Quantcast
Channel: アジアと小松
Viewing all 919 articles
Browse latest View live

20190911大飯・高浜原発訴訟(控訴審/金沢)

$
0
0
20190911大飯・高浜原発訴訟(控訴審)

 2019年9月11日、名古屋高裁金沢支部で、大飯・高浜原発について、原子力規制委員会の原子炉設置変更許可の取り消しを求める控訴審がおこなわれた。

 原告は福井県の一市民で、本人訴訟で国に立ち向かっている。

 傍聴時に配布された書面「控訴に当たって再度主張」(9/11)によれば、①人格権に基づく「妨害予防請求権」、②原子力発電よりも、安全で低コストの発電が可能な時代になったこと、③原発由来の放射性物質が健康、ついには生命の危険をもたらすこと、④福島原発事故によって、原発の危険性が明らかになったと、主張している。

論より証拠
 今日の裁判は証拠裁判主義にもとづいておこなわれている。
 ウィキペディアによれば、証拠裁判主義とは、事実認定は証拠によって行われなければならないという刑事訴訟法上の原則であり、刑事訴訟法317条には「事実の認定は、証拠による」と書かれている。証拠裁判主義には、事実認定過程を客観化・透明化し、裁判官の恣意を排除するという特色がある。「証拠」とは、証拠能力を有し、適式な証拠調べを経た証拠をいう。このような証拠による証明を「厳格な証明」と呼ぶ。
 すなわち、「論より証拠」なのであるが、この点がこの裁判の弱点になっているようだ。国の答弁書(8/29)でも、「抽象的な危険性を指摘するにとどまり」「具体的な主張立証をしておらず」と一蹴されている。

ちょっと気懸かり
 この書面(「控訴に当たって再度主張」)では、「一般の建築物は…震度6強から震度7にかけての地震でも倒壊することはない」「三井ホームや住友林業の住宅では、熊本地震のような強い地震が何度もくる稀な地震でも構造躯体が維持された」と断定的に書いているが、このような主張は、むしろ相手方に有利に働くのではなかろうか。
 むしろ、事実は逆なのではないか。2019年9月1日に放映されたETV「サイエンスZERO」では、2016年4月14日に発生した熊本地震(震度7が2回)によって生まれた地表断層の120メートル以内で、家屋倒壊が集中していたと報じている。
 そして、2メートルもの平行移動(揺れ)があり、建物がバタバタと倒れ、ガラガラと崩れており、もしも、そこに原発があったら、原子炉建屋や付属の諸施設(配管、配線など)がいかに危険であるかを主張した方がよいのではないかと思った。

次回は11月13日
 閉廷後、原告からいろいろ説明があったが、13000円分の印紙さえ準備出来れば、裁判を起こせると説明されたが、裁判所に幻想を抱いてはならないのではないか。この間、さまざまな社会的裁判を傍聴してきたが、裁判所は独立しているわけではなく、政権の付属機関以外の何ものでもないから、むしろ裁判を主張の場として、人々の結集とたたかいの構築を図ることが重要なのではないだろうか。
 次回は11月13日(水)午後1時15分~ 

19690312王子判決

$
0
0
昭和四三年刑(わ)第一七〇四号
判決            

本籍ならびに住居 ××××××××××××
 学生
 ××× 昭和二二年×月××日生

 右の者に対する公務執行妨害、傷害被告事件につき、当裁判所は、検察官田中豊、弁護人OA出席のうえ審理し、つぎのとおり判決する。

主文
被告人を懲役五月に処する。
この裁判の確定した日から二年間右の刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由
(罪となる事実)
 被告人は、金沢大学法文学部二年に在学中であるが、米国陸軍野戦病院(王子キャンプ)の開設は米帝国主義のヴェトナム侵略援助の一環にほかならないと考え、これに反対し、日本の戦争参加拒否の意思を表明する目的で、東京都公安委員会の許可を受けて、昭和四三年四月一日午後六時過ぎから北区立柳田公園で開かれた東京反戦青年委員会主催の「北区米軍野戦病院設置反対青年集会」に参加し、午後七時四〇分ころ、引続き行われた集団示威運動に加わり、柳田公園を出発し、十条通りを経て王子警察署本町派出所の交差点にゆき、左折して王子キャンプに向い、王子新道を行進した。

 一方警視庁第一機動隊第三中隊(中隊長警部TY以下六四名)は、同日右集団示威運動に伴つて発生が予想される東京都公安条例三条によってつけられた条件の違反行為、投石、角材による殴打等の違法行為に対して、右条例四条、警察官職務執行法五条、刑事訴訟法所定の規定によって、その要件をみたせば規制、制止、検挙する任務をもって出動し、午後七時四五分ころ北区王子本町一丁目十三番の路地(王子新道脇)で、三列縦隊をつくり待機していた。

 ところが午後八時十分ころ、王子新道を行進して来た学生集団の一部は、右路地に待機中の第一機動隊第三中隊に対して投石して来たので、同中隊は防石ネット二張りを前面に張り、大盾をならべてこれに対処し、これを路地から王子新道上に制圧した。同中隊第一小隊第三分隊所属の巡査ST(昭和十九年十月三日生)は防石ネットの右側支柱を右手に持ち前進したが、午後八時十五分ころ同中隊最前部が前記王子本町一丁目十三番付近の王子新道上に出た際、被告人および他の学生約十名は、互いに意思を通じて、所携の角材を携えて同中隊に向かい、同中隊に接触するや角材を振つて大盾、ネットなどになぐりかかり、被告人も警察官に対して、所携の角材を構え、右角材で、ネット支柱を把持していたS巡査の右手拇指を殴打して、暴行を加え、前記のように違法行為に対する規制、検挙等の任務に従事していた同巡査の職務の執行を妨害した。その際被告人は、右暴行により同巡査に診療治療一回、化膿止め服薬、痛みがとれるまでに約二週間を要した右拇指挫傷(爪床下出血)の傷害を与えた。

 一方警視庁第一中隊(中隊長TH以下八二名)は、第四中隊と共に、第三中隊とは王子新道をへだてた反対側の王子本町一丁目二〇番路地に、第三中隊と同じ任務をもつて待機していたが、王子新道を進んで来た学生集団の一部からも、同中隊に向かい、投石、角材等による違法行為が加えられたので、防石ネットを張り、大盾を中隊前面にならべて、王子新道入口まで前進した。その際、午後八時十五分ころ、第一中隊第一小隊第三分隊所属の巡査ST(昭和十八年二月二三日生)は、学生集団の一部が角材を構え、反対側路地の第三中隊前面に進むのを認め、被告人の前記S巡査に対する前記暴行を現認したので、公務執行妨害の現行犯人として、被告人を逮捕しようとしたところ、被告人は所携の角材で同巡査の右大腿部を殴打して、暴行を加え、同巡査の公務の執行を妨害した。その際被告人は、右暴行により、同巡査に診療治療一回、いたみがとれるまで数日を要した左大腿部打撲傷(くるみ大の皮下出血)を与えた。

(証拠の標目)
一、TY、TS、ST、YN、UK、SKの当公判廷における各供述
一、司法巡査YN、司法警察員YY各作成の写真撮影報告
一、司法巡査YN、UK各撮影の写真二葉
一、東京都公安委員会作成の集会、集団示威運動許可書謄本
一、被告人の当公判廷における供述(判示認定に反する部分は除く)

 なお、弁護人は、「東京都公安条例四条により集団示威運動を規制しうる場合は、警職法五条の要件が必要であり、かつその規制は必要最少限度のものでなければならない。しかるに本件デモの規制は、許可された集団示威運動に対し、単に隊列、角材の所持等の点について形式的条件違反の行為をとらえ、警職法五条の要件をみたしていないにもかかわらず、なされた規制であって、このような規制は違法かつ過剰なものというべきである。したがつて、警察官の本件職務の執行は不適法であるので、公務執行妨害罪は成立しない。」旨は主張する。

 しかしながら、本件規制は判示認定のように学生らの投石あるいは角材による殴打等の違法行為の生じた段階において、その排除是正のためになされたもので、判示状況下にあっては警職法五条の要件をもみたしているものと認められ、また規制方法も過剰な違法なものであるとは認めがたいので、公安条例四条の規制の要件について、警職法五条所定の要件が必要であるか否かを論ずるまでもなく、本件において適法な規制と解することができる。してみれば、本件公務の執行は適法であって、公務執行妨害罪の成立を妨げるものではない。これに反する弁護人の主張は採用しない。

(法令の適用)
 被告人の判示所為のうち、公務執行妨害の点は包括して刑法九五条一項、六〇条(現場での意思連絡につき)に、各傷害の点は同法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号にあたるが、右公務執行妨害と各傷害とはそれぞれ一個の行為にして二個の罪名にふれる場合であるから、刑法五四条一項前段、十条により刑期および犯情の最も重いS巡査に対する傷害罪の刑で処断することとし、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期範囲内で被告人を懲役五月に処する。情状により同法二五条一項に従い、この裁判確定の日から二年間右の刑の執行を猶予する。なお、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させる。

昭和四四年三月十二日
東京地方裁判所刑事十八部二係
裁判官 粕谷俊治

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一九六八年四月一日の、その日から、もう、五〇年が過ぎたが、一緒に縛についた仲間は元気だろうか? 起訴後、都内各地の留置場から東京拘置所に移送された。一列に並ばされ、軍隊式に、左から順番に、番号を言えという。そこには、個としての人格(名前)は封印され、「非人格」化された番号として扱われた。となりの学生が、「なな」と言った途端に、刑務官は「もとい、やり直し!」と叫んだ。そして「ななという数字はない」と、おまえたちの自由にはさせないぞという決意だったのだろう。

 明治期以降のたたかう先輩たちの汗と涙が染みついた東拘は、私たちの故郷だった。私たちには東拘でさえも自由だった。どこからともなく♪インターナショナル♪が流れてきて、みんなで唱和して、気勢をあげた。短期間のうちに、保釈金六万円で保釈された。沖縄からの留学生が万単位で拠出してくれたと聞かされたが、ちゃんとお礼を言ったのかどうか記憶に残っていない。不義理を果たしたのかも知れない。それから、私たちを弁護して下さったOA弁護士は元気だろうか? 年上の素敵な女性だった。

1989年『出島権二さんの死を悼む 内灘闘争の考察』

$
0
0
『出島権二さんの死を悼む 内灘闘争の考察』
一九八九年 出島権二さんの死に際して
闘争の歴史的背景
 第二次大戦後の一九四〇年代末には、世界資本主義は戦後恐慌に見舞われ、このなかで日本資本主義は輸出の不振・滞貨の累増、大量人員整理、賃下げ、中小資本の系列化、低米価、地方税増税などに直面し、ブルジョアジーは一つの壁に突き当たっていた。そこに朝鮮戦争が起こり「日本経済の回生薬」の役割を果たしたのである。

 朝鮮侵略戦争に必要な軍用材の大量発注―特需という名の輸出の増大は重化学工業の発展にとってのカンフル剤の役割を果たし、機械・金属・化学・製材・繊維などを中心とする生産の上昇の結果、一九五一年度に始めて鉱工業生産は戦前の水準を突破した。この期間に独占への集中・集積が一挙に進み、一九五一年以降の独占資本主義としての日本帝国主義の急速な成長の基盤を形成したのである。

 他方で日本帝国主義ブルジョアジーは朝鮮侵略戦争遂行のために、一九五〇年に共産党中央委員の追放―アカハタの発行停止、新聞・通信・放送・電産・官公庁へのレッド・パージなど侵略戦争にともなう政治支配体制の「強権的安定化=暴力的暗黒支配」を強行したのである。しかしながら当時の日本プロレタリアート人民は、朝鮮侵略戦争とそれにともなうレッド・パージ攻撃にたいして、はっきりした政治的で攻撃的なたたかいを取り組むことができず、後退を余儀なくされていたのである。

 敗戦帝国主義から回復しっつあった日本帝国主義は、一九五二年サンフランシスコ条約と安保条約の発効を転機として、新たな段階に入るのであるが、日本帝国主義は独自の力による人民支配を貫徹するために、治安弾圧法の整備=破壊活動防止法立法攻撃を加えており、これにたいしてプロレタリアート人民は「労闘ストライキ」をもってたたかいぬいていたのである。

朝鮮侵略戦争との対決
 内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争下で、レッド・パージや破防法立法があり、他方人民はこれらと必死で闘っている真っ只中で、大衆的実力闘争としてたたかいぬかれたのである。内灘砂丘地接収は米軍特需にうるおう軍需(砲弾)メーカーのための試射場=基地建設であり、侵略戦争のための土地強奪であり、戦前への回帰を意味していたのである。

 一九五二年九月「内灘砂丘地接収」の報が伝わるや、漁業を生業とする村民は砂丘と海を死守するために激しく闘い始めた。アメリカ帝国主義にとっても、中国革命に続く朝鮮革命を目のまえにして、日本帝国主義を総動員してでも巻き返さねばならない瀬戸際に立たされていたのである。まさに内灘砂丘をめぐって、互いに譲り合うことのできない階級的攻防戦として、帝国主義と人民が激突したのである。

 だが内灘闘争の爆発は、米・日帝国主義の戦争プログラムをズタズタにし、内灘試射場を安定的に使用できるようになったのはようやく一年後であり、朝鮮戦争休戦前夜だったのである。米・日帝国主義にとって最も緊急に必要であったときは、村民のたたかい(坐り込みや強行出漁など)そして全学連や労働者の支援、とりわけ北陸鉄道労働組合の「弾丸輸送拒否ストライキ」に象徴されるたたかいによってほとんど使うことができず、小松製作所などの砲弾メーカーの倉庫には朝鮮向けの砲弾がうずたかく積まれていたのである。

 まさに内灘闘争は大衆的実力闘争によって米・日帝国主義の朝鮮侵略戦争に大きな打撃を与えた。内灘闘争こそレーニンの「侵略戦争を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の実践的貫徹形態であった。

内灘闘争に対応できなかった社共
 内灘闘争はこのように朝鮮侵略戦争に対する反戦・反基地闘争として、全国民的支援のもとにたたかわれたのであるが、このとき各政党はどのようにたたかっていたのか。

 出島権二さんの『一九五三年内灘解放区』によれば、「右派社会党のオルグは途中早々と帰ってしまい、左派のオルグは最後までいたのですが、たった一人では何をするにしても力にはなりません」と書かれているとうり、社会党は両派とも真剣にたたかってはいない。

