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20190131(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(4)

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(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(4)
2019年1月
<5>島田清次郎の思想的変質
①日本社会主義同盟加盟
 島清は宗教批判を経て、1920年8月に、堺利彦、山川均、大杉栄ら社会主義者、赤松克麿(新人会)、和田巌(建設者同盟)、麻生久(大日本労働総同盟友愛会)、布留川桂(正進会)など労働組合代表、大庭柯公(著作家組合)、嶋中雄三(文化学会)、小川未明など幅広い団体と個人30人によって呼びかけられた日本社会主義同盟に加盟している。3000人もが加盟したが、翌年5月には解散させられた。

 島清は『閃光雑記』(1921年)で、日本社会主義同盟に加盟する意志を、<(85項)私は目下現前のまゝなる社会主義同盟そのものには大した期待を持つてゐない。…麻生、赤松その他壮年有為の諸君が態度を明らかにしたこと、数年来の同主義者の一種の総勘定をやつたこと、旧来の種々の歴史をもつ人々が表面引退して、新しき気分がほのみえたことなどは今後の同主義運動のためによいことであらうと考へる。…私が名前を出したのは、「社会主義」と云ふ一つの大義名分へ敬意を表しての行為である>と、醒めたまなざしで見ており、そこには労働者階級と心底一体化できない自己があると思われる。

②社会主義か国家社会主義か
 島清は、1920年に日本社会主義同盟に加盟したが、その年に公刊した『二つの道』(1920年)では、社会主義か、国家社会主義かを問うている。先ず、自称「隠れたる革命党員」丘真太郎の主張を見ていこう。

 <(僕は)純正社会主義の実現を基礎づけ、あらゆる反対を根本的に破砕する(注:ための研究をしている)>、<僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家(注:資本主義国家?)との戦であると思ふ>、<現世界大戦によつて諸(もろもろ)の国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨張と生存を主張して次の大戦を呼び起す>、<僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない>、<僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから>、<僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアットであると共に日本主義者である>、<今日の国際連盟は世界的大強盗の相談だよ>、<君の云ふやうな「地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和」といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか>、<二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ>、<マルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、彼奴等支配階級に対して同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以後に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりもつとひどい誤謬でありこつけいである>、<君(北輝雄=島清)は国家や民族の差異を重大視してゐない>

 次に、対する北輝雄の主張を見ておこう。
 <階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血…そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない>、<己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心して>、<人生の経済的基礎の改革はもちろん必要で重大で必然な人類の運命>、<経済的改革はたゞ、最も重要な、そして最初になされねばならない手段である>、<貧乏と疾病と犯罪とが何より先に地上から全滅されなくてはならない>、<彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくないニセ文明>、<丘君、僕は実にこの何とも云ひやうのない慟哭と身もだえの境地から苦しみに鍛錬されながら一歩を超越してゐるのだ>

 両者の論争では、国家社会主義(=丘)と社会主義(=北)の違いを明らかにしている。丘真太郎は「もつと地理的環境や人種的差別を重んぜ」、「支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要」、「僕は社会主義者であると共に国家主義者である、…日本主義者である」、「地上を通じての階級戦は…国家民族の消滅」、「国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、…今日の第一の必要」と畳みかけるように主張しており、階級闘争よりも「国(民族)を守る」ことを重視する日本主義、民族主義そして侵略主義以外の何ものでもない。

 他方、北輝雄(島清)は「階級戦、―上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血」「彼等(注:資本家階級)の一切の文明はことごとく根柢からたゝきつぶしても惜しくない」と語り、自国資本との和解・防衛を探る「日本主義」「国家主義」のかけらもなく、資本家階級と労働者階級の流血のたたかいから革命を予見している。

 丘真太郎から、「君は国家や民族の差異を重大視してゐない」と、民族和解の立場に立ち、階級間闘争を放棄せよと詰問されても、動揺的であるが、丘真太郎の主張に頷いているわけではなく、国家社会主義にたいする疑心・警戒心があらわれている。

 『早春』では、<(298P)私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、明快に民族主義・民族和解を批判しており、国家社会主義には近寄りがたい感性を持っている。

 『帝王者』(1921年)のなかで、丘真太郎は<(85~89P)民衆は馬鹿です。どこまで馬鹿なのか想像もつかない程馬鹿です。その無数の馬鹿共の上に、冷酷で無残で残忍な征服者階級が、破れ目のない物凄い網を張ってゐるのです。今日の政治も攻治家も政党も静かに見れば、資本的征服者の手先共です。労働連動や労働組合運動など云ふものさへ、彼等の手先一つに動かされてゐるのです。少し景気がよければ騒ぎ出し、少し景気が悪るくなれば屏息する労働連動に何の底力がありませう。婦人運動などと云ふけれど、虚栄心の強い又は器量の悪い二三の女共の空騒ぎ丈けのことですからね>と語り、社会変革の確信を喪失し、その原因を他人に求め、人民蔑視に陥っている。
 1920年ごろの島清(北輝雄や清瀬)は丘真太郎(国家社会主義)とは明らかに違う思想的立場にあったのである。

③国家社会主義の動向
 ここで、当時の社会主義と国家社会主義について概観しておこう。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)後には、日本の資本主義化が進み、労働者階級が形成され、貧富の差が拡大し、労働争議が多発し、社会主義思想が広がっていった。

 幸徳秋水や安部磯雄(1909年『資本論』部分翻訳)らは、日露戦争前後から社会主義へと傾斜している。幸徳秋水は1901年に結成された社会民主党に創立者として参画し、1903年秋水と堺は非戦論を訴え続けるために平民社を興し、週刊『平民新聞』を創刊した。1904年には秋水と堺利彦は『共産党宣言』を翻訳発表したが、即日発禁になった。1920年には日本社会主義同盟が結成され、島清も加盟している。

 1919年6月に脱稿した『二つの道』のなかで、島清は『資本論』について触れており、安部磯雄の『資本論』(1909年翻訳)を知っていたか、それとも1919年2月には『資本論』の訳者・生田長江と接しており、『資本論』の概要を知らされていたとも考えられる。

 ところで、北一輝は1906年『国体論及び純正社会主義』を刊行し(発禁)、天皇機関説に基づき天皇の神格化を否定し、山路愛山(1905年「国家社会党」創立)の国家社会主義などを批判した。北一輝は1910年の大逆事件で逮捕されたが、その後、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義と訣別し、国家社会主義(国家を前提とした社会主義)の方向へたどり、1917年大川周明らと合流し、1918年1月猶存社に入った。1936年「2・26事件」に係わり、1937年に処刑された。

 『誰にも愛されなかった男』(2016年)では、風野春樹は北輝雄=北一輝=島清として、「(島清は)社会主義よりも、むしろファシズムに近い」(104P)と断じ、大熊信行は『文学的回想』(1977年)のなかで、1919年ごろの島清について、「かれは社会主義に関心を持っていたが、むしろ北一輝にいっそう魅せられていたようだ」と回想している。

 しかし、『二つの道』の論争に見られるように、この時期の島清は社会主義と国家社会主義との間で、内部葛藤し、揺れ動いていたのではないだろうか。

④ブルジョア人道主義への後退
 島清は1920年の『二つの道』では社会主義か、国家社会主義かで揺れ動いていたが、1921年の『地上』第3部では、多少様子が変わってきたことが窺われる。その前後の情景を引用しよう。

 豊之助は<(279P)プロレタリアットと資本家、―その差違も激しいが、白色対有色の人種戦も亦、わたし共は時代の風潮以外に立脚地を求めて考へてみなくてはならない…どうもいつたいあなたは、国家や民族の差違をあまり重大視してゐないらしいのが、理解できない。…私は階級的差別を高調すると同時に、もっと地理的環境や人種的差別を重んぜずにゐられない>、<(280P)私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である。…したがって私は昔から社会主義者であると共に国家主義者でした>、<(282P)私達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じやうに私達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する><ダーウィンの進化論以降に於て。更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、…削除(資本家に)…同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以降に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももっとひどい誤謬であり、こっけいである>と、主張した。

 これにたいして、大河平一郎(島清)は<(290P)貧乏と疾病と犯罪とを地上より全滅するために、…(削除)…われわれは最後迄も彼等(注:資本家)を憐れみ彼等が自ら覚醒し、内面的理解の下に、…(削除)…私共から見れば、彼等は憐憫に値する奴等ではないでせうか>と、答えている。

 次に、浅野の寺(注:暁烏敏の明達寺)で「自由人大集会」が開かれたと設定され、そこでのやりとりを見ておこう。
 参加者から<(336P)一切の言説の時代は過ぎ去ってゐるのである。自分がかうして議論してゐる間にも、機械は運転し、人々は身を粉にして働き食ふものがなくて疲れはてて死ぬものは死に、病気しても薬は与へられず、貧しい処女はいたる所で蹂躙されてゐるのである。ああ、この長い長い幾千年来の人類の苦悩を体感するとき、私は憤怒と憎悪に燃え立たずにゐられないものであります>という激しい資本主義批判にたいして、

 深井は<(337P)この不合理な社会を合理的なものとするのに、その道が革命より他にないとは同じやうに信じられないものです。…革命といふやうな、力と力の対峙によっての戦ひとその勝利よりも、更には大なる外部的制約や制度の破壊よりも、私はむしろ、私共自身が新しい生活に生まれ出ることが必要であると思はれます。私はこの意味で、資本家の方々の真心、全民衆の真心、更には全人類の真心を信ずるものであります>と、答えている。

 深井の発言を聞いて、大河平一郎は<(338P)彼(深井)の言葉を主張や思想としてよりも、彼それ自身の一つの詩(ポエム)としてうっとりとその美に魅せられてゐた>と、心からの同意を与えている。

 この二つのやりとりから見て、1921年時点での島清の心情は、資本家の覚醒に期待しているようで、ブルジョア的人道主義への転換を開始していたのではないだろうか。

 ところで、国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている『大望』(1920年)には至るところに読者の感想が書き込まれている。内表紙には「島清よ、君は最後まで大河平一郎の心を持ちつづけられなかった」と書き込まれ、島清の変節を感じ取り、次のページには、同じ人の筆跡で「しかし、島清よ、君が僕に感激と自覚をあたへてくれたことを深く感謝する」と賛辞を述べている。


    

<6>島田清次郎の幽閉と抹殺
 1919年『地上』第1部発行に、堺利彦は<私が此書に感心したのは、文章の新しい大胆な技巧と、鋭いそして行届いた心理描写、若しくは心理解剖とではない。…私は特に著者が社会学の観察と批判に於て頗る徹底してゐる点に深く感心したのである。…謂ゆる社会的文芸の代表作家がもうどうしても現はれねばならぬ時だと私は思ってゐるが、此書の著者嶋田清次郎氏は即ち実に其人ではないだらうか>と紹介した。映画『マルクスとエンゲルス』(2018年)でも、「木材窃盗取締法にかんする議論」について描かれていたが、社会主義世界観の第一歩は現実直視から始まり、島清は充分にその役割を果たしていた。したがって、豊崎由美は「プロレタリア文学を予告する作品」と位置づけているのである。

 生田長江は<げに、『地上』に見えたる萌芽より云へば、そこにはバルザック、フロオベエルの描写が、生活否定があり、ドストエフスキイ、トルストイの主張が、生活肯定があり、そのほかのなにがありかにがあり、殆どないものがないのである。…げに、本当のロマンティシズムと本当のリアリズムとが、決して別々なものでないと、…>と紹介し、徳富蘇峰も<もし日本に大河(注:『地上』の主人公)のごとき頼もしき青年が10人あったならば、国家の前途は憂うるに足るまい>と評した。

 こうして、『地上』は爆発的に売れ、『地上』第1部発売から1922年までの4年間で、全4巻の売り上げは50万部に達した。大衆(とくに青年)に迎え入れられた『地上』は、資本主義批判から革命の希望を訴えており、政府にとっては頭の痛い問題となった。社会科学文献は一部の先進的労働者やインテリゲンチャにしか影響力はないが、大衆小説となれば、人民大衆のなかに深く入り込む力を持っている。そのなかで、資本主義批判と革命の問題が正面から語られているのである。

 NHK土曜ドラマ『涙たたえて微笑せよ』(1995年)のなかで、取り調べの刑事が「革命という言葉が100回も出て来る」と言って、島清を責めるシーンがあったが、まさに島清作品は要警戒だったのである。

 『知っ得 発禁・近代文学誌』(山本芳明著)所収の「ある発禁の風景―島田清次郎の場合」に、『地上』第2部(1920年)の12カ所の削除について書かれている。当時の警視庁にとっては、最大の検閲・削除・発禁問題は森戸辰男論文の「クロポトキンの社会思想の研究」だった。森戸と大内兵衛は新聞法違反で起訴され、敗訴し、森戸は東京帝大から追放された。

 翌1921年には、河上肇、堺利彦、神近市子などにも筆禍が襲い、「学者の恐怖時代」と言われた。山本芳明は、「警視庁にとって、『地上』は春本・淫本の類い」と書いているが、島清の資本主義批判・社会主義論は森戸や河上に比すべくもないとしても、その発行部数の多さ、労働者階級への浸透の深さを考えると、森戸や河上とは別の角度の影響力を斟酌せずにはおかなかっただろう。

 個人的資質から来る文壇や出版社との関係悪化に加え、舟木事件というスキャンダルにまみれた島清は、その作品(思想)のために、ついに関東大震災の翌年1924年7月30日未明、警戒中の警察官に巣鴨署に連行され、そのまま精神病院「保養院」に強制入院させられた。そしてそのまま6年近く幽閉され、1930年4月29日、31歳で亡くなった。

 日帝は1923年関東大震災直後から社会防衛のために6000人余の朝鮮人を虐殺し、社会主義者の一掃・抹殺の挙(甘粕事件、亀戸事件)に出ていた。島清が「保養院」に強制入院させられたのは、まだ関東大震災から1年もたっておらず、社会主義者らへの警戒がつづいていたころのことであった。巣鴨警察署は島清の「犯罪」を立件できず(当然!)、釈放すべきところを強制入院によって拘束したのである。日帝は治安維持のために、島清を6年近くも幽閉し、作家生命を絶ちきり、ついには死に至らしめたのである。

