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20190524 島田清次郎 「仏蘭西社会運動慨勢」 翻刻

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島田清次郎「仏蘭西社会運動慨勢」論考

 原稿「仏蘭西社会運動慨勢」は強制入院中に亡くなった島清から遺族に引き渡された遺品や他の原稿類のなかに入っていたから、1924年強制入院後の執筆として扱われてきたが、内容を精査すると、論中に「C.G.Tは今春決然分裂するの已むなきに至った」と書かれており、「今春」とは1922年春のことである。したがって、書かれた時期は1922年である。

 島清は1922年4月に米欧旅行に出発し、12月に帰国している。旅中のフランスか旅客船のなかで執筆したのであろう。

 「仏蘭西社会運動慨勢」で、島清はフランスの社会主義政党の指導部の転向・変質、左右(改良的、革命的)のサンジカリズム、フランス労働総同盟の分裂について、正確に把握している。その上で、島清は革命的サンジカリズムを支持しているようだ。

 島清は、1914年に第一次大戦が始まるや、フランス社会党が「独逸打つべし」と祖国防衛方針に転じ、自国の戦争に協力し、労働者兵士を死に追いやったことを批判している。島清が国際主義に立ち、民族主義を批判しており、真っ当な階級意識を表白している。現代日本でも、「戦争で北方領土を取り戻せ」などと排外主義が跋扈するなか、現代の私たちこそが、真剣に学ばねばならない論点である。(2019.5.23)


注:「仏蘭西社会運動慨勢」は島田清次郎の未発表作品で、石川近代美術館に所蔵されており、特別閲覧で翻刻した。

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島田清次郎 「仏蘭西社会運動慨勢」 翻刻

A 労働運動
 仏蘭西■■■■最近労働運動の傾向に於て最も興味深く意義あるものはC.G.T(Confédération Générale du Travail)【注1】の分裂である。
 一昨年Tours【注2:トゥール】のC.G.T国内大会に於て分裂の危機に傾ひたC.G.Tは今春【注:1922年】決然分裂するの已むなきに至ったのである。

 旧C.G.T及C.G.T.U(Unitaire統一)との二労働団体である。

 Rue Lafayette【注3:ラファイエット通り】(C.G.T本部)のSyndicalism eréformiste【注:改良的サンジカリズム】を去った労働者はRue Granges Aux Belles【注:鐘のグラングス通り】のSyndicalisme révolutionnaire【注4:革命的サンジカリズム】に投じたのである。

     ×    ×    ×
 社会主義者Briand【注5】、Millerand【注6】の徒が議会に入り内閣に登るや、仏蘭西労働者の■認と期待とを裏切った如く、或は1914大戦の勃発と共にJuls Guesde【注:ジュール Guesde】等によって率いられた仏蘭西社会党が「独逸打つべし」と叫び、Juls Gesde等の社会主義者は内閣に参し、而して仏蘭西幾千のプロレタリヤを屠殺場に送った如く、旧C.G.T幹部は彼の1920仏蘭西全ブルジョワーを戦慄せしめたるSyndicalisme révolutionnaireを何時の間にか L'Action Francaise【注7:アクション・フランセーズ】等によって代表せらるゝブルジョワー的若くは王朝讃美(Royaliste)的、Catbolique【注:カソリック】的新聞、一言にすれば一切の反動的新聞によって讃辞を捧げらるゝ程融和的Syndicalisme réformiste【注:改良派サンジカリズム】に豹変したのである。

 政治家に対して、指導的Intellegeucia【注:インテリゲンチャ】に対して、chefs(首領)に対して、反逆して生まれた新しい労働運動指導の原理が即ちSyndicalisme Rév【注:革命的サンジカリズム】である。仏蘭西労働階級は嘗てはサン・シモン、フリェ、ルイ・ブラン等【注8】によって予言されたSocialisme Utopique【注:空想的社会主義】に■■した。所謂公明正大、所謂民衆と真理に忠実■■■政治家、学者等に依頼した。或は社会党にも依頼した。がしかしすべての依頼や希望は微塵に破砕された。この苦々しい而も尊い幾多の経験は仏蘭西労働者群をしてSyndicalisme Révの真理を把握せしめた。

     ×    ×    ×
 幾多の体験の結晶として生まれたSyn.Rév【注:革命的サンジカリズム】はその正しき目的に向って、雄々しく突進したであらうか。そのとるべき道を堂々と踏んで行ったであらうか。

 最近仏蘭西労働界に於けるC.G.TとC.G.T.Uとの二対立は仏蘭西Syndicalismeの進化発展を明示する歴史的現象である。

 Syndicalismeの発展とは何であるか。

 Syndicalismeはその根本原理の一つとしてIndividualisme【注:個人主義】をとる。■に部分的原理にあらずして全体的根本的原理としてゞある。

 労働組合及各個人のe'Autonomic(自動)【注:自治】はCentralismce【注:中央集権主義】に対するFediralisme【注:連邦主義】、Ristaturismeに対するAnarchisme【注9:アナーキズム】を宣言する所以である。

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【注1】C.G.T(フランス労働総同盟 Confédération Générale du Travail)とは、フランス最大の労働組合連合組織。 1895年結成され,1906年アミアン憲章を採択してサンディカリズムをその基調とした。 1922年プロフィンテルン加盟をめぐって右派のC.G.Tと左派のC.G.T.U(フランス統一労働総同盟Confédération Générale du Travail Unitaire)に分裂した。

【注2】トゥール:フランスの中部に位置する都市

【注3】ラファイエット:フランス人権宣言を起草。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論の自由、第17条で所有権の不可侵を謳った。

【注4】Syndicalisme révolutionnaire(革命的サンディカリスム)の支持者は労働組合を、資本家による労働者の搾取体制を覆すためだけでなく、多数派の利益に基づき社会を公平に運営するのにも、適した手段となりうると考える。労働組合は政治活動ではなく直接行動を行い、ゼネストで資本主義体制を倒して革命を達成し、革命後は企業でも政府でなく労働組合が経済を運営する。<Syndicalisme Rév>、はその短縮形。

【注5】アリスティード・ブリアン(Aristide Briand, 1862年3月28日 - 1932年3月7日)は、フランスの政治家。首相、外相などを務めた。 ナント出身。最初はサンディカリストとして活動したが、ジャン・ジョレスの引きでフランス社会党に入党。1902年には執行部入りし、しばらくの後国民議会議員となる。その後急進社会党に籍を移し、1909年にジョルジュ・クレマンソーの後を受けて首相に就任する。以後、1913年・1915年・1921年・1925年・1929年とたびたび首相に就任する。

【注6】アレクサンドル・ミルラン(Alexandre Millerand)はフランスの政治家。第一次世界大戦後の1920年1月から首相となり同年9月第12代大統領(フランス第三共和政)(在職1920年-1924年)。 1885年に代議士に当選し政界入りを果たし、最初急進社会党と行動を共にすることが多かったが、後に共和主義社会党に鞍替えする。1899年から1902年までピエール・ワルデック=ルソー内閣の商相となったが、この時の入閣では社会党内の内紛を招き結果として彼は社会党を去り共和主義連盟に再度鞍替えしている。その後、1901年から1911年まで公共事業・通信相、1912年から1913年および1914年から1915年まで陸相を務めた。

【注7】アクション・フランセーズ(L'Action Francaise)とは、1894年に発生したドレフュス事件を契機として結成された、フランスの王党派組織。1899年に創刊された同名の機関紙に由来する。シャルル・モーラスなどの反ドレフュス派(反ユダヤ主義者、保守主義者)の知識人を中心に結成され、間もなく王政支持に転向。最も徹底した反共和主義の運動として相当の影響力を持った。

【注8】サン・シモン、フリェは空想的社会主義者。ルイ・ブランの言葉に「各人がその才能に応じて生産し、その必要に応じて消費する」がある。

【注9】<Ristaturismeに対するAnarchisme>は<全体主義に対する無政府主義>ということであろう。

20190602 島田清次郎研究に欠かせない未発表遺稿

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島田清次郎研究に欠かせない未発表遺稿
【小冊誌『島田清次郎・未発表作品の翻刻と思想的検証』』(6月下旬発行予定)のあとがきより】

島清遺稿の翻刻作業
 私がはじめて、島田清次郎の作品を読んだのは40年以上前になりますが、その時から島清作品にはマルクス主義世界観が反映していると感じていました。昨年秋、「石川県のダークツーリズム」をまとめていて、あらためて島清を読み直そうと思いたち、諸著作を読みはじめ、1月に「論考 島清の思想的検証」を書き上げました。

 この論考を書いている途中の12月に石川近代文学館を訪問し、遺品のなかに『雑記帳』『雑筆』などたくさんの未発表遺稿があることを知りました。

 1982年に、石川近代文学館に寄贈された島清の未発表原稿は、近代文学館作成のリストによれば700ページ(原稿用紙、罫紙、ノート)以上あります。

 遺稿寄贈後、小林輝冶は1983年から90年にかけて、主として作品(小説)の翻刻に注力しており、それらの作品の筋立てには混乱がなく、正当に評価されるべき内容であり、入院後しばらくして統合失調症の症状は安定したのではないかと分析しています。

 加えて、遺稿には『雑記帳』『雑筆』(小林輝冶の言う『日記』か?)があり、島清の実像を明らかにするためには、これらを翻刻し、議論の対象に上げるべきと考え、今年1月から、Kさんの協力を得て、『雑記帳』(100頁)の翻刻に取り組みました。小林輝冶と私たちで翻刻した分量はわずか150ページ程度にすぎず、未だ約550ページ分の未発表原稿が残されています。

『雑筆』の閲覧不許可について
 5月中旬には、『雑記帳』の翻刻作業もおわり、石川近代文学館の島清遺品リストにある『雑筆』(17頁)の閲覧を申請しましたが、資料の劣化と個人情報を理由に閲覧申請は却下されました。資料の劣化は、これまでに閲覧・翻刻した『雑記帳』も『仏蘭西社会運動慨勢』も同様で、原本ではなく写真化した二次資料の閲覧により、翻刻作業をおこなっており、何ら問題はありませんでした。

 閲覧不許可の主要な問題は個人情報だと思い、島清の遺族Nさんに閲覧・翻刻の了解を得て、再度閲覧申請をおこない、責任者と面会しました。

 『雑筆』に含まれている個人情報について確認したところ、責任者は、小林豊や舟木芳江の関係ではない、島清及び「他の個人」であり、「他の個人」のプライバシーを配慮して、閲覧不許可にしたと回答しました。話し合いの最後に、「他の個人」が特定される部分を非開示にしてでも、閲覧を許可してほしい旨伝えて、再々度の検討を約束しました。

島清研究
 この話し合いのなかで、学芸員から、「小林輝冶先生は島清にとって都合の悪い遺稿は翻刻しなかった。未翻刻の遺稿にはそういう意味がある」という趣旨の発言があり、文学館は島清の実像ではなく、「美しい島清像」を作りたいようです。これでは、「狂人」という虚像で、島清の人格を否定した杉森久英の逆パターンで、新たな虚像を作ろうとしているだけなのではないでしょうか。

 しかし、小林輝冶は徳富蘇峰への島清の手紙を翻刻するにあたって、厳しい部落差別も被害妄想の症状もそのまま翻刻しており、決して恣意的に島清の「弱点」を隠そうとはしていません。学芸員は小林輝冶の仕事を誤解しています。

 私たちは、島清が作家として大きな仕事をしたこと、島清がソーシャリストを自認していたこと、その思想に基づいて作品を書き、青年大衆の支持を得たこと、そのことによって権力によって否定的対象とされたこと、そして文壇から排除され、生活が成り立たなくなったこと、放浪生活の揚げ句警察に捕まり、精神病院に監置されたこと、病院監置によってむしろ症状が悪化したこと、退院と引き替えにソーシャリズムを捨てようとしたこと、遂に退院はかなわず病死したこと、作品中には部落解放を謳いながら、私信では差別的表現が目立つこと、女性の自立・解放を謳いながら、私生活上ではDV加害者であることなど、プラスマイナスのすべてを島清の全人生として受けとめてこそ、島清を日本文学史のなかに正置することができるのではないでしょうか。

 したがって、『雑筆』は島清の絶筆前後の重要な「私記」であり、閲覧・翻刻して、島清の最後を明らかにすることこそ、島清研究者の仕事だと確信しています。

島清理解をこじ開ける鍵
 本小冊誌(論考集)は島清作品のなかに、どのようにマルクス主義が反映されているかという問いにたいする私なりの回答です。リベラルな評者は島清を理想主義者と評しても、現実の島清のあり方とのギャップをもって、結局は島清を「変人・狂人」扱いして否定する結果を招いています。

 辛うじて、そこからの脱却を試みているのが、奈良正一(1969年「社会主義的な文学」)、小林輝冶(1983年「社会主義的傾向」)、豊崎由美(2004年「プロレタリア文学を予告」)の島清評です。しかし、いずれの評者も島清のソーシャリズム(社会主義)そのものには踏み込まず、島清の本質的思考に迫っていません。

 島清の遺族・西野芳顕さんは、島清追慕碑(小川町1957年)に、「超世革新的思想は時勢に容れられず…世紀の恨事惜しむべし」と刻みましたが、60年後の今も受けとめられずにいるようです。島清は『雑記帳』(1921年)で「狂人か偉大人かは、この己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る」と記していますが、島清死後すでに90年が過ぎ、墓碑もすでに苔蒸し、命日にも誰一人訪れなくなっており、今こそ島清の実像を明らかにする時機ではないでしょうか。その鍵は間違いなくマルクス主義哲学にあり、そこから島清(作品)を読解することだと思います。

病院監置で力尽きた島清
 島清は1920年に日本社会主義同盟に参加していますが、1921年の『地上』第三部では、ブルジョア人道主義への揺れが垣間見られます。しかし、1921年の『雑記帳』、1922年の『仏蘭西社会運動慨勢』では、島清の社会主義志向にぶれは見られません。

 関東大震災の翌年1924年7月に、島清は挙動不審で警察に保護され、金子準二の診察を受けて、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚保養院に強制的に入院させられました(金子準二は「精神病と犯罪は同胞」「共産党と精神異常は関係がある」と主張。1936年の断種法案に反対した精神科医)。島清は徳富蘇峰に、「六畳の机一つない一室」「二名と同室監禁」「生き埋めの如き監禁状態」と、入院中の窮状を訴えているように、厳しい病院監置状態に置かれていました。

 強制入院から半年後の1925年4月の手紙では、島清は「(入院の原因は)社会党結社事件に関連する嫌疑」ではないかと書き、しかし「小生はもはやソーシャリスト(注:社会主義者)ではない」(4月)、「外遊後の余の右傾」(9月)と、一刻も早く退院したいがために、転向の意志を伝えた上で、徳富蘇峰に退院の力添えを要請しています。ソーシャリスト島清は、ここで力尽きたのではないでしょうか。

島清のもう一つの属性
 1925年4月の徳富蘇峰への手紙では、統合失調症の症状はまだ見られませんが、同年8月と9月の手紙では、「T・Sらによって暗殺が企てられ、家を乗っ取られる」とか、「水平社族か下級警察が余に復讐」などという被害妄想が激しく現れており、島清は精神病院での長期監置による統合失調症の悪化が現れていたと考えられます。

 この症状が改善したのか、否かについては、入院中に執筆した作品(一部翻刻)とともに、とくに『雑筆』(1929年絶筆直前ごろの「私記」)を閲覧しなければ解明出来ないでしょう。

 1919年『地上』第一部発行からの100年間、島田清次郎に関する評論はかなり多数にのぼっています。その多くは「島清=狂人」論に立ち、島清の人格的否定を結論づけています。とくに、杉森久英の『天才と狂人の間』(1962年)は島清研究のバイブルの位置にあり、その後の島清論に大きな影響を与えてきました。1982年11月1日付『北國新聞』でも、杉森久英は「清次郎は基本的には狂人」と話しています。

 統合失調症を理由に島清を全否定するのではなく、島清の属性として受け入れるべきであり、むしろ不当な長期監置が症状を悪化させたことこそが問題だと思います。

最後に
 島清存命時には、精神医学者呉秀三らによって、私宅監置の否定、拘束具の使用禁止や作業療法の活用など精神医療での改革が進んでいましたが、島清や家族が退院許可をくりかえし要求しても、敢えて退院の許可を出さなかったのは、権力からの圧力か、権力への忖度があったからではないでしょうか。そこには、島清の作家としての復活を怖れる権力の存在を疑わざるを得ません。

 島清研究は、再三述べてきましたが、権力に楯突く作家・島清とそれを封じ込めようとする特高警察と精神障がいを発症した島清の全体像を明らかにすることであり、きわめて今日的な課題だと思います。

注1:論考上、「狂人」という言葉を使いましたが、差別を拡散するためではなく、精神病者差別を批判し、訣別するために使用しました。
注2:敬称は省略しました。

20190607島田清次郎研究のために未発表作品の開示を

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島田清次郎研究のために未発表作品の開示を

 5月上旬に、石川近代文学館に、島田清次郎最後の原稿『雑筆』の閲覧を申請したが、保存状態と個人情報を理由にして、5月14日付で閲覧を却下された。保存状態については、これまでに写真(2次資料)での閲覧を受け入れてきたので、理由にはならない。

 島清の個人情報が閲覧の障害になっているならと、遺族・Nさん宅を訪問して、閲覧・翻刻の了解を得て、再度閲覧申請をおこなったが、ふたたび5月30日付けで『雑筆』は「①状態が悪いため、②作者(島田清次郎)及び本文中に登場する方々の個人情報保護のため」という同じ理由で却下された。

 5月31日の回答受けとり時に、責任者との間で話し合いをもったが、障害になっている個人情報は島清以外の「他の個人」であるとの回答をくり返し、らちがあかないので、「個人が特定されない方法(その部分の黒塗り)での閲覧」をお願いし、責任者は検討し、回答する旨の回答をしたが、6月7日現在その結果は届いていない。

 ところで、風野春樹さんの『誰にも愛されなかった男』を読むと、『雑筆』について、下記のように書かれている。

『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(風野春樹)
(320頁)しかし、1930年に清次郎が書いた「雑筆」によれば、清次郎は、病院内でも雑誌や新聞を読み、社会の動きには敏感だった。雑誌は主に知人が差し入れてくれる「婦人画報」や「婦女界」、「主婦の友」といった婦人雑誌を拾い読みし、新聞は、時事新報や国民新聞、朝日新聞や東京日日新聞などさまざまな新聞に目を通していた。

(323頁)原稿用紙に書かれた「雑筆」という三十枚ほどの随筆は、一九三〇年(昭和五年)三月から四月頃に書かれたものと思われる(三月にニューヨークで不慮の死を遂げた高峰譲吉の長男襄や、四月からの高松宮宣仁親王の外遊予定についての記述がある)。おそらく清次郎が最後に書いた作品だろう。
 この随筆で清次郎は、専門書を読んで梅毒に関する知識を得たこと、面会者が差し入れてくれる雑誌や新聞に目を通していること、木村秀雄一家や早川雪洲などかつて出会った人々の思い出、久米正雄や佐藤春夫、室生犀星ら国内作家の作品への感想などを自由に綴っている。後半では菊池寛の「小説は読んで面白くなければならぬ」という言葉に同感の意を示した上で、ダヌンツィオやアルツィバーエフ、トマス・ハーディやウェルズ、コンラツドなど清次郎が「面白い」と思う海外作家の名前を挙げ、イバニェスの『血と砂』については内容を詳しく紹介している。最後のページに書かれた文章は、清次郎自らの手で塗りつぶされていて、断片的にしか読み取ることはできない。
 とりとめのない、まさに「雑筆」であるが、文章はのびのびとしており、長い入院生活に対する諦念は感じられない。おそらくこの頃には健康状態は相当悪化していたと思われるが、間近に迫った死を意識している様子はなく、攻撃性や妄想的な部分も見られない。むしろ、入院前と変わらぬ、社会情勢や内外の文学への旺盛な関心がうかがわれる作品である。清次郎は最後まで再起を信じていた。

(337頁)清次郎の生原稿や遺品を閲覧させて下さった石川近代文学館の××××さん…に、お礼を申し上げます。

このくだりを読むと
 風野さんは『雑筆』(1930年)について、島清が自ら消した部分以外のすべてを読まれたようだ。しかも、内容を詳細に掌握しており、短時間の閲覧・翻刻ではなく、写真撮影も許可されたのではないでしょうか。

 すなわち、石川近代文学館は、風野さんには『雑筆』生原稿を全文閲覧させ、全ページ写真撮影を許可(推測)しながら、私には1字も1行も閲覧させたくないという、ダブルスタンダードで臨んでいるのである。

 資料の写真撮影について言えば、『雑記帳』の閲覧・翻刻の作業効率を上げるために、100ページ全部の写真撮影をお願いしたのだが、文学館は「たとえ短い資料が原本でも、すべてを写真撮影(することは)…当館としては前例がございません」と言って、『雑記帳』全ページの写真撮影を拒否しながら、風野さんには『雑筆』全ページの写真撮影を許可しているとすれば(推測)、あまりにもひどい差別待遇ではないでしょうか。

 資料の写真撮影による、解読・翻刻作業の効率化を図らねば、島清研究は停滞し、いつまでたっても、島清の真の姿は明らかにされないだろう。

 石川近代文学館は、自らは島清作品の一編も翻刻せず(1982年資料寄贈を受けた後、一つの作品も翻刻していない)、翻刻したいという閲覧者には便宜を図らず、100年、1000年保存して、一体何になるのだろうか? 