 共産党は、現在の内灘町役場あたりの藁小屋をかりて「山(農)村工作隊」が七~八人常駐していたが、八月には「愛村同志会」に襲撃され、小屋が壊されても何もできない状態だった。今日共産党はあたかも内灘闘争を指導し、闘ったように宣伝しているが、とんでもない歴史の偽造である。

 『一九五三年内灘解放区』で出島さんが「東京から来ている社会党・共産党の指導者は、大衆的な基地闘争の経験がなく、接収反対の原則はあるのですが、確たる戦略戦術を持っていないようでした。(中略)局面が転換してもただ眺めているような状態でした」といっているような無指導・無方針の状態であった。「愛村同志会」によって闘争拠点が破壊されても為すすべもなく、極右=東亜連盟員を引き連れた辻政信が権現森着弾地での坐り込みを解除するためにやって来ても、声一つあげることができなかったのだ。

 それもそのはず、当時の共産党は綱領・路線転換の真最中であり、混乱の極にたっしていたのだ。一九五〇年十月の「平和と独立」第九号で突然「軍事方針」をうちだし、一九五一年十月の五全協、一九五二年二月「中核自衛隊の組織と戦術」を発表して、いわゆる「武装闘争」をはじめるのであるが、わずか半年で大破産し、以前にも増して極右路線を歩んだのである。

 共産党の「武闘路線」から「平和路線(六全協)」への谷間にあって、共産党の党としての指導やたたかいなど全くないなかで、住民のエネルギーの自然発生的な爆発としての大衆的実力闘争としてたたかわれたのである。せっかく非公然に持ち込んでアカシア林に埋め込んだ「銃数挺」も使われず、かといって大衆的実力闘争の先頭にたつこともなく、たたかう村民を孤立させていったのである。

「侵略を内乱へ」の実践的たたかい
 共産党は内灘闘争を「反米愛国闘争」として今日的に評価している。一九七四年発行の『日本共産党の半世紀』には多数ある内灘闘争の写真からわざわざ「日の丸」を掲げたものを選び出しているのである。

 一九五三年はサンフランシスコ条約・日米安保条約発効の年であり、朝鮮戦争を奇貨として、帝国主義として経済的にも政治的にも自立しつつあったのである。沖縄の分離支配と内灘試射場接収は同じであり、日本帝国主義が自国領土の一部をアメリカに差し出してでも、帝国主義独自の利害を追求したということである。

 内灘闘争は、米日帝国主義の強盗同盟=安保条約に基づいて強行する朝鮮(アジア)侵略戦争に対する反戦闘争であり、「革命的祖国敗北主義」を貫徹すべき反帝闘争だったのである。

 共産党は帝国主義打倒の戦略としての「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の思想を持ち合わせておらず、ただ現象面のみをみて「反米愛国闘争」と位置付けているのであるが、全くの誤りである。

三里塚闘争こそ内灘の後継者
 「土地は万年、金は一時」のスローガンをかかげて着弾地坐り込みや実力出漁をたたかった内灘闘争は、今確実に三里塚、北富士、三宅島、沖縄・小松、志賀のたたかいへと引き継がれている。特に出島さんが三里塚現地で見たものこそ・内灘闘争そのものであった。出島さんが目を閉じたその年に、三里塚闘争は決定的飛躍をかちとったのである。敷地内三戸を核として、「農地死守」の絶対反対同盟が厳然とたち、千葉県土地収用委員会の総辞任をかちとり、さらに天神峰現闘本部を鉄筋コンクリート三階建に増築したのである。

 世界的規模での帝国主義、スターリン主義、新植民地主義の危機の時代をむかえて、基軸帝国主義であるァメリカ帝国主義が率先してブロック化を推進し、世界経済はまさに分裂化になだれこんでいる。最弱の帝国主義=日本帝国主義は、迫り来る激動を直感的に受け止め、対外侵略と国内反動にうってでてきた。

 労働戦線の再編=総評解散=産業報国会化、天皇の死から代替わりにかけての天皇制(イデオロギー)の強制、そして軍事大国化のための三里塚軍事空港建設強行などである。これら一切の攻撃は侵略戦争体制を作り上げるためのものである。われわれは内灘闘争で端緒的に切り開かれた「侵略を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」の原則に立ってたたかうことを、出島さんの霊前に固く誓うものである。

20190926シタベニハゴロモ調査中間報告2

$
0
0
20190926シタベニハゴロモ調査中間報告2

2019年シタベニハゴロモ調査が終盤にさしかかっている。

昨年は8月直前から11月上旬まで調査して、<987+30=1017匹>を駆除した。

年が明けて、ニワウルシ(シンジュ)の樹幹や周辺の雨のあたらない壁に産みつけられた卵塊(卵数百個)をはぎ取り、まあ、かなりの数を駆除したつもりでいた。

9月上旬頃までは、その通りであったが、中旬以降は、がらりと様相が変化し、毎日数十匹のシタベニハゴロモの駆除がつづき、多い時で100匹を超えた(23日137匹)。

9月20日には昨年の水準(約700匹)を超え、24日には昨年の全駆除数(987+30=1017匹)を越え、1070匹に達し、さらに増え続けている。

たかが、昆虫との「たたかい」だが、完敗を喫した感じである。

20191011 放水し、追いかけ、衝突したのは日本の漁業取締船だ

$
0
0
放水し、追いかけ、衝突したのは日本の漁業取締船だ。 排外主義をはね返せ!

 2年ほど前(2017年12月31日)、「北朝鮮パッシングと日本海(東海)大和堆」を投稿したが、その後も、EEZ=大和堆=イカ漁をめぐる排外主義が過熱しており、今回の衝突事件についても、メディア上では「戦争をしてでも、漁場を取り返せ」の論調が渦巻いている。
 第9管区海上保安本部(新潟)は取締船「おおくに」の乗組員に事情聴取し、映像も確認しているが、情報を出し渋り、真実をうやむやにしようとしているようだ。

真実はどこに
 10月7日、能登半島沖の大和堆で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の漁船と水産庁の漁業取締船(1300トン)が衝突し、北朝鮮漁船が沈没した。

 当日午前9時前から200メートルの間隔をあけて「退去警告」をおこない、9時4分には取締船は放水の届く位置(十数メートル?)まで接近し、放水し、逃げる漁船を追いかけ、3分後の9時7分に、取締船が船首を漁船の左舷中央部に衝突させ、9時25分に沈没し、60人の乗組員は海に投げ出されたのである。

 マスコミの初報は、漁船の方からぶつかってきたと報道していたが、このイメージ図と取締船の傷の跡を見れば、取締船から突っ込んでいったことは歴然としている。

 水産庁は、「全員救助」後、北朝鮮漁船に引き渡したのだが、漁船の乗組員に「衝突の真実」を証言されるのを怖れたのだろう。そして、第9管区海上保安本部(新潟)は、8日以降は捜索をせず、早々と漁船の乗組員を見捨てる方針を出した。これも、海上を浮遊している漁船乗組員を救助しては、「真実」が明らかになるからであろう。

 現場は水深が1000メートル以上の深海で、沈没漁船の船内に取り残された乗組員の救助は困難だといって、漁船引き揚げの努力を放棄した。山梨県で行方不明になった女児の捜索には、2週間以上かけているのに、乗組員の捜索を1日で打ち切るなど、人道にもとる行為である。水産庁と海上保安庁は衝突・沈没の責任を果たすためにも、せめて、船中に取り残されているかも知れない遺骨を捜索し、家族に返すのは、当然の道義だろう。

 しかも、小型漁船に衝突しておいて、その真実も明らかにせず、北朝鮮に抗議する安倍の姿は、億単位の金をもらって、被害者だと主張する関西電力の経営陣と同じではないか。

大和堆について
 日本海(東海)は概ね3000メートルほどの水深だが、中央部に大和海嶺があり、北東から南西方向に深さ2000mに及ぶ渓谷によって分割され、日本に近い南側を大和堆、北側を北大和堆と呼んでいる。

 能登半島から北北西約300キロのあたりで、水深は浅い部分で250メートルほどである。

 今回事件があった場所について、EEZ内の水深が1000メートルと発表しているが、正確な位置を発表していない。大和堆よりも深い位置で、北側の「渓谷」あたりではないか。日本政府が主張するEEZの外側の可能性がある。



排他的経済水域(EEZ)
 安倍首相は「わが国の排他的経済水域内での外国漁船による違法操業防止のため、毅然と対応する」と言ったが、そもそも、「排他的経済水域」とはなにかについて、あらためて整理しておこう。

 元来は両国漁民は大和堆と北大和堆を好漁場として共有してきたのだが、日帝は「大和堆は排他的経済水域(EEZ)である」と主張し、北朝鮮漁船を排除してきた。

 歴史上最初に、領海外の公海上の漁業管理権を宣言したのは、1945年、米帝トルーマン大統領である。その後、1982年の国連海洋法条約で、沿岸国が海洋および海底下の生物・鉱物資源の探査・開発・保存・管理などに関して「主権的権利」をもつ水域として、沿岸から200海里(約370キロメートル)を超えてはならないとされた。

 EEZとは帝国主義の領土拡張主義から発出し、海洋資源を占有するために引いた「国境」である。現在は、約160カ国・地域が排他的経済水域を設定しており、日帝も1996年6月に国連海洋法条約を批准した際、「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」を制定した。

 しかし、EEZとは、「主権(他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利)」とは一線を画した「主権的
権利」と呼ばれている。したがって、大和堆は日帝の「主権」の及ぶ範囲ではなく、基本的に公海であり、歴史的にも北朝鮮漁民と日本漁民がともに漁業をおこなってきた海域である。しかし、日朝関係の対立的状況(国交断絶)のなかで、日朝漁民を主体にした協議が成立せず、日帝が一方的に大和堆を「主権的権利」のおよぶ海域と指定して、北朝鮮漁船を排除しているのである。
 マスコミ上に乱舞する「排他的経済水域(EEZ)」「違法操業」という言葉はあたかも日本固有の「権利」が侵害されているかのようなニュアンスをかもしだし、この海域で日本の財物が盗まれたような被害者意識を形成している。大和堆で操業している北朝鮮漁船を指して、「赤の他人が家に入り込んで居座り、食糧を盗む」(2017/12/15同紙)という谷本石川県知事の暴言がそのよい例である。

20190901「七尾港強制連行の記録」発行

$
0
0
「七尾港強制連行の記録」発行

 七尾港に強制連行された中国人との連帯と、日帝とのたたかいの記録です。
 記憶から記録へ。
 一度でも法廷に足を運んだみなさん。
 七尾港での現場検証に立ち会ったみなさん。
 遠くから注目していたみなさん。

 晩酌の酒・ビールをぬいてでも。3000円(+送料500円)を工面してください。
 そして、息子・娘たち、孫たちにプレゼントしてください。
 日帝・裁判所との間では、一時休戦になっていますが、息子・娘、孫の世代がいつでもたたかいを再開出来るように。

 石川県教組書記局(金沢市香林坊)でも扱っていますよ。


20191024漁業取締船と北朝鮮漁船の衝突現場について

$
0
0
漁業取締船と北朝鮮漁船の衝突現場について

作為的な編集画像
 水産庁は、10月18日、漁業取締船と朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)漁船の衝突(10月7日)映像を公開した。映像は約13分で、最初に取締船のコントロールパネルが映し出され、5秒後に「ただ今から放水を開始する」というアナウンスが流された。2分25秒に「(放水は)漁船のともに当たり」はじめ、3分31秒に衝突音が聞こえた。

当初の説明は
 当初(2019年10月9日付け「北陸中日新聞」)、水産庁は【午前8時50分に退去警告→9時4分に放水→9時7分に衝突】と説明していた。
 説明では、放水開始から衝突まで、3分だったが、映像では1分11秒に短縮・編集されている。NHK NEWS WEBは「水産庁では、放水を開始してから、漁船が沈没し救助を開始するまでは、映像をカットしていないと説明しています」と言っているが、実は少なくとも1分49秒はカットされ、放水開始から衝突までの肝心要の経過、とくに取締船の行動と音声の大部分が削除されているのである。 
 このような作為的に編集された映像を「証拠」として扱うことはできない。

   

EEZの外側=公海か?
 最初に映し出されたコントロールパネルを見ると、取締船の位置は【北緯40°09.714′N】【東経135°07.633′E】を示している。
 インターネット上の地図【注】で見ると、経緯度の交差点は、日帝が主張する「EEZ」の境界線上になる。EEZ内であろうが、EEZ外であろうがそこは日本の「主権」がおよぶ範囲ではなく、せいぜい「主権的権利」にすぎず、日朝両国漁民が自由に漁業をおこなうことが出来る公海である。
 にもかかわらず、取締船は北朝鮮漁船を執拗に追いかけ、放水し、衝突し、沈没させたのである。北朝鮮は日帝にたいして、謝罪と損害補償を要求しているが、至極当然の要求である。
【注:独島(竹島)がEEZ内に描かれているが、誤りである】

20191027 『ナチ・コネクション』を読む

$
0
0
『ナチ・コネクション』を読む

 1993年、ドイツの歴史学者シュテファン・キュールは『ナチ・コネクション』(ナチとの関係という意味か)を公刊した。1999年に麻生九美さんが飜訳し、明石書店から発行された。

 私自身は、例に漏れず、大戦間のドイツとアメリカの関係をファシズム対民主主義、せいぜいで帝国主義国家間の対立程度にしか認識していなかったが、訳者の麻生九美さんの「あとがき」を読んで、「今まで明らかにされていなかったドイツとアメリカ合衆国の優生学史実の欠落部分を埋める」、「ドイツの人種衛生学者とアメリカの優生学者は親密な関係にあり、アメリカはナチスの人種政策のモデルとしての役割を果たした」(187)という解説に注目した。

 この間旧優生保護法による強制不妊(断種)手術と優生学について学んできた延長線上で、相当に難しそうな本書を石川県立図書館から借り出し、読むことにした。章を追いながら、重要そうな部分を抜き書きして、自分自身の理解に資したいと思う。 (2019年10月)

 注:( )内の数字は本書のページ数。
 注:ナチ=国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

1 「新しい」科学的人種主義
 第1章は、現代アメリカの優生思想状況を概説している。

 アメリカでは、1980年代以降の現代においても優生思想を拡散している(022)。下記に引用したように、100年前のイギリスの人類学者フランシス・ゴルトン(1822~1911)とさほどの違いはない。優生学・思想は今も「健在」なのである。そしてこのような学者を財政的に支えているのが「パイオニア財団」(アメリカ)である。