 戦前の日帝下では、「反社会的人物」の抹殺がくり返しおこなわれてきた。1910年の大逆事件(幸徳事件)がある。明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水ら26人が逮捕、起訴され、翌年1月18日に死刑24人、有期刑2人の判決が言い渡され、1月24日に幸徳秋水ら11人、翌25日に管野須賀子の死刑が執行された。

 この大逆事件は明治政府が主導したフレームアップ事件だった。1928年9月、小山松吉検事総長が思想係検事会で講演した「秘密速記録」には、「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」、「不逞の共産主義者を尽(ことごと)く検挙しようと云ふことに決定した」、「邪推と云へば邪推の認定…有史以来の大事件であるから、法律を超越して処分しなければならぬ、司法官たる者は此の際区々たる訴訟手続などに拘泥すべきでないと云ふ意見が政府部内にあった」と書かれている。(参考:鎌田慧著『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』)

 そして1923年関東大震災直後に大杉栄、伊藤野枝が殺害され(甘粕事件)、河合義虎ら9人が殺害された(亀戸事件)。朴烈・金子ふみ子を検束し、大逆罪をでっち上げて死刑判決(無期懲役に減刑)。1924年島清の強制入院―1930年病死、1933年小林多喜二獄中死、1938年鶴彬獄中死へと、資本主義批判の矛を収めない活動家や作家たちは次々と拘束・殺されていったのである。

 「プロレタリア文学流行を予告する作品」(豊崎由美『百年の誤読』)、「後来の社会主義的な文学を感じさせ(る作品)」(奈良正一『美川町文化誌』第7章)と、評価される『地上』の作家・島清の息の根を止めるために、舟木事件をスキャンダラスに宣伝し、島清を強制入院させ、長期幽閉し、「殺してしまえ」という日本帝国主義の階級意思を否定することができるだろうか。


20190201(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(5-最終回)

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20190201(仮題)『島田清次郎よ、お前は何者だ』(5)
2019年1月

<7>差別に向きあう島清
①部落差別にたいする態度
 明治維新後に出された「解放令」により、被差別部落民は形の上では封建的な身分関係から解放されたが、実際にはさまざまな差別が残り、多くの部落民は貧困に苦しんでいた。

 ロシア革命(1917年)や米騒動(1918年)の影響を受け、部落民自身が主体となって差別からの解放を実現しようと、1922年3月には全国水平社(西光万吉ら)を結成した。島清が『地上』をひっさげて登場してきたのは、全国水平社結成の直前である。

 島清は、『地上』第2部(1920年)と『地上』第3部(1921年)のなかで、被差別部落について言及している。『地上』第2部で島清は、<(159P)子供等は手に手に線路の石塊を踏切の向側へ投げつけた。向側にも同じ子供の群が憎悪と復讐の目を輝かして、対抗してゐた。「やるならやって来い、生意気な、××の子が何だい」と此方側の群は叫んで石を投げた。空気は石で鳴った。「金沢のやつら上品ぶるない」向側の群の眼が燃えた。「××め、××め、―死骸を焼く、くそ××めら」>と、差別的状況を描写した。

 『地上』第3部でも、<(369P)単に河べりの部落で生まれたと云ふ事実一つが、あらゆる同輩に軽蔑され、擯斥(ひんせき)され、孤独の状態に取り残され>と、被差別部落への理不尽な差別を描いている。

 杉森久英は『天才と狂人の間』で、1916年ごろ島清母子の住居を<犀川の下流に近い町はずれの貧民窟の、鶏小屋を改造したような小家>と書いており、島清自身も、『地上』第3部で、<(9P)(M街は)××部落に接した貧困な街>と書いている。1916年に東京から戻ってきた島清母子は「M街」で暮らしながら、被差別部落への差別と悲憤を体感していたのであろう。

 しかし、『地上』第3部ではガラリと論調が代わり、<(61P)少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××種属が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ>と、差別に立ち向かう輿四太の姿を描いている。

 第3部は、全国水平社結成(1922年)前年の1921年1月に発行されたが、島清が被差別部落の近くに暮らしていたからといって、「300万部落民の決意」が自動的に内在化するはずがなく、『地上』第3部の構想・執筆(1920年)までの過程で、島清は部落解放の新しい息吹を感じる機会があったのだろう。

 1918年には島清は京都の「中外日報」に就職し、大阪に出かけて労働組合の演説会に参加したり、1920年の東京では新人会の会合に参加し、日本社会主義同盟(堺利彦)に加盟しており、その過程で、部落解放運動との接点があったと思われる。 (注:××は差別語なので伏せ字にした)

②女性差別にたいする態度
 『地上』はラブストーリーとして評価され、1994年に「島清恋愛文学賞」が設けられたが、そのような皮相な評価は見当違いであろう。島清作品の核心は資本主義下の労働者人民の悲惨と、解放への熱情であり、だからこそ支配階級は危険人物と見倣し、検閲で削除し、島清を6年間も病院に幽閉し、遂には死に至らしめたのである(1930年)。

 第1回「島清恋愛文学賞」(1994年)の選考委員に『天才と狂人の間』の著者・杉森久英が入っていた。杉森はその前年1993年7月13日付「北國新聞」で、<(慰安婦は)メーデーの会場へホットドックやコカコーラを売りに来る商人のようなもの>とか、<戦場では、女性も食料や弾薬と同じく、必需品である>、<(戦場では)男の捨てる金を、チャッカリ拾うのが女の仕事である。女たちはそんなのを集めて、国もとへ送金したり、帰ってから豪邸を建てたりする。現代もあちこちの途上国から、日本へ多数押しかけて来るのは、そういう人たちだ>と品性のない、差別丸出しの評論を書き殴っていた。

 では、作品のなかに現れた島清の女性観を見てみよう。
 『帝王者』(1921年)のなかで、島清は染菊に、<(66P)十二の歳に故郷の金沢の街を離れてまる五年の間、一日も真実にしみじみうれしい心持に打ち寛ろいだことのないわたしでございました。くる人もくる人も、会ふ人も会ふ人も、恐ろしい残酷な、表面ばかり柔和でお世辞が巧者で、それでゐて、夜になれば、恥づかしい浅ましいことのみしてゆく男ばかりでございました。…世間の男達は、芸妓といふものは、金で自由になる、自分達の卑しい色慾の玩弄物としか見てはゐません>と語らせ、音羽子に、<(46P)兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな>と語らせている。

 『早春』では、<(339P)無理に淫売しなくてはならぬやうにする遊野郎や、ガリガリ亡者を何故罰せないのか。罰金も拘留も当然うくべきものは女性ではなく「悪い需用者」である>、<(344P)楼主達は…いいかげん、生きた人間の血をしぼる稼行を止したらどうですか>と、島清は激しく追及している。『地上』第3部でも、<(255P)吾等に一人の淫売婦なからしめよ>と叫び、遊廓に売られてくる女性たちの悲惨に肉迫している島清と、戦場の女性を「必需品」と蔑む杉森との間には天文学的な距離を感じずにはおれない。

 杉森は、「ホットドックやコカコーラを買い求める」男としての自己を恬として恥じない人物であり、このような杉森に「愛」を語らせていいのだろうか。わたしは、当時の美川町(竹内町長)に、島清の作品を「恋愛文学」に矮小化することの非と杉森久英を選考委員にすることの不当を訴えて手紙を書いたことがある。

③朝鮮植民地支配にたいする態度
 島清は『早春』(1920年)に、「朝鮮人について」という項を起こしている。

 引用すると<(435P)彼等(注:朝鮮人)を愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない。彼等に選挙権を与へ、彼等に兵役の義務を与へてよい。…彼等は一千万人ゐる。しかも彼等から一人の文学者詩人、思想家のあらはれたる者あるをきかない。これ真に彼等にかかる人間がゐないのであるか、ゐてもあらはれないのであるか、いずれにせよ教育に責任があり、自由なる才能出現の道が必要である>

 この「朝鮮人について」が書かれた時期は、前後の内容から判断すると、『地上』第2部が発行(1920年7月)された後であり、島清は1910年の朝鮮併合は勿論、前年に朝鮮全土で展開された三一独立運動を対象化した上での感想であろう。

 しかし、島清の批判(白刃)の切れ味は非常に悪い。朝鮮併合にたいする批判はなく、朝鮮独立運動への支持もない。「兵役の義務」を与えて、朝鮮人に日本国を守れとまで主張しているかのようだ。

 当時の朝鮮に文学者、詩人、思想家がいないと断定しているが、朝鮮における検閲制度は韓国併合以前の「新聞紙法」(1907年)や「出版法」(1909年)から始まり、1941年には「新聞紙等掲載制限令」が出され、あらゆる角度から緻密に、アリの這い出る隙もない規制内容だった。1945年解放までに2820種の書籍が発行を禁止され、「少年」「青春」「ソウル」「新天地」「新生活」「開闢」などの雑誌も繰り返し発行禁止や廃刊処分を受け、朝鮮人の言論を封殺していた。

 それでも、島清が大洋丸【注】で洋行した1922年には、三一独立運動(1919年)で逮捕された金東仁が『苔刑―獄中記の一節』を発表し、弾圧の激しさを小説化している(『朝鮮近代文学選集』5)。島清幽閉後になるが、1925年には『戦闘』(朴英熙)、『火事だ!火事だ!』(金基鎮)、『地の底へ』(趙抱石)、『桑の葉』(羅稲香)、『民村』(李箕永)、1926年には『白琴』(崔曙海)、1927年には『洛東江』(趙明熙)などが発表されている(『朝鮮短編小説選』)。どの作品も、つらくて重い内容なので、読み進めるのには時間と涙が必要だ。

【注】大洋丸:1911年11月18日に、ハンブルク―ブエノスアイレス間に就航→1919年4月、アメリカ海軍の軍隊輸送船→1919年末イギリス→1920年日本→1921年から東洋汽船に所属し、大洋丸となり、サンフランシスコ航路に就航→1922年4月島清と八田與一を乗せてアメリカ→1926年から日本郵船所属→1932年11月尹奉吉を乗せて上海から神戸港→1942年5月5日シンガポールへ向かう途中、5月8日沈没し八田與一ら817人死亡→2018年船体発見。

【注】『金東仁作品集』(朝鮮近代文学選集5)「笞刑─獄中記の一節」(1922年)
 「笞刑」は3・1独立万歳運動で逮捕された金東仁の体験を小説化したものである。歴史書などを読んで、3・1独立運動に対する弾圧の苛酷さについては、理解しているつもりだったが、小説は歴史書よりも、感情が移入されている分、訴える力が大きい。
 金東仁は5坪に41人(畳1枚に4人)が詰め込まれた。全員が横になって眠れるわけではない。24時間3交替制にして、3分の1が横になり、残りは立っているというのだ(16時間も!)。それが3・1から、3ヶ月を過ぎ、真夏を迎えても続いているのだ。
 暑熱、汗、臭い、南京虫、熱病、皮膚病が蔓延している。弟も逮捕され、長兄も、父母も行方がわからない。70歳を過ぎた老人にも笞刑90回が科せられ、苦痛に耐えきれずに死んでいった(殺された)。そして、金東仁はその老人を守れなかったことに心がうずいた。
 「あんたは自分が死ぬことばかり心配しているが、あんただけが人間かい。あんたが1人出ていきゃ、この監房にいる40人の場所がそれだけ広くなるってことを忘れたのかい。息子が2人とも弾にあたって死んだってのに、老いぼれ1人生き残ってどうするってんだ。ええ!」という、金東仁の言葉に、「あんたの言うことが正しい。わしの息子はきっと2人とも死んじまったのじゃ。わし1人生きておっても仕方がない。控訴を取り下げてくれ」と言って、看守に引かれていった。そして殺された。

写真:左から、全国水平社チラシ、大洋丸、金東仁作品集
  

<8>新芽はすでに土を破ろうとしている
①島清文学碑(美川平加町)
 美川平加町(道専山)の島清文学碑には「愛する人よ 白刃か 然羅(ら)ずんば しばしの間 涙を湛えて 微笑せよ」と刻まれ、NHK土曜ドラマ(1995年)の標題は「涙たたえて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎」となっている。

 この「詩」は『早春』(1920年)の表紙に書かれ、『地上』第3部(1921年)にも出て来る有名なフレーズであり、「愛」がらみの詩とされている。だが、この「詩」がどういうストーリーのなかで詠まれたのかを見ずに、27文字だけで島清の心情を読みとることはできないのではないか。

 『地上』第3部では、2人の女性(和歌子と輝子)を前にして、大河平一郎(島清)の世界観を披瀝した後に、この詩は詠まれている。そこで平一郎(島清)が語った世界観とは、

 <(225~228P)自分等は自分等の栄養と入用のためのみに労働するであらう。与えられたる一生を全うすることに必要なる労働は、人類全体に平等であり、平等である故に、それはよき享楽となる。…自分達はひとしく人間でありひとしく生きる使命感を与へられたるものである。自分達の間に貴族と平民、資本家と労働者など云ふ階級は一分時にして無くなるであらう。…自分の生きることの自由と絶対を認めることはまた自分以外のすべてのものの生きることの自由と絶対を認めることである。小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほこらう。真の平等、そして真の独立。…自分等をして一切の枯木をよしとする階級より脱却せしめよ。自分達をして真に自由に、吾等の国法をして、自然の法たる「自らの声」と合一せしめよ。吾等の潜めもつ一切の力に自由な解放を与へよ。ああ、吾らの生命を束縛することなからしめよ。…吾等に一人の淫売婦なからしめよ。吾らすべてに心地よき家と、夜具と部屋と、滋養分と、清浄なる衣服とを与へよ、…汝ら市街の政治家よ、…実に汝等は宇宙生命の奪取者であるからである。汝らは地獄に堕つべき輩である。汝らは実に地獄に堕ちてゐるのである。…(削除)…>と、島清は、ほとばしるように自由と平等を求め、資本家階級からの脱却(解放)、売られいく女性への同情と解放を願い、既成政治家の腐敗を弾劾している。

 そして、平一郎は「個別の愛」の問題ではなく、抑圧され、差別され、虐げられた人々の側に立つこと(解放主体)を宣言して、<(259)愛する人よ、白刃か、然らずんば、しばしの間涙を湛へて微笑せよ>と叫んでいるのである。

