大戦が始まり、『地上』第2部では、<ヨーロッパの戦争のために紙やぼろの原料品が騰貴し、金持の処へはめっぽうもなく金がおちるので物価は高くなる>と書き、戦争による市民生活の困窮を伝え、『地上』第1部では、中学生の島清に<ぼくは貧乏ですから政治家になります。…貧乏を退治することです。貧乏を此の世から絶滅することです。僕は多くの人間が貧乏な為に苦しんでゐることを知ってゐます>と言わしめている。

 このように、日本資本主義の激動・明暗のなかで、島清は労働運動の刺激を受けながら成長していくのである。その後も、1914年(15歳)金沢郵便局電信電話工スト、友愛会金沢支部結成、1917年金沢立憲青年会結成、1918年米騒動(金沢東山の宇多須神社3000人、兼六園3000人)、金沢電気電工スト、1919年友愛会尾小屋支部結成・尾小屋鉱山スト、新人会金沢支部結成、1920年金沢専売局スト、尾小屋鉱山スト、賀川豊彦講演会(800人)、1921年金沢最初のメーデー・デモ(六斗広見から野町駅へ)などが続いている。

島田清次郎の思想形成過程

①島清日記はどこへ
 島清はどのような著書を読んで、資本主義批判・社会主義論を主体化していったのだろうか。島清の日記を精査する必要があるが、杉森久英は『天才と狂人の間』(1962年)で、島清の日記から何カ所も引用しているにもかかわらず、杉森以外は誰もこの日記を目にしていない。

 『誰にも愛されなかった男』の風野春樹も、『地上』復刻版の解説を担当した柏木隆法も見ていないと書いている。七尾市立図書館の杉森久英文庫にも、石川県近代文学館にも存在しないのである。

 杉森は島清の日記を処分してしまったのだろうか、それとも、はじめから島清の日記など存在せず、杉森による創作だったのかと疑われても反論は出来ないであろう。

②中学時代の読書
 杉森久英は「島清が呉竹文庫によく通った」と書いているが、これは事実に反するだろう。呉竹文庫とは実業家熊田源太郎が開いた美川湊町にある私設図書館である。確かに、美川には父方祖母の実家(手取屋家)があり、交通関係があったとしても、島清が金沢第二中学校に通っていたころ(野町1911年~)も、暁烏敏を訪問していたころ(1914年ごろ)も、犀川下流の鶏小屋で清貧に甘んじていたころ(元車町1916年ごろ)も、まだ呉竹文庫は一般には開放されていなかったからだ。

 風野春樹によれば、呉竹文庫は1915年に開放されたと書かれているが、呉竹文庫の「図書貸出記入簿(第1巻)」を確認すると、一般に開放されたのは1919年以降である。この時期以降の島清は『地上』を発行して、すでに時の人となり、金沢と東京を足繁く行き来する多忙な時期であり、呉竹文庫まで出かけて、読書するような時間的余裕はなかったであろう。

 島清は野町(金沢二中時代1911年~)、元車町(1916年ごろ)、上胡桃町(1919年ごろ)、高岡町(1922年)、穴水町(1922年ごろ)など、金沢市内を転々としており、徒歩圏内の兼六園には1912年に開設された石川県立図書館があり、そこで書籍を漁っていたのではないだろうか。

 風野春樹によれば、二中時代の島清は夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、国木田独歩、二葉亭四迷などを読んでいたという。橋場忠三郎の『自伝』によれば、金沢二中・金商時代の島清は、高山樗牛、ニーチェ、ドストエフスキーの『虐げられし人々』、『罪と罰』、『カラマゾフの兄弟』、『貧しき人々』などを読んでいた(小林輝冶著『島田清次郎の中学時代―その知られざる側面』)。しかしまだ、社会科学系の書籍には接してはいないようだ。

③青年期の読書歴
 杉森久英は『天才と狂人の間』で、1920年以降の島清の読書歴として、『唯一者とその所有』(シュティルナー)、『天と地の間』(ルードウィヒ)、『天人論』(黒岩涙香)、『近世経済思想史論』(河上肇)、『社会主義批判論』(エリスバーカー)、『国家論』(平松市蔵)、『ギルド社会主義の理論と政策』(コール)、『我が宗教』(トルストイ)、『ミンナ・フォン・ハルンヘルム』(レッシング)、『たくみと恋』(シラー)、『ヘンリ四世』(シェークスピア)、『戦争と平和』(トルストイ)、『白痴』(トルストイ)、『理想国』(プラトン)などを挙げている。

 このころになると、島清は『唯一者とその所有』、『近世経済思想史論』、『社会主義批判論』、『国家論』、『ギルド社会主義の理論と政策』などの社会主義文献を旺盛に読んでいるが、1919年の『地上』第1部には、マキシム・ゴルキイ、クロポトキンの名前が出ており、1920年の『二つの道』や1921年の『地上』第3部には、マルクス『資本論』について記載されており、島清は1919年以前には確実に社会科学系の書籍に接していた。【注1】

 注:シュティルナー=個人主義的無政府主義者。マルクスやエンゲルスに影響を与えたヘーゲル左派に属す。
 注:ギルド社会主義=国家や資本主義に反対し、労働組合を基盤につくられた産業の民主主義的連合によって、自治的社会主義をめざす運動。

【注1】島清著書中に現れた読書歴
 島清著作中に現れる人物名と著書名を摘記すると、
1914年『若芽』( 尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遙)、
1919年『地上』第1部(アラビアンナイト、コペルニクス、マキシム・ゴルキイ、クロポトキン、トルストイ、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』、石川啄木、ロダン、ミケランジェロ、ホイットマン『草の葉』、アレクサンダー大王)、
1920年『地上』第2部(イプセン、ストリンドベルヒ、トルストイ、ドストエフスキー、ゴルキイ、ベルグソン、ドンキホーテ、ロダン、ベェトーベン、ラファエロ、釈迦、耶蘇、マホメット、プラトオン、アリストテレス、ソクラテス、孔子、老子、荘子、スピノーザ、カント、ニィチェ、ショウペンハウエル、ゲーテ、ロマンロラン、アレキサンダー、ジンギスカン、サボナローラ、日蓮、ブルノー、ストリンドベルヒ、マホメット、法然、メレジュコフスキィ、クリスト、ペテロ、ルーテル、プルターク、ホオマア、シェクスピア、ユーゴー、孟子、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、親鸞、シェウペンハウエル、カント、ゲーテ、秀吉)、
1920年『二つの道』(ダーウィン、コペルニクス、マルクス『資本論』、耶蘇、釈迦、ナポレオン)、
1921年『地上』第3部(スエデンボルグ、カーライル、クロポトキン『相互扶助論』、プラトー、ボードレール、ヴェルレーヌ、吉田兼好、西行、松尾芭蕉、ルーテル、法然、ノックス、『ドン・キホーテ』、『聖書』、『法華経』、『カラマゾフの兄弟』、『アンナカレーニナ』、ニーチェ『ツアラストラ』、『ファゥスト』、アルツィバアセフ『サニン』、ステルネル、ボードレール、ワイルド、ダーウィン『進化論』、マルクス『資本論』、プラトン、カント、ベルグゾン)、
1921年『閃光雑記』(チェホフ、トルストイ『宗教論』、ドフトエフスキー、ミズテン、ゲエテ、岩野泡鳴、 クロポトキン、マルクス、ダンヌンチオ、島村抱月、アダム・スミス、マルサス、ゴドイン、永井柳太郎、レーニン、原敬、幸徳秋水、イワン・ゴンチャロフ『オブロモーフ』、セルバンテス『ドン・キホーテ』、森鴎外、坪内逍遙、幸田露伴、ロマン・ローラン、ナポレオン、堺利彦)、
1921年『帝王者』(ショパン、クレオパトラ、マルサス、西行、芭蕉、ニイチェ、ナポレオン、ニコライスク、ヘンダアソン、ゴンパース、ヘッペル『ユーディット』、ホロフェルネス)
を挙げることができる。(1917年『死を超ゆる』、1920年『早春』、1922年以降の著作は未調査である)



20190102 島田清次郎の幽閉と抹殺

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島清の幽閉と抹殺

 1919年『地上』第1部発行に、堺利彦は
<私が此書に感心したのは、文章の新しい大胆な技巧と、鋭いそして行届いた心理描写、若しくは心理解剖とではない。…私は特に著者が社会学の観察と批判に於て頗る徹底してゐる点に深く感心したのである。…謂ゆる社会的文芸の代表作家がもうどうしても現はれねばならぬ時だと私は思ってゐるが、此書の著者嶋田清次郎氏は即ち実に其人ではないだらうか>と紹介した。

 生田長江は
<げに、『地上』に見えたる萌芽より云へば、そこにはバルザック、フロオベエルの描写が、生活否定があり、ドストエフスキイ、トルストイの主張が、生活肯定があり、そのほかのなにがありかにがあり、殆どないものがないのである。…げに、本当のロマンティシズムと本当のリアリズムとが、決して別々なものでないと、…>と紹介し、

 徳富蘇峰も
<もし日本に大河(注:『地上』の主人公)のごとき頼もしき青年が10人あったならば、国家の前途は憂うるに足るまい>と評した。

 こうして、『地上』は爆発的に売れ、『地上』第1部発売から1922年までの4年間で、『地上』(全4巻)の売り上げは50万部に達した。大衆に迎え入れられた『地上』は、資本主義批判から革命の必要性を訴えており、政府にとっては頭の痛い問題となった。社会科学文献は一部の先進的労働者やインテリゲンチャにしか影響力はないが、大衆小説となれば、人民大衆のなかに深く入り込む力を持っている。そのなかで、資本主義批判と革命の問題が正面から語られているのである。NHK土曜ドラマ「涙たたえて微笑せよ」のなかで、取り調べの刑事が「革命という言葉が100回も出て来る」と言って、島清を責めるシーンがあったが、まさに島清作品は要警戒だったのである。

 個人的資質から来る文壇や出版社との関係悪化に加え、「舟木事件」というスキャンダルにまみれた島清は、その作品のために、ついに関東大震災の翌年1924年7月30日未明、警戒中の警察官に巣鴨署に連行され、そのまま精神病院「保養院」に強制入院させられた。そしてそのまま6年近く幽閉され、1930年4月29日、31歳で亡くなった。