20190609シタベニハゴロモとアメリカシロヒトリ

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20190609シタベニハゴロモとアメリカシロヒトリ

 5月21日に、みどり児童公園前のフェロモントラップにアメシロ成虫が2匹捕獲されていた。今年最初の視認である。

 6月4日にみどり団地内の山椒の小木にシタベニハゴロモの幼虫1匹視認。6月6日に撮影。(左写真)
 6月8日には菊で視認。(右写真)
 昨年は、7月上旬に第3齢、第4齢の幼虫を発見している。

   





小松基地の歴史Ⅴ(2016~2019年6月)

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6月17日午後2時から、金沢地裁で、小松基地爆音訴訟結審。

小松基地の歴史Ⅴ(2016~2018年)

2016年
01月08日 北朝鮮水爆実験の放射性物質濃度調査のため、燃料補給基地として小松
01月30日 小松基地隣接展望公園完成
02月05日 小松基地爆音訴訟口頭弁論
02月09日 日米豪共同訓練に小松基地からF15戦闘機8機参加
02月20日 小松市職員新田原基地に派遣
02月25日 来月7~18日小松基地で日米協同訓練(米軍FA18)
03月02日 防弾格納庫「えん体」運用
03月05日 原告団、日米協同訓練中止を申し入れ
03月08日 日米協同訓練米軍FA18戦闘機、小松基地到着
03月09日 小松工業団地で、騒音測定
03月15日 小松飛行場周辺協へ交付金(1億円)
03月19日 日米協同訓練終了、小松基地から米軍機6機が帰還
03月24日 陸自金沢駐屯地に加々尾司令が着任
04月14日 6月、宮崎から訓練支援部隊が移転
04月17日 アグレッサー部隊小松配備反対集会
04月22日 4・21小松基地爆音訴訟口頭弁論
05月16日 軍学共同―金沢工大(水中無人車両、爆発装置への対処技術)
06月08日 6・7小松基地爆音訴訟原告団総会
05月19日 小松基地協議会など再編交付金延長要望
05月31日 小松市など、再編交付金の継続要望
06月03日 仮想敵機F15小松基地に飛来
06月05日 輪島祭にブルーインパルス、入間基地和太鼓
06月18日 亀岡弘を小松基地司令に起用→7・1着任
06月21日 アグレッサー部隊訓練開始
06月28日 原告団騒音調査
07月03日 自衛隊石川地協創立60年
07月06日 4~6月緊急発進281回
07月12日 無人偵察ドローン行方不明→発見
07月14日 小松基地―7・25~29日米共同訓練
07月17日 金沢港―開示練習艦公開
07月21日 原告団―日米共同演習中止申し入れ
07月26日 米軍機、小松基地に到着
07月27日 米軍F15小松基地に緊急着陸→空気吸入システムの不具合
07月27日 エアコン維持費補助
07月30日 日米共同訓練終了
08月06日 8・5小松基地で納涼の夕べ
08月13日 稲田防衛相―小松基地視察
08月27日 9・3陸自金沢駐屯地部隊市内パレードの中止申し入れ(8・30,9・2にも申し入れ)
09月04日 陸自金沢駐屯地部隊300人行進
09月20日 小松基地航空祭(7万2000人)
09月26日 陸自金沢駐屯地66周年
10月04日 F15緊急着陸
11月17日 小松基地のF15戦闘機嘉手納基地に緊急着陸
12月09日 厚木基地訴訟 過去賠償認定、飛行差し止め認めず
12月09日 小松基地で、訓練中に小銃部品喪失→15日、通話歴調査→23日、調査撤回

2017年
01月06日 小松基地初訓練
02月03日 2/2小松基地F15部品(70グラム)落下(模擬爆弾の先端)→4/26部品落下原因
02月24日 嘉手納基地訴訟判決、損害賠償認定
03月01日 2/28小松基地F15模擬爆弾落下(21㎏)
04月05日 4/4、午前11時50分、F15緊急着陸、正午過ぎT4練習機緊急着陸
04月26日 日本海で日米イージス艦共同訓練
04月29日 日本海で米韓合同演習
05月11日 輪島港で海自ミサイル艇公開
05月20日 4/下原子力空母カールビンソン日本海へ、5/下原子力空母レーガン日本海へ
05月31日 小松基地内に新防音壁
07月06日 小松基地、夜間訓練中のF15緊急着陸 →7・11、7・10、7・14抗議
07月07日 小松基地爆音訴訟口頭弁論→2020年3月判決
07月15日 海自護衛艦金沢港
07月21日 海自ミサイル艦七尾港で公開
08月19日 米韓合同演習21~31日
08月22日 23日小松基地でC2輸送機運用試験
09月01日 小松基地関連概算要求4億4700万円
09月01日 海上保安庁巡視船北朝鮮漁船排除攻撃
09月04日 小松基地からT4練習機―大気中放射性物質調査
09月18日 陸自金沢駐屯地創立67年記念行事
09月18日 小松基地航空祭中止
09月19日 米B1爆撃機、韓国で訓練(9/25米軍B1北朝鮮沖飛行)
09月22日 3月小松基地ミサイル損壊
09月26日 9/25小松基地爆音訴訟(原告本人訊問)
10月08日 米軍F16戦闘機3機小松基地緊急着陸(10/13エンジン交換必要→10/17三沢基地へ)
10月12日 横田基地騒音―国に賠償命令
10月17日 小松基地爆音訴訟―原告本人訊問
10月24日 小松基地ヘリ部品落下
11月02日 小松基地F15戦闘機緊急着陸―パイロット体調不良
11月12日 米軍3空母日本海で演習―海自艦参加
11月20日 核搭載型米B52と空自訓練(日本海で8月)
12月23日 小松基地周辺NHK受信料来年9月から見直し(1/12周辺協反発)
12月23日 日本海警備強化―海保が大型巡視船建造
12月23日 金沢防衛事務所小松移転

2018年
01月不明  米軍B52戦略核爆撃機と小松基地F15戦闘機の共同訓練(2018.7.29「北国新聞」)
01月30日 1/29小松基地爆音訴訟「睡眠と騒音」
02月14日 小松基地に第2滑走路を
03月02日 米軍、朝鮮半島攻撃図上演習―民間人の死者数十万人
04月01日 今日から米韓演習(フォールイーグル)
04月08日 ブルーインパルスが小松基地で訓練
04月14日 空自スクランブル904回(中国=498回)
05月02日 厚木騒音訴訟864人追加提訴→原告8879人
06月06日 小松基地F15戦闘機→レッド・フラッグ・アラスカ演習に参加
06月08日 石川県平和運動センター、レッド・フラッグ・アラスカ演習参加中止要請
06月24日 米韓演習中止
06月28日 ベトナム人民軍小松基地視察
07月12日 7/16~20、小松基地で日米協同訓練(7/14中止申し入れ)
07月17日 小松基地で今日、日米協同訓練開始(7/20終了)
07月29日 7/28米軍B52爆撃機+小松基地F15戦闘機の訓練(「北國」、「毎日」)
09月18日 小松基地航空祭(12万人)
09月29日 空自戦闘機+米軍B52共同訓練―小松基地F15参戦(今年1月、7月も)
10月21日 12月予定の米韓軍事演習(ビジラント・エース)中止
10月30日 武力攻撃を想定―日米演習始まる―小松基地からも参加
11月03日 4~9月、航空機部品落下2件―小松基地が発表
11月21日 米子市長「安倍政権が軍事行動するなら支持」
11月28日 防衛大綱―いずも「空母化」明記、F35ステルス戦闘機100機導入―専守防衛変質
12月01日 地裁立川支部―横田基地騒音、国に賠償命令
12月22日 防衛費過去最高に―米兵器を大量購入

2019年
01月23日 政府、シナイ半島に陸自派遣検討→2/27決定
02月09日 金沢、自衛隊機墜落50年
02月16日 小松、自衛隊入隊者激励(2/20、2/23)
02月24日 七尾、巡視艇「はまゆき」新調
03月01日 2018年、自衛隊による米軍の「武器等防護」は16件
03月08日 米韓三大演習(フリーダムガーディアン、キー・リゾルフ、フォール・イーグル)廃止
03月08日 小松基地、高校入試当日に飛行―騒音協定の形骸化
03月13日 百里基地所属のF4戦闘機、小松基地に緊急着陸
03月21日 小松市議会、小松基地に2本目の滑走路建設意見書を可決
04月09日 陸自金沢部隊、宝達から輪島まで行軍→4/11記事
04月10日 空自F35A、青森沖で墜落→6/5飛行再開
04月13日 小松基地のF15戦闘機部品落下(1月)
04月17日 高裁那覇支部判決、普天間騒音訴訟は賠償減額
04月17日 F35A緊急着陸7件(2017年6月~2019年1月)
05月31日 小松基地周辺、民家エアコン交換優先
06月07日 横田基地騒音訴訟、2審も賠償命令
06月09日 小松基地爆音訴訟原告団総会、7/17結審へ

20190617 ここ数年間の小松基地動向

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 20190615 ここ数年間の小松基地動向

 2008年に第5次訴訟、2009年に第6次訴訟が提訴されてから、10年以上が過ぎ、そして、今日(16日)結審を迎える。2016年6月に『小松の空から朝鮮侵略の戦闘機を飛ばすな―大軍都小松から防空要塞へ―』を発行してから、3年が過ぎた。その後の3年間で、小松基地に関する軍事情勢の変化について略述しておく。

(1)アグレッサー部隊
 2016年以降3年間の小松基地強化策として、最も重視しなければならないことは、アグレッサー部隊の小松基地移駐である。F15戦闘機が10機(20%)増強され、小松基地はF15戦闘機50機体制となった。朝鮮半島への攻撃体制が飛躍的に強化されたのである。
 またF15戦闘機が20%増えて、訓練回数(機数)が増加し、当然騒音も増加している。アグレッサー部隊配備前後の<自衛隊機+軍用機(米軍機)>の管制回数を比較する。
 2012年7月から2016年6月まで(4年間)の総管制回数は67577回、1年当たり16894回であり、2016年7月から2018年6月まで(2年間)の総管制回数は37257回、1年当たり18629回になった。比較すると、アグレッサー部隊配備後には、年間管制回数が10.3%増加したことになる。

(2)第2滑走路構想
 小松基地は2006年に大型輸送機や戦略爆撃機の離着陸を可能とする滑走路のかさ上げをおこなった。かさ上げ工事の期間限定で使われていた仮滑走路は、工事完了後も解体されず、そのままの状態で保持されてきた。
 2018年2月にはふたたび第2滑走路案が浮上し、2019年3月には小松市議会で滑走路2本化の意見書が採択された。常時2本の滑走路を使用することを可能にして、小松基地の攻撃能力と抗堪性を強化しようとしている。

(3)緊急着陸と部品落下事故
 2016年6月以降の3年間で、小松基地への緊急着陸は6件(2016.7、2017.4、7、10、11、2019.3)に上り、戦闘機の部品落下事故も6件であった。小松基地周辺住民は恒常的な騒音に悩まされ、かつ突然空から危険が降り注ぐ恐怖にさらされている。

(4)武装行軍
 2007年以降10年間で、陸自金沢駐屯地の武装行軍は2007年9月(60人)、9月(100人)、11月(60人)、2013年2月(85人)、2014年(パレード)と合計5回おこなわれたが、2016年以降も2016年9月(300人)、2019年4月(260人)と規模を拡大して、引き続きおこなわれている。

(5)小松市人口動態(2004年→2015年)
 2016年版パンフでは、1970年から1993年の23年間の世帯数と人口を、騒音地域(A)、非騒音地域(B)、山間部(C)に分けて比較した。
 小松市全体(D)の世帯は30%増加したが、騒音地域(A)では4%増に止まり、全人口(D)は12%強増加したが、騒音地域(A)では12%強減少した。世帯数、人口は騒音の影響をもろに受けていた。
 そこで2004年から2015年にかけての世帯数と人口の増減を調べてみた。
 小松市全域(D)では、世帯数は17%強増加し、人口は1.3%減少した。他方、非騒音地域(A)の世帯数は非騒音地域(B)とほぼ同数の17.8%増加したが、人口は3.2%減少した。
 騒音地域(A)は市中心部と重なり合い、居住条件は良好であるにもかかわらず、騒音地域(A)の人口は相変わらず減少しつづけている。



(6)10・4協定を守っているか
 今年(2019年)3月6、7日の高校入試当日に、小松基地は飛行訓練をおこなった。10・4協定には、「高校入試、お旅まつりその他市の主催行事で、市が要請する場合は出来る限り飛行を制限し、または中止する」と計画に規定されている。10・4協定を形骸化している。

(7)出征兵士を戦場に送る会か
 今年の報道で、非常に気になったことがある。2月15日は小松市(小松商工会議所)で、19日は穴水町(役場)と能登町(役場)で、22日は金沢市(市内ホテル)で自衛隊入隊者への激励会がおこなわれた。
 切り抜き帳のバックナンバーを調べたが、入隊激励会(2月)の記事は見あたらなかった。いよいよ、自衛隊員を戦地に送る歓送会が始まったのか。

(8)日本海(東海)大和堆での北朝鮮漁船強制排除
 2017年春ごろから、日本海(東海)大和堆漁場で、海上保安庁の巡視船が出動し、放水などによって、北朝鮮漁船を排除してきた。日本政府は「排他的経済水域」を領海のように言いなして(領海ではない)、海上自衛艦まで出動させ、北朝鮮漁船と救援に駆けつけてきた韓国艦船を強制排除している。
 小松基地の自衛隊機の訓練空域=G空域は大和堆と重なっており、操業中の北朝鮮漁船を仮想敵艦船と見なして、攻撃訓練をしているのではないか。
 イカ漁不振の根本的原因は、「2018年度 第1回 日本海スルメイカ長期漁況予報」によれば、幼生の分布密度は平均を下回っており、大和堆は好漁場ではないと報告している。日本海(東海)のイカ資源そのものが減少していることにある。しかも、日本の大型漁船は大出力の投光器でイカをかき集めて、その全部を独占しようと、海保や自衛隊に北朝鮮漁船の排除を訴えているのである。



2016年版『小松の空から朝鮮侵略の戦闘機を飛ばすな』目次
(1)21世紀の小松基地/[1]滑走路かさ上げ、 [2]質量とも増える日米共同訓練、 [3]繰り返される大事故、[4]緊急着陸、 [5]「10・4協定」の解体、 [6]小松基地からの海外派兵
(2)「25大綱」下の小松基地/[1]防空要塞化、[2]G空域での訓練激化、[3]アグレッサー部隊、[4]「斬首作戦」演習と連携
(3)小松基地の地政学的位置/[1]航続距離、[2]たった16分、[3]日本海G空域
(4)小松基地の戦力(2016年)/[1]飛行隊、[2]アグレッサー部隊、[3]救難隊、[4]移動警戒隊、[5]防空隊、[6]管制隊
(5)スクランブル発進/[1]スクランブルの増加、[2]小松基地のスクランブル
(6)多発する事故と緊急着陸/[1]緊急着陸報告書、[2]重大事故、[3]米軍A-10緊急着陸
(7)小松基地広報紙『はくさん』について(極右田母神の影響)
(8)小松基地による生活環境への影響/[1]騒音被害(爆音訴訟の歴史、健康被害、昼休み時間、夜間訓練、「10・4協定」)、[2]人口の停滞、[3]地価の変動
(9)宣撫工作(航空祭、軍事パレードなど)/[1]小松基地航空祭、[2]軍事パレード、[3]基地公開、[4]艦艇公開
(10)輪島レーダー基地/[1]輪島基地の性格、[2]輪島基地の成り立ち
(11)金沢港、七尾港について
(12)金沢駐屯地について/[1]朝鮮半島を対象化、[2]原発警備、[3]海外派兵
(13)能登空港問題/[1]空自基地建設構想、[2]海保基地構想、[3]作戦計画5027

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20190617第5次・6次小松基地爆音訴訟結審

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20190617第5次・6次小松基地爆音訴訟結審

 遅れましたが、6・17小松基地爆音訴訟結審の様子を、金沢弁護士会館で開催された前段決起集会からお伝えします。各発言については、要旨であり、文責は当会にあります。

司会
 みなさん、私たちが小松基地爆音訴訟第5次・6次訴訟を起こしてから、すでに10年が過ぎています。今回の訴訟は、いわゆる騒音の人体に与える影響を立証して、飛行差し止めを勝ちとりたいという思いでたたかってきました。

出淵原告団長
 みなさんこんにちわ。長いあいだ弁護団の先生やみなさんのお世話になりました。11年って、長い年月ですね。とくに3年前に宮崎県の新田原(ニュータバル)基地からアグレッサー部隊(軍の演習・訓練において敵部隊をシミュレートする役割を持った専門の飛行隊)が小松基地に移駐してきまして、それから、ものすごい轟音で、不定期に飛ぶし、周りから、「もうここには住まれん地域になったな」という声が出るようになりました。
 この国の平和と繁栄の影には、沖縄をはじめとして、私たちのような犠牲者がいるということを、広く市民・県民に知っていただきたいということで、手を挙げ、声をあげてきました。