 1980年代末に、フィリープ・ラシュトン(大学教授)は「白人とアジア人は黒人よりも知的で、家族志向が強い」、ロバート・ゴードン(社会学教授)は「アメリカの黒人の犯罪率が高いのは、相対的に黒人の智能レベルが低いことに関係がある」、1991年には、ロジャー・ピアソン(人類学者)は、遺伝的に劣った人種によって白人は危険にさらされていると主張している(022)。

2 1932年以前の国際優生学運動におけるドイツとアメリカの関係
 第2章は、1932年以前のドイツとアメリカの優生学について詳述している。

 1912年のロンドンで開催された第1回国際優生学会では、「不適切」な人々の生殖を阻止する方法と、「適切」な人々の生殖を奨励する方法について議論した(039)。アメリカでは1899年にインディアナ州で、最初の断種がおこなわれたあと、カリフォルニア州、コネティカット州、ニューヨーク州、カンザス州、ノースダコタ州、オレゴン州で断種法が可決された(043)。

 ドイツの優生学研究を資金的に支えたのはアメリカのロックフェラー財団だった(048)。人類遺伝学者オトマール・F・フェアシュアーはくり返しロックフェラー財団を訪問し、財政支援を要請していた。ドイツでは左翼までが優生思想を支持していた(052)。

 アメリカでは、断種法は「劣等な人々の再生産を阻止するには最も簡単な方法」であるとして、1907~1920年(13年間)の断種手術は3233人、1921~1924年(4年間)に2689人。1930年以前の断種は年間平均で200~600件だったが、1930年代になると、年間2000~4000件と一気にはね上がった(054)。ハリー・H・ローリンは「合衆国の安寧のために断種が必要であることはすでに証明された」と主張している(055)。

3 国際的な背景―国際優生学運動を通じて支持されたナチの人種政策
 第3章では、1933年以後のドイツでの優生学運動について書かれている。

 1933年には精神的・肉体的に健康な非ユダヤ人のカップルに助成金を提供する「結婚貸付金助成法」、「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律」、犯罪者の断種と去勢を認める「危険な常習的犯罪者撲滅法」、「ドイツ農民新形成に関する法律」、遺伝的に価値ある農民に助成金を支給するための「帝国世襲農場法」、1934年に「健康管理統一法」が成立し、…さまざまな優生学的措置は実行に移されるようになった(062,063)。

 1934年夏、チューリッヒで開催された「国際優生学協会連盟」の会議で、ドイツの「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律(1933年断種法)」が国際的に支持された(060)。1935年に可決された「遺伝保護法」は「健全な」者と精神遅滞者との結婚を禁じた(065)。

 1935年にベルリンで開催された「国際人口科学学会」では、126の研究発表のうち、59をドイツ人学者がおこなった(067)。会議に批判的な科学者は数人しかいなかった。クラレンス・G・キャンベル(アメリカ優生学運動の特別代表)は「世界を人種的に退化させないために、人口の10%を断種する必要がある」と主張した(072)。

4 弟子からモデルへ―ドイツと合衆国の断種
 第4章は、アメリカこそがナチスの人種政策のモデルであったことを明らかにしている。

 ドイツの「断種法」(1933年)は、アメリカの「パイオニア財団」のハリー・ローリンが考案した「優生学的断種のモデル法」(1922年)に習って立案された(078)。

 アメリカの最高裁判所は「退化した子孫が犯罪を犯してから死刑にしたり、愚かさ故に飢えるに任せるのではなく、明らかに不適切な者たちが子孫を残し続けることを社会が防止出来るのならば、その方が社会全体にとってよりよいことである」(077)と主張し、ヒトラーは「今やわれわれは遺伝の法則を知っているのだから、不健康で重度の障害をもった者たちがこの世に生まれてくるのを相当程度まで防ぐことができる」(076)と述べているが、両者の主張はウリ二つである。

 1930年代を通じて、「人間改良財団」(カリフォルニア)と「アメリカ優生学協会カリフォルニア支部」は、ナチ・ドイツにとって常に重要な情報源だった(087)。1934年、「ニューヨーク州初等学校長協会」は「犯罪者と知能の低い階級」の断種を増やすよう呼びかけた(090)。「アメリカ優生学協会」の事務局長レオン・ホイットニーもヒトラーの人種政策を支持し、ヒトラーの断種政策は総統の偉大な勇気と政治家としての手腕の証明であると主張した(091)。

 『優生学ニュース』の編集者ハリー・ローリンはナチの断種プロパガンダをアメリカ大衆に紹介するために尽力し、「ヒトラーを『アメリカ優生学調査協会』の名誉会員にすべきだ」と書いている(094)。

5 ナチ・ドイツを訪問したアメリカの優生学者たち
 第5章は、1933年にナチスが権力を掌握したあとも、アメリカの優生学者・人類学者・心理学者・精神病医・遺伝学者がドイツ訪問を繰り返していたことを記している。

「アメリカ公衆衛生協会」事務局長ウィリアム・W・ピーター(106)、人種政策研究者のマリー・コップ女史(108~)、「優生学調査協会」のクラレンス・キャンベル(110)と会長のチャールズ・ゲーテ(110~)、優生学運動のマリオン・S・ノートン(113)、優生学者T・U・H・エリンジャー(113~)、優生学者ロースロップ・ストダード(117)などである。

 ドイツの新聞はアメリカの学者のドイツ訪問を熱烈に報道し、ナチの優生政策の優位性を国民に誇っていた(104)。
 コップ女史は、ドイツの人種的措置は「国家の健康をむしばむ諸条件を是正するためには緊急不可避である」と主張している(108)。エリンジャーは『遺伝ジャーナル』誌上で、「ドイツからユダヤ人という人種の遺伝的特性を排除することを目的とした大規模な繁殖計画」(114)であると説明し、アウシュビッツにガス室が設置された1942年には、「(この冷酷な行為が)遂行されたらユダヤ人問題は一世代で解決するだろう。しかし、不運な者を完全に殺害するには、遥かに慈悲深い方法ではなかったろうか」(115)と述べている。

 このように、1930年代のアメリカの優生学者はナチスと寸分違わない考えに陥っていたのである。

6 科学と人種主義―人種概念の相違がナチの人種政策にたいする姿勢に及ぼした影響
 第6章では、アメリカの優生学運動には、主流派、人種人類学者、改革派、左派の4つのグループがあり、それぞれについて説明している。

 「主流派の優生学者」は、白人のなかの「退化」分子を排除することを好み、異種交配は予防すべきだと主張した。「改革派の優生学者」は、民族的基盤よりも個人淘汰を支持することによって、ナチスとの関係を断とうとした(132)。しかし、最近では、どちらのグループの優生学者も本質的には人種主義者だったことを認めている。ふたつのグループの境界線はきわめて流動的で、最終的な結論はしばしば同じだったからである(132)。

 主流派の優生学者の大半は反ユダヤ主義者であり(134)、人種人類学者は、「人種は本質的に同等ではない」という考えに基づき、北方人種の優越性を確信し、反ユダヤ主義に執着していた(135)。

 改革派の優生学者は、人種人類学者とナチスの露骨な民族的人種主義とは距離をおき(136)、ナチの反ユダヤ主義を批判しながら、同時にナチの優生計画を支持した(138)。左派については次章で扱う。

7 合衆国の優生学を変化させたナチの人種政策
 第7章では、左派の主張を整理している。

 左派の遺伝学者は、黒人とユダヤ人を差別する「科学的根拠」に疑問を抱き、人種間に差異はないと主張していたが、「有能な」個人の生殖を支持し、「劣等な」人々の再生産を予防する事によって、人類という人種全体の改良はなされるべきだと考えていた(140)。

 1939年8月、エディンバラで開催された「第7回国際遺伝学会議」で、左派の優生学者と遺伝学者はナチの人種政策に反対する決議文(「遺伝学者のマニフェスト」)を準備することに成功した。「マニフェスト」は効果的な産児制限と女性解放を求め、経済的・政治的変革の重要性を強調し、民族的少数派にたいする差別を非難した(142)。

8 ナチ・ドイツがアメリカの支持を求めた事と、アメリカの支持が果たした役割
 第8章では、ナチが国際的評価を非常に気にしていたことを述べている。

 1930年代半ば、ナチ政府はアメリカの精神病医フォスター・ケネディとハリー・H・ローリンに名誉博士号を授与した。ケネディは「合衆国安楽死協会」のメンバーとして、精神障がい者の抹殺を支持し、「欠陥を持って生まれた人間の安楽死を合法化すること」は世の中のためであると考えていた(153)。

 2016年に津久井やまゆり園・虐殺事件での植松聖の主張「重度の障がい者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」「重度の障がい者は安楽死させるべき」と合同である。

 1935年6月、ナチスの「人種政策局」は「イングランド、合衆国、そして日本においてさえ、学会はナチズムの人種イデオロギーをきわめて積極的に受け入れ」ていると言及している(159)。ドイツ国民は、ナチの政策にたいする外部からの批判はユダヤ人の陰謀の結果だと見なした(167)。

9 ドイツとアメリカの優生学者の関係の一時的な途絶
 第9章では、第2次世界大戦中からその後の優生学運動について書いている。

 1935年9月、ナチ政府が「ニュルンベルク法(帝国公民法、血統保護法)」と呼ばれる法律を可決したことによって、アメリカ優生学運動は反ユダヤ主義がナチズムの人種イデオロギーの重要な要素だったことを悟った。「帝国公民法」は「ドイツあるいはその同族の血統を持つ者だけが帝国市民たり得る」と規定して、ユダヤ人を排除した。「血統保護法」はユダヤ人とドイツあるいはその同族の血統を持つ市民との結婚を禁止する法律だった。(170)

 1938年11月9日から10日にかけて、ドイツ系ユダヤ人にたいして、組織的大虐殺「帝国水晶の夜」事件がおきた。177のシナゴーグ(教会)、7500のユダヤ人の商店・企業が襲撃され、96人が虐殺された。ユダヤ人は社会生活に参加することを禁じられ、ユダヤの子どもはもはや公立学校に通えなくなった。1939年には、ユダヤ人がアパートメントを借りることが出来る地区を制限し、強制労働を課し、黄色いダヴィデの星の着用を義務付ける布告が出された(170)。

 第2次世界大戦が勃発するまで、ドイツは同じ「白人である北方人種の血統」に属する国家とは戦火を交えたくないと主張していたが、ナチスは人種構成が同じ国に侵略を開始したことによって、ドイツとアメリカの優生学運動の関係は緊張した。合衆国がドイツと日本を敵国として参戦したことによって、ドイツとアメリカの優生学者の関係は完全に切れた。(174)。

 第2次世界大戦中に、数百万人にのぼるユダヤ人やロマ(ジプシー)、そして障がい者が排除されたことによって、ナチスの人種政策にたいする評価は完壁に失墜した。「アメリカ優生学協会」のメンバーは、かつてナチの人種政策を支持したことからわが身を引き離す道を探った。改革派の優生学者はナチの優生学的人種主義を支持した過去を隠蔽し、政治的に極右だったごく少数の、しかも急速に評判を落とした者だけがナチスの政策を支持したのだと主張した(175)。

 改革派以外の優生学者でも、かつてナチス・ドイツを支持したことに良心の呵責を感じた者はさらに少数だった。彼らは1930年代の優生学的措置を手本とすべきだとする見解を捨てず、1970年代の終わりに、「自発的断種協会」で指導的立場にあったマリアン・オールデンと、「アメリカ優生学協会」の事務局長だったレオン・ホイットニーは、自分たちがナチスの人種政策を支持したことを誇らしげに回想している(175)。

 1946年の「ニュルンベルク医師裁判」で、政府主唱の大虐殺に関与したとして告発されたドイツ人の人種衛生学者はほんの数名にすぎなかった。告発された学者たちは「劣等分子」を排除したのはドイツだけではなかったことを立証するために、合衆国の例を持ち出した(176)。

 ミュンヘン近郊のハール州立精神病院院長として数百人におよぶ精神障がい者と身体障がい者を殺害した責任を問われたヘルマン・プファンミュラーは「これらの法律が基盤とした思想は数世紀も前からあった」と反論した(176)。

 ドイツの人種衛生学者の一部は、アメリカの同業者と接触していたことが幸いし、ナチ・ドイツ崩壊後まもなく、彼らは国際的な科学界に復帰した(177)。ナハツハイムは、「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の所長という地位を引き継いだ(177)。フェアシュア―はメンゲレとの通信文をすべて破棄し、ベルリンでメンゲレが助手をつとめていたことも、メンゲレから生物学的医学標本を受けとっていたことも、一切否定し、「ナチズムの人種にたいする狂信ぶりには公然と反対していた」とウソをつき、罪を逃れ、1951年にミュンスター大学の人類遺伝学教授となり、その後すぐ、「ドイツ人類協会」の会長に選任された(179)。

1946年から55年の間に、フリッツ・レンツ、ギュンター・ユスト、ハインリヒ・シャーデは、それぞれ人類遺伝学、人類学、精神医学の教授としてドイツ大学に復職している(179)。

 1949年という早い時期に、精神科医カール・ボンヘッファーは断種計画を復活させようとした。優生学者のハンス・ハルムゼンとハンス・ナハツハイムも、断種法にはナチズムのもとで履行された時とは別個の価値があったと主張した(180)。

 一方、日本では1947年に加藤シヅエ(社会党)らは、障がい者を対象に強制不妊(断種)手術を認める優生保護法案を提出し、1948年全会一致で成立させ、その後1992年までに2万5000人に強制不妊(断種)手術をおこなった。

 「ニュルンベルグ医師法廷」に立たされたナチの人種衛生学者のうちの何人かを、アメリカ軍当局が軍関係の研究のために採用しようとした(177)。日本の731部隊を免罪したのと同じ扱いだった。

10 むすび
 著者キュールの結論は、大虐殺の根柢にあった人種改良のイデオロギーは決してドイツの科学者だけのものではなかったということである。

 アメリカでは、現在も「パイオニア財団」は人種間の遺伝的差異に科学的な研究成果を提供することに関わり、ナチの措置に科学的根拠を与えた初期の諸研究と酷似した研究に財政援助をおこなっている。(185)。

島田清次郎関係資料を美川図書館に寄贈

$
0
0
島田清次郎関係資料を美川図書館に寄贈

島清に関する研究を一旦終結します。
1年ほどでかき集めた島田清次郎に関する関係資料を白山市立美川図書館に寄贈しました。
美川図書館で、「島清に関する資料はないか」と尋ねれば、書庫から出してくれるでしょう。