 日帝は1923年関東大震災直後から朝鮮人を虐殺(6000人)し、社会主義者の一掃・抹殺の挙に出ていた。憲兵大尉甘粕正彦が大杉栄、伊藤野枝ら社会主義者を殺害(甘粕事件)した。島清が「保養院」に強制入院させられたのは、まだ関東大震災から1年もたっておらず、社会主義者らへの警戒がつづいていた最中のことであった。巣鴨警察署は島清の「犯罪」を立件できず(当然!)、釈放すべきところを強制入院によって拘束したのである。日帝は治安維持のために、島清を6年近くも幽閉し、作家生命を絶ちきり、ついには死に至らしめたのである。

 戦前の日帝下では、「反社会的人物」の抹殺はくり返しおこなわれてきた。1910年の大逆事件(幸徳事件)がある。明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水ら26人が逮捕、起訴され、翌年1月18日に死刑24人、有期刑2人の判決が言い渡され、1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら、翌25日に管野須賀子の死刑が執行された。

 この大逆事件は明治政府が主導したフレームアップ事件だった。1928年9月、小松松吉検事総長の「思想係検事会で講演した秘密速記録」には、「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」、「不逞の共産主義者を尽(ことごと)く検挙しようと云ふことに決定した」、「邪推と云へば邪推の認定…有史以来の大事件であるから、法律を超越して処分しなければならぬ、司法官たる者は此の際区々たる訴訟手続などに拘泥すべきでないと云ふ意見が政府部内にあった」と書かれている。(参考:鎌田慧著『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』)

 そして1923年関東大震災での大杉栄らの虐殺、島清の「1924年強制入院―1930年病死」、1933年小林多喜二獄中死、1938年鶴彬獄中死へと、資本主義批判の矛を収めない作家たちは次々と殺されていったのである。島清ブームの火を消すために、「舟木事件」をスキャンダラスに宣伝し、島清を強制入院させ、長期幽閉し、「殺してしまいたい」という日本帝国主義の階級意思を否定することができるだろうか。

20190105 海自哨戒機による戦争挑発を弾劾する

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海自哨戒機による戦争挑発を弾劾する

 昨年(2018年)12月20日、日本海(東海)の公海上で海上自衛隊のP1哨戒機と韓国海軍の駆逐艦との間でトラブルが発生した。21日、岩屋防衛相は「日本の排他的経済水域(EEZ)内で、韓国艦船から海自哨戒機に火器管制レーダーを照射された」と発表し、さらに畳みかけるように28日、P1哨戒機から撮影した編集動画を公表し、日本人の排外主義に火を付けた。

 これにたいして、韓国国防省は「遭難した北朝鮮の漁船を捜索していた」「(哨戒機が)駆逐艦の上空に近づいたため、光学カメラで監視した」(12/24)と発表した。今年1月2日、韓国国防省は「(海自哨戒機による)威嚇的な低空飛行」を批判し、4日には日本画公開した映像を使って反論した。

 海自哨戒機による「威嚇的な低空飛行」は、昨年来の韓・朝・米による「戦争状態終結」のための話し合いに水をかけ、東アジアで戦争の火を起こすような行為である。
(注:朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮と表記する)

海自哨戒機はなんのために
 一昨年(2017年)夏頃から、日本海(東海)大和堆で北朝鮮漁船と日本漁船の間でイカ漁をめぐってトラブルが多発し、海上保安庁は北朝鮮漁船に放水し、強制排除を繰り返してきた(戦争行為だ!)。秋から冬にかけて、北朝鮮漁船が多数遭難し、日本海沿岸に漂着するようになり、昨年(2018年)も、多数の遭難船が漂着し、12月に入って急増していた。

 韓国駆逐艦は北朝鮮同胞の漁船保護のために大和堆周辺で、遭難船の捜索活動をおこなっており、本来ならば、海上自衛隊も海上保安庁もこの捜索活動に協力すべきであるにもかかわらず、P1哨戒機が韓国駆逐艦上空を威嚇的に飛行したとすれば、それはまさに戦争挑発以外の何ものでもない。

イカ漁減少の原因
 一昨年以来、新聞、テレビでは日本海(東海)大和堆で北朝鮮漁船がイカを洗いざらい奪っていると報道している。しかし、大和堆でのイカ漁獲量の減少は北朝鮮漁船だけが原因ではない。

 「2018年度 第1回 日本海スルメイカ長期漁況予報」によれば、「今期(2018年5月~7月)の日本海沿岸域へのスルメイカ来遊量は、前年並で近年平均を下回ると予測される。また、対馬暖流域における4月中旬~6月の水温は平年並と予測されており、主な漁場は本州北部日本海以北で漁期は近年同様と予測される」ということである。

 その上で、(1) 2018年4月に実施したスルメイカ新規加入量調査の結果では、今期漁獲対象になると予測される外套背長5cm 以上のスルメイカの1調査点あたりの採集尾数は11.6尾で、前年(8.6尾)を上回り、近年平均(16.5尾)を下回った。(2) 2017年10月~11月に実施したスルメイカの幼生分布調査では、幼生の分布密度が2016年並であり過去5年(2012年~2016年)平均を下回った、と報告されている。

 すなわち、日本海(東海)中央部の大和堆は好漁場ではなく、幼生の分布密度は平均を下回っていると報告している。北朝鮮漁船が漁獲する以前に、日本海(東海)のイカ資源量そのものが減少しており、日本の大型漁船は大出力の投光器でイカを集め、その全部を独占しようと、海上保安庁や海上自衛隊による「保護」を訴えているのである。

排他的経済水域(EEZ)
 元来は日朝両国漁民は大和堆(+北大和堆)を好漁場として共有してきたのだが、日帝は「大和堆は排他的経済水域(EEZ)である」と主張し、北朝鮮漁船を排除してきた。

 歴史上最初に、領海外の公海上の漁業管理権を宣言したのは、1945年、米帝トルーマン大統領である。その後、1982年の国連海洋法条約で、沿岸国が海洋および海底下の生物・鉱物資源の探査・開発・保存・管理などに関して「主権的権利」をもつ水域として、沿岸から200海里(約370キロメートル)を超えてはならないとされた。

 EEZとは帝国主義の領土拡張主義から発出し、海洋資源を占有するために引いた「国境」である。日帝も1996年6月に国連海洋法条約を批准した際、「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」を制定した。

 そもそも、EEZとは、「主権」とは一線を画した「主権的権利」にすぎない。主権とは「他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利」とされているが、大和堆は「主権」の及ぶ範囲ではなく、「主権的権利」の範囲にある。そこは公海であり、歴史的にも北朝鮮漁民と日本漁民がともに漁業をおこなってきた海域である。

 しかし、日朝関係の対立(国交断絶)のなかで、日朝漁民を主体にした協議が成立せず、日帝が一方的に大和堆を「主権的権利」のおよぶ海域と指定して、軍事力(海上保安庁の巡視船)で北朝鮮漁船を排除しているのである。
 マスコミ上に乱舞する「排他的経済水域(EEZ)」「違法操業」という言葉はあたかも日本固有の「権利」が侵害されているかのようなニュアンスをかもしだし、この海域で日本の財物が盗まれたような被害者意識を形成している。大和堆で操業している北朝鮮漁船を指して、「赤の他人が家に入り込んで居座り、食糧を盗む」(2017/12/15「北陸中日新聞」)という谷本石川県知事の暴言がそのよい例である。

排外主義から戦争へ
 2018年6月には、谷本石川県知事は「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させなければならない。…北朝鮮の国民には…生活に困窮するくらいの経済制裁を」(6/22「北陸中日新聞」)と、暴言を発した。同年9月には、安倍首相は「必要なのは対話ではなく、圧力だ」(9/22同紙)、麻生太郎は「(北朝鮮の)武装難民かもしれない。自衛隊の防衛出動か。じゃぁ射殺か」(9/24同紙)と発言し、今回の海自哨戒機による「威嚇的飛行」の引き金となった。

 なぜ、北朝鮮漁民が粗末な木造船で大和堆での操業を余儀なくされているのか。その最大の原因は米日帝(国際社会)による経済制裁にある。今、わたしたちに必要なことは、米日帝の包囲下で、核兵器に手をつけ、人民に犠牲を転嫁する北朝鮮政府の現実をも冷静に見たうえで、北朝鮮人民を塗炭の苦しみに追い込んでいる米日帝の戦争政策を押し止め、沖縄や全国の基地強化に反対し、北朝鮮人民との真の連帯を実現することである。とりわけ、南北朝鮮間で解決しようとしている和解と統一に水を差そうとしている安倍政権を絶対に倒さねばならない。

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日誌【北陸中日新聞】
20190103 海自機が威嚇的な低空飛行―韓国が謝罪を要求
20190101 志賀に木造船漂着
20181227 小木イカ釣り不漁深刻
20181225 韓国レーダー使用否定
20181222 韓国艦、海自機に照射。大和堆対策を強化―海保、巡視船と新型機配備
20181220 木造船の一部が羽咋の海岸に漂着
20181219 輪島に木造船漂着―船尾にハングル
20181213 北朝鮮木造船か、珠洲の海岸漂着
20181212 北朝鮮木造船か―志賀の海岸漂着。北の木造船木片?白山の海岸に漂着
20181203 かほく漂着船内、人や残留物なし。
20181203 舳倉島付近に木造船が漂流、左舷側にハングル
20181202 漂流の木造船漂着―かほく
20181125 輪島にも木片漂着―木造船の一部下
20181124 志賀、輪島に木造船漂着―日本会側次々、ハングル表記。京都、新潟でも。
20181122 北朝鮮船の漂着は台風一因
20181116 大和堆で日韓漁船衝突
20181024 北の違法漁船増す脅威―昨年の倍以上、鋼船も。
20180929 漂着船遺骨など朝鮮総連に返還―日赤石川県支部。大島海水浴場に木片漂着
20180622 大和堆「断固たる姿勢を」海保などに石川県知事要望
20180602 北朝鮮船退去警告112隻―大和堆の漁期控え早くも海保が警戒
20180304 内灘海岸に木造船の一部?漂着
20180303 漂着船対策 拉致被害者家族ら
20180223 北朝鮮籍?輪島の海岸に漂着
20180222 輪島の海岸に木造船や木片
20180221 金沢港沖に木造船が漂着
20180214 木造船3隻が漂着―羽咋、志賀、輪島、北朝鮮船か
20180212 加賀の海岸に木造船が漂着
20180210 北?の木造船、かほくに漂着
20180209 輪島の海岸に木造船が漂着
20180203 金沢沖64キロで木造船が転覆―空自機が発見。木造船「日本もっと関心を」
20180131 木造船一部?破片、志賀の海岸に漂着
20180130 外国船取り締まり強化を
20180129 千里浜海岸に木造船が漂着―船体にハングル
20180125 志賀の海岸に木造船漂着
20180117 粗末な船、荒波にのまれ昨秋急増
20180117 金沢漂着船内に7遺体.木造船周辺に生活用品。
20180116 漂着木造船関連か、別の遺体を発見、金沢。
20180106 美川沖で転覆した木造船