川本弁護団長
 本日は、みなさんが長年にわたってたたかってこられた訴訟が終結し、一審の審理が終わることになりますので、これまでの闘争経過や、抱える問題点について、私の方から整理しておきたいと思います。

 ご承知のように、小松基地を離発着する戦闘機によってもたらされる騒音被害にたいしては、昭和50(1975)年の第1次提訴以来、40数年にわたってたたかいが続いています。この5・6次訴訟も、その一環で、すでに10年あまりの年月が経過しました。

 この間、金沢地裁で2回、名古屋高裁金沢支部で2回、合計4回の判決が出されています。判決内容は、戦闘機の飛行に伴う騒音状態が違法であることを認め、賠償を認めるという判決でした。

 しかしながら、国はそうした現実を無視して、騒音を軽減することは一切なく、平成28(2016)年より、宮崎県ニュータバル基地から、アグレッサー部隊を移駐し、かえって騒音を悪化させています。

 本日の裁判では、被告国の態度を糾弾すると同時に、みなさんの協力で広範囲におこなわれた健康被害調査で明らかなように、深刻な健康被害が起きていることを立証し、その責任を厳しく追及します。その詳細は後ほどの裁判で説明することになります。

 最後になりましたが、みなさんが求める「静かな空をかえせ」というのは、人間としてきわめて自然で、当然の要求であり、かつ、ささやかな望みであります。長年にわたって、たたかってこられたみなさんは、誇りと自信をもって、本日の裁判に臨んでいただきたい。私たち弁護団も力を合わせて一生懸命がんばります。

金子さん
 私は厚木訴訟の原告団副団長と全国訴訟団の代表をしています。現在爆音訴訟としは、小松、岩国、普天間、嘉手納、横田そして厚木でたたかわれています。

 先日(6月6日)は第2次新横田基地公害訴訟の東京高裁判決があり、4月16日には第2次普天間爆音訴訟の高裁判決がありました。この夏(9月11日)には、第3次嘉手納基地爆音訴訟の判決、10月25日に広島高裁で岩国基地訴訟の判決が予定され、全国で判決が続きます。

 厚木訴訟では、横浜地裁で自衛隊機の一部飛行差し止めを勝ちとり、東京高裁でも継承したのですが、最高裁では残念ながら、ひっくり返されてしまいました。自衛隊機の飛行差し止めには厚木で一定の実績がありますから、小松の仲間のみなさんが健康被害立証など、新たな運動の成果がこの訴訟で勝ちとられるのではないかと、期待しております。

 運動は結審で終わりではなく、判決までつづけていくことが必要だと思います。ともにがんばりましょう。

結審の流れ
 弁護団から、集会で配布された「原告ら第32準備書面要約陳述・意見陳述」を見ながら、結審の流れについて説明がありました。
1.導入(要約陳述及び意見陳述の流れ)
2.被害(第32準備書面第2章)
(1)服部疫学調査2011
(2)戦闘機騒音による健康被害
3.侵害行為(第32準備書面第3章)
4.環境基準と本件騒音評価のあり方(第32準備書面第4章)
<休憩>
5.損害(第32準備書面第7章)
6.自衛隊及び在日米軍の実態と違憲性(第32準備書面第5章)
7.差止め(第32準備書面第6章)
8.代理人意見陳述(第32準備書面第6章に関して)
9.原告意見陳述:(原告番号301)、(原告番号937)
10.結び(第32準備書面第1、8章)

 最後に、団結ガンバローで、身を引き締めて、裁判所へ向かいました。

年表・旧優生保護法による不妊手術について

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年表・旧優生保護法による不妊手術について

【年表】
明治初期 福沢諭吉らによって優生学が導入された―『遺伝的天才』(イギリス)の紹介
1910年代 断種法問題の議論が始まる
1910年 海野幸徳『日本人種改造論』『興国策としての人種改良策』
1919年 丘浅次郎が『最新遺伝論』のなかで、「優生学」と訳して、普遍化した
1920年~精神疾患患者の断種に関する外国文献の紹介
1921年 東京精神病学会例会で、マーティン・バーの講演―断種法の必要性
1922年 サンガー夫人(アメリカ)の来日―優生学的見解(子どもをいつどのように産むかは女性自身が決定する権利、
    障がい者が子どもを産めないようにして人類の資質を向上)→加藤シヅエ、福田昌子、太田典礼
1928年 【スイス】ヴォー州で「精神病者に関する法律」(断種法)―ヨーロッパで最初。
1929年 【デンマーク】「不妊化の許可に関する法律」(断種法)成立→34年、知的障がい者の強制不妊
1930年 日本民族衛生学会創設―特定の民族や人種の健全性や優位性の確保をめざした
    →1936年、断種法案を起草して国会議員に働きかけ
    →戦後、優生学とは訣別→2017年「優生」に関与した歴史の検証に着手(他の学会での検証はない)
1933年 【ドイツ】遺伝病子孫予防法制定、34年施行→「遺伝病を持った子孫の数を減らす、ドイツ民族体の向上」
    →40万人の不妊手術
1934年 【スウェーデン】断種法成立。
1936年 (財)日本民族衛生協会―断種法案を発表←ナチス・ドイツの遺伝病子孫防止法(1933年)の影響
    →断種法に反対した精神科医(金子準二、植松七九郎、菊池甚一など)
1937年~ 民族優生保護法案(議員提案)―3度提出
1838年 戦争政策遂行のための人口増強策
    →1941年、人口政策確立要綱―結婚の早期化、出産奨励、家族制度強化など(産めよ殖やせよ)
1940年 国民優生法(政府提案)制定→人口増加策の一環として施行
    →中絶禁止法として機能―当時の政府は優生学的に奨励すべき出産と回避すべき出産とを区別し、
    優生学的中絶を合法化(第14条)→この考えは戦後の優生保護法の思想に継承
1940年 第14条(優生学的中絶)を削除し、第6条(強制断種)を凍結→不妊手術総件数=538件、強制断種=0件
1940年 健民運動―健民=良い子=天皇の赤子=天皇に命を捧げる国民、
    健康が国民の義務、不健康や障がい者は非国民
1944年 朝鮮では強制断種の準備―「朝鮮人ノ現在ノ動向二就テ」(戦前期外務省記録)に
    「<極秘>朝鮮統治施策企画上ノ問題案」
    →「抑制方策ニ即応スル優生法ヲ施行ス。本方策実施ノ為ニハ凡ユル機関要スレバ国体又ハ公営ノ機関ヲ通ジ
     之ガ指導ヲ為サシメ20年間ニ凡ソ500万ヲ抑制スルヲ目途トス」
    →国民優生法の強制断種条項が凍結されていたにも拘わらず、
     朝鮮では強制断種の準備(今田真人著『極秘公文書と慰安婦強制連行』2018年)

敗戦後
 経済の荒廃、食糧不足で餓死者→妊娠中絶を求める声→「人口の質が劣化する逆淘汰」論(谷口弥三郎)。
 谷口―「強制手術を認める優生保護法」を主張→優生保護法第1条:「不良な子孫の出生を防止」
1947年 社会党案(加藤シヅエ)―不良な子孫の出生を防ぎ、以て文化国家建設に寄与…
    戦前の国民優生法の手術は任意だったので、効果なかった→強制手術を認める法案提出
1948年 谷口―本人の同意がなくても優生手術をおこなうもの
    →修正案…強制手術の対象者を「社会生活をする上で不適当な者、生きていくことが悲惨であると認められる者」
    →優生保護法、全会一致で成立→9月11日施行
    →現場では「(強制は)人権を侵害するのではないか」との声
    →1949.10.24厚生省通達―公益上必要→憲法の精神に背くものではない
1949年 国通達「(本人同意のない不妊手術は)不良な子孫の出生防止という公益上の問題があり、
    …憲法の精神に背くものではない」
1950年 推進議員「(強制手術の件数)想定より遠く及ばない」→再改正へ
1951年 強制不妊手術の対象を精神病と精神薄弱に拡大する改正
1952年 強制不妊手術の対象を遺伝性を問わず、精神障がい者、知的障がい者に拡大する再改正(第12条新設)
    →全会一致で可決成立
1953年 ハンセン病患者の隔離政策の続行(らい予防法)
1953年 「事務次官通達」(身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔等の手段を用いることも許される)→1996年まで放置
1955年 手術件数=1362件(ピーク)、1956年手術件数=1264件、以後減少
1955年 福田昌子・社会党議員―「遺伝的な犯罪者への断種」を主張
1962年 池田内閣―「人口資質向上対策に関する決議」(7月)―優生政策の目標は「民族復興」から「経済成長」へ
1965年 社会開発懇談会(佐藤首相の諮問機関)―「コロニー構想」→障がい者の隔離政策
1966年 兵庫県―不幸な子供の生まれない運動→全国化(産婦人科医が推進)→障がい者差別と優生思想の拡散
    →1974年、障害者団体などの抗議で、兵庫県の対策室は廃止
1967年 カトリック医師会、生長の家―優生保護法改正期成同盟
1969年 「日本医療新報」の中で、青森県優生保護審査会委員「4条手術は憲法違反の疑いがある」と指摘、廃止を主張。
1970年 日本医師会「優生保護対策について」―先天異常児発生の予防対策=胎児条項を主張
1970年 重度障がい児殺害事件(横浜)
    ―減刑嘆願書(生存権を社会から否定されている障がい児を殺すのは、やむを得ざるなりゆき)
    →青い芝の会「親をそこまで追いつめたのは障がい児とその家族を白眼視する地域社会」
    →胎児条項反対運動→「産む・産まないの自由」批判→ウーマンリブ優生思想批判の共有→障がい者と共闘
1971年 教科書『保健体育』(一橋出版)―優生保護法を肯定的に紹介→1977年、優生保護法の再検討
    →1978年高校学習指導要領から優生に関する項を削除
1972年 優生保護法改正案(経済的理由削除、精神的理由追加、胎児条項新設)―女性と障害者の反対運動高揚
    →1974年、優生保護法改正案廃案←産む・産まないの選択の自由=中絶の合法化(英、米、仏、西独)
1974年 第14回日本先天異常学会―発表者8人中2人が第4条(公益上の必要)批判
1974年 全国「精神病」者集団結成
1970年代 社会党女性議員―政府案(経済的理由による中絶の禁止、障害がある胎児の中絶を認める)に反対
1981年 国連国際障がい者年にむけて、法規中の「不具」「廃疾」を改訂。法改正→「おし」「つんぼ」「盲」の言い換え。
1982年 厚生大臣―経済的理由の削除を約束→優生保護法阻止連絡会による反対運動→1983年改正案上程阻止
1983年 自民党・優生保護法等検討小委員会―優生という概念自体への疑問
    →今日の社会思潮と医学水準に照らして法の基本面に問題がある
1884年 厚生省、母子保健法改正検討作業→母性管理・優生政策の強化←反対運動で見送り
1988年 DPI女性障害者ネットワーク設立。堤愛子―優生保護法廃止に取り組む
    注:DPI【1981 年の国際障害者年を機に、シンガポールで国際障害者運動のネットワークとして結成された。
    現在 130 カ国以上加盟。障害のある人の権利保護と社会参加の機会平等を目的に活動をしている国際 NGO】
1993年 障がい者基本法公布(障がい者にたいする差別や偏見を助長する用語や資格制度における欠格条項の見直し)
1994年 国連人口開発会議で、優生保護法=障がい者の不妊化を正当化←国際的非難
    安積遊歩―優生保護法廃止を訴え→世界化(安積遊歩=1956年生まれ。1975年の障がい者運動の影響)
1995年 全国精神障がい者家族会連合会の要望書
    (優生という言葉の削除、強制的な優生手術の規定廃止、人工妊娠中絶の要件から遺伝性精神病の字句削除)
1996年 らい予防法の廃止→優生保護法の「らい疾患」に関する条文削除
1996年 優生条項削除→母体保護法(橋本内閣=自民+社民+さきがけ)→謝罪・救済なし
1997年 強制不妊手術に対する謝罪を求める会(1999年、優生手術に対する謝罪を求める会)。
    強制不妊手術被害者ホットライン(第1回、1999年第2回)。
    1999年まで3回厚生省交渉→厚生省「合法的」「優生保護法改正で問題は終わった」と無視
1998年 国連人権委員会勧告(2008、2014年も)→日本政府は無視。
    国(厚生省)「プライバシー問題があり調査は無理」「当事者の方々にはお気の毒である」
    「優生手術は合法的、調査は不要」
1999年 宮城県の飯塚淳子さん、当事者として名乗り。国(厚生省)「優生手術は合法的」「調査は不要」。
2001年 ハンセン病患者への不妊手術=人権侵害…熊本地裁判決
2001年 斎藤美穂「女性誌に見る優生思想の普及について―国民優生法成立に至るまで」
2004年 福島瑞穂―国に実態調査、救済制度要求→国は無視
2015年 飯塚さん日弁連に人権救済申し立て(宮城県)→2年後「対政府意見書」
2016年 国連女性差別撤廃委員会―法的救済、加害者の処罰を勧告
2017年 日弁連「補償などの適切な措置を求める意見書」→政府は無視。宮城県庁で、「優生手術台帳」発見
    →佐藤由美さん、記録入手
2018年1月 佐藤さん仙台地裁提訴(1/30)→仙台地裁への国側準備書面「救済義務なし」。
    3月 超党派議員連盟(3/6)、与党ワーキングチーム(3/7)
    5月 全国優生保護法被害弁護団結成(184人)、
2018年12月 優生被害者・家族の会設立
2019年2月 優生保護法被害弁護団まとめ 
      2019.2.8現在、原告19人(うち優生手術被害者本人15人)―全国7地裁に13の訴訟が係属中
      【北海道(札幌地裁)】 第1~2次 原告3人(うち被害者本人2人)
      【宮城県(仙台地裁)】 第1~4次 原告5人
      【東京都(東京地裁)】 第1次 原告1人
      【大阪府(大阪地裁)】 第1~2次 原告3人(うち被害者本人1人)
      【兵庫県(神戸地裁)】 第1次 原告4人(うち被害者本人2人)
      【熊本県(熊本地裁)】 第1~2次 原告2人
      【静岡県(静岡地裁)】 第1次 原告1人
2019年3月14日 強制不妊 一時金320万円に 与野党が救済法案決定
2019年4月11日 強制不妊救済法案衆議院通過
2019年5月10日 強制不妊手術、一時金申請12件
2019年5月28日 【仙台地裁】強制不妊訴訟初判決で賠償認めず、旧優生保護法は違憲
2019年6月16日 【金沢市内】強制不妊手術シンポジウム、
        国家賠償請求訴訟を起こした原告女性の義理の姉が宮城県から参加した。

【推薦論文】
「旧優生保護法と強制不妊手術―優生思想とたたかうために」
(2019年7月『展望』23号 飛田一二三)

〔Ⅰ〕強制不妊手術に対する国家賠償法請求訴訟と5.28反動判決
 (1)判決に至る被害当事者の闘い―経過概要/(2)5.28仙台地裁の反動判決を批判する/
 (3)5.28判決に関連する諸問題/(4)原告・家族、障害者団体、弁護団の反動判決への怒り
〔Ⅱ〕旧法のもとでの人権侵害と不法・無法
 (1)被害の概要/(2)甚大かつ底無しの人権侵害と不法・無法―その一端
〔Ⅲ〕旧優生保護法について
 (1)旧法は戦後と私たちを問うている/(2)旧優生保護法を批判する/
 (3)安倍改憲攻撃―「公益」の前面化
〔Ⅳ〕優生思想をのりこえるために
 (1)「津久井やまゆり園事件」/(2)「新たな優生」とのたたかい/
 (3)1981年「国際障害者年」国連決議

「北朝鮮の乱獲」論を批判する

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「北朝鮮の乱獲」論を批判する

 7月20日の「北國新聞」に「北の乱獲『死活問題』」という大見出しが踊っている。

 6月上旬に能登小木港からイカ漁に出漁し、18日に帰港したときの記事だが、同日の「北陸中日新聞」を見ると、「昨年急増した北朝鮮などの違法操業船は今季はほとんど見られない」と報道している。

 また、7月24日の共同通信記事は、「大和堆周辺で、5月下旬以降これまでに延べ625隻に排他的経済水域(EEZ)からの退去警告を出し、うち122隻に放水で対応した…昨年の同時期は警告が1000隻以上、放水が300隻以上に達していた」(「琉球新報」)と報道している。(EEZ論については、2017年9月7日「論考 米日による北朝鮮侵略戦争を阻止しよう!」)

 要するに、6月出漁時に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)漁船が激減しているにもかかわらず、「北國新聞」はイカ不漁の責任を北朝鮮になすりつけているのである。

イカ不漁の原因
 スルメイカ漁の不漁にはいくつもの要因がある。北朝鮮漁船にだけ責任を負わせるのは誤りである。①スルメイカ発生(産卵)地域の水温、②日本海(東海)・大和堆の水温上昇、③日本漁船の漁法高度化の問題などについても検証しなければならない。

 日本海区水産研究所は「対馬暖流の秋季の水温が平均して0・2~0・3度高く、産卵や稚イカの生存に適していない可能性」を指摘している。また、北海道大学の桜井教授は「冬季に東シナ海(東中国海)で生まれ、太平洋回りで北陸沿岸に泳ぎ着くスルメイカも減っている。東シナ海(東中国海)の海水温が下がって産卵に向かない環境になっている可能性」を指摘している。(1919年1月17日「北陸中日新聞」)

 水産工学研究所(国立研究開発法人 水産研究・教育機構)のホームページには、イカ漁のシステムについて詳述している。①イカは光に向かって遊泳する、②イカは夜間表層付近に分布する、③漁獲したイカの目は暗いところに順応した状態にある、④操業時にはイカは船影に多く分布するという。(写真は水産工学研究所HPより)



 船上に大光量の集魚灯を点灯し、周辺のイカをかき集め、イカ漁船付近におびき寄せ、船影(船底付近)に集まってくるイカを疑似餌をつけた釣り糸で引っかけて釣り上げるのである。こうして、日本漁業資本は日本海(東海)のイカを長年にわたって、大量に獲ってきたのである。また、追い込み漁や定置網を使った定置網漁もおこなわれている。

日本による乱獲と大量消費
 全国いか加工業共同組合のホームページには、1894年(明治27年)以降のイカ漁獲高の資料があり、それによると、戦前のスルメイカの最高漁獲量は年間約19万トン(1925年)で、戦後になって、格段に増加し、ピークは年間約67万トン(1968年)であった。

 1960年代は年間平均約46万トン、1970年代は約33万トン、1980年代は約18万トン、1990年代は約30万トン、2000年代は約25万トン、2010~2016年の平均は約17万トンである。近年のスルメイカ漁獲量の低減は、最近の北朝鮮漁船よりも、長年にわたる日本漁船による乱獲が一因となっているのではないか。