1993年「変形労働時間制導入をはねかえしたぞ」

$
0
0
 政府は教育現場に変形労働時間制を導入しようとしています。
 私の友人が福祉施設で働いている時(1993年)、施設が変形労働時間制を導入しようとしました。労働組合もない職場でしたが、友人が変形制導入後の労働強化を数字で導き出し、仲間に説明し、仲間とともに事務長に詰めより、ついに、一部はね返したときのレポートが残っていました。
 教育現場への変形労働時間制導入は、労働強化と、児童・生徒への手抜きが待っています。ぜひとも、がんばりぬいてほしいと思います。
 時も時、萩生田文科省大臣が民間英語検定試験で、「身の丈に合わせて」選択せよと、貧困世帯から教育権を奪う発言をしました。教育を安倍政権に任せておいたら、ろくな事にならないでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1993年「変形労働時間制導入をはねかえしたぞ」

介護棟増設をテコに合理化
 わたしの職場の職員数は現在全体で48人(医師を含む)で、看護・介護スタッフは32人です。入所者数は102人です。「老人健康施設」の看護・介護スタッフの最低基準は102床当たり29人(看護=8、介護=21)なので、3人多いシフトです。夜勤は五人シフト(2、2、1)を取っており、建物の構造上これだけの人員は不可欠です。

 12月介護棟増設(37床)で、全介護棟の看護・介護スタッフを最低基準以下の40人とし、全介護棟を平均化して、各フロアー10人のスタッフですますために、「変形労働時間制」を導入しようとしてきました。

変形労働時間制押しつけ
 8月25日に事務長が「変形労働時間制」を提示したのですが、年間の総労働時間の計算に、就業規則に明記された祭日などの「休日」が含まれておらず、また夜勤明けの日を「休日」と書いてあったり、「夜間の仮眠は労働時間とは見なさない」などの重要な変更がありました。

 この時は「休日が減る」ことについて、事務長を追及したのですが、絶対に認めようとはしませんでした。話し合いがつかず、次回を約束して終らせました。

労働基準法を勉強
 それから1ケ月、労基法や「変形労働時間制」の勉強をして、当局の出してきた「新勤務割表」を検討したところ、今年度の労働時間が2168時間(これでも長い!)であるのに、「新勤務割表」では2288時間にもなるのです。210時間もの労働強化ではありませんか。いままで確保されていた祭日や年末・年始の特別休暇(29日分)がごっそり盗られようとしていたことが、数字のうえではっきりしました。

話し合いを申し入れ
 「新勤務割表」には問題があるとハッキリしたので、現状の労働条件を守ることを念頭に置いて、話し合いを申し入れ、10月1日に話し合いをもちました。話し合いに当たって、次の3点を主張しました。
①「新勤務割表」には就業規則にある「祭日や特別休暇」が入っていないので組み入れること。
②夜勤明けは「休日」にはならないこと。
③仮眠時間を労働時間と見なすこと。

「数字の神様」が沈黙
 ①は絶対に譲れないところなので、一番力を入れました。年間の総労働時間を出して、数字で証明することにしました。準備した資料を提示したところ、一発で決まりました。「数字の神様」と言われる事務長はうろたえ、とっさに出てきた言葉は何と「アンタら、これ以上年休や祭日とって、どこに働く日があるんや」でした。(私のフロアーでは、全員が年休を完全消化しています!)

 この点がハッキリしたことで、あのインチキな「新勤務割表」は人員を増やさない限り、行使できないことになり、事務長は頭を抱え込んでしまいました。

 ②については、労基法で説明すれば「そうや」と同意するのですが、訂正しようとしません。わたしが夜勤明けの「休日」と書かれたところを消してかかると、事務長は「そんなことすると休みが減る」と、すっかり本音をさらけ出してしまいました。

 わたしの職場での夜勤は「日当直制」ではないのですが、「当直明け」と表現されています。「通常勤務として改善したい」というのが事務長の主張なのですが、「通常勤務」であればどうなのか、いまひとつ解かりません。勉強してハッキりさせねばならないところです。

 ③について話しはじめたのですが、もう事務長はショボクレて、なげやりになってしまい、「どうでもよい」ということになりました。

まだまだ闘いが必要
 増員については、事務長は最後まで認めないので(あくまでも42人シフト)、その限りでは「新勤務割表」は過重労働になるので、わたしのほうから「従来通りの勤務シフト」を提起し、事務長は「アンタらがそれでいいというなら、それでいい」という結論が出て、事務長の「変形労働時間制」を利用した「休日削減」を撤回させることができました。

 事務長案の各フロア10人シフトの「新勤務割表」は、看護・介護スタッフの総枠は40人を譲らないので、その枠内での「従来通りの勤務態勢」になります。入所者は重度化の傾向にあり、現在1フロアー13人で仕事をして、年休をとって、身体を休めながら勤めているのが現状です。

組合はなくとも
 「1フロアーにつき13人」を主張するのは私だけで、全体の意見は一歩譲って12人が圧倒的です。今後は2階、3階は12人、4階は6人で仕事をすることになります。
 これは合理化=労働強化なので「1人分の業務量」を削減しなければならず、看護・介護が低下し、最終的にはお年寄りに矛盾が転嫁される形で決着することになりました。

 新設病棟については、とりあえず開所時10人の看護・介護スタッフで出発し、入所者が増えた時点で増員を要求しようと思っています。

 わたしの職場には労働組合はなく、こういう問題は主任サイドで決められていくのが現状です。それではよくないと思い、今回の「変形労働時間制による休日削減」については申し送りのときや、休憩時間になるべく多くの仲間に説明するようにしました。

 まだまだ他人ごとのように聞いている仲間が多いのですが、これからも少しづつでも労働者が主張していける状況を作り出していきたいと思っています。

一九七八年 出島権二『朝鮮の苦い想い出』

$
0
0
一九七八年 出島権二『朝鮮の苦い想い出』

 ここに紹介する『朝鮮の苦い想い出』は、出島さんも、奥さんもお元気で、朝子さんにも加わっていただいて、朝鮮での生活や出来事についてお聞きし、書き留めておいたものです。出島さんが始めて勤めた農場で巻き起こった小作争議を中心にしてまとめたものです。

内灘から脱出
 私は津幡農学校を卒業してから、内灘小学校で代用教員をやっておりました。そのときに、石川県会議員(当時)の竹野君や金沢火電と最も激しくたたかった清水先生を教えました。いま富山大学の学長になっている林さんも、当時私と一緒に教えていました。

 当時は二〇歳になるかならないかの若造だったが、内灘村を見ていて「ここはだめだ、自分がだめになる」と思って村を出ようと考えていました。このころは政府の朝鮮植民政策が推進されていて、さかんに「朝鮮へ行こう」と宣伝され、朝鮮に展望があるような気持ちをもっていました。

 それに私は農学校出身で、農業技術を仕事に生かせると思い、朝鮮で農業経営をしている「不二土地株式会社」に勤めることにしました。

 一九二七年、妻と一緒に行こうとしたのですが、家族に反対されました。「跡取り息子が朝鮮に定住されてはかなわない。一人で行かせれば、一年もすれば嫌になって戻ってくるだろう」ということで、単身朝鮮にわたりました。

 だが翌年六月、妻を迎えに行き、朝鮮に滞在すること二〇年、敗戦後内灘に戻ってきました。朝鮮での二〇年間、土地会社の管理人として、朝鮮人小作人の管理をしてきたのですが、このことは私にとって一体何だったのか問い返さねばならないと思うようになりました。有事立法だとか元号制復活が取り沙汰されているからこそなおさらそうです。

定租・検見・刈分
 まず最初の仕事に着いた所は平安北道・十川郡・府羅面にある不二農場でした。約四千町歩の大農場で、小作人は二〇〇〇人以上いました。ここで五年ほど働きました。最初の給料は四〇円で、安いと思いましたが、米、光熱費、暖房費は無料でしたし、朝鮮では肉も野菜も非常に安かったので、生活は思ったより楽でした。

 中国料理店にでかけて、三人で一鍋注文すると、お酒もついてきて二円ぐらいでした。これで腹一杯になったことを覚えています。

 私の仕事は小作地の管理でした。小作料の取り方には三種類あって、「定租」「検見」「刈分」です。「定租」とは地主と小作人が協議のうえ、すでに小作料の基準が決まっていて、豊凶にかかわりなく一定の俵数を地主に納めることになっています。

 「検見」は穂が頭を下げるころ、小作地を見極めて、「今年は、XX俵ぐらいお収穫があるから、その半分のYY俵を小作料とする」という具合に両者で田を見ながら刈り取りのまえに合意のもとで決められます。しかしこの「検見」は非常に高度な技術を要します。穂の具合は朝、昼、夕方でそれぞれ見栄えが違います。「検見」をきちんとやれなければ一人前の農場責任者にはなれません。私も六〜七年はこいつに一番苦労させられました。

 一九七八年九月に富山で催された「北陸住民運動交流会」に参加するために黄金色の砺波平野を横切る高速道を走りましたが、車上からでも一見して今年の作柄がわかります。

 刈り取り前の「検見」で農場側と小作人の意見がどうしても合わないときは、最後の方法として「刈分」を行ないます。朝鮮の小作は一戸当たりほぼ二町歩もあるので、一日で「刈分」をするためには、小作側は二〜三十人の人夫を雇わねばならず、この経費の負担は小作にとって非常に重く、小作泣かせとなります。

 早朝五時ころから作業をはじめ、刈り取り、脱穀まで終えて、一斗升で量って二つに分けて決着をつけます。農民の言い分が正しかったときは小作人にかかった余分の費用をみて、農場側の取り分を少なめにすることが習慣になっていました。

小作争議勃発
 一九二九年には米価が大暴落しまして、朝鮮の農民は大打撃を受け、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされました。私が朝鮮に渡ってまだ四〜五年しかたっていないころで、担当の小作地を中心に大きな小作争議が起きました。この府羅面の不二農場は四千町歩、二千人の小作、社員は日本人、朝鮮人あわせて百人ぐらいのそうとうに大きな農場でした。この農場の管理事務所のすぐ近くに農民組合の事務所があって、事務員が四〜五人働いていました。ここの親方はどこかの専門学校を卒業したインテリで、思想的に芯の強いものをもっていました。

 通例小作人は全収穫量のうち半分を小作代として農場に納めます。さらに肥料代、水税(用水代=農場が半分、小作が半分負担)を納めねばなりません。また小作人は貧困で耕牛を持てなかったので、春耕のときの耕牛の借り賃、また小作人はたいがい自分の食べる米さえないのが普通で、春ころになると米が底をつき、やむなく農場に満州粟を借りねばならないのです。これらの借金も含めて全部取り入れ時に米をお金に換算して差し引かれるのです。

 この年は米の大暴落によって米価が低く、肥料代、水税、その他を米価に換算して差し引くと、小作人には一粒の米も残らないというのが現実でした。

 当時、朝鮮では農民組合の指導のもとに、毎年春秋二度の小作争議をたたかっていました。春は「苗代を作らない」ことを武器にして「肥料代を半分にせよ」、「水税や耕牛の使用料を安くせよ」という要求をつきつけてきました。苗代の時期は限られており、これを外すとその年は米ができないことになり、農場にとってよりも小作人にとって大変なたたかいでした。

 秋は「刈り入れをしない」という戦術を使いました。ここは朝鮮でも北の方にあり、秋から冬になるのがすごく早い地方でした。だから雹(ひょう)の降る時期も比較的早く、収穫前にこれにやられると農作物は全滅してしまいます。この地方の雹は直径二〜三センチもあり、頭にあたると痛くてたまらない代物です。着ているものを頭にのせて防ぐのが精一杯でした。

 これが十分も二〇分も降ると、稲の茎が折れるだけではなくモミがバラバラに落ちてしまいます。落ち穂を拾うのはまだ出来ますが、落ちたモミはとても拾えません。ですから農民にとっても農場にとっても雹の降るまえに刈り取ることが必要なので、小作人が刈り取りを拒否するという戦術は極めて厳しくかつ有効なたたかいでした。

満を持しての決起
 この年の小作争議は私の受け持ちの小作地で突破口が開かれました。農民組合の指導によってたたかいの拠点として、農場管理事務所から最も遠くはなれた、最も不便な小作地を選んだのです。私の受け持ちの小作地は事務所から一里以上離れているのです。

 その日の前日から上司は私の担当地区で争議が起きそうだと察知しており「今日は出島のところでいさかいがありそうだから、一人では心配なので少し応援を出そう」といって五〜六人を加え、刈り取りの監督に向かいました。

 小作人等はもう二〜三百人も集まって刈り取りをしていました。午後一時頃には田の半分だけが刈り取られ、脱穀まで終ってしまいました。普通ならどんなに早くとも四時頃までかかる量なのに。しかし残りの半分は手もつけられていません。

 小作人は脱穀の終ったモミをさして「これだけを小作料として納める。今年は米価が暴落しているので肥料代、水税などを来年まわしにして欲しい。認めないなら残りは刈り取らない。どうせ刈り取っても、全部持っていかれるのだから」といってきます。

 農場側は「それはできない。残りを刈り取って肥料代、水税などを払え」と全く応じません。農民は「それでは明日から食うものがなくなる。こんなに米代が下がっては生活もできない」などと、口々に言い始めるが、上司はいっこうに聞き入れようとしません。

 そのうちに日本人の若いものが小作人にたいして罵声を浴びせ、手をかけたのをきっかけにして、現場は大乱闘になりました。私は「こりゃあ、まずい」と思って、その場をこっそり抜け出し、自転車に乗って管理事務所にかけつけました。そこにはすでに巡査が待機しており、すぐに現場へ向かいました。さらに駐在所にも連絡して、四〜五人の応援をお願いしました。

 私もすぐ後をおって駆け付けたのですが、さきに行った巡査はもう袋だたきにあい、縄でくくられていました。上司はと見れば、頭から血を流して倒れています。あとで知ったのですが、上司は一斗升を投げ付けられ、頭に当たって気を失ったということです。

農民の勝利
 ところが、あとから駆け付けてきた、二七〜八歳の前田巡査がピストルを抜いて発射しようとしたのです。前田巡査の近くにいた婦人が必至になってピストルの紐にぶらさがって発射を防ぐ。前田巡査は婦人を地面にたたきつけるように何回も何回も投げ付けたところ、婦人は口から泡を出して死んでしまいました。

 朝鮮の北部は十月にもなると、地面は氷のように固くなるのです。ここにいたって、農民は怒りを前田巡査に集中し、袋だたきにしました。私はどうしたらよいかわからず、ただおろおろしていました。

 社員の一人がスキをついて管理事務所からさらに一里ぐらいさきの龍岩浦警察署に駆け込んで応援を頼みました。ところがここには留守番が一人いるだけで、何かの用事で全員が本署に行っているということです。