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2018年度(4月27日) 第1回 日本海スルメイカ長期漁況予報

今後の見通し(2018年5月~7月)
対象魚種:スルメイカ/対象海域:日本海沿岸域/対象漁業:主にいか釣り漁業
対象魚群:主に秋季発生系群
(1) 来遊量:前年並で近年(2013年~2017年)平均を下回る
(2) 漁期・漁場:主な漁場は本州北部日本海以北で漁期は近年同様

Ⅰ 漁況予報
  日本海におけるスルメイカの資源調査結果(2017年10月~11月の日本海スルメイカの幼生分布調査、および 2018年4月のスルメイカ新規加入量調査)と海況予報を主要な情報として、今期(2018年5月~7月)の日本海沿 岸域におけるスルメイカの漁況を下記のとおり予測した。
【予測】
 今期(2018年5月~7月)の日本海沿岸域へのスルメイカ来遊量は、前年並で近年平均を下回ると予測される。また、対馬暖流域における4月中旬~6月の水温は平年並と予測されており、主な漁場は本州北部日本海以北で漁期は近年同様と予測される。
【情報】
 (1) 2018年4月に実施したスルメイカ新規加入量調査の結果では、今期漁獲対象になると予測される外套背長5cm 以上のスルメイカの1調査点あたりの採集尾数は11.6尾で、前年(8.6尾)を上回り、近年平均(16.5尾)を下回った。
 (2) 2017年10月~11月に実施したスルメイカの幼生分布調査では、幼生の分布密度が2016年並であり過去5年(2012年~2016年)平均を下回った。
 (3) 平成30年度第1回日本海海況予報では、スルメイカの漁場形成に影響を与える4月中旬~6月の対馬暖流域の表面水温と50m深水温は、共に「平年並」と予測されている。
 (4) 2017年5月~7月の小型いか釣り等によるスルメイカ(生鮮)の漁獲量は、道北・道央で近年平均を上回ったが、ほかは近年平均を下回った。

20190102島清関係図書リスト(石川県内・調査中)

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20190102島清関係図書リスト(石川県内・調査中)
 石川県立図書館、金沢市立図書館の蔵書はいつでも閲覧できるが、石川近代文学館の所蔵品は事前に特別閲覧申請が必要である。

<石川県立図書館蔵書>
【島田清次郎作品】
01石川近代文学全集 4 島田清次郎ほか/小林/輝冶編集/石川近代文学館/1996.3/
02革命前後(島田 清次郎著)改造社/1922.8/
03現代長篇小説全集 24 島田清次郎(江馬修篇)新潮社/1930/
04地上 第1部 地に潜むもの(島田清次郎著)新潮社/1921/
05地上 第1部 地に潜むもの(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/
06地上 第2部 地に叛くもの(嶋田清次郎著)新潮社/1920/
07地上 第2部 地に叛くもの(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/
08地上 第3部 静かなる暴風(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/
09地上 第3部 静かなる暴風(島田清次郎著)新潮社/1921/
10地上 第4部 燃ゆる大地(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/
11地上 第4部 燃ゆる大地(嶋田清次郎著)新潮社/1922/
12地上 第1巻 地に潜むもの(島田清次郎著)新潮社/1957/
13地上 地に潜むもの(島田清次郎著)季節社/1983.11/
14帝王者 戯曲(島田清次郎著)新潮社/1921/
15編年体大正文学全集 第8巻 大正八年/ゆまに書房/2001.8/
16編年体大正文学全集 第9巻 大正九年/ゆまに書房/2001.12/
17ミリアニア 石川の近代文学(金沢近代文芸研究会編)能登印刷出版部/2001.11/
18我れ世に勝てり(島田清次郎著)石川県立図書館/1982/
19我れ世に勝てり(島田清次郎著)石川県立図書館/1982/
20我れ世に敗れたり(島田清次郎著)石川県立図書館/1982/
21我れ世に敗れたり(島田清次郎著)石川県立図書館/1982/
22我れ世に勝てり(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/
23我れ世に敗れたり(嶋田清次郎著)黒色戦線社/1986.4/

【島田清次郎に関する評論など】
01石川近代文学全集4(島田清次郎ほか)(小林 輝冶編集)石川近代文学館。1996.3。
02川村湊自撰集 2巻 近代文学編(川村/湊著)作品社。2015.4。
03現代長篇小説全集 24 島田清次郎 江馬修篇。新潮社。1930。
04島田清次郎生誕100周年記念フォーラム(美川町教育委員会編集)2000.3。
05島田清次郎著作目録(山根公編)1984.2。
06島田清次郎の中学時代 その知られざる側面(小林輝冶著)1985.3。
07島田清次郎晩年の書簡 1(小林輝冶著)深井一郎教授定年退官記念事業会。1990.3。
08島田清次郎晩年の書簡 2(小林輝冶著)新資料徳富蘇峰記念館蔵七通翻刻。1990.7。
09島田清次郎未定稿翻刻 1(小林輝冶著)北陸大学。1984.1。
10島田清次郎未定稿翻刻 2(小林輝冶著)北陸大学。1985。
11島田清次郎未定稿翻刻 3「白刃」「変な弁護士」(小林輝冶著)北陸大学。1986。
12島田清次郎未定稿翻刻 6「明智中佐」「高原にて」(小林輝冶著)北陸大学。1987.12。
13島田清次郎 誰にも愛されなかった男(風野春樹著)本の雑誌社。2013.8。
14島田清次郎の草稿「基督抹殺論」・「松風」(小林輝冶著)昭和文学研究会。1984.1。
15島田清次郎の草稿「生命と運命」第1巻(小林輝冶著)昭和文学研究会。1983.2。
16島田清次郎君のこと(加能作次郎著)文芸春秋。[1930]。
17少年・島田清次郎の弁論と演説 (〈島清資料〉『白金学報』から)(村上文昭著)1999.11。
18蘇峰への書簡 島田清次郎(高野静子著)國民新聞社。1988。
19室生犀星と表棹影 青春の軌跡(小林/弘子著)能登印刷出版部。2016.8。
20もっと知りたい金沢ふるさと偉人館 91人の偉人たち(金沢ふるさと偉人館)2013.3。
21島田家系図、西野家系図(北野銀一作成)
22島田清次郎の草稿―「生活と運命」第1巻を中心に(小林輝冶1983年2月「昭和文学研究」第6集)