 ウィキペデイアには「世界のスルメイカ漁獲量の筆頭は日本であり、最大消費国・最大輸出国ともに日本。そしてその最大輸出先はアメリカ合衆国である」とも書かれている。日本の庶民がイカを食えないのは北朝鮮のせいだなどと排外主義をあおらず、日本漁業資本による乱獲をやめ、アメリカなどへの輸出をやめ、適正な消費量を獲ればいいのではないか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本海(東海)大和堆におけるイカ漁について(2018年1月~2019年7月)
―主として「北陸中日新聞」
20190720 スルメイカ漁厳しい船出(北朝鮮船見あたらず)
20190615 大和堆の警備強化
20190511 輪島市門前町黒島海岸に木造船漂着
20190509 志賀町赤崎海岸に木造船漂着
20190424 志賀町西海海岸に木造船漂着
20190325 内灘町西荒屋海岸に木造船漂着
20190312 白山市徳光海岸に木造船漂着
20190306 珠洲市片岩町海岸に木造船漂着
20190223 志賀町上野海岸に木造船漂着
20190217 加賀市片野海岸に木造船漂着
20190119 輪島市名舟町海岸に転覆木造船漂着
20190118 珠洲市川浦町沖合に転覆木造船漂流
20190115 内灘海岸に木造船(木片)漂着
20190114 青森沖に木造船―船内に2人
20190113 志賀町赤崎海岸に木造船漂着
20190109 隠岐の島に木造船漂着―4人保護
20190109 羽咋市千里浜海岸に木造船漂着
20190108 輪島市門前町、かほく市、志賀町鹿頭海岸で、木造船漂着
20190101 志賀に木造船漂着

20181227 小木イカ釣り不漁深刻
20181225 韓国レーダー使用否定
20181222 韓国艦海自機に照射。大和堆対策を強化―海保、巡視船と新型機配備
20181220 木造船の一部が羽咋の海岸に漂着
20181219 輪島に木造船漂着―船尾にハングル
20181213 北朝鮮木造船か、珠洲の海岸漂着
20181212 北朝鮮木造船か―志賀の海岸漂着。北の木造船木片?白山の海岸に漂着
20181203 かほく漂着船内、人や残留物なし。
20181203 舳倉島付近に木造船が漂流、左舷側にハングル
20181202 漂流の木造船漂着―かほく
20181125 輪島にも木片漂着―木造船の一部下
20181124 志賀、輪島に木造船漂着―日本会側次々、ハングル表記。京都、新潟でも。
20181122 北朝鮮船の漂着は台風一因
20181116 大和堆で日韓漁船衝突
20181024 北の違法漁船増す脅威―昨年の倍以上、鋼船も。
20180929 漂着船遺骨など朝鮮総連に返還―日赤石川県支部。大島海水浴場に木片漂着
20180622 大和堆「断固たる姿勢を」海保などに石川県知事要望
20180602 北朝鮮船退去警告112隻―大和堆の漁期控え早くも海保が警戒
20180304 内灘海岸に木造船の一部?漂着
20180303 漂着船対策 拉致被害者家族ら
20180223 北朝鮮籍?輪島の海岸に漂着
20180222 輪島の海岸に木造船や木片
20180221 金沢港沖に木造船が漂着
20180214 木造船3隻が漂着―羽咋、志賀、輪島、北朝鮮船か
20180212 加賀の海岸に木造船が漂着
20180210 北?の木造船、かほくに漂着
20180209 輪島の海岸に木造船が漂着
20180203 金沢沖64キロで木造船が転覆―空自機が発見。木造船「日本もっと関心を」
20180131 木造船一部?破片、志賀の海岸に漂着
20180130 外国船取り締まり強化を
20180129 千里浜海岸に木造船が漂着―船体にハングル
20180125 志賀の海岸に木造船漂着
20180117 粗末な船、荒波にのまれ昨秋急増
20180117 金沢漂着船内に7遺体.木造船周辺に生活用品。
20180116 漂着木造船関連か、別の遺体を発見、金沢。
20180106 美川沖で転覆した木造船

20190803読書近況

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20190803読書近況

 6月中には、小冊子「島田清次郎未発表エッセイから読み解く、その実像」を完成させるつもりで準備していたが、当初より大幅にひろがり、120ページほどになり、最後の詰めが残り、完成はお盆すぎになりそうだ。

 その間、幾つかの読書をした。まずは、とある学習会で取り上げられた三島由紀夫の『金閣寺』(1956年発行)。読んでは見たものの、「金閣寺」とは何を暗喩しているのか。菅孝行の『三島由紀夫と天皇』(2018年発行)も合わせて読んだが、そのなかで、磯田光一と奥野健男は「私の現実参加を阻害するもの」、田坂昴と野口武彦は「戦後世界そのもの」、紫田勝二は「欺瞞的天皇制」、伊藤勝彦は「金閣寺=天皇」と先人の意見を引いているが、菅自身は明確な回答を与えていない。

 菅を含めて、7人の意見はほぼ妥当だと思うが、私にはまだ納得のいかないところがある。

ひとつは、三島が占領軍と誼(よしみ)を通じて生きのびた天皇にたいして忌避感を持ち、戦後天皇(制)に対する批判を表明していたと、菅は解説するが、しかし、『金閣寺』では主人公が米軍の空襲で金閣寺が焼けることを期待しており、戦前の金閣寺(天皇)に対する三島の否定感情があり、必ずしも戦後後天皇(制)に対してだけ、限定的に忌避感を持っていたわけではないのではないか。

 確かに、三島は「敗戦は私にとっては絶望の体験」、「私にとって敗戦…それは解放ではなかった」と、戦前・戦後を分けて考えていて、戦前天皇(制)への期待感が充満しているが、単純に戦前回帰思考と見ることはできないのではないか。

 そして、LGBTの七崎良輔(LGBT)著『僕が夫に出会うまで』(2019年発行)であるが、連れ合いから強く薦められて読んでいる。はじめにを読んだだけで、きっと私の涙腺は開けっ放しになるだろうと予感したが、その通りの経過をたどっている。

20190811シタベニハゴロモ調査  

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20190811シタベニハゴロモ調査

 6月4日にみどり団地内の山椒の小木にシタベニハゴロモの幼虫(生まれたて)1匹を視認し、6月8日には菊でも視認した。

 7月5日から21日にかけて、ニワウルシの小枝で、第4齢幼虫を視認した(昨年は、7月上旬に第3齢、第4齢の幼虫を発見)。

 8月1日に、成虫1匹を視認・駆除した。8月1日から11日までの12日間に、50匹駆除した。昨年同期間(12日間)で173匹駆除した。

 8月8日には、蜂が自分よりも大きくて重いシタベニハゴロモの成虫をくわえて飛んでいくのを見た。昨年はカマキリがシタベニハゴロモをつかんでいるのを見た。自然の生態系を楽しんでいる。

 昨年は近辺にある30本のニワウルシを観察していたが、今年はちょっと範囲を縮小して、25本を観察している。昨年はどのニワウルシにもシタベニハゴロモの成虫が幹に張り付いていたが、今年は半数のニワウルシで、1匹も見られない。卵塊段階で駆除したところでは、確実に発生を抑制することが出来たのだろう。

小説「蒼穹の月」(1)

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 小説「蒼穹の月」         


(一)前史(一九一八年~)        〇一
(二)上海(一九三二年四月)       一四
(三)大阪衛戍監獄(一九三二年十一月)  二〇
(四)金沢(一九三二年十二月)      二九
(五)三小牛山(一九三二年十二月十九日) 四二
(六)献辞(一九三三年一月)       五〇
                        二〇一九年八月十二日

注:小説であり、虚実こもごもであることをご了承ください。

(一)前史

米騒動(一九一八年)
「健ちゃん、うちはどうなるんけ」。十二歳の健と五歳年下の文子はふるえていた。
 早朝から、和波町や末広町から二、三百人のかあかたちが押し寄せ、口々に、「米、安くしてくとんせ」と、米価の引き下げを求めて、激しく板戸を叩いていた。
 昨年は一升二十銭程度だった米価も、シベリア出兵(八月)による米不足感から、八月中旬には四十銭を超えていた。
 一九一八年七月下旬、富山湾岸の町々から始まった米騒動は八月には石川県にも波及し、十一日高浜町、堀松村末吉(志賀町)、十二日金沢宇多須神社(三千人)、十三日兼六園霞ヶ池(三千人)、二一日宇出津町(能都町)、二六日穴水町、松任町(白山市)、その他山中町(加賀市)、美川町(白山市)にも波及した。
 この年、父助次郎は南町の踏切の際から商業の中心部中町に店を移し、本格的に精米業に加えて塩乾物の商いを営んでおり、米価高騰で商機を狙っていた。ありったけの金をはたいて仕入れておいた米を、一升三五銭で売ろうとしたが、かあかたちの騒ぎで、結局、仕入れ値にも満たない二五銭にまで下げざるを得ず、儲けにはならなかった。

 米騒動から三年の歳月が流れた。シベリア出兵後の不況のあおりを受け、加えて南米チリーに渡って商いをしていた長兄の事業が失敗し、中町通りの精米所は人手に渡った。
 助次郎の収入が途絶え、一家は商業地域から離れた、カワウソが棲む安産川にほど近く、美川尋常小学校の前に居を移した。十五歳の健は小松中学中退を余儀なくされ、戸板村大豆田の金沢紡績に職を求め、製品の品質検査をおこなうゲレンバにまわされた。この地は島田清次郎が一時期暮らしていた元車町からほど近く、鉄道線路で隔てられた、金沢の辺境であり、差別され、貧しい地域であった。
 休日になると、健は父母の許に帰り、文子と一緒に、手取川に架かる何龍橋を渡り、熊田源太郎が開設した私設図書館「呉竹文庫」にでかけた。健は賀川豊彦や同郷の島田清次郎に親しんでいたが、ベストセラーになった『地上』にも、戯曲『帝王者』にも違和感と不快感を感じながらも、そこに描かれている労働者には、深い共感を寄せていた。
 金沢には、魚臭い風が吹く美川にはない、新しい世界があった。とりわけ、ハイカラな建築様式の写真館とショーウインドウが健の心をとらえていた。写真術が入ってきた江戸末期から、すでに五十年が過ぎ、湿板から乾板に進歩し、金沢にも二十軒ほどの写真館が開業していた。
 単調なゲレンバの作業に飽き〳〵していた健は、思い切って、香林坊よもんど橋詰めの中村写真館の戸を叩いた。写真師の中村正義は大野弁吉の愛弟子小池兵治に師事して写真術を学んでいた。北陸人物名鑑は、中村正義を「写真術は市内に於ても殆んど比類なき特技を有し、現代に於ける最も新しきダブルライチングベットソフトホーカスの如き、又た原板技術上最新式のバックレタッチングの如き、実に氏に於て之を見ることを得べし」と評している。

関東大震災(一九二三年)
 健は一年ほどの住み込み修行で、兄弟子の庵さんに随いて独立し、材木町で庵写真館を開業したが、市中心部から外れていたために客足は伸びず、次第に第四高等学校の学生たちのたまり場と化していった。閑をもてあましていた健も加わり、仕事をそっちのけにして、政治談義に熱中し、やがて庵写真館は経営的に行き詰まっていった。
 一九二三年九月一日、首都東京を関東大震災が襲った。健は『北国新聞』が伝える震災報道に衝撃を受けていた。
 三日付の紙面は「朝鮮人等横行す 秩序全く紊(みだ)る」「朝鮮人武器を携へて横行 官吏青年団 武装して警戒に努む」という見出しで、「焦土と化したる東京市中は大混雑を呈し朝鮮人等跋扈して非常に暴行を働き無秩序の状態にあり」と激しく朝鮮人を非難していた。
 健は、震災のどさくさに紛れて、こんなひどいことをする朝鮮人に怒りを感じていた。
 四日付「朝鮮人一千東京に進撃 軍隊と大衝突 歩兵一個小隊は全滅す」「横浜で不逞朝鮮人銃殺 兇器を携へて避難民を襲ふ」「朝鮮人に警戒せよ 警保局から急電」「帝都混乱の機会に乗じて不逞朝鮮人は支那人を交へて盛んに暗中飛躍を試み三日未明以来純然たる暴徒に化し爆弾を高位高官に投げつくるもの各所に起るので武装を整へた宇都宮高崎千葉の各聯隊は戒厳令を布いて厳重に警戒を加へその結果止むなく斬捨て或は銃剣に突刺さるる支那人朝鮮人もあると。」
 五日付「頻りに伝はる 朝鮮人来襲説 二千名御殿場に向ふと」「後報によると二千名の朝鮮人御殿場駅に向って襲撃しつつありとの説あり四九聯隊は富士、吉田口籠坂峠の二箇所に武装兵を派して待ち構へつつあり。」

 スタジオにやってきた東京出身の四高生は、口角泡を飛ばしていた。
「朝鮮人の暴動なんて、全部デマさ。」
「新聞が嘘を書くはずないやろ。」
「いや、憲兵や自警団が朝鮮人や社会主義者を片っ端から殺しているそうや。」
「おまえ、どうしてそんなこと知っとるがや。」
「母が電話で、」と答える声に確信がなかった。
 十日になって、「井戸の毒物混入は全然無根 軍医学校で検査の結果 形跡なしと判定」との記事が載り、「朝鮮人が井戸に毒物を投げ込んだ」という情報が否定された。
 『文章倶楽部』(新潮社)十月号には、細田民樹の「運命の醜さ」が掲載された。この雑誌は若者向けで、島田清次郎もよく書いていたので、健も時々手にとっていた。細田は関東大震災での朝鮮人や社会主義者にたいするいわれなき暴力を描いていた。
 翌年、四高生が持ってきた『演劇新潮』四月号には、自警団や在郷軍人の横暴を描いた戯曲『骸骨の舞跳』(秋田雨雀)が載っていた。

 老人 然うでせうか?…でも朝鮮人が火を放けて歩いてゐるという噂ぢゃありませんか…ほんとに怖ろしいことですね…
 青年 (語気を強めて)あなたも然んなことを信じてゐるんですか? 僕等はもう少し自信をもちませう。僕は出来るだけの事を調べてきてゐるんです。
 老人 然うですか?…でも噂にしては大変な嘘をこしらへたものですね…何んでもそのためにこの汽車の沿道でも大分朝鮮人が殺されてゐるといふ話しですが、真実でせうか?
 青年 それは真実です。僕は昨日から色々な事を見せられて来ました…僕は日本人がつく〴〵嫌やになりました。

 救護班員 山田さん、大変ですよ。本部の前で朝鮮人が殺されたさうです…
 看護婦 その朝鮮人は何かしたんですか?
 救護班員 何んでも朝鮮人が大勢で師団へ押し寄せて来るといふ噂さです。
 避難者 (殆んど全部の男は一斉に立上がる)朝鮮人だ!
 避難者 やつぱり朝鮮人がやつて来たんだ!
 避難者 朝鮮人は己れ達の敵だ!

 老人 あなた朝鮮人が押し寄せて来るつてのは真実でせうか?
 青年 どうして然んなこと考へられませう。第一、師団を襲撃するなんて可笑しな話ぢゃありませんか? 朝鮮人は武器一つ持つてないんです。(略)
 老人 然うでせうか…でも何うしてそんな噂が立つんでせうね…
 青年 日本人に自信がないからです!
 避難者 あいつは何んだへ?
 避難者 朝鮮人ぢゃないか?
 避難者 朝鮮人だ…朝鮮人だ…
 避難者 やつつけろ〳〵!

 青年 余計な事を言ふんぢゃない。君達こそよけいなことをしてゐるのだ! 軍隊や警察があるのに、そのざまは何んだ? 甲冑、陣羽織、柔道着…君達には一体着る衣服がないのか? 
(青年はある男を見て)君、起ちたまへ。さあ、しつかり起ちたまへ。君達のいふやうに、或はこの人は朝鮮人かも知れない。然し朝鮮人は君達の敵ぢゃない。日本人、日本人、日本人。君達に日本人が何をして呉れたか? 日本人を苦しめてゐるものは朝鮮人ぢゃなくて日本人自身だといふこと。

 真実が次々と明らかになっていった。六千人の朝鮮人が虐殺され、大杉栄、伊藤野枝が虐殺され(甘粕事件)、河合義虎等が虐殺され(亀戸事件)、社会主義者が次々と検束されていた。
 しかも、気になるニュースも飛び込んできた。翌年八月二日の「北國新聞」は「血のついた浴衣を着て 真夜中を 島清迂路つく 警視庁で精神病者と鑑定し 庚申塚保養院に入院す」と報じ、島田清次郎は治安弾圧の対象とされ、六年間の幽閉の末、社会から抹殺されたのである。 
 健にとって、島田清次郎とは六歳ほどの年の差があり、幼少時に美川を去っていたとはいえ、いつも話題にあがる、近しい人だった。清次郎の父が回漕業を営んでいたときも、母みつと祖母里せが旅館を営んでいたときも、指呼の間で米穀・乾物類を商っている助次郎商店の取り引き先だったからだ。

一九二九年恐慌 
 庵写真館を閉鎖した後、健は加賀大聖寺町の小池写真館で主任技師として働いていた。写真館は御大典(一九二八年)でにぎわっていたが、関東大震災は日本経済に深刻なダメージを与え、すでに金融恐慌に突入していた。中国では日貨排斥運動が起こり、中国市場を確保するために、二度にわたって「山東出兵」(一九二七年、一九二八年)を強行していた。
 石川県内の経済も厳しい状況を呈していた。労働者の賃金は震災前と比べて、六〇%まで低落し、金沢には失業者があふれていた。農民の借金は増え、漁民はもっと窮地に追い込まれていた。当時の新聞は「内灘村は食うべき何物も持たず、耕さうにも土地がなく、その上に貨幣収入から見放され」と伝えていた。
 健がかつて働いていた金沢紡績は、一九二六年に錦華紡績と名前を変え、県内最大の紡績工場になっていたが、その男工の日給は五五銭ほどで、これでは米を二升も買えなかった。朝鮮併合・土地調査で先祖伝来の土地を奪われ、やむなく日本に渡ってきた朝鮮人の賃金はもっと深刻だった。このような状況のなかで、一九二九年恐慌が人々を襲った。
 十一月、金沢末町の水道工事現場で、朝鮮人二人と日本人一人が死亡する事故が起きた。日本人はすぐに助け出され、乗用車で病院に送られたが、朝鮮人は昼過ぎまで放置され、荷物のようにトラックの荷台に乗せられて運ばれた。
 朝鮮人労働者は日頃から差別賃金に不満を持っていたが、この事故を引き金にして、朝鮮人労働者と家族は市役所に押しかけた。一九二九年「十一・三光州学生蜂起」の知らせも、金沢にまで届いており、朝鮮人の怒りは沸点に達していた。
「工事現場ノ安全ガ、ハカラレテイナイジャナイカ。」
「仲間ノイノチヲカエセ。」
「ワタシラハ、日本人ト同ジ仕事ヲシテイルノニ、給料ハ日本人ノ半分ジャナイデスカ」
「日給ヲアゲロ。」
「差別アツカイヲヤメロ。」
 朝鮮人はたどたどしい日本語で口々に、金沢市と会社の責任を追及したが、当局者は強圧的な態度で、
「それは労働者の不注意のせいだ。組合と連絡して運動すれば一文も出さない」と一歩も引き下がらなかった。
 請負会社に交渉に行けば、警察が駆けつけてきて十三人が検束され、釈放を要求して広坂署にも連日押しかけた。金沢戦旗支局ニュースが方々に支援を呼びかけ、工事現場の朝鮮人労働者を激励した。二十日間のたたかいで、死者一人七百五十円の弔慰金を出させて、争議は終結した。
 一九三〇年四月、このたたかいを担った李心喆、鄭東振らが石川自由労働組合を結成し、前年に来日したばかりの尹萬年も加わった。その後、川崎機業場火災生活保障闘争(三月)、錦華紡績賃下げ解雇争議(七月)、七尾セメント解雇争議(八月)、小松製作所解雇争議(九月)が続いた。
 錦華紡績は「社員は十から十五%、職工は八%の減給」と発表した。健はかつて庵写真館にたむろしていた四高生から、錦華紡績の労働者にストライキを呼びかけるビラ入れを誘われ、夜陰に紛れて塀を乗り越えた。健にとって、錦華紡績はかつての職場であり寄宿舎だったので、勝手を知ったわが家同然だった。