 その背後には、<吾等に一人の淫売婦なからしめよ。吾らすべてに心地よき家と、夜具と部屋と、滋養分と、清浄なる衣服とを与へよ>という普遍的な希求があり、決して平一郎と和歌子のあいだの結ばれなかった「愛」を蒸し返したいという願望ではなく、社会変革の主体たらんとする平一郎の決意表明として読むべきではないだろうか。(鈴木晴夫は『国文学解釈と鑑賞』で、この一文を、「内容にとぼしい理想主義的な長広舌」とこき下ろしているが、島清の資本主義批判を理解できなかったのだろう)

②島清追慕碑(小川町)
 島清の母みつ出生地・白山市小川町にある西野家の墓地区画内に、「島田清次郎追慕之碑」が窮屈に置かれている。碑は1957年に建てられ、<年若き氏の超世革新的思想は時勢に容れられず、保養院に幽閉され快々として楽しまず、遂に同院に死去さる。時に32歳。噫あたら卓越せる青年作家を無為に終わらしむ。世紀の恨事惜しむべし>と刻まれている。

 島清が亡くなって、やがて90年になろうとしているが、碑に刻まれた「(島清の)革新的思想」は、今も病者の妄想のように扱われ、今日に至るも相応に評価されず、鉄扉のなかに幽閉されたままである。

 島清の記念碑としては、ほかに美川南町の「島田清次郎生誕地の碑」、金沢にし茶屋の「島田清次郎記念碑」がある。また美川町共同墓地(JR美川駅から徒歩15分ほどの松林)には、わが家の墓地から十数メートルしか離れていない位置に島清の墓碑がある。今年は島清没後89年であり、4月29日には島清の墓参に向かいたい。

写真:左から、島清文学碑、島清追慕碑、美川共同墓地地図
  

③プロレタリア文学
 尾崎秀樹は「『地上』がひろく読まれたのは…主人公の社会への抵抗が支持されたからである」(「大正期人生派の一典型」1974年)、豊崎由美は「プロレタリア文学流行を予告する作品」(『百年の誤読』2004年)、奈良正一は「後来の社会主義的な文学を感じさせ」(『美川町文化誌』)など、少数派だが正当な評価がある。

 今日、プロレタリア文学作家として高く評価されている徳永直は島清と同年に生まれ、小林多喜二はその4年後に生まれ、ほぼ同時代人であり、『地上』から一定の影響を受けているだろう。徳永直は1922年に上京し、植字工として働き、1925年『無産者の恋』、1929年『太陽のない街』を発表した。小林多喜二は1928年『1928年3月15日』、1929年『蟹工船』、1932年『党生活者』を発表した。筆者も『太陽のない街』や『党生活者』に多大の影響を受けて、70年安保期を迎えたように、当時の、50万、100万の読者は島清の「社会主義論」に触発され、大正末期(1920年代)から昭和初期(1930年代)の諸争議をたたかう労働者に成長したのではないだろうか(注:表)。

 山下武は「長い間この国を支配しつづけてきたイビツな文学史観が書きかえられないかぎり、悲劇の作家・島清が文学的復権を獲得する日は、当分まだ来そうにない」(『忘れられた作家、忘れられた本』1987年)と、半ば諦めているが、新芽はすでに土を破ろうとしており、島清にたいする病者差別・批判を乗り越えて、島清作品の歴史的、文学史的役割の再評価にとりかかろうではないか。
(おわり)

写真の多くはインターネット上の画像を利用させていただいた。

20190208 本土からこそ、沖縄辺野古新基地建設に反対の声をあげよう!

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本土からこそ、沖縄辺野古新基地建設に反対の声をあげよう!

 2019年の今、沖縄辺野古では、碧くて透きとおる海に土砂を強引に入れています。抗議船やカヌー隊がたたかっています。座り込みが続いています。声を枯らして国の不当を告発しています。

 24日には、辺野古新基地建設の是非を問う県民投票が予定されています。自民党の介入で、5市長が県民投票不参加を表明しましたが、市民の力で押し戻し、二者択一(賛成か反対か)から「どちらでもない」を入れた三者択一に変更されたとはいえ、全県での県民投票がきまりました。

 「どちらでもない」という項目は不可解な選択肢です。①辺野古に新基地を造らせる、②造らせない、③それ以外の方法があるのでしょうか? まだ、「どちらでもよい」、すなわち「多数派に従う」という選択肢ならあり得ますが…。

 今朝の『琉球新報』(インターネット版)に次のような記事(一部引用)がありました。
軟弱地盤、最深90メートル 辺野古新基地・大浦湾側 識者「改良工事、例がない」2019年2月7日 05:00 【琉球新報】

 米軍普天間飛行場の沖縄県名護市辺野古移設に伴う新基地建設に関し、大規模な改良工事を要する軟弱地盤が大浦湾一帯に存在する問題で、最も厚い軟弱な層は水深約90メートルにまで達していることが6日、分かった。これまで最も厚い軟弱層の深さは水深約70メートルとされていたが、防衛局が追加で調査したところ、さらに20メートル深い層が見つかった。鎌尾彰司日本大理工学部准教授(地盤工学)は政府が計画する地盤改良工事について「水深90メートルまでの地盤改良工事は知る限り例がない。国内にある作業船では難しいのではないか」と指摘している。

 …水深約90メートルまで軟弱層が達していながらも水深70メートルまでの改良工事で済ませた場合について、鎌尾氏は「改良深度が20メートルほど足りない分、未改良の軟弱地盤が下層に残り、長期間にわたる地盤沈下が発生するだろう」と予測した。(以上引用)

 このように、沖縄では「無理が通れば、道理が引っ込む」状態で、独裁政治そのものです。辺野古新基地建設は、日米軍事同盟で、東アジア(中国、朝鮮半島など)への軍事的圧力を加える戦争政策であり、本土からも、「新基地反対」の声をあげよう。

 竹内伊知さんと一緒に沖縄の辺野古に行ったのは、2000年3月で、もう19年の前のことです。竹内伊知さんのアピールと金城祐治さんのお話を、小松基地爆音訴訟事務局だより『やかまし』(2000年5月号)から転載します。

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 2000年3月26日 嘉手納基地訴訟総決起集会でのアピール
 沖縄とともに、平和のためにたたかいます 小松基地爆音訴訟原告 竹内伊知

 私には、沖縄の皆さんの前で、胸を張って「連帯している」とは、おこがましくて言うことができません。30歳代のころ、スクラムを組んで、「沖縄を返せ」と一生懸命歌い、「我々に返してくれれば、核ぬき・本土並みにする」と言って、たたかいましたが、復帰後いまだに75%の米軍基地が沖縄に集中しています。本土の私たちが、米軍と政府の手助けをしていることを考えると、おわびの言葉がありません。もう私は74歳になりましたが、いまこそ「沖縄を、沖縄に返して下さい」と訴えねばなりません。

 1971年に、基地反対をスローガンに掲げて、小松市長に当選させていただきました。フアントムというものすごい戦闘機を配備するかしないかをめぐって、防衛庁といろいろ折衝いたしましたが、1人の市長としてはどうにもこうにもなりませんでした。その時、基地反対をたたかう仲間のなかから、たった12人の市民が国家権力を相手に、「自衛隊違憲、飛行差し止め」の裁判を起こしました。何も持たない12人が、日本で初めて国を相手の裁判に踏み切ったのです。

 その住民の力を得て、「10・4協定」を防衛庁と結びました。①国は公害対策基本法の原則に従って、国が公害の原因者であることを認める、②原因者である国は障害を排除する、③空港環境基準を達成するというものです。

 ところが、その後20年間、国は「10・4協定」を守っていません。裁判を起こした仲間のたたかいは、1801人にまで広がり、たたかい続けています。

 私は、戦争を休験していますが、沖縄の皆さんのような体験ではございません。殺し屋集団に入ろうとした職業軍人の卵でした。平和憲法ができたからこそ、私の戦後の生き方がありました。私は、命あるかぎり、どんなに苦しくても、皆さんと共に、平和のためにたたかいます。

 <那覇地裁沖縄支部への訴状提出の後、私たち二人は小松便が出発するまでのわずかな時間でしたが、名護・辺野古の浜までタクシーをとばして、金城祐治さんにお会いしてきました>

 名護市辺野古「命を守る会」を訪ねて テコでも動かない、辺野古の住民たち
 辺野古命を守る会・代表 金城祐治

 僕の母親は小松出身です。投落した旧家で、土居原町に生まれました。おじいさんは大正時代の米騒動の時に、ようけ儲けていたそうです。それがパンクして、没落したのです。

 父親が若い時に、沖縄のこの貧村で、現金収入もなく、物々交換で生計を立てていました。父親は長男で、母親と兄弟を養わなければならず、本土に渡ったのです。没落した旧家の娘と沖縄の辺野古で生まれた男が一緒になって、僕が生まれたのです。

 私は、辺野古にきてから、28年になるのですが、沖縄の人はおとなしくて、従順な人が多くて、「もの言わなきゃだめだよ」と言いながら、これまでやって釆ました。バブルがはじけ、沖縄の失業率が15%にもなっているのに、何事もないかのようにみんな生きています。地域に、助け合いがあるんです。

テコでも動かない
 「運動は継続なり。継続こそが運動だ」と、どんなに苦しくても、ここに集まることが、根っことなり、核となると思っています。足掛け3年以上、毎日、ここに集まってくるおじいさんやおばあさんは、本当の沖縄の生き証人です。今じゃ誰が何といおうと、テコでも動かない、私たちのたたかいの主力部隊です。最高齢者は89歳で、私たちを引っ張りあげています。

20190209 金沢市街地にF104ジェット機が墜落から50年を想う

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50年前のこの日に―F104ジェット機が墜落から50年を想う

 昨日(2月8日)は小松基地所属のF104ジェット機が、金沢市泉2丁目に墜落して50年目の日であった。この日は雪がちらつく寒い日であったが、墜落現場の念西寺を訪問し、4人の犠牲者のための慰霊碑に手を合わせてきた。

  

 1969年、50年前のその日、私は金沢大学構内にいたが、墜落の知らせを聞いて、現場に向かった。あちこちにジュラルミンの機体の破片がバラバラにちぎれて、散らかっており、火は消えていたものの、あちこちから白煙が立ちのぼり、全域に焦げ臭い異臭が漂っていた。

 当時の私達は、ベトナム戦争に加担する佐藤政権とのたたかいに明け暮れていたが、2・8ジェット機墜落の現場を見て、戦時の爆撃とはこういう状態なのかと、ベトナム人民の怒りと苦しみを肌で感じる事件だった。

 その後、金沢大学学生運動は小松基地撤去闘争を現実的な課題にしはじめた。20歳そこそこの私達にとって、小松基地の歴史など皆目知らず、まずは北國新聞社の資料室を訪問して、小松基地関係の新聞の切り抜きを閲覧し、戦前戦後を通じての小松基地について調べることから始めた。これが、私が侵略出撃基地・小松第六航空団にこだわる第一歩だった。

 今朝(2/9)の新聞報道によれば、念西寺(泉2丁目)で追悼法要が営まれたが、基地関係者の出席がなかったという。 小松基地(日本政府)にとっては50年もたてば、忘却の彼方か、法要にさえ姿を見せなかったが、被害者とその家族はいつまでも忘れることが出来ないのだ。50数年前に、日本政府が米軍のベトナム侵略戦争に協力して、その結果、どれ程のベトナムの人々が死傷したか、決して忘れてはならないことである。

 日本政府の最近の戦争政策を列記すると、特定秘密法、安全保障関連法、新日米防衛力の指針、辺野古新基地建設などをごり押しし、集団的自衛権=侵略戦争を実行できる国(軍隊=自衛隊)へと変身させている。さらに、今年は9条改憲へと突き進もうとしている。F104墜落50年を節目にして、心を新たにしたい。







20190211 羽田弁天橋から50年

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羽田弁天橋から50年

 私がはじめて書いたビラである。何とも稚拙な文章だろう!
 私の幼いころから、わが家には『アカハタ』と『朝日新聞』があり、書棚には『マルクスエンゲルス2巻選集』などの左翼文献が並んでおり、治安維持法で拘引された叔父がおり、私が左傾化していく環境は充分に整っていた。そして、1967年7月恐怖の立川基地に立ち、10月羽田弁天橋の放水に濡れた。 

「10・8佐藤訪ベト阻止―9・30学内決起集会」
 法文1年5組のみなさん、一度ゆっくりと考えてみようではないか。話し合ってみようではないか。そのためにも、今日、1時から始まる佐藤首相訪ベトナム阻止学内決起集会に出たいものです。

 現在、佐藤首相は、台湾訪問を終えて東南アジアを訪問している。この事は何を意味しているだろうか。これはアメリカ政府の世界支配体制の後退(アメリカ本国内における階級的矛盾の産物である黒人暴動がそれを内部からつき崩さんとしており、一方ベトナム人民の死力をつくしてのベトナム侵略戦争にたいする抵抗がそれを外部から崩壊させんとしていることは明白である)を日本政府が、そのアメリカの危機(日本資本主義の危機でもある)をアジア人民の犠牲もって乗り切らんとして、乗り出した具体的積極的行動である。

 (2行判読不明)……的な帝国主義段階に突入しようとしている現時点において、日本独自の帝国主義的利益を追求せんとして、東南アジアへの本格的な進出を企てており、東南アジア訪問はその第1歩となっている。

 この日本帝国主義者の触手はあらゆる方向にむかって伸びてきている。たとへば、小選挙区制の強行、紀元節の復活、砂川基地拡張の断行である。

 砂川基地に関して言へば、政府はあらゆる卑劣な方策を用いて、砂川の農民に圧力をかけ、あるいはわざわざ飛行機を民家の付近に墜落させるような脅かしによって、着々と農地買収を遂行している。そして、砂川基地が拡張されることによって何が起きてくるか。明白である。現在の輸送能力は2~3倍になり、その事と、砂川基地の重要性から、現在ベトナムで殺されている人民の数が約2倍ぐらいになるということである。

 我々日本人が政府に砂川の拡張を許すとしたら、我々自身の心のなかにある反戦平和の意志は踏みにじられ、我々自身の敗北になる。すなわち、どう見ても正当な自分の意志が権力という怪物によって、ねじ伏せられるということは、やはり、自分の敗北でしかない。我々日本人は決して砂川基地拡張を政府に許してはならない。我々は我々の意志に反して、ベトナム人民を殺してはならない。我々は戦争反対に立ち上がらねばならない。