【石川県関係人物文献検索―島田清次郎-石川県立図書館HP】

01『石川県史 現代編2』 P1037
02「北国新聞」縮刷版(1967.4)P625(文壇の異能児島田清次郎)
03『曉烏敏全集』第3部2巻 P285
04『秋声全集』第7巻(島田清次郎モデル小説「解潮」1974年)P369~449
05『徳田秋声伝』(野口富士男著1965年) P39,436~445
06『室生犀星全集』別巻1 P27
07「文学ところどころ 島田清次郎」(北陸中日新聞 1969.1.28) 
08『佐藤春夫全集』3 更生記
09「相続人判り大■地上を映画化」(北国新聞 1957.2.22)P7
10「島清には実子がいるはづ」(北国新聞 1957.2.23)P7
11「ドラマチックな零落昭和文壇側面史」(「週刊読書人」1966.2.28)P2
12「小説島田清次郎」杉森久英著(「中央公論」1957.7月号)P82
13「連載出版広告史 24 地上」(「出版ニュース」1974.7上旬)P19
14「物語金商〈64〉」(「北陸中日新聞」1980.12.13)P17
15「加能文学風土記」(「朝日新聞」1957.6.15)
16「北陸中日新聞」(1957.2.22)
17「朝日新聞」(1957.2.22)
18「北国新聞」(1957.8.19)(島田清次郎年譜)
19「毎日新聞」(1957.9.5)
20「北国新聞」(1957.10.8)
21「北陸中日新聞」(1957.11.13)
22「北国新聞」(19623.7)
23「物語二中錦丘〈23〉」(「北陸中日新聞」1981.6.13)P17
24「島田清次郎など」(『一癖斎放言』杉森久英著1981年) P134~137
25「大正期の仏教と民衆文学」(「金沢大学教育学部紀要 人文科学社会科学編)1978.1.
26「三尖塔遙か-19-」(「北国新聞」1982.7.26 夕刊)P4
27「狂気の淵から島田清次郎の境涯」(「北国新聞」1983.2.17) P8
28「地上」(『日本出版文化史』1938年、1959年、1981年?) P316
29「島田清次郎氏の「地上」」(『新潮社四十年』1936年)P105~108
30「地上」(『暁烏敏全集』第2部)P285-286
31「狂気の淵から島田清次郎の生涯」(「北国新聞」1983.2.24)P10
32「狂気の淵から忠三郎と豊」(「北国新聞」1983.3.3)P8
33「狂気の淵から島田清次郎の境涯」(「北国新聞」1983.3.10)P10
34「狂気の淵から秋声の弁護」(「北国新聞」1983.3.17)P10
35「狂気の淵から「事件」の真相」(「北国新聞」1983.3.24)P8
36「地上・島田清次郎」(「国文学」第4巻5号1979.4)P86~87
37「裸の王様」(「国文学解釈と鑑賞」1983.4.臨時増刊号NO.618)P216~222(病跡から見た…)
38「狂い咲き島清」(『多喜二虐殺』橋爪健著1962年)P80~108
39「「島清事件」をめぐる文献(中)」(「日本古書通信」668号1985.3.)P27~28
40「「島清事件」をめぐる文献 続(上)」(「日本古書通信」694号1987.5.)P10~11
41「「島清事件」をめぐる文献 続(下)」(「日本古書通信」695号1987.6.)P15
42「「島清事件」をめぐる文献 続々」(「日本古書通信」703号1988.2.)P23~25
43「続々「島清事件をめぐる文献」」(「日本古書通信」710号1988.9.)P23~25
44「島清、世に敗れたり」(「テアトロ」1986.7月号)P174~238
45「島田清次郎と「地上」」(『忘れられた作家忘れられた本』山下武著1987年) P8~15
46『風雪の碑』(北國新聞社1968年) P322~327(写) 
47「島田清次郎の中学時代-その知られざる側面-」(「金沢大学語学・文学研究」14号)P7~14
48「島田清次郎晩年の書簡(2)新資料徳富蘇峰記念館蔵七通翻刻」(「金沢大学語学・文学研究」19号) P26~31
49『石川近代文学全集 16 近代詩』P328~333
50『幻の作家たち』(山下武著1991年)P96~144
51「毎日新聞」(マイクロ)1923.4.14日P9,1923.4.24P9
52「北国新聞」1957.8.19-P3,1957.2.22-P7,1957.2.23-P7
53『石川百年史』P696(写),697
54「裸の王様-島田清次郎-」(「国文学解釈と鑑賞」 昭和58.4月臨時増刊号 NO.618)P216~222
55「島田清次郎-病的素質がもたらした栄光と悲惨」(『明治大正の作家』春原千秋著1974年)P325~334
56「三文豪と島清」安宅夏夫著(「北国文華」第5号)P104~115
57「粟野利雄先生の記念碑めぐり〔10〕島田清次郎歌碑」(『石川保険医新聞』第206号1990.12.15)P12
58『日本死人名事典』P88~91
59「悲劇の人島田清次郎展特集号」(『石川近代文学館ニュース』第2号1983.4.28)
60「島田清次郎「地上」の舞台を訪ねて」(『リトルトリガー』Vol.1-8 1995.3)
61「「島清事件」をめぐる文献(上)」(『日本古書通信』第667号1985.2.)P19~21
62「「島清事件」をめぐる文献(下)」(『日本古書通信』第669号1985.4月号)P22~23
63「美川が生んだ”人間・島田清次郎”(1)」(『広報みかわ』191号1983.1.15)P8
64「美川が生んだ”人間・島田清次郎”(2)」(『広報みかわ』192号1983.2.15)P5
65「美川が生んだ”人間・島田清次郎”(3)」(『広報みかわ』195号1983.5.15)P6
66「美川が生んだ”人間・島田清次郎”(4)」(『広報みかわ』196号1983.6.15)P9
67「美川が生んだ”人間・島田清次郎”(完)」(『広報みかわ』198号1983.8.15)P6
68「我れ「恋」に敗れたり」(『アクタス』1999.2月号)P38~41
69『読書の愉しみ』(吉村公三郎著1977年)P44~46
70『文学的回想』(大熊信行著1977年)P154~167
71『百年の誤読』(岡野宏文著2004年)P89~93
72「清次郎追慕の碑」(『加賀・能登文学散歩道』石川現代文学の会編1978.12)P24~25
73『北陸の文学碑』(小林良子1978.10)P80~81
74「五年九か月の『空白』清次郎の晩年」(『島清、世に敗れたり』小宮山智津子1985.9)P5
75「島清ジュニア文芸賞作品募集」(『広報みかわ』2000.7)P16
76「大正期人生派の一典型」尾崎秀樹(『出版ニュース』1974.7)P19~20
77『金沢市史 資料編15 学芸』(2001.3)P246~271
78「ある発禁の風景 島田清次郎の場合」(『知っ得 発禁・近代文学誌』山本芳明著2008.4)P76~80
79『石川近代文学全集16』近代詩(1991.10)P629~630

<金沢市立図書館蔵書>
01地上 地に潜むもの(島田清次郎著)季節社 -- 199509 --
02地上 第1部 地に潜むもの(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
03地上 第2部 地に叛くもの(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
04地上 第3部 静かなる暴風(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
05地上 第4部 燃ゆる大地(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
06我れ世に勝てり(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
07我れ世に敗れたり(嶋田清次郎著)黒色戦線社 -- 1986 --
08地上 地に潜むもの(島田清次郎著)季節社 -- 1983 --
09地上3静かなる暴風(島田清次郎著)扶桑書房 -- 1948.3 --
10地上2地に叛くもの(島田清次郎著)扶桑書房 -- 1948 --
11革命前後(島田清次郎著)改造社 -- 1922.8 --
12地上 第2部 地に叛くもの(島田清次郎著)新潮社 -- 1920 --
13地上 第1部 地に潜むもの(島田清次郎著)新潮社 -- 1919 --
14島田清次郎関係資料パネル(小林輝冶著)  1994

<石川近代文学館所蔵品>
発行年順
01楽園の外/1919年12月5日
02早春/1920年9月15日
03大望/1920年10月15日
04地上 第2部/1921年1月20日
05地上 第1部/1921年
06帝王者/1921年6月6日
07地上 第4部/1922年11月11日
08地上 第3部/1922年2月20日
09勝利を前にして/1922年4月5日
10革命前後/1922年8月13日
11地上 我れ世に勝てり/1923年3月3日
12地上 我れ世に敗れたり/1924年12月18日
13ロザの手紙/1929年6月19日
14更生記/1930年9月17日
15地上 第1部/1937年9月25日
16地上 第1部/1938年10月8日
17地上 第2部/1938年10月18日
18地上 地に潜むもの/1947年10月10日
19地上 地に潜むもの/1948年6月1日
20地上 暴風/1948年3月15日
21舟木重雄遺稿集/1954年6月28日
22地上(シナリオ)/1958年1月1日
23天才と狂人の間/1962年2月28日、1971年3月10日
24ドキュメント日本人9虚人/1962年10月5日
25地上 地に潜むもの/1973年10月10日
26石川近代文学全集4/1996年3月1日

西野さんからの寄贈原資料30点(病院で?)
 明智中佐(罫紙2枚)/高原にて(罫紙3枚)/流行者(罫紙2枚)/牛(罫紙5枚)/Mjgllr ggal(罫紙2枚)/煙(罫紙5枚)/将軍(罫紙2枚)/偉大なる中学生(罫紙2枚)/帰朝して(罫紙13枚)/金剛無台(罫紙3枚)/基督抹殺論(罫紙2枚)/不二子(罫紙1枚)/日日悲泣(罫紙1枚)/片恋(400字×10枚)/フランス社会運動慨勢(400字×2枚)/ある青年と都会の人々(6幕)(ノート5枚)/バラ原稿(400字×70枚)/超越者(400字×128枚)/地上(200×86枚)/地上(400字×17枚)/生活と運命(罫紙139枚)/大地炎上(200字×169枚)/雑筆(400字×17枚)/白刃(罫紙3枚)/緑(罫紙3枚)/変な弁護士(罫紙4枚)/釣魚(罫紙3枚)/羅曲区の少女(罫紙2枚)/第一人者(罫紙3枚)/草枕(罫紙9枚)

遺品
 ノート(表紙なし)雑記(102ページ紙片2)/カバン/カバン/通知表(1,3,5,6年)/卒業証書(野町小学校)/チラシ(松山公演)/印(5個)/ポスター(昭和32年大映『地上』)/

20190114島田清次郎―ブルジョア人道主義への後退か?

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島田清次郎—ブルジョア人道主義への後退か?

 昨年12月29日に、島田清次郎は社会主義か、国家社会主義かについてレポートした。

 島清は1920年の『二つの道』では社会主義か、国家社会主義かで揺れ動いていたが、1921年の『地上』第3部では、多少様子が変わってきたことが窺われる。その前後の情景を引用しよう。

 豊之助は
<プロレタリアットと資本家、―その差違も激しいが、白色対有色の人種戦も亦、わたし共は時代の風潮以外に立脚地を求めて考へてみなくてはならない…どうもいつたいあなたは、国家や民族の差違をあまり重大視してゐないらしいのが、理解できない。…私は階級的差別を高調すると同時に、もっと地理的環境や人種的差別を重んぜずにゐられない>、
<私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である。…したがって私は昔から社会主義者であると共に国家主義者でした>、
<私達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じやうに私達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する>
<ダーウィンの進化論以降に於て。更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、…削除(資本家に)…同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以降に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももっとひどい誤謬であり、こっけいである>
と、主張した。

 これにたいして、大河平一郎(島清)は
<貧乏と疾病と犯罪とを地上より全滅するために、…(削除)…われわれは最後迄も彼等(注:資本家)を憐れみ彼等が自ら覚醒し、内面的理解の下に、…(削除)…私共から見れば、彼等は憐憫に値する奴等ではないでせうか>
と、答えている。

 さらに、浅野の寺で「自由人大集会」が開かれ、そこでのやりとりを見ておこう。
 参加者から
<一切の言説の時代は過ぎ去ってゐるのである。自分がかうして議論してゐる間にも、機械は運転し、人々は身を粉にして働き食ふものがなくて疲れはてて死ぬものは死に、病気しても薬は与へられず、貧しい処女はいたる所で蹂躙されてゐるのである。ああ、この長い長い幾千年来の人類の苦悩を体感するとき、私は憤怒と憎悪に燃え立たずにゐられないものであります>
という主張にたいして、

 深井は
<この不合理な社会を合理的なものとするのに、その道が革命より他にないとは同じやうに信じられないものです。…革命といふやうな、力と力の対峙によっての戦ひとその勝利よりも、更には大なる外部的制約や制度の破壊よりも、私はむしろ、私共自身が新しい生活に生まれ出ることが必要であると思はれます。私はこの意味で、資本家の方々の真心、全民衆の真心、更には全人類の真心を信ずるものであります>
と答えている。

 深井の発言を聞いて、大河平一郎は
<彼(深井)の言葉を主張や思想としてよりも、彼それ自身の一つの詩(ポエム)としてうっとりとその美に魅せられてゐた>
と、同意を与えている。

 この二つのやりとりから見て、1921年時点での島清の心情は、資本家の覚醒に期待しているようで、ブルジョア的人道主義への転換を開始していたのではないだろうか。



20190118 島田清次郎の『閃光雑記』と『雑記帳』

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20190118島田清次郎の『閃光雑記』と『雑記帳』

 昨日(1/17)、石川近代文学館(石川近文)で、島清の『雑記帳』を閲覧してきた。この『雑記帳』は島田清次郎の遺品のなかにあり、遺族から石川近文に寄贈された。これらの遺品に含まれている原稿の一部は小林輝冶さんによって活字化されたので読むことができるが、約100ページの『雑記帳』は活字にされず、崩し字が多く簡単には読むことができない。

