島田清次郎「仏蘭西社会運動慨勢」論考
原稿「仏蘭西社会運動慨勢」は強制入院中に亡くなった島清から遺族に引き渡された遺品や他の原稿類のなかに入っていたから、1924年強制入院後の執筆として扱われてきたが、内容を精査すると、論中に「C.G.Tは今春決然分裂するの已むなきに至った」と書かれており、「今春」とは1922年春のことである。したがって、書かれた時期は1922年である。
島清は1922年4月に米欧旅行に出発し、12月に帰国している。旅中のフランスか旅客船のなかで執筆したのであろう。
「仏蘭西社会運動慨勢」で、島清はフランスの社会主義政党の指導部の転向・変質、左右(改良的、革命的)のサンジカリズム、フランス労働総同盟の分裂について、正確に把握している。その上で、島清は革命的サンジカリズムを支持しているようだ。
島清は、1914年に第一次大戦が始まるや、フランス社会党が「独逸打つべし」と祖国防衛方針に転じ、自国の戦争に協力し、労働者兵士を死に追いやったことを批判している。島清が国際主義に立ち、民族主義を批判しており、真っ当な階級意識を表白している。現代日本でも、「戦争で北方領土を取り戻せ」などと排外主義が跋扈するなか、現代の私たちこそが、真剣に学ばねばならない論点である。(2019.5.23)
注:「仏蘭西社会運動慨勢」は島田清次郎の未発表作品で、石川近代美術館に所蔵されており、特別閲覧で翻刻した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
島田清次郎 「仏蘭西社会運動慨勢」 翻刻
A 労働運動
仏蘭西■■■■最近労働運動の傾向に於て最も興味深く意義あるものはC.G.T(Confédération Générale du Travail)【注1】の分裂である。
一昨年Tours【注2:トゥール】のC.G.T国内大会に於て分裂の危機に傾ひたC.G.Tは今春【注:1922年】決然分裂するの已むなきに至ったのである。
旧C.G.T及C.G.T.U(Unitaire統一)との二労働団体である。
Rue Lafayette【注3:ラファイエット通り】(C.G.T本部)のSyndicalism eréformiste【注:改良的サンジカリズム】を去った労働者はRue Granges Aux Belles【注:鐘のグラングス通り】のSyndicalisme révolutionnaire【注4:革命的サンジカリズム】に投じたのである。
× × ×
社会主義者Briand【注5】、Millerand【注6】の徒が議会に入り内閣に登るや、仏蘭西労働者の■認と期待とを裏切った如く、或は1914大戦の勃発と共にJuls Guesde【注:ジュール Guesde】等によって率いられた仏蘭西社会党が「独逸打つべし」と叫び、Juls Gesde等の社会主義者は内閣に参し、而して仏蘭西幾千のプロレタリヤを屠殺場に送った如く、旧C.G.T幹部は彼の1920仏蘭西全ブルジョワーを戦慄せしめたるSyndicalisme révolutionnaireを何時の間にか L'Action Francaise【注7:アクション・フランセーズ】等によって代表せらるゝブルジョワー的若くは王朝讃美(Royaliste)的、Catbolique【注:カソリック】的新聞、一言にすれば一切の反動的新聞によって讃辞を捧げらるゝ程融和的Syndicalisme réformiste【注:改良派サンジカリズム】に豹変したのである。
政治家に対して、指導的Intellegeucia【注:インテリゲンチャ】に対して、chefs(首領)に対して、反逆して生まれた新しい労働運動指導の原理が即ちSyndicalisme Rév【注:革命的サンジカリズム】である。仏蘭西労働階級は嘗てはサン・シモン、フリェ、ルイ・ブラン等【注8】によって予言されたSocialisme Utopique【注:空想的社会主義】に■■した。所謂公明正大、所謂民衆と真理に忠実■■■政治家、学者等に依頼した。或は社会党にも依頼した。がしかしすべての依頼や希望は微塵に破砕された。この苦々しい而も尊い幾多の経験は仏蘭西労働者群をしてSyndicalisme Révの真理を把握せしめた。
× × ×
