(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(4)
2019年1月
<5>島田清次郎の思想的変質
①日本社会主義同盟加盟
島清は宗教批判を経て、1920年8月に、堺利彦、山川均、大杉栄ら社会主義者、赤松克麿(新人会)、和田巌(建設者同盟)、麻生久(大日本労働総同盟友愛会)、布留川桂(正進会)など労働組合代表、大庭柯公(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、小川未明など幅広い団体と個人30人によって呼びかけられた日本社会主義同盟に加盟している。3000人もが加盟したが、翌年5月には解散させられた。
島清は『閃光雑記』(1921年)で、日本社会主義同盟に加盟する意志を、<(85項)私は目下現前のまゝなる社会主義同盟そのものには大した期待を持つてゐない。…麻生、赤松その他壮年有為の諸君が態度を明らかにしたこと、数年来の同主義者の一種の総勘定をやつたこと、旧来の種々の歴史をもつ人々が表面引退して、新しき気分がほのみえたことなどは今後の同主義運動のためによいことであらうと考へる。…私が名前を出したのは、「社会主義」と云ふ一つの大義名分へ敬意を表しての行為である>と、醒めたまなざしで見ており、そこには労働者階級と心底一体化できない自己があると思われる。
②社会主義か国家社会主義か
島清は、1920年に日本社会主義同盟に加盟したが、その年に公刊した『二つの道』(1920年)では、社会主義か、国家社会主義かを問うている。先ず、自称「隠れたる革命党員」丘真太郎の主張を見ていこう。
<(僕は)純正社会主義の実現を基礎づけ、あらゆる反対を根本的に破砕する(注:ための研究をしている)>、<僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家(注:資本主義国家?)との戦であると思ふ>、<現世界大戦によつて諸(もろもろ)の国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨張と生存を主張して次の大戦を呼び起す>、<僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない>、<僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから>、<僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアットであると共に日本主義者である>、<今日の国際連盟は世界的大強盗の相談だよ>、<君の云ふやうな「地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和」といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか>、<二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ>、<マルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、彼奴等支配階級に対して同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以後に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりもつとひどい誤謬でありこつけいである>、<君(北輝雄=島清)は国家や民族の差異を重大視してゐない>
次に、対する北輝雄の主張を見ておこう。
<階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血…そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない>、<己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心して>、<人生の経済的基礎の改革はもちろん必要で重大で必然な人類の運命>、<経済的改革はたゞ、最も重要な、そして最初になされねばならない手段である>、<貧乏と疾病と犯罪とが何より先に地上から全滅されなくてはならない>、<彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくないニセ文明>、<丘君、僕は実にこの何とも云ひやうのない慟哭と身もだえの境地から苦しみに鍛錬されながら一歩を超越してゐるのだ>