 特別閲覧する前に、石川近文の研究員から、『雑記帳』はすでに公刊されている『閃光雑記』とほぼ同じ内容との説明を受けていたが、実際に見てみると時期的には前後していることがわかった。

 1921年に公刊された『閃光雑記』の85項目目には、島清が日本社会主義同盟に加盟(1920年)したことが書かれているので、執筆時期がわかる。

 そして末尾に近い157項目目には「万人ことごとく帝王のごとく生きよ、社会主義の原理はこれだ」と書かれており、遺品『雑記帳』の4ページ目には「万人ことごとく帝王の如く生きよ これ社会主義の原理なり」と、同じフレーズが見える。

 また、『雑記帳』の後半84ページには、ワシントン会議(1921.11.12~1922.2.6)のことに触れており、これは1921年秋以降の記述である。

 したがって、『閃光雑記』は1920年までのメモであり、『雑記帳』は「閃光雑記」の続きとして、1921年末までのメモである。

 『閃光雑記』には、チェホフ、トルストイ、ドフトエフスキー、ミズテン、ゲエテ、岩野泡鳴、 クロポトキン、マルクス、ダンヌンチオ、島村抱月、アダム・スミス、マルサス、ゴドイン、永井柳太郎、レーニン、原敬、幸徳秋水、イワン・ゴンチャロフ、セルバンテス、森鴎外、坪内逍遙、幸田露伴、ロマン・ローラン、ナポレオン、堺利彦などの名前が出て来て、社会主義への関心の深さが表れている。

 『雑記帳』でも、「(76)我国には本統の意味の『思想家?』はゐない。ことごとく資本と商業の××に支配されてゐる」「(83)普通選挙を実施して、政党を全民衆の基礎の上にをき、その表現者を全民衆の体現者とせよ」「(88)賀川君ら農民組合を作るの様あり。××君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか」などと、上から目線でいただけないが、相変わらず、社会運動に関心を持ちつづけている。

 『閃光雑記』『雑記帳』を通して読めば、1920年から21年にかけての島清の関心が那辺にあるかを知ることが出来る。可能ならば、じっくりと腰を据えて、『雑記帳』の全部を活字にしたいのだが、……。とりあえず、『閃光雑記』と『雑記帳』の気になった部分の抜き書きを以下に添付する。

『閃光雑記』(1921年6月発行)―1920年ごろのメモであろう?

(004)それら(人道主義の文学、社会主義の文学)は、文学としての表現よりも実行としての、全社会への実現によってのみ、はじめて真価値を発揮すべきものである。
(008)根深い資本家の勢力だ。その悪辣は文芸界にさへもしみこんで来てゐる。
(013)福沢諭吉を思ふごとに、気の毒に思ふ。
(024)社会主義をいつまでも相対的に考へるのは困ったことではないか。宇宙古今を通ずる絶対真理と、理性をもって明白に認識せよ。私の作に社会主義的思想が見えるといふことを肯定するとしても、それは、今日、社会主義が流行してゐるからではなく、それは絶対なる真理である限りに於て現はれるまでのことである。
(027)東京市電従業員のストライキに就いて、私はその戦争のやや消極的なのを遺憾に考へた。…電車を動かぬ代りに、少し深く準備して、電車をロハで運転するのである。市民全部の交通をロハにするのだ。…局長がゐなくとも、電車は従業員の自治管理で十分動かし得ることを実現せよ。
(034)トルストイ、クロポトキン、マルクス―これら3つのものはそれぞれに現代の改革を提唱する。
(043)「神武復古」とは一時の方便、「復古」の事実はなし、すべて進化のみ。
(044)今の国家は所有者の国家、したがって、労働を利用して、その正当なる価値を認めない国家、かかる国歌は労働の奴隷状態の上に安態してゐる。もし、労働が自由になればかかる国家は滅亡するであらう。そして、新しき国家が現はれるであらう。その国家もやはり国家に相違ない。
(045)私は社会改革の事業に没頭する時は、もっと実際的に、堂々とやる。
(046)公娼廃止をとなへる人よ。その如何に廃止せねばならぬ大きな制度の存在を知ってゐるか。
(054)大杉栄はよく己は監獄で仕上げた人間だ、と言ふさふであるが、ほんたうの意味で、監獄で仕上げられた人間はむしろ彼(注:堺利彦か)だといふ気がする。監獄は恐ろしいものだ。あってはならないものだ、と今さらのやうに思ふ。
(059)アダム・スミスの思想は徹底発展すれば、社会主義にまで到達すべきものなれど、マルサスは仏国革命の思想的反動、ゴドインの反動と目する方正当と思はれる。
(062)永井柳太郎がレーニンと原敬を漢文的対句でもって並べたといって、新聞は大騒ぎだ。
(063)人間個人の意識と、社会的存在の対立をどうする。
(069)今日の売淫は、人間から、性欲だけを抽象したる現象。すなわち商品。
(077)「新しき村」(注:1918年、武者小路実篤により開村)をもって経済社会問題の解決がついてゐると云ふのはどんなものか。
(079)もし、全国民がこれを望むなら、又は、真に、さうしなくてはならぬ必然の形勢になれば、私は日本に於ける社会民主党の創立者たるの意志と用意はもってゐる。
(085)旅行中で、九月十八日(注:1920年か)附のお手紙は本夕やうやく読了。お返事がおくれた所以である。社会主義同盟加入(注:1920年)前後の小生の感想を簡単に申し述ぶれば左の如し。
 一、私は目下現前のまゝなる社会主義同盟そのものには大した期待を持つてゐない。また、持つ方が間違つてゐると思ふ。このことは正しく見ればそれで分明することである。同盟が成立したからといつて、我国に於ける社会主義そのものゝの内容、実力が別にどう変つたと云ふわけではないからだ。たゞ、麻生、赤松その他壮年有為の諸君が態度を明らかにしたこと、数年来の同主義者の一種の総勘定をやつたこと、旧来の種々の歴史をもつ人々が表面引退して、新しき気分がほのみえたことなどは今後の同主義運動のためによいことであらうと考へる。今日只今にはかにどうかなるものとは考へない。どうかなればそれに越したことはないが。
 一、私が名前を出したのは、「社会主義」と云ふ一つの大義名分へ敬意を表しての行為である。「社会主義」の名の下に幾百千の優秀なる人類がその一生の血をそゝぎつくした、その血に対する哀悼と敬意の念を表現せんがためにである。この同盟によつて、積極的にどうこうしようとは思はない。(積極的な道は、私には私一個の経綸がある。)「社会主義」と「社会主義者」とは別物である。私の加入の動機は主観的に云へば積極的であるが、客観的に見れば、極めて消極的である。今後どうなるかは分らない。
 一、これで私の立場が明らかになつたことゝ考へる。私は、社会主義を、(マルクス派よりヴルセエビイキ、ギルドソーシヤリズムまで一切の流派を抱合して――それぞれの流派はそれぞれの国家民族の差異であると考へる。)私の思想系統中に於ける一つの経綸とみてゐる。社会主義は、私にあつては、全体でなくて部分である。有機的部分である。
    右お答へまで。(注:島清の日本社会主義同盟加盟は1920年)
(101)人の顔色や小さな欲心づくしで暮らしてきた数十年と、血と涙の数年とが同じハカリにかけられてたまるものか。
(110)両氏(注:花袋、秋声)が、与へられた天分を完全に生長しきらずにたふれた明治の文芸、思想界の先人のあとに、とにかく生きながらへ、自然主義運動を有効にしたことは、秋水等の挫折にもかかはらず、堺氏が社会主義運動を徹底させようとしてゐるのに、勿論全然同じではないが、よく似てゐる。
(128)文芸は自然と人生の表現である、二三の老いた人々によって指導などされるものではない。坪内(逍遙)、森(鴎外)等の諸氏は何をし、何が出来ると考へるか、―私としては、かかる計画(注:帝国文芸院)実現されるとも、徹頭徹尾辞任されて然るべきものであることを思ふ。もし、設立されるに及んでは、私は文芸の真のために、文芸院の存在に反対することを明らかにしておく。
(144)みんなが小主観に生きてゐる。みんながどんなに苦しめられても、己は一番幸せだと考へてゐる。このことは否定出来ぬ、すなわち、日本に××(注:革命)の起きない所以である。××(注:革命)は、自己が唯一の不幸者であることの自覚を基礎とする。
(147)現今に於ける社会運動と、赤穂義士の仇討ちとはまるで異なる。前者は歴史的必然の大正義、後者は畢竟一人一家の小事のみ、やや似たるところは、陰謀的な点、
(151)マルクスの剰余利調(注:潤の誤植か)説は資本主義の一部、即ち資本家の主観的立場を明らかにするが、之によって、すべての不労所得が発生した理由を説明するに足りぬ。
(157)万人ことごとく帝王のごとく生きよ、社会主義の原理はこれだ。
(167)不良者又は狂人と罵る一部の人よ、私の生活、行為、仕事の何処に狂気めいたことや不良な点があるか、子細に見よ、少しもないではないか。ただ、それは、さう罵る人が、私を狂人と思ひたいと、希望してゐるに過ぎぬ。

島清遺品『雑記帳』抜萃(2019年1月17日特別閲覧)―100ページのノート(写真)

(004)万人ことごとく帝王の如く生きよ これ社会主義の原理なり(注:「閃光雑記」の157番と同じ)
(005)3月15日発行の「×××」
(020)音羽子……『帝王者』の原稿について(注:『帝王者』の発刊は1921年)
(024)以上『閃光雑記』として発表。(注:『閃光雑記』の発刊は1921年)
(028)狂人と偉人の境界をよろめきながら生くる己れかも
(029)私の最大の欠陥は、私に日常生活のないといふことだ! ああ!
(038)今の日本の社会主義者に第一流の人物がゐない。
(043)勝利を前にして(1)早春、(2)大望、(3)愛、ある人に無心への返し、(4)閃光雑記、(5)その後の
(049)『帝王者』(1)あらゆる……、(2)あらゆる中央地方の新聞
(052)性欲の形而上的意義
(056)改元
(064)一幕物『母と子』
(076)我国には本統の意味の「思想家?」はゐない。ことごとく資本と商業の××に支配されてゐる。
(079)裁判を云々す××付、自分はマルクス以後の独逸社会主義の花形ラプサール(注:ラサール?)の×××思ひ出しながら×××
(083)普通選挙を実施して、政党を全民衆の基礎の上にをき、その表現者を全民衆の体現者とせよ。
(084)現内閣を少くともワシントン会議終了(注:1922年2月)までは存続せしめよ。有体に申して、変わりばえはしない、又それがせめてもの新しき政党を××し、新しき国家を安泰にをきたいと考へるものである。一人を殺すことによって×局全体を動かし、××といふ妄信を印象づけてはならぬからである。
(088)賀川君ら農民組合を作るの様あり。××君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか、いろんなところへ……
(092)五幕物『帝王者』第2部

注:××、‥‥は読解できなかった文字
注:石川近代美術館としては、この『雑記帳』を活字にしていない。小林輝冶さんはどうか?
注:ワシントン会議(1921.11.12~1922.2.6)は、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議。日本は、海軍条約を英米と締結する、満州とモンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得るの2点だった。
注:原敬内閣(1918.9.29~1921.11.13)→高橋是清内閣(1921.11.13~1922.6.12)なので、1921年11月ごろのメモか?