 戦争に反対するということは、このように具体的な改悪を決して許さないような、固く連帯した平和へのたたかいを日本において、世界において作り上げていくことではないだろうか。それは何よりも日本の帝国主義が、帝国主義的政策をもって登上してきている現在、その内部でそれを崩壊さすべきたたかいを遂行しなければならない。それこそが反戦平和の意志を貫く唯一の…(数文字不明)…。

 (2行判読不明)……小選挙区制、紀元節があるように、対外的には、今まさに、東南アジアを日本の支配下に置かんとする方策が佐藤首相の10・8訪ベトにかけられているのだ。

 今日おこなわれる佐藤訪ベト学内抗議集会に参加しようではないか。そして我々の内部に存る反戦平和の意志を具体化しなければならないのではないか。
(金沢大学法文学部1年5組有志)

20190212「1967年の冬、10・8羽田弁天橋の衝撃」

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「1967年の冬、10・8羽田弁天橋の衝撃」
 金沢大学で配布された当時のビラ3枚を読んでもらいたい(だれが書いたかは確証はないが、Nさんではないだろうか)。私や友人たちが、如何にベトナム戦争と向き合い、同世代の「死」の衝撃に苦悩していたか、そして50年を経て、70歳の老人になっても、その精神だけは失うまいと、…。

  

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国家が我々にもっとも高度な暴力を強いるとき 
我々はそれを拒否するための「暴力」をもって闘う ―羽田闘争―
 教養部自治会選挙  委員長候補××××君、副委員長候補×××君を支持する。C(教養部)闘争委員会

Desember in the snow……ぼくらの裡なる羽田
異形の人達は幸福について語るから、
希望について語るから、
きみは、きみの悲しみを、
この凍えてしまった関係を、
何処で癒そうとするのか

この厳粛な冬の季節。
静かに雪の降る如く、ぼくら、“裡なる羽田”へと静かな下降を続けよう。
あの激烈な闘いを、冷えた心で総括し、深く―変身―を試みることだけが、
ぼくらの為し得る唯一の、死者への連帯なのだ。
羽田……ぼくらが、そこに見たものは、
威丈高な、そして、無慈悲な、権力そのものの姿だった。
人間の繋がりを断ち切り、ぼくらに、乾いた孤独を強いるもの……
ぼくらに、ゆるやかな、しかし、確実な死を強いるもの……
闘いを、今こそ、闘いの烽火をあげねばならない!
しかも、雪は降り続く、雪の十二月……

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
La Humanité                    (注:Humanité=ユマニテ=人類)
 副執行委員長候補×××君と共に、立候補にあたって
 執行委員長候補××××

生命あるものを凍てつくすとき、
全てを育くむ光を遮る暗雲が、
地をおおう今、一切の汚辱と虚飾より飛翔する日は来た。
屍を貪るハイエナに死の宣告を下す日が来たのだ。
殺戮者を英雄にしてはならない。
ぼくらは、敗残者であることに「否(ノン)」を言おう。
軍靴と鉄条網が目を、硝煙が鼻孔を刺す、
この嵐の中で、傷つき、逃げまどう手足から血がしたたる。
「一切を戦争のために」と、大臣、議員、将軍、ジャーナリストは叫びだすだろう。
「そうだ」と、ぼくらは思う。
「奴らは、みんな、最後の血の一滴まで戦う決意をしている……ただし、俺の血だ」
黒い皮膚と白い肌のぼくらも、学生のぼくらも、労働者のぼくらも、
みんな、同じ塹壕の中だ。
ぼくらは、今、闘える地点にいる。
逃げてみたところで何にもならないのだ。
涙をぬぐうそのこぶしで、自ら闘い、再び甦るのだ。
愚劣なおしゃべりは、いまや無用だ。
敗北を導いた数知れぬ言葉の墓標を、ぼくらは見ている。
一世を風靡した「民主主義」の神話の無力と終焉を目のあたりにして、
ぼくらは、生みの苦しみの真只中にある。
しかし恐れはしない。
自らが創り出した影にもう怯えたりはしない。
ぼくらは主人になるのだ。
奴隷の思想を拒否しよう!
自らが自らに対して、主人になるのだ!
(1968年金沢大学教養部自治会選挙での支持推薦ビラ)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
時間よ、おれはおまへにきくが おまへの未来はギラギラ光るか?
                     ―草野心平詩集より―

かじかんだ両手をあてて、
喪なわれてゆきそうな自分自身の感受性をそっと確かめる。
それがおそらく、ぼくらの営みの始まりだ。
この静かな厳粛な街にいて、
きみは明るい未来をギラギラ光る未来を見出すか?
(……数行読み取り不能……)
若くして老人であるきみ自身の姿。
おお、今こそ問え! 
「ぼくはそんなことのためにのみ生きるべきか?」と。
きみは、きみの若さを、情熱を裏切るな! 
きみは、きみの生を裏切るな!
さあ、いまや飛びたとう!
さあ、地をはう者どもが、
積み重ね、崇拝してきた条理の塔は、
その不安の交響曲の、あまりに意外な振動数のために、
いま、くずれくずれていく。

Out of Apathy…沈降からの脱出
(…数行読み取り不能…)
心を縛って、×××言葉の闇を軽やかに歩き続けようというのだろうか?

委員長候補××××、副委員長候補×××を支持する。
C(教養部)闘争委員会

20190216皇位継承儀式(天皇退位・即位の礼・大嘗祭)による天皇制イデオロギー強制と対峙しよう

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皇位継承儀式(天皇退位・即位の礼・大嘗祭)による天皇制イデオロギー強制と対峙しよう

当然すぎる文喜相議長発言
 2月9日、文喜相・韓国国会議長が「近く退位されるのだから、天皇がそれ(謝罪)をおこなうことを願う。…(天皇は)戦争犯罪の主犯の息子ではないのか。そのような人が、高齢の元『慰安婦』の手を握り、本当に申し訳なかったと言えば、これを最後に問題は解決される」(2/10「北陸中日新聞」)として、天皇アキヒトに謝罪を要求した。

 2・9文喜相議長発言にたいして、日本の保守層は激甚に反応している。安倍首相は「甚だしく不適切であり、極めて遺憾。強く抗議する」、河野外相は「到底受け入れられるものではなく、無礼な発言」(2/12)と文喜相議長を立て続けに批判している。

 日本政府の謝罪要求にたいして、文喜相議長は「心からの謝罪が一言あれば終わる話を、(日本側が)長い間引きずっているのかというのが私の話の本質だ。…(元『慰安婦』の)被害者の最後の許しが出るまで、(日本側が)謝罪しろということだ。…(私=文喜相が)謝罪する事案ではない」(2/12)と突っぱねた。

 その後も、多少やりとりがあったが、文喜相議長は「謝罪すべき側が謝罪せず、私に謝罪しろというのは何事か」「和解するには日本の首相や天皇の真摯な措置が必要だ」(2/18聯合ニュース)と重ねて日本政府を批判した。

朝鮮を踏みにじってきた皇国日本
 そもそも、アキヒトの曾祖父明治天皇は天皇の名で韓国併合を裁可し、植民地化した張本人であり、祖父(大正天皇)の時代も、父(昭和天皇)の時代も、アキヒトの少年期も、1945年9月9日まで、朝鮮人を人とも思わない朝鮮植民地支配が継続していたのである。

 1975年江華島砲撃を皮切りに、1910年韓国を併合し、天皇政治によって朝鮮人民は、土地を奪われ、政治的自立を奪われ、戦争中には軍隊「慰安婦」、強制徴用など苛酷な人生を強いられたのであり、主犯の息子として、アキヒトが父たちの政治の誤りを自ら反省し、被害者に謝罪し、同じ道を歩まないこと(天皇制の廃止)は人としてのあるべき道である。

 明治以来の戦争及び天皇の詔勅を列記しておこう。
・1874年2月6日―台湾征伐決定
・1875年9月20日―江華島砲撃
・1882年7月31日―仁川、釜山に軍艦派遣
・1894年7月23日―日本軍朝鮮王宮占拠
・1894年8月1日―清国に対する宣戦の詔勅(明治天皇)
・1895年10月8日―明成皇后(閔妃)暗殺
・1904年2月10日―日露戦争開戦詔勅(明治天皇)
・1910年8月29日―韓国併合裁可公布(明治天皇)
・1914年8月23日―対ドイツ宣戦布告(大正天皇)
・1918年8月2日―シベリア出兵
・1927年5月28日―第1次山東出兵
・1928年4月19日―第2次山東出兵
・1931年9月18日―満州事変
・1932年1月28日―上海事変~山海関占領~華北進入
・1937年7月7日―盧溝橋事件→日中戦争~南京占領~徐州占領~武漢占領
・1939年7月1日―ノモンハン攻撃開始
・1941年12月8日―英米に対する開戦の詔勅(昭和天皇)
・1942年1月2日―マニラ占領~ラバウル上陸~ジャワ島上陸~ニューギニア上陸~

天皇ヒロヒトの戦争責任
 1975年10月31日、記者会見で戦争責任について問われた天皇ヒロヒトは「そういう言葉のアヤについては、そういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」と答えた。

 アジアで数千万の人々が天皇の軍隊によって殺されたことを「言葉のアヤ」とか「文学方面」などといって、謝罪を拒否している。同記者会見では、「原爆投下は戦時中でやむをえぬと思う」とも答えている。その後、昭和天皇ヒロヒトがこれらの発言を撤回したとか謝罪したという話しは聞かない。

 1984年9月、ヒロヒトが「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」と発言しているが、侵略と植民地支配の最高責任者として、植民地支配を「不幸な過去」などと他人事のように言いなしている。どこに「謝罪」の誠意が見られるだろうか。

 1990年5月、アキヒトの「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」も、昭和天皇と同じトリック発言だ。「貴国の人々が味わわれた苦しみ」の原因者は誰だったのかを明確にすることこそが反省であり、謝罪なのだ。

 1994年3月、アキヒトは「我が国が朝鮮半島の人々に多大の苦難を与えた一時期がありました。私は先年、このことにつき私の深い悲しみの気持ちを表明いたしましたが、今も変わらぬ気持ちを抱いております。戦後、我が国民は、過去の歴史に対する深い反省の上に立って…」と発言したが、植民地支配の最高責任者は天皇であり、責任をとるべきは天皇であるにもかかわらず、「国民」を主語にするのは欺瞞である。しかも、ただ「悲しい」としか言っていないのだ。しかも、「反省」の主語はアキヒトではなく、「国民」としており、責任の取り方が責任転嫁型であり、全く間違っているのである。そもそも、「反省」と「謝罪」を口にしながら、皇位を継承したことが誤りなのである。

 このように、糠に釘を打つような、ぬらりくらりした発言を繰り返して、あたかも戦争責任を認め、謝罪しているかのように演出しているが、実は政府はもちろん天皇も心からの反省も謝罪もしていないことを見抜かれており、36年間の植民地支配に呻吟し、涙を枯らした朝鮮人民は、天皇と政府にくりかえし反省と謝罪を求めているのである。文喜相・韓国国会議長の要求は100%理にかなっているのである。

天皇制打倒へ
 天皇の生前退位、新天皇の即位が間近に迫っている。マスコミ報道は徐々に過熱しはじめ、かつて、1989年1月ヒロヒトの死とアキヒトの即位から1990年11月即位の礼・大嘗祭に至る天皇制イデオロギーの垂れ流しの状況が再現されようとしている。

 しかし、天皇制に「NO!」をつきつけるたたかいが始まっている。皇位継承に伴う「即位の礼」や「大嘗祭」に国費を支出するのは、憲法が定める政教分離の原則に反するとして、支出の差し止めと国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は2月12日までに、支出差し止め請求については「訴えが不適法」(2月5日決定)として、却下する判決を言い渡した(共同通信)。

 皇位継承儀式をテコにして天皇制イデオロギーを強制し、日本をふたたび侵略戦争国家にしようとする、安倍首相の黒い野望に立ち向かっていこう。いつまでも、天皇制を許している日本人民の責任も問われているのである。

1988年昭和から平成への皇位継承行事
・1988年9月19日―天皇吐血
・1988年9月22日―全国事行為の皇太子への委任閣議決定
・1988年10月1日―天皇の容態悪化で行事、興行、広告、宣伝など自粛相次ぐ
・1988年12月7日―本島等長崎市長―天皇の戦争責任発言→射殺未遂
・1989年1月7日―天皇死去(87歳)→各種行事、弔旗掲揚問題や憲法・天皇制論議盛ん―批判的発言者、団体への脅迫相次ぐ
・1989年2月24日―大喪の礼(大赦、復権1099万人)
・1990年1月18日―本島等長崎市長短銃で撃たれ重傷
・1990年3月15日―社会党党規約から「革命」削除
・1990年11月12日―天皇即位の礼、祝賀パレード、饗宴の儀
・1990年11月22~23日―大嘗祭
・1991年1月17日~湾岸戦争
・1991年11月24日―社会党―「日の丸」容認の新見解発表←日教組、見直し要請
・1991年11月27日―PKO協力法強行採決→1992年9月17日派兵
・1991年12月30日―ソ連邦解体

今次皇位継承行事予定
・2019年2月24日―アキヒト在位30年記念式典
・2019年4月30日―アキヒト退位
・2019年5月1日―ナルヒト即位
・2019年10月22日―即位の礼
・2020年4月19日―立皇嗣の礼 
・2020年7月24日~東京オリンピック・パラリンピック(8/25~)
・2020年10月22日―祝賀パレード
・2020年10月23日―饗宴の儀
・2020年11月14~15日―大嘗祭

20190226安倍政権の軍拡方針を弾劾する

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 安倍政権の軍拡方針を弾劾する

 2019年2月22日付『北陸中日新聞』に「コマツ、陸自車輌開発中止―米兵器輸入増、採算が悪化」と報道された。記事によれば、コマツは国内防衛産業のなかでは大手で、過去5年の実績は10位以内に入っており、2017年度は軽装甲機動車、NBC(核・生物・化学兵器)偵察車、りゅう弾など280億円(7位)の契約を結んでいる。