 本署は平安北道・新義州市にあって、そこから農場までトラックでとばしてきても二時間はかかります。

 どれだけ待っていても音沙汰がありません。夕方になって、遠くからパンパンとはじけるような鉄砲の音がします。余所でも何か起こったのかとおもっていると、それがだんだんとこちらに近づいてきて、やがてトラックが見え、三〜四〇人の武装警官が威嚇射撃をしながらやって来たのです。

 三百人を越えるほど集まっていた農民は、すでに波がひいたように分散し、現場には誰一人残っていません。私達は警察に守られて管理事務所に戻り、ケガをした上司を病院に運び込みました。

 翌日争議の現場へ行ってみると、小作米はそのまま残されており、農民組合の統制の取れている様子と朝鮮人の凡帳面さ、真面目さに感心しました。その後の話しあいで「小作料以外は一年待つ」という結論で、小作人の勝利が確定しました。

 朝鮮人農婦を虐殺した前田巡査は農民から告訴され、裁判になりました。しかし日本人の「前田巡査がやったのか、誰がやったのかわからない」という証言が採用され、前田巡査は刑罰を免れました。私自身も、事実をはっきりと見ておりながら、曖昧な証言をして、前田巡査や私自身をかばうことに一生懸命でした。いま振り返ってみて、自分自身が惨めで、腹立たしくて仕方がありません。

 戦前の朝鮮支配はこのように、官民一体の差別、抑圧、収奪のうえに成り立っていたのです。

地上げによる土地強奪
 このように朝鮮人が明日食べるものがあるかどうかの瀬戸際に立たされているとき、私達一家はどのような暮しをしていたのか。妻はその頃をふりかえって「殿様のような生活だった。日本人に貧乏人がいるなんて考えられなかった。だいたい明日食べる米がないなどということは想像すら出来なかった。会社の倉庫には何年食べてもなくならないぐらいの米がドッサリあったから。それに日本人で女中を使っていない家は一件もありませんでした。当初女中を使わずに暮そうとしたら、みんなに笑われたくらいです」と言っているようなものでした。当時わが家では女中三人、作男一人を雇っていまして、四人の給料として二〇円弱を支出していました。

 私が勤めた不二土地株式会社のような土地会社は朝鮮全土にずいぶんありました。平安北道にいたころ、近くに前田農場というのがあり、加賀の殿様が関係する農場かと聞いてみたら、そうではなく尾張出身のひとが経営していました。九州の細川男爵が経営する農場や石川県農場株式会社というものもありました。これは県営ではなく、金沢十間町の中島徳太郎氏が石川県内の財閥に呼びかけて資金を集め、朝鮮の土地を買い集め農場経営に乗り出していたのです。そこの農業技術者は石川県人だけで、八〜九人はいたはずです。

 どうしてこんなに朝鮮の土地が日本人の手に渡ったのでしょうか。「韓国併合」の後、日本政府は朝鮮全土の土地を調査して地番の確定作業をおこないました。これは朝鮮人から土地を取り上げる策略だったのです。

 日本から大量に送り込まれた測量士にはきちんと経験のあるひとがいなくて、朝鮮へ来る直前に十日間ほど講習を受けた、にわかづくりのものでした。こんないいかげんな「測量士」にまともな測量ができるでしょうか。地番なんてメチャクチャなものでした。私が菅理していた農場でも台帳には八百坪となっているのに、実際に歩いてみると三千坪は下らないところがありました。

朝鮮人民に「天皇制」強要
 朝鮮では村のことを面と呼びます。しかし私の二番目の勤務地は全羅南道・全州郡・東山村といい、この通例を破っています。なぜ「村」となっているのか。かって三井か三菱の財閥がここに農場を経営していて、その主人の画号が「東山」だったことからここを「東山村」と名づけたそうです。

 このことは朝鮮人の名前を日本名に強制したこととあわせて、日本人がいかに朝鮮の文化や歴史を無視し、ねじ曲げてきたかを示しております。また朝鮮支配に神社が一役も二役もかっていました。

 日本とは歴史も風土も宗教も異なっている朝鮮人に国家神道を強制しようと、朝鮮各地に神社や嗣(ほこら)を次々と建てていました。私が敗戦を迎えた忠清南道・論山郡・江景邑にも小さな祠があり、これは十月に日本へひきあげるまでに朝鮮人自身の手で燃やされました.当然だと思います。

 一九四三年から江景邑に住んでいたのですが、近くに手取川ほどの錦江が流れており、これをさかのぼると扶余という町がありました。ここは王仁博士の千字文で非常に有名なところですが、天皇政府はここに扶余神社(王仁神社)を造ろうと計画し、そのためにわざわざ台湾から巨木を取り寄せて、錦江の岸に積み上げられていました。また扶余神社を造るためにのみ、江景邑に製材所を作るという熱の入れようでした。

 これは完成しないうちに敗戦を迎え、その後どうなったかわかりません。当時軍部や学校が中心になって「皇国臣民の誓い」を朝鮮人に暗唱させ、天皇への忠誠を強制していました。朝鮮人にとっては何のことかさっぱりわからないことを暗唱させられ、出来なければ厳しい体罰が加えられました。皇軍の支配下では自国の国旗さえ持てず、「日の丸」が押し付けられていました。八・一五解放の日には、この忌まわしい「日の丸」に少し手を加えて太極旗とし、街頭にとびだし朝鮮独立運動を巻き起しました。

朝鮮再侵略を許すな
 一九一九年に朝鮮全土で「三・一独立万歳運動」が巻き起こったのも朝鮮人の独立への執念からであり、最近の青年・学生のたたかいに引き継がれています。

 「三・一万歳運動」は、私が尋常六年のときに起こったと記憶しています。その頃内灘で新聞を取っている家といえば、お寺、お宮、役場ぐらいのもので、一般の家にはありませんでした。私の同級生で木村君の家は小作米を百石ほど取る大農でした。この家でも新聞を取っていまして、木村君が学校に来て「朝鮮人が万歳万歳といって、大騒ぎしとるんといや」といっていたのを覚えています。

 朝鮮にいたとき小作人のなかに足を引きずって歩くおじいさんがいたので「あんた、なんで足を悪くしたんや」と聞いても、本人はなにも言わずにただ笑っているだけでした。その数年後に、近所の朝鮮人から「あのおじいさんは猛烈に『三・一独立運動』をやって、日本の兵隊に大腿を銃剣で刺された」と聞きました。全く武器を持たずに立ち上がった朝鮮人にたいして日本兵は随分むごい弾圧をしたとも聞きました。そのためなんでしょう、大ケガをしたおじいさんはいつでも私達日本人を敬遠していました。私は二〇年間朝鮮にいたのですが、ついに朝鮮人と心からうちとけた話はできませんでした。やっぱり支配する民族と支配され差別されてきた民族の間では、この関係をそのままにしておいて、個人的にうちとけることなど出来るものではありません。

 私が最も恥ずかしいと思っていることは、江景邑にいたときに朝鮮人の徴用に直接協力したことです。江景邑の南町には日本人がたくさん住んでいて、私はその町会長をしていました。月に二回づつ町会長会議があり、そこで町内の配給や上からのいろんな指示が出されました。あるとき道庁から江景邑に、そして南町の町会長である私に「朝鮮人五名を徴用せよ」との指示が来ました。私は事務員と相談して五人の徴用を決定しました。

 敗戟後、すぐにそのうちの一人が帰ってきて「なんであんなところへやったんか」と家に暴れこんできました。私はこわくて、こわくて、日本に引き揚げるまで、隠れるようにしていました。

 最近、朴慶植さんの「朝鮮人強制連行の記録」を読んで、二〇年もの間自分がやって来たことをようやく自覚することができました。

 戦前にこのような生き方をしてきた私は、戦後朝鮮侵略のための米軍試射場反対闘争に全生活をかけ、金沢火電、七尾火電、能登原発反対、さらに三里塚、北富士、関西新空港のたたかいに加えていただき、何とか自分の誇りを取り戻そうとしてまいりました。

 今福田首相や中曽根が「有事立法を」と声だかに叫んでいます。だからこそ私は朝鮮侵略の苦い経験を二度と繰り返してはならないと心から思っています。

2019年シタベニハゴロモ調査最終報告

$
0
0
2019年シタベニハゴロモ調査最終報告

 昨年(2018年)春、金沢市M1丁目でシタベニハゴロモの幼虫を発見し、その後7月下旬からニワウルシ(シンジュ)に多数の成虫を見つけた。

 8月直前から11月上旬まで、散歩がてらに、ハエ叩きを持って、毎日、朝夕2回巡回し、成虫を駆除し続けた。ハエ叩きが届く高さ2.5メートルより下に止まっている約1000匹とアパートの壁面などに産みつけられた卵塊多数を駆除した。

2019年観察記録
 今年も、6月上旬にシタベニハゴロモの幼虫を発見し、7月31日に最初の成虫を発見した。毎日巡回して、ハエ叩きの届く限りの成虫を駆除し続け、11月10日に終了した。

 両年の1週間ごとの駆除集計結果と3日ごとの集計グラフを見ると、今年の発生は昨年に比べて1ヶ月ほど後ろにずれているようだ。

 

 昨年はかなり駆除したつもりでいたが、今年は昨年の約1.8倍、11月10日現在で1823匹を駆除した。

 ハエ叩きの届かない2.5メートル以上にいるシタベニハゴロモは無事カップリングして、卵を産み付けているだろうから、来年は今年以上に発生するだろう。

 11月に入って、ニワウルシ(シンジュ)の近くに建つアパートの壁面をチェックすると、昨年を上廻る卵塊が産みつけられていた。



 蜂が攻撃したり、カマキリが捉えていたり、クモの巣に架かっているのを見たが、体重があるので、少しバタバタすると脱出しているようで、小さな昆虫では捕食は難しいようだ。鳥たちが捕食しているのだろうか。

 10月1日付けの商業新聞には、内灘でもシタベニハゴロモが発見されたと報道され、生息地域が拡大しているようだ。来年は、今年以上に発生するのだろう。昆虫の繁殖力に完敗だ!

 

20191119 韓日軍事情報保護協定(GSOMIA)について

$
0
0
韓日軍事情報保護協定(GSOMIA)について

 2012年7月上旬、韓国を訪問したとき、友人とお酒を飲みながら、話題になったことは、「日韓軍事情報保護協定(GSOMIA)」のことでした。学生運動の経験者で、比較的左派的な人ですが、彼は「中国との軍事バランス上やむを得ない選択」として、この協定を支持していました。

 韓国で、韓日軍事情報保護協定に反対する人々の多くは「従北派」と呼ばれ、当時の韓国社会では少数派であり、その主張は韓国人民に受け入れられていませんでした。それでも、大多数の韓国人は過去の侵略と植民地支配について、謝罪も補償もしない日本との間で軍事協定を結ぶことに警戒心をもち、それが、与党セヌリ党をも突き動かし、「協定調印式」(6・29)が延期されました。

 2012年7月4日、韓国で「韓日情報保護協定の破棄を求める共同声明」が出されました。日本では、この協定への関心が非常に低調で、インターネットでチェックしてみましたが、右からの、「ドタキャン」程度のレベルの低い「批判・非難」はたくさん見られるのですが、反対の立場からはほとんど話題になっていませんでした。しかし、韓国人民のたたかいで、かろうじてこの軍事協定の手続が中断していました。
 しかし、安倍政権下の2016年に交渉が再開され、同年11月23日に署名式を非公開でおこない、即日発効しました。

背景
 日韓軍事情報保護協定の署名直前状況に至る過程を調べると、2005年から「米韓安保政策構想会議」が始まっていますが、盧武鉉政権下では、この会議は中断していましたが、2008年に李明博政権が成立してから、「米日韓次官補級国防会談」が始まり、そこでは米軍の「作戦計画5029」(北朝鮮平壌制圧作戦)を下敷きにして、米日韓三国軍事体制が議論されていました。

 2011年、民主党・菅政権は北沢防衛大臣を韓国に送り、「物品役務相互提供協定(ACSA)」と「軍事情報保護協定(GSOMIA)」について協議を始め、その前年には「邦人救出のために自衛隊を韓国に派遣する」とさえ言っていました。

 このように、日本は中国・北朝鮮情勢を口実に、自衛隊を朝鮮半島に派遣する体制を作ろうとしてきました。韓国で発表された「2012年7・4共同声明」では、「アメリカ主導のMD(ミサイル防衛)体制構築と自衛隊の韓半島出兵に道を開く」「情報主権を侵害し、国民の知る権利を制限する」として、韓日軍事情報保護協定の即時破棄を求めています。

 日帝・安倍は韓国に対してGSOMIA(日韓軍事情報保護協定)の延長を要求していますが、GSOMIAは米軍の平壌制圧作戦【作戦計画5029】のために、朴槿恵と安倍の間で結ばれた軍事同盟であり、民族統一を願う韓国人民の意志とは相容れない協定です。

 私たちこそが、日本でこそ、「朝鮮再侵略反対」を掲げ、「日韓軍事情報保護協定を破棄せよ」と大きな声をあげねばなりません。

20191124 林毅強の漢詩について

$
0
0
林毅強の漢詩について

2014年12月、「聯合ニュース」は尹奉吉が逮捕され、処刑されるまでの間に、尹奉吉のたたかいを讃え、来たるべき処刑を悲しむ、中国軍の参謀本部高級参謀林毅強の漢詩が発見されたと報じた。

漢詩原本はインターネット上にあり、

日本語に翻訳してみた。素人の飜訳であり、不正確であることを前提にして、読んでいただきたい。上海爆弾事件が中国人民に与えた影響の大きさをうかがい知ることができる。

<原本>
軍事雑誌 第四十六期 論説  二七
韓志士尹奉吉伝略(記者)
上海炸弾案一鳴驚人之尹奉吉氏、生於朝鮮忠清南道禮山、家世以農為業。
上有白髪如雪的老父母、下有妻及子女各一人。
曾在日人所辨的工業学校修業、後来以為国家巳亡、振興工業、巳非其時、中途退学。
民国十五年秋、忽然来華、旋赴東北、連絡韓国革命党、進行救国工作。
去年曾目賭日軍佔領東北、嗣亡命上海、又見日軍侵佔淞滬、乃決作虹口炸弾案。
尹善於漢詩、去秋會作一首示某君、有句云。
「淋漓茹飲漢城月、慷慨悲歌滬市秋。」
参謀本部高級参謀林毅強先生預輓尹奉吉烈士一聯云。
 霹靂起春申 一弾未鎖国亡恨 精忠報箕子 千秋争説死人香