20190128(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(1)

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(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』

2019年1月 

目次
はじめに
<1>島田清次郎の出生
<2>島清少年期の社会的背景
<3>島田清次郎の思想形成過程
 ①島清日記とは
 ②中学時代の読書
 ③青年期の読書歴
<4>島田清次郎の階級意識
 ①宗教(暁烏敏)との訣別
 ②資本主義社会観
 ③社会主義社会観
<5>島田清次郎の思想的変遷
 ①日本社会主義同盟加盟
 ②社会主義か国家社会主義か
 ③国家社会主義の動向
 ④ブルジョア人道主義への後退
<6>島田清次郎の幽閉と抹殺
<7>島清の部落解放論と女性解放論
 ①部落差別にたいする態度
 ②女性差別にたいする態度
 ③朝鮮植民地支配にたいする態度
<8>幽閉されたる島清を解放せよ
 ①島清文学碑(美川平加町)
 ②島清追慕碑(小川町)
 ③プロレタリア文学として

はじめに
 今年は、島田清次郎の『地上』が出版されてから、ちょうど100年になる。『地上』(第1~4部)は4年間で50万部が発行されたが、当時の読者たちはどのように受けとめていたのだろうか。国立国会図書館デジタルコレクションのなかに、9冊の島清作品がアップされている。アップされた島清作品の余白には、当時の一般読者の感想が書きつけられており、注視に値するのではないだろうか。

 さて、本論考での筆者の問題意識は、大正期(1910~20年代)の島田清次郎(作品)が社会学的にどのような位置にあるのかを明らかにすることにある。島清について多くの論評が発表されてきたが、杉森久英が「彼(島清)が書いた『地上』そのものには興味がない」(『風雪の碑』1968年)とあけすけに表明しているように、大方の評者は作品自体にはあまり関心がなく、島清のスキャンダルと病気に焦点があてられている。

 作品・作家の評価は第1に、作品自体が何を表現し、どのような影響を与えたのかに据えられなければならない。作家の個人的な資質は当然作品に投影されるが、それは二義的な問題である。例えば、島清の実生活では、親子関係、男女関係、友人・知人関係では破綻を来しており、作品のなかに色濃く投影されているが、資本主義批判・社会主義論については島清の思想として堅実に表現されている。

 しかし、多くの論評を概観してきたが、尾崎秀樹は「『地上』がひろく読まれたのは…主人公の社会への抵抗が支持されたからである」(「大正期人生派の一典型」1974年)、奈良正一は「後来の社会主義的な文学を感じさせ」(『美川町文化誌』)などと正当な評価もあるが、鈴木晴夫のように、島清の資本主義批判を「内容のとぼしい理想主義的な長広舌」(「裸の王様」)と、あらかじめ論評対象から排除しているものが多く、島清の資本主義批判・社会主義論は対象化されてこなかった。

 本論考では、冗長さは免れないが、『地上』をはじめとした島清作品のなかで展開されている資本主義批判・社会主義論(思想、哲学)について再確認し、さらにそれがマルクス主義なのか、国家社会主義なのか、ブルジョア人道主義なのかについても考察したいと思う。

 また、島清は被差別部落や、女性の地位、朝鮮人民についても触れており、この点についても島清の考えを整理したい。

 以上のテーマを課題にして、『若芽』(1914年)、『地上』第1部(1919年)、『地上』第2部(1920年―1917年『死を超ゆる』の一部を含む)、『二つの道』、『早春』、『大望』(1920年)、『帝王者』(1921年)、『地上第3部』(1921年)、『閃光雑記』、遺品『雑記帳』(1921年)など、1914年から1921年までに執筆・発行された、主として初期作品を対象化した。1922年以降の著作は対象化しなかった(今後の課題)。

 写真左から、当時の美川町、島清の生誕地、美川手取川河口の帆船
  

参考資料
『島田清次郎―誰にも愛されなかった男』(風野春樹著2016年)
『天才と狂人の間―島田清次郎の生涯』(杉森久英著1962年、河出書房新社)
『明治大正期の石川県における労働運動』(石川県社会運動史研究会1972年)
『昭和前期の石川県における労働運動』(石川県社会運動史研究会1975年)
『石川県社会運動史』(石川県社会運動史刊行会1989年)
『石川県の百年』(橋本哲哉、林宥一1987年)
『冬』(室生犀星1921年)
『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』(小林弘子2017年)
「島田清次郎の中学時代―その知られざる側面」(小林輝冶著)
『日本硬質陶器のあゆみ』(1965年)
『島田清次郎君のこと』(加納作次郎著1930年)
『島清と青春』(林正義)
『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』(鎌田慧著2015年)
『文学的回想』(大熊信行著1977年)
「裸の王様―島田清次郎の悲運」(鈴木晴夫『国文学解釈と鑑賞』1983年)
『知っ得 発禁・近代文学誌』(山本芳明著2008年)
『百年の誤読』(豊崎由美×岡崎宏文2004年)
『忘れられた作家、忘れられた本』(山下武1987年)
『美川町文化誌』第7章(1969年)
「美川が生んだ人間・島田清次郎」(北野銀一『広報みかわ』1983年)

20190129(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(2)

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(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(2)

2019年1月 

<1>島田清次郎の出生
 島田清次郎(戸籍は嶋田)は1899年に、石川県美川町南町で、海漕業を営む島田常吉とみつの間に生まれた。

 石川ルーツ交流館(美川南町)の資料によれば、清次郎の祖父=島田清吉、祖母=手取屋里せ(島田屋与平の娘)となっているが、北野銀一さんは、清次郎の父・常吉は祖父・清吉と祖母・里せが婚姻届けを出した1872年1月16日の49日前、1871年11月28日に生まれているから、祖父・清吉の「先妻」との間の子ではないかと推測している。しかしその「先妻」についてはまったく情報がない。

 父・常吉の出生届は1871年11月、祖父・清吉と祖母・里せの婚姻届は1872年1月で、明治維新直後の混乱期であり、戸籍登記手続きがきちんとおこなわれていたのかは疑いが残る。祖母・里せが父・常吉を生んだ後に祖父・清吉の妻として入籍したことも考えられる。

 『早春』(89頁)に、「3月28日、手取与平さんへ行く」との記述があり、島清は祖母・里せの実家=手取屋与平のひ孫として、大切に扱われていたであろう。美川町の手取屋姓といえば、筆者には小中学生時の同級生がおり、公安事件で弁護を引き受けてくれた弁護士もいる。

 筆者の祖父助次郎は1863年に四十物商・吉三郎と津ゆの養子として迎えられ、吉三郎の後を継ぎ1892年ごろ、手取川にほど近い中町に店を出した。四十物(塩乾物)に加えて、肥料や米を商うようになったが、日露戦争後の1906年に商売に失敗し、中町の店や浜納屋を手放し、南町で米穀商を続けた。

 島清の父常吉は1901年に海難事故で死亡し(31歳)、母みつは祖母とともに南町で旅館業をいとなむが、1904年祖母の死を機会に島清母子は金沢野町に転居した。助次郎商店と島清旅館は徒歩数分の距離であり、それぞれ四十物商と旅館業であり、取り引きはあっただろうと推測している。このように筆者にとっても、島清は極めて近い存在である。

<2>島清少年期の社会的背景
 島清が生まれたころの日本は1894年日清戦争(賠償金と台湾略奪)後の、強兵富国政策を推しすすめ、資本主義を強引に成熟させる過程であり、それは天皇制暴力を背骨にした弾圧と専制の政治支配の時代であった。島清が生まれる直前の1897年は凶作と恐慌が重なり、労働者農民の生活は困窮を極め、労働組合の結成・争議が相次ぎ(近代的労働運動の開始)、社会主義思想も広がった。

 政府は労働者階級のたたかいを予防するために、1900年治安警察法(労働組合死刑法)を公布しし、1901年社会民主党(片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水ら)結成にたいして、第8条2項により即日禁止処分にした。

 石川県は農業を中心とした産業構造をもつ後進地域であったが、1900年代に入って、金沢市内に日本硬質陶器、津田駒、石川製錬などが設立され、労働者層が形成され、さまざまな職種での争議・ストライキが多発していった。

 島清が野町小学校から金沢第二中学校に進学した1912年には、長町の日本硬質陶器でストライキが起きている。『地上』第2部では、<(370P)陶器会社…角のやうに2本の煙突がにゆつとつき出てゐ、烈風に流るる煤煙のうねりがまきこまれ、機械の壮大な音響が周囲を巻き込むやうに、ごおつと力を帯びて聴えてゐた>と書かれ、

 映画『地上』(1957年)では、日本硬質陶器の争議が描かれ、少年島清が会社に立てこもる友人に会うために、塀を乗り越えていく様子が描かれている。

写真:左から石川県立金沢第二中学校、日本硬質陶器所在地、日本硬質陶器
  

 古地図(1956年住宅地図、1924年航空写真など)を見ると、当時の日本硬質陶器は専売公社(現玉川図書館)の南側(現玉川公園)に本社・工場があり、職工600人が働いていたが、今は松任駅西側に移転し、社名はニッコーに変わっている。