 ところが、第2次安倍政権下では、米国製兵器のFMS(対外有償軍事援助)が急増し、国内軍需産業を圧迫してきた。ついに、コマツは自衛隊車輌の新規開発コストが採算に合わないとして、新規開発をおこなわないことを防衛省に伝えたという。

  
 
 昨年12月22日付『北陸中日新聞』に「防衛費過去最高に―米兵器を大量購入」と報道されている。記事によれば、2019年度予算のうち、防衛予算は5兆2574億円で、5年連続で過去最高を更新した。アメリカ政府を通じて兵器を購入する「対外有償軍事援助(FMS)」も過去最高になった。

 イージス・アショア(地上配備型迎撃システム)に6597億円、早期警戒機E2D(9機)1940億円、ステルス戦闘機F35A(6機)681億円、護衛艦いずも型の空母化調査費7000万円、状況監視システム取得に896億円、サイバー空間での能力向上に123億円も計上している。
 
 このように、安倍政権は社会保障費を削り、消費税の税率アップなどで住民から巻き上げた金を軍事費に次々とつぎ込もうとしている。しかも、「アメリカに頼らずに独自の軍備強化を」と主張する右派帝国主義者から見ても、「日本軍事産業の自力発展」を阻害してまでアメリカに尽くす安倍政権は異常な姿である。

 安倍政権は日本、アジアのための政府ではない。一刻も早く倒さねばならない。

注:対外有償軍事援助(FMS)とはアメリカ国防総省がおこなっている対外軍事援助プログラムである。アメリカ製の兵器の取得や教育訓練等の役務を有償で提供を受けるものであり、アメリカ合衆国における輸出窓口が兵器製造メーカー等ではなく、合衆国政府となっている。

20190312 泉鏡花 『妖剣紀聞』について考える

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泉鏡花『妖剣紀聞』について考える

 とある会合で、泉鏡花の『妖剣紀聞』(1920年)についての学習会があり、その後、ちょっと、いや、かなり気になって、『鏡花全集別巻』を借りてきて、『妖剣紀聞』全文を読みました。いくつか気になることがあり、整理しています。辞書によると、「紀聞」とは「聞いた事を書くこと。聞き書き」とあります。
 文中には身分などに関する卑称・賎称を用いていますが、歴史的用語として使用するものであり、差別を認容する意図はありません。

初代「非人」清光について
 インターネット調査によれば、初代「非人」清光・長兵衛の俗名は高松清三郎といい、延宝(1673~81)年代の加賀の刀工で、貞享4年(1687年)に没しています。加州清光の初代は泉村の小次郎(1450年没)で、高松清三郎は六代目にあたります。

 六代目加洲清光=初代「非人」清光は寛文(1661~)飢饉の影響や、刀の需要低下により生活に窮し、加賀藩の救済措置である笠舞村(現金沢市笠舞)の「非人小屋」にいたことからこの名で呼ばれました。

 貞享4年11月の『非人小屋裁許』の上申書によると、長兵衛(高松清三郎)が初めて「非人小屋」に収容されたのは寛文の末あるいは延宝の初年(1673年)とされ、その時は息子の長右衛門(第2代「非人」清光)及び弟の八兵衛と共に、「非人小屋」で刀鍛冶をしていました。このあと親子三代にわたり「非人小屋」に収容されたり、出たりしていたようです。

17世紀の「非人小屋」
 丸本由美子著『加賀藩救恤考―非人小屋の成立と限界』によれば、

 <17世紀の加賀藩では「非人」は困窮者一般、あるいは飢饉で食い詰め、家を捨てて浮浪する飢人たちを指した言葉です。…加賀藩で製作を行った刀鍛冶に清光という一族があり、代々優れた技術を受け継いでいたと伝わるが、六代目長兵衛、七代長右衛門、八代長兵衛はいずれも困窮を理由として一家こぞって非人小屋に入り、そこで刀剣の製作を行っている。六代長兵衛の小屋入所期間が貞享年間(1684~87)のことである。彼らは「非人清光」と通称されているが、上述のとおり、身分上の非人ではない。この通称は「非人小屋に入っている清光」を意味している。…このように、小屋創設当時の「非人」は必ずしも身分名称ではなかった>(7~8ページ)と書かれています。

 初代「非人」清光(~1687年没)が活躍していた時期(延宝年代1673~81=加賀藩政の初期)は未だ差別政策が確立しておらず、当時の農民にとっては、「非人小屋」に住む貧民という認識であり、被差別民にも同情的であり、高松清三郎が「非人」と自称することができたのではないでしょうか。

18世紀の「非人小屋」
 続けて丸本さんは、<しかし、この語義は次第に変化を遂げる。身分名称の意味合いが比重を増し、「非人」は賤視の対象となっていく。そして、それに伴って「非人小屋」もまた利用者である庶民らには忌避すべきものと化していった。身分意識に基づくスティグマ(注:他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象・烙印)による小屋の機能不全が明確に確認できるのは、18世紀の後半以降である。天保飢饉の際には、困窮者を収容・加療する施設が新規に作られ、これを「御救小屋」と称した。先行して同種の施設が存在するにもかかわらず別の名称が付されたことは、差別の存在と無関係ではないであろう>(8ページ)と述べています。

 このころになると、加賀藩の「藤内」にたいする政策は転換され、1723年には、「(「藤内」は)人躰ニ似セ奢申」、1776年には、「元来人外ノ者」「平人エ交リ候筋合ノ者ニ而ハ無御座(者)」などと通達し、1800年には「平人との通行」を禁止し、農民と被差別民との対立・分断を激化させています(田中喜男著『近世部落の史的研究』)。

 とくに、天保期(1830~44年)には、藩財政の危機が進行し、村方・町方とも疲弊し、物価が高騰し、農民層が分解し、都市に流入して下層民が増大しました。米屋や富豪を襲う打ち壊しが起き、加賀藩は「藤内」に刑政・警察的役目を負わせることによって、農民は被差別民衆を嫌悪と恐怖の目で見るようになりました。

時代設定について
 さて、『妖剣紀聞』には「時は寛政の五年卯(4)月七日のことなのであります」(64ページ)と書かれ、それは1793年のことであり、初代「非人」清光が活動していた時代(延宝年代1673~81)から100年以上後のことになります。

 泉鏡花はなぜ、17世紀半ばの初代「非人」清光の伝承を、100年も後の「寛政の五年卯月七日」(1793年)に設定したのでしょうか? 鏡花は18世紀末の厳しい部落差別(「人躰ニ似セ奢申」「元来人外ノ者」「平人との通行禁止」など)のもとで、被差別民(鳥追い)が自殺に追い込まれるという物語を設定したかったのではないでしょうか?

 『部落問題文芸素描』(2002年)によれば、鏡花の時代も、明治維新後の解放令とは裏腹に、1884年華族令で近代天皇制国家秩序=部落差別が再生産され、1888年町村制公布によって、地主層の地域支配が強化され、部落差別が固定化・強化されていた時代でもあります。

差別がお町を殺した
 鳥追いお町から杜若(かきつばた)を受け取った清三郎は玄之進から「御身が汚れる」「汚らはしい、出世前だ」と非難され、清三郎は反射的に杜若を棄てました。このような差別を目の当たりにした鳥追いお町は、「私は恋の叶へたさに張切れさうな乳を裂いても、濁った血を洗はう」と、自らの出自に苦しみながら入水し身を切ります。

 鏡花は「非人」清光の伝承に基づいて作品の構想を立てているわけですから、清三郎が「非人小屋」の人として、差別されることの痛みに敏感であり、鳥追いお町とは心が通じる間柄であることは前提でしょう。

 清三郎に助けられたお町は清三郎の腕のなかで、死の間際に「貴方はあの杜若を、すぐにお棄てなさいました」と、言葉を濁さずに、はっきりと糾弾し、これを受けて清三郎は「高松清三郎一生の過失 堪忍して下さい、娘(おねえ)さん」と、即座に、真摯に謝罪しているところは、鏡花の差別を容認しない意志を感じ、読者の共感を得たと思います。

 大塚玄之進からの「御身が汚れる」「汚らはしい、出世前だ」という差別的非難は清三郎自身をも突き刺しており、鏡花は清三郎の側に立ち、お町との再会(偶然)を設定して、清三郎の意志(謝罪)を明確にし、さらにお町の胸から流れ出る血を飲み込むことによって、身も心も鳥追いお町との一体化、すなわち「部落民宣言」を鮮明にさせて、被差別部落民が胸を張って生きるべきことを示唆したのだと思いました。

注:鳥追いとは、江戸時代の年始に、非人の女太夫が新服をつけ編笠をかぶり、鳥追歌を唄い、三味線を弾き、人家の門に立って合力(金銭や物品を恵み与えること)を乞うたもの(『広辞苑』)。

『破戒』から『地上』へ
 住田利夫の『部落問題文芸素描』によると、鏡花には1896年の『龍潭譚』、1897年の『化鳥』、1898年の『蛇くひ』『山僧』など、被差別民を対象化した作品があります(私は何れもよんでいません)。住田利夫はこれらの作品を「鏡花には<賤>にたいする差別意識はなかった」と評していますが、その評論を読むかぎりで、作品は上から見る同情的視点のようです。

 その後1906年の『破戒』(島崎藤村)、1907年の『駅夫日記』(白柳秀湖)、1913年の『いたづらもの』(村上浪六)、1920年ごろの『非人の親子』(麻生久)、そして1920年の『妖剣紀聞』(泉鏡花)へと、部落差別をテーマにした作品が書かれていますが、そこにはまだたたかう部落民は登場していません。

 『破戒』発行から全国水平社結成までの出来事を、部落解放同盟ホームページ上の「部落問題資料室」の年表で見ると、次の通り、被差別民衆のたたかいが始まっています。
 1906年 島崎藤村著「破戒」出版
 1912年 大和同志会創立、機関誌「明治之光」創刊
 1917年 奈良県洞部落の強制移転決定
 1918年 米騒動に部落大衆多数参加
 1921年 奈良県柏原に水平社創立事務所設置、
 1921年 松本治一郎ら筑前叫革団を組織し、黒田三百年祭募金の反対闘争展開
 1922年 水平社創立趣意書「よき日のために」発刊、全国水平社創立大会(京都)

 『破戒』、『妖剣紀聞』では、理不尽な部落差別への批判までですが、一歩踏み出して、被差別民衆が自己解放の主体へと成長していく姿を、端緒的に描いたのが、翌1921年に出版された『地上』第3部です。島田清次郎は「少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××××が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ」(61ページ)と、差別に立ち向かう被差別民衆の姿を力強く描いています。

 しかし、住田利夫は全国水平社結成直前の『妖剣紀聞』(1920年)も、『地上』第3部(1921年)も、『部落問題文芸素描』の対象とはせず、完全に無視しました。

剣の鍛を神会
 「湧出づる胸の血を、口にうけうけ、呷々々々(ぐぐぐぐ)とばかり飲みました」「血のかたまりを吸ひました」と、鳥追いお町と一体化した清三郎は、「此時、…剣の鍛(きたえ)を神会」して、物語はおわります。

 「鏡花世界における技と芸―『妖剣紀聞』論」(『文学』1983年)で、平野栄久は「『剣の鍛を神会』が作品のもっとも大きなテーマ」と書いていますが、だとすると、差別され絶望に追いつめられた鳥追いお町の苦悩と死はどうなるのでしょうか。

 正直なところ、私にはお町との一体化(永遠化)から「剣の鍛を神会」するに至る必然性が理解できません。鏡花は、『妖剣紀聞』を部落差別をテーマにした“社会小説”として展開しながら、突然に“神秘主義”へと舞い戻っているのではないでしょうか。あたかも、民主主義(合理主義)に天皇制が接ぎ木されているかのようです。

 差別する武士、差別される鳥追いの死、「非人」清光の謝罪と許しこそが本書のモチーフであり、読者が昂奮しながら読み進めており、したがって、「剣の鍛を神会」は蛇足であり、書かずもがなのところだと思いました。

参考文献
 泉鏡花著『妖剣紀聞』(1920年)
 島田清次郎著『地上』第3部(1921年)
 田中喜男著『近世部落の史的研究』(1979年)
 住田利夫著『部落問題文芸素描』(2002年)
 丸本由美子著『加賀藩救恤考―非人小屋の成立と限界』(2016年)

20190120 島清書籍への落書き(国立国会図書館デジタルコレクション)

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20190120島清書籍の落書き 

 国立国会図書館デジタルコレクションの『大望』、『地上』第1部、『地上』第2部、『革命前後』(帝王者)、『閃光雑記』を見ると、
余白には、さまざまな落書きが記されている。島清と同時代を生きた人たちの息遣いを感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『大望』(1920年)落書き

002 島清君よ最後まで大河平一郎の心を持ちつづけられなかった。
003 しかし、島清よ、君が僕に感激と自覚をあたへてくれたことを深く感謝する。
   写真を破った奴、貴様は犬だ。エゴイストよ、貴様のやうな奴が此を読んだことさへが島田への(人生への)冒涜だ。
   貴様が写真を持っていったって何になる。猿にペンを……した程の効果もあるまい。恥ぢろ、けだもの奴。CT生
081 何が何だかわからない。アラエッサッサ。
   …1行不明…
   島清は………病院で修行中なり。此の本はどの編でも必ず……が破れてゐる。
   高等常識ある読者にして、かかる行為はなげかはしい事だ。
   もすこし、御互に公共といふ字を味うではありませんか。6月25日 谷中KT生。
   公共とは何んだ! ボヤボヤするな。公徳心と云ふものだよ。
095 紙片を破った奴、其奴こそは実にけいべつすべき、だきすべき奴。何是こんな不道徳者あるんでせう? 
   紙片もぎ取る様なものが、もぎ取った奴は、今ではそれを見る度にどう思うであらう。
   よくもこんな浅ましいことが出来るものかと、俺は不思議でならない。
   ―俺も同感。
107 島清は野獣的肉感的奴なり。願はくは処女達よ! 彼にあやめられるなかれ。
   実際そうだ。同感同感。
   通り一遍の…………に支配されるなら、外の倫理書でも読め。
   芸術の現実感、肉感を直ちに…に反る方がかへってその者の人となりをうたがはしむ。
132 島清はあまり肉感的なものをかくから発狂したんだ。
140 人皇正統史(注:『神皇正統記』のことか?)を読め。
142 宇宙の広大さを思へよ。さすれば地上の跼蹐の如何でか、時間的空間的小さな事を知りぬべし。
   其の意、宇宙を…するの気になることを望む。【注:跼蹐(きょくせき)①肩身が狭いこと。②世をはばかって、ひっそりと暮らすこと。】
147 なんだ! こんなくだらない奴めから、みるんでなかった。バカバカしい。お前は馬鹿!
152 「飽くまで自分は燃えさかり、照り輝く太陽の如く、偉大で、光明と熱に充足してゐるぞ」←ぢぢいになってもか。
   予は……といいしれぬ昂奮とを持って此の若き未来ある作者の……でなる『大望』一冊を読了した。ああ、絶大なれ、汝、島田。