  ボウセキの姉妹たち!
   ワタシラはホカのカイシャよりもヅット安い賃金でシカモ工場法をやぶってまで朝はクライ三時前から夜中の十二時スギまでコキ使はれて休み時間もユックリめしを食ふ時間もない。金も時間もウントヌスンデ、カイシャは日本一のボロモウケだとイバッテゐる。
   ムチャクチャにコキ使はれたワタシラは病にはカカル、うちの者は食てゆけぬで、ミンナはらの中は煮えくりかえってゐる。
   モウ工場長のウソのナミダや小林のゴマカシ笑ひにだまされてイノチをとられてしまうのを待ってゐないぞ。
   コレニビックリシタカイシャのヤツは三工場の車君が会社のケシカラントコロを話してゐたと云ふてクビにしたがワタシタチ誰も彼もミンナそう思ってゐるのだ。
   車君のクビには絶対反対だ。ワタシタチ使はれてゐるものはオタガヒだ。

 ほとんどのビラは明け方までには回収され、なかなか労働者の手に渡らなかったが、口づてに伝わり、二七日になって五十人ほどの労働者が「夜勤手当の支給と食事の改善」を求めてストライキに入り、翌日には三百人にふくれあがった。

 小池写真館には、月に二回しか休みはなく、その日が来ると、健は両親に会いに美川に戻り、その足で呉竹文庫に向かうか、文子と落ち合って香林坊へ出かけた。来る日も来る日も、昼となく夜となく錦華紡の工場で働かされ、へとへとになっている文子にとって、レストラン魚半で、健とともに過ごすひとときが何よりも楽しみだった。
 この日も、文子はよく食べ、よくしゃべった。
「健ちゃん、新しい大正時代の女子教育を受けていても、いざ結婚すると、男女の差別はなんとひどいじゃありませんか。嫁としての立場は相変わらずだし、忍従と過労の毎日じゃありませんか。」
 呉竹文庫では、恋愛ものしか読まなかったのに、婦人問題に関心を持ち始めた文子に、健は目を細めた。文子の話しはとまらなかった。
「子供たちのために、社会の誤った習慣や偏見をなくし、女性のために一切の不合理を是正しなくてはならない。人の世に生まれ、女なるが故に選挙権も与えられないのは口惜しいじゃないですか。私たち女性は今、扉の中に閉じこめられています。法の不備、低い教育、激しい労働に苦しめられて、女性はかわいい子供ぐるみ共倒れになりそうです。私たちは早くこの扉を開いて出なければならない。」
 金沢にも、大正デモクラシーのさざ波が押し寄せていた。一九二九年六月には米山久子や駒井志づ子らによって、婦人講演会が開催され、十一月には、その勢いで婦選獲得同盟金沢支部を結成していた。
 健は婦選運動を訴える文子にたじたじになっていた。

満州事変(一九三一年)
 一九三一年、関東軍は南満州鉄道を爆破して、「満州事変」を起こし、翌年には、上海で日本人僧侶を襲撃させ、「上海事変」が始まった。
 美川からも青年たちが応召し、上海に引っ張られていった。第七連隊の空閑大隊長ら二百人の部隊が奇襲攻撃をかけたが、逆に包囲され、全滅し、郷里の将兵一四七人が戦死し、友人たちは骨になって、次々と還ってきていた。
 このころ、母が亡くなり、姉は結婚し、兄たちは遠くアメリカの地にあった。健はひとり残された父と暮らすために、美川で写真館を開こうと考えていた。十年間の修行によって、独立するには十分な技量を蓄えていた。
 上海爆弾事件が起きたのはこのような時だった。健の眼は号外に釘付けだった。

  「上海天長節祝賀会椿事続報」
  「君が代吹奏終るや 閃光と共に轟く爆音」
  「犯人は式壇の傍らに潜む」
  「現行犯人は朝鮮人 関係一味六名逮捕」
  「白色五寸径の爆弾 負傷者は他にも十数名」
  「野村長官重傷 右眼は失明か 左小指は千切れる」
  「白川、植田の両将軍重傷」
  「北四川路付近に臨時戒厳令」
  「重光公使は全治四五ケ月 河端民団会長最も重傷」
  「壇上の主賓 バタバタ将棋倒し」


つづく 

小説「蒼穹の月」(2)

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(二)上海(一九三二年四月)

故郷を離れる
 尹奉吉は一九三〇年三月六日(二三歳)、「丈夫出家生不還」と書き遺して家を出た。この遺書は中国戦国時代の刺客荊軻(けいか)が秦の始皇帝を殺害するために出発する直前に「風蕭々兮易水寒 壮士一去不復還(風蕭々として易水寒く 壮士ひとたび去りて復た還らず)」と詠んだ時世の句からとっている。
 挿橋(サプキョ)駅までの八キロの道を振り返り〳〵歩き、ソウルで京義(キョンイ)線に乗り換えて新義州(シニジュ)に向かったが、宣川(ソンチョン)で強制的に下車させられ、半月間警察に勾留された。釈放された尹奉吉は李黒龍と再合流し、新義州から鴨緑江(アムノクカン)を超えて、ついに中国(安東=丹東)に入った。尹奉吉は中国東北部(満州)の独立軍を訪問したが、朝鮮同胞の独立戦線は極めて厳しい状況に置かれていた。尹奉吉は上海へ向かうことにした。
 十月、尹奉吉は青島に着いたが、上海へ行く旅費がなく、昼は日本人クリーニング店で働き、夜は同胞(埠頭の労働者、日雇い労働者)を相手に講習所(労働夜学)を開いた。尹奉吉は一九三一年五月八日、青島での生活を清算し、上海に向かった。

独立運動の坩堝・上海
 尹奉吉を迎えた当時の上海では、千人近くの朝鮮人が暮らしており、韓国労兵会、南華韓人青年聯盟、同友会、興士団、公平社、留滬韓国独立者同盟、上海韓人青年同盟、在中国韓人青年同盟、中国革命互済会韓人分会、臨時政府、上海韓人反帝同盟、上海大韓僑民団、韓国義勇軍上海総司令部、上海韓人青年党、上海韓人女子青年同盟、韓国独立党、中国共産青年団上海韓人支部などの団体が活動していた。まさに、上海は朝鮮人独立運動・革命運動の坩堝だった。
 尹奉吉は安恭根(アンコングン:安重根の実弟)に紹介されて、中国髭品(ミリ)公司(馬の毛で帽子や日用品を作る工場)で働き、ここで、「韓人工友親睦会」(労働組合)を作った。上海ではコムニスト系(上海韓人反帝同盟)と独立運動系(上海大韓僑民団=臨時政府)が競い合って、日帝とたたかっていた。尹奉吉は、安恭根の紹介で、臨時政府(韓人愛国団)の金九と接触した。
 尹奉吉は大韓民国臨時政府の実情を聞かされ、革命を起こせるような状況ではないと判断し、世界の革命史を勉強する目的で渡米計画を立て、英語の勉強を始めた。
 七月には、万宝山事件(中国人と朝鮮人の土地をめぐる衝突)が起き、日帝・関東軍はこの事件について虚偽の情報を流し、中国人と朝鮮人を対立させる方向に誘導した。上海でも、これまで朝鮮人には友好的であった中国人の感情は一変して、悪化した。九月、日帝は「満州事変」を引き起こし、中国東北部(満州)を占領した。抗日武装闘争勢力の一部は「満州事変」で本拠地を脅かされ、中国本土の大韓民国臨時政府に合流したり、連絡をとりながら活動するようになった。臨時政府は沈滞期から脱し、活動が積極的になった。金九は韓国独立運動の活路として、臨時政府の傘下に秘密結社の「韓人愛国団」を組織した。

上海爆弾事件
 中国東北部(満州)を占領した日本は国際的非難にさらされ、非難の矛先をそらすために、上海で中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させ、これを口実にして、一九三二年一月、日帝海軍第三艦隊の陸戦隊が中国軍への攻撃を開始し、「上海事変」を引き起こした。
 そして、四月二九日の天長節に、上海虹口公園で戦勝(侵略)祝賀式典が予定され、金九は祝賀式典爆砕を尹奉吉に指示し、尹奉吉は実行に移し、その場で逮捕された。
 
 尹奉吉は上海虹口公園の向かい側にある憲兵分隊に連行され、床の上でぐったりとしていた。小半時ほど前、雨の虹口公園で日本人群衆にしこたま殴打され、泥靴でところかまわず足蹴にされていた。これからは憲兵の拷問が待ち受けていた。
 上海派遣軍は総領事館と協議し、尹奉吉を軍法会議で裁くことになり、楊樹浦軍司令部囚禁所に移監した。法学者信夫淳平からは「軍法会議ではなく、在上海総領事館で予審をおこなって、長崎地方裁判所の管轄に移すべきだ」という疑義が出されていたが、それは無視されていた。
 憲兵隊は焦っていた。一刻も早く、尹奉吉の背後関係を洗いだし、手を打たねばならなかった。尹奉吉は、十日間は金九(キムグ)のことは話すまいと決意していた。すでに結論が決まっており、なにも話すことはなかった。話せば、同志に危害がせまるだけで、話したからといって生きる望みがあるはずもなかった。
 しかし、拷問のたびに、尹奉吉の肉体はきしみ、生きていたいともがいていた。
 五月二日には予審請求がおこなわれ、尹奉吉は拷問に耐えぬいて、十一日の取り調べまで持ちこたえた。その間に、金九は「虹口公園爆弾事件ノ真相」を発表し、すでに安全圏に脱していた。

 『計画ト遂行』
   日本ハ強力ヲ以テ韓国ヲ併合シ、次デ満州ヲ征服シ、更ニ理由ナク上海ニ侵入スルコトニ依ッテ東洋並ニ世界ノ脅威トナッタ。サレバコソ余ハ世界平和ノ敵、人道ト正義ノ破壊者ニ対シ復讐スベク決心シタノデアル。(略)
   四月二九日早朝余ハ我ガ青年同志尹奉吉君ヲ召致シテ余自身ノ製作セル爆弾二個ヲ彼ニ与ヘタ。一個ハ我等ノ敵ナル日本軍閥ヲ殺害スル(日本人以外ノ何人ヲモ傷ケザル様細心ノ注意ヲ払ヒテ)為メ、又一個ハ行為終ッタ後彼自身ヲ殺ス為メニ。彼ハ余ノ命令ヲ遂行スル事ヲ厳粛ニ約束シタ。余等ハ目ニ涙ヲタタエテ握手ヲ交シ互ニ別レヲ告ゲ且又ノ世ニ相見ンコトヲ誓ッタノダ。余ハ自動車ヲ雇ッテ彼ヲ虹口公園ヘ送リ出シタ。彼ハ其ノ身ニ二個ノ爆弾ト四弗ノ金ヲ有スルノミデアッタ。余ハ彼ノ成功ヲ祈ッタノデアル。(略)

 五月中旬ごろから白川義則上海派遣軍司令官の体調が激変していた。閣議は「五月中には陸兵の全部を撤退させる」と決定し、田代皖一郎参謀長は上海派遣軍の撤退までに尹奉吉の死刑判決を出さねばならないと自覚していたが、白川の死はその時期をさらに早めそうだった。
 なかなか尹奉吉の供述調書ができず、ようやく十九日に予審が終結し、二十日に「殺人殺人未遂及爆発物取締罰則違反」により公訴を提起し、第一回目の軍法会議を五月二五日とした。
 五月二一日、白川は四十度の熱を出し、四回目の輸血がおこなわれた。翌日、容態が少し持ち直し、一息ついたのもつかの間、上海港に停泊中の送還船が便衣隊(ゲリラ兵)の攻撃で炎上し、田代は善後策に追われていた。
 二四日には、白川の開腹手術をおこなったが、多量の出血に見舞われた。部隊の帰還準備と白川の容態悪化で、田代は寝る間もなかった。
 二五日、白川にチアノーゼが現れ、脈拍、呼吸がこと切れんとしていた。この日に、第一回軍法会議が開かれたが、白川の容態の急迫に、判決を書く余裕もなく、次回の審議を未定として閉廷した。
 二六日午前零時三十分、鼓動も呼吸もなくなり、十三回目の輸血をおこなったが、午前六時二六分(日本時間七時二六分)、白川は他界の人となった。
 二八日、田代は白川の遺体とともに軍艦龍田で日本に向かった。
 三一日には上海派遣軍の全てが撤退し、憲兵隊と尹奉吉が上海にとり残されることになった。本来、派遣軍が引き揚げれば、尹奉吉を現地の領事館に引き渡し、通常の裁判に委ねねばならない。しかし、田代は軍法会議での判決にこだわっていた。
 六月二日に東京で白川の陸軍葬がおこなわれ、田代は上海に取って返した。もはや軍法会議などさほどの意味もなく、急いで「判決書」を完成させ、「五月二五日」の日付を付したが、公表は控えられた。どの新聞も白川の死と植田謙吉の凱旋を大きく取り扱っていたが、判決には一言も触れていなかった。


(三)大阪衛戍監獄(一九三二年十一月)

 一九三二年十一月十八日、尹奉吉は大型客船の大洋丸で上海を離れた。遠巻きにする乗客の中に、心配そうな目線を投げる同志が見えたが、もちろん近づくこともできなかった。
 乗客は、船中に異様な集団がいることにざわめいていた。與一もその一人だった。
 與一は金沢出身の台湾総督府・技術官僚で、嘉南大圳(大規模灌漑ダム)建設の責任者だった。嘉南大圳は本土から台湾に進出した糖業資本のために計画され、台湾南部の農地と農民を甘蔗栽培に動員する植民地政策として、一九三〇年に完成していた。
 運用が始まると、流域の農民は水租を納入できず、家財道具や不動産を差し押さえられたり、やむなくわが子を売らざるを得ない者まで出ていた。農民組合は「埤圳管理権奪回」「水租の減免」「三年輪流灌漑反対」「総督独裁政治反対」を掲げてたたかっていた。與一にとっては総督政治は絶対であり、台湾農民の反抗を苦々しく思っていた。
 與一は嘉南大圳の次は揚子江や黄河、スマトラのトバ湖だと考え、密かに海南島から中国本土の調査に出かけての帰りだった。揚子江の武昌あたりで、川をせき止めれば、いいダムができると、上機嫌だったが、半年前の新聞報道を思い出し、不機嫌になっていた。
 大洋丸は関門海峡を通過し、瀬戸内海の島々を縫うようにして進み、十一月二十日神戸港に到着した。尹奉吉を乗せた車は新聞記者の追跡を巻いて、一目散に大阪城内の陸軍衛戍監獄にかけこんだ。
 翌日の新聞は、半年前に出された尹奉吉の死刑判決を、はじめて報じ、かしがましく書きたてた。

  上海爆弾犯人尹奉吉 厳戒裡に大阪へ 
  陸軍衛戍刑務所に収容 近く愈よ銃殺さる
   本年四月二十九日天長節の佳辰にあたり上海新公園において行はれた我が派遣軍観兵式終了後の官民合同祝賀会場の壇上に爆弾を投じ遂に白川大将、河端行政委員会長の生命を奪ひ、重光公使の右脚と野村中将の右眼を失はしめ全国民を憤慨の極度に陥らしめた爆弾犯人…尹奉吉(二六年)は現場において直に我が警備の軍憲に逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑確定し、いよいよ大阪陸軍衛戍刑務所で銃殺されることとなり二十日午後二時四十分郵船大洋丸で神戸港外和田岬着、陸路大阪に護送され同日夕刻大阪陸軍衛戍刑務所に収容された。

 大阪衛戍監獄では、毎日数十分の運動の時間があった。運動場は畳三枚ほどの広さで、板塀で厳重に仕切られ、いくつも並んでいた。逃亡・通謀防止のために一室おきに使われていたが、ある日、となりの運動場に人の気配がした。尹奉吉は看守に気づかれないように、日本語で声をかけてみた。
「四月二九日ノ上海爆弾事件ヲ知ッテイマスカ。」
「聞いてはいるが、詳しくは知らない。」
 素っ気ない返事に、尹奉吉は続けた。
「上海派遣軍ノ戦勝祝賀会ニ爆弾ヲ投ゲテ逮捕サレ、軍法会議ニカケラレテイタノデスガ、判決ノ直前ニ、派遣軍司令官ノ白川ハ死ニマシタ。第九師団ノ植田謙吉ハ左足ヲ切断スル重傷ヲオッテ…。」
 宿敵植田の名前が出てきて、男は口を開いた。
「九師団七連隊の兵士なんですがね、戦争反対を呼びかける『無産青年』を隊内に持ち込んでね、まずいことに、それが見つかって逮捕されてね。軍法会議にかけられて、二年の判決で、ここで服役しているんです。」
 尹奉吉には、意外だった。
「日本ニモ、戦争ニ反対スル兵士ガイルノデスカ。」
「多くはないけどね。」
 男は鶴彬と名乗り、短い運動時間はすぐに終わった。

 『赤旗』で「反帝国主義テーゼ」が発表され、一九二九年頃から軍隊工作が始められ、鶴彬が入営した年にも、反帝同盟金沢支部のビラが兵営付近の電柱に張り出された。
 一.兵士ノ家族ノ生活ヲ保証シロ!
 一.兵士ニ面会・通信・読書・外出ノ自由ヲ与ヘロ!
 一.兵士ニ対スル絶対服従制度廃止!
 一.労働者農民ヲギセイニスル帝国主義戦争並ニ其ノ準備絶対反対ダ!
 一.反帝同盟ヘ加入シロ!
 一.入営ノ一切ノ費用ヲ国庫デ負タンシロ!
 一.入営ニヨル失業絶対反対!
 一.入営中家族ノ生活ヲ保証シロ!
 一.兵役ヲ一年ニ短縮シロ!
 一.労働者農民ヲギセイニスル帝国主義戦争絶対反対!