 1914年には第1次世界大戦が始まり、『地上』第2部では、<(101P)ヨーロッパの戦争のために紙やぼろの原料品が騰貴し、金持の処へはめっぽうもなく金がおちるので物価は高くなる>と書き、戦争による市民生活の困窮を伝え、

 『地上』第1部では、中学生の島清に<(205P)ぼくは貧乏ですから政治家になります。…貧乏を退治することです。貧乏を此の世から絶滅することです。僕は多くの人間が貧乏な為に苦しんでゐることを知ってゐます>と言わしめている。

 このように、日本資本主義の激動と明暗のなかで、島清は労働運動などの刺激を受けながら成長していった。その後も、1914年(15歳)金沢郵便局電信電話工スト、友愛会金沢支部結成、1917年金沢立憲青年会結成、1918年米騒動(金沢東山の宇多須神社3000人、兼六園3000人―後述)、金沢電気電工スト、1919年友愛会尾小屋支部結成・尾小屋鉱山スト、新人会金沢支部結成、1920年金沢専売局スト、尾小屋鉱山スト、賀川豊彦講演会(800人)、1921年金沢最初のメーデー・デモ(六斗広見から野町駅へ)などが続いている。

写真:左から呉竹文庫貸し出し帖、石川県立図書館
 

<3>島田清次郎の思想形成過程
①島清の日記とは
 島清はどのような著書を読んで、資本主義批判・社会主義論を主体化していったのだろうか。杉森久英は『天才と狂人の間』(1962年)のなかで、29頁には「彼は日記帳を開いて書きつける…」、77~87頁にかけては1922年ごろの「日記」から何カ所も引用している。しかし、杉森以外は誰もこの「日記」を目にしていない。『誰にも愛されなかった男』の風野春樹も、『地上』復刻版の解説を担当した柏木隆法も「見ていない」と書いている。七尾市立図書館の杉森久英文庫にも、石川県近代文学館にも存在しないのである。一体何処へ行ってしまったのだろう。

 しかし、いろいろ読んでいくと、島清の「日記+創作メモ」として、1916~19年にかけての『早春』、1920年についての『閃光雑記』が公刊されており、1921年についの遺品『雑記帳』は石川近代文学館に遺され、この3冊で、1916年(16歳)から1921年(22歳)までの6年間の島清を知ることができる。杉森が引用する「日記」はその後の1922年ごろのものであろう。

②中学生時代の読書
 杉森久英は「島清が呉竹文庫によく通った」と書いているが、これは事実に反するのではないか。呉竹文庫とは実業家熊田源太郎が開いた美川湊町にある私設図書館である。2019年1月13日に呉竹文庫を訪問し確認したが、一般公開は1915年以降であり、島清の「利用者カード」はないということだった。また1919年2月以降、図書の貸し出しが始まったが、「貸出記入簿」にも島清の名前はない。

 呉竹文庫と橋一つ隔てた美川町には父方祖母の実家(手取屋家)があり、交通関係があったとしても、島清が金沢第二中学校に通い、暁烏敏を訪問していたころ(1914年ごろ)は、呉竹文庫はまだ一般公開されていなかった。

 1916年ごろ東京から帰り、元車町で暮らしていたころには、呉竹文庫は一般公開されていたが、極貧生活を強いられていた島清に、たびたび汽車に乗って美川町まで出かけて行くお金と時間があっただろうか。

 ちなみに、呉竹文庫の書棚には、島清の著作として『大望』と『革命前後』しか見つからなかった(2019年1月訪問)。熊田源太郎は地元出身の島清をそれほど評価していなかったようだ。また、『中外日報』がダンボール2箱あったが、1930~1937年分であり、島清の『死を超ゆる』が掲載された1917年分がなかったのは残念である。1920年以降の『東京朝日新聞』が揃っていたが、閲覧も写真撮影も不可ということで、空しく帰ってきた。

 島清は美川から金沢野町(1904~1915年)に転居し、元車町(1916年ごろ)、上胡桃町(現小将町、1919年ごろ)、高岡町(1922年)、穴水町(現長土塀町、1922年ごろ)など、金沢市内を転々としており、いずれからも徒歩圏内の兼六園には1912年に開設された石川県立図書館があり、そこで書籍を漁っていたのではないだろうか。

 風野春樹によれば、金沢二中時代の島清は夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、国木田独歩、二葉亭四迷を読んでいたという。橋場忠三郎の『自伝』によれば、金沢二中・金沢商業時代の島清は、高山樗牛、ニーチェ、ドストエフスキーの『虐げられし人々』、『罪と罰』、『カラマゾフの兄弟』、『貧しき人々』などを読んでいた(小林輝冶著『島田清次郎の中学時代―その知られざる側面』)。しかしまだ、社会科学系の書籍には接してはいないようだ。

③青年期の読書歴
 1916~19年(17~20歳)に書かれた日記・創作メモ『早春』(1920年発行)のなかにはたくさんの著者と書籍が出て来る。宗教系、哲学系、経済学系の人物や書籍が多数見られる。宗教家・宗教書ではマホメット、孔子、親鸞(『歎異抄』)、クリスト、日蓮、釈迦、易経、詩経。哲学系ではニーチェ、ドフトエフスキー、ソクラテス、トルストイ、エマーソン(思想家、哲学者)、エドワード・カーペンタア(社会主義思想家)、エレン・ケイ(社会思想家)、クロポトキン(『相互扶助論』)、カーライル(『衣服哲学』)、メレジュコフスキー(思想家)。経済学系では福田徳三(『経済学考証』)、左右田喜一郎(『経済哲学の諸問題』)など。

 1919年の『地上』第1部には、マキシム・ゴルキイ、クロポトキンの名前が出ており、1920年の『二つの道』や1921年の『地上』第3部には、マルクス『資本論』について記載されており、島清は1919年以前には確実に社会科学系の書籍に接していた。

 杉森久英は『天才と狂人の間』のなかで、1920年以降の島清の読書歴として、『唯一者とその所有』(シュティルナー)、『天と地の間』(ルードウィヒ)、『天人論』(黒岩涙香)、『近世経済思想史論』(河上肇)、『社会主義批判論』(エリスバーカー)、『国家論』(平松市蔵)、『ギルド社会主義の理論と政策』(コール)、『我が宗教』(トルストイ)、『ミンナ・フォン・ハルンヘルム』(レッシング)、『たくみと恋』(シラー)、『ヘンリ四世』(シェークスピア)、『戦争と平和』(トルストイ)、『白痴』(ドストエフスキー)、『理想国』(プラトン)などを挙げている。

 注:シュティルナー=個人主義的無政府主義者。マルクスやエンゲルスに影響を与えたヘーゲル左派に属す。大杉栄著『唯一者 マクス・スティルナー論 』(1912年)
 注:ギルド社会主義=国家や資本主義に反対し、労働組合を基盤につくられた産業の民主主義的連合によって、自治的社会主義をめざす運動。

20190130(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(3)

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(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(3) 
2019年1月                            (写真は米騒動の結集場所となった宇多須神社)
 
<4>島田清次郎の階級意識
①宗教(暁烏敏)との訣別
 1915年(16歳)ごろ、島清は明達寺(暁烏敏)に通っていた。『死を超ゆる』の掲載(1917年)を中外日報に紹介してくれたのも暁烏敏であった。しかし、1916年から19年にかけての日記・創作メモ『早春』によれば、島清は激しく宗教批判をしている。

 いくつか引用しよう。<(175P)彼の宗教は…百姓達を、その惨めな状態にそのまま安住せしむることなれば、…封建時代の政策でしかない。私はかかる宗教を否定する。百姓よ、現実に眼をひらけ、…革命せよ、反抗せよ>、<(186P)おんみらが宗教家か、…おんみらは悪魔だ、外道だ、利己主義者だ、…百姓達を永遠に「ぐう」の音も出さすまいとする奴らだ>、<(272P)真の宗教家は常に永遠の命の泉より枯渇しがちなこれらの人たちの根を養はねばならぬ。…真の宗教家は常に心理の上より…労働者が抱く純粋なる人間的欲求を地上に実現せしめるやう努むるべきである><(303P)私は今日の既成宗教の無力空虚を思うとうれしくてならない。ああ、廃るものは速やかに廃るがよい! 亡びるものは速やかに亡びるがよい! 新芽はすでに土を破ろうとしている>。

 島清が暁烏敏と訣別したのは、1917年ごろではないか。その背景には、島清の極限的な貧困があり、宗教が何の力にもならなかったこと、加えて大阪や東京の社会主義者との接触から来るのだろう。

 『早春』で島清は自らの貧困について、「(51P)米一粒ない未来」、「(70P)自分にパンを与えよ。その時は既に魂は大部分救はれてゐる」、「(73P)御馳走―鯖の焼いたもの、芋のうま煮、古たくあんの醤油煮。己にとっては珍しいごちさうである」などと書き、その出口を宗教ではなく革命に見出しつつあったのではないか。

 『石川県社会運動史』には、暁烏敏の項が設けられている。1910年代半ば、暁烏は真宗が近代的宗教になるためには、封建的倫理を捨てねばならないと呼びかける高光大船や藤原鉄乗らに合流し、ロシア革命を讃え、米騒動や労働運動を支持し、朝鮮植民地支配に異を唱えている。しかし、その後の暁烏は国家主義に転じていくのだが、転向の軌跡については述べていない。

 暁烏は1928年から41年まで毎年、朝鮮・中国にわたり布教活動をおこなっている。暁烏が1936年にソウルの南山本願寺でおこなった説教講演録(『皇道・神道・仏道・臣道』)の序には<私共は、神道を承り、皇道を承り、仏道を承って、私共自身の臣民道を教えて頂かねばならぬと思います>と、天皇・神道を仏教の上位に置き、本文では<我々は大日本の臣民であります。天皇陛下のやつこらと仰せられる臣民であります>と天皇に最敬礼し、<今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります>、<信ずる心も、念ずる心もすべて他力より起こさしめたまうなり、何から何まで神様仏様や天皇様のお与えものによって今日この生活をさしてもらっておるのであります。…私共は、「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわほとなりて苔のむすまで」と心から歌わしていただける日本臣民であります>と天皇への忠誠を要求している。(『暁烏敏全集』には収録されていない)