『地上』第1部 落書き
005 島田清次郎は然り天才である。然しそれは評する人の立場から多少異なる見方はやもう得ないと思ふが、唯単に表面か裏面かどちらか片方のみを見て(智つて)其の人を評するが如きは愚もはなはだしきものあり。其の意味に於て彼の人格如何は別とし、とにかく島清の天才である事に対してはいやしくも真面目な人生を持つ人なら万言を費しておしまないであらふ。なぜならば彼は見事作家としては成功してゐる(殊に其の作に於ておやだ)。勿論彼の性格には自然主義のそれが充分うかがはれる。そして彼がある半面からは実にひどく非難されてゐる云ふ事も吾人の多くしれる所であるが、それはつまり人道主義に自らの人生観を立脚した人々の見方に外ならないのであって其れに依て彼の成功を否定する(其の事実を取消す)事は出来得ないのである。それをあだかもグラス曇りの如く、たやすく取消しでも出来るかの如く喋々する輩は自らの人生観の確立を吾人にうたがはしむるのみである。とまれ現代の社会に生存する人間に於てはいやしくも真の個々の人生に対する真面目な批判力を持ち合せてゐる限りは吾人の魂が人間本来の欲望と人格構制との「るつぼ」の中になげこまれてゐる事実を認てこそ諸問題の批評と云ふものである。其×には×めて其の××を表はす。(第1章冒頭)
   忘×多×    1933、6月10日 母退院の翌日なり
   惜しむらくは彼の早逝である。

(024)俺にはこんな大嘘……
   早熟すぎ。国賊
   ……14日この地上の著者の某少将の令嬢をゆうかいしたと新聞紙上に見…若し平一郎が前××であったら…以下不明…
(027)いやな感じがする。下手だ。もうすこし清……
   諸君! こんな小説を書くけれど、×に限ってあまり×学を体験してゐないんだ。
   清次郎色魔。夭才。
   ああ、汝、清次郎よ、×夢人よ! 然し俺の愛は……?
(028)若者に告ぐ。←芸術を×大せよ。ばかもの。(第2章冒頭)
   処女作に好評を待て憑になりた君の
   ××○○新聞に×の令嬢を誘拐して遠くまでつれ行×力を以ておどし、処女をけがしたとの記事を見る。
   今君の(若し大河平一郎が君自身なりせば)少年時代の××を記せんこの著書を見て××を感じる……←同感!
   芸術は永遠に生きるのだ。島田君×は黙って頭を下げ…
   貴様のやうな馬鹿者がいつでも自称天才の愚かしい取巻連だ。
   冬子の様な女が何と多数金沢の遊廓には居ることだらう。
   それはほんとうかい?
   行って見たいなあ。
   書けば言けるものです。だけどね天分は造られるものぢや …
   人間××それは神×迄…
   天分を殺した日本人を怨む
   貴様もバカだ。
(032)明治代の此の×××の描写は×の××を通して、驚嘆に値するものである。
   お幸の様な×は金沢にはゐない。
(034)第一芸妓屋に楼のつく家があるか。女郎屋と芸妓屋を……
(052)少くとも芸×の心を…
   二度、不同、だらけ
   平一郎は余り早熟すぎる。
(053)俳優島田××の様は厭味たっぷりな文章だ。(第3章の扉)
(073)人間の本来の欲望の前に人格の××を×からしめる人を示さなかったまでだ。
(078)大自然之××れられる。うまいうまい。
(088)うまいぞ。
   誠なる乎、真理
   熱狂人の云はば変態的心理描写をかし。やすやすとやってのける所に彼の威があり。才を覗けるのである。
(095)若きものよ、すべからく此の意気を愛ず。
(098)Yes 嗚呼、大河、俺は汝に同情する。まぼろしの女の実として、汝は
   哀れなる弱い女を持った大河ぞ(第5章末尾)
(102)実に観察が行き届いてる。
   実に簡にして×あり。
   島田氏の近辺を知る範囲×の××に×は如何に懐かしいものであらうか。
(103)面白い事を記憶してゐるな。
   なるほど、気がつかなかった。
   何人も青春の××に醒めた男性の真理×××や知るまい。蓋し実×であらねばならぬ。
(105)早熟ものの心理、平凡人には危険視せられやすい事を御注意あれ。
(108)事実、世の中にはこう云ふ事もなるだろう。然しみんな××でもないんだ!
(109)今の世は実にかく……若者の教育に的さないのだ。
(113)もう少し×心のあるはいと云ふものをもて。老いぼれは…もうろくするな!教育者のくせに。
(114)全く此の××な気持を善導すべき教育者の立場にゐるものが往々にしてそれとは反対なゆがんだ下劣な思想に導いて往く罪悪を平気でをかしてゐるものが世間には余り多すぎる。
   体操の教師は馬鹿野郎。
(115)自分の思った事感じた事、×らかな著者の心情をよどみなく云へた君の立場の方が今までの僕の立場よりどんなにか幸で詩的あったかしれない。
   私とて教師の前にどんなにか××しなかった、なければならなかっただろう。それは……を案ずる母のためにのみあったのだ。
(119)二人のハートの中、今如何?
   二人は退学された噫……死する二人で抱き合て永久に、それが人生の幸福なるぞ、平一郎。
   愛する乙女と、否和歌子とあの花咲く世の中へ、二人は幸福に、予は祈る。
   天才青年作家・清次郎君の祈幸。
   おー、天才よ!幸に健全なれ。
   天才よ今少し世に恥ぢる勿れ
   人生よ、人間よ、永遠になやみ続けるのか。(第7章冒頭)
   同種××島清
(120)かれらの別れねばならぬ時がくるのだ。(第7章冒頭)
   八章で遂に牙。
   罪だな、危険危険、此世でも又一人の若者の人生観を逆転させそうなをそれがある。
(131)×××達には此の××の心持で接してやればよかったのだ。あああああああ
   墜落の第一歩
   ×政治家がそんな事に生甲斐を感じねばならなかったとは。
(132)馬鹿
   啄木全集。彼亦天才也。to be or not to be.「一握の砂」
   何のことだかさっぱり解らぬ。島清も存外御めでたいね。
   誰だか知らぬが貴様が馬鹿だ。
(139)(啄木の「一握の砂」を記し)天才よ、たくぼくよ、島田よ、何ぞ去る速き(第8章扉)
(150)古きものに新らしきものが打勝×力があり得ようか?(第8章末尾)
(174)×殺はエゴイストの功利的手段にすぎないのだ。アメリカ人を見よ。彼等は右手は武器を、左手に聖書持って居のだ。
(177)(第9章末尾)島清の生涯は性格の生んだ悲劇と言へよう。舟木少将の娘を強姦したことも、彼のやりさうな事だ。
   島清はだれかに天才だ、狂人になった事が××証する。天才と狂人は紙一重の差だからな。
   誹謗と反感はすべて若き天才に対する人間の嫉妬心より来る。
   落書きして何になる。馬鹿。
   犯人はみんな天才か? 馬鹿、小人度し難し。島清は断じて天才に非ず。
   馬鹿者、密かに天才××するものなき妄想せよ。
   自称天才の×としていつわり×的主義たる不幸。
   誰だか知らないが、少なくとも是だけの作に対して、身の程知らずの暴言はつつしみたいものだと思ふ。

『地上』第2部 落書き
(005)島田清次郎……ることは……彼も唯人間であったのみだ。社会は此の英雄的な男をその手によって殺したのだ。
(010)いやしいやつだ、こんなとこに代×いるかい。
(046)不健全極まる小説です。若き正しき心根に、みだらないまわしい感情を抱かせるに過ぎないものである。
   之なものに感動する人間は其の人自身の心の中にいまわしい欠点あるものと思はざるをえない。
   小説×××健全を求めてよ×てゐるやうな馬鹿は早々に本をとじよ。
   読者に云ふ。道徳的なものを求めて小説×××鑑賞態度は幼稚極まるものです。
   島田の表現は必ずしも菊池寛のやうに平明な×××あざを以てゐない。
   然しその表現は彼特有の英雄慾……如何にもふさわしいではないか。
   ×赤な熱情・××熱狂的×××××××!
   不良少年と不良少女の集まりでしかない。
   島田と云ふ男はわかり切った事柄とわからなく、日本人が普通用ひてゐる言葉を、
   わざと、きざな、いやみたっぷりな言葉に云ひ表はしてゐる。
   少くともそれは島田自身×××、××的欠かんのある少年少女に取っては、この上なき××なものとして眼に映ずるだらう。
   何処に不良じみたところが………
(160)(「この偉大なるこの創作よ、うそだ、うそだ、彼奴共にわかるものか」)
   ⇔私はこのことばに共鳴してラインをつけたのではない。この俺の気持ちは……く平凡な人たちにだけわかると思ふ。
(165)(「今日の国家制度も、今日の社会組織も、今日の政治も、今日の教育も、今日の法律も、
   すべてのものは僕等大部の人間にとっては重荷でしかないのだ」)
   ⇔社会人生のひがみ。多少過激だ。どこが過激だ。社会をよく見ろ。
(206)自己を熱×する心が自然を×得せしむる。
   大自然××得×自己創造の母………である。小泉生
(231)××るやさしい×のなん人も金沢に多いことよ。
(233)人々よ迷ふ勿れ、島田清次郎なる一変体心理の所有者の狂言に迷ふ勿れ。
   彼のいわんとするところも又……出来るか。余りにも……
(234)不幸にも幸福なる島田清次郎よ、俺は敢て御身を幸福者と呼ぶ。世間は如何に浮薄であることよ。
   社会は己の事によって若き一天才を救ひなき深淵に突落とし乍ら、今彼を罵倒してゐるではないか。
―実際、実際。(末尾)

『革命前後』(帝王者) 落書き
(120)あらゆる社会的現象は性欲を軸として回帰する。
(169)革命…の心……を写し得たり。

20190311 小松基地爆音訴訟 傍聴報告

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3・11 小松基地爆音訴訟 傍聴報告

 3月11日、午後2時から小松基地爆音訴訟口頭弁論が開かれた。

 この日は、原告から陳述書や健康診断書が提出され、裁判所と被告国が時間をかけて確認し、次回終結のための進行協議を告げて、この日の公開審理は終わった。

 2008年12月第5次訴訟(原告2121人)、2009年4月第6次訴訟(原告106人)が、10余年かけてたたかいぬかれ、次回、6月17日(月)に結審し、判決を迎える。1975年第1次訴訟(原告12人)から44年目である。

 参考のために、去る3月14日付けの沖縄タイムスと琉球新報の記事を添付する。
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嘉手納基地の騒音、健康に影響 睡眠障害の患者推計1万7454人
2019年3月14日 07:26【沖縄タイムス】

 騒音がもたらす健康被害の専門家で北海道大学工学研究院の松井利仁教授(環境衛生学)は13日、県庁で記者会見し、米空軍嘉手納基地の騒音に起因する心筋梗塞(心疾患)で毎年約10人が死亡しているとの推計結果を発表した。夜間騒音で軽度の睡眠障害に罹患(りかん)している患者は1万7454人と試算し、睡眠障害に起因して心筋梗塞などさまざまな成人病のリスクが上昇しているとした。

北大松井教授「毎年約10人死亡」
 松井教授は「がんなど他の疾患を推計対象に含めればさらに死亡率は上がるだろう。極めて多くの住民が死亡を含む健康影響を受けている現状を放置すべきでない」と指摘した。

 推計によると、騒音による健康影響を受ける可能性があるのは嘉手納町、北谷町、沖縄市、うるま市、読谷村で計11万4244人。

 心筋梗塞に罹患するリスクは、騒音値が夜間の平均騒音レベルを示す「Lnight(エルナイト)」40デシベル以上の地域で通常に比べ0・5~24%上昇し、騒音が原因で罹患している患者は約51人に上るという。

 推計は、県などの2014年度の騒音測定値(17地点)を基に夜間騒音マップを作り、国勢調査などで影響を受ける可能性のある人口を算出。昨秋改定されたばかりで、航空機騒音に特化して睡眠障害や心筋梗塞の影響を推計する数式を初めて示した世界保健機関(WHO)欧州事務局の「環境騒音ガイドライン」に基づき影響人口を試算した。

 より実態に即すため地上騒音の影響も反映。基地周辺は夜間の長時間のエンジン調整音など飛行時に限らない地上騒音の被害が確認されているが、計測・予測手法は確立されておらず、多くの地点で地上騒音の実測値は測定されていない。最新の知見を活用し、地上騒音の推計値を加味した。

 地上騒音源の一つだった民間住宅地近くの旧海軍駐機場が17年に移転した影響も調べたが、中部全体では影響人口に大きな変化はなかったという。松井教授は15年にも、嘉手納基地の騒音による心筋梗塞や脳卒中で年4人が死亡しているとの推計結果を発表している。

 【ことば】Lnight(エルナイト) 夜間(午後10時から午前7時)の平均騒音レベルを指し、値が大きいほど騒音の激しさが増す。日本政府は日中の平均騒音レベル「Lden(エルデン)」を用いて環境基準値を設けており、夜間に特化した騒音の基準値はない。
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沖縄県内の10地点 WHOの推奨値を超過 夜間騒音で睡眠妨害
2019年3月14日 10:06 【琉球新報】

 2018年に世界保健機構(WHO)欧州事務局が改訂したガイドラインでは、睡眠への悪影響を及ぼすことから夜間の航空機騒音は40デシベル以下にするよう強く推奨している。米軍嘉手納基地周辺で県や市町村が騒音を計測している20地点のうち、2017年度は10地点で年間の夜間騒音平均が40デシベルを超えている。