幾多の体験の結晶として生まれたSyn.Rév【注:革命的サンジカリズム】はその正しき目的に向って、雄々しく突進したであらうか。そのとるべき道を堂々と踏んで行ったであらうか。
最近仏蘭西労働界に於けるC.G.TとC.G.T.Uとの二対立は仏蘭西Syndicalismeの進化発展を明示する歴史的現象である。
Syndicalismeの発展とは何であるか。
Syndicalismeはその根本原理の一つとしてIndividualisme【注:個人主義】をとる。■に部分的原理にあらずして全体的根本的原理としてゞある。
労働組合及各個人のe'Autonomic(自動)【注:自治】はCentralismce【注:中央集権主義】に対するFediralisme【注:連邦主義】、Ristaturismeに対するAnarchisme【注9:アナーキズム】を宣言する所以である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【注1】C.G.T(フランス労働総同盟 Confédération Générale du Travail)とは、フランス最大の労働組合連合組織。 1895年結成され,1906年アミアン憲章を採択してサンディカリズムをその基調とした。 1922年プロフィンテルン加盟をめぐって右派のC.G.Tと左派のC.G.T.U(フランス統一労働総同盟Confédération Générale du Travail Unitaire)に分裂した。
【注2】トゥール:フランスの中部に位置する都市
【注3】ラファイエット:フランス人権宣言を起草。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論の自由、第17条で所有権の不可侵を謳った。
【注4】Syndicalisme révolutionnaire(革命的サンディカリスム)の支持者は労働組合を、資本家による労働者の搾取体制を覆すためだけでなく、多数派の利益に基づき社会を公平に運営するのにも、適した手段となりうると考える。労働組合は政治活動ではなく直接行動を行い、ゼネストで資本主義体制を倒して革命を達成し、革命後は企業でも政府でなく労働組合が経済を運営する。<Syndicalisme Rév>、はその短縮形。
【注5】アリスティード・ブリアン(Aristide Briand, 1862年3月28日 - 1932年3月7日)は、フランスの政治家。首相、外相などを務めた。 ナント出身。最初はサンディカリストとして活動したが、ジャン・ジョレスの引きでフランス社会党に入党。1902年には執行部入りし、しばらくの後国民議会議員となる。その後急進社会党に籍を移し、1909年にジョルジュ・クレマンソーの後を受けて首相に就任する。以後、1913年・1915年・1921年・1925年・1929年とたびたび首相に就任する。
【注6】アレクサンドル・ミルラン(Alexandre Millerand)はフランスの政治家。第一次世界大戦後の1920年1月から首相となり同年9月第12代大統領(フランス第三共和政)(在職1920年-1924年)。 1885年に代議士に当選し政界入りを果たし、最初急進社会党と行動を共にすることが多かったが、後に共和主義社会党に鞍替えする。1899年から1902年までピエール・ワルデック=ルソー内閣の商相となったが、この時の入閣では社会党内の内紛を招き結果として彼は社会党を去り共和主義連盟に再度鞍替えしている。その後、1901年から1911年まで公共事業・通信相、1912年から1913年および1914年から1915年まで陸相を務めた。
【注7】アクション・フランセーズ(L'Action Francaise)とは、1894年に発生したドレフュス事件を契機として結成された、フランスの王党派組織。1899年に創刊された同名の機関紙に由来する。シャルル・モーラスなどの反ドレフュス派(反ユダヤ主義者、保守主義者)の知識人を中心に結成され、間もなく王政支持に転向。最も徹底した反共和主義の運動として相当の影響力を持った。
【注8】サン・シモン、フリェは空想的社会主義者。ルイ・ブランの言葉に「各人がその才能に応じて生産し、その必要に応じて消費する」がある。
【注9】<Ristaturismeに対するAnarchisme>は<全体主義に対する無政府主義>ということであろう。