<日本語訳>
軍事雑誌 第四六期 論説
朝鮮の尹奉吉義士略伝(記者)
上海で一発の爆弾を投げて人々を驚かしたのは尹奉吉氏で、朝鮮忠清南道に生まれ、家は代々農家だった。
白髪の老いた父母があり、妻とふたりの子どもがいる。
日本の工業学校(植民地教育)で勉強していたが、その後、国はなくなり、工業(農業)を興すために中途退学した。
民国15年(実際は1930年)秋に、突然中国・東北地方に赴き、韓国革命党に連絡し、救国のたたかいを始めた。
昨年(1931年)、日本軍が東北地方(満州)を占領したので、上海に亡命し、日本軍が侵略占領する淞滬(上海)の虹口公園で爆弾を投擲した。
尹奉吉は、昨秋一首の漢詩を詠み、ある人に与えた。
「淋漓茹飲漢城月、慷慨悲歌滬市秋。」
【漢城(ソウル)の月を思いながら、ふらふらになるまで酒を飲み、上海の秋に、憤り嘆きながら、悲壮な詩を歌う】
参謀本部高級参謀林毅強先生があらかじめ尹奉吉烈士の死を悼んで一聯の句を詠んだ。
霹靂起春申 一弾未鎖国亡恨 精忠報箕子 千秋争説死人香 
【雷が眠っている春を起こす 爆弾一つが亡国の恨みを開いた 精誠と忠誠を箕子朝鮮の至る所に知らせるために 亡くなった人(尹奉吉)の香り(偉業)が長く記憶されるだろう】

20191201 金沢市のガス・発電事業を株式会社に譲渡するな

$
0
0
金沢市のガス・発電事業を株式会社に譲渡するな

 先日、金沢市のガス・発電事業譲渡に関するパブリックコメントの用紙が送られてきました。私は、金沢市のガス事業・発電事業を株式会社に譲渡することには反対します。

 株式会社は利潤を追求する団体であり、利用者の利益は後回しにされます。戦後、多くの公共事業が株式会社化され、公共的責任が切り捨てられてきました。株式会社の責任は会社存続の限度内であり、それ以上の責任を負わないシステムになっています。マルチ商法を展開して、老後資金を詐取したジャパンライフは「倒産」して、被害者を置き去りにしました。

 ガス事業は危険な「ガス」を扱う事業であり、安全を重視した経営が必要です。株式会社経営では、災害時に最もその弱点をあらわにします。たとえば、東京電力福島原発事故がそのよい例です。金儲けになるなら、どんなに危険な施設でもよいとして、原子力発電所を作り、大津波が想定されても、金がかかると言って備えをせず、一旦重大事故が起きると、私企業の故に被害者の救済は十分には出来ず、被害者は泣き寝入りさせられています。私企業では対応できないので、結局は政府や自治体に救済を依存するしかないのです。

 説明文書に、「(株式会社に譲渡すれば)自由な料金で販売することが可能」と書かれており、あたかも料金が安くなるかのように書いていますが、それではこれまでの企業局の料金設定は割高だったのでしょうか。また、株式会社に譲渡したら、必ず料金が安くなるのでしょうか。郵便局が民営化された後、郵便料金がどんどん高くなっているではありませんか(今年の4月、郵便振替料金が80円から150円に値上げ<88%アップ>)。

 利益を確保したうえで、料金を安くするときには、どこかを削らねばならず、結局は職員数と安全・保守分野を削るしかないのでしょう。しかも、譲渡先の株式会社が安全面での手抜きを補うために金沢市が「譲渡先へ出資する」と書いてあり、金沢市自身も、譲渡先株式会社が職員数、安全・保守分野を削減するだろうと予測しているではありませんか。

 最近では、福祉事業を株式会社が経営することによって、本来の福祉が切り捨てられています。儲け優先で、雇用人員を最低限にして、職員は年休も取れず、過重労働のため、利用者へのサービスが低劣化しています。福祉を金儲けの手段にすれば、効率化が要求され、「高齢者が無駄に生きている」という考え(優生思想)と結びつき、やまゆり園事件のような悲惨な事件が発生してくるのです。

 安全をないがしろにして、料金が安くなっても、その結果危険が増大するなら、それはよい選択とは言えないのではないでしょうか。しかも、この説明書を読むと、株式会社への譲渡のメリットばかりが書かれており、市民にたいする適正な文書とは言えません。

20191203『統一への道にたたずんで』を読む

$
0
0
『統一への道にたたずんで ある朝鮮人社会主義者の回想』
高性華著(2005年)/李宗樹訳(2019年) 

目次
第一章 植民地の子
 幼い日の記憶/麦飯に醤油/啓蒙運動がはじまる/新星少年団責任者 金基範と出会う

第二章 愛国者として起つ
 日本へ渡る/反帝同盟の組織員になる/異国の地での逃避生活/帰郷/清津に行く/カン・チョル先生の死/南三郡に関する知らせ/二度目の帰郷 新祖国建設のために/血で染められた三・一記念行事/釜山へ脱出する

第三章 職業革命家の道
 釜山市党 四地区党で活動する/職業革命家というもの/影島の有名な接触場所―化学ロータリーと二度目の試練/七・二七人民大会の成功のために/一九四八年二・七救国戦争/釜山での四度目の試練/第一地区党の責任者に/麗順 軍蜂起支持闘争と逮捕の危機/市党責任秘書として召喚される/検挙

第四葦 激動の歳月
 釜山刑務所 未決囚獄房生活/三坪の獄房、四〇人の愛国者―釜山刑務所 既決囚 獄房生活/金海大渚面の農場へ行く/日本へ/母の悲報/党に召喚される/七・四南北共同声明と一〇月維新/牛島事件

第五章 信念を貫く
 ソウル拘置所での生活/〇・七五坪、大田刑務所で/生と死の間で―ピストルと転向工作/やむことのない転向工作の前で/コ・ピョンテクと出会う/バク・スンチョルという若者/合房/ピョン・ヨンフン教務課長/黄金よりも尊い同志愛-死の淵から救い出してくれた同志たちの闘争/病舎へ移る/一九八七年六月抗争と良心囚たちの戦い/鉄格子の中の良心たち/無知の所産、転向工作/民主化実践家族運動協議会と良心囚後援会/大田からの最初の出所/予想もしなかった出所

第六章 新たな世の光と済州で会った賢者たち
 チェジュド/済州島の若い良心たちに会う/民主主義民族統一済州連合の歓迎会/世界最長期囚の釈放/帰郷の途について/居を移す

結びにかえて
 二〇〇五年、六・一五を迎えて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  

本書の概略(訳者あとがきを参考に)
 1916年、韓国済州島の隣にある小さな島、牛島(ウド)で生まれた著者は早くに父親と死別し、祖母のもとで幼少時代を過ごした。著者は植民地支配下の悲惨な日々を送りながら、抗日愛国、社会進歩に目を向ける先覚者たちから影響を受ける。

 「世の中には二つの階層があり、人々はそのどちらかに属しているが、それは何か?」という先生の問いかけに、「金持ちと貧乏人です」と答えるなど、普通学校(中学校)を卒業するころには民族解放と階級意識に目覚めた。

 向学心が強く、渡日すると大阪の浪華商業高校(現・浪商高校)に入学、3年生(1934年、18歳ごろ)には「反帝同盟」に加わり、社会運動にたずさわり、『共産主義ABC』(ブハーリン)などの社会科学系の書籍を読んだ。

 しかし日本国内で警察から追われる身となり、卒業を断念し、5年生の時(20歳)に帰国する。1936年(20歳)から、牛島で教員をしたが、日本の歴史を教えることが苦痛になり、2年後(1937年)、朝鮮半島北東部の清津(チョンジン)で自動車会社の経理職員として働いていたが、そこで白頭山の抗日遊撃隊のことを知った。1944年朝鮮南部の順天で仕事を得て、日本の敗戦と祖国光復(日帝植民地からの解放)を迎えた。

 1945年(29歳)、故郷である牛島に戻り、朝鮮労働党に入党し、牛島責任秘書として活動していたが、アメリカ軍政の人民虐殺や西北青年団の襲撃などを受け、釜山に逃れ、南朝鮮労働党釜山市党の幹部として活動を継続した。著者はくりかえし検挙されそうになるが、かろうじて難を逃れ、たたかい続ける。

 釜山で活動中の1949年(33歳)、国家保安法違反などの容疑で検挙され釜山刑務所で服役。服役中の生活や他の囚人、看守とのやり取りなどが克明に記録されている。2年間の服役生活を終え出所するも、故郷である済州島では「逃避者」、釜山では「前科者」というレッテルを張られ、正常な社会生活が送れず、1953年(37歳)、活動場所を日本に移す。

 1959年(43歳)母の死を機に、帰郷した。1961年民主党政権が樹立されたが、5月16日に朴正煕がクーデターを起こし、軍事政権が成立した。済州警察の刑事が来て家宅捜索し、そのまま連行され、20日間拘留(拷問)され、肝臓を患った。

 1973年(57歳)、済州警察に連行され、一旦釈放されたが、3月31日にソウル拘置所に収監された。1974年4月、国家保安法違反容疑で無期刑を宣告された。それから釈放されるまでの20年間の苦節、収監者にたいする刑務内での処遇、特に非転向者にたいしての転向強要など、一般社会では想像できない様子を伝えている。

 1993年(77歳)に、著者は非転向を貫いて釈放を勝ちとった。著者は金麗水の「竹として折れようとも/柳として曲がることなかれ/一日の生たりとて/願わくは潔き営みを」という詩を心に刻みながら、獄中死を覚悟していたのである。

 本書は2005年(89歳)に出版され、著者は2013年7月に、97歳で永眠した。2019年7月に日本語訳が出版され、ようやくわたしたちに読まれるようになった。みなさんの一読をお勧めする。

感想メモ
・日帝植民地支配下の苛酷な弾圧。
・米占領軍と親日派による支配・弾圧。
・日帝が残した親日派―戦後日本の責任。
・朴正煕軍事独裁(治安体制)下の革命運動の苛酷さ。
・朴正煕独裁政権下の拷問・転向政策—3坪の部屋に40人収監(1950年)―3・1弾圧時の留置場と同じ状況。
・徐勝さん、徐宗植さんのこと。
・2005年出版—不二越訴訟関係でくり返し訪韓していた時期だが‥‥、
・出島権二さんが働いていた不二農場のことがでてくる。

20191122 『上海会戦記』閲覧

$
0
0
1932年『上海会戦記』閲覧

 2019年11月22日、陸上自衛隊金沢駐屯地を訪問して、『上海会戦記』を閲覧した。1932年の上海事変に関する第九師団の記録なので、もしかしたら4月29日の上海爆弾事件に関する情報も含まれているのではないかと期待して訪問したが、豈図らんや、その記録は1932年2月2日から3月9日までのものであった。

 尹奉吉については書かれていなかったが、上海事変に関する一次資料なので、一応、綴りの資料目次について記録した。興味のある方は、金沢駐屯地に閲覧申請をすればよい。

 蛇足だが、この資料は、NHKにはコピー・撮影を許したが、肩書きのない私には、コピーも写真撮影も許可しなかった。まあ、島田清次郎の直筆原稿閲覧も、石川近代文学館は同様の扱いであり、過去資料は一部の特権階層のためのものなのだろうと、あらためて感じた。

『上海会戦記』
上海付近第九師団戦記 S×年5月 騎兵中隊複写
第九師団戦記
動員―出征(2月2日)/乗船―航海(2月8日)/上海到着 上陸(2月14日)/上海付近の状況/最後通告(2月18日)/行動開始/
戦場の地形及敵陣地/第1次攻撃/師団の重点移動/第2次攻撃(22日)/第3次攻撃(26日)/追撃戦(3月1日)/会戦の結末(3月9日)/結言
付録 空閑少佐自刃するまで
~~~~~~~~~~~~~~~~~
第九師団作戦経過の概要(秘) S.7年3月30日写 騎兵第1中隊
~~~~~~~~~~~~~~~~~
上海付近に於ける会戦 騎兵中隊戦闘詳報(第1号)
自S.7年2月19日 至同年3月5日
~~~~~~~~~~~~~~~~~
14師情報特第6号(戦時参考資料) 十九路軍の内情(俘虜訊問記録 S.7.4.9)
第14師団参謀部
~~~~~~~~~~~~~~~~~
(教育参考綴) S.5.6.21 
市街戦及哨戒勤務の基礎的教育の参考 其の一 天津駐屯地歩兵隊
~~~~~~~~~~~~~~~~~
対支那軍戦法研究 其三 S.4.12 武装解除に就て 天津駐屯地歩兵隊
~~~~~~~~~~~~~~~~~
第十九路軍の兵器の種類性能 S.7.4調 野戦兵器敞
~~~~~~~~~~~~~~~~~
S.7年4月号 上海事件
93P~102P 上海付近の戦闘 陸軍省調査班
111P~ 噫 吾 軍人精神の精華 歩兵大佐 沼田徳重
115P~ 爆弾三勇士の平時の行状 (S.7.4)
119P~ 義の讃美
~~~~~~~~~~~~~~~~~
昭和6,7年に於ける 支那排日広告文集 学生抗日会排日文
~~~~~~~~~~~~~~~~~
S.6.4.1 謄写 廟港付近の戦闘 (爆弾三勇士) 上海派遣軍司令部
~~~~~~~~~~~~~~~~~

19980115「尹奉吉義士と不二越強制連行訴訟」

$
0
0
87年目の尹奉吉義士の命日が近づいてきた。
20年前に、尹奉吉義士について書いた一文であるが、
「尹奉吉追悼の視点」だけでも、読んでいただけたら幸いである。


「尹奉吉義士と不二越強制連行訴訟」

通路に暗葬された尹奉吉
 尹奉吉暗葬の地を一緒に歩いた時、Aはボソツとつぶやいた。
「こんなところに眠っていたの」
さらに当惑した様子で、
「私、この道は何度も通ったわ」
 鬱蒼とした森のなかにあるA家の墓地から、左手を見上げると、深緑色の木々の間から、どんよりとした空が広がっている。軍人墓地管理棟の屋根が、その鉛色の空を切り裂くように、鋭角的にせり出している。この建物に向かって、上り坂の、小道を十メートルもあがっていくと、まだ背丈ほども伸びていない、もちの木とむくげに囲まれた暗葬の地がある。
 Aは小さい頃から、よく父母に連れられてお墓参りに来ていた。そこは、お墓に供える仏花のために、桶に水をいっぱいいれて、落ち葉ですべりそうな足もとを気にしながら降りていく、歩き慣れた小道であった。
 そこは、明らかに墓地ではなかった。石川県戦没者墓苑から金沢市営の一般墓地につながる、すこし落差がある坂道であった。当時の発掘作業を写し出す、写真の背景に、うっすらと雪化粧した小道に、歩き易いようにと切り込みを入れた様子がくっきりと写っている。その坂道の中程に尹奉吉の遺休が、十三年間も埋め捨てられていたのである。