 ガイドラインは、騒音にさらされることで起こる健康被害に関する研究がまとめられており、夜間騒音が40デシベルを超過すると高い睡眠妨害が起こるとした。

 県内で夜間騒音の年間平均が40デシベルを超過するのは、17年度の調査では北谷町砂辺(57デシベル)、沖縄市美原(53デシベル)、嘉手納町屋良(52デシベル)、同町嘉手納(50デシベル)など10地点。ただ、調査地点の多くは地上で発生する騒音が考慮されない計測方法を採用しているため、航空機のエンジン音など地上音を含めると実際はさらに高い可能性がある。ガイドラインは1日の騒音による健康被害もまとめた。45.4デシベルから10%の人が不快さを感じ、52.6デシベルからは心疾患の発生するリスクが5%高まるとした。55デシベルを超えると子どもの読む力、話す力が1カ月遅れるとした。
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20190329シタベニハゴロモ卵塊調査

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シタベニハゴロモの卵塊調査(2019年3月29日)

昨年(2018年)11月、シタベニハゴロモの卵塊を調査したが、
それから4カ月、
冬を越した卵塊はほとんど無傷のまま、ドロ状の覆いに包まれて生きていた。

下記写真は昨年11月11日に撮影



下記写真は同じところを今年(2019年)3月24日に撮影


3月29日には、周辺のすべての卵塊をそぎ落とした。
とりあえず、私の目についたこれだけのシタベニハゴロモのふ化を止めた。



金沢市都市樹木害虫防除検討会(アメシロ対策会議)で知りあった樹木医Aさんから、

 前略、みどり辺りではシタベニハゴロモたくさんいるのですね。小生もあちこちで見ています。
 現在最も心配しているのはクビアカツヤカミキリです。本種が県内に入ると大変なことになります。
 この他、帰化昆虫としてアオマツムシやスジアカクマゼミ、温暖化によって北上してきたイノシシ、シカ、クマゼミ(人為的なところもあり)、アライグマ、ハクビシン、ブラックバスやブルーギル、アカミミガメなど気にし出すとパニックになりそうな身の回りですね。





『過労死 その仕事、命より大切ですか』(牧内昇平2019年3月)

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『過労死 その仕事、命より大切ですか』(牧内昇平2019年3月)

 来年3月に定年を迎える労働者からプレゼントされた1冊です。
 読み進めていくと、友人がこの本をプレゼントしてくれた理由がわかりました。「第8章 心の病にたおれた『街の郵便屋さん』」でした。
 そう、その友人は郵政労働者だったのです。
 「自爆営業」の話しも出てきます。
 連れあいの友人の息子さんも郵政労働者で、年の瀬が近づくと、申し訳なさそうに「今年は、何枚買ってもらえる」という電話があり、受け取りに行くと、自家菜園で採れた野菜のおまけをつけてくれるのです。

 ちょっと不満なのは、この本が自己解決の手引き書のようで、原因者である資本にたいするたたかいが希薄な気がしました。とはいえ、被害者と家族の涙と怒りを共有することが最初の第一歩であり、そしてたたかう労働組合こそが、この不条理の根を絶つ「アルキメデスのテコ」であるという結論を必要としているのではないでしょうか。【はじめに】を転記します。

【はじめに】
― ぼくの夢 ―
大きくなったら
ぼくは博士になりたい
そしてドラえもんに出てくるような
タイムマシーンをつくる
ぼくは
タイムマシーンにのって
お父さんの死んでしまう
まえの日に行く
そして
「仕事に行ったらあかん」て
いうんや

 これは、お父さんを亡くした6歳の男の子、マー君の言葉です。テレビを見ながら何げなくつぶやいたのを、お母さんがノートに書きとめていました。マー君のお父さんは働きすぎが原因で自ら命を絶ってしまいました。亡くなる直前にはひどいうつ病になっていたようです。いわゆる「過労死」、もう少し詳しく言えば「過労自死」です。マー君のお父さんが亡くなったのは2000年3月のことですから、すでに20年近くが過ぎていますが、マー君の「ぼくの夢」は今もなお、過労死遺族の思いを象徴する詩として、たいせつに読み継がれています。

<「仕事に行ったらあかん」て いうんや>
 ここのところを読むたび、わたしは涙がこみ上げてしまいます。大好きなお父さんが急にいなくなってしまったマー君。愛する妻子を残して命を絶たざるを得なかったお父さん。二人の気持ちを思うと胸が苦しくなります。ひとは生きるため、幸せになるために、働いているはずなのに。

 新聞記者のわたしが「ぼくの夢」にはじめて出会ったのは、2012年の秋のことです。「全国過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)という遺族団体を取材したのがきっかけでした。

 その頃、家族の会のメンバーたちは過労死ゼロを目指す法律を作るための署名集めをしていました。国や自治体、企業などが一丸となって過労死ゼロをめざして取り組むための法律です。その取材をして新聞記事を一本書く予定でした。

 恥ずかしながら、当時わたしは過労死について通りいっぺんの知識しかありませんでした。毎年100人超が脳や心臓の病気による過労死で労災認定を受けていることは報道で知っていました。職場のいじめ・嫌がらせ(いわゆる「パワハラ」)も少しずつ問題になっていました。でも、そのことを真剣に考えたことはありませんでした。

 はじめは「なんとなく記事になるかな」といった程度の関心で取材を申しこみ、家族の会が都内で行う署名集めに同行させてもらいました。そこで出会ったのが「ぼくの夢」です。正確には覚えていませんが、遺族の方々が配っていた署名用紙かパンフレットかに印刷されていたのです。

<「仕事に行ったらあかん」て いうんや>
 はじめて読んだときからずっと、マー君の言葉が忘れられなくなりました。鈍感なタチなので、「雷に打たれた」などと言うのは適切ではありませんが、心の真ん中に強く印象づけられたのは確かです。そして、時間がたつうちにその存在感はじわじわと大きくなっていったのでそれには個人的なことも関係しています。その頃、我が家ははじめての子どもを授かったばかりでした。わたしが仕事でほとんど家にいなかったため、育児の負担や重圧がすべて妻一人にかかってしまいました。妻は初めての子育てに大きな喜びを感じつつも、しだいに心身の健康を害していきました。

 妻や息子の顔が、マー君の言葉に重なりました。いまわたしが死んだら二人はどうなるのか。幸い自分が大丈夫でも、そのかわりに妻が健康を害したら、わたしの仕事になんの価値があるのか。自分の身勝手さを見せつけられる思いで、マー君の言葉を正視できませんでした。

 わたしはこうして少しずつ、過労死を「自分ごと」として受けとめていったのだと思います。自分のせいで妻の具合が悪くなってしまったのにもかかわらず、それが最悪の場合「死」に至るということが想像できていなかったのです。情けない限りです。

 それ以来、わたしは心を入れ替えたつもりです。仕事と家庭のどちらが自分の人生にとって大切かを考え、家庭に無理がかかる業務は同僚に代わってもらうようになりました。そして、家族の会やこの間題に取り組む弁護士たちに協力してもらい、過労死の記事を書きはじめました。

 取材を進めて最初に感じたのは、「自分も危なかった」という思いです。わたし自身、いわゆる「過労死ライン」(1カ月につき80時間の残業)を超えるような働き方が続いていましたし、そもそも自分が何時間残業しているのか全く把握していませんでした(これはとても心配な状態です)。過労死だけでなく、うつ病の兆候もあったかもしれません。寝言でも仕事の話をしたり、週末に仕事がないと「今日は働かなかった」と自分を責めたりしていました。遺族の方々が語る亡くなった人の様子と重なるところがありました。わたしもいつ倒れてもおかしくない状態だったのです。

 新聞で何回か連載を書き、記事で直接紹介できなかった人も含めると、これまでにお話を聞いた遺族は50人ほどになります。簡単に「話を聞く」と書いてしまいましたが、遺族にとって体験を語るのはとても苦しいことだと思います。皆さんが涙を流して語るのを、こちらも涙をこらえながら必死でノートに書きつけました。

 これから紹介するのは、わたしが取材で出会った11人の方々の生きた軌跡と遺族のその後です。過労死やパワハラ死を「自分ごと」として考えてもらうことが本書の主眼です。先ほども書いた通り、多数の死者が出ていることは、新聞やテレビがとりあげています。けれども、犠牲者の数だけではピンとこないものです。少なくとも「ぼくの夢」と出会い、遺族に取材させてれた家族はどんな気持ちでその後の人生を送っているのか。そうしたことが分かってはじめて、ひとは失った命の重みを実感できるのだと思います。文字数の限られている新聞記事よりも書籍の方が一人ひとりについてたっぷり書けると考えました。

 あなた自身やど家族の中に長時間労働やパワハラで苦しんでいる人はいないでしょうか。友人や同僚たちはいかがでしょうか。「まあ、なんとかなるだろう」と思っているうちに、明日突然その人に不幸が訪れるかもしれません。そうした危機感を持ってもらえれば、今日からの働き方、周りへの接し方がきっと変わると思います。

 「過労死」という言葉が世の中に広まったのは1980年代のことです。それから30年以上たちましたが、今もなお、たくさんの人々が仕事のために命を奪われています。社会として恥ずべきことです。わたしたちは力の限りを尽くして、こんな不条理の根を絶たなければいけません。本書がそのきっかけの一つになればと考えています。

 本書で紹介する方々の氏名については、本人の要望等に即して適宜仮名やイニシャルで表記しました。年齢は取材当時です。亡くなった方の勤務先企業名については、労働基準監督署や裁判所で死亡と仕事との因果関係が認められた場合に限り、実名で表記しました。第8章の日本郵便については、業務の特殊性等に鑑み、実名での紹介が必要と判断しました。

20190402新元号を詠む

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20190402新元号
 4月1日午後以降のTVの天皇制垂れ流し報道にウンザリして、TVを消して詠みました。


悪政の 煙幕として 新元号
アベ・スガの 新元号ニヤリ スケベ顔
元号に 乗っ取られたり TV局
科学者も 科学を捨てて 産む元号
血の雨で ゼロ(零)にさせよう 天皇制

20190409 このコラムニストは、誰か、当ててみよう!

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このコラムニストは、誰か、当ててみよう!

 2019年3月4日号の『プレジデント』に、韓国大法院(最高裁)による徴用工判決に関するコラムがある。「設問」も「回答」もコラムニストの言葉である。

(1)国際司法裁判所や仲裁委員会を利用することも可能だが、
 →前者は日韓が合意しなければならないし、後者は日韓協議による外交的解決が不可能になってからの話である。

(2)日本の政治家や自称保守論客たちは、…1965年の日韓請求権協定締結という一事をもって勝ち誇り、日本企業の責任を認める韓国の主張は不当だ! 徴用工問題はすべて解決済みだ! 「韓国大法院の判決に韓国政府は従うな!」「韓国民の請求権は消滅している!」「時効で終わっている!」などという、
 →これらの日本側の主張は、法理論的には通らない。三権分立の国なら、司法の判断に政府が従うのは当然だし、日韓請求権協定が締結されたとしても韓国民の個人的請求権は残存するし、それが時効消滅しない場合もあることは法理論上確定している。

(3)菅義偉官房長官や一部メディアが「日韓請求権協定という国際条約には行政(政府)のみならず、立法(国会)も司法(裁判所)もそれに従わなければならない。そうでなければ条約は意味をなさなくなる」と主張しているが、
 →これも法理論上間違いである。

 コラムニストは「第三者の判定に頼らず、日本と韓国という当事者間において自分の主張を相手に認めさせることが紛争解決の柱となり、…日韓当事者によるガチンコのケンカとなる。ところが、日本の政治家や自称保守論客たちは、どうも当事者によるケンカの作法を知らないようだ。」と言い、

 続けて、コラムニストは「相手が絶対に反論できないような主張・立証を尽くさなければならない。そのためには、自分の立場の弱い部分を徹底的に分析・把握をして、相手からの反論を予測し、それに備えた主張・立証をしなければならない。自分の弱さを知る。これがケンカの作法だ。」と言っている。

 だが、コラムニストは「徴用工問題」で韓国とどうケンカするのかについてはひと言も述べず、上記3点で、勝算がないと、頭を抱えているようだ。理の当然である。非は日本にあり、事実認識を深め、謝罪することこそが問題解決の入口に立つという、最も単純な解決方法を封印しているからである。

 では、このコラムニストは誰か? 2013年5月に、「慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と、「慰安婦」必要論を唱えて、世の顰蹙を買った橋下徹である。



20190422 志賀原発訴訟傍聴記

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20190422 志賀原発訴訟傍聴記

 4月22日、1年ぶりに志賀原発訴訟の口頭弁論が開かれた。昨年3月の口頭弁論で、金沢地方裁判所は原子力規制委員会の適合性審査の結果が出るまでは弁論をおこなわないとして、1年1カ月も裁判が停止していた。

 志賀原発訴訟の原告・被告双方の主張、立証はとっくに終わっているのに、裁判所が今回の口頭弁論をひらいた理由は大間原発訴訟の判決についての意見を聞きたいというのだ。

 口頭弁論では、原告の意見陳述がおこなわれた。原告は、①住民が避難するような事故は起こらない、②原発コストが安い、③原発はクリーンだという、「原発神話」を批判した。

 続けて、原告は、裁判所が待ち望んでいる規制委員会の適合性審査について、「未だに審査の対象とする断層をどう絞り込むかという入口の議論を続けています」とのべ、裁判所は危険な原発をそのまま放置して、いつまでも判断を先延ばしし、住民の命と暮らしを脅かしていると、裁判所の無責任を追求した。

 次回口頭弁論は8月1日(木)午後2時からおこなわれる。住民の生活と命をないがしろにし、国と北陸電力に救済の手をさしのべようとしている金沢地裁の逃げ道を塞ぐために、金沢地裁に駆けつけ、傍聴しよう。

20190427短信 映画『金子文子と朴烈』と『1982年生まれ、キム・ジョン』

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20190427短信 映画『金子文子と朴烈』と『1982年生まれ、キム・ジョン』