原稿「仏蘭西社会運動慨勢」は強制入院中に亡くなった島清から遺族に引き渡された遺品や他の原稿類のなかに入っていたから、1924年強制入院後の執筆として扱われてきたが、内容を精査すると、論中に「C.G.Tは今春決然分裂するの已むなきに至った」と書かれており、「今春」とは1922年春のことである。したがって、書かれた時期は1922年である。
島清は1922年4月に米欧旅行に出発し、12月に帰国している。旅中のフランスか旅客船のなかで執筆したのであろう。
「仏蘭西社会運動慨勢」で、島清はフランスの社会主義政党の指導部の転向・変質、左右(改良的、革命的)のサンジカリズム、フランス労働総同盟の分裂について、正確に把握している。その上で、島清は革命的サンジカリズムを支持しているようだ。
島清は、1914年に第一次大戦が始まるや、フランス社会党が「独逸打つべし」と祖国防衛方針に転じ、自国の戦争に協力し、労働者兵士を死に追いやったことを批判している。島清が国際主義に立ち、民族主義を批判しており、真っ当な階級意識を表白している。現代日本でも、「戦争で北方領土を取り戻せ」などと排外主義が跋扈するなか、現代の私たちこそが、真剣に学ばねばならない論点である。(2019.5.23)
注:「仏蘭西社会運動慨勢」は島田清次郎の未発表作品で、石川近代美術館に所蔵されており、特別閲覧で翻刻した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
島田清次郎 「仏蘭西社会運動慨勢」 翻刻
A 労働運動
仏蘭西■■■■最近労働運動の傾向に於て最も興味深く意義あるものはC.G.T(Confédération Générale du Travail)【注1】の分裂である。
一昨年Tours【注2:トゥール】のC.G.T国内大会に於て分裂の危機に傾ひたC.G.Tは今春【注:1922年】決然分裂するの已むなきに至ったのである。
旧C.G.T及C.G.T.U(Unitaire統一)との二労働団体である。
Rue Lafayette【注3:ラファイエット通り】(C.G.T本部)のSyndicalism eréformiste【注:改良的サンジカリズム】を去った労働者はRue Granges Aux Belles【注:鐘のグラングス通り】のSyndicalisme révolutionnaire【注4:革命的サンジカリズム】に投じたのである。
× × ×
社会主義者Briand【注5】、Millerand【注6】の徒が議会に入り内閣に登るや、仏蘭西労働者の■認と期待とを裏切った如く、或は1914大戦の勃発と共にJuls Guesde【注:ジュール Guesde】等によって率いられた仏蘭西社会党が「独逸打つべし」と叫び、Juls Gesde等の社会主義者は内閣に参し、而して仏蘭西幾千のプロレタリヤを屠殺場に送った如く、旧C.G.T幹部は彼の1920仏蘭西全ブルジョワーを戦慄せしめたるSyndicalisme révolutionnaireを何時の間にか L'Action Francaise【注7:アクション・フランセーズ】等によって代表せらるゝブルジョワー的若くは王朝讃美(Royaliste)的、Catbolique【注:カソリック】的新聞、一言にすれば一切の反動的新聞によって讃辞を捧げらるゝ程融和的Syndicalisme réformiste【注:改良派サンジカリズム】に豹変したのである。
政治家に対して、指導的Intellegeucia【注:インテリゲンチャ】に対して、chefs(首領)に対して、反逆して生まれた新しい労働運動指導の原理が即ちSyndicalisme Rév【注:革命的サンジカリズム】である。仏蘭西労働階級は嘗てはサン・シモン、フリェ、ルイ・ブラン等【注8】によって予言されたSocialisme Utopique【注:空想的社会主義】に■■した。所謂公明正大、所謂民衆と真理に忠実■■■政治家、学者等に依頼した。或は社会党にも依頼した。がしかしすべての依頼や希望は微塵に破砕された。この苦々しい而も尊い幾多の経験は仏蘭西労働者群をしてSyndicalisme Révの真理を把握せしめた。
× × ×