尹奉吉は違法に埋葬された
 どうして、このようなむごい埋葬がおこなわれたのだろうか。今日では、「墓地、埋葬に関する法律」があり、決して許されないことが、戦前なら許されたのだろうか。
 戦前の埋葬に関する法規には、明治十七年に発布された太政官布達二五号「墓地及埋葬取締規則」と、翌年発布された内務省達乙四〇号「同規則施行方」がある。尹奉吉を処刑した後、埋葬が、これらの法規に達反しておこなわれたのかどうかについて見ていきたい。
 「規則、第三条」には、「死休は死後二四時間を経過するに非ざれば、埋葬又は火葬をなすことを得ず」と明記されている。尹奉吉は午前七時二七分に処刑され、四〇分に死亡が確認され、そして十時三〇分には埋葬が完了している。わずか三時間しか経っておらず、遺体にはまだぬくもりが残っていたであろう。
 例外として、「伝染病の死体はこの限にあらず」と規定されているが、尹奉吉はもちろんこの例外規定は適用されない。
 次に、埋葬場所については、「規則第一条 墓地及火葬場は管轄庁より許可したる区域に限る」、「同規則施行方 第三条死刑に処せられたる者は、墓地の一隅を区画して、其内に埋葬するものとす」と規定されている。【当時の野田山墓地には「刑務所墓地」の区画があった=本文写真参照】
 墓苑のなかならどこでも良いというわけではない。あくまでも「許可したる区域」に限っているのである。すなわち、通路を「許可したる区域」「墓地」ということはできない。尹奉吉は墓地以外のところに埋め捨てられたのであり、刑法が規定する「死体遺棄罪」にも相当する犯罪なのである。
 さらに、「規則第四条 区長若くは戸長の認可証を得るに非ざれば埋葬又は火葬をなすことを得ず」と書かれている。「同規則施行方」には、第二条「囚徒の死屍を引取り、埋葬又は火葬せんと欲するものは、獄医の死亡証書写しに司獄官の検印を乞ひて差出すべし」と、十二条には「区戸長は前条の届書証書を領収するにあらざれば、埋火葬の認許証を与ふべからず」と念を押して、埋葬地の行政の長の許可が必要であることを規定している。
 すなわち、尹奉吉を野田山墓地に埋葬する前に、金沢市役所(もしくは内川村役場)に許可を取ることが義務づけられているにもかかわらず、陸軍は一切の手続きを無視して、埋葬を強行したのである。しかも、尹奉吉をどこに埋葬したのかについても、ついに報告しなかったのである。

「非合法」手段としての暗葬の選択
 陸軍は、裁判から処刑するところまでは、それなりに「合法性」を追求しながら、処刑後の埋葬の段階では、一転して、「非合法」の暗葬の形式を選択した。処刑から埋葬まで、三時間たらずで、すべての行動を終了し、その三〇分後の十一時には記者会見をおこなっている。
 何という手際の良さだろう。尹奉吉が大阪に拘置されていた一カ月間をかけて、陸軍は処刑地や埋葬地の選択、埋葬の方法や手順を検討し、十八日の金沢移送から、十九日記者会見までを、ひとつの軍事作戦として、綿密な計画を立て、実行に移したと考えるのが自然である。まさに、尹奉吉を処刑し、遺休を闇に葬り、そして朝鮮人排外主義をキャンペーンするための計画的な国家犯罪が立案されたのである。
 それでは何故、暗葬でなければならなかったのか。日帝は満州事変、上海事変を引き起こし、国際的非難の真っ只中の四月二九日、上海天長即祝賀行事を爆砕する赤色テロルが尹奉吉によってたたきつけられたのである。そして尹奉吉は拷問と死刑攻撃にもかかわらず、非転向でたたかいいぬいており、この尹奉吉のたたかいが日本の労働者人民、とりわけ在日朝鮮人労働者をどれほど激励したかは計り知れない。
 陸軍中央はまさに、尹奉吉の処刑が労働者人民のたたかいの炎に油を注ぐことになるのではないかと恐怖し、戦慄していたのである。したがって、尹奉吉処刑の公表は朝鮮人排外主義を煽るためにこそおこなわれても、労働者人民のたたかいと結合させてはならなかったのである。陸軍があえて、暗葬という非合法的な方法を選択しなければならなかったのはこのためである。

闘う石川自由労働組合
 尹奉吉が処刑された一九三二年とはどのような年だったのか。一九二八、九年の二度の弾圧で、日本共産党は壊滅的状態に陥っていたが、労働運動の背骨はいまだ折られてはおらず、労働争議、小作争議は全国で頻繁に起きていた。一九三二年の労働組合数は九三二、組合員数は三八万人弱、組織率は約八%、争議件数は二〇〇〇件を越え、そのうちストライキなどが約九〇〇件も起きている。これらの労働組合の力は一九三九年まで継続され、四〇年に産業報国会が組織されるまで労働者はたたかい続けたのである。
 一九三二年の石川県内の労働運動を見ると、十五労組、二〇〇〇人を組織し、組織率は三・五%で、三〇年代のピークに達している。そしてその最先頭で李心喆、李守燮ら多数の在日朝鮮人活動家がたたかっていたのである。
 石川県内の労働運動はロシア革命の翌年、一九一八年頃から胎動を開始している。『石川県特高警察資料』によれば、「大正七年九月、鉄道金沢工場職工を主とする友愛会金沢支部」を結成した。「共産主義者の介在するありて、漸時運動激化するに至り、大正十四年石川合同労組を結成」したが、一九二八年、結社禁止となり、解散させられた。翌二九年金沢市末町の水道工事で、朝鮮人二人、日本人一人が死亡する、大規模な労災死亡事故が起こり、争議に発展した。
 この争議に勝利し、翌一九三〇年四月、犀川工事場の朝鮮人労働者二五〇人を中心にして、若干の日本人労働者も加わって、石川自由労働組合を結成した。「植民地の即時解放」「帝国主義戦争絶対反対」「日鮮労働者団結せよ」のスローガンが掲げられ、迫り来る侵略戦争にたいするたたかいを呼びかけた。結成大会後のデモでは二〇数人が逮捕されたが、三〇〇人の戦闘的な隊列は八キロ先の犀川村までそのままデモ行進を続けた。
 石川県のメーデーは、一九二九年から組織的に取り組まれた。第一回メーデーは、三〇〇人、翌三〇年は石川自由労働組合が動員をかけて六〇〇人の大メーデーとなった。第三回メーデーは五〇〇人、一九三二年の第四回メーデーは自由労働組合と全協の非合法メーデーとなり、激しい弾圧のなかで、朝鮮人労働者四〇人、日本人労働者十人の結集で勝ち取られたのである。まさに、石川県下の労働運動は朝鮮人労働者によって担われていたといっても過言ではないのである。
 そして三二年十二月、再び七輪線工事(七尾線の中島・穴水間)をめぐって朝鮮人労働者のたたかいが展開されている真っただ中で、尹奉吉が金沢三小牛山で処刑され、野田山に暗葬されたのである。
 尹奉吉は「平穏無風の金沢」だから、金沢で処刑されたのではない。むしろ、全国的にも突出している石川県の朝鮮人労働者のたたかいを解体するために、尹奉吉を金沢で処刑し、新聞を使って、在日朝鮮人にたいする排外主義キャンペーンを張ったと考えるべきなのではないだろうか。石川県には、「わが国民の思想を悪化せしめ、且我会員労働者の幸福を阻害する自由労働組合」と批判する在日朝鮮人の右翼的組織「共栄会(協和会)」があり、尹奉吉のたたかいにたいして、「故国を追われてきた人たちは、内心では『良くやった』と声援を送っていた」ものの、共栄会(協和会)幹部は箝口令を出し、「遺体返還運動」を抑えていたと思われる。
 このように、尹奉吉処刑を排外主義的に利用し、朝鮮人労働者と日本人労働者の間に分断のくさびを打ち、その上で翌一九三三年に強行された「5・23大弾圧」で、石川県内の全協=戦闘的労働運動は壊滅させられたのである。

尹奉吉の戦いと「三二年テーゼ」
 生命を賭けて、日帝軍隊に赤色テロルをたたきつけ、処刑された尹奉吉の叫びを、当時の共産主義者や労働運動活動家はどのように受け止めていたのだろうか。一九七〇年代に、戦前の活動家が中心になって編集した『昭和前期の石川県における労働運動』『昭和七・八年 石川県特高警察資料』には、尹奉吉の戦いと処刑については、巻末の年表以外一行もふれられていない。
 なぜなのだろうか「三二年テーゼ」による路線転換と深い関係があるのではないだろうか。二九年恐慌に始まる三〇年代は、国内では合理化と首切りが労働者を襲い、外に向かっては市場争奪のために中国侵略へと駆り立てられた時代である。三一年の柳条湖事件を突破口とする日帝の中国侵略戦争にたいして、上海虹口公園での尹奉吉の戦いは中国侵略戦争阻止、日帝打倒の烽火となった。
 まさに日本の労働者人民は、尹奉吉の戦いを受け止め、「侵略を内乱へ、日帝打倒」のたたかいに立ち上がらねばならなかったのである。すでに日本共産党満州地方事務局は柳条湖事件直後の九月二一日に、「銃を真の敵、自国ブルジョアジーに差し向けよ!」「帝国主義強盗戦争を打ち倒せ! 日本帝国主義を打ち倒せ!」「中日鮮労働者団結万歳!」と労働者人民に反戦闘争を提起している。
 しかし、日本共産党が打ち出した「三二年テーゼ」では「当面する革命の性質は社会主義革命への強行的転化の傾向を持つブルジョア民主主義革命」と規定し、「当面の段階における主要任務は①天皇制の転覆、②寄生的土地所有の廃止、③七時間労働制の実現…労働者農民兵士ソビエトによる統制の実施」であると規定した。
 日本帝国主義・関東軍が柳条湖事件を引き起こし、中国本土への侵略戦争を拡大しているにもかかわらず、「天皇制と寄生地主制が根本矛盾」であるとし、目の前で進行している侵略戦争に、「民主主義革命」を対置したのである。「三二年テーゼ」によって、日本共産党は、今始まったばかりの日帝の侵略戦争に「内乱を対置して戦う」という革命運動の原則を投げ出してしまったのである(「三二年テーゼ」には、「帝国主義戦争反対」「帝国主義戦争の内乱への転化」が行動スローガンや当面の任務のなかに並べられているが、主要任務からはずされている)。このような、日本共産党の屈服的路線(非合法・非公然の党建設に敗北したことも含めて)への転換のなかで、尹奉吉の大阪移送をキャッチした、反帝同盟は「朝鮮人が産んだ反帝主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を巻き起せ」と、熱烈に呼びかた。しかし、「三二年テーゼ」下の日本共産党には、日帝軍隊に爆弾テロルを敢行した尹奉吉を、今金沢で死刑を執行しようとしている国家権力にたいして、弾劾の行動をとる力もなければ、路線も存在しなかったのである。

尹奉吉追悼の視点
 尹奉吉は一九三二年(昭和七年)四月二九日、上海で行なわれた「天長節祝賀会」会場の演壇に爆弾を投げ、上海派遣軍司令官=白川義則陸軍大将を爆殺し、他多数を負傷させ逮捕された。同年十二月十九日、金沢市三小牛山で銃殺刑に処せられた。日帝に処刑され、通路に暗葬され、死後も踏みにじられた尹奉吉を私たちはどのように追悼しなければならないのか。
 今日に生きる私たちの人生観の問題である。尹奉吉にたいする歴史的評価の核心は、第一に、尹奉吉が朝鮮・中国にたいして侵略戦争をしかける天皇の軍隊に爆弾を投げ、上海占領軍司令官白川をはじめ軍幹部を多数殲滅したということである。第二は、上海占領軍の天長節祝賀会を粉砕したということである。第三は、日帝の朝鮮・中国侵略戦争にたいして、尹奉吉が朝鮮・中国人民の最先頭で戦い、それ故に処刑され、野田山に暗葬されたということである。
 尹奉吉の戦いを総括する時、この三点から絶対に目をそらせてはならない。とりわけ、尹奉吉追悼の核心中の核心は尹奉吉が爆弾で武装して、虹口公園に行き、侵略軍隊を殲滅したということにある。この核心点を避け、「暗葬」に総括の重点を置くことは誤りである。凶暴な日帝軍隊によって「されるがままのアジア人民」という虚偽のアジア人民像を形成してはならない。アジア人民は、日本の労働者階級人民よりはるかに勇敢に、日帝軍隊と戦いぬいたのである。それゆえ、尹奉吉は処刑され、暗葬されたのである。そこには日帝の朝鮮・中国・アジア人民の戦いにたいする恐怖と危機感が存在しているのである。
 尹奉吉が生命を賭け、上海で挑んだことは朝鮮を植民地化し、中国を侵略しようとしている日帝(軍隊)を打倒することであった。一九三二年尹奉吉は戦いを貴徹し、意志を半ばにして処刑されたが、アジア人民は尹奉吉の戦いに激励され、全域で抵抗し、ついに一九四五年目帝に敗戦を強制したのである。
 しかし日帝は帝国主義として復活し、日米新ガイドラインによってアジア侵略の道に再び踏み込もうとしている。私たちは、今アジア侵略を再開しようとしている日帝にたいして、尹奉吉の意志を引き継いでたたかわねばならない。第一に、アジア侵略のための新ガイドラインと有事立法を絶対に粉砕すること、第二に、沖縄・小松基地をアジアへの出撃基地にさせないこと、第三に、不二越強制連行控訴審をはじめとして、各地で巻き起こる戦争責任追及のたたかいに合流することである。

不二越強制連行裁判との一体性
 日本帝国主義の戦争責任を追及する訴訟が全国的にたたかわれている。名古屋高裁金沢支部では、金景錫さん(不二越訴訟原告団団長、NKK原告)、崔福年さん、李鐘淑さん、高徳煥さんの三人の原告が不二越強制連行訴訟控訴審をたたかっている。富山地裁は三原告の主張を全面的に認めながら、「時効」によって切り捨てた。金沢高裁ではこの「時効」の壁を打ち砕くために全力でたたかっている。
 昨年(一九九七年)九月二五日、富山社会保険事務所は崔福年さんに十八円の「厚生年金脱退手当て金」支給を決定した。朝鮮から強制連行し、給料も支払わずに働かせ、指を奪い、五〇年間謝罪もせず、挙げ句の果てに、たったの「十八円」でケリをつけようというのか。日帝・資本はいつまで朝鮮を植民地扱いすれば気が済むのか。
 だから、不二越訴訟原告団はこの裁判を『第二の独立運動』としてたたかっている。朝鮮、中国、アジアには五〇年後の今も、かつて尹奉吉が上海で抱いたのと同じ怒りが煮えたぎっているのである。
 不二越訴訟原告団は、尹奉吉が処刑され、暗葬され、踏みにじられたた金沢の地で、尹奉吉の意志を受け継ぎ、日帝に謝罪させるまで、絶対に終わらないたたかいであると宣言している。
 日本の労働者階級人民は、不二越強制連行訴訟を階級性回復のたたかいとして全力をあげ、新ガイドラインのもとで、再び侵略を繰り返そうとしている日本帝国主義を根こそぎ打倒することが求められているのである。   (一九九八年一月十五日)

20191227 尹奉吉暗葬までの7つのフェイクニュース

$
0
0
尹奉吉暗葬までの7つのフェイクニュース

 日帝・上海派遣軍軍法会議は1932年5月25日付の「死刑判決書」を書いたものの、尹奉吉をどこで処刑するかについてはかなり迷っていたのだろう。本来ならば、上海での事件であり、上海で処刑し、遺体(遺骨)は遺家族に返すのが「本来」の姿なのではないだろうか。

 しかし、上海の日本軍は侵略の軍隊であり、敵に包囲された軍隊であり、中国・朝鮮人民の怨嗟の的となっており、尹奉吉は壇上の上海派遣軍指導者をことごとく死傷させた英雄であり、その屍は死してなお日帝を怖れさせる力を持っていたのである。

 上海派遣軍は尹奉吉の遺体(遺骨)の奪還を恐れて、日本国内での処刑を結論したのであるが、日本の処刑地への移送そのものが、たたかう朝鮮人民に脇腹をみせる行動であり、さまざまなフェイクニュースで、欺きながら尹奉吉を処刑地金沢に送り込んだのである。

 まず第1に、上海から神戸港に上陸する予定日を「11月21日」【資料033】と発表したが、実は「11月20日」であった。

 第2に、到着桟橋を「神戸港第3突堤M岸壁」【資料034】と発表していたが、実は「三菱造船所桟橋」に到着するや、一刻を争って、軍用車で大阪衛戍刑務所に飛び込んでいる。

 大阪で、尹奉吉は一カ月ほど収監されていたが、その間に軍首脳、東京地検、第九師団の憲兵隊と念入りな計画を立て【資料037、038】、「12月18日金沢移送、19日三小牛山西北谷間での処刑方針」が確定した。

 11月には、大阪の反帝同盟は尹奉吉死刑に反対し、「朝鮮が生んだ反帝国主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を捲き起こせ」というビラを配布しており、第九師団憲兵隊は金沢への移送中に奪還される可能性を考えていた。

 第3に、尹奉吉移送中の攻撃を避けるために、乗車列車を「西金沢駅、午後5時29分着」【資料048】と発表し、「大阪駅発午前8時41分発の514列車」に乗車するかのように装いながら、実は「大阪午前6時25分発の708列車」に乗車し、西金沢駅を通過して「森本駅で下車」【資料051】しているのだ。

 森本駅から、第九師団司令部に車で向かうのであるが、第4に、その日の収監場所を「第九師団法務部」【資料048】とか、「金沢刑務所」【資料049】などとリークし、実は「衛戍拘禁所」【資料050】に拘禁したのである。

 第5に、処刑場所を「三小牛山東南高台」【資料048】と発表しながら、実は「三小牛山西北谷間」【資料050】でこっそりとおこなったのである。

 処刑後の遺体(遺骨)は遺家族に渡すことが「刑事施設における刑事被告人の収容等に関する法律第七四条」で定められていた【資料129】。しかし、尹奉吉の遺体(遺骨)は朝鮮独立運動のシンボルとなり、これは絶対に避けねばならないことであった。

 そこで、第6に、マスコミには、「遺骨の受取方を朝鮮の実家へ照会したが、何ら返事なき」【資料052】と発表し、実は遺家族に知らせずに、処刑・埋葬したのである。後日、処刑を知った遺家族が遺体(遺骨)の引き取りを申し出たが、拒否されたのである【『評伝 尹奉吉』】。

 さらに、第7に、処刑後の尹奉吉の遺体を、「火葬に付す」【資料048、049】と発表したが、実は陸軍墓地と市民墓地の境目で、ひとびとが登り降りする通路に「暗葬」したのである。しかも、陸軍墓地に隣接し、暗葬地から十数メートルのところに、刑死した人を葬るための「刑務所墓地」がありながら、敢えて暗葬に付した。「刑事施設における刑事被告人の収容等に関する法律施行規則」【資料129】には、「墓標には石を用う可し」と規定されていながら、日帝はこの処置を意図的に怠ったのである。差別と恐怖を垣間見る思いだ。



 1946年3月6日に、朝鮮人の手で、尹奉吉の遺体が発掘されたが、回収できなかった一部の遺骨はそのまま埋め戻された。1992年4月、暗葬地が生け垣で囲まれるまで、墓参者は市民墓地と陸軍墓地との間を、水桶を持ちながら、尹奉吉の眠る地を踏みしめていたのである。
 

20200102 尹奉吉から学ぶ 私たちの進むべき道

$
0
0
尹奉吉から学ぶ 私たちの進むべき道

 いよいよ、8年ぶりの『上海爆弾事件後の尹奉吉と資料』(第二版)発行の準備が進んでいる。
 一九三〇年代の日本がどのような国だったのか、日本が朝鮮と中国に何をしたのか、植民地支配下の朝鮮人がどのように生きたのか。事実の検証と資料のための小冊子である。尹奉吉と上海爆弾事件の考察によって現代日本(人)の姿を鏡に映すことができるだろう。

(1)戦争挑発と差別・排外主義
 ここ数年間の日本の対外姿勢を俯瞰してみると、どの政党も、独島(竹島)や釣魚台(尖閣諸島)を「日本固有の領土」と唱和し、大和堆(公海)から朝鮮漁船の排除を支持し、帝国主義的領土拡張主義に竿をさしている。二〇一三年、アルジェリアに進出した日揮の労働者の死を「英霊」のように扱い、日本の対外進出(経済侵略)にその原因を求める気風さえ起きていない。橋下徹(維新の会)は「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていく時に、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だって分かる。…国を挙げて暴行、脅迫、拉致をした…証拠はない」などと発言し、戦争と女性差別を容認した。二〇一五年、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」登録で、端島炭鉱(軍艦島)への朝鮮人強制連行・強制労働の事実を抹殺した。

 二〇一七年に入って、以前以上に日本社会全体が排外主義の渦に巻きこまれているようだ。石川県知事・谷本は「北朝鮮国民を餓死させねばならない」と発言し(六月)、日本海(東海)の大和堆では、海上保安庁の巡視船は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型漁船を蹴散らし(八月)、北朝鮮による核実験やミサイル発射事件を奇貨として、米軍B52核戦略爆撃機とともに小松基地配備のF15戦闘機が北爆訓練をおこなった(八月)。小池都知事は関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文を拒否し(九月、三年連続)、政府は「慰安婦」関連資料の「世界記憶遺産」登録を妨害した(十月)。

 二〇一八年には韓国大法院(最高裁)が強制徴用工への賠償を命じる判決を出し、十二月には、大和堆(公海)で韓国艦と海上自衛隊哨戒機との間で軍事的トラブルが発生した。

 二〇一九年、これにたいして日帝は韓国への半導体部品の輸出規制(七月)、輸出管理の優遇措置の除外(八月)などの報復措置を発表した。対する韓国はGSOMIA(日韓軍事情報保護協定)の延長を拒否した。GSOMIAとは米軍の平壌制圧作戦【作戦計画5029】のために、朴槿恵と安倍の間で結ばれた軍事同盟であり、民族統一をめざす朝鮮人民の意志とは相容れない協定である【注:アメリカの圧力で、協定は継続】。

 同年八月最高裁は高校無償化から朝鮮学校の排除を決定し、「表現の不自由展」での少女像展示に脅迫・抗議があいつぎ、これを奇貨として政府は補助金の交付を撤回した。十月には川崎で軍隊慰安婦を対象化した映画『主戦場』の上映が中止され【注:その後上映が再決定】、同月には、大和堆(公海)で水産庁の漁業取締船が朝鮮漁船に体当たりし、沈没させ、戦争挑発と差別・排外主義が大手を振ってのし歩いている。

 今、私たちをとりまく情勢は、一触即発の準戦争情勢にあるのではないか。私たちがとるべき態度は、帝国主義的民族主義と排外主義を拒否し、その実践として、反戦闘争に起たねばならない。

 (2)身近に、学ぶべき歴史がある
 哲学者の高橋哲哉【一九五六年生まれ】さんは「日本には抵抗の文化がない」というベラルーシの作家の発言を肯定的に引用しているが【二〇一六年十二月二二日『東京新聞』】、人生を賭けて、生死を賭けてたたかってきた人々の気持ちを逆なでする一文である。

 ひとつは、抵抗を「文化」と表現し、それをすんなりと受け入れることの違和感である。抵抗は血涙を不可避とする生き方であり、治安維持法下で何十万人もの抵抗者が呻吟していた事実を「文化」などと軽く扱ってほしくないのである。

 ふたつ目は、私たちの周りを見渡せば、身近に「抵抗者」がいたことに気付くだろう。私の叔父は「特要乙号」「思注」に指定され、治安維持法で投獄され、その連れ合いも、私の父も特高に執拗につけ回されていた。東北生まれの義母は、女学生時代に「レポ」の役割を担い、厳しい監視・弾圧から遁れて、見知らぬ地・金沢に流れ着いている【義母の係累には自由民権運動・加波山事件に関与し、「皇居から三里以内接近禁止」処分を受けた人物もいる】。

 以上は卑近な例だが、『一九三二・三三年 石川県特高警察資料』【石川県社会運動史刊行会】には、要警戒人物のリストが三綴あり、二〇〇人近くの名前・住所・職業・人相・言動・取締方法が記載されている。そのなかの多くは逮捕・拘留され、拷問され、転向を強いられ、一九三三年には西村外茂男さんが小松警察署内で獄死し、一九三八年には鶴彬が獄死した。このように、私たちは戦前の抵抗者から学ぶべき歴史を身近に共有しており、「抵抗の事実」を軽々に否定してほしくないのである。

 みっつ目には、一九六七年10・8ベトナム反戦闘争から始まる七〇年代日本のたたかいは、フランス・カルチェラタンや金芝河や全泰壱に触発され、大学や職場から追放されても、逮捕・拘留・有罪判決を恐れず、数万数十万の労働者・学生が立ち上がり、たたかいのなかで倒れ【山﨑博昭さんなど】、長期投獄【星野文昭さんは二〇一九年獄中死】に耐えた人々が多数おり、ヨーロッパや朝鮮のレジスタンスに比べて足元にも及ばないとしても、地にねじ伏せられても、その感性と思想を次世代に渡そうと、現在も苦闘し続けているのである。

 直近の、同世代の「苦闘」を再評価・検証せずに、「抵抗運動」を過去のものとして語ることを果たして、是とすべきなのだろうか。

 よっつ目に、私が尹奉吉にこだわるのは、尹奉吉をはじめとして、日帝の暴虐に虐げられ、倒れた幾多の朝鮮人民への謝罪と、その実践的回答としての政治選択の鏡としてである。政治、情報、経済、軍事、治安体制で武装した「二一世紀の日帝」を倒すために、労働者人民の武装(抵抗)は本質的選択であり、その実践的準備・着手・習熟についてひとことも語らずに、上海爆弾事件と尹奉吉を讃えるだけでよいのだろうか。

 (3)二〇一七年会議を起点に
 二〇一七年十二月の尹奉吉学術会議【資料153】では、ドイツ・ブレーメン州憲法十九条の「人権が公権力により憲法に違反して侵害される場合は、各人の抵抗は権利であり義務である」を根拠にして、尹奉吉による上海爆弾事件の正当性を主張しているが、私はもう一歩、論を進めるべきだと考えている。

 人民の抵抗権はすでに中世から主張されており、イギリスの哲学者ジョン・ロック【一六三二~一七〇四】は「自然権としての革命権(抵抗権)」を確立し、「政府は人為的機関であり、権力(暴力)装置であり、(体制の変更には)暴力的変更=革命(が不可避)」と主張した。その後、アメリカの独立宣言【一七七六年】の「抵抗権(革命権)」、フランス革命【一七八九年】、マルクス『共産党宣言』【一八四八年】、レーニン『国家と革命』【一九一七年】へと受け継がれていったのである。

 『共産党宣言』は、「政治権力とは…一つの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争において必然的に階級へと結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として古い生産関係を暴力的に廃止するときに、プロレタリアートはこのような生産関係と共に階級対立の存立条件と階級そのものの存立条件を廃止し、それによって階級としての自分自身の支配を廃止するのである。」「共産主義者は自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は自分たちの目的がこれまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成され得ないことを公然と宣言する。…プロレタリアはこの革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。万国のプロレタリア、団結せよ!」と締めくくっている。

 八八年前の尹奉吉らによって担われた朝鮮独立運動は、近代社会思想の到達点に立って、みづから武装し、日帝の植民地支配と朝鮮王朝を打倒するたたかいであり、革命権の行使以外の何ものでもなかった。すなわち、労働者階級、被抑圧人民の武装(闘争)は、政権(国家)への抵抗にとどまらず、資本(国家)を打ち倒し、みづからを社会の主人公にしていくための、革命権の行使であり、尹奉吉の上海爆弾事件は、現代の両国人民の、抵抗から革命へと進むべき道を照らしているのではないだろうか。

 学術会議の最後に、「東アジアの平和の根本は帝国主義の排撃、帝国主義支配に起因するすべての負の遺産・負の記憶の清算にある。東アジア諸民族は近代史の原点に立ち帰り、反帝国主義の平和連帯をすすめよう」との呼びかけがあり、万雷の拍手で確認されたのである。

 最後に、日帝植民地下でたたかった金麗水さんの詩を転載して、この一文を閉じよう。
「竹として折れようとも 柳として曲がることなかれ 一日たりとて 願わくは潔き営みを」
Viewing all 919 articles
Browse latest View live