 島清は、暁烏の転向を予見していたのだろう。

②資本主義社会観
 まず、島清の資本主義認識について確認しておこう。

 『早春』では、1918年11月の日付を入れて、米騒動について、<(409P)「米騒動」もしくは「米暴動」と云ふ文字を用ひられた今年の夏の、生活脅威によって目覚めさせられた一般的な民衆運動も、今はその一時的な熱情がやうやく……それの内容は運動であったと信ずるからである。そしてその内容精神は…23文字削除…決して非文化的な「騒乱」や「暴動」を要求してはゐなかった>、<(410P)その一般的民衆運動が示した意外の実力と信念と可能性とは…白米、外米の廉売施米を行はしめ、ある種の思想家をして忽ちに国家社会主義の信者と早変わりせしめ、…選挙権拡張の準備をさせてゐるらしい(1918年11月)>と書いている。

 1918年富山県滑川から始まった米騒動は、石川県にも飛び火し、高浜町(8/11)、金沢市(8/12、13)、宇出津町(8/21)、穴水町、松任町(8/26)、山中町、美川町へと広がった。この時期の島清(19歳)は、生活費を稼ぐために鹿島郡役所(七尾)に勤務しており、京都(中外日報社)へ行く直前である。

 この日記には、島清特有の「王の王なる王」による「上からの変革」は消し飛び、「民衆運動が示した意外の実力」を持つ民衆自身による変革への期待感がにじみ出ている。とくに、伏せ字にされた23文字にこそ、「米騒動の精神」が表現されていたと思われるが、権力によって削除されてしまった。

 『地上』第1部(1919年2月脱稿、6月出版)では、<(264P)人類の生活上に重い負担の石を負はす資本家的勢力の専横圧迫の社会的表現であらうか。もしさうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に××(注:革命)の火は燃えるであらう>と資本主義の専横圧迫と革命の必然性を論じている。

 『地上』第2部(1920年)では、<(273P)僕等は虐められ過ぎてゐることを東京へ来て始めてはっきり自覚したのだぜ。…今度の世界大戦争だってよっく考へてみたまへ、僕等にとって何の関係があり、又何を得てゐるだらう。何の関係もない何も! 何も得ていない、何も! 唯幾人かの大金持が出来、幾百千万人の僕等の同胞が死んだ…さうだ、死を得たに過ぎないのだ!>、<今の社会は実に金でしかない。今の社会には生きた人生がないのだ。唯、金がある許りだ。黄金は全人生であり、全人生を支配してゐるのだ。…今の世界のすべてが金のある者にのみ幸福なやうに出来てしまってゐる。金のある者が自分達の都合のいいようにこしらへたのが今の世界である。…金持の楽園は貧乏人の地獄に包まれてゐる。しかもその貧乏人が全人類の大部をしめてゐるんだぜ。…今日の国家制度も、今日の社会組織も、今日の政治も、今日の教育も、今日の法律も、すべてのものは僕等大部の人間にとっては重荷でしかないのだ>と、資本・少数者による生産者・多数者の支配、戦争の本質(資本による略奪)、国家、政治、法律の階級的役割を論じている。

 国会図書館デジタルコレクションで、『地上』第2部を閲覧すると、「僕等大部の人間にとっては重荷でしかない」という部分をさして、欄外に「社会人生のひがみ」「多少過激だ」などと落書きされ、これにたいして「どこが過激だ。社会をよく見ろ」とも書かれている。当時の読者の様子が彷彿とするではないか。

 『閃光雑記』(1920年のメモ、1921年発行)では、島清は<(44項)今の国家は所有者の国家、したがって、労働を利用して、その正当なる価値を認めない国家、かかる国家は労働の奴隷状態の上に安態してゐる。もし、労働が自由になればかかる国家は滅亡するであらう。そして、新しき国家が現はれるであらう。その国家もやはり国家に相違ない>と、マルクス主義国家論及び過渡期論を展開し、<(151項)マルクスの剰余利潤説は資本主義の一部、即ち資本家の主観的立場を明らかにするが、之によって、すべての不労所得が発生した理由を説明するに足りぬ>と、『資本論』に目を通していることを明かしている。

 『閃光雑記』の翌1921年に書かれたメモ『雑記帳』(遺品)では、<(083)普通選挙を実施して、政党を全民衆の基礎の上にをき、その表現者を全民衆の体現者とせよ>、<(088)賀川君ら農民組合を作るの様あり。××(判読不明)君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか>などと、上から目線でいただけないが、具体的政治過程にコミットする意志を内在化させている。

 その上で、『地上』第3部(1921年)では、<(280P)私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である>と、資本主義下の労働者階級の奴隷性を述べている。

 『帝王者』(1921年)では、島清は<(156~159P)労働者、生産者としての当然の道、生きてゆく当然の道を開拓しない資本家であるならば、我々はさうした資本家の下にある機械はもはや社会の生産に寄与するものではなくて、実にゆるしがたい害悪の存在だから、破壊してしまふ! しかも、全工場の全機械を破壊しても、荘田、お前は明日食ふ米の心配はしなくともいいんだ! お前が目腐れ金で馘首した、そして、場合によっては全部を馘首すると云つてるその職工は、その日から、食ふ米の心配をしなくてはならぬのだ>と、資本家階級と労働者階級の非和解性を論じている。

 このように、島清は、1919年2月(『地上』第1部脱稿)以前に、すでに資本主義認識(批判)を主体化していたことがわかる。

 当時、島清が読むことができた社会主義文献としては、1904年には、『共産党宣言』(幸徳秋水訳・即日発禁)、『空想より科学へ』(堺利彦訳)が翻訳され、1906年には『共産党宣言』が全文訳し直されたが、大逆事件(1910年)以降非合法の扱いを受けた。1909年には安部磯雄による『資本論』の部分訳がある。

 1917年ロシア革命と1918年米騒動での民衆の高揚を背景にして、1919年には『共産党宣言』の第3章だけだが『改造』に掲載され、高畠素之による『資本論解説』(カウツキー)や『経済学批判』が翻訳され、松浦要による『資本論』の部分訳が発行されている。島清はこれらの文献に目を通していたのであろうが、非合法扱いされている『共産党宣言』も生田長江や堺利彦のルートで入手して、読んでいたと考えるのが妥当だろう。

 その後も、1922年に『賃労働と資本』、1924年に『ゴータ綱領批判』、1925年に『フォイエルバッハ論』、『ユダヤ人問題を論ず』、『労賃価格・利潤』、1926年に『哲学の貧困』、『マルクス著作集』などが続々と翻訳公刊されている。

③社会主義社会観
 では、島清がめざす社会主義社会とは、どのようなイメージだったのか。以下の作品(抜萃)を見ると、島清は資本主義下の労働(人間)疎外論を基本にして、疎外(労働)からの解放を社会主義社会に期待している。

 『早春』では<(12P)真の社会主義は平等観の基を「みな真をのぞみて」におく、階級、貧富そんなものをかなぐりすてて、人間の心と心がぴったり合ふ時、…みな平等であって、そしてみな英雄である社会>、<(367P)政治は進歩したる生物の間に必然的に形成せられたる現象…。人類がもっと進歩して、政治と云ふことが無意義になる時期が無いとは云へない>と、不平等、階級、貧富の差を解消し、ついには、政治そのものが死滅する社会を描いている。「英雄」という言葉が使われているが、すべての人々が「心と心がぴったり合う」社会の人民を「英雄」的存在としている。

 別の個所では、島清は<(33P)ニーチェは…えらばれるひととえらばれざる多数の人との区別をたてました。…が、私はすべての人間がえらばれる人であらねばならないと信じます>と、ニーチェを批判し、つづけて<すべての人が超人です。すべての人が超人です。真人です>と、差別を廃した真の自立した人間の社会をめざそうとしていた。

 島清は「王の王なる王」、「帝王者」などという言葉を好んで使っているが、それはここでいう「英雄」、「超人」、「真人」と同義であり、階級社会を廃絶した後の人民の主体的姿を表している。

 『地上』第3部(1921年)では、島清は<(61P)労働がそれ自身愉快な感情を生み出すやうになれば、それはもはや労働でなく、少なくとも今日の「使はれる労働」ではないでせう。今日の労働が苦しい勤めである限り、人は労働ののちに何らかの酬いを予期しないでは働くことは出来ますまい>と、資本主義下の労働を苦役労働(疎外労働)と認識し、労働疎外からの解放を社会主義に求めている。

 さらに、島清は<(255P)自分等は自分等の栄養と入用のためのみに労働するであらう。与えられたる一生を全うすることに必要なる労働は、人類全体に平等であり、平等である故に、それはよき享楽となる。…自分達はひとしく人間でありひとしく生きる使命感を与へられたるものである。自分達の間に貴族と平民、資本家と労働者など云ふ階級は一分時にして無くなるであらう。…自分の生きることの自由と絶対を認めることはまた自分以外のすべてのものの生きることの自由と絶対を認めることである。小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほこらう。真の平等、そして真の独立。…自分等をして一切の枯木をよしとする階級より脱却せしめよ。自分達をして真に自由に、吾等の国法をして、自然の法たる「自らの声」と合一せしめよ。吾等の潜めもつ一切の力に自由な解放を与へよ>と、生産労働からの収奪を批判し、「階級対立の解消」、「生きることの自由」、「真の平等」、「真の独立」と、来たるべき社会を生き生きと描き、資本主義が差別と強制と収奪の社会であり、解放のためには社会革命が必要であり、労働者階級には自己を解放する能力があるという確信を持っていた。

 『閃光雑記』(1920年)や『雑記帳』(1921年)では、<(157項及び4P)万人ことごとく帝王のごとく生きよ、社会主義の原理はこれだ>と呼びかけているように、島清にとっての「帝王」とは一個の独裁者を意味するのではなく、すべての人民が社会の主人公(帝王)となるべきことをイメージしている。そして、まずは自らが社会の主人公(帝王)にならんとする主体的決意を孕んでいるのではないか。『早春』のなかの「英雄」と同じである。

 エンゲルスの『空想から科学へ』(1904年、堺利彦訳)のなかにある、「必然の王国から自由の王国へ」というフレーズを彷彿とさせるではないか。エンゲルスは<社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、したがって生産者にたいする生産物の支配も除去される。…今日まで人間を支配し人間をとりまいている生活条件の外囲は、今や人間の支配と統制の下に服し、人間はここに始めて自然にたいする真の意識的な主人となる。これによって人間は自分自身の社会組織の主人となるからである。…従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなって始めて、人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる。…それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である>(国民文庫版)と、社会主義革命の必然性を説いている。
(つづく)
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