 日本にも、侵略と植民地支配に反対してたたかい、監獄に収監されている青年がいることに、尹奉吉の胸が熱くなった。鶴彬に会えるかと期待して、運動場に出かけても、期待が裏切られて帰る日が続いた。

 上海派遣軍参謀本部は、八月頃から、尹奉吉の処刑について具体的に検討していた。上海で処刑すれば、遺体・遺骨が朝鮮人革命家に奪われるおそれがあり、最初から除外された。日本への移送先は大阪衛戍監獄であり、大阪での処刑が順当だが、最後まで上海に残留した金沢第九師団による処刑・埋葬も視野に入れて、具体的に調査をおこなっていた。
 十一月二五日、大阪衛戍監獄で、宮井所長、東京地検の亀山検事、九師団法務部の根本大佐を交えて、処刑日時、処刑地、遺体処理、埋葬地、移動方法などについて、最終的な検討がおこなわれた。この日は、大阪、金沢それぞれの報告を受け、最終的に決定するための会議だった。

 亀山検事の問いに、
 宮井所長は「大阪城内の城南射撃場は半地下形式になっており、そこでの処刑は外から見られる心配はないでしょう。遺体は真田山陸軍墓地に埋葬できますが、常時監視は難しいのではないでしょうか。」
 根本大佐は「金沢郊外の三小牛山(みつこうじやま)陸軍作業場で処刑し、隣接する野田山墓地の管理事務所の際に埋葬すれば、常時監視も出来ます。事務所には電話が引いてありますから、朝鮮人が遺体を掘り出そうとしても、すぐに連絡することが出来ます。」
 真田山と三小牛山から野田山の地図を広げて、具体的に確認したあと、亀山検事は、朝鮮人の動向について訊ねた。
 宮井は「大阪では、二十日に尹奉吉が収監されてから、反帝同盟が『朝鮮人が産んだ反帝国主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を捲き起こせ』と、ビラを配布して、尹奉吉の奪還を訴えています。朝鮮や警視庁などから朝鮮人専務の巡査を動員し、十一月上旬までに、百数十名の朝鮮人危険分子を検束して、拘留しています。処刑はいいとしても、埋葬後の管理がちょっと不安ですね。」
 根本は「金沢では、昨年以来、共産党員を五十人ほど検挙して、ほぼ壊滅させました。朝鮮人の労働争議が多少増えていますが、大阪ほどではないでしょう。尹奉吉の事件に関しては、朝鮮人のなかでもほとんど話題にもなっていません。」
 金沢での処刑を決定し、十二月上旬までに尹奉吉の移送、処刑の具体的計画をたてることにして、この日の会議を閉じた。

あと十日の命
 十二月九日、亀山検事は再び大阪に来て、処刑準備の進捗状況を確認した。尹奉吉を呼び出し、形ばかりの取り調べをおこない、「十二月十八日に、金沢第九師団に移送する。」と、告げた。それは処刑の宣告だった。
 あと十日のいのちに、尹奉吉の心臓ははげしく波打った。
 翌日、久しぶりに、となりの運動場に人の気配が感じられた。待ちに待った鶴彬だった。尹奉吉は堰を切ったように話し始めた。「十八日ニ金沢ニ移送サレ、十九日ニハ処刑サレルコトガキマッタ。」と。続けて、
「決行直前ノ四月二七日ニ虹口公園ヲシタミニイッタトキニ、ワタシガフンダ芝生ニハ、ソノママ立チアガレナイモノモアレバ、フタタビ立チアガルモノモアリマシタ。人間モマタ力ノツヨイモノニ踏マレタトキニハ、コノ芝生ノヨウニ、立チアガルヒトモオレバ、ソノママダメニナッテイクヒトモイマス。」
 鶴彬は、じっと目をつむって聞いていた。
「鶴先生、朝鮮人ハゼッタイニアキラメマセンヨ。枯レタヨウニミエル芝生デモ、雨ガフレバ、フタタビメヲダスチカラヲモッテイマス。ワタシタチハ芝生ノヨウニ、何回デモ生キカエッテ、カナラズコノ手デ独立ヲツカミマス。トコロデ、李奉昌先生ガ天皇ニ爆弾ヲ投ゲタ事件ハドウナリマシタカ。」
「李奉昌さんは先月の十日に処刑されました。」
 しばらくの間、尹奉吉には言葉がなく、絞り出すように、
「悔シイジャアリマセンカ、鶴先生。日本ガ朝鮮ヲ併合シ、ナニカラナニマデ奪ッテイッテ、ワタシラニハモウ投ゲダス命シカノコッテイマセン。ソノタッタヒトツノ命マデトラレテ、ドウシタラヨイノデスカ。ソレナノニ、共産党マデガ、李先生ノ行動ヲファシスト団体ノ陰謀ダトイッテイルソウジャアリマセンカ。ドウシテ、日本人ニハ朝鮮人ノ気持チガワカラナインデスカ。」

 鶴彬は、尹奉吉の熱い気持ちに接し、『赤旗』の論争を反芻していた。紙面では、共産党の主張にたいして、「ファシストの陰謀という断定には賛成できない。朝鮮人には日帝に対する深い憎悪と反抗の念が刻み込まれている。それが今回の事件の原因である。李奉昌の勇敢な行動にたいしては、革命家としての敬意を払うべきだ。彼の英雄的行動を蔑視したり、黙殺してはならない。」と反論が出されていた。しかし、その半年後に起きた尹奉吉のたたかいは、やはり黙殺された。
 鶴彬には、弁解の余地はなかった。
「鶴先生、ワタシハコノ命トヒキカエニシテ、日本ノ横暴ヲウッタエマシタ。日本ガ朝鮮ヲ併合シ、総督政治ノモトデ労働者農民カラ絞リアゲテイルコトヲ、日本ノ労働者ニカナラズ伝エテクダサイ。」

 鶴彬は尹奉吉に深い知性と強い意志を感じた。植民地支配のもとで、すべてが奪われている朝鮮人民を思うと、心がふるえた。運動時間が終わり、舎房に向かったとき、鶴彬の耳に、看守と激しく言い争う声が聞こえた。尹奉吉の口から突いて出る言葉は、日本語から、朝鮮語へと変わっていた。
 舎房に戻った鶴彬は、数年前に発表された伏せ字だらけの「雨の降る品川駅」の一節を思い出していた。

  そして再び
  海峽を躍りこえて舞い戾れ
  神戸 名古屋を經て 東京に入り
  彼の身に近づき
  彼の面前にあらはれ
  彼を捕へ
  彼の顎を突き上げて保ち
  彼の胸元に刃物を突き刺し
  反り血を浴びて
  溫もりある復讐の歡喜のなかに泣き笑へ

 鶴彬は、天皇の車列に爆弾を投げ、十月に処刑された李奉昌、四月天長節に爆弾を投げ、処刑を待っている尹奉吉が目の前にいることに衝撃を受けていた。日本の労働者人民こそが「彼(天皇)を捕へ 彼の顎を突き上げて保ち 彼の胸元に刃物を突き刺し 反り血を浴び」ねばならないと、その責任が鶴彬の胸を押しつぶした。

小説「蒼穹の月」(3)

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 小説「蒼穹の月」(3)    

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(四)金沢(一九三二年十二月)
 そのころ、第九師団荒蒔義勝師団長から具体的な命令があり、根本荘太郎法務部大佐らは尹奉吉処刑の準備を着々とすすめていた。命令書には、次のように書かれていた。

   工兵第九大隊ハ作業小隊ヲ編成シ石川郡内川村三小牛山陸軍作業場東北端ノ一画ニ銃殺刑執行ノ場所ヲ設置スヘシ。ソノ要領ハ別紙略図ノ通リ。刑架ハ方三寸角、檜材トシ、地表三尺、地下埋没尺五寸。高サ二尺ノ位置ニ横三尺ノ同ジク角材ヲ本柱ト直角、十ノ字ニ装着スヘシ。右十字架ハ切リ立チ崖ノ二米前ナリ。サラニ切リ立チ崖カラ南西三十米ノ場所ニ軍用二間天幕二張リヲ建テ、刑架ナラビニ天幕ノアル地表ニワラムシロヲ敷クヘシ。以上ハ、十八日午後五時ニ修了ノコト。
   小隊ハ別途、方三寸角、高サ三尺ノ標柱一基、二寸五分角、高サ三尺五寸ノ木標一基、ナラビニ高幅二尺五寸、長六尺、厚サ五分、松材柩一基ヲ工作シ、同日午後五時ニ野田山陸軍墓地在金沢憲兵隊派遣分隊ニ手渡スヘシ。
   歩兵第七連隊ハ銃殺刑執行ノタメ一小隊二個分隊ヲ編成シ、十二月十九日午前零時、石川郡内川村三小牛山陸軍作業場ニ派遣、上海軍法会議ニ於テ死刑ノ判決ヲ受ケシ処刑囚・朝鮮忠清南道礼山郡徳山面柿梁里・無職平民・尹奉吉ノ陸軍銃殺刑ヲ執行スヘシ。執行要領、追ッテ後刻、現地ニ於テ指揮官ニ口頭指示スヘシ。(略)
   去ル四月二九日、上海新公園ニ於テ、出来セル投弾爆発事件犯人・朝鮮人・尹奉吉ハ十二月十八日午後五時二十九分、大阪発下リ急行列車ニテ北陸本線西金沢駅ニ下車、第九師団法務部西町拘禁所ニ護送収檻セシム。同犯人ハ収檻ノノチ、十九日午前七時、石川県石川郡内川村地内三小牛山陸軍作業場ニ於テ銃殺刑ニ処スルニ付キ、イササカノ不祥事ナキヨウ諸般、配慮賜リタキコト。委細軍事機密ニ亘ル件ニ付キ、詳細ハ追ッテ口頭、指示スヘシ。

この命令書には「大阪発の急行列車」とか「西金沢駅下車」など、意図的なフェイク情報が埋め込まれ、尹奉吉の移送計画をひた隠しにし、肝心なことは「口頭」伝達としているように、尹奉吉の処刑計画は厳重な軍事機密として扱われた。第九師団内部に、鶴彬のような反軍兵士の存在を警戒していたのである。
 根本大佐は大阪での打ち合わせのとおり、尹奉吉の受け入れ、衛戍拘禁所の点検・準備、処刑部隊の編成、処刑地・埋葬地の調査、在日朝鮮人の警戒など、こまごまと部下に指示した。。

軍命令
 処刑報告書作成のために、写真師の派遣を要請しなければならなかった。九師団には専属の写真班がおらず、民間の写真師のなかから、小池兵治、高桑五十松、今井義一を写真班に任命していた。根本大佐は情報漏れに不安があったので、金沢市内の写真師を避け、小池写真館の大聖寺町支店で主任技師をしていた健を指名し、十八日中には、機材を準備して九師団本部に来るように命じた。
 健は朝鮮人の銃殺刑に立ち会い、その最後を撮影することに激しく動揺した。
 一九二三年の関東大震災で六千人の朝鮮人が虐殺されてから、まだ十年も経っていなかった。日本人は忘れていても、朝鮮人は片時も忘れることはなかった。一昨年も、香林坊の電柱にベタベタとビラが貼られていた。

   今日ハ俺達ニトッテ忘レルコトノ出来ナイ大震災記念日ダ。七年前ノ九月一日ヲ思ヒ出シテ呉レ。…銘記セヨ我々労働者階級解放ノタメ一身ヲ投出シテ戦ッテ居タ多クノ同志ガ奴等ノタメ殺サレタ恨ミノ日ナノダ。…大地ヲ奪ワレサンザン搾取サレタアゲク自分ノ生マレタ国モ棄テ日本内地ニ働カサレニキタ朝鮮ノ労働者ヲ流言ト蜚語ヲ放ッテ何百何千ト虐殺サセタ日デナイカ。
   八月二九日ハ恨ノ日韓併合ノ日ダ!日本帝国主義ガ俺達朝鮮ノ兄弟ノ土地ト自由トパンヲ奪ッタ国辱恨ノ日ハ再ビヤッテキタ。兄弟諸君思ヒ起セバ今カラ二十年前ノ今日専政横暴極ハマル日本帝国主義共ハ朝鮮ブルジョアヲギマンシテ三千万円デ俺達朝鮮ノ兄弟二千万人ヲ奪ヒ取ッタノダ。ソシテ朝鮮ノ兄弟ノ自由モ仕事モ食モ、ミチャクチャニシテシマッタノダ!

 健は尹奉吉を処刑する側に立つことにたじろいでいた。旧知の俊雄に相談することにした。俊雄の祖父は加賀藩家老本多家に出入りしていた石材・瓦商人だった。父の代には、野田山市民墓地の造成に係わるなど、日清戦争の頃までは、上位百五十人のなかに入る金沢の高額納税者だったが、本多家の負債を押しつけられて、家も、石切場も全てを失い、今では、借家住まいで、アユやイワナ採りの網を編んだり、三小牛山一帯を歩きまわって、きのこやクルミを採取して料亭に卸していた。医王山に登って薬草や薬石を採取し、雪が降ると小動物を捕獲するためのわなを仕掛けに山に入った。
 俊雄は犀川の堤防沿いに建てられた朝鮮人小屋に入り浸って、トンチャンを肴にして酒を飲んだり、ばくちで負けては家財道具を持っていかれたりしていた。貧しいが、型にはまらない自由な雰囲気が漂っていた。
 健は寺町台の桜畠に向かい、戸を叩いた。粗末な借家だったが、上品な老婦人が顔を出した。奥の方から、
「だれや。」
「おれや、おれや、健や。」
「おお、入れや。」
「つまみを持ってきたぞぃ。」
 健はいかの黒作りを出した。
「おお、寒い、炬燵に入れてくれや。」
 母が炬燵布団の裾をまくって、身を屈めて炭火をかきおこした。
「四月二九日の天長節の事件を覚えとるか。」
「ああ、上海の爆弾事件か。」
「そや、朝鮮人がやったというのは知っとるやろ。」
「そりゃ、誰でも知っとるやろ。今更、なんや。」
「金沢で処刑されることになったんやが…。」と、健は尹奉吉を撮影することになったいきさつを話した。
 俊雄は結核で曲がった背骨をグイッと伸ばし、ため息をついて、
「今さらどうもならんが、朝鮮人にも知らせとく方がいいかな。最近、特高がやかまして、中心メンバーは地下に潜っとるし、まあ、尹萬年なら連絡とれるやろ。」

内灘村の人びと
 金沢の北方、日本海と河北潟の隙間に内灘村があった。家々は砂丘地のヘリにへばりつくように建っていて、海岸から吹き上げられた砂地なので、稲はもちろん畑もろくに作れない貧しい村だった。男たちは日本海や河北潟で小魚を捕り、女たちは金沢にまで出かけて売り歩いていた。
 村の青年たちは夢を抱いて朝鮮や満州、樺太に渡っていった。権二もその一人だった。権二は津幡農学校を卒業し、内灘村で教員をしていたが、一九二五年に不二土地株式会社の農業指導員として、朝鮮に渡った。権二の行く先々で小作争議が起きていた。内灘村は貧しいと思っていたが、朝鮮の村々は比較にならないほど貧しかった。
 農場の収穫期も終わり、師走にはいって、権二は久しぶりに内灘村に戻り、村の若い衆と一杯飲み屋で、七輪を囲んでいた。「この、貧しい内灘村をどうするか」が肴だった。
 「金沢第七連隊赤化事件」のことが話題になった。鶴彬は『無産青年』を隊内に持ちこみ、兵士たちに回覧して、治安維持法違反として軍法会議にかけられ、懲役二年の判決を受け、まだ大阪陸軍衛戍監獄で服役していた。
 鶴彬は隣村の生まれなので、朝鮮にいた権二もよく知っていた。
 だいぶ酒がまわり、満州事変やら上海事変に話が移り、天長節に起きた上海爆弾事件が話題に上った。雰囲気が一変し、鶴彬のたたかいに理解を示していた青年たちは、口々に朝鮮人を非難しはじめた。「わしらの九師団に手をかけるやつなんか許せるか」「朝鮮は日本の植民地じゃないか、煮て食おうと焼いて食おうと勝手だ」「あんなやつはノコギリでひいちまえ」と、排外主義が唸りを上げていた。
 若い衆の勢いに、権二はたじたじになったが、朝鮮人に同情的だった。

あっちはひどいもんや。朝鮮人が作ったもんは、日本人が全部奪っとる。田んぼも畑も全部とられて、暮らせんようになって、日本や満州に流れてきとるんや。百人や二百人やないんやぞ。何万人も、何十万人もの朝鮮人が泣く〳〵故郷を離れていくんや。そんななかから、尹奉吉のようなもんが出るがはあたりまえやないか。
   朝鮮に残ったもんは日本人地主の小作になって、収穫の半分が日本人にとられるし、肥料代、水税(用水代で、会社が半分、小作が半分負担)を納めんならんがや。耕牛を持つ資力のない小作人は、春耕時の耕牛の借り賃やら、端境期に会社から借りた満州粟の代金などを差し引かれると、一粒の米も残らん状況なんや。
   しかし、朝鮮の農民も黙っとらん。春には「苗を作らん」、秋には「刈り取りをせん」といって、肥料代、水税、耕牛の使用料を安くしてくれと要求するんや。
   わしの前任地は鴨緑江(アムノクカン)の近くやったから、秋から冬にかけて、直径二、三センチもの雹(ひょう)が降って、これが収穫前にやられると、稲の茎は折れるし、モミはバラバラに落ちてしまうし、落ち穂は拾えるけど、落ちたモミは拾えんやろ、あそこは雹が降ったらおしまいなんや。朝鮮人はそんななかで、必死にたたかいながら暮らしとるんや。

尹萬年
 店の片隅で、焼酎を片手に、こんかいわしをつつきながら、権二の話をじっと聞いている青年がいた。忠清南道青陽郡青陽面出身の尹萬年だった。今、権二が配属されている農場はその隣村の江景邑にあり、尹萬年は度々土方仕事に来ており、権二の紹介で一九二九年に金沢に流れ着いていた。
 尹萬年は末水道工事の事件以来、特高に付けまわされていたが、なぜか今年の師走に入ってからは、特に執拗で、仕事に就いてもすぐに特高の介入で、やめさせられていた。この日は、権二に一夜の寝床とカンパを頼みに、内灘村までやって来ていた。

 俊雄は方々手を尽くしたが、尹萬年にはなかなか連絡がつかなかった。権二から連絡が来て、犀川べりの法島町に潜り込んでいることがわかった。
 朝鮮人が住んでいる集落はどこもかしこも厳重な警戒下におかれていた。俊雄は酒瓶を抱えて、特高の監視をすり抜けて、堤防沿いに建つバラックの小屋に入った。かすかに温もりのあるオンドルが俊雄を待っていた。健から聞いた話を一通りすると、尹萬年は声を上げて泣き出した。
 尹萬年は尹奉吉が住む徳山面から二十キロと離れていない青陽面の生まれだった。一九二七年十一月に、新幹会(シンガネ)礼山支部が発足したとき、尹萬年も駆けつけた。尹奉吉と同じ二十歳の同志だった。
 新幹会は六つの課題を掲げていた。①農民教育に積極的に努める、②耕作権を確保して外からの移民を防止する、③朝鮮人本位の教育を確保する、④言論、集会、出版の自由を確保するための運動を展開する、⑤染めた服を着用し、⑥断髪を施行することにより、白衣と網巾を廃止することであった。
 尹奉吉は夜学運動の活性化を提案した。夜学の学習内容を充実させ、有効に活用すること。読書を活性化すること。啓蒙講演会や討論会を開催し、学習を評価し、意見を発表する場を設けることだった。
 尹奉吉は一九三〇年に二三歳の時に村を離れ上海に向かい、尹萬年はその前年に日本に渡り、金沢で仕事に就いた。日本に渡ってきた朝鮮人は、一九三二年には全国で三九万人、石川県では千六百人を超えていた。朝鮮人は差別と収奪をはね返してたたかう以外に、生きることができなかった。尹萬年も同じ道を歩んでいた。