幾多の体験の結晶として生まれたSyn.Rév【注:革命的サンジカリズム】はその正しき目的に向って、雄々しく突進したであらうか。そのとるべき道を堂々と踏んで行ったであらうか。
最近仏蘭西労働界に於けるC.G.TとC.G.T.Uとの二対立は仏蘭西Syndicalismeの進化発展を明示する歴史的現象である。
Syndicalismeの発展とは何であるか。
Syndicalismeはその根本原理の一つとしてIndividualisme【注:個人主義】をとる。■に部分的原理にあらずして全体的根本的原理としてゞある。
労働組合及各個人のe'Autonomic(自動)【注:自治】はCentralismce【注:中央集権主義】に対するFediralisme【注:連邦主義】、Ristaturismeに対するAnarchisme【注9:アナーキズム】を宣言する所以である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【注1】C.G.T(フランス労働総同盟 Confédération Générale du Travail)とは、フランス最大の労働組合連合組織。 1895年結成され,1906年アミアン憲章を採択してサンディカリズムをその基調とした。 1922年プロフィンテルン加盟をめぐって右派のC.G.Tと左派のC.G.T.U(フランス統一労働総同盟Confédération Générale du Travail Unitaire)に分裂した。
【注2】トゥール:フランスの中部に位置する都市
【注3】ラファイエット:フランス人権宣言を起草。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論の自由、第17条で所有権の不可侵を謳った。
【注4】Syndicalisme révolutionnaire(革命的サンディカリスム)の支持者は労働組合を、資本家による労働者の搾取体制を覆すためだけでなく、多数派の利益に基づき社会を公平に運営するのにも、適した手段となりうると考える。労働組合は政治活動ではなく直接行動を行い、ゼネストで資本主義体制を倒して革命を達成し、革命後は企業でも政府でなく労働組合が経済を運営する。<Syndicalisme Rév>、
【注5】アリスティード・ブリアン(Aristide Briand, 1862年3月28日 - 1932年3月7日)は、フランスの政治家。首相、外相などを務めた。 ナント出身。最初はサンディカリストとして活動したが、ジャン・ジョレスの引きでフランス社会党に入党。1902年には執行部入りし、しばらくの後国民議会議員となる。その後急進社会党に籍を移し、1909年にジョルジュ・クレマンソーの後を受けて首相に就任する。以後、1913年・1915年・1921年・1925年・1929年とたびたび首相に就任する。
【注6】アレクサンドル・ミルラン(Alexandre Millerand)はフランスの政治家。第一次世界大戦後の1920年1月から首相となり同年9月第12代大統領(フランス第三共和政)(在職1920年-1924年)。 1885年に代議士に当選し政界入りを果たし、最初急進社会党と行動を共にすることが多かったが、後に共和主義社会党に鞍替えする。1899年から1902年までピエール・ワルデック=ルソー内閣の商相となったが、この時の入閣では社会党内の内紛を招き結果として彼は社会党を去り共和主義連盟に再度鞍替えしている。その後、1901年から1911年まで公共事業・通信相、1912年から1913年および1914年から1915年まで陸相を務めた。
【注7】アクション・フランセーズ(L'Action Francaise)とは、1894年に発生したドレフュス事件を契機として結成された、フランスの王党派組織。1899年に創刊された同名の機関紙に由来する。シャルル・モーラスなどの反ドレフュス派(反ユダヤ主義者、保守主義者)の知識人を中心に結成され、間もなく王政支持に転向。最も徹底した反共和主義の運動として相当の影響力を持った。
【注8】サン・シモン、フリェは空想的社会主義者。ルイ・ブランの言葉に「各人がその才能に応じて生産し、その必要に応じて消費する」がある。
【注9】<Ristaturismeに対するAnarchisme>は<全体主義に対する無政府主義>ということであろう。