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島田清次郎に関するインターネット上のサイト

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島田清次郎に関するインターネット上のサイト

島田清次郎の作品データベース
  https://blog-sc.sakuhindb.com/tj/6_C5E7C5C4C0B6BCA1CFBA/diary.html

ブログ「サイコドクターのぶらり旅」(精神界の帝王 島田清次郎 on the Net)
  http://psychodoc.eek.jp/shimasei/

ブログ「牛込神楽坂」浅見順
  http://kagurazaka.yamamogura.com/shimada1/

ブログ「中島稲夫の中仙道だより」(島清論)
  http://blog.livedoor.jp/ineonakajima/archives/2011-01.html

ブログ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」
  https://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar734073

ブログ「本と陶芸のある生活」 島田清次郎…1
  https://bookrium.exblog.jp/11293565/

ブログ「N居堂雑文庫」島田清次郎(中居ヒサシ)
  http://htbt.jp/?p=5339

ブログ「アジアと小松」島田清次郎と石川
  https://blog.goo.ne.jp/aehshinnya3/e/ad612e48ccbf43df336620fd900c571b

ブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」島田清次郎
  https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12049161837.html

ブログ「取手通信・医科歯科通信 山本 嗣信」天才作家と謳われ島田 清次郎
  https://blog.goo.ne.jp/toride727/e/79a18b218759d137ff23bc18d908b9ce

『大望』島田清次郎(国立国会図書館デジタルコレクション)
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963020

『若芽』島田清次郎(えあ草子)
  https://www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?action=aozora&id=45660

『あるゴロツキの嘆』島田清次郎
  http://psychodoc.eek.jp/shimasei/works/gorotsuki.html

『二人の男』島田清次郎(青空文庫)
  https://www.aozora.gr.jp/cards/000595/files/47208_47034.html

『石川県関係人物文献検索―島田清次郎』(石川県立図書館)
  http://www4.library.pref.ishikawa.lg.jp/searchstep3.php?target=0000000096660000&page

「狂人となつた島田清次郎君を精神病院の一室に訪ふ記」(藤原英比古)
  http://psychodoc.eek.jp/shimasei/others/fujiwara.html

ブログ「竹林軒出張所」
  https://chikrinken.exblog.jp/

ブログ「ジネット・ヌヴー協会ジャポン」(1980年代の島清研究状況)
  http://kokubunji.shop-info.com/sgnj/index.html

ブログ「日本語教師・奥村隆信 ひとり語り」
  https://tiaokumura.exblog.jp/12956477/

20200124 情報公開制度の効果的活用を

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20200123 情報公開制度の効果的活用を

 最近感ずることは、「桜を見る会」での行政文書の恣意的な廃棄に現れている情報公開制度の形骸化・骨抜きである。
 まず、情報公開制度がどのような経過をたどって生まれたのかについて、おさらいをしておこう(ウィキペディア「日本大百科全書の解説」より)。

世界的趨勢
 最も早くに情報公開制度が生まれたのはスウェーデンで、1766年である。なんと江戸時代の話しである。その後、1966年にアメリカ、1970年代にデンマーク、ノルウェー、フランス、オランダ、1980年代にオーストリア、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、1990年代にスペイン、ハンガリー、ベルギー、韓国、タイ、そして日本(1999年)、2000年以降にイギリス、ドイツ、中南米、アフリカに拡大している。

日本の情報公開への動き
 日本では、1970年代後半にまず地方自治体で関心が寄せられ、1979年に神奈川県で検討が始まり、1982年に情報公開条例が制定された。その後、情報公開条例などの制定が活発化し始め、2014年時点で条例を制定しているのは、都道府県47団体(100%)、政令指定都市20団体(100%)、市区町村1721団体のうち1719団体(99.9%)である。
 国レベルでは、1979年12月に「情報公開問題に関する連絡会議」が設置され、1980年には「情報提供の改善措置等について」を閣議了承した。一方、当時の野党は、1980年から1981年にかけて、国会に情報公開法案を提出したが、自民党政権によって潰された

情報公開法の制定
 1993年に細川連立内閣が成立してから情報公開法にたいする関心が急速に高まり、1994年に行政改革委員会が発足し、1995年3月から行政情報公開部会が検討を進め、1996年11月、「情報公開法要綱案」を発表した。
 1998年3月、政府(小渕内閣)は情報公開法案を国会に提出したが、継続審議となり、衆参両院で一部修正され、1999年5月にようやく可決し、同年5月14日に公布され、2001年4月1日に施行された。
 情報公開法は1993年から始まる非自民政府(細川~羽田~村山)によって準備され、自民党政権が復活(橋本~)した後も引き継がれ、小渕政権下で成立した。

防衛庁の激甚な反応
 2001年4月1日、情報公開法が施行され、直後の同月4日、小松基地騒音による健康影響に関する情報公開を請求した。7月には、竹内伊知さんは小松基地戦闘機の離着陸回数、機種などの開示を請求し、私は小松基地所属戦闘機の事故報告書の開示を請求した。その後も、情報公開法を最大限に活用して小松基地の闇の部分を白日の下に晒すたたかいが始まった。
 ところが、年が明け、2002年4月毎日新聞・社会部記者から1本の電話が入り、「防衛庁(防衛省)が情報開示請求者のリストを作り、身元調査を始めているが、そのなかにあなたの名前・電話番号・身元調査メモがある」と伝えられた。
 「集会の自由・結社の自由・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」(憲法21条)と「学問の自由」(憲法23条)にもとづいて制度化された情報公開制度も、何ら自由ではなく、監視下の「自由」でしかないのである。
 それでも、情報公開制度はノドに刺さったトゲのように自民党政権を苦しめている。

特定秘密保護法
 2013年12月に、特定秘密保護法が成立した。自民党は特定秘密保護法は防衛、外交、特定有害活動、テロ防止の4分野に限定しているから、市民生活には影響がないかのように言っているが、この分野は戦争に直結しており、政府が何をしているのかについて常に監視しなければならない分野なのではないでしょうか。
 私たちはこれまでに小松基地について、騒音、廃液、事故、離着陸回数など、小松基地が秘密にしておきたい分野について情報開示請求してきたが、これらの情報について、防衛秘密事項であり公開できないなどという決定が下されれば、もはや情報公開法は何の役にも立たず、憲法21条、23条は神棚に上げられ、拝むだけとなり、政府・防衛省はあらゆる情報を秘密にして、戦争の準備を進めていくだろう。
 私たちは、情報公開制度を使い、戦争準備を曝露し、小松基地(軍事)の透明性を計り、戦争への道を止める役割を果たさねばならない。

桜を見る会の醜態
 昨年来、「桜を見る会」に関する情報隠蔽が問題となっている。情報開示請求をするたびに感じることは、情報公開制度が情報隠蔽制度として機能しているということである。保存期間をできるだけ短期間に設定し、見せたくない情報を短期に処分したいという、行政側の意志が見えてくる。
 「桜を見る会」の招待者名簿は、内閣府規則6条6項7号に基づき1年未満保存期間として用済み後廃棄とされているが、それは2019年10月28日からのことである。しかも、公文書を廃棄したならば、廃棄について公表すべきなのだが、それもおこなっていない。
 まさに、情報公開制度が、政府の独裁的手法によって機能不全に陥っているとしか言いようがない。

 かつての非自民政権によって闘い取られた情報公開制度を決して自民党に明け渡すのではなく、たたかいの武器として、研ぎすまし、打ち鍛えるのは私たち自身である。たとえ、監視され、リストアップされ、身に危険が迫っても、絶対に譲ってはならない、たたかう武器ではないだろうか。

【予定】3月12日(木) 第5次・第6次 小松基地爆音訴訟判決

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【予定】3月12日(木) 第5次・第6次 小松基地爆音訴訟判決
13:50事前集会(弁護士会館)14:20公園下より行進 傍聴券抽選 
15:00開廷・判決 15:30報告集会(弁護士会館)

 去る3月2日、金沢で開催された「自衛隊の中東派遣反対!戦争参加反対!」緊急集会・デモに参加してきた。この日は海自護衛艦「たかなみ」が横須賀基地を出航し、中東に向かった日だ。日本資本の血液=石油を確保するために、自衛隊員を戦場に送ったのである。
 デモコールに昌和しながら、かつて呉軍港で海上自衛隊掃海艇の派兵のときのことを考えていた。

 1991年10月30日、私はビデオカメラを片手に、小松の森惣太郎さんとともに、呉軍港にいた。いま、そのビデオを見ると、懐かしい顔が次々と出てくる。栗原貞子さんもその一人だ。
 栗原さんは、原爆投下後の広島の廃墟で、「新しい生命は生まれた/かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」と詠った歌人である。この詩は、未だ若かった私の心を激しく揺さぶった。いま読み直しても、いまだからこそ、私の心を揺さぶっている。



『上海爆弾事件後の尹奉吉と資料』(改訂版)

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【限定100部】『上海爆弾事件後の尹奉吉と資料』(改訂版) B5版 全171頁 頒価600円
【注文:郵便振替口座名「アジアと小松」/口座番号00710-3-84795 (本代+送料):1冊=800円】

序・後序  ―――――――――――――――――――――――――――― 1~ 
 はじめに 改訂版発行の動機
 後序 私たちの進むべき道(現代日本の諸相/身近に学ぶべき歴史がある/2017年学術会議を起点に)

(1)尹奉吉の生いたち ――――――――――――――――――――― 8~ 
   ①出生/②3・1独立運動/③植民地教育を拒否/④李黒龍との出会い/⑤新幹会禮山支部結成/⑥日帝批判の演劇「兎と狐」
   ⑦光州学生蜂起/⑧亡命/⑨朝鮮独立・革命運動の坩堝/⑩金九との接触/⑪日帝の中国侵略/⑫上海爆弾事件へ
(2)朝鮮文学で見る尹奉吉が生きた時代 ――――――――――――― 14~ 
   開化期/1920年代以降の作品/『地下村』(姜敬愛著)
(3)亡命の背景・治安維持法 ―――――――――――――――――― 17~ 
   ①治安維持法の暴威/②1927年新幹会結成/③李黒龍との出会い/④亡命の道を決断
(4)第一次上海事変にいたるアジア情勢 ――――――――――――― 22~ 
   万宝山事件/満州事変/第1次上海事変
(5)1932年4・29上海虹口公園 ―――――――――――――――――― 25~ 
   上海をめざした理由/事件当日
(6)4・29上海爆弾事件の衝撃 ―――――――――――――――――― 27~ 
   ①朝鮮人民に与えた勇気/②中国人民との連帯/③日本人(軍)に与えた衝撃/④日本共産党/⑤日本反帝同盟/⑥知識人/
   ⑦法曹界/⑧世界の衝撃
(7)上海派遣軍軍法会議「判決」の疑問 ――――――――――――― 36~ 
   ①軍法会議/②尹奉吉の場合/③白川上海派遣軍司令官の容態急変/④新聞報道「次回は未定」
(8)上海から大阪、そして金沢へ ―――――――――――――――― 39~ 
   上海から大阪へ/尹奉吉と鶴彬/大阪から金沢へ
(9)金沢 尹奉吉最後の夜 ――――――――――――――――――― 47~ 
   ①第九師団拘禁所設置のいきさつ/②尹奉吉収監場所の記述/
   ③尹奉吉拘禁場所特定の考察(A金沢刑務所、B法務部、C衛戍拘禁所、D営倉(警倉)、E結論=衛戍拘禁所)/
   ④現在は?/⑤尹奉吉の意志
(10)三小牛山 死刑執行 ―――――――――――――――――――― 53~ 
   尹奉吉処刑地調査の経過/「西北谷間」の検討(①キーワード、②1956年地図、③2002年地図、④「要図1」「要図2」
   ⑤「全景写真」、⑥1962年航空写真、⑦1956年地図上の処刑地、⑧2002年地図上の処刑地、⑨現地調査、⑩結論)/
   処刑時の天候(日の出、天気図)/遺体の処理(運搬、暗葬、埋葬手続き)/暗葬までのフェイクニュースまとめ
(11)野田山 遺体発掘 ――――――――――――――――――――― 66~ 
   ①尼僧・山本了道説/②元特高・前田説/③住職・木村清和と憲兵隊員説/④元看守・重原と憲兵隊員説/⑤独自発見説
(12)現代から見た尹奉吉 ―――――――――――――――――――― 69~ 
(13)保存・整備から継承へ ―――――――――――――――――――― 73 ~

尹奉吉義士関連資料  ―――――――――――――――――――――― 76~171 
資料 発行年月 文書の内容
 111 1932/4 /『特高月報』4月 (事件報告)【昭和特高弾圧史6】
 112 1932/4~5/『上海出征日誌2』 (田代皖一郎参謀長)015/17、5/22~6/2
 113 1932/4~12/ 「朝鮮民族運動第44」 (1932年4~12月) 【外務省警察史】
 114 1932/4/29,30/『陣中日誌』第一次上海事変における第九師団軍医部
 115 1932/5/5~/『新韓民報』 (1932.5.5~)【『キョレイトンシン』 9号】
 116 1932/5/18/「被告人訊問調書」(5/4~18)
 117 1932/5/25/「尹奉吉最終意見陳述」(『評伝尹奉吉』 234頁)<原資料未確認>
 118 1932/5/25/「尹奉吉判決書」【外務省警察史】
 119 1932/5/27/ 第1回軍法会議開催 (『東亜日報』 『朝鮮日報』など)
 120 1932/6/「爆弾投擲事件の概要」 【外事警察報119 内務省警保局】
 121 1932/6/20/「判決書送付の件」【機密第810号】
 122 1932/処刑前/ 中国軍人・林毅強「韓志士尹奉吉伝略」   
 123 1932/11/20/「朝鮮に於ける抑圧の強化と」政治犯人の闘争」(『赤旗』)
 124 1932/12/14/「尹奉吉刑執行ノ件 (処刑命令)」【陸軍満密第896-33】
 125 1932/12/22/「尹奉吉死刑執行の件報告 通牒」【金憲高秘第522号】

 126 1884年/「墓地及埋葬取締規則」
 127 1891年/ 「刑死者ノ墓標及祭祀等ニ閑スル件」
 128 1897年/「第九師団三小牛作業場買収の件」
 129 1908年/「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律・規則」
 130 1923年/「官報第3213号」(金沢衛戍拘禁所移転)
 131 1933年/『昭和七・八年石川県特高警察資料』「指示事項」128P~
 132 1941年/ 「旧藩在来建造物一覧」『金沢市史資料編11近代1』
 133 1946年/『朝鮮民族運動年鑑(1919~1932)』【在上海総領事館警察部第2課】
 134 1971年/『内川の郷土史』277P
 135 1974年/『わが抗日独立運動史』(李 康勲著)170P~
 136 1987年/『統一日報』1987年11月13日 (発掘時の写真発見)
 137 1987年/『映像が語る「日韓併合」史』(辛基秀編著)
 138 1987年/「ゴミ捨て場にあった尹奉吉の遺体」(辛基秀)『青丘文化』12月
 139 1988年/『日本大戦争 満州建国と上海事変』 (原康史著)160P~
 140 1988年/ 「二・二六事件 在天の男たちへ」(澤地久枝)『別冊文藝春秋』
 141 1991年/ 尹奉吉殉国碑建立経過 (金沢市開示文書)
 142 1992年/尹奉吉暗葬之跡碑建立経過 (金沢市開示文書)
 143 1992年/ 「暗葬之跡碑除幕式」証言 (朱鼎均、朴東祚) 『キョレイトンシン』 9号
 144 1995年/『アクタス』(2月号)「抗日の韓国人闘士 尹奉吉の遺体発掘」(大戸宏)
 145 1995年/『写真集 韓国併合と独立運動』 (辛基秀編著1995.3)87P~
 146 1998年/「尹奉吉と不二越強制連行」
 147 2006年/「金沢市職員措置請求書」 (4/24) 【開示文書】
 148 2006年/「住民監査請求に係る審査結果について(通知)」 (4/25) 【開示文書】
 149 2008年/「尹奉吉義士はこうして殺された」(SBSスペシャル 6月放映)
 150 2010年/『奇跡の医師(頓宮寛)』(南堀英二著)186P~
 151 2011年/「この渓谷は覚えている 79年前の銃声を」(「東亞日報」)
 152 2017年/「証言―暗葬地整備のいきさつ」 (『キョレイトンシン』9号)
 153 2017年/『尹奉吉義士と世界平和運動』(韓国独立記念館) の「感想」
 154 2018年/ 証言「衛戍監獄(動物実験室)について」
 155 BC227没/『史記』「刺客列伝」(司馬遷)荊軻「風蕭蕭兮易水寒」
 156 BC564没/イソップ「ずるい狐」