 朝鮮の青年たちは、尹奉吉や尹萬年のように、厳しい曲がり角に立たされていた。数年前に、「日本語が上手なのに、朝鮮語を知らない息子」に怒りをぶちまける『戦闘』(朴英熙)、「朝鮮が疲労困憊していること」を嘆き憂える『火事だ!火事だ!』(金基鎮)、「白衣人(朝鮮人)の苦しみの中へ」と呼びかける『地の底へ』(趙抱石)などの抵抗文学が発表され、青年たちはむさぼるように読み、涙を流し、怒りをぶちまけていた。
 満州事変が起き、日帝の言論弾圧は抵抗文学を萎縮させ、「不平は不平のまま埋めておこう。矛盾は矛盾のまま目を閉じることにしよう」という投書が『朝鮮日報』に載り、金珖燮は「鳴こうにも鳴けず 飛ぼうにも飛べない 私の小さな鳥 木の葉の陰もなく 荒れた山奥をさまよう」と書いて、後退を余儀なくされていた。
 しかし、このような状況の下でも、鄭寅国は「錠のかかった閂をはずす大きな力が いつの日かこの地に湧き出るのか 矢をつがえ 蒼穹にかかるあの月を射落とす若人出でよ! 凍てついたこの生の場に太陽の火玉を射落とす 大いなる力を生ましめん」と詠み、青年たちを奮い立たせていた。

尹奉吉、金沢へ
 十二月十八日、一般乗客を装った目つきの悪い男たちが、車両のなかを行ったり来たりしているなかで、尹奉吉は、レールの継ぎ目で、ゴトン〴〵と鳴る音を聞きながら、金沢に向かう列車にゆられていた。それは死への時を刻んでいるようだった。
 列車は下車予告の西金沢駅も直近の金沢駅も通過し、十六時三五分森本駅に滑りこんだ。尹奉吉は密かに軍用車に乗せられ、南下し、浅野川の枯木橋を渡り、石垣だけが残る大手門を抜けて、第九師団衛戍拘禁所の前に止まった。そこは第九師団本部から数十メートル離れた、鬱蒼とした木々に囲まれていた。高さ五メートルほどのコンクリート製のガッチリした塀に囲まれた敷地内には、四室の監房と監視室があるこぢんまりした建物があった。「七聯隊赤化事件」で逮捕された鶴彬が判決までの半年間、拘禁されていたところでもある。

 あと、半日の命かと思うと、尹奉吉は眠れなかった。夜半にはグンと気温が下がり、寒暖計は摂氏六度を指していた。徳山面の冬も寒かったが、金沢特有の湿寒が、毛が抜け、スカスカになったカーキ色の毛布を透して迫ってきた。家を出てから二年半が過ぎていた。尹奉吉はとめどなく流れる涙を拭おうともせず、それほど遠くないその日のことを思い出していた。
   一九二九年ノ秋、全羅南道ノ光州デ学生ガ立チアガッタ。私ニハ衝撃ダッタ。光州高等普通学校ノ民族衝突事件ノ知ラセヲ聞キ、タギル血ヲ抑エルコトガ出来ナカッタ。続イテ京城ノ普成高等普通学校ノ学生タチガ万歳ヲ叫ンダ。日本帝国打破万歳! 弱小民族ノ解放万歳! 奴隷的教育ノ撤廃万歳! アア! 胸ガスットスル知ラセデハナイカ!

 年が明け、尹奉吉の気持ちは急速に上海臨時政府に傾いていった。
   私ノ鉄拳デ敵ヲ即刻討チ滅ボス覚悟 二十三歳 歳月ガ経ツニツレ我等ヘノ圧迫ト苦痛ハ増加スルノミ 私ハ覚悟ヲシタ 痩セ細ル三千里ノ山河ノ我ガ国ヲ黙ッテ見テ居ル事ハ出来ヌ 水火ニ落チタ人ヲ泰然ト見テイル訳ニハイカヌ 是ニ対スル覚悟ハ他ナラヌ私ノ鉄拳デ 敵ヲ即刻粉砕スル事ダ 此ノ鉄拳ハ棺桶ノ中ニ入レバ 無用ノ代物デアル 老イレバ無用ダ 今冴エテ私ニ聞コエルノハ 上海臨時政府デアル 多言無用
 三月六日、鶏鳴を聞くころには、尹奉吉は亡命の覚悟を固めていた。

 尹奉吉が冷たい床に毛布にくるまって、ふるえていたころ、俊雄と尹萬年は炬燵を挟んでお酒を酌み交わしていた。尹萬年がぽつりぽつりと話していた。
韓国ヲ併合シタアト、日本ハ強引ニ土地調査事業ヲススメタ。ソレハ朝鮮人ノ農地ヲウバイ、税金ヲハラワセ、朝鮮人ノ動静ヲサグルタメダッタ。土地ヲシラベルトイッテハ、剣ヲサゲ、銃ヲモッタ巡査ガ、田畑ハモチロン、山ヤ谷ニタチイッタ。ジブンノ土地デモ、申告シナカッタラ、イツノマニカ朝鮮総督府ノモノニナッテ、小作ニサセラレタ。土地ヲウバワレタ農民ハ、タダボウゼント見マモルシカナカッタ。
二十歳ノコロニ、尹奉吉トトモニ新幹会ニ加ワワリ、農民ノ自立ヲハカッタガ、日本人ニ農地ヲトラレテイテハ、到底自立ナドデキルワケガナカッタ。尹奉吉ハ上海ヘイキ、ワタシハ日本ニ向カッタ。
 日本ニキテモ、ケッキョク土木作業シカナクテ、ソレモ日本人ノ半値デ、コキツカワレルダケダッタ。金沢ニキタバカリノ一九二九年十一月、金沢末地区ノ水道工事現場デ事故ガオキ、朝鮮人二人、日本人一人ガ圧死シタ。
日本人ハタダチニ救出サレ、看護師ツキノ乗用車デ病院ニハコバレテ、手当ヲウケタガ、朝鮮人ハアトマワシニサレ、トラックノ荷台ニノセテハコボウトシタ。人間アツカイジャナカッタ。
 尹萬年は、話しているうちに激高してきた。「日本語は巧みなり」と特高の折り紙付きだったが、いつの間にか韓国語になっていた。
物心ガツイテカラ、イツモコウダッタ。米ヲツクッテモ、ゼンブ総督府ガモッテイクシ、日本ニキテケンメイニハタライテモ、朝鮮人ノ命ハ、ソコラノイシコロヨリモカルイジャナイデスカ。
明日、尹奉吉ガ処刑サレルナンテ、ドウシテユルセマスカ。私ハ朝鮮人ダ。私ハ尹奉吉ノチング(親友)ダ。私ノチャクベ(相棒)ダ。必ズ思イ知ラセテヤル。

 尹萬年は酔いつぶれて、いびきをかいて寝てしまったが、俊雄の頭は冴え、明日のことを考えると寝入ることはできなかった。

小説「蒼穹の月」(4)

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 小説「蒼穹の月」(4)    

                        小説であり、虚実こもごもであることを御了承下さい

(五)三小牛山(十二月十九日)

 三小牛山は金沢の南側にあり、白山に連なる標高百七十メートルほどで、雪が降れば、交通が途絶えてしまうような丘陵で、陸軍工兵作業場が設置されていた。数日前から三小牛山一帯は雪がぐずつき、白銀の世界になっていたが、山肌のところどころに雪だまりが残っている程度だった。
 尹奉吉は六時三十分に第九師団衛戍拘禁所を出発した。日の出にはまだ間があり、月明かりのなかに、城内の木々が黒子のように、ぬっと立っていた。尹奉吉は車窓から下弦の月を見やり、「誰ガアノ月ヲ射落トシテクレルノダロウカ」とつぶやいていた。
 やがて、尹奉吉を乗せた軍用車は金沢城から南に向かった。東に見える奥医王の山際は赤みを帯びてきた。三小牛村に向かう山道は雪も融け、軍用車はぬかるみをスリップしながら登っていった。稜線から太陽が顔を出し、冬枯れの雑木林には聞き慣れたカササギの声が響いていた。
 尹奉吉は目を移したが、その姿はなく、輝いていた月も、すでに消えていた。
 軍用車から降りてきた尹奉吉の手には、黒錆びた手錠が食い込み、腰縄が自由を奪っていた。革靴は泥濘と溶けかけた雪でずぶずぶに濡れ、重く足を引っぱった。心臓は高鳴り、身体全体がほてっていたが、足元から死の冷気が押し寄せてくるようだった。
 尹奉吉は、憲兵に両脇を抱えられ、足を滑らせながら笹藪の中を進んだ。三方が遮られたくぼ地にたどりつき、そこには一メートルほどの刑架が立てられ、藁むしろが敷かれていた。
 尹奉吉の目には最後の世界が映っていた。
 十メートル間隔で歩哨が立ち、西側には銃を持った兵士が隊列を整え、待機していた。小高いところにテントが張られ、幹部らしい人物が固まって、談笑していた。
 尹奉吉は刑架を背に、正座させられ、両腕が縛られた。目隠しをされた尹奉吉の視線の先には朝鮮半島があるはずだった。尹奉吉は再び見ることのない故郷を想っていた。

   父ニハ、相続シタ田畑モスクナク、農業デクラスニハアマリニモ貧シカッタ。母ハ聡明デ、教育ヘノ熱意ガアツク、ワタシノ知識欲ヲ満タシ、気質ヲハグクンデイッタ。
   村ハナダラカナ山ナミニ囲マレ、黄海ニソソグ沐渓川ガヒヨクナ大地ヲウルオシテイタ。
   ワタシハ村一番ノワンパク少年デ、「山猫」トヨバレテイテ、六歳デ書堂ニカヨイ、「千字文」ヤ「童蒙先習」ヲ学ンダ。日帝ハ植民地教育ノタメニ、徳山公立普通学校(小学校)ヲタテ、十一歳デ入学シタ。校長ハ日本人デ、ワタシハタビタビタイリツシタ。十二歳ノトキニ、胸ヲ高鳴ラセル朝鮮独立万歳ノサケビニフレ、抗日精神ガメバエテイッタ。ソレカラヤガテ十二年ニナロウトシテイル。

健の動揺
 尹奉吉が到着する前から、三小牛山は厳重な警戒下に置かれていた。写真機と三脚、革製の暗箱には五枚の乾板ケース、レンズ、シャッター、マグネシウムを焚くフラッシュ、そして折りたたんだ暗幕が秩序正しく収まっていた。
 健は徴兵検査では「丙種合格」とされ、これまで軍とは縁がなかった。健は心臓が止まりそうな気持ちで軍用車から降りた。
 根本大佐からは、処刑地全体を俯瞰できる写真、処刑前と処刑後の座像の三シーンを撮影せよと命じられていた。
 草藪のなかに、一メートルほどの刑架は異様な情景を醸し出していた。刑架の数メートル前に三脚を立て、写真機の蛇腹にあおりをかけて刑架にピントを合わせた。レンズにシャッターを取り付け、二、三回空シャッターを切り、作動状況を確認した。やがてタートルネックの白いシャツに、ホームスパンの背広を身につけた尹奉吉が両脇を抱えられて連れてこられ、刑架に縛り付けられるのを目にしたとき、手のふるえが止まった。
 白川が死亡した七時二六分が迫り、根本大佐は健に撮影を急がせた。
 軍幹部らが注視するなかを、健は尹奉吉に近づき、屈みこんで乱れた髪を整えた。縛られて冷え切った尹奉吉の手を握りしめた。指は拷問で折れ曲がり、痛々しかった。尹奉吉の荒い息を感じ、語りかけたかったが、声にならなかった。
 暗幕をかぶり、すりガラスに逆さに写る尹奉吉に焦点を合わせた。乾板ケースをセットして、シャッターの蝶ネジを巻き、ぶら下がるゴム球を握った。空気圧が留め金を外し、シャッター幕はゆっくりと巻き上がった。
 健は緩慢な動作で、暗幕を短冊形に折りたたみ、肩にかけた。やおら写真機をかつぎ、鉛のように重い足が、ぬかるんだ西側斜面を踏みしめていた。
 健は尹奉吉を見下ろすように三脚を立てた。そこは射撃隊のすぐ後方だった。
 根本大佐は写真撮影が終了するのをイライラしながら待っているようだった。健の右手はふたたびゴム球を握った。
 シャッター音を合図に、根本大佐は射撃を命じた。ふたりの兵士が進み出て、健の目の前で伏せ撃ちの体勢をとった。バーンと乾いた銃声が、三小牛山にこだました。
 健はふたたび、尹奉吉の目の前に三脚を立てた。目隠しに鮮血がにじみ出し、すでに息絶えた尹奉吉に焦点を定めた。三小牛山の谷間は明るさを増していた。

後頭部から流れ出た血は首筋を伝い、背広をまっ赤に染めていた。尹奉吉の遺体を清めるよう指示されていたが、根本大佐は遺体をそのまま軍用ジープに乗せて、野田村まで戻り、鬱蒼とした木々に覆われた墓地に入った。墓群を縫う細い道は陸軍墓地への参道にぶつかり、左に折れ、南に上り切ると、陸軍墓地に突き当たった。
 陸軍墓地は加賀藩前田家の墓群の西側にあり、日露戦争で戦死した兵卒の墓群、陸軍軍人合葬之碑、征清役戦死・病没軍人合葬碑、日露役陣没者合葬碑が並び、東側の端に、三日前に納骨式を終えたばかりの上海事件陣没者合葬碑があり、侵略戦争のあしあとがのこされていた。碑面の揮毫は尹奉吉が投げた爆弾で左足を失った植田謙吉の筆だった。
 陸軍墓地の北側にある管理事務所の前に、柩と数人の兵士、そして事務所脇の下方の通路に掘られた暗い穴が尹奉吉の到着を待っていた。
 まだ温もりが残る遺体は柩に納められた。蓋を打ち付ける金槌の音が早朝の静寂を破り、墓地に眠る兵士たちを驚かせているようだった。
 了道尼の短い読経の後、尹奉吉がふたたび起ちあがらないようにと、柩の上に、尹奉吉の額を貫通した銃弾が食い込み、血が染みた刑架が置かれ、厚く土がかぶせられ、兵士たちの軍靴によって踏み固められた。一輪の花も手向けられず、準備された標柱も立てられなかった。尹奉吉の遺体は暗葬にされ、人々の踏むがままに任せた。日帝は尹奉吉の死後も残虐だった。

  朝日洩るる雑木林に 銃声轟くその刹那! 犯人観念して刑柱にもたる
  日本で三度目の銃殺執行
   金澤憲兵分隊では十九日午前四時憲兵の不時呼集を行ひ、全市に警戒網を張ると共に第九師団軍法会議より根本検察官、曾野憲兵隊長、諏訪分隊長、佐藤検事正、蜂田県警察部長等の一行は憲兵隊の警戒自動車と共に午前六時刑場三小牛山に向けて出発した。刑場の三小牛山作業場は既に諸般の準備が整へられ静閑な冬枯れの雑木林を背景に一隅には荒莚が敷かれ新しく建てられた刑柱が朝霧の中にほの見える。午前六時三十分犯人尹は刑場に到着し、憲兵の拳銃に囲まれ手錠をはめられながら刑服に身を纏ひ引きおろされた。尹は既に観念した落着きを見せ、悠々とした足どりで進んだが、心もち悔恨の念からかうな垂れ勝であった。やがて憲兵の手によって執行準備が施され立会の検察官から「何もいふことはないか」と訊かれて、かるくうなづきながら眼隠しを受けた。折柄北国晴の朝日が雑木林を洩れてのぼり、見学の各隊将校代表等声もなく森閑とした気がみなぎる。かくて「撃て!」の命令と共に斉撃が行はれて兇悪なる尹の最後は止められた。続いて九師団軍医部瀬川一等軍医の検死があって、七時四十分全く刑の執行を終ったが、金澤地方での死刑執行は最初のことであり殊に軍法会議の銃殺刑としても日露役当時の過去に二件を数へるのみで、全国でも第三回目の銃殺であった。

 その日の夕方、健は香林坊のレストラン魚半にいた。『北国新聞』夕刊は、午前十一時に開かれた根本法務部大佐の記者会見内容を、これ見よがしに満載していた。健は夕刊を膝の上に置き、目を伏せた。

   なぜ、私たち日本人は台湾や朝鮮の植民地支配に異議を唱えないのか。なぜ、満州事変から上海事変にいたる中国侵略戦争を止められなかったのか。李奉昌や尹奉吉が導火線に火を付けたときにこそ、日本の労働者が目覚めねばならなかったし、声を涸らして連帯しなければならなかった。
   尹奉吉が神戸港に到着したとき、なぜ「尹奉吉万歳」と叫んで迎えることができなかったのか。なぜ、尹奉吉のたたかいに労働者の心がふるえなかったのか。なぜ、私たちは無為にこの日を迎えてしまったのか。
   せめてコムニストが、せめて知識人が、そして労働者こそが日帝の中国侵略に仁王立つ尹奉吉に連帯すべきであった。

 健の自問は尽きることなく、絶望と挫折の間で、堂々めぐりをくり返していたが、意を決して俊雄に連絡を取ることにした。
「俊雄さんや、尹奉吉がどこに埋葬されたのか判らんから、お参りにも行けんし、そんで、処刑された場所で、尹奉吉の魂を故郷に送り帰したいと思っとるんやが。」
「そうやな。尹萬年もそんな気持ちやろ。大阪じゃ、尹奉吉の銃殺処刑に反対するビラがまかれたそうやが、金沢じゃ口にもできん状況やしな。」
「処刑地は陸軍作業場の真ん中やし、ちょっとその辺の警備状況を調べてくれんか。状況を見てからやが、警備が手薄になる正月あたりがいいかな。」
「そうやな、雪も消えかかっとるし、わなを仕掛けるついでに見てくるか。」


(六)献辞(一九三三年一月)

「健ちゃん、すごい人たちと知り合いなんやね。」
 三小牛村に向かう薄暗い山道を、文子は息せき切って、健の後を追っていた。新しい年を迎え、処刑前に降った雪も融け、ぬかるんだ坂道は切り立った崖と深い谷の間を縫うように続いていた。視線の届かない谷底では、雀谷川が音をたてていた。
 頂上の近くまで来て、健は左に折れ、笹藪に入っていった。誰もが押し黙ったまま、その後に続いた。雪融け水を集めて、糸のような細いすじを描いている中尾山川に出た。足元はますます悪くなっていた。
 三方が塞がる谷間に降り、健は「ここが処刑された場所です」と、指を差した。
 尹萬年は雑草がおしつぶされ、真新しい土がむき出しになった地面をならし、新聞から切り抜いた尹奉吉の遺影を立てた。
 それぞれが持ってきた果物やお餅、それに焼酎の入った小瓶を遺影の前に並べた。時間がなかった。工兵隊の巡回が来る前にこの場を去らねばならなかった。尹萬年は前に出て、献辞を読み上げた。