 数日前、『金子文子と朴烈』を見てきた。天皇制賛美の大洪水のなかで、1923年の「大逆罪」でっち上げの物語である。

 昨日から、『1982年生まれ、キム・ジョン』を読んでいる。連れ合いから薦められた本である。世の男達こそ読むべき本である。

 友人に貸した『過労死』が戻って来た。友人は、「ほとんど読めなかった」という。理由は、「20歳代におなじような職場環境で、フラッシュバックしてきて辛かったから」という。涙だけでは読めない現実が身近にあった。

20190501―50年ほど前のこと、

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20190501―50年ほど前のこと、

店番をしながら、トロツキーの『我が生涯』を読んでいた。
とある土建屋の社員(私より10歳ほど年上か)が来て、
用事を済ませて、机を覗き込んで、
「おもしろそうな本、読んでるじゃないか」と、からかってきた。

少し話すと、
「小学生のころ(もちろん戦前だ)、先生に、天皇はウンコするんけ、と聞いたら、校庭に立たされた」と話し始めた。
おっと、土建屋の職員が、天皇批判を始めたのだ。

未だ、途中だったが、
「それ、読みたい」というので、渡したら、
数日後に、本を戻してきて、一言、
「おもしろかった」と。
忘れられない、50年前のことだ。

昨日も、今日も、テレビ番組表を見ると、
国営テレビも、民放も、
朝から、晩まで天皇報道だ。
30年前は、も、ちょっと、アクションがあったが、
今は、賛美一色だ。
変わらねばならない。変えねばならない。この国を。

20190507 【論考】 体制順応型作家を拒絶する島田清次郎

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【論考】 体制順応型作家を拒絶する島田清次郎

 石川近代文学館に、島田清次郎(島清)の遺品として100ページほどのノート(『雑記帳』と呼ぶ)が遺されている。2018年12月に閲覧して、これは島清の実像を明らかにする重要な資料だと確信し、2019年1月から学芸員の協力を得て、解読・活字化作業に取り組んでいる。

 この『雑記帳』は1921年ごろに書かれたもので、一切他者(編集者)の手が加えられていない、生の島清の声(嘆き、喜び、悔し涙、嫉妬、尊大)に満ちている。1919年以前に書かれた『早春』(1920年発行)、1920年に書かれた『閃光雑記』(1921年発行)に続く創作メモである。他に1922年ごろの『日記』があるが、杉森久英の手に渡ったあと行方不明になった。

 この『雑記帳』のなかに、どのような島清の姿があるのか。何点かについて論考を試みたい。

(1)島清の文壇批判

<武者小路実篤のユートピア>
 島清は、<(27頁)武者小路が生意気なことを「新潮」で言ってゐるげな笑止千万。「新しき村」なんぞ機関銃一挺で全滅をさせてみせるぞ生意気小僧め>、<(32頁)「新しき村」(1918年開村)も毒にも薬にもならぬものである丈、黙って、まず好意を以て傍観してゐるつもりでゐた、が、あの六号を見て、…やはり、君も下らない奴なんだな、と考へた>、<(34頁)自分は君達のやうに、遠い日向(注:宮崎県)の山奥まで引っこもうと思はぬ、あくまで東京の真ん中にゐて一国すなはち世界文明の中心力となってやるつもりだ>と、虚勢を張りながら、武者小路実篤を罵倒している。さらに紙片には、<武者はヘボなトルストイの弟子…略…彼の新しい村は、つまり彼の財産保護の手段>とまで、書き殴っている。

 武者小路はキリスト教、トルストイなどの影響を受けて、志賀直哉、里見弴、有島武郎などとともに、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げて、雑誌『白樺』を発行した(1910年)。1918年(T7)に、武者小路は「人間らしく生きよう」を掲げて、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を開いたが、それは現実の社会批判を欠いた「ユートピア」幻想であるとして、島清はかみついているのだ。

 続けて島清は<(59頁)「人間」などゝと云ふ奴等よ、汝らは今の権力者の抱え文士共に違いないぢゃないか。汝らは「人間」でなくて人間以下でしかないぢゃないか>と、痛烈に批判している。ここで言う『人間』とは、玄文社発行の文芸雑誌で、吉井勇、田中純、久米正雄、里見弴らが編集し、有島生馬、久保田万太郎、児島喜久雄、秋田雨雀、有島武郎などが執筆している。

<菊池寛の穏健社会主義>
 1919年『恩讐の彼方に』を発表し、文壇に確固とした地位を築きあげた菊池寛にたいして、島清は、<(70頁)菊池のごときは黙ってをれ、俗人間は果して□□りや否やを考へる前に、誰れか何も言ひはせぬかを考へ、大丈夫と見てとってはノサバリ出る。菊池の今状はこれだ、みっともない、もっと□□するのがよからう>と、菊池を批判している。

 菊池寛は、島清からこれほど批判されながらも、1924年再版された『地上』第一部(地に潜むもの)の巻頭に、島清が強制入院させられた事情を書きながら、<『地上』第一巻の如き凡庸者の手になるものではない>と推薦文を載せている。

 同年、菊池寛、秋田雨雀、安部磯雄ら九人が発起人となって、「日本フェビアン協会」を創設した。綱領には「社会主義が空想として扱われた時代は過ぎた。人類は今、社会主義が主張する提案の採否をすべき時機に臨んでいる」と謳っているが、1921年ごろの島清は急進的であり、穏健社会主義志向の菊池寛には魅力を感じなかったのだろう。

 その菊池は、1942年、日本文学報国会が設立されると、議長となり、戦争に協力していった。

<岩野泡鳴の民族主義>
 島清は岩野泡鳴について、『雑記帳』に、<(66頁)ボルシェビキの泡鳴と虚像>とメモを残しているが、『早春』(1919年ごろ)では、<私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、泡鳴の日本主義(民族主義)が現実弁護に陥っていると批判して、島清自身の思想が民族主義と相容れないことを語っている。

 当時も現代も革命を語りながら民族主義に陥り(共産党は天皇の即位に「祝意」を表明した)、結局は自国の戦争に賛成・協力し、革命を放棄してきた負の歴史がある。

 文学史上の岩野泡鳴は自然の事実を観察し、「真実」を描くために、美化を否定する「自然主義作家」と評されている。自然主義文学は現状肯定的であるが、社会の真実をみつめ、資本主義の現実を認識するという側面もあり、自然主義のリアリズムを発展させ、1921(大正10)年には、雑誌「種蒔く人」などプロレタリア・リアリズムの方向性も生み出した。

 しかし、島清は本質的であり、急進的であり、体制に順応していく作家には不満だったのだろう。

<山本有三も北原白秋も>
 島清は、<(96頁)「女親」【注 山本有三1922年】を見た。きわめて不快な芝居である。作者はどんなつもりかは知らぬが、徹頭徹尾ブルジョアの勝利を感じさせる芝居である>と、山本有三をブルジョアに屈服した人道主義的な劇作家と酷評している。

 <(93頁~)ある女性が余の下宿を訪れて、話しの□□ふて曰く「一切合財皆煙り」と>。これは北原白秋の「煙草のめのめ」(1919年)の一節で、「煙草のめのめ空まで煙せ/どうせこの世は癪のたね/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙」からの引用である。

 つづけて、島清は<それは思索力未熟なる□□□□感傷僻…略…決して一切は煙りではありませぬ。煙りであるものは煙り丈けです。…略…その人の主観即その人自身が煙りなのであります。換言すれば、一切は煙りであると唄ふ、当方自身がすでにくさり果て、滅亡してゐることを尤も雄弁に語ってゐるものであります>と、北原白秋の頽廃的、自暴自棄性を見抜いて、痛烈に批判している。

<賀川豊彦への羨望>
 島清は、10歳年上の賀川豊彦(1888年生まれ)について、<(88頁)賀川君ら農民組合を作るの議ありと云ふ。君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか。いろんなところへ下手な野心家らと手を出すより、君らのやりかけてゐることから第一仕上げ給へ>と、上から目線で『雑記帳』に書いている。

 賀川豊彦は、1919年に友愛会関西労働同盟会を結成、1920年に労働者の生活安定を目的として神戸購買組合を設立、1921年に神戸の三菱造船所、川崎造船所における大争議を指導し、1922年4月には日本農民組合を設立し、1923年に関東大震災が起きると、直ちに現地に駆けつけ、罹災者救済活動をおこなった。

 自らは実践的な活動をろくにしない島清が、このような尊大な態度を取っているのは、100万部超の大ベストセラー『死線を越えて』(筆者の父も「呉竹文庫」から借りて読んでいる)を生み出した賀川にたいする嫉妬心から来ているのだろう。こんな調子だから、親しい友人ができなかったのも、うなづける。

 裏返しとはいえ、島清が農民組合や労働運動に強い関心を持ち、<(76頁)私一身を守るに力を注いでゐた私は、今や私一身を捨てゝ、諸君のために働きます>という自己変革の願望に繋がっているのではないか。

<本来の文芸とは>
 島清は<(67頁)文学者金をためるな>とわざわざ太字で書き、売文業にいそしむ「お抱え文士」をこき下ろし、続けて、<己れは文学者全体を実生活上に於ける□□とみてゐる。こんなものを相手にしてゐるひまはない>と、当時の作家を、権力に屈服した体制順応型作家とみなして、なで切りにしている。<(90頁)日本文芸界に関する一考察。一、本来の意義に於ける文芸。一、職業としての文芸>と、「本来の文芸」と「職業としての文芸」に明分し、島清は「本来の文芸」をめざすべきと主張した。

 では、「本来の文芸」とは何か。島清は<(75頁)私は今日まで、他人(全民衆と全人類)のために働かねばならぬ、といふ一心を内に把持し、そのために私一身のために戦って来ました。しかし、…略…今や私は今日まで内に秘してゐた、「他人のために働く」ことを開始しなくてはなりません。私の今度の□□は、とりも直さず、この私の生活の一大転機をなす、一ポイントであります>と、「本来の文芸」はブルジョアジーと対峙し、実践・行動を自らに課すものであり、作家は反体制を旨とすべきだと考えている。

<文壇からの孤立>
 このように島清は、必要以上に、文壇を敵にまわし、孤立した。<(17頁)予を或ひは不良者、あるひは狂人と罵る人あれど、余の生活、行為、事業のどこに狂人めいたことがあるか、少しもないではないか。ただ一部の人は余を狂人と思ひたいと考へる丈のことである>、<(28頁)天才よ、偉人よと云ふてくれるもあり、馬鹿狂人とののしるもある。狂人か偉大人かはこの己も、何れが真か分り兼ねつも、狂人か偉大人かはこの己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る。かにかくに狂人と偉人の境界をよろめきながら生くる己れかも>。

 1921年時点で、すでに島清にたいして、「狂人」「誇大妄想狂」「不良者」など、猛烈な誹謗中傷があり、島清は防戦に必死の形相である。島清による文壇、とくに白樺派(武者小路実篤ら)批判が、その当否は別にして、体制順応型の文壇には破壊的だったからだろう。

 美川共同墓地にある島清の墓碑はすでに苔蒸し、訪れる人もなく、ひっそりと立っている。戦後、杉森久英の『天才と狂人の間』によって、島清の虚像が独り歩きしており、今こそ島清の再評価が必要なときである。


注:引用に差別的表現があるが、差別するためではなく、差別を批判するためであり、ご理解願いたい。解読不明部分は□で表記した。

20190518 島清が語る「舟木事件」について

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島清が語る「舟木事件」について

 島清の『雑記帳』(100ページ)の活字化作業も終盤にかかっている。その過程で、島清の遺品のなかにある『フランス社会運動慨勢』(原稿用紙3枚)を閲覧し、読んでいるが、後日報告したい。
 ところで、先日、知人のKさんから1924年2月11日付けの舟木芳江にあてた島清の手紙(2枚中の1枚)のコピーを入手した。この手紙は徳富蘇峰から明翫外次郎に、そして小林輝冶さんにわたったものだという。小林輝冶さんは『北國新聞』(1983年3月)に連載された「狂気の淵から⑥」で、この手紙について述べ、舟木事件はでっち上げられた事件だと判断している。
 今回入手した1ページ目と、入手出来なかった2ページ目は小林輝冶さんの記事中から抜き書きして、みなさんに読んでいただきたい。

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大正十三(1924)年二月十一日
                                嶋田清次郎
舟木芳江様

 冠省、小生は今此手紙を御身に差し上げ得る心の明るさをうれしく思ひます。昨春逗子で御別れして以来は、一度も御目にかゝらざるのみか、最も親密である可き相思の君と、お互に真の相手ならざる他の■■と戦ふごとき、心ならず■■■をつゞ■して■、返す〴〵■遺憾に存じます。

 去る九月一日の震災■は御一同無事との報を得、安堵いたしをりなりしに、晩秋の後御尊父御逝去の御聞知(ぶんち)し、早速御弔みにもと存じましたが、遠慮をしをりたる次第。生前一度は御目にかゝりたしと念じゐたるに、――――。重信君は、遠く独逸に在り、いさゝか寂寥の情他人事とも思はれずに、昨年■■の時分、重雄兄よりのパンフレットを、とある旅舎で受取りましたが、――――今は震災後でもあり、何んとなく、心からみなさんが、冷静に心の明るさをとりかへしてゐられるだらうと思ひますので、一、二点誤解と思はれる節しを記憶をたどって、御身にまづ申上げ、御身並びにご一家の再考を乞ひたいと思ひます。

 何よりの事の起りは八日の日御身が私を怒らしたでせう? ――――あの事にあると思はれます。あなたでなくてはならない、とかたく思ひこんで、種々準備(?)をしてゐ、ずゐ分待

(以下2ページ目を小林輝冶さんの「狂気の淵から」⑥より引用)
 たされた揚句の八日に、あなたは来て、何とかいふ学生とすでに恋仲であるとか、又は、その日わづかに一面識を得たに過ぎざる小生にとっては全くの他人に過ぎざる小が平【注:小川平吉】の息女を指して「この方がいゝだらう」などゝ言はれて怒らざる男があるかどうか。小生は真実世界がひっくりかへる程怒ったのです。(略)この非常な、自己の最深最大の真情を侮辱せられた憤怒から発したその後の一切の行動であったことをよく、あの当時の事を考へ合はせてのみこんで下さい。



【注】ここで言う「八日の日」とは1923年4月8日のこと。2日後の10日に警察に捕まった。
   解読できなかった文字は■で表記した。「狂気」は差別表記であるが、転載なので、そのまま表記した。
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