両者の論争では、国家社会主義(=丘)と社会主義(=北)の違いを明らかにしている。丘真太郎は「もつと地理的環境や人種的差別を重んぜ」、「支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要」、「僕は社会主義者であると共に国家主義者である、…日本主義者である」、「地上を通じての階級戦は…国家民族の消滅」、「国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、…今日の第一の必要」と畳みかけるように主張しており、階級闘争よりも「国(民族)を守る」ことを重視する日本主義、民族主義そして侵略主義以外の何ものでもない。
他方、北輝雄(島清)は「階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血」「彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくない」と語り、自国資本との和解・防衛を探る「日本主義」「国家主義」のかけらもなく、資本家階級と労働者階級の流血のたたかいから革命を予見している。
丘真太郎から、「君は国家や民族の差異を重大視してゐない」と、民族和解の立場に立ち、階級間闘争を放棄せよと詰問されても、動揺的であるが、丘真太郎の主張に頷いているわけではなく、国家社会主義にたいする疑心・警戒心があらわれている。
『早春』では、<(298P)私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、明快に民族主義・民族和解を批判しており、国家社会主義には近寄りがたい感性を持っている。
『帝王者』(1921年)のなかで、丘真太郎は<(85~89P)民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働連動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう。婦人運動などと云ふけれど、虚栄心の強い又は器量の悪い二三の女共の空騒ぎ丈けのことですからね>と語り、社会変革の確信を喪失し、その原因を他人に求め、人民蔑視に陥っている。
1920年ごろの島清(北輝雄や清瀬)は丘真太郎(国家社会主義)とは明らかに違う思想的立場にあったのである。
③国家社会主義の動向
ここで、当時の社会主義と国家社会主義について概観しておこう。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)後には、日本の資本主義化が進み、労働者階級が形成され、貧富の差が拡大し、労働争議が多発し、社会主義思想が広がっていった。
幸徳秋水や安部磯雄(1909年『資本論』部分翻訳)らは、日露戦争前後から社会主義へと傾斜している。幸徳秋水は1901年に結成された社会民主党に創立者として参画し、1903年秋水と堺は非戦論を訴え続けるために平民社を興し、週刊『平民新聞』を創刊した。1904年には秋水と堺利彦は『共産党宣言』を翻訳発表したが、即日発禁になった。1920年には日本社会主義同盟が結成され、島清も加盟している。
1919年6月に脱稿した『二つの道』のなかで、島清は『資本論』について触れており、安部磯雄の『資本論』(1909年翻訳)を知っていたか、それとも1919年2月には『資本論』の訳者・生田長江と接しており、『資本論』の概要を知らされていたとも考えられる。
ところで、北一輝は1906年『国体論及び純正社会主義』を刊行し(発禁)、天皇機関説に基づき天皇の神格化を否定し、山路愛山(1905年「国家社会党」創立)の国家社会主義などを批判した。北一輝は1910年の大逆事件で逮捕されたが、その後、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義と訣別し、国家社会主義(国家を前提とした社会主義)の方向へたどり、1917年大川周明らと合流し、1918年1月猶存社に入った。1936年「2・26事件」に係わり、1937年に処刑された。
『誰にも愛されなかった男』(2016年)では、風野春樹は北輝雄=北一輝=島清として、「(島清は)社会主義よりも、むしろファシズムに近い」(104P)と断じ、大熊信行は『文学的回想』(1977年)のなかで、1919年ごろの島清について、「かれは社会主義に関心を持っていたが、むしろ北一輝にいっそう魅せられていたようだ」と回想している。
しかし、『二つの道』の論争に見られるように、この時期の島清は社会主義と国家社会主義との間で、内部葛藤し、揺れ動いていたのではないだろうか。
④ブルジョア人道主義への後退
島清は1920年の『二つの道』では社会主義か、国家社会主義かで揺れ動いていたが、1921年の『地上』第3部では、多少様子が変わってきたことが窺われる。その前後の情景を引用しよう。
豊之助は<(279P)プロレタリアットと資本家、―その差違も激しいが、白色対有色の人種戦も亦、わたし共は時代の風潮以外に立脚地を求めて考へてみなくてはならない…どうもいつたいあなたは、国家や民族の差違をあまり重大視してゐないらしいのが、理解できない。…私は階級的差別を高調すると同時に、もっと地理的環境や人種的差別を重んぜずにゐられない>、<(280P)私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である。…したがって私は昔から社会主義者であると共に国家主義者でした>、<(282P)私達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じやうに私達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する><ダーウィンの進化論以降に於て。更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、…削除(資本家に)…同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以降に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももっとひどい誤謬であり、こっけいである>と、主張した。
これにたいして、大河平一郎(島清)は<(290P)貧乏と疾病と犯罪とを地上より全滅するために、…(削除)…われわれは最後迄も彼等(注:資本家)を憐れみ彼等が自ら覚醒し、内面的理解の下に、…(削除)…私共から見れば、彼等は憐憫に値する奴等ではないでせうか>と、答えている。
次に、浅野の寺(注:暁烏敏の明達寺)で「自由人大集会」が開かれたと設定され、そこでのやりとりを見ておこう。
参加者から<(336P)一切の言説の時代は過ぎ去ってゐるのである。自分がかうして議論してゐる間にも、機械は運転し、人々は身を粉にして働き食ふものがなくて疲れはてて死ぬものは死に、病気しても薬は与へられず、貧しい処女はいたる所で蹂躙されてゐるのである。ああ、この長い長い幾千年来の人類の苦悩を体感するとき、私は憤怒と憎悪に燃え立たずにゐられないものであります>という激しい資本主義批判にたいして、
深井は<(337P)この不合理な社会を合理的なものとするのに、その道が革命より他にないとは同じやうに信じられないものです。…革命といふやうな、力と力の対峙によっての戦ひとその勝利よりも、更には大なる外部的制約や制度の破壊よりも、私はむしろ、私共自身が新しい生活に生まれ出ることが必要であると思はれます。私はこの意味で、資本家の方々の真心、全民衆の真心、更には全人類の真心を信ずるものであります>と、答えている。
深井の発言を聞いて、大河平一郎は<(338P)彼(深井)の言葉を主張や思想としてよりも、彼それ自身の一つの詩(ポエム)としてうっとりとその美に魅せられてゐた>と、心からの同意を与えている。
この二つのやりとりから見て、1921年時点での島清の心情は、資本家の覚醒に期待しているようで、ブルジョア的人道主義への転換を開始していたのではないだろうか。
ところで、国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている『大望』(1920年)には至るところに読者の感想が書き込まれている。内表紙には「島清よ、君は最後まで大河平一郎の心を持ちつづけられなかった」と書き込まれ、島清の変節を感じ取り、次のページには、同じ人の筆跡で「しかし、島清よ、君が僕に感激と自覚をあたへてくれたことを深く感謝する」と賛辞を述べている。
<6>島田清次郎の幽閉と抹殺
1919年『地上』第1部発行に、堺利彦は<私が此書に感心したのは、文章の新しい大胆な技巧と、鋭いそして行届いた心理描写、若しくは心理解剖とではない。…私は特に著者が社会学の観察と批判に於て頗る徹底してゐる点に深く感心したのである。…謂ゆる社会的文芸の代表作家がもうどうしても現はれねばならぬ時だと私は思ってゐるが、此書の著者嶋田清次郎氏は即ち実に其人ではないだらうか>と紹介した。映画『マルクスとエンゲルス』(2018年)でも、「木材窃盗取締法にかんする議論」について描かれていたが、社会主義世界観の第一歩は現実直視から始まり、島清は充分にその役割を果たしていた。したがって、豊崎由美は「プロレタリア文学を予告する作品」と位置づけているのである。
生田長江は<げに、『地上』に見えたる萌芽より云へば、そこにはバルザック、フロオベエルの描写が、生活否定があり、ドストエフスキイ、トルストイの主張が、生活肯定があり、そのほかのなにがありかにがあり、殆どないものがないのである。…げに、本当のロマンティシズムと本当のリアリズムとが、決して別々なものでないと、…>と紹介し、徳富蘇峰も<もし日本に大河(注:『地上』の主人公)のごとき頼もしき青年が10人あったならば、国家の前途は憂うるに足るまい>と評した。
こうして、『地上』は爆発的に売れ、『地上』第1部発売から1922年までの4年間で、全4巻の売り上げは50万部に達した。大衆(とくに青年)に迎え入れられた『地上』は、資本主義批判から革命の希望を訴えており、政府にとっては頭の痛い問題となった。社会科学文献は一部の先進的労働者やインテリゲンチャにしか影響力はないが、大衆小説となれば、人民大衆のなかに深く入り込む力を持っている。そのなかで、資本主義批判と革命の問題が正面から語られているのである。
NHK土曜ドラマ『涙たたえて微笑せよ』(1995年)のなかで、取り調べの刑事が「革命という言葉が100回も出て来る」と言って、島清を責めるシーンがあったが、まさに島清作品は要警戒だったのである。
『知っ得 発禁・近代文学誌』(山本芳明著)所収の「ある発禁の風景―島田清次郎の場合」に、『地上』第2部(1920年)の12カ所の削除について書かれている。当時の警視庁にとっては、最大の検閲・削除・発禁問題は森戸辰男論文の「クロポトキンの社会思想の研究」だった。森戸と大内兵衛は新聞法違反で起訴され、敗訴し、森戸は東京帝大から追放された。
翌1921年には、河上肇、堺利彦、神近市子などにも筆禍が襲い、「学者の恐怖時代」と言われた。山本芳明は、「警視庁にとって、『地上』は春本・淫本の類い」と書いているが、島清の資本主義批判・社会主義論は森戸や河上に比すべくもないとしても、その発行部数の多さ、労働者階級への浸透の深さを考えると、森戸や河上とは別の角度の影響力を斟酌せずにはおかなかっただろう。
個人的資質から来る文壇や出版社との関係悪化に加え、舟木事件というスキャンダルにまみれた島清は、その作品(思想)のために、ついに関東大震災の翌年1924年7月30日未明、警戒中の警察官に巣鴨署に連行され、そのまま精神病院「保養院」に強制入院させられた。そしてそのまま6年近く幽閉され、1930年4月29日、31歳で亡くなった。
日帝は1923年関東大震災直後から社会防衛のために6000人余の朝鮮人を虐殺し、社会主義者の一掃・抹殺の挙(甘粕事件、亀戸事件)に出ていた。島清が「保養院」に強制入院させられたのは、まだ関東大震災から1年もたっておらず、社会主義者らへの警戒がつづいていたころのことであった。巣鴨警察署は島清の「犯罪」を立件できず(当然!)、釈放すべきところを強制入院によって拘束したのである。日帝は治安維持のために、島清を6年近くも幽閉し、作家生命を絶ちきり、ついには死に至らしめたのである。
戦前の日帝下では、「反社会的人物」の抹殺がくり返しおこなわれてきた。1910年の大逆事件(幸徳事件)がある。明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水ら26人が逮捕、起訴され、翌年1月18日に死刑24人、有期刑2人の判決が言い渡され、1月24日に幸徳秋水ら11人、翌25日に管野須賀子の死刑が執行された。
この大逆事件は明治政府が主導したフレームアップ事件だった。1928年9月、小山松吉検事総長が思想係検事会で講演した「秘密速記録」には、「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」、「不逞の共産主義者を尽(ことごと)く検挙しようと云ふことに決定した」、「邪推と云へば邪推の認定…有史以来の大事件であるから、法律を超越して処分しなければならぬ、司法官たる者は此の際区々たる訴訟手続などに拘泥すべきでないと云ふ意見が政府部内にあった」と書かれている。(参考:鎌田慧著『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』)
そして1923年関東大震災直後に大杉栄、伊藤野枝が殺害され(甘粕事件)、河合義虎ら9人が殺害された(亀戸事件)。朴烈・金子ふみ子を検束し、大逆罪をでっち上げて死刑判決(無期懲役に減刑)。1924年島清の強制入院―1930年病死、1933年小林多喜二獄中死、1938年鶴彬獄中死へと、資本主義批判の矛を収めない活動家や作家たちは次々と拘束・殺されていったのである。
「プロレタリア文学流行を予告する作品」(豊崎由美『百年の誤読』)、「後来の社会主義的な文学を感じさせ(る作品)」(奈良正一『美川町文化誌』第7章)と、評価される『地上』の作家・島清の息の根を止めるために、舟木事件をスキャンダラスに宣伝し、島清を強制入院させ、長期幽閉し、「殺してしまえ」という日本帝国主義の階級意思を否定することができるだろうか。
2019年1月
<5>島田清次郎の思想的変質
①日本社会主義同盟加盟
島清は宗教批判を経て、1920年8月に、堺利彦、山川均、大杉栄ら社会主義者、赤松克麿(新人会)、和田巌(建設者同盟)、麻生久(大日本労働総同盟友愛会)、布留川桂(正進会)など労働組合代表、大庭柯公(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、小川未明など幅広い団体と個人30人によって呼びかけられた日本社会主義同盟に加盟している。3000人もが加盟したが、翌年5月には解散させられた。
島清は『閃光雑記』(1921年)で、日本社会主義同盟に加盟する意志を、<(85項)私は目下現前のまゝなる社会主義同盟そのものには大した期待を持つてゐない。…麻生、赤松その他壮年有為の諸君が態度を明らかにしたこと、数年来の同主義者の一種の総勘定をやつたこと、旧来の種々の歴史をもつ人々が表面引退して、新しき気分がほのみえたことなどは今後の同主義運動のためによいことであらうと考へる。…私が名前を出したのは、「社会主義」と云ふ一つの大義名分へ敬意を表しての行為である>と、醒めたまなざしで見ており、そこには労働者階級と心底一体化できない自己があると思われる。
②社会主義か国家社会主義か
島清は、1920年に日本社会主義同盟に加盟したが、その年に公刊した『二つの道』(1920年)では、社会主義か、国家社会主義かを問うている。先ず、自称「隠れたる革命党員」丘真太郎の主張を見ていこう。
<(僕は)純正社会主義の実現を基礎づけ、あらゆる反対を根本的に破砕する(注:ための研究をしている)>、<僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家(注:資本主義国家?)との戦であると思ふ>、<現世界大戦によつて諸(もろもろ)の国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨張と生存を主張して次の大戦を呼び起す>、<僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない>、<僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから>、<僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアットであると共に日本主義者である>、<今日の国際連盟は世界的大強盗の相談だよ>、<君の云ふやうな「地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和」といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか>、<二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ>、<マルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、彼奴等支配階級に対して同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以後に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりもつとひどい誤謬でありこつけいである>、<君(北輝雄=島清)は国家や民族の差異を重大視してゐない>
次に、対する北輝雄の主張を見ておこう。
<階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血…そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない>、<己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心して>、<人生の経済的基礎の改革はもちろん必要で重大で必然な人類の運命>、<経済的改革はたゞ、最も重要な、そして最初になされねばならない手段である>、<貧乏と疾病と犯罪とが何より先に地上から全滅されなくてはならない>、<彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくないニセ文明>、<丘君、僕は実にこの何とも云ひやうのない慟哭と身もだえの境地から苦しみに鍛錬されながら一歩を超越してゐるのだ>
両者の論争では、国家社会主義(=丘)と社会主義(=北)の違いを明らかにしている。丘真太郎は「もつと地理的環境や人種的差別を重んぜ」、「支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要」、「僕は社会主義者であると共に国家主義者である、…日本主義者である」、「地上を通じての階級戦は…国家民族の消滅」、「国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、…今日の第一の必要」と畳みかけるように主張しており、階級闘争よりも「国(民族)を守る」ことを重視する日本主義、民族主義そして侵略主義以外の何ものでもない。
他方、北輝雄(島清)は「階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血」「彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくない」と語り、自国資本との和解・防衛を探る「日本主義」「国家主義」のかけらもなく、資本家階級と労働者階級の流血のたたかいから革命を予見している。
丘真太郎から、「君は国家や民族の差異を重大視してゐない」と、民族和解の立場に立ち、階級間闘争を放棄せよと詰問されても、動揺的であるが、丘真太郎の主張に頷いているわけではなく、国家社会主義にたいする疑心・警戒心があらわれている。
『早春』では、<(298P)私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、明快に民族主義・民族和解を批判しており、国家社会主義には近寄りがたい感性を持っている。
『帝王者』(1921年)のなかで、丘真太郎は<(85~89P)民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働連動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう。婦人運動などと云ふけれど、虚栄心の強い又は器量の悪い二三の女共の空騒ぎ丈けのことですからね>と語り、社会変革の確信を喪失し、その原因を他人に求め、人民蔑視に陥っている。
1920年ごろの島清(北輝雄や清瀬)は丘真太郎(国家社会主義)とは明らかに違う思想的立場にあったのである。
③国家社会主義の動向
ここで、当時の社会主義と国家社会主義について概観しておこう。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)後には、日本の資本主義化が進み、労働者階級が形成され、貧富の差が拡大し、労働争議が多発し、社会主義思想が広がっていった。
幸徳秋水や安部磯雄(1909年『資本論』部分翻訳)らは、日露戦争前後から社会主義へと傾斜している。幸徳秋水は1901年に結成された社会民主党に創立者として参画し、1903年秋水と堺は非戦論を訴え続けるために平民社を興し、週刊『平民新聞』を創刊した。1904年には秋水と堺利彦は『共産党宣言』を翻訳発表したが、即日発禁になった。1920年には日本社会主義同盟が結成され、島清も加盟している。
1919年6月に脱稿した『二つの道』のなかで、島清は『資本論』について触れており、安部磯雄の『資本論』(1909年翻訳)を知っていたか、それとも1919年2月には『資本論』の訳者・生田長江と接しており、『資本論』の概要を知らされていたとも考えられる。
ところで、北一輝は1906年『国体論及び純正社会主義』を刊行し(発禁)、天皇機関説に基づき天皇の神格化を否定し、山路愛山(1905年「国家社会党」創立)の国家社会主義などを批判した。北一輝は1910年の大逆事件で逮捕されたが、その後、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義と訣別し、国家社会主義(国家を前提とした社会主義)の方向へたどり、1917年大川周明らと合流し、1918年1月猶存社に入った。1936年「2・26事件」に係わり、1937年に処刑された。
『誰にも愛されなかった男』(2016年)では、風野春樹は北輝雄=北一輝=島清として、「(島清は)社会主義よりも、むしろファシズムに近い」(104P)と断じ、大熊信行は『文学的回想』(1977年)のなかで、1919年ごろの島清について、「かれは社会主義に関心を持っていたが、むしろ北一輝にいっそう魅せられていたようだ」と回想している。
しかし、『二つの道』の論争に見られるように、この時期の島清は社会主義と国家社会主義との間で、内部葛藤し、揺れ動いていたのではないだろうか。
④ブルジョア人道主義への後退
島清は1920年の『二つの道』では社会主義か、国家社会主義かで揺れ動いていたが、1921年の『地上』第3部では、多少様子が変わってきたことが窺われる。その前後の情景を引用しよう。
豊之助は<(279P)プロレタリアットと資本家、―その差違も激しいが、白色対有色の人種戦も亦、わたし共は時代の風潮以外に立脚地を求めて考へてみなくてはならない…どうもいつたいあなたは、国家や民族の差違をあまり重大視してゐないらしいのが、理解できない。…私は階級的差別を高調すると同時に、もっと地理的環境や人種的差別を重んぜずにゐられない>、<(280P)私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である。…したがって私は昔から社会主義者であると共に国家主義者でした>、<(282P)私達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じやうに私達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する><ダーウィンの進化論以降に於て。更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、…削除(資本家に)…同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以降に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももっとひどい誤謬であり、こっけいである>と、主張した。
これにたいして、大河平一郎(島清)は<(290P)貧乏と疾病と犯罪とを地上より全滅するために、…(削除)…われわれは最後迄も彼等(注:資本家)を憐れみ彼等が自ら覚醒し、内面的理解の下に、…(削除)…私共から見れば、彼等は憐憫に値する奴等ではないでせうか>と、答えている。
次に、浅野の寺(注:暁烏敏の明達寺)で「自由人大集会」が開かれたと設定され、そこでのやりとりを見ておこう。
参加者から<(336P)一切の言説の時代は過ぎ去ってゐるのである。自分がかうして議論してゐる間にも、機械は運転し、人々は身を粉にして働き食ふものがなくて疲れはてて死ぬものは死に、病気しても薬は与へられず、貧しい処女はいたる所で蹂躙されてゐるのである。ああ、この長い長い幾千年来の人類の苦悩を体感するとき、私は憤怒と憎悪に燃え立たずにゐられないものであります>という激しい資本主義批判にたいして、
深井は<(337P)この不合理な社会を合理的なものとするのに、その道が革命より他にないとは同じやうに信じられないものです。…革命といふやうな、力と力の対峙によっての戦ひとその勝利よりも、更には大なる外部的制約や制度の破壊よりも、私はむしろ、私共自身が新しい生活に生まれ出ることが必要であると思はれます。私はこの意味で、資本家の方々の真心、全民衆の真心、更には全人類の真心を信ずるものであります>と、答えている。
深井の発言を聞いて、大河平一郎は<(338P)彼(深井)の言葉を主張や思想としてよりも、彼それ自身の一つの詩(ポエム)としてうっとりとその美に魅せられてゐた>と、心からの同意を与えている。
この二つのやりとりから見て、1921年時点での島清の心情は、資本家の覚醒に期待しているようで、ブルジョア的人道主義への転換を開始していたのではないだろうか。
ところで、国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている『大望』(1920年)には至るところに読者の感想が書き込まれている。内表紙には「島清よ、君は最後まで大河平一郎の心を持ちつづけられなかった」と書き込まれ、島清の変節を感じ取り、次のページには、同じ人の筆跡で「しかし、島清よ、君が僕に感激と自覚をあたへてくれたことを深く感謝する」と賛辞を述べている。




<6>島田清次郎の幽閉と抹殺
1919年『地上』第1部発行に、堺利彦は<私が此書に感心したのは、文章の新しい大胆な技巧と、鋭いそして行届いた心理描写、若しくは心理解剖とではない。…私は特に著者が社会学の観察と批判に於て頗る徹底してゐる点に深く感心したのである。…謂ゆる社会的文芸の代表作家がもうどうしても現はれねばならぬ時だと私は思ってゐるが、此書の著者嶋田清次郎氏は即ち実に其人ではないだらうか>と紹介した。映画『マルクスとエンゲルス』(2018年)でも、「木材窃盗取締法にかんする議論」について描かれていたが、社会主義世界観の第一歩は現実直視から始まり、島清は充分にその役割を果たしていた。したがって、豊崎由美は「プロレタリア文学を予告する作品」と位置づけているのである。
生田長江は<げに、『地上』に見えたる萌芽より云へば、そこにはバルザック、フロオベエルの描写が、生活否定があり、ドストエフスキイ、トルストイの主張が、生活肯定があり、そのほかのなにがありかにがあり、殆どないものがないのである。…げに、本当のロマンティシズムと本当のリアリズムとが、決して別々なものでないと、…>と紹介し、徳富蘇峰も<もし日本に大河(注:『地上』の主人公)のごとき頼もしき青年が10人あったならば、国家の前途は憂うるに足るまい>と評した。
こうして、『地上』は爆発的に売れ、『地上』第1部発売から1922年までの4年間で、全4巻の売り上げは50万部に達した。大衆(とくに青年)に迎え入れられた『地上』は、資本主義批判から革命の希望を訴えており、政府にとっては頭の痛い問題となった。社会科学文献は一部の先進的労働者やインテリゲンチャにしか影響力はないが、大衆小説となれば、人民大衆のなかに深く入り込む力を持っている。そのなかで、資本主義批判と革命の問題が正面から語られているのである。
NHK土曜ドラマ『涙たたえて微笑せよ』(1995年)のなかで、取り調べの刑事が「革命という言葉が100回も出て来る」と言って、島清を責めるシーンがあったが、まさに島清作品は要警戒だったのである。
『知っ得 発禁・近代文学誌』(山本芳明著)所収の「ある発禁の風景―島田清次郎の場合」に、『地上』第2部(1920年)の12カ所の削除について書かれている。当時の警視庁にとっては、最大の検閲・削除・発禁問題は森戸辰男論文の「クロポトキンの社会思想の研究」だった。森戸と大内兵衛は新聞法違反で起訴され、敗訴し、森戸は東京帝大から追放された。
翌1921年には、河上肇、堺利彦、神近市子などにも筆禍が襲い、「学者の恐怖時代」と言われた。山本芳明は、「警視庁にとって、『地上』は春本・淫本の類い」と書いているが、島清の資本主義批判・社会主義論は森戸や河上に比すべくもないとしても、その発行部数の多さ、労働者階級への浸透の深さを考えると、森戸や河上とは別の角度の影響力を斟酌せずにはおかなかっただろう。
個人的資質から来る文壇や出版社との関係悪化に加え、舟木事件というスキャンダルにまみれた島清は、その作品(思想)のために、ついに関東大震災の翌年1924年7月30日未明、警戒中の警察官に巣鴨署に連行され、そのまま精神病院「保養院」に強制入院させられた。そしてそのまま6年近く幽閉され、1930年4月29日、31歳で亡くなった。
日帝は1923年関東大震災直後から社会防衛のために6000人余の朝鮮人を虐殺し、社会主義者の一掃・抹殺の挙(甘粕事件、亀戸事件)に出ていた。島清が「保養院」に強制入院させられたのは、まだ関東大震災から1年もたっておらず、社会主義者らへの警戒がつづいていたころのことであった。巣鴨警察署は島清の「犯罪」を立件できず(当然!)、釈放すべきところを強制入院によって拘束したのである。日帝は治安維持のために、島清を6年近くも幽閉し、作家生命を絶ちきり、ついには死に至らしめたのである。
戦前の日帝下では、「反社会的人物」の抹殺がくり返しおこなわれてきた。1910年の大逆事件(幸徳事件)がある。明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水ら26人が逮捕、起訴され、翌年1月18日に死刑24人、有期刑2人の判決が言い渡され、1月24日に幸徳秋水ら11人、翌25日に管野須賀子の死刑が執行された。
この大逆事件は明治政府が主導したフレームアップ事件だった。1928年9月、小山松吉検事総長が思想係検事会で講演した「秘密速記録」には、「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」、「不逞の共産主義者を尽(ことごと)く検挙しようと云ふことに決定した」、「邪推と云へば邪推の認定…有史以来の大事件であるから、法律を超越して処分しなければならぬ、司法官たる者は此の際区々たる訴訟手続などに拘泥すべきでないと云ふ意見が政府部内にあった」と書かれている。(参考:鎌田慧著『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』)
そして1923年関東大震災直後に大杉栄、伊藤野枝が殺害され(甘粕事件)、河合義虎ら9人が殺害された(亀戸事件)。朴烈・金子ふみ子を検束し、大逆罪をでっち上げて死刑判決(無期懲役に減刑)。1924年島清の強制入院―1930年病死、1933年小林多喜二獄中死、1938年鶴彬獄中死へと、資本主義批判の矛を収めない活動家や作家たちは次々と拘束・殺されていったのである。
「プロレタリア文学流行を予告する作品」(豊崎由美『百年の誤読』)、「後来の社会主義的な文学を感じさせ(る作品)」(奈良正一『美川町文化誌』第7章)と、評価される『地上』の作家・島清の息の根を止めるために、舟木事件をスキャンダラスに宣伝し、島清を強制入院させ、長期幽閉し、「殺してしまえ」という日本帝国主義の階級意思を否定することができるだろうか。