  尹奉吉同志ヨ。
  先生ハ朝鮮国ノ正義ヲ万邦ニ示サレマシタ。
  朝鮮男子ノ心意気ヲ蘇生サセ、
  コノ敵地デ忠烈ニ殉国サレマシタ、
  同志尹奉吉ノ霊位坐定ヲ願イ、
  ゴ霊前ニ参リマシタ。
  故国山河ヲ胸ニ抱キ、
  永遠ノ道ヲ歩マレナガラ、
  同志ハサゾカシ国ト民族ノ幸セヲ願ワレタコトデショウ。
  同志ニオカレマシテハ、
  何卒、
  我等ニ委ネラレ、
  安ラカニオ眠リ下サイ。
  我々ハ同志ノ意志ヲ、
  コノ胸ニ抱キ、
  カナラズヤ成シ遂ゲマス。 

 献辞の最後は声にならなかった。次々と跪いて尹奉吉に別れを告げ、山を降りた。尹萬年は文子と並んで歩いていた。
「尹さんは何年生まれなの。」
「明治四十年生マレデ、健サンノヒトツシタデス。」
「じゃ、私の四歳上ね。」
 雀谷川のせせらぎを遮るように、尹萬年はつぶやいた。
「鶴彬ガ、イタラナァ。」
「知ってますわ。メーデーに仲間とともにNAPと染め上げた法被を着て参加したという人でしょ。」
「ソウ。鶴彬ガオレバ、ニギヤカニ尹奉吉ヲオクリダスコトガデキタノニ。」
 鶴彬は大阪衛戍監獄に収監されていた。しかも、最近の弾圧で五十人以上が検挙され、李心喆、金武揚らは地下に潜っていたし、この日、三小牛山に駆けつけることができた人はごく限られていた。
 それはしょうがないとしても、尹萬年には共産党の態度が腑に落ちなかった。一月の李奉昌の桜田門事件をファシストの挑発と非難していたし、尹奉吉のたたかいもまったく評価していなかった。「侵略戦争を内乱へ」という反戦・反軍闘争の呼びかけが口先だけのように思えてならなかった。
 雀谷川の流れが激しくなり、沢の音が二人の間に割り込んできて、会話が途切れた。ふと、懐かしいカササギの鳴き声に、尹萬年はふり返ってみたが、どこにもその姿はなかった。
 健は俊雄とならんで最後尾を歩いていた。太陽が右手の奥医王山から顔を出し、空がぼんやりと明るくなってきたが、健の心は晴れなかった。
 雀谷川が長坂用水に合流するところで、互いに目配せをした。少し先にある野村練兵場を避けて、野田村や大桑村に向かってちりぢりになっていった。(了)

【ご案内】 『島田清次郎未発表エッセイから読み解く、その実像』

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【ご案内】
 『島田清次郎未発表エッセイから読み解く、その実像』

    発行日:2019年8月15日
    頒 価:500円(送料:215円、2冊以上送料無料)
    注 文:郵便振替口座名「アジアと小松」/口座番号00710-3-84795
(限定100冊印刷なので、売り切れた場合は重版完成までお待ちいただくことがあります)

目 次          
 写真・遺稿「雑記帳」
 翻刻・遺稿「雑記帳」全文(1921年エッセイ)      1~
    遺稿「雑筆」全文(1930年エッセイ)         30~
    遺稿「仏蘭西社会運動慨勢」全文(1922年)    46~
 論考・「雑記帳」の翻刻を終えて~体制順応に逆らう島清   49~
    「雑筆」の翻刻を終えて~助けを求める島清      57~
    島田清次郎青年期の思想的核心           59~
 資料・橋場忠三郎「自伝」抜萃(1943年)    84~
    写真と地図で見る 島田清次郎の美川         95~
    島田清次郎年譜                 101~
    島田清次郎作品評論リスト            102~
    石川近代文学館所蔵リスト     105~
 後序・あるがままの島清を受容するために        106~

 昨年秋以来、島田清次郎の未発表作品を翻刻してきました。島清絶頂期(1921年)の「雑記帳」と島清最後(1930年)の「雑筆」の翻刻をようやく終えて、この間の論考とともに小冊子にしました。
 また、橋場忠三郎の「自伝」は金沢商業時代の同級生から見た島清であり、すでに部分的に引用されており、それほど目新しさはありませんが、青年期の島清像を共有するために、島清に関して書かれた全個所を翻刻しました。
 郵便振替でご注文下さい。
(添付表紙の画像は石川近代文学館所蔵の「雑記帳」の一部です)
2019年8月20日

20190825『改元 我れ世に勝てり』(島田清次郎、1923年)を読む

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20190825『改元 我れ世に勝てり』(島田清次郎、1923年)を読む

 本書の大まかな構成は、フランスで開催された第3インターナショナルの大会に出席した野島民造がアメリカへの船上で、澄子との「恋」が始まり、噂になり、全米に報道され、澄子の夫の知るところとなり、決闘に発展する。民造が生き残り、紐育(ニューヨーク)の兄聖造のところに転がり込む。聖蔵は怪しげな宗教団体を立ち上げており、アメリカの政財界を支配しようとしている、というところだろう。

 聖造の日本脱出の経緯を、処女信仰「聖道教」と信子との「結婚」のいきさつから話す。東北へ信子を迎えに行き(島清と豊との結婚のいきさつと同じ)、結婚の了承を得て、「聖道教」の集会で信子を紹介し、初夜を迎えるが、信子はすでに処女ではなく、兄由太と性的関係が出来ていて、処女信仰の崩壊の危機を迎える。信子とともにフランスに向かうインド洋上の船中で、信子を殺し、フランスからアメリカに向かった。その目的はアメリカ資本主義(ニューヨーク)の爆破なのだが、何故そうなのかは意味不明である。

 民造は「世界の王」となる意志は兄弟の胸に強く脈うって来た、と言って本書を閉じるのだが、島清は表題の「改元」に何をこめたのか、「世に勝てり」とは何に勝利したのかはほとんど語られず、島清の駄弁に終始していて、意味不明な小説である。

国際主義からの撤退
 本書には、「5月初旬巴里で開かれた国際共産党大会へ…日本を代表して出席…ニューヨークへひきかえす」、「新しいロシヤは彼の夢見た『新しい日本』を捨てて、…太平洋を超えて来た民造の唯一の幻影であった」、「民造が感じねばならぬ『人種的嫉妬』の感情」、「巴里のコンミュニストの大会で、最後の幻が破られた後に世界は彼れにとって幻滅そのものでしかなかった」など、第3インターについての感想を書いている。

 著書には第3インターナショナルの第1回大会が「1919年5月巴里で開催」されたと記述されているが、事実は「3月モスクワ」である。小説だから、それはよいとして、大会にに参加した主人公民造は「人種的嫉妬」の感情(白色人種による黄色人種への差別)から、共産主義思想への「最後の幻想」が破られ、帰りの船上で澄子に会って、「同じ民族の血にめぐりあうた歓喜」に戦慄したと書いている。

 第3インターの第2回大会(1920年)では、「農業・農民問題および民族・植民地問題に関するテーゼ」が確認されており、本書は1922年以降に執筆されているから、あえて、第3インターナショナルの国際主義には背を向け、民族主義へと転落している姿がある。

侵略戦争に反対しない
 日露戦争と韓国併合に関する島清の考えを見ておこう。それは、国際主義と民族主義を見別けるリトマス紙だからだ。結論を言えば、島清は幸徳秋水や堺利彦とは比べものにならないくらい、ブルジョアイデオロギーに侵されていた。

 島田清次郎は、本書で、日露戦争について、「ロシヤと戦ったのはロシヤの侵略的極東政策を制するためであった。…日露戦争はあきらかに極東の平和を確立するために、日本の独立を保全するために、日本人が日本そのものゝために戦ったものである」(112頁)と書いている。

 他方、日露戦争開戦の前年1903年10月12日の『万朝報』に、幸徳秋水と堺利彦の2人の社会主義者は連名で、「対露開戦」の主張に傾いた新聞『万潮報』からの「退社の辞」を掲載した。同じ紙面には、内村鑑三も反戦の立場からの「退社の辞」が掲載されている。

 1903年11月、幸徳、堺らは平民社を創設して週刊『平民新聞』を発刊した。開戦直前の1904年2月7日付『平民新聞』13号の社説「和戦を決する者」では、戦争が資本家、銀行家といった少数特権階級の利害の産物であることを批判した。戦争が始まって以後も「吾人は戦争既に来るの今日以後といえども、吾人の口あり、吾人の筆あり紙ある限りは、戦争反対を絶叫すべし」(「戦争来」)と戦争反対の覚悟を語った。

 韓国併合・植民地化については、島清は「朝鮮の独立に就いては、もし朝鮮人が政治的にも経済的にも独立しうる実力さへ持ってゐれば、いつでも喜んで独立してもらふつもりである」(115頁)、「朝鮮の独立は直ちに実現されねばならぬといふものではあるまい」(116頁)、「吾々は朝鮮人を朝鮮人とは思ってゐない、同じ日本人だと思ってゐる!」(117頁)と述べている。まさに当時の支配階級の思想である。

 島清は1920年発行の『早春』で、「彼等(注:朝鮮人)を愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない。彼等に選挙権を与へ、彼等に兵役の義務を与へてよい」と、朝鮮併合を強行した日帝批判はなく、朝鮮独立運動への共感も支持もない。「兵役の義務」を与えて、朝鮮人に日本国を守れとまで主張しているかのようだ。

 1923年の本書『改元』でも、1920年の『早春』をそのまま、より明確にひきつぎ、より体制内化を果たしている。

 『平民新聞』は、戦争のなかで進められた韓国併合の動きを、「日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨する所に非ずや。韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑なり。韓人は到底使役せられんのみ」(「朝鮮併呑論を評す」、同紙36号、1904年7月17日)と、厳しく批判した。

 『朝鮮を知る事典』(平凡社)には、「〈領土保全〉の美名が韓国滅亡のためにあることを看破し、〈朝鮮国民の立場〉から帝国主義外交を批判し、そのために〈国家的観念〉を否認する必要のあることを説いた。当時にあって彼(秋水)は最も傑出した朝鮮観の持主であった」と、幸徳秋水を評価している。

 『平民新聞』は政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至った。

 島清は1922年の洋行過程で、思想的変質を完成させ、朝鮮略奪のための日露戦争を支持し、韓国併合・植民地支配を支持している。そして、島清の主要な意識は、社会主義から離れ、得体の知れない「宗教的観念」へと転向していくが、小説『地上』では社会の矛盾的角逐を描いたが故に、多数の青年たちから受け入れられたが、ここに至っては、文壇に限らず、民衆からも見放されたのである。

20190827シタベニハゴロモ中間調査報告

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20190827シタベニハゴロモ中間調査報告

前回報告(8/11)では、8月1日から11日までに50匹駆除/25本観察
(昨年同期間173匹/30本観察)

8月12日から27日までに、75匹駆除/25本観察
(昨年同期間263匹/30本観察)

8月1日から27日までを合計すると125匹/25本観察
(昨年同期間は436匹/30本観察)

8月24日には、求愛行動が見られた。(昨年の最初は9月2日に目視)


20190831小松基地第2滑走路(案)について

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小松基地第2滑走路(案)について          2019年8月

 『アジアと小松』の読者から、「第2滑走路の候補地は安宅新町の跡地から工業団地にかけてではないか」との連絡が来た。それで、インターネットで、基地周辺地図を見てみると、安宅新町の集団移転がほぼ終了し、ほとんどが空き地になっている。

 昨年2018年2月13日の石川県議会予算委員会で、福村章は安宅新町跡地(+エアターミナルビルの新築移転など)を利用して、第2滑走路を作るべきといっているようだ。

 今年2019年3月20日の小松市議会でも、「小松空港の二本目滑走路の建設についての意見書」が、賛成・反対討論の末、採択された。これらの情報を精査することにした。

<小松基地滑走路は過密か>
福村章県議 小松空港の状況を平成当初と比べてみますと、国内線は9便から19便にふえております。
小松市意見書 国内戦6路線、国際線3路線、国際貨物
川崎順次小松市議 国内20便、国際3便、合計23便
吉本慎太郎小松市議 国内、国際の定期便を合わせると、1日の発着回数は約50回

→ 手元の資料「小松基地月間航空交通量」(2001~2018年度、2010、2011年度資料は欠落)によれば、16年分の軍用機の管制総数は30万4480回、民間機は25万5326回で、年間平均で見ると、軍用機は1万9030回、民間機は1万5958回である。

 軍用機+民間機の管制数で最も多かったのは2003年度の3万6280回だったが、2012年度以降は概ね3万5000回を前後している。1日(午前8時から午後8時までの12時間)に96回程度で、1時間に8回、8分間に1回程度の頻度である。この程度を過密などと言うのは黒いカラスを白いと言うのにひとしい。



<スクランブル発進について>
福村章県議 小松基地においては、…対岸諸国からの脅威に日本国がさらされているということであります。したがって、平成当初は年600回であったスクランブルが平成28(2016)年には1,068回、大幅にふえている。…最近、元小松基地司令が「日本海が大変な脅威にさらされている中、民航が優先され、基地が自由に使えない」との不満…。

→この数値は航空自衛隊全体のスクランブル発進の数値であり、小松基地単独の数値ではない。
 福村は「平成当初は年600回」と言っているが、1981(S56)、1982(S57)、1984(S59)には年間900回を超えている。福村が言う「平成初年(1989年)は600回」ではなく、800回を超えている。ウソも休み休みに言え。

 その後、1990年代以降は、2012年までは141回から600回の間を上下しており、2013年から18年までの6年間の年平均は950回である。しかも、同期間(6年間)の小松基地を含む中部航方面隊からの緊急発進は年間63回程度である。

 小松基地に限って言えば、手元には、1970年から2006年の37年分の資料しかないが、1981年前後は年間180回を記録しているが、その後激減し、1990年以降は二桁台である(2005年は9回!)。2007年以降の小松基地の緊急発進数は発表していない。

 福村章は元小松基地司令の発言を紹介して、民航が軍事を圧迫しているかのように言いなしているが、川崎順次小松市議の反対討論では、「今、何の支障もない」「(自衛隊は)現状で滑走路の2本は要らない」と防衛省の見解を紹介しており、福村章は180度真逆のことを述べている。



<何処に建設するのか>
福村章県議 現在小松市が工業用地として活用しようとしている20万平方メートル以上の隣接地をほかに転用したら拡張用地がなくなる。…築後既に40年近くがたつエアターミナルビルの新築移転についても当然のことながら並行して考えていくべき。
橋本米子小松市議 滑走路の間隔については最低でも210メーター、独立して運用するためには300メーターを確保する必要がある。

→福村は、明言こそしていないが、「20万㎡以上の隣接地」とは安宅新町の移転跡地のことだと思われる。跡地は本滑走路から約250メートル離れており、エアターミナルビルを移転新築し、現工業団地の一部を移転すれば、2000メートル程度の第2滑走路を建設出来るという話しなのだろう。

 国際民間航空機関基準によると、「最少間隔210メーターでは、滑走路間での大型機の一時待機が他の離着陸機に影響が出る」が、隣接地には、滑走路間に300メートル以上の間隔をあけるだけの土地はない。

 もともと安宅新町の住民は騒音被害から逃れるために、やむなく海側に数十メートル移動して新たな安宅新町を形作っている。もしも、安宅新町跡地と工業団地を使って第2滑走路を作れば、安宅新町住民は移転以前よりも滑走路に近くなり、騒音地獄に陥るだろう。

 しかも、安宅新町(第2滑走路)の北東延長線上には、草野町(安宅新町跡地から500m)、浜佐美本町(同700m)、浮柳町(同800m)、鶴ヶ島町(同1km)、安宅町(同1.3km)、小島町(同2km)がひしめいているのである。第2滑走路を建設し、住民の生活を犠牲にしてでも、経済効果と軍事効果を上げようというのか。本末転倒の言説である。

20190901地表断層の長周期パルス

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20190901地表断層の長周期パルス

 2019年9月1日、ETVの「サイエンスZERO」で、「新事実続々 解明が進む“活断層地震”の謎」が放映された。
 番組案内には、「これまではっきりしなかった『地震の周期』や『揺れる範囲』が最新研究で詳細に見えてきた。続々と明らかになる新事実を、現場から緊急報告する。建物が被害を受けるかどうかの境目はどこにあるのか? 熊本地震で起きた不可解な現象を追っていくと、専門家も驚く新発見があった。さらに、『想定外の揺れ』がもたらす未知の脅威もクローズアップする。キーワードは『「地表断層』。次の地震に備えるために今するべきことは?」とある。
 出演者の証言をそのまま引用しているわけではなく、私なりに咀嚼してレポートにした。

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 2016年4月14日に発生した熊本地震では、震度7が2回(14日夜、16日未明)発生し、地表断層が大規模にあらわれた(写真2)。地表断層はM7以上の大地震であらわれる可能性がある。

 鈴木康弘(名大)さんが、今年7月に被災地を再訪問し、地表断層の調査をおこなった。写真3の赤で囲んだ部分が地表断層(青色=投稿者加工)から120メートル以内で、家屋倒壊が集中していた。断層に近づけば近づくほど被害率が上がっていた(写真下)。



 一般には、地下10kmから強い揺れのエネルギーが放出されても、地表までに揺れのエネルギーは小さくなり、家屋倒壊を惹き起こすことはないと言われてきた。

 藤原広行(防災科学研)さんは、地盤の強度から来るのではないかと推定したが、被害の大きいエリアと被害の小さいエリアを比べても、地盤の強度に差はなく、地盤の強弱では説明が出来なかった。

 それで、パルス状の(急激な)地震動を発生させるような原因が浅い部分(地表断層)にあったのではないかという疑問が生まれた。

 西原村役場の地震計には、これまでの活断層型地震で観測されたことのない奇妙な揺れが捉えられていた。揺れが1往復するのにかかった時間は、神戸では1秒だったが、西原村では3秒もかかっていた(写真下左)。めったに現れない大きな「長周期」の揺れだった。地面が2メートル近く動くという、長周期パルスと呼ばれる特殊な揺れである(写真下右)。

  

 長周期パルスの特徴は、たった1回の大きな揺れで、高層ビルに深刻なダメージを与える危険性がある。これを引き起こすのは地表断層であり、断層が地表にまであらわれると、長周期パルスを生み出す。

 大きな被害をもたらす可能性がある「主要活断層」は全国で113個所あると、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が発表している。しかし日本列島では、周辺の海底も含めて、活断層が約2000あると言われている。

 こうした場所で地表断層が現れれば、長周期パルスが発生するおそれがある。活断層がある付近では、長周期パルスが起きる可能性が高く、大きな構造物を作るには、活断層による地震動を考慮する必要がある。

 いま、志賀原発訴訟で争点になっているのは原子力建屋が活断層上に建てられていることである。北陸電力は「活断層ではない」と醜くあがき、裁判所は救済の手をさしのべている。一刻も早く、廃炉を決定し、廃炉作業を始めなければ、能登半島一円は廃墟となるかもしれないのである。

 9月7日に、再放映されるので、未見の方はぜひとも録画予約を!
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