20190912 ジャン・ラフ・オハーンさんを追悼する

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20190912 ジャン・ラフ・オハーンさんを追悼する
 インドネシア・スマランで「慰安婦(性奴隷)」を強いられたジャン・ラフ・オハーンさんが昨年8月に亡くなられた。昨年9月12日の『中央日報』の追悼記事を転載する。
 2014年のブログ「アジアと小松」で「スマラン事件と『青壮日記』」、「藪の中から真実を引っ張り出してやろう」で、ジャン・ラフ・オハーンさんについてレポートしてあるので、こちらも読んでいただきたい。

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「安倍謝罪するまで死ねない」最後の西洋人慰安婦
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.09.12 11:07

 英国の時事週刊誌エコノミストのお悔やみ欄は最近永眠した人々から世界的な共鳴を持つ人物を選び、集中的にスポットを当てている。最新号(9月7日~13日)が手がけたのはオランダ系オーストラリア人のジャン・ラフ・オハーンさん(1923~2019)だ。日本軍に拉致され、インドネシアで3カ月間「慰安婦」として強制収容されていた女性だ。これまで、知られている欧州系慰安婦被害者の唯一の生存者だった。

 オハーンさんは生前「日本の安倍晋三首相の謝罪を受けるまでは絶対に死にたくない」と話したが、その願いは叶わなかった。オハーンさんは先月19日、オーストラリア・アデレードの自宅で96歳で老衰により息を引き取った。

 過去を隠し、平凡な主婦であり2人の娘の母親として暮らしていたオハーンさんは、1991年に故金学順(キム・ハクスン)さんが最初に慰安婦の事実を公開し証言したのを偶然目にしてから勇気を出した。翌年オーストラリアのメディアに自分の被害事実を知らせ、その後米国・欧州・日本などで証言活動を行った。韓国の慰安婦被害者とも活発に交流した。自叙伝『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語(Fifty Years of Silence)』は6つの言語に翻訳された。

 エコノミストは、オハーンさんがインドネシアの日本軍慰安所で経験したことも詳細に紹介した。オランダ領インドネシア・ジャワ島の裕福な貿易商の娘として生まれたオハーンさんは、修道女になるために勉強中だった。そして42年に日本軍がインドネシアを侵略し、2年後の44年に拉致された。当時21歳だった。

 エコノミストはオハーンさんと6人のオランダ系の女性が「(インドネシア)スマランの日本軍の娼家(brothel)に連れて行かれた」と表現した。

 「慰安婦」という表現の代わりに日本軍の性奴隷として引かれて行ったことを強調したものだ。オハーンさんは「慰安婦(comfort woman)」という言葉を嫌悪したという。「日本軍を慰安する役割というこの言葉に侮辱を感じたからだ」とエコノミストは伝えた。

 エコノミストは「泣き叫び悲鳴を上げて抵抗するオハーンに日本軍はナイフを突きつけて服を裂き、強姦した(raping)」と伝えた。オハーンさんは後に自ら剃髪したが、日本軍がそんな自分のところに来ないだろうと考えたからだったという。

 スマラン慰安所での歳月は、オハーンさんに一生の傷を残した。慰安所の部屋ごとに花の名前がついていたことからオハーンさんは生涯、花のプレゼントを最も嫌い、暗くなる頃になると不安がる症状を見せた。すべての部屋で厚手のカーテンを閉め、完全に昼夜の区別ができないようにしたほどだった。

 戦争は日本の敗北に終わり、オハーンさんも自由の身となった。60年にイギリス人将校のトム・ラフさんと結婚し、オーストラリアに移った。スマランでの悪夢は夫にだけ一度話し、その後は秘密にしたという。最初は子供も産まないつもりだったが、夫に慰められ心を癒しながら家族も設けた。

 スマランに関するものは白いハンカチだけ残して処分した。そのハンカチには一緒にスマランに連れて行かれたオランダ系女性たちの名前が書かれている。「ミエフ、ゲルダ、エルス、アニー、ベティ、ライス」。オハーンさんはこのハンカチを大切に畳んでドレッサーの中の引き出しに保管した。2人の娘がいたずらしてハンカチに触ろうとすると厳しく叱ったという。

 2人の娘は、慈愛に満ちた母がなぜハンカチにとりわけ敏感だったのか92年にようやく知った。金学順さんの告白に勇気を得てオハーンさんもスマランの悪夢を打ち明けたことからだ。家族はオハーンさんを慰めた。孫娘のルビー・チャレンジャーさんは昨年スマランで祖母が体験したことを扱った短編ドキュメンタリー『デイリーブレッド(原題)』を製作した。自ら出演したこの作品ではチャレンジャーさんはスマラン慰安婦収容所に閉じ込められたオランダ人女性が虐待や飢餓などの苦難の中でも希望を失わずに生き残る姿を描いた。

 オハーンさんが書いた自叙伝の韓国語版の表紙にはオハーンさんとキル・ウォノクさん(92)など韓国人慰安婦被害者らが手を握って微笑む写真が載っている。「日本軍性奴隷制」の問題を扱う正義記憶連帯によると、キル・ウォノクさんら被害者の健康状態はあまり良くないという。

 正義記憶連帯の関係者は11日、電話取材で「オハーンさんは(慰安婦問題が)東アジアに限った事案ではなく人類普遍の人権問題であることを国際社会が認識するために大きな役割を果たした」とし「故人が経験した大きな痛みを忘れない」と追悼の意を明らかにした。

 国内では今年に入って1月にキム・ボクドンさん、3月にクァク・イェナムさんなど5人の被害者が亡くなった。これにより、政府に登録された慰安婦被害者のうち生存者は20人に減った。

20200223 ジャン・ラフ・オハーンさんを追悼する

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20200223 ジャン・ラフ・オハーンさんを追悼する
 インドネシア・スマランで「慰安婦(性奴隷)」を強いられたジャン・ラフ・オハーンさんが昨年8月に亡くなられた。昨年9月12日の『中央日報』の追悼記事を転載する。
 2014年のブログ「アジアと小松」で「スマラン事件と『青壮日記』」、「藪の中から真実を引っ張り出してやろう」で、ジャン・ラフ・オハーンさんについてレポートしてあるので、こちらも読んでいただきたい。

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「安倍謝罪するまで死ねない」最後の西洋人慰安婦
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.09.12 11:07

 英国の時事週刊誌エコノミストのお悔やみ欄は最近永眠した人々から世界的な共鳴を持つ人物を選び、集中的にスポットを当てている。最新号(9月7日~13日)が手がけたのはオランダ系オーストラリア人のジャン・ラフ・オハーンさん(1923~2019)だ。日本軍に拉致され、インドネシアで3カ月間「慰安婦」として強制収容されていた女性だ。これまで、知られている欧州系慰安婦被害者の唯一の生存者だった。

 オハーンさんは生前「日本の安倍晋三首相の謝罪を受けるまでは絶対に死にたくない」と話したが、その願いは叶わなかった。オハーンさんは先月19日、オーストラリア・アデレードの自宅で96歳で老衰により息を引き取った。

 過去を隠し、平凡な主婦であり2人の娘の母親として暮らしていたオハーンさんは、1991年に故金学順(キム・ハクスン)さんが最初に慰安婦の事実を公開し証言したのを偶然目にしてから勇気を出した。翌年オーストラリアのメディアに自分の被害事実を知らせ、その後米国・欧州・日本などで証言活動を行った。韓国の慰安婦被害者とも活発に交流した。自叙伝『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語(Fifty Years of Silence)』は6つの言語に翻訳された。

 エコノミストは、オハーンさんがインドネシアの日本軍慰安所で経験したことも詳細に紹介した。オランダ領インドネシア・ジャワ島の裕福な貿易商の娘として生まれたオハーンさんは、修道女になるために勉強中だった。そして42年に日本軍がインドネシアを侵略し、2年後の44年に拉致された。当時21歳だった。

 エコノミストはオハーンさんと6人のオランダ系の女性が「(インドネシア)スマランの日本軍の娼家(brothel)に連れて行かれた」と表現した。

 「慰安婦」という表現の代わりに日本軍の性奴隷として引かれて行ったことを強調したものだ。オハーンさんは「慰安婦(comfort woman)」という言葉を嫌悪したという。「日本軍を慰安する役割というこの言葉に侮辱を感じたからだ」とエコノミストは伝えた。

 エコノミストは「泣き叫び悲鳴を上げて抵抗するオハーンに日本軍はナイフを突きつけて服を裂き、強姦した(raping)」と伝えた。オハーンさんは後に自ら剃髪したが、日本軍がそんな自分のところに来ないだろうと考えたからだったという。

 スマラン慰安所での歳月は、オハーンさんに一生の傷を残した。慰安所の部屋ごとに花の名前がついていたことからオハーンさんは生涯、花のプレゼントを最も嫌い、暗くなる頃になると不安がる症状を見せた。すべての部屋で厚手のカーテンを閉め、完全に昼夜の区別ができないようにしたほどだった。

 戦争は日本の敗北に終わり、オハーンさんも自由の身となった。60年にイギリス人将校のトム・ラフさんと結婚し、オーストラリアに移った。スマランでの悪夢は夫にだけ一度話し、その後は秘密にしたという。最初は子供も産まないつもりだったが、夫に慰められ心を癒しながら家族も設けた。

 スマランに関するものは白いハンカチだけ残して処分した。そのハンカチには一緒にスマランに連れて行かれたオランダ系女性たちの名前が書かれている。「ミエフ、ゲルダ、エルス、アニー、ベティ、ライス」。オハーンさんはこのハンカチを大切に畳んでドレッサーの中の引き出しに保管した。2人の娘がいたずらしてハンカチに触ろうとすると厳しく叱ったという。

 2人の娘は、慈愛に満ちた母がなぜハンカチにとりわけ敏感だったのか92年にようやく知った。金学順さんの告白に勇気を得てオハーンさんもスマランの悪夢を打ち明けたことからだ。家族はオハーンさんを慰めた。孫娘のルビー・チャレンジャーさんは昨年スマランで祖母が体験したことを扱った短編ドキュメンタリー『デイリーブレッド(原題)』を製作した。自ら出演したこの作品ではチャレンジャーさんはスマラン慰安婦収容所に閉じ込められたオランダ人女性が虐待や飢餓などの苦難の中でも希望を失わずに生き残る姿を描いた。

 オハーンさんが書いた自叙伝の韓国語版の表紙にはオハーンさんとキル・ウォノクさん(92)など韓国人慰安婦被害者らが手を握って微笑む写真が載っている。「日本軍性奴隷制」の問題を扱う正義記憶連帯によると、キル・ウォノクさんら被害者の健康状態はあまり良くないという。

 正義記憶連帯の関係者は11日、電話取材で「オハーンさんは(慰安婦問題が)東アジアに限った事案ではなく人類普遍の人権問題であることを国際社会が認識するために大きな役割を果たした」とし「故人が経験した大きな痛みを忘れない」と追悼の意を明らかにした。

 国内では今年に入って1月にキム・ボクドンさん、3月にクァク・イェナムさんなど5人の被害者が亡くなった。これにより、政府に登録された慰安婦被害者のうち生存者は20人に減った。

20200227 室生犀星と戦争

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20200227 室生犀星と戦争

『動物詩集』
 シタベニハゴロモについて調べていて、室生犀星の『動物詩集』の存在を知った。1943年(54歳)、戦争の真っただ中の詩集である。

 序詩には「生きものの/いのちをとらば/生きものはかなしかるらん。/生きものをかなしがらすな。/生きもののいのちをとるな。」とあり、戦時中に、「(人を)殺すな」というメッセージかと思ったが、読み進めていくと、「蛤のうた」があり、「蛤の背中を/とんとんたたくものがゐる/誰だとたづねると/浅蜊だといふ。/蛤と浅蜊は/兄弟のやうなものだらう。/蛤にだかれて/浅蜊は寝てゐます、/蛤の背中に海が怒つて/太平洋はいま戦争中だ。/そしていくさは/大勝利だ。」と、やはり戦争翼賛詩である。

 54歳の犀星が戦争の真っただ中で、言論統制の真っただ中で、ひいき目に見て戦争を忌避して、命の大切さを歌っているのだろうが、ならば、戦争という人間の命を奪う行為を賛美していいはずがない。

  

『美以久佐(みいくさ)』
 それで、犀星と戦争という観点から、インターネット検索すると、国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901269 )に詩集『美以久佐(みいくさ)』がヒットした。目次を見ると、
序詩 勝たせたまへ
日本の歌 みいくさを詠める
 臣らの歌/十二月八日/マニラ陥落/日本の朝/怒濤/ふたたびその日/遠天/シンガポール陥落す
みいくさ 銃後を詠める
 勝たせたまへ/日本の歌/今年の春/夜半の文/女性大歌
哀笛集 さけがたきもろもろの哀歌
 よもすがら/生きのびし人/静か居
野のものの歌 野人生計
 歴史の祭典 皇紀二千六百年奉祝日に/希望の正体/きりぎりす/磯浜/天才の世界/乳緑の古典/野に記されたもの/乏しき青果をかざりて/えにしあらば/みみずあはれ/野のものの歌
蝿の歌 続野人生計
 僕の庭/僕の家/市井/行春/麗日/塵労/少年行
山ざと 生ける鮎 十首
哀歌 街の歌 九首
あらいそ集 乏しき炭火 十七首

「序詩 勝たせたまへ」
 「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」

 犀星は心から戦争の勝利を願って、「美以久佐(みいくさ)」を出版したのである。そのなかからいくつか拾ってみよう。

「十二月八日」
 「何かを言ひあらはさうとする者/そして言ひあらはせない者/よろこびの大きさに打たれて/そこで凝乎として喜んでゐる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人ははじめて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらはしたいとあせる/勝利を自分のものにするのは勿体ない/それを何かで表はしたい、/何かをつくり上げたい/絵も彫刻も音楽も/そして文学も勝利にぶら下がる/何かをつくり/何かをゑがき/自分のよろこびを人に示したい/自分も臣の一人であり/臣のいのちをまもり/それゆえに壽をつくり上げたい、/菲才いま至らずなどとは云はない、/この日何かをつくり/何かをのこしたい、/文学の徒の一人としてそれをなし遂げたいのだ。」

 1941年の犀星は文学者として、パールハーバー奇襲のよろこびを表現し、文学の徒の一人として、これらの詩を後世に残したいと詠いながら、宮木孝子さんによれば、1962年犀星自らが編集した『室生犀星全詩集』では、詩集『美以久佐』の詩をすべて削除している(1967年刊の『室生犀星全集』第8巻には『美以久佐(抄)』が掲載されている)。

 削除の理由は、「心の濁りを見たくない」からだという。みずからが天皇の「臣民」として、戦争政策に「迎合」し、戦争を「賛美」した自分自身の姿を見るに耐えなかったのだろうが、犀星自身も、私たちも、戦争詩を戦争詩として見すえ、「私はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩を書くべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書き上げなければならなかった」(犀星)という、「圧政」の事情を詳らかにすることによって、はじめて戦争責任を果たす端緒になるのではないだろうか。

「マニラ陥落」
 「栄光 十二月八日、/あの日から幾日経つたか、/あの日から何を我々は考へたか、/あの日から世界の国々の眼が、/どんなふうに日本を見直したか、/グアムは陥ち、/ウエーキも陥ち/つひに香港をも陥し入れた。/そして怒りに怒つた軍靴は突進した。/マレーへ/英領ボルネオへ/シンガポールへ/砲は砲を抱き/機は機を招き/鑑(ふね)は鑑列を敷き/歯と歯はカチカチ鳴り/マニラへ/つひにマニラをも袋叩きにした、/マニラは藁(もやし)のやうに崩れた/思うても見よ/我々の祖母が秋の夜の賃取仕事に/ほそい悲しいマニラ麻の紵(からむし)をつなぎ/それら凡てを搾取したあのマニラ、/死んだ多くの祖母よ母だちよ/あなた方を賃仕事でくるしめた/マニラに日本の旗が翻った、/祖母よ 母よ 姉よ/むかし天長節だけに見られた/日の丸の旗がマニラの頂きに建つた、/あなた方の孫達が戦つたのだ、/さあ 表に出て云はう、/有難うとお礼をいはうではないか、」

 1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時に東南アジア侵略に踏み込んだ。軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと、踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。マニラに日の丸を立てることが「祖母や母への搾取」にたいする復讐だという。

 「紵麻」の歴史は古い。魏志倭人伝(3世紀末)には「紵麻」という記述があり、日本では古来から麻を使って紐や衣服を作っていた。犀星の祖母の世代の女性は農作業の傍ら日本産の麻を使って衣類や農作業用の縄を作っていたのであろう。農村の悲惨は農村の悲惨としてえがき、外に転嫁しないでほしい。それにしても、フィリピン(マニラ)が犀星の祖母を搾取していたというのは、……。

 フィリピン自生のマニラ麻は繊維が強く、軍事用ロープに最適なので、ミンダナオ島の日本農場で栽培され、日本に輸入(略奪)されていたのである。

必見! 映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』

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必見! 映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』
2020年3月4日(水)PM 1:00~2:55
NHK BSP シネマで放映

『ヒトラー暗殺、13分の誤算』は2015年のドイツ映画。
 1939年11月8日にヒトラー暗殺未遂事件を起こしたゲオルク・エルザーの人生を、1932年までさかのぼって描いたドラマ映画である。
【 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 】

参考書籍
『ヒトラー暗殺計画・42』(ヴィル・ベルトルト著、田村光彰他訳2015年)
『抵抗者―ゲオルグ・エルザーと尹奉吉』(田村光彰著2019年)

20200317 「室生犀星と戦争」に関する読書メモ

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「室生犀星と戦争」に関する読書メモ

1927年6月『庭を造る人』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176325
(メモ:1924年冬~1927年春)
211頁(117)[野口米次郎氏] 二十代には二十代の詩があり、三十代には三十代の詩があり、四十代五十代には人生の最終の詩があるといふ考へは間違ってゐない。段々年齢が高まり心が深くなるに従って詩もすゝんでゆくことは必然である。(注:1925年ころ、治安維持法)
315頁(169)[震災日録](赤羽)九月四日、早朝、岩淵の渡しを見るに、もはや人で一杯なり。…銃声と警鐘絶え間なし。(注:朝鮮人への襲撃か?)

1929年(40歳)『天馬の脚』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175899
序(5) 原稿は当然破棄すべきものを捨てて、自分の気に入ったものだけを本集にをさめた。…自分の変わりかけている、…あつめたものである。
26頁(27)[作家生活の不安]<全集から削除>「春」や「破戒」を読んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかった。…十年間「島崎藤村」を読んだものとして…。
31頁(29)[東洋の真実]<全集から削除> 西洋の作家(注:トルストイ、ドストエフスキーなど)は宗教風な観念に美と愛を感じてゐた。東洋の諸詩人は宗教よりも一掃手厚い真実を自然や人情の中に求めた。
90頁(59)[自叙伝]<全集から削除> 自分は此頃…自叙伝小説を書き始めた。…私は嘘を交ぜた、いい加減の美しさで捏ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、…
107頁(67)[詩壇の柱]<全集から削除> 大正三年(1914年)に出版されたこの詩集(注:「太陽の子」)の中には、今のプロレタリア詩集派の先駆的韻律と気魄とを同時に持ち合わせ、激しい一ト筋の青年福士孝次朗の炎は全巻に余燼なく燃え上がってゐた。詩は(一人の男に知恵をあたへ、一人の男に黄金のかたなをあたへ)の呼びかけから書き出して、左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記録を絶した力勁さで終ってゐる。「この男に声をあたへ/この男をゆりさまし/この男に閃きをあたへ/この男を立たしめよ」
132頁(80)[敵国の人]<全集から削除> 僕の知る限り芭蕉は一朝のさびや風流を説いた人ではない。…太平の元禄にあって、彼は社会主義者になる必要に迫られはしなかったらうが、併し彼は何よりも近代に生を享てゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。
168頁(98)[政治的情熱]<全集から削除> 今度の選挙(注:1928年か?)で、自分も労農党のM氏に一票を投じた。政治には興味を持たない自分だったが、何か旺んな情熱を感じその情熱に触れることは好ましい愉快さであった。菊池寛、藤森成吉二氏の落選には…何か腹立たしかった。…藤森氏は労働もされ、其道ににつかれたことには、自分は別に説を持ってゐる者ではあるが、…(注:藤森成吉:全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点。1933年2月 治安維持法違反で検挙)
177頁(102)[流行と不流行]<全集から削除> 此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗教的な雰囲気の中にさへ押し立てて、ジャーナリズムの惰性と麻痺とによるものと対抗する以外には立たないのである。…誠の作家は流行不流行に拘わらず、煮え湯を飲み喘ぐのも亦面白い興味のあるところであらう。

1934年『文芸林泉』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236014/15
82頁(62)[林芙美子の作品]林芙美子の「小區」を読む。…窪川稲子(注:佐多稲子)さんなどはかういふ気持ちや作風を人がらの上に多分もつ人であるが、近来こじつけて左翼的な作品にみんなあるだけを持って行かうとしてゐるのが、林芙美子をよむにつけても惜まれてならない。(注:プロレタリア文学)
517頁(282)[愛読史]昔(注:1917年・28才頃)、新潮社から「トルストイ研究」といふ薄かったが小気味よい雑誌が出てゐたころ、僕はトルストイの小説を片っ端から読み耽ってゐた。…ドストエフスキーの小説を自然に耽読するやうになった。この小説は僕に人道主義やらなにやら分からんが、妙な文学のなかにのみあるやうな宗教心をあふってくれ、僕はさういふ傾向の詩ばかり書いて暮らしていた。(注:ロシア革命の影響か?)

1935年2月『慈眼山随筆』  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177039/154
119頁(66)[書物雑感]僕の「愛の詩集」はドストエフスキーを読んでゐた時分で、その影響を受けてゐた。人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかったのである。
198頁(106)[大衆物、転向の問題]今月号のどの雑誌を見ても大衆文芸が一編も掲げられてゐない。…大衆文学が発展すれば勝手にしてもいい。転向作家は転向したければすればいいのであって、人間のすることで厭なことがあれば止めればいいのだ。それを眼くじり立てて言ふほどのことはない。…かれらも皆苦労してきた人である。転向でも何でもして文学的な仕事をすればいいのだ。弱みをほじくり返すことはしたくない。(注:転向の原因には無関心)
249頁(131)[中野重治君に送る手紙](注:書かれたのは1934年なので、中野重治が検束された直後か?)
291頁(152)[晴れやかなる一瞬]文学は正義につくか汚辱につくか。二つしか道がない。(注:犀星はどっちだ!)
304頁(159)[風流の処刑]ナチスの焚書のなかで大抵のドイツの風流本は焚かれてしまった。(注:日本のことは書かないのか)

1936年『薔薇の羮(あつもの)』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231597
(注:1930、31年の随筆)
7頁(17)[寒蝉雑記]この茶房に来る途中、金沢にも始めてメーデー(注:1929年第1回メーデー)があったらしく、電柱に貼られたポスターが剥奪されながらも、糊強く電柱に食ひ込んでゐた。…故郷の町にも、時代の運動が遅れ馳せながら来たかと思ふと頼母しくも壮烈さを感じずにはゐられなかった。…芸術文人を友とする自分なども必ずしも先走りを勤め、鳴き立てゝも、仕方なかった。蛙が剣を持って立ったとて何の役に立たう。
51頁(39)[アスパラガスの模倣] 千九百五年代の初期の女給さんの息子は、すでに華々しく大学に通うてゐた。…お腹には凡ゆる映画と、詩と小説と音楽とマルクスやレーニンのはげ頭をつめ込んでゐた。
63頁(45)[人造人間]若し「人造人間」(注:クローンのこと)の科学的現象が完全に成績づけられるとしたら、我々人類は絶対に資本主義のもとに征服せられるに違ひない。何故なれば人造人間に要する経済上の資本は莫大な巨額に上るであらう。その充実に拠ってのみ人間が製造せられるからである。
121頁(74)[自然論]自分はどういふ時にも自然を自然のままで感じることはできない。そこに自分の気持を交へずには居られぬ。人間の感情を潜らない自然には、最早美しさを感じない。人間の悲哀感や歓喜の情を過ぎた自然であることにより、強根い美しさと、消えない微妙さを交へてゐるのである。
132頁(80)[天の美禄]自分は軽井沢にゐる間に何時も何か不安を感じてゐた。それは何時どういふ時に天災的なものがブルジョアばかり集まったこの山中を見舞ふかも分らない。天災ですら、ブルジョアを避けて通った過去の埋積が、一朝どういふ運命を携へて来るか分らないからである。
213頁(120)[文芸雑稿] 随筆は作者の心境と身辺を描くための文学である。同時に又凡ゆる文学中の散兵のやうなものであり、又それらの密集は厳然たる大なる文学でなければならぬ。
291頁(159)[人物と批評]「戦旗」の中野重治氏の小説「春さきの風」を読み、啻(ただ)に今月中の佳作ばかりでなく、最近プロレタリア文芸の作家のうちでも、最も秀れたものであることを感じた。(注:「春さきの風」は1928年3・15弾圧後の、8月執筆)
307頁(167)[将軍]彼(芥川龍之介)は此作品に於て戦争を否定し、偽悪を指摘してゐた当然打込むべきものを十分に打込むことを為し得なかったのも、時流はこれを許さないからであった。(1922年11月)
317頁(172)[既成詩壇の人々]福士幸次郎に至っては全巻中に鑿乎として輝き、彼が詩人としての本格的性根を奈何に確かりと握ってゐるかが、その数編によって物語り尽くしてゐた。

1936年『印刷庭苑 犀星随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172474
「文芸時評」の項があり、犀星は30人ほどの作家・作品について評論している。
243頁(126)[文芸時評<市井の塵埃>]島木健作の「一過程」も左翼の空気を手堅く描出し、芹沢治良氏も「風逃」でやはりさういう色彩を出し、細田源吉氏の「長雨」も留置場のことを書いてゐられた…。私はかういふ留置場や嫌疑や策動的生活がいまは全きまでに過ぎ去った事がらになつてゐるのを、何故に掘り返すのか、それが芸術としての永遠不抜なものになるのか知らと考えながら読んだ。ただ、私は私の心の痛みだけを感じたに過ぎなかった。細田源吉氏のやうな温厚な一作家にも、かういう悲しい生活の加へられてあつた事件をいたくも身につまされたのである。同時にかういふ単に人の心を痛ましめるだけで、芸術上の昂揚も喜びも感じない作品を読んだことが決して私の幸福でないやうに思はれた。

1937年9月『駱駝行』  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258309
序文 私自身の新聞的記述に過ぎない随筆類は、もはや顧る必要さへないのである。
32頁(21)[駱駝行](二百三高地)七千五百人の肉と魂とで占領したこの山頂
122頁(66)[全集期の作家]自然主義時代でも文士は社会的地位を持ってゐた。国木田独歩氏や田山花袋氏、二葉亭四迷氏なども日露戦争に従軍して、愛国の文字を聞かしてゐた。…若しさういふ戦争の機会があって文学者が従軍するとしたら、恐らく全文学者が立って従軍を希望するであらうと思ふのだ。平常、文学者は何や彼やと我儘を云っても、最も熱烈に従軍するのも文学者であれば、また詳細くまなく戦争を記録するのも文学者であらう。かういふ時の文学者こそ鉄火のごとき筆を撫して一国のために戦ひ描くことを思へば、文学者の熱烈こそ、褒め讃へられるべきだと思ふ。
140頁(75)[文学四方山話<芸術院と懇話会>](芸術院について)文学と国家とを結び付けて行くべきである。そして各文学分野の人々が一丸となって一国の文学を名誉や栄達による表彰をしないで、十分な年金あるひは賞金制度によって如何にも国家らしい保護をこそ望ましいのだ。
149頁(79)[実行する文学]昨夏(1936年)、機会があって伊沢多喜男氏をはじめ近衛文麿氏、永井柳太郎氏、鳩山一郎氏などと云ふ、政界の巨頭達と一夕会見を俱にした…。
154頁(82)[実行する文学]大臣もまた一国の文芸家とともに国家と文学といふ問題の為にも、また文運を祝福するためにも、度々会見すべきではなかろうかと思はれた。
158頁(84)[実行する文学]文学が国家的に働きかけて貰ひ、漠然たる意味ではあるが、善きを善くすべき人生の諸現象に就て、最も深き力を示されたいといふ伊沢さんの意見であった。私はこの伊沢さんの意見をよしとして…。
159頁(85)[実行する文学]政治家と我々の接触は文学の広さをひろげるし、また文学を仲間以外にひろげることも出来るからである。少くとも文学現象は最高文化であるのであるから、政治の高さとともにもうそろそろ握手をして、大臣も我々の友人としなければならないと考へてゐる。
162頁(86)[実行する文学]文学といふものにも、文学としての使命や目的がある程、文学の大きさや深さがあるのではないかと思はれ出した。人道主義でもいいし、国家主義でもいいし、感傷主義でもいいし…
163頁(86)[実行する文学]文学を利用すべき機関に必要あれば我々は力を藉し、また文学を利用してよいやうなことがらにも、我々は碌でもない潔癖を取捨てて結びつきたいのである。
165頁(87)[実行する文学]私は哈爾浜かチチハル及びそれらの地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。(注:1937年4月~)
166頁(88)[実行する文学]文学が断ち拓いてゆくべき分野が非常に広大であり、且つ甚だ国家的であることを人々は知るであらう。
222頁(116)[新年時評]「雑踏」(中央公論1937年1月)の中條百合子氏は長篇の発端とされてゐるが、左翼後期のもので私には材料それ自身が向かないものである。左翼くさいものを見ると、活字面を見るだけで、もふ飽きてしまふのである。片岡鉄兵氏の「摩擦」も左翼ものでその愛欲の一挿話が書かれてゐるが、左翼くさい故を以て又私に向かざるものであった。今日かくのごとき左翼くさいものがこの時代と何の関係のない出流れであることが、それらの小説を見ると痛烈にさう感じられた。そんな人生に食ひ付いたり未練があったりするのは、作家を退歩させるばかりである。日本に於ける左翼ものの後始末は作品的に島木健作氏で打止めにした方がよい。

1939年『あやめ文章』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1263455
35頁(22)[五十歳の夕暮れ]私もやっと五十歳になった。(注:1938年か)
73頁(41)[翡翠]事変以来、支那人は可愛相に思はれても誰も指一本ささず寧ろ同情されてゐる程であり、日本人は大国の胸をひろげるやうになり、敵国の善き民を憎む者が一人もゐないことは誇っていいことであった。
91頁(50)[永遠の飛行]先日、百十数台の飛行機が大森の空にも訪れて来たが、…上海や南京、広東の空爆の新聞記事を夏(注:1937・7・7)以来読み続けてきた私は、…。今次の戦争で、我国の飛行機が我々日常生活のなかで黙って永い間仕事をしてゐたことを、我々平常では知る由もなかったのであるが、その果敢勇猛な活躍振りを見ていかに黙って仕事をしてゐたことの尊いかを知ったのである。…大同陥落では石仏寺が無事であったことを知り、我が軍の古美術を劬(いたわる)気概にいたくも打たれた。…近時文学者の戦時的な感想には出征同胞を思ふに切、そして文学に活を入れる心構へを見ることも心嬉しいことである。…皆、勇気凜々として襟を正してゐるやうな傾きが見られる。文学者がその文学にかくまでに自信を持ってゐることも、既往に徴して全く珍しいことと言ってよい。以後、戦地に出かける文学者が続出するであらう。
101頁(55)[春は蘭は]パアル・バックの「大地」を読み、「阿部一族」や「モダン・タイムス」を見てから間もなく、今年の春は…。去春哈爾浜に…。
101頁(55)[きのふけふ]けふ、岸田国士君の「文藝春秋」の北支日本色といふ一文を読んで、…読みごたへがあって面白かった。…詩人三好達治なども…自ら進んで上海に飛び出したことも、意味深く壯としなければならぬ。…東洋では、神の名前は出さないが、何時も正義の前には戦争をするのである。
125頁(67)[文学者と画家]著作法によっても教科書に採用される詩及び文学作品は、改竄されることは勿論、それに原稿料を支払はなくてもいゝことになってゐる。

1940年『一日も此君なかるべからず 随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1143933
15頁(14)[家庭のともしび<大戦の思ひで>]世界大戦のころ私は二十二歳くらひで…。
16頁(16)[大戦の思ひで]欧州戦争中は私も戦争の詩を書いたものであるが、今から見ると読むに耐へぬ詩ばかりであった。
23頁(18)[大戦の思ひで]きのふ社用をおびて来られた人で、その翌日、もう応召されたこともあとで聞いたこともあった。…加藤愛夫といふ詩人…。…事変は文学者には文学の畑をもって近づいて来てゐることも美しいことに思はれた。
83頁(48)[燐寸]歴代の大臣は文学者とあまり離れすぎてゐるため、…大臣の方からも、文学者の方からも時々集まって晩餐くらゐ一緒にしておけば、…国民の心を心とする文学者の意見も加はる機会が作られるのである。
172頁(93)[文学は文学の戦場に]俄然として日本ぢうが澎湃たる軍歌で湧き上がった。…戦争が文学的分野にその影響を最初にあたへたものは俳句と和歌であった。戦争のために作られたものが少しづつ表はれてゐるが、未だ手重い作品を見るべくもないのは詩人が戦争に参与してゐる数が少ないからである。…榊山潤氏の一、二の作品にそのほとばしりを見たが、大局の上からは、戦争文学の入口にまで行ってゐないのである。併し逸早くこの青年作家がそこに着目創作したといふことは認めていいことである。かういう事変下にある文学者としての私の心境はどういふふうに変わったであらうか。…私は先年満州に赴いた時、何らかの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひお持って行ったのである。…戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起って調べるのもいいであらう。だが、私はさういふがらにないことに出しゃばりたくない。
186頁(100)[自戒]かかる戦時下にあっては、私の心をしめ付けてゐるものは、ふしぎにも私自身の文学へのしめ付けであり、自戒の厳しさの中にあることである。かういふ事変下にあって私自身の文学はどう変わりようがなくても、その文学精神にぴったりとした今までに見られないものをひと筋打徹したい願ひを持ち…。戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、…私は私流に一そうみがくことを怠らなければいいのである。…作家は何か変わりかけた時分には、…作家は書かずにゐなければならず、書けないのである。
194頁(104)[小説の奥]二千六百年(注:1940年)を讃へる諸家の詩や歌を読んで美しいこけおどかしの詩句ばかりならべてあるのに、私は悲観してしまった。…私は新春とともに併せて感じるものは自分の文学もひっくるめて漠然として空虚極まるものである。無際限にひろがった空虚のなかで、私は人のやうに方向が立たず、また方向を立ててもそんなものは直ぐに壊れてしまふ状態では、全く空虚の広さの中で生きるより外はないのである。
202頁(108)[文学とラヂオ]…仏国は降伏してしまった。
211頁(112)[䔥條人]毎木曜日ごとに文部省の映画委員会に私は出向いて…
220頁(117)[平和なき文学<緑色の帽子>]まだ二十五くらゐの時分(注:1914年ごろ)…どういふ用事があったのか、私は生田長江氏を本郷の古城のような家にたずねた。(留守で会えなかった)
257頁(135)[陣をしく女流作家]戦争は文壇を真二つに叩き割った。一つは従軍文士の華々しい人気と、一つは従軍しない文士の何か淋しげな気負ひとである。…私は文士は一人のこらず何かの機会に従軍しないまでも戦地に赴いた方がいいと考へてゐる。
288頁(151)[俳句・詩・小説<詩>]毎日トルストイとドストエフスキーを読んで、新しい感激に浸ってゐた。だから「愛の詩集」(注:30歳の時)と「第二愛の詩集」にはトルストイとドストエフスキーの影響がにじみでてゐるのは当然。…おそらく今後もはや詩集を上梓することはあるまいと思ふ。
314頁(164)[女優と映画史]女の人は美しくなかったら私には感情的には何の波動も感じないのである。

1941年『花霙』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130197/101
178頁(96)~[加藤愛夫氏詩集「進軍」序]
184頁(99)~[佐藤惣之助の「従軍詩集」]評論
189頁(101)~[佐藤春夫著「戦線詩集」]評論

1942年『泥雀の歌』5月25日 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069460
184頁(98)[愛の詩集]トルストイ、ドストエフスキーを読みふけった
186頁(99)[愛の詩集]当時の私の詩集が妙に人道主義めいたいやらしい傾向を帯びてゐるのも、残念ながらロシア文学の影響
214頁(113)[小供の死]芥川が(軽井沢に)やってきたのは震災の前の年と、後の十三年。
283頁(147)[哈爾浜の章]突然日支事変が起った。私の書くものは詩にとどまることに美しさを感じ、もう、市井鬼の群からずっとはなれてその仕事は続けられた。
284頁(148)[哈爾浜の章]文学ばかりではなく、事変は一さい改変と䔥整をあたへ、日本は新しい心とその装ひとをその両面からととのへて行った、これは一さいを良くしてかかる最初の声であり、とうに此処まで来るやうに過去からだんだん積みかさねられて来たものだった。かううふときにこそ文学の温かい乳ぶさを人びとにおくらねばなぬのだ。
292頁(152)[後記?]この稿を終えた時、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が開かれた。そしてまたたく間に勝利は相ついで臻(いた)った。南方へ、シンガポールへ、怒濤は艦列をつくり迫りに迫った。

20200330【論考】石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

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【論考】石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

目次
はじめに
Ⅰ 概略:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤島田清次郎/⑥杉森久英
Ⅱ 犀星:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私達

はじめに
 明治以降の近代文学は戦争と弾圧のなかで、あるいは否定的に、あるいは順応的に育まれてきた。江華島事件、日清戦争(台湾割奪)、日露戦争(樺太・千島略奪)、朝鮮併合(植民地化)、第1次世界大戦(欧州戦争)、シベリア出兵、満州事変(中国東北部侵略)、盧溝橋事件(日中開戦)、日米開戦(アジア太平洋侵略戦争)と、戦争が打ち続く77年だった。
 その戦争遂行のために、弾圧と検閲・発禁が伴走した。1869年出版条例、1873年新聞紙発行条目、1875年讒謗律、1975年新聞紙条例、1884年爆発物取締罰則、1887年保安条例、1893年出版法、1900年治安警察法、1909年新聞紙法、1911年特別高等警察設置、1921年興行場及興行取締心得、1925年治安維持法、1926年日本文藝家協会、1936年不穏文書臨時取締法、1937年国民精神総動員計画、1937年帝国芸術院、1937年文化勲章令、1938年国家総動員法、1939年映画法、1940年情報局設置、1940年体制翼賛会結成、1941年新聞紙等掲載制限令、1941年言論・出版・集会・結社等臨時取締法、1942年ペン部隊、1942年日本文学報国会設立へと弾圧と検閲と動員のための法律や機関が次々とつくられていった。
 その戦争のなかで作家生活をおくった室生犀星をはじめとした石川県由縁の作家たちは、自らを表現するために、七転八倒の苦悩を抱え込んでいたに違いない。その苦悩と反省のなかから、現代の表現者のあり方を問いたいと思う。
 本論考の主要テーマは「室生犀星と戦争」であるが、<Ⅰ項 概略>では犀星と同時代の石川県由縁の作家、泉鏡花、徳田秋声、中野重治、鶴彬、島田清次郎、杉本久英の作品に表れた戦争観の概略を俯瞰しておきたい。犀星については、<Ⅱ項 本論>で展開する。

Ⅰ 概略:石川の作家と戦争
(1)泉鏡花
 泉鏡花は戦争をテーマにした作品として、日清戦争中に『予備兵』、戦後に『海城発電』、『琵琶伝』、『凱旋祭』、日露戦争中に『柳小島』を執筆している。

1894年『予備兵』
 日清戦争で、予備兵として召集された陸軍少尉の物語である。第四高等中学医学部講師が娘の円(まどか)と恋仲にある少尉と結婚させようとしていたが、すでに召集令状が届いていて、8月中旬の早朝、部隊は金沢城の南門を出発したが、手取川まで来たところで、少尉が日射病で倒れ、運搬婦に変装してついてきた円に見守られて死ぬ。

 日清戦争への挙国一致的状況下で、義母から「ねえお前、恐多いことだけれども、天子様の御心をお察申上げた日には、数にも足りない私たちのやうな老朽(としより)だッて、なかなか安閑としちや在られまいぢやないかね」と同意を求められても、陸軍少尉は飽くまでも冷静に対応している。戦争熱に浮かされた壮士からリンチを受けても、恭順せず、名を聞かれた陸軍少尉は「姓は卑屈、名は許多(いくらも)あります。無気力、破廉恥、不忠不義とも国賊とも」と答えている。日清戦争の真っただ中で、鏡花は反戦・非戦的ではないが、戦争と一線を画しているようだ。

1896年『海城発電』
 日清戦争で、捕虜となった赤十字の日本人看護員が解放された後、軍夫に査問され、敵の情報を話せと迫られても、頑として言うことを聞かない看護員の話しである。「看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、左様なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です」と、国際赤十字社員の敵味方区別なく看護するという立場を崩さないのである。しかし、看護員の知人・柳李花が日本人軍夫に陵辱され殺される場面で、看護員は看護員としての義務にだけ忠実にして、李花を見捨ててしまう。軍夫も、看護員もその任務・義務に縛られて、人間性を失わせる戦争の不条理を見つめる鏡花の醒めた目がそこにあるようだ。

1896年『琵琶伝』
 お通は従兄弟の謙三郎と好き合っているにも拘わらず、陸軍尉官に無理やり嫁がせられた。謙三郎は徴兵され、お通の母親は、せめて一目でも顔を見せてから行くように頼んだ。もし会いに行けば集合時間に間に合わず、脱営者となるので、謙三郎は拒んだが、自分も本心は会いたい一心で、ついに願いを聞いた。
 謙三郎はお通を訪ねたが入れてもらえず、「三昼夜麻畑の中に蟄伏(ちっぷく)して、一たびその身に会せんため、一粒(りゅう)の飯(いい)をだに口にせで、かえりて湿虫(注:ワラジムシ)の餌(えば)となれる」。「万籟(ばんらい)天地声なき時、門(かど)の戸を幽(かすか)に叩きて、『通ちゃん、通ちゃん。』と二声呼ぶ」。老夫(じじい)が戸を開けると、謙三郎は持っていた銃剣で老夫の喉を突いて殺し、陸軍尉官に捕らえられ、わずか一瞬の逢い引きだった。
 「出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。」お通が謙三郎の墓参りに行くと、良人(陸軍尉官)が、足で蹴って痰をぺっと吐きかけている。お通が駆け寄り、良人(陸軍尉官)の首に噛みつき、お通は撃たれ、「『謙さん。』といえるがまま、がッくり横に僵(たお)れたり」。

1897年『凱旋祭』
 日清戦争の戦勝に酔う人々のなかで、戦死した少尉夫人の悲しみに同情する鏡花の姿勢は明らかに非戦の立場にある。「式場なる公園(注:兼六園)の片隅に、人を避けて悄然(しょうぜん)と立ちて、淋(さび)しげにあたりを見まはしをられ候、一個(ひとり)年若き佳人にござ候」、「あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生(注:鏡花)はさて置きて夫人のみあはれに悄(しお)れて見え候」と、戦争が家族を引き裂く悲しみを描いている。
 徴兵令は1873年に発布されたが、当初は国民から受け入れられなかった。軍人勅諭(1882年)や教育勅語(1890年)の普及、日清・日露戦争で定着していったが、鏡花は徴兵よりも愛を重視する青年を描いた。1893年に出版法が成立したが、その翌年の作品であり、まだ反戦・非戦の論調は伏せ字にもされず、人々の心を揺さぶっていた。

1904年『柳小島』
 日露戦争真っただ中に発表された『柳小島』では、巡査から「露西亜と戦争中であるんだぞ。国家の安危の分るゝ処ぢゃ。うむ、貴様どんな心得で、悠長な真似をするのぢゃい。」と詰問された魚釣の青年は「露西亜と戦をして居りや、…鯔(ぼら)を釣ってなんねえかね。」と、冷ややかに対応する。巡査は魚釣の青年を「国賊」と怒鳴りつける。
 村では日露戦争戦勝祈願がおこなわれているが、他方では貧乏な農民の稼ぎ手が徴兵され、貧困のどん底に突き落とされた家族の様子が描かれている。31歳の鏡花は戦争下で苦しむ人々の側に立ち、日清戦争時の「愛を引きさく戦争」から「生活を破壊する戦争」へと、より社会性の強い作品になっている。

晩年
 1937年6月、勅令280号で、帝国芸術院が発足し、晩年の泉鏡花も会員になっている。同年の文化勲章令で設置された文化勲章と一体の翼賛制度で、文化・芸術を天皇制の一角に組み込むための仕掛けである。戸坂潤は「帝国芸術院は…芸術の養老院ではあっても、必ずしも芸術の正常なアカデミーではない。 否、芸術のアカデミーではあっても、思想的な文化力を有つ機関では決してあり得ない」(『思想動員論』1937年9月)と書いている。島崎藤村、正宗白鳥、谷崎潤一郎は帝国芸術院会員となるよう推挙されたが辞退している。

(2)徳田秋声
 2018年に徳田秋声記念館で企画展「秋声の戦争」が催され、小林修さんが「戦時下の徳田秋声―日本文学報国会のことなど」という演題で講演をおこなった。記念館作成の「紹介文」と小林さんの「講演レジュメ」などを参考にして、秋声と戦争について概略を記すことにする。
 秋声にとっての戦争は日清戦争(22歳)、日露戦争(33歳)、欧州戦争(42歳)、満州事変(59歳)、盧溝橋事件・日中開戦(65歳)、日米開戦(69歳)と、総ての戦争を体験し、1943年71歳で亡くなっている。泉鏡花より1年早く生まれ、4年長く生きていた。

日清戦争時
 秋声は日清戦争直前の1893年に『ふゞき』で、落ちぶれた名家の弟は丁稚奉公に出され、妹と姉は花街に売られていく悲哀を描き、戦後の1896年の『薮かうじ』では部落差別を対象化し、あくまでも同情的態度で臨んでいる。
 同じ時期に、鏡花には『龍潭譚』(1896年)、『化鳥』(1897年)、『蛇くひ』、『山僧』(1898年)、『妖剣紀聞』(1920年)など、社会的差別を対象化した作品があるが、秋声と同じように同情的な内容である。1920年代の島田清次郎も『地上』で部落差別を扱っているが、全国水平社設立直前のこともあり、差別に立ち向かう被差別部落民の姿を描いている(後述)。

日露戦争時
 秋声が戦争を対象化するのは日露戦争以降である。1926年に、「戦争中は一寸(ちょっと)普通の小説ぢや売れないんだ。私なんかも仕方がないから、戦争小説見たやうな物を書いたことがある。」(「わが文壇生活の三十年」)と書いている。それは「春の月」(「文芸倶楽部」1904年4月号)で、「『父ちゃんのお膝で寝(ねん)ねしねえ。』と兼吉は横抱に臥(ねか)す。/『罪のねえもんだな。』/『此奴(こいつ)も又兵隊だ。其時分は、何所の国と戦をするだらう。』というくだりである。
 32歳の秋声は田山花袋や島崎藤村の影響を受けて、従軍記者になろうと準備をしていたが、友人の三島霜川に反対され、健康上も自信が持てなくて、思い止まったようだ。
 日露戦争後の1909年、文芸の保護と奨励を目的に文芸院設立構想が持ち上がったが、政府の真の狙いは、文芸の統制にあった。このとき、雑誌アンケートで、秋声は「わが国の文芸は今まで政府の保護を受けず、寧(むし)ろ迫害を受けながら発達してきた。政府が金を出しても文芸の奨励にならない。それより文芸趣味を国民の間に普及させることだ。文芸院などどうでもいいことだ」(「文章世界」1909年2月号)と批判的に受けとめていた。「言論統制」に危機感を持った文学者は同調せず、この計画は失敗に終わった。

満州事変後
 1934年に内務省が文芸統制のために「文芸懇話会」を設立し、その第1回会合において、秋声は「日本の文学は庶民階級の間から起り、庶民階級の手によつて今日まで発達して来たので、今頃政府から保護されると云はれても何だかをかしなものでその必要もない」と発言している。(広津和郎「德田さんの印象」1947年)
 1936年、武田麟太郎らは、雑誌から閉め出されていたプロレタリア作家の発表の場として『人民文庫』を発刊した。2月には、秋声も『人民文庫』の座談会に出席している。
 1936年10月に徳田秋声研究会を開いていたところに警察が踏み込み、無届け集会として、出席していた16人が連行されたが、3日ほどで釈放された。11月号掲載の平林彪吾「肉体の英雄」が検閲で12頁削除され、その後も各号で検閲にかかるなど、当局の監視が強まった。1937年以降も次々に発売禁止となり、各地で定期購読者が警察に呼び出された。
 治安維持法は猛威を振るい、盧溝橋事件後の1937年11月に「唯物論研究会」の岡邦雄、戸坂潤、服部之総、古在由重ら30余人が検挙され、同月『世界文化』の同人は治安維持法違反容疑で検挙され、12月には山川均ら460余人が逮捕され(第一次人民戦線事件)、内務省警保局は人民戦線派の執筆禁止を出版社に通告した。『人民文庫』は1938年1月号が発禁となり、終刊となった。

盧溝橋事件・日中開戦時
 1937年6月、「文芸懇話会」を「帝国芸術院」に衣替えし、秋声もひきつづきその会員となった。秋声は『月刊文章』(1937年9月号)で、「今度の北支事変(注:盧溝橋事件)は、戦争としてどこまで拡がって行くか、私達には予測はできない。世界戦のをり、マグドナルドは非戦論者だったが、国民から迫害を受けた。それで、戦争が始まった上は、できるだけ犠牲を少なくして、一日も早く平和の恢復するやうに善く戦はなければならないと言って、自身戦地へも行って見た。いかなる非戦論者でも、時と場合ではその主張に膠着している訳には行かない」(「戦争と文学」)と書き、秋声は祖国防衛・戦争支持にまわってしまった。
 それでも秋声は『改造』の9月号で、「巳之吉は何が何だか解らずに、プラットホームの群集の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラットホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。…後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。『畜生、行けない奴は陽気でゐやがる。』巳之吉は顔の筋肉の痙攣(ひきつけ)るのを感じた。やがて列車が動き出した。」(「戦時風景」)と、出征風景を描いている。巳之吉は万歳を叫ぶ巳子蔵にたいして、「畜生、行けない奴は陽気でゐやがる」と、本心を吐露している。この部分は3年後(1940年)の単行本収録時には検閲にかかり伏せ字にされている。
 ここで、祖国防衛主義を批判した幸徳秋水の主張を見ておきたい。幸徳秋水は『平民新聞』(1904年3月)の社説で、「社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君(注:ロシア人民)と我等(注:日本人民)とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、…然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。」と提言している。すなわち、自国の戦争を支持したとき、反戦・非戦は空念仏になってしまうのであり、秋声もこの道に迷い込んでしまったのである。

日米開戦後
 秋声は1941年6月から、「縮図」を連載しはじめるが、検閲がひどくて、9月15日の80回目で中断した。同年12月、開戦直後の文学者愛国大会で秋声は「戦果についてだけは敬意を表するが、今だに戦争というものは疑問を持ってゐる」と述べた、と円地文子は「女の秘密」で書いている。
 1941年12月28日『都新聞』で、秋声は「多難な東亜共栄圏確立に、…東洋に絡みついてゐた毒素に向つて鋭利な切開のメスを揮つたのは、海軍の力であり、我々は8日のラジオ放送によつて、開戦の大詔とともに…神業かとおもひ老の涙がにじむのであつた」、「事変以来喧しくいはれた日本精神といふものゝ、真の姿を私は茲に見た」(小林修資料より孫引き)と、真珠湾攻撃を感動的に受けとめている。
 1942年2月1日『新潮』で、死の前年(70歳)の秋声は「対米英戦争の開始とともに、太平洋に於る我海軍の迅速果敢の行動と、すばらしいその成果を耳にした時には、…その感動も亦一入であった」、「わが海軍の精神と技術…これこそ真の日本精神の精髄だとも崇めるべきであり、戦争以外の総ての分野にわたつて、汎くこの精神が師表となることを祈らざるを得ない」と、日本精神を謳歌し、「私は日本の政治国民生活が、…不純の分子も未だ悉く清算されたとは言へないかも知れず」(小林修資料より孫引き)と反戦・非戦勢力に苦言を呈し、1942年5月に発足した「日本文学報国会」では、小説部会長に就いた。
 1943年11月18日、徳田秋声は日本の敗戦を見ることなく、永眠の途についた。日清戦争からアジア太平洋侵略戦争までの総ての戦争を体験した71年だった。

(3)鶴彬
 私がはじめて鶴彬を意識したのは1980年代で、北斗書房のYさんから、カウンターに平積みされている文庫本『評伝 反戦川柳人・鶴彬』(一叩人著1983年)を指して、「金沢の左翼が鶴彬も知らんのか」と、強引に薦められたときであった。しばらく立ち読みして、5冊購入して、友人に転売した。鶴彬と同じ高松町生まれで、北陸中日新聞社に勤務していたKさんにも手渡した。Kさんは、定年退職後、「鶴彬を顕彰する会」の中心メンバーとして活動し、『はばたき』の発行を精力的にこなし、鶴彬は多くの知るところとなった。
 鶴彬の青年期は日本がアジア太平洋侵略戦争に突き進む時代であり、年表的に略記すると次のようになる。
 1926年17歳の時に、「釈尊の 手をマルクスは かけめぐり」と宗教批判の川柳を詠み、18歳で、「高く積む 資本に迫る 蟻となれ」とマルクス主義に傾斜した。20歳で「軍神の 像の真下の 失業者」、「食堂が あっても食えぬ 失業者」と29年大恐慌下の失業者と心を一つにしている。
 1930年(21歳)に、金沢第七連隊に入営し、9月には七連隊赤化事件で逮捕された。1931年(22歳)に、懲役2年の判決を受けて、大阪衛戍監獄に収監された。満州事変が起きた年である。1933年(24歳)に満期出所し、原隊復帰し、12月に除隊し、活動を再開した。
 1934年(25歳)に、「目隠しされて 書かされてしまう □□(転向)書」と弾圧の厳しさを詠んでいるが、しかし鶴彬は転向を拒否し、「地下へくぐって 春へ、春への 導火線となろう」とたたかいを継続する。1936年(27歳)、「ざん壕で 読む妹を売る 手紙」を詠んで、徴兵で働き手を失った家族の窮状を詠うが、鶴彬はただ泣くだけの川柳人ではない。「枯れ芝よ 団結をして 春を待つ」と決して希望を捨てない。
 1937年(28歳)、鶴彬は「タマ除けを 生めよ殖やせよ 勲章をやろう」、「 高粱の 実りへ戦車と 靴の鋲」、そして最後の川柳「手と足を もいだ丸太に してかへし」と、盧溝橋事件から始まる中国侵略戦争を詠み、12月には、反戦川柳を発表した廉で検挙され、野方署に9カ月間留置され、1938年9月14日に、「蟻食を噛み殺したまま死んだ蟻」のように、非転向を貫き、壮絶な獄死を遂げたのである。29歳だった。

(4)中野重治
 中野重治は1902年に福井県で生まれ、1919年に金沢の第四高等学校に入学した。29歳満州事変、35歳盧溝橋事件、39歳日米開戦、43歳で敗戦を迎え、1979年77歳で亡くなった。中野重治は1926年(24歳)に日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に参加し、1928年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも参加している。1932年(30歳)に検挙されたが、1934年に転向を条件に出獄した。以後も中野は文学者として抵抗を継続し、時流批判を続けたため、1937年(35歳)に中條(宮本)百合子や戸坂潤らとともに執筆禁止の処分を受けている。
 『中野重治全集』第1巻を開くと、「夜明け前のさよなら」(1926年)があり、非合法下の活動家会議の緊張感が伝わってくる。久野収が「一字一字ノートに写した記憶がある」と書いているように、治安維持法下で苦闘していた人々の共通感覚だったのだろう。
 1970年代後半に、知人宅に一夜の宿を求めても、隣の部屋から夫婦のトゲトゲしい会話が漏れ聞こえ、翌朝そそくさといとまを告げた記憶が甦る。その頃、吉野せい作品集『洟をたらした神』(1974年)を読んだ。1935年の秋、二人連れの活動家が訪れ、荷物を2日間だけ預かってくれと頼み込むが、三野混沌はむげに断っている。そして何日か経って、特高が来て、三野混沌を連行していった。頼み込む活動家の切羽詰まった状況と、それを受け入れることができない三野混沌の状況は、痛いほど胸にしみた。
 「新聞をつくる人びとに」(1927年)、「雨の降る品川駅」(1929年)には、国境を越えた朝鮮人との連帯感がみなぎっている。願わくば、「まえ盾うしろ盾」は朝鮮人に依存するのではなく、中野重治こそが、日本人こそがその役を担わねばならないのだろう。
 1928年の短編小説「春さきの風」は犀星も絶賛している。3・15弾圧で、赤ん坊を抱えた女性が逮捕され、赤ん坊が病んでいても、ろくに医者に診せてもらえず、ついに留置場で泣き声が止む。女性は釈放されたが、良人はそのまま未決監に送られ、良人への手紙に「わたしらは侮辱のなかに生きています」としたためて、封を閉じている。ここには、まだ頑として転向を拒否する中野重治がいる。
 「いよいよ今日から」(1931年)、「今夜おれはおまえの寝息を聞いてやる」(1931年)には、弾圧に身構えた中野重治がいる。中野重治の詩は私の詩でもある。1968年春、万世橋の留置場で、隣の房からくぐもるような声でアリランが聞こえ、看守から「黙れ」と脅されても歌は止まらない。起訴され、東拘に送られ、「整列」、「番号」の号令がかかり、学生たちは「いち」、「に」、「さん」…「なな」、突然看守は「『なな』という数字はない、やり直し!」と。ふたたび、「いち」、「に」、「さん」…「しち」、そして私が「はち」と、蜂が刺すように叫んで、次につながり、入所の点呼は終わった。1930年代も、その40年後も変わらず、たたかう青年がいたのである。

(5)島田清次郎
 島田清次郎は1899年に生まれ、1930年に亡くなり、作家生活は1914年から25年までのわずか10年であり、その時期にはシベリア出兵があるが、大きな戦争を体験していない。島清の作品や随筆のなかに戦争に関連する記述を探してみた。

資本主義批判
 1916年から19年にかけての日記『早春』(1920年発行)では、宗教(暁烏敏)批判をおこなったうえで、1918年11月付で、米騒動について、「非文化的な騒乱や暴動」ではなく、「一般民衆運動が示した意外の実力と信念…選挙権拡張の準備をさせてゐる」と評価している。
 1920年(21歳)発行の創作ノート『閃光雑記』では、マルクスの剰余利潤説について述べており、資本論に目を通していた節が見られ、同年8月に、堺利彦や山川均が呼びかける日本社会主義同盟に参加したが、翌年5月には解散させられている。このように、島清は社会主義を以て自らの信条としていた。

排外主義批判
 1920年に公刊された『二つの道』では島清による国家社会主義批判が展開されている。「支那(ママ)のあの豊穣な大陸や南洋の諸島が必要」、「階級戦は…国家民族の消滅」と、民族の融和と階級闘争の放棄を主張する論争相手にたいして、島清は「資本家階級の一切の文明は…たたきつぶしても惜しくないニセ文明」と、日本資本主義をこそ打倒しなければならないと訴えている。
 『早春』では、1919年の3・1朝鮮独立運動直後に、島清は「(朝鮮人を)愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない」と書いているが、朝鮮併合への批判はなく、朝鮮独立運動への共感・支持も表明されていない。また、「私は…必然的に現在の国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野(泡鳴)氏の日本主義なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ。」と、痛烈に排外主義を批判している。

部落差別批判
 島清の社会感覚として特筆すべきは、部落解放運動への熱烈な支持である。『地上』第2部では、子どもたちの間で展開される部落差別が描かれているが、第3部では一転して、「少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××××が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ」と、差別に立ち向かう部落民の姿を生き生きと描き、画然としている。(××は差別用語なので伏字にした)
 しかし、1925年の徳富蘇峰への手紙では、「水平社族」などと、たたかう部落民を罵倒しており、晩年の階級意識は後退している。

 島清が活動した時期は日清・日露戦争で成長した日本資本主義の矛盾が顕在化し、資本主義批判が普遍化してきた時代であるが、戦間期であり、戦争に関する直接的な記述はほとんどない。

(6)杉森久英
 杉森久英は1912年に生まれ、19歳で満州事変、25歳で盧溝橋事件、29歳で日米戦争を内地で体験しているが、戦前戦中の作品はない。杉森は1934年に大学国文科を卒業し、公立学校教員、中央公論社編集部を経て、大政翼賛会文化部で働いていたが、ここは国民総動員の一環として文化人・文化団体の活動を慫慂し、翼賛文化運動を推進する中軸的組織であった。
 戦後1953年の短篇小説『猿』が芥川賞候補になったのを機に作家生活を始め、『新潮』(1957年6月号)に「『三光』に抗議する」(注:『三光』神吉晴夫氏編)という7000字ほどの評論を投稿し、杉森久英の戦争観を披瀝している。

「『三光』に抗議する」
 「抑留されている日本人が、抑留している中国人民にむかって、自分の罪を謝するという、非常に特殊な形で書かれたものばかりである。」、「この本を読んでいるうちに、胸の底からこみあげてくるこの嫌悪感、いらだたしさ、そしてウサン臭さの感情」、「日本人によつて、日本人の暴虐は醜く描かれ、中国人の犠牲は美しく描かれていることに、僕の神経はこだわるのだ。」、「自分ならびに同胞の非行を、他国人の前に公然と暴き立て、悔悟し、謝罪するこの人たちのやり方を、平静な感情で見すごすことはできない。そこには何か、おそろしく不自然なものがある。」、「戦争そのものが本来残虐なものである。残虐はおたがい様でないのか。ある場合、平和な村が戦火にさらされ、良民被害を受け、作戦上の都合のため、食料が徴発され、家が焼かれることもないとは限らぬかもしれぬ。」、「民族間の敵意や対立が問題になっているとき、やたらに婦女暴行を持ち出してはいけないと信ずる」と、謝罪不必要論を全面的に展開している。

「戦場に捨てる命と金」
 もうひとつは、1993年7月13日付け『北國新聞』に投稿された杉森の「戦場に捨てる命と金」という1600字ほどの評論である。
 「戦場では、女性も食料や弾薬と同じく、必需品である。若さと血気に溢れ、人を殺すことを何とも思わず、自分自身の命さえ考えない若者にむかって、禁欲と節制を説いても無駄であろう。」、「(戦場で)男の捨てる金を、チャッカリ拾うのが女の仕事である。女たちはそんなのを集めて、国もとへ送金したり、帰ってから豪邸を建てたりする。」、「泣き叫ぶのを、容赦せず連行されたと言うが、ほんとかしらん。…そういう話しを信じて、救済だの補償だのと騒ぐのも、どんなものかと思う。」と。

戦争という魔物
 杉森は、二つの評論で、日本の侵略戦争と植民地支配によって引き起こされた被害を極小化し、加害責任をできる限り小さく見せかけ、アジア人女性を性奴隷にした事実を茶化し、笑い飛ばし、戦争はそんなものだと居直っているのである。
 戦争の真っただ中で、七転八倒して執筆活動をしていた鏡花、秋声、犀星、中野、鶴彬はそれぞれの道を歩んでおり、その人生は苦悩の塊であったが、杉森は戦後に作家活動を開始したころも、その終末期も、ついに自らも体験したはずの戦争という魔物を対象化することができなかったのである。

つづく

【論考】承前 石川由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

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【論考】承前 石川由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

目次
はじめに
Ⅰ 概略:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤島田清次郎/⑥杉森久英
Ⅱ 犀星:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私達

Ⅱ 犀星について

動機
 私は、もともと室生犀星の愛読者ではない。2年前から外来昆虫シタベニハゴロモについて調べていて、犀星の『動物詩集』(1943年、犀星54歳)の存在を知った。
 序詩には「生きものの/いのちをとらば/生きものはかなしかるらん。/生きものをかなしがらすな。/生きもののいのちをとるな。」とあり、戦争の真っただ中で、「(人を)殺すな」というメッセージが込められている。
 なかなかいいじゃないかと、読み進めていくと、「蛤のうた」があり、「蛤の背中を/とんとんたたくものがゐる/誰だとたづねると/浅蜊だといふ。/蛤と浅蜊は/兄弟のやうなものだらう。/蛤にだかれて/浅蜊は寝てゐます、/蛤の背中に海が怒つて/太平洋はいま戦争中だ。/そしていくさは/大勝利だ。」と。
 これは戦争詩か。蛤と浅蜊が仲良く抱き合っているところに、突然海が怒り出すって、海って誰だ。なぜ、そのあとに戦争がやってくるのだ。論理主義に慣れ親しんできた私には、意味不明、論理不在、理解不能の世界だ。
 それで、「犀星と戦争」をキーワードにして、インターネット検索すると、国立国会図書館デジタルコレクションに、詩集『美以久佐』(1943年7月発行)がヒットした。「美以久佐」とは何んだ? 聞いたことも、見たこともないフレーズだ。あれこれ考えると、「美いくさ」のようで、「美しい戦争」ではなく、「御戦(みいくさ)」であり、「天皇の戦争」という意味で、最上級の敬語で侵略戦争を詠っている。
 ページを繰り、目次を見ると、序詩(勝たせたまへ)、日本の歌(臣らの歌/十二月八日/マニラ陥落/日本の朝/怒濤/ふたたびその日/遠天/シンガポール陥落す)、みいくさ(勝たせたまへ/日本の歌/今年の春/夜半の文/女性大歌)など、詩35篇と短歌55首が収められている。
 私の知らない戦争詩人・犀星がそこにいた。解説も説明もいらない、単純明解な詩がそこにある。そのなかから、戦争詩5篇を末尾に紹介しよう。

(1)犀星の随筆を対象化
 犀星は1920年代から創作活動を始めており、その作品群を読めば、犀星の全体像を理解できるのだろうが、私にはそのような文学的素養がないので、1920年代半ばから敗戦までの随筆に頼ることにした。
 犀星は1936年の『薔薇の羮(あつもの)』(213頁)で、「随筆は作者の心境と身辺を描くための文学である。…それらの密集は厳然たる大なる文学でなければならぬ。」と書き、1937年の『駱駝行』の序文では、「私自身の新聞的記述に過ぎない随筆類は、もはや顧る必要さへないのである。」とも書いている。書いている時は、書きたい、書かねばならないという衝動に駆られ、時が過ぎればゴミ箱に入れたくなるのは、もの書きの共通する感情なのだろうが、いずれにしても、私には犀星の随筆群しか手がかりがなく、これらの随筆を通して、犀星が戦争詩にたどり着いた経緯を書こうと思う。
 犀星の随筆の多くは国立国会図書館デジタルコレクションにアップされており、『魚眠洞随筆』(1925年)/『庭を造る人』(1927年)/『天馬の脚』(1929年)/『庭と木』(1930年)/『茱萸(ぐみ)の酒』(1933年)/『文芸林泉』(1934年)/『慈眼山随筆』(1935年)/『復讐』(1935年)/『随筆文学』(1935年)/『印刷庭苑』(1936年)/『薔薇の羮』(1936年)/『駱駝行』(1937年)/『作家の手記』(1938年)/『あやめ文章』(1939年)/『一日も此君なかるべからず』(1940年)/『花霙』(1941年)/『泥雀の歌』(1942年)/『芭蕉襍記』(1942年)/『日本の庭』(1943年)などがある。

(2)犀星の作家的原点
 犀星は、「昔、新潮社から『トルストイ研究』といふ薄かったが小気味よい雑誌が出てゐたころ、僕はトルストイの小説を片っ端から読み耽ってゐた。…ドストエフスキーの小説を自然に耽読するやうになった。この小説は僕に人道主義やらなにやら分からんが、妙な文学のなかにのみあるやうな宗教心をあふってくれ、僕はさういふ傾向の詩ばかり書いて暮らしていた。」(1934年『文芸林泉』517頁)、「僕の『愛の詩集』(1918年・29歳)はドストエフスキーを読んでゐた時分で、その影響を受けてゐた。人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかったのである。」(1935年『慈眼山随筆』119頁)、「毎日トルストイとドストエフスキーを読んで、新しい感激に浸ってゐた。だから『愛の詩集』と『第二愛の詩集』にはトルストイとドストエフスキーの影響がにじみでてゐるのは当然。」(1940年『一日も此君なかるべからず』288頁)などと書いている。
 これらの随筆は1917・8年28・9歳ころの犀星自身を振り返って評しており、犀星の作家的原点はトルストイやドストエフスキーの人道主義なのであろう。また、1917年ロシア革命も影響を与えていたのではないだろうか。
 トルストイやドストエフスキーに熱中していた初期の犀星は、1934・5年時点で「人道主義のやうな訳の分からぬもの」と、人道主義に懐疑的になり始めているが、1942年戦争下では、「当時の私の詩集が妙に人道主義めいたいやらしい傾向を帯びてゐるのも、残念ながらロシア文学の影響」(『泥雀の歌』186頁)と、言い訳がましく述べ、詩人犀星の原点ともいえる人道主義に唾を吐きかけている。

(3)プロレタリア文学への親和
 日本では、1920年代からプロレタリア文学が興きてくる。犀星は『天馬の脚』(1929年)で、「大正三年(1914年)に出版されたこの詩集(注:「太陽の子」)の中には、今のプロレタリア詩集派の先駆的韻律と気魄とを同時に持ち合わせ、激しい一ト筋の青年福士幸次朗の炎は全巻に余燼なく燃え上がってゐた。詩は[一人の男に知恵をあたへ、一人の男に黄金のかたなをあたへ]の呼びかけから書き出して、左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記録を絶した力勁さで終ってゐる。[この男に声をあたへ/この男をゆりさまし/この男に閃きをあたへ/この男を立たしめよ]」(107頁)と、福士幸次朗を高く評価している。しかし、1932年に福士幸次朗らは「日本ファシズム連盟」を結成し、極右勢力に合流している。
 また、『薔薇の羮(あつもの)』(1936年)中の「人物と批評」では、「中野重治氏の小説『春さきの風』を読み、啻(ただ)に今月中の佳作ばかりでなく、最近プロレタリア文芸の作家のうちでも、最も秀れたものであることを感じた。」(291頁)と、書いているが、『春さきの風』は1928年3・15弾圧後の8月に執筆された。その冒頭は「三月十五日につかまった人々の中に一人の赤ん坊がゐた」からはじまり、「わたし等は侮辱の中に生きてゐます」で締めくくられている。「人物と批評」は1930・31年ごろの執筆であり、この時点ではまだ、犀星はプロレタリア文学とは親和的である。
 同時期に、金沢に帰郷した犀星は「この茶房に来る途中、金沢にも始めてメーデーがあったらしく、電柱に貼られたポスターが剥奪されながらも、糊強く電柱に食ひ込んでゐた。…故郷の町にも、時代の運動が遅れ馳せながら来たかと思ふと頼母しくも壮烈さを感じずにはゐられなかった。」(同書7頁)と、1929年の第1回金沢メーデーに快哉を叫んでいる。300人の労働者が立ちあがり、鶴彬らはナップ(全日本無産者芸術連盟)と染め上げた法被(はっぴ)を着て参加した。1930年は600人、31年は400人、32年はメーデーが非合法化され、それでも40人が立ち上がった。
 『天馬の脚』(1929年)では、「今度の選挙(注:1928年、第16回衆議院議員選挙)で、自分も労農党のM氏に一票を投じた。政治には興味を持たない自分だったが、何か旺んな情熱を感じその情熱に触れることは好ましい愉快さであった。菊池寛、藤森成吉二氏の落選には…何か腹立たしかった。」(168頁)と、労農党支持を鮮明にしているが、他方では「マルクスやレーニンのはげ頭」(『薔薇の羮』51頁)とこき下ろしており、社会主義そのものには拒否感を持っていたのだろう。
 このように、1930年前後の犀星はプロレタリア文学と労働者階級のたたかいには、強いシンパシーを感じていたのである。

(4)プロレタリア文学に別離
 しかし、治安維持法と特別高等警察による社会主者への弾圧は年々厳しくなり、1933年2月20日には小林多喜二が築地警察署で獄死した。共産党員の〈転向〉が続出し、プロレタリア文学も徐々に衰退していった。1932年に「労農芸術家連盟」は解散し、1934年2月には、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)も解散を表明した。機を見て敏なのだろうか、犀星はプロレタリア文学にたいして、手のひらを返すように冷たく接するようになる。
 『文芸林泉』(1934年)では、犀星は「窪川稲子(注:佐多稲子)さんなどはかういふ気持ちや作風を人がらの上に多分もつ人であるが、近来こじつけて左翼的な作品にみんなあるだけを持って行かうとしてゐる」(82頁)とプロレタリア作家に嫌悪感をあらわにしている。
 『慈眼山随筆』(1935年)では、「人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかった」(66頁)と過去形で書き、「転向作家は転向したければすればいいのであって、人間のすることで厭なことがあれば止めればいい」(同書106頁)と、権力の暴政と向きあわず、権力の懐に這入る準備をしている。そして、「文学は正義につくか汚辱につくか。二つしか道がない」(同書152頁)と、みずからが「汚辱につく」ことを表明している。
 『印刷庭苑 犀星随筆集』(1936年)でも、「島木健作の『一過程』も左翼の空気を手堅く描出し、芹沢治良氏も『風逃』でやはりさういう色彩を出し、細田源吉氏の『長雨』も留置場のことを書いてゐられた…。私はかういふ留置場や嫌疑や策動的生活がいまは全きまでに過ぎ去った事がらになつてゐるのを、何故に掘り返すのか、それが芸術としての永遠不抜なものになるのか知らと考えながら読んだ。ただ、私は私の心の痛みだけを感じたに過ぎなかった。細田源吉氏のやうな温厚な一作家にも、かういう悲しい生活の加へられてあつた事件をいたくも身につまされたのである。同時にかういふ単に人の心を痛ましめるだけで、芸術上の昂揚も喜びも感じない作品を読んだことが決して私の幸福でないやうに思はれた。」(243頁)と、プロレタリア文学にたいして、対立的な評価を開始している。
 『駱駝行』(1937年9月)では、犀星は「『雑踏』(中央公論1937年1月)の中條百合子氏は長篇の発端とされてゐるが、左翼後期のもので、私には材料それ自身が向かないものである。左翼くさいものを見ると、活字面を見るだけで、もふ飽きてしまふのである。片岡鉄兵氏の『摩擦』も左翼ものでその愛欲の一挿話が書かれてゐるが、左翼くさい故を以て又私に向かざるものであった。今日かくのごとき左翼くさいものがこの時代と何の関係のない出流れであることが、それらの小説を見ると痛烈にさう感じられた。」(222頁)と、1937年の春ごろには、プロレタリア文学との訣別の道を選択したのである。それは、次節で述べるように、1936年夏の政府高官との会見が大きく影響しているのではないだろうか。

(5)政府高官との接触と躊躇
 1937年7月7日の中国侵略突入1年前の1936年夏、犀星は近衛文麿、永井柳太郎、鳩山一郎ら政府高官と会見している。罠に嵌まったのである。
 『駱駝行』(1937年9月)では、「(芸術院について)文学と国家とを結び付けて行くべきである。」(140頁)、「昨夏(1936年)、機会があって伊沢多喜男氏をはじめ近衛文麿氏、永井柳太郎氏、鳩山一郎氏などと云ふ、政界の巨頭達と一夕会見を俱にした。」(149頁)、「大臣もまた一国の文芸家とともに国家と文学といふ問題の為にも、また文運を祝福するためにも、度々会見すべきではなかろうかと思はれた。」(同154頁)、「文学が国家的に働きかけて貰ひ、漠然たる意味ではあるが、善きを善くすべき人生の諸現象に就て、最も深き力を示されたいといふ伊沢さんの意見であった。私はこの伊沢さんの意見をよしとして…。」(同158頁)、「政治家と我々の接触は文学の広さをひろげるし、また文学を仲間以外にひろげることも出来るからである。少くとも文学現象は最高文化であるのであるから、政治の高さとともにもうそろそろ握手をして、大臣も我々の友人としなければならないと考へてゐる。」(同159頁)、「文学といふものにも、文学としての使命や目的がある程、文学の大きさや深さがあるのではないかと思はれ出した。」(同162頁)、「文学を利用すべき機関に必要あれば我々は力を藉し、また文学を利用してよいやうなことがらにも、我々は碌でもない潔癖を取捨てて結びつきたいのである。」(同163頁)などと、得々とと書き連ね、日中戦争前夜(1936年夏)の政府との蜜月を誇示している。
 そして、犀星は「私は哈爾浜(ハルピン)かチチハル及びそれらの地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。」(同165頁)、と侵略前夜の満州(中国東北部)視察旅行を計画するのである。

断筆か順応か
 1937年春から満州に出かけた犀星は、後年「私は先年満州に赴いた時、何らかの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持って行ったのである。」(1940年『一日も此君なかるべからず』172頁)と、満州訪問の意図を述べている。更に、犀星は「戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起って調べるのもいいであらう。」と、文学者に戦場へ行くことを勧めている。
 しかし、犀星は続けて、「だが、私はさういふがらにないことに出しゃばりたくない。」(同書172頁)、「かかる戦時下にあっては、私の心をしめ付けてゐるものは、ふしぎにも私自身の文学へのしめ付けであり、自戒の厳しさの中にあることである。…私自身の文学はどう変りようがなくとも、その文学精神にぴりっとした今までに見られないものをひと筋打徹したい願いを持ち…。戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、…私は私流に一そうみがくことを怠らなければいい」(同書186頁)と、犀星自身は戦争詩人として最前線に立つことに躊躇しているのである。
 そして、犀星は「作家は書かずにゐなければならず、書けないのである」(186頁)とか、「全く空虚の広さの中で生きるより外はない」(194頁)などと、愚痴りながら、他方では「今後もはや詩集を上梓することはあるまい」(288頁)と断筆の決意すらしているのである。1937年中国侵略戦争突入の日から、「断筆か、順応か」をせまられ、犀星の心の晴れる日はなかったであろう。

(6)追いつめられる犀星
 1937年から始まった中国侵略戦争が長期化し、政府は文学者の戦地動員を働きかけ、「著作法によっても教科書に採用される詩及び文学作品は、改竄されることは勿論、それに原稿料を支払はなくてもいゝことになってゐる。」(1938年『作家の手記』125頁)という、戦時規制が強化された。犀星は、文学者にとって「いのち」の否定ともいえる「詩及び文学作品の改竄」さえ容認しなければならない状況に追い込まれたのである。
 明治憲法下の表現の自由は法律の範囲内とされ、年出版条例(1869年)、新聞紙発行条目(1873年)、讒謗律(1875年)、新聞紙条例(1875年)、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動が著しく規制されていた。
 出版法では、図書を発行するときは発行3日前に内務省に製本2部納本が義務付けられた。1934年の改正では、第26条に「皇室ノ尊厳ヲ冒涜」が追加され、皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止された。
 新聞紙法では、新聞社は、発行ごとに内務省、裁判所等に納本しなければならないとされていた。新聞紙法に基づく検閲は、内務省、情報局、検事局、警視庁検閲課、府庁特高課などがおこない、さらに必要に応じて郵便検閲、無線電信検閲、戒厳検閲、軍検閲、憲兵検閲などがおこなわれていた。
 犀星が言う「詩及び文学作品の改竄」が、どの法律のどの条項に規定されているのか不明だが、これらの言論統制法が犀星の表現活動を萎縮させていたに違いない。
温かい乳ぶさ
 そして、犀星は1939年の『あやめ文章』で、「事変以来、支那人は可愛相に思はれても誰も指一本ささず寧ろ同情されてゐる程であり、日本人は大国の胸をひろげるやうになり、敵国の善き民を憎む者が一人もゐない。」(73頁)、「大同陥落では石仏寺が無事であったことを知り、我が軍の古美術を劬(いたわる)気概にいたくも打たれた。」(同書91頁)、「東洋では、…何時も正義の前には戦争をするのである。」(同書101頁)などと書き散らし、敵国(中国)を憎まず、「大国日本」の風格を誇示し、「古美術」を保護する文化的軍隊として描き、1937年から始まった中国侵略戦争を「正義の聖戦」であるかのように、屁理屈を捏ねながら、日本軍讃美にのめり込んでいったのである。
 そして、1941年パールハーバーの直前、犀星は「文学ばかりではなく、事変は一さい改変と䔥整(しゅくせい)をあたへ、日本は新しい心とその装ひとをその両面からととのへて行った、これは一さいを良くしてかかる最初の声であり、とうに此処まで来るやうに過去からだんだん積みかさねられて来たものだった。かういふときにこそ文学の温かい乳ぶさを人びとにおくらねばなぬのだ。」(1942年『泥雀の歌』148頁)と、犀星は戦争詩という「温かい乳ぶさ」を少国民に含ませることを自らの使命として確認するのである。
 『泥雀の歌』の出版を準備してきた犀星の眼の前に、ついに、「この稿を終えた時、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が開かれた。そしてまたたく間に勝利は相ついで臻(いた)った。南方へ、シンガポールへ、怒濤は艦列をつくり迫りに迫った。」(同書292頁)という、日米開戦の報せが飛び込んできたのである。
 犀星は1942年に発足した日本文学報国会・小説部会の評議員、詩部会の会員となっており、文学界の重鎮として、「戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き」とか「私は私流に」などとは言えない立場にあったのである。

(7)政府とメディアと作家
 日米開戦1カ月後の1942年1月ごろから、犀星は「臣らの歌」、「十二月八日」、「マニラ陥落」、「日本の歌」、「怒濤」、「ふたゝびその日」、「遠天」、「シンガポール陥落す」を次々と発表し、6月の『つくし日記』にまとめて発刊した。さらに、上記の以外の「勝たせたまへ」、「今年の春」、「日本の朝」、「夜半の文」、「女性大歌」などを加えて、詩集『美以久佐』(1943年)を発行した。
 『つくし日記』は閲覧の機会がなく、国立国会図書館デジタルコレクションの『美以久佐』に収録された戦争詩を見ると、「序詩」「日本の歌」「みいくさ」の三部構成になっており、「序詩」には、「勝たせたまへ」一篇だけが掲載され、詩集全体の基調を示し、「みいくさ」の冒頭にもふたたび掲載され、犀星の戦勝にかける強い意志が表れている。
  「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」
 上田正行さんの「犀星の戦争詩を考える」によれば、武蔵野館で開催された翼賛会主催の映画の休憩時間に、「マニラ陥落」(1942年1月)の詩朗読がおこなわれ、これを聞いた犀星は「詩による戦争といふものの響きがはるかに音楽などと違った、肺腑を突き刺すような急激の効果のあることを知った」(「詩歌小説」1942年2月)と書いている。犀星の詩は映画館やラジオから流され、全国の若者たちを戦場に送るべく、激しく心を揺さぶっていたのであろう。
事前制作の予定稿
 シンガポールのイギリス軍降伏は1942年2月15日であるが、犀星の「シンガポール陥落す」は同年2月3日の「朝日新聞」に掲載された。犀星は事前に何らかの要請(圧力)を受けて、詠んだのであろうと、伊藤信吉さんは推測している。中野重治も「戦争の五年間」(1967年)で、「私(注:犀星)はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩を書くべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書き上げなければならなかった」と書いている。
 高村光太郎も、「シンガポール陥落」で「シンガポールが陥ちた/彼等の扇の要が切れた/大英帝国がばらばらになった/シンガポールが陥ちた/つひに日本が大東亜をとりかへした(以下略)」と詠んでいるが、これも2月12日作・放送となっており、事前制作=予定稿である。
 このように、政府とメディアと作家が一体となって、戦勝を謳歌し、青年を戦場に送るべき体制を作っていたのであろう。

国内階級問題を対外転嫁
 犀星の「マニラ陥落」では、1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時に東南アジア侵略に踏み込み、軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと、踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。
 ところが、それに続くフレーズが腑におちない。マニラ(フィリピン)が犀星の祖母を搾取していたから、マニラに日の丸を立てることが「祖母や母への搾取」にたいする復讐だという。
 「紵麻(カラムシ)」の歴史は古い。魏志倭人伝(3世紀末)には「紵麻」という記述があり、日本では古来から麻を使って紐や衣服を作っていた。犀星の祖母の世代の女性は農作業の傍ら日本産の麻を使って布を織り、衣類を縫い、農作業用の縄を綯(な)っていたのであろう。その苦労の多い祖母たちの作業を見ていた犀星は、農村の悲惨は農村の悲惨として詠み、その責任追及の相手は、自国政府であり、外に転嫁べきではないだろう。
 マニラ麻はアバカ(abaca)とも呼ばれ、葉鞘(ようしよう)から繊維を採るために栽培されるバショウ科の多年草である。硬質天然繊維で繊維が長く、強く、船舶用ロープに最適なので、諸列強は奪い合った。1900年代にはミンダナオ島南部ダバオ市で日本農場が開かれ、マニラ麻の栽培が始まった。軍需産業と位置づけられ、日本から多数が移民し(最大時19000人)、地元住民を使役し、日本に輸入(略奪)していたのである。
八田與一の場合
 台湾の嘉南大圳(ダム)建設の功績で、「石川県の偉人」と言われる人に、犀星と同年代の八田與一(1886~1942年)がいる。日米開戦直後の12月25日には「我等の希望せる戦が来ました。…日本は朝鮮、シベリアを領土とし、満州国、蒙古国、北支那に根を張らねばなりません。…東亜連盟の盟主は第一日本とします」(『水明り』44P)などと書いている。
 その八田與一は、1942年に大洋丸でフィリピンに向かい、途中で米軍の攻撃で沈没し、命を落としたのであるが、その渡航目的はフィリピンの水田・稲作を潰して、軍需品としての綿花を作付けするためであった。そこにはフィリピン住民の生活のことなど、頭の片隅にもなく、あくまでも日本国家・資本に忠実な技術官僚として、日本軍占領地に活躍の場を求めていたのである。
 このように、フィリピンにおけるマニラ麻栽培も、綿花栽培も、いずれも日本の戦争と結びついており、犀星の認識は本末転倒の認識である。

(8)戦後、戦争詩を削除
 犀星が戦時に、戦争詩人として活動したことは、単に犀星個人の問題ではなく、犀星をとりまく戦争の問題である。敗戦後の犀星が「強いられた」と言うならば、「強いた者」は誰なのかを明らかにし、戦中の戦争詩が果たした役割を主体的に認識・反省すべきであろうが、驚くべきことに犀星自身が編集した『全詩集』から戦争詩を排除してしまったのである。
 1962年『室生犀星全詩集』の解説で、犀星自身が「本書に収録の戦争雰囲気のある詩はこれを悉く除外した。後年の史実に拠るためという再考もあったが、詩全集の清潔を慮ったのである。この戦争中は詩も制圧のもとに作られ、今日、これらの詩を削除することは心のにごりを見たくないからである。」と述べ、『全詩集』から「勝たせたまへ」「臣らの歌」「十二月八日」「マニラ陥落」「日本の朝」「怒濤」「ふたたびその日」「遠天」「シンガポール陥落す」「日本の歌」「今年の春」「夜半の文」「女性大歌」の戦争詩をことごとく削除した。他方高村光太郎の詩集では、戦争詩を全部収録している。
 削除の理由は、「心の濁りを見たくない」からだというが、みずからが戦争政策に迎合し、戦争を賛美し、若者たちを戦場に追いやった自身を「(圧政による)心の濁り」というなら、その「心の濁り」を強制した者(政府)にたいして、ものを言って然るべきではないか。犀星のなかに、あたかも「心の濁り」がなかったかのように、消去してしまうことは、あまりにも無責任・不誠実な態度ではないだろうか。
暁烏敏の場合
 戦後の全集からの削除といえば、暁烏敏(1887~1954年)の『皇道・神道・仏道・臣道』(1937年)がある。日中戦争前年の1936年におこなった説教の講演録であり、「今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります」と天皇への忠誠を要求している。
 もともと1910年代の暁烏は真宗が近代的宗教になるためには、封建的倫理を捨てねばならないと呼びかける高光大船や藤原鉄乗らに合流し、ロシア革命を讃え、米騒動や労働運動を支持し、朝鮮植民地支配に異を唱えていたのである。しかし、その後の暁烏は国家主義に転じて、前述のような発言にいたるのである。
 ところが、戦後の暁烏はもう一回転じて、「人が人(注:天皇)のために命を捧げるということは要らんのであります」(1946年『仏教思想とデモクラシー』)と述べている。戦後『暁烏敏全集』がまとめられたが、戦時体制に多少批判的な内容が含まれている『大東亜新秩序建設の根本』(1942年)や『大御心を仰ぎまつる』(1943年)は収録されているが、負の紋章である『皇道・神道・仏道・臣道』は目録にさえ載せられず、全集は、戦中の暁烏が戦争に批判的であったかのように編集されている。

Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私たち

 戦後、犀星の戦争詩については、必ずしも多くの評論がある訳ではない。批評する側も、戦争との関係では無傷ではなく、傷を抱えながら、犀星をいたわり、戦争と表現者の関係を極めようとするものである。上田正行さんの「犀星の戦争詩を考える」(2018年)に引用されている作家のなかからいくつか孫引きさせていただこう。
 中野重治は「戦争の夢魔と文学・生活とのたたかいの犀星における全像は手軽には描けない。しかしこの時期に、短い夢魔期を通過することによって犀星が一歩ないし数歩進んだこと、その可能性を胎んできたことは争えない」(1968年「戦争の五年間」)と語り、戦争詩批判は緩く、犀星を受容している。
 富岡多恵子は1982年12月の『室生犀星』(ちくま学芸文庫)のなかで、「犀星が、そこでは『インテリ』ではなく『庶民』だったから」と、文化戦線の先頭で旗を振った犀星を一般市民のように格下げして、その責任を無化しようとしている。そして、富岡は「戦争の時代には、詩人は『国策』に奉仕する宣伝隊、扇動家としてしか期待されなかった」と、犀星を国策(国家)の被害者としての側面だけで捉えようとしている。
 文学者であろうが誰であろうが、政治に係わった人には政治的責任が発生するのは当然であり、昭和天皇が戦争責任を問われて、「私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えて、責任を回避したように、政治に係わった文学者が沈黙の世界に逃げ込んでいい訳がない。前線の将校は多くて数千の兵士を左右するに過ぎないが、戦争詩人は1億の日本人民に出征の号令をかけ、その政治的影響と責任の大きさは比肩出来ないという事実を押さえておくべきであろう。
負の「文化遺産」に
 上田正行さんは、『魚眼洞通信』7号で、戦争詩を「戦争という特殊な状況から生み出した文化的遺産」(2018年)と受けとめて、「今後の歴史の教訓としていくしかない」と話している。私も同感であり、したがって「犀星の戦争詩×アジア太平洋侵略戦争」を「文化遺産」として、曖昧さなく明らかにし、何時でも、誰でもが学べるようにすべきであろう。
 はじめて犀星の戦争詩に触れたとき、私は犀星への驚きでいっぱいであったが、論考の過程で、青年期の人道主義、プロレタリア文学への親和から拒絶へ、そして戦争詩人へと転換していく犀星の姿が走馬燈のように現れてきた。1940年の「もはや詩集を上梓しない」という犀星の言葉はわずか1年後のパールハーバーで棚上げにされた。この変わり身の早さは犀星の体制順応型の処世術なのか、恐怖から来る迎合なのか、いずれにしても、戦争がもたらした厭うべき現実であり、だからこそ戦争詩を負の「文化遺産」として記憶しなければならない。
 劇場で、ラジオで、青年たちの心を激しく揺さぶったように、「臣らの歌」を、「十二月八日」を、「マニラ陥落」を、戦争の歴史と重ね合わせながら、声をあげて読(朗読)みたいと思う。

20200414新型コロナウイルスと資本主義

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新型コロナウイルスと資本主義

 自然界では次々と新たなウイルスが発生し、人類はそれとたたかい、適応し、進化し、生きぬいてきました。そしていま、新型ウイルスは類としての人間の存在を脅かしています。

 しかし、この新型ウイルスを迎え撃つべき人類社会は資本主義社会であり、利潤追求を第一にする社会であり、新型ウイルスの蔓延を抑えるのにこの社会システムが有効なのか、無効なのかが問われています。

 安倍自民党は人民の安全よりも資本の安全を優先して、資本を救済することに重点を置き、労働者人民のことは二の次にして、政策を立てています。安倍自民党にとって、人民の命より資本が大切だから、経済的危機の引き金になることを怖れて、緊急事態宣言の発令を躊躇していました。戦争準備(F35ステルス戦闘機を105機購入。1機100億円以上。合計約1兆2000億円)のためならばいくらでも金を出し、必要ならば人民の命さえ差し出す政府であり、外出、出勤、通学などの制限による被害補償、失業補償、生活保障のための金を出し渋っています。

 自然災害(新型ウイルスや地震など)との関係で、一時的に生産活動・経済活動を停止せざるをえなくなり、労働者の生活が困難に直面したときのために、セイフティネットとしての政府の役割があります(そのために税金を払っている)。しかし、東日本大震災や台風が襲った地域では、被災者は置き去りにされ、福島原発事故後の福島を「アンダーコントロール」と言い、「復興オリンピック(1年延期)」などと、トカゲのしっぽを切るように、被災者を切り捨ててきました。

 新型ウイルス問題は現在進行形であり、有効な対応ができなければ、労働者人民の健康と生活は大きなダメージを受けます。かつて、関東大震災(1923年)は不況をもたらし、大量の失業者を生み出し、さらに追い打ちをかけるように1929年恐慌が突発し、たたかう人民が生み出されましたが、政府は労働者人民を弾圧し、侵略戦争になだれ込み、膨大な労働者人民(アジア諸国と日本)を殺して、生きのびようとしました。

 資本にとって、労働者人民は使い捨ての労働力商品に過ぎず、使役・収奪の対象ででしかなく、守るべき対象ではありません。これが資本主義のほんとうの姿なのです。

 ここ数十年は「経済的繁栄」の影で、資本主義の本質を押し隠してきましたが、いま新型ウイルス問題を引き金にして、資本主義の弱点(本質)があらわになり、安倍自民党が労働者への犠牲転嫁で、資本主義を守ろうとしています。中小零細企業の労働者、パート労働者、アルバイト労働者、契約社員、派遣労働者が切り捨てられ、失業し、食べ物も、寝床もない近未来が目前に迫っています。

 黙って政府の言いなりになっていたら、労働者人民には未来がありません。しかし、民主主義と人権主義はすでに人民の共通認識となっており、たたかいを呼びかければ、必ずたちあがるでしょうし、立たない限り生きていけません。ものを言えば、弾圧が迫ってきますが、ここで戦前の教訓をつかみ取り、「弾圧と死と転向」を乗りこえる知恵を、革命党が提示しなければ、再び地に沈められることになるでしょう。

 安倍自民党には、決して労働者人民の生活と命を守ることはできません、否、しません。一旦は収まったとしても、自然界の摂理は、新たなウイルスを発生させ、くりかえし人類に襲いかかるでしょう。ウイルスによる被害を最小限に抑え込むためには、資本主義社会から新たな社会を生み出しておくことが、将来のための最良の対策でしょう。資本主義のままだと、同じことが繰り返され、労働者人民はその度に最大限の苦みを味わわなければなりません。

20200424 図書館の全面閉鎖の再検討を! 閲覧の権利が危ない!

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20200424 図書館の全面閉鎖の再検討を! 表現の自由が危ない!

 今朝の『北陸中日新聞』に、元金沢市長が「新型コロナウイルスの感染が拡大している事態を見ていて、今ほど世の中が日々、学習している時はない。…国民も、すべての人が勉強している」と、書いているが、実は石川県内のほとんどの図書館が閉鎖され、学習と勉強が阻害されていることを知らないのだろうか。
 「図書館の自由に関する宣言」があり、図書館とその労働者はこの「宣言」に基づいて仕事をしている。1カ月間の閉館とは、「宣言」の「第2 図書館は資料提供の自由を有する」には、制限事項として、「(1)人権またはプライバシーを侵害するもの、(2)わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの、(3)寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料」とされており、完全に違反する行政行為である。
 ××××図書館との間で、何回かやり取りしているが、図書館労働者と利用者の健康を守るために、画一的、全面的な図書館閉鎖は、この「宣言」を守るために、どうしたらよいのかについて、考え抜かれた末の決定だとは到底思われない。
 以下、××××図書館とのやり取りと、「宣言」を添附する。

<4月16日>××××図書館様
 今日、貴館を訪問しようと思い、準備していましたが、HPで休館と知らされました。
図書館は知の宝庫であり、図書館は知的再生産の重要なツールです。
 知的再生産を「不要不急」と考えているなら、それは、「図書館の死亡宣告」でしょう。インターネットで貴館の資料を検索し、予約し、受け取る。このシステムだけは残すべきではないですか。受け取る時のやり方を工夫すれば、十分にウイルス対策はできるはずです。早急な再開に期待し、再検討をお願いします。

<4月16日>××××図書館より
 いつも××××図書館をご利用いただき、ありがとうございます。
当館の休館につきましては、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から、県の方針で県有施設の臨時休館を受けての休館となっております。ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

<4月23日>××××図書館様
 資料を何冊か予約してあるのですが、5月7日まで、受け取れないということですが、これでは、論考が進みません。予約した資料を、裏口で受け取ることはできないものでしょうか。裏口で、カードを渡して、私が外で待っていて、貸し出し作業が終わったら、裏口で資料を受け取るならば、ウイルス対策としては十分なのではないでしょうか。
 レストランなどでは、ドライブスルーで解決しているわけですから、書籍だって、それでよいと思いますが、よろしくお願いします。

<4月23日>××××図書館より
 いつも図書館をご利用いただき、ありがとうございます。たいへんご不便をおかけしており、申し訳ありません。前回のメールでも回答させていただきましたが、先にお伝えしましたように、5月6日まで完全休館となっておりますので、申し訳ありませんが、ご理解の程よろしくお願いいたします。

<4月24日>××××図書館様
 約1か月間の休館は「図書館の自由に関する宣言」に反するのではないでしょうか。図書館は本当にこの「宣言」を守るために、創意工夫を凝らしているのでしょうか。
 「宣言」には、「提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。(1)人権またはプライバシーを侵害するもの、(2)わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの、(3)寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料」と書かれていますが、どこに該当するのでしょうか。私はいずれにも該当しないと思っています。
 三密にならないようにするには、例えば、予約者を分散するような方法もあります。今日は20人(午前10人、午後10人)とか、…。前回提案したドライブスルー方式もあります。「宣言」を守り、図書館労働者と利用者の健康を守るために、創意工夫を凝らしてください。
 再検討をよろしくお願いします。

<4月24日>××××図書館より
 いつも図書館をご利用いただき、ありがとうございます。繰り返しになりますが、県の方針により、5月6日まで完全休館となっておりますので、何卒ご理解の程、よろしくお願いいたします。
 なお、7日以降の当館の利用につきましては、今後検討させていただきます。ご不便をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

「図書館の自由に関する宣言」
1954  採 択
1979  改 訂
 図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
 日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
 知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
 知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
 すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
 図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
 わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
 すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
外国人も、その権利は保障される。
 ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。

第1 図書館は資料収集の自由を有する
 図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない。
 図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
(1)多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
(2)著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
(3)図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
(4)個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
(5)寄贈資料の受入にあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主 張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。
 図書館は、成文化された収集方針を公開して、広く社会からの批判と協力を得るようにつとめる。

第2 図書館は資料提供の自由を有する
 国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。
 図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。
提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
(1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
(2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの
(3) 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料
 図書館は、将来にわたる利用に備えるため、資料を保存する責任を負う。図書館の保存する資料は、一時的な社会的要請、個人・組織・団体からの圧力や干渉によって廃棄されることはない。
 図書館の集会室等は、国民の自主的な学習や創造を援助するために、身近にいつでも利用できる豊富な資料が組織されている場にあるという特徴を持っている。
 図書館は、集会室等の施設を、営利を目的とする場合を除いて、個人、団体を問わず公平な利用に供する。
 図書館の企画する集会や行事等が、個人・組織・団体からの圧力や干渉によってゆがめられてはならない。

第3 図書館は利用者の秘密を守る
 読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
 図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない。
 利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。

第4 図書館はすべての検閲に反対する
 検閲は、権力が国民の思想・言論の自由を抑圧する手段として常用してきたものであって、国民の知る自由を基盤とする民主主義とは相容れない。
検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らかである。
したがって、図書館はすべての検閲に反対する。
 検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある。図書館は、これらの思想・言論の抑圧に対しても反対する。
 それらの抑圧は、図書館における自己規制を生みやすい。しかし図書館は、そうした自己規制におちいることなく、国民の知る自由を守る。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
 図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展をはかる重要な指標である。図書館の自由が侵されようとするとき、われわれ図書館にかかわるものは、その侵害を排除する行動を起こす。このためには、図書館の民主的な運営と図書館員の連帯の強化を欠かすことができない。
 図書館の自由を守る行動は、自由と人権を守る国民のたたかいの一環である。われわれは、図書館の自由を守ることで共通の立場に立つ団体・機関・人びとと提携して、図書館の自由を守りぬく責任をもつ。
 図書館の自由に対する国民の支持と協力は、国民が、図書館活動を通じて図書館の自由の尊さを体験している場合にのみ得られる。われわれは、図書館の自由を守る努力を不断に続けるものである。
 図書館の自由を守る行動において、これにかかわった図書館員が不利益をうけることがあっては ならない。これを未然に防止し、万一そのような事態が生じた場合にその救済につとめることは、 日本図書館協会の重要な責務である。
(1979.5.30 総会決議)

【論考】3石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について

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【論考】石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について
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目次
はじめに:①戦争と弾圧の時代/②日本文学報国会
Ⅰ 犀星の戦争詩:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅱ 石川県ゆかりの表現者:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤杉森久英/⑥長澤美津、永瀬清子、水芦光子/⑦深田久弥/⑧島田清次郎/⑨井上靖/⑩堀田善衛/⑪森山啓/⑫加能作次郎/⑬西田幾多郎、暁烏敏、鈴木大拙
Ⅲ 「戦争詩」を戦争遺産として

Ⅱ 石川県ゆかりの表現者(続き)
(9)井上靖
 井上靖は1907年に生まれ、満州事変(24歳)、日中開戦(30歳)、日米開戦(40歳)、敗戦(44歳)を体験し、1991年83歳で亡くなった。井上靖は3回徴兵され、1936年の3回目の徴兵で中国に動員されたが、病気に罹り4カ月ほどで帰還した。この時期に「中国行軍日記」をのこしたが、公表せず、2009年に『新潮』誌上ではじめて公開された。
 井上靖は「中国行軍日記」のなかで、「河上ニハ屍(しかばね)山ノ様ナリト ソノ水デ炊事シタ 相変ラズ人馬ノ屍臭紛々タリ」、「アヽフミ(ふみ)ヨ! 伊豆ノ両親ヨ 幾世(長女)ヨ!」、「神様! 一日モ早ク帰シテ下サイ」、「相変ラズ車輪ヲミツメ湯ケ島ノコトヲ考ヘテ歩ク……羊カンデモ汁粉デモ甘イモノガタベタイ」、「軍隊といふところはたゞ辛いだけ」など、行軍の過酷さ、家族や故郷への思いが綴られている。
井上の戦争詩
 日中文化交流協会理事の佐藤純子さんは、何志勇さん(大連外国語大学)との対談(2012年「国際日本文化研究センター紀要」第7号)のなかで、井上靖について、「『行軍日記』には、戦争の悲惨さというものを書いています。…戦意を鼓吹していない」と述べているが、戦時期に公表されなかったので、このような評価は妥当ではないだろう。
 戦争真っただ中の『辻詩集』(1943年)に掲載された井上靖の戦争詩「この春を讃ふ」(花ひとつない 狭いわが家の庭で/うららかに照る春の陽をあび/妻はふたりの幼き子らに語る。/遠いみんなみの海をおほふ/鋼鉄の いくさ船つくるために/幼ければ幼いままに/けふよりは 一粒の米を節し/一枚の紙を惜しめ と。…略…)については話題にしていない。
 佐藤さんは中国人研究者何志勇さんにたいして、井上靖が軍事貯金を推奨する詩を書いていたことを指摘せず、「井上靖は昭和が終わる前に、戦争や昭和に触れた詩をたくさん書きました」などと話し、井上靖の戦争責任を隠しているようだ。
井上の天皇観
 さらに言えば、敗戦翌日の「玉音ラジオに拝して」という井上靖の記事(1945年8月16日『毎日新聞』)では、「玉音は幾度も身内に聞え身内に消えた。幾度も幾度も――勿体なかった。申訳なかった。事茲(ここ)に到らしめた罪は悉くわれとわが身にあるはずであった。限りない今日までの日の反省は五体を引裂き地にひれ伏したい思いでいっぱいにした。いまや声なくむせび泣いている周囲の総ての人々も同じ思いであったろう。日本歴史未曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立ってはいたが、それすらも押し包む皇恩の偉大さ! すべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみであった。」と書き、戦争に負けて申し訳ないと、天皇に謝罪してさえいるのである。
 井上靖には、厭戦感情があったとしても、非戦でも、反戦でもなかった。「ご時世」に迎合して、戦争詩も詠んでいる。戦後、日中友好に尽力し、1980年代になって、戦争について書いたとしても、青年時代の戦争への係わりを対象化しなければ、自己欺瞞ではないだろうか。それ故に、佐藤純子さんも井上靖と戦争について、明確な評価ができないでいるのだ。やはり、戦争については、他者による批判ではなく、本人による自己批判が必要なのではないか。
 【参考資料】井上靖の著作:「中国行軍日記」(1936年)、「玉音ラジオに拝して」(1945年8月16日『毎日新聞』)/『辻詩集』(1943年)/佐藤純子×何志勇(2012年「国際日本文化研究センター紀要」第7号)

(10)堀田善衛
 堀田善衛は1918年富山県に生まれ、1931年金沢二中に進学し、1936年慶応大学に入学した。満州事変(13歳)、日中開戦(19歳)、日米開戦(23歳)、敗戦(27歳)を体験して、1998年80歳で亡くなった。
 丁世理(日本大学)は堀田善衛の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)を分析している。その論文「堀田善衛の戦時体験―政治への漸近、運動の痕跡」によれば、堀田は早稲田大学学生を中心とした学生演劇団体「青年劇場」に関与し、特高にマークされていた(1940年2月「特高月報」)という。どの時点だか特定できないが、一度逮捕されているようだ。
 また、堀田は従兄の野口務(1930年逮捕)の影響を受けており、小説中の主人公(堀田)は、山田喜太郎(和田喜太郎=1943年に横浜事件で逮捕)から託された手紙を大岡山に住む某共産党幹部(伊藤律)に送り届けている。
1942年ごろ
 堀田は『若き日の詩人たちの肖像』で、室生犀星の詩「シンガポール陥落す」について、一人が「ひでぇものを書きやがったな。怒濤は天に逆巻きたぁなんだね」と不同意を表明し、別の人が「こんなもんのなかでは、おとなしくて品もあるし、いい方なんじゃないの」と、犀星を擁護すれば、すかさず「だけど、歴史にもかゞやけたぁ、これもまたなんだね」とやりかえし、当時の青年たちの反応を書いている。
 作中で、堀田は1942年当時を振り返って、「こういうふうな詩をめぐる論議には、何かしら辛いものがある、日本国家への義理だてということもあってみれば、何かが咽喉か頭かにひっかかって徹底したことが、あるいは本当のことが言いにくいという気味がある、と感じていた」と、独白している。
戦後
 戦後の堀田善衛は『時間』(1955年)で、「殺、椋、姦、火、飢荒、凍寒、瘡痍。妻の莫愁も、その腹にねむっていた、九カ月のこどもも、五歳の英武も、蘇州から逃れてきた従妹の楊嬢も、もはやだれもいなくなった」(未読)と、1937年の南京を克明に描いている。1960年代後半には、堀田は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加し、脱走米兵の支援活動にも取り組んでいた。
 【参考資料】堀田善衛の著作:『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)、『時間』(1955年)/丁世理(日本大学)の論文「堀田善衛の戦時体験―政治への漸近、運動の痕跡」

(11)森山啓
 森山啓は1904年に新潟県で生まれ、1920年第四高等学校に進学し、1925年東京帝国大学に入学し、プロレタリア文学に傾倒し、1928年に大学を中退した。満州事変(27歳)、日中開戦(33歳)、日米開戦(37歳)、敗戦(41歳)を体験し、1941年から78年まで小松市で暮らし、1991年に87歳で亡くなった。
1930年代前半
 『潮流』(1935年)には、1921年から35年までの森山の詩がおさめられている。1929年の「南葛の労働者」(荒川は南葛の無産者の/苦悩の夜を流れる静脈/荒川は南葛労働者の/奮起の朝に波立つ動脈/(…略…)/怒れる民衆の血脈の如く鼓(う)て荒川よ!/かつて民衆の朝をうたひ/やがて白熱のま昼、□□□□□(戦闘の大火)をうたはうとする/波よ 流れよ/春の血管のやうに、太陽を浴び、平野に脈打つもの□)が当時の階級闘争の荒々しさを伝えている。
 1930年の「生き埋め」(掘り出された父親のなきがらを抱き/いとしい娘よ/お前のむせび泣きは/泌(し)み入るやうだ、犀河村の森にも川にも/またおいら土工の荒くれた胸にも。/…略…)と、「セメントの底」(…略…/夜は更け、夜は明けた/そして見よ/廿六時問の彼女の苦しみに対し/今、顔面手足が焼けただれたをつとの死骸が渡される/今、声もなくしゃくり泣く彼女の絶望と、夫の生命の代償として、金一封が約束される/一昨年は古ボイラーを破裂せ、今年はタンクを破裂させたNセメント会社重役らの、数日の遊興費にも足らぬ/金四百参拾円也が!)が、地元石川県での労働災害事故による犠牲者・家族の悔しさと悲しみを伝えている。
 「生き埋め」(『戦旗』1930年2月)は1929年11月に犀川上流の上水道工事現場で起きた朝鮮人労働者圧死事件、「セメントの底」は同年10月の七尾セメント会社のタンク破裂労災事故を扱っている(『昭和前期の石川県における労働運動』、上田正行著『中心から周縁へ』)。
 1931年の「戦士たちに(三月十八日に)」は1871年パリコンミューン60周年を讃える詩である。
 詩は「…略…/おお□□□□□□の戦士らよ! お前たち/もうかえることのない先導者たちよ!/あのパリー市庁の□□の下で、あの□□□□□□万歳の歓呼の中で/春の風――「マルセエーズ」と「出発の歌」の吹奏の前で/あまりの感動に、頭を地面へ押しつけたお前らの老人達よ!/(おお彼らも戦死者を地下から呼びたかつたのだ!)/何と言ふ長い困難を/何と云ふ短い勝利を――お前たちみんなは持ったことか/不運な勝利者達、□□□□嵐の下に、/その春の新たな花が、みんな散るのを見ねばならなかつたお前たちよ!/どれほど お前たちが其の自由を、欲したことか/もう死地に落ちたことを感じ、□□を投げて救ひを乞ふ代りに、/あの□□□□□を築いたお前たち/敷石を掘る男たちの/敷石を運ぶ女たちの/泣かんばかりに緊張して手伝ふ子供たちの/おおその一人残らずの必死な息遣いを以て/…略…」と、パリコンミューンで倒れた同志たちを讃え、悲しみ、復活を期し、自らも、満州事変の1931年をたたかいぬく決意を詠っている。
 検閲で、ずたずたに切り裂かれたこの詩について、槇村浩は「獄中のコンミューンの戦士の詩を憶って」( わたしは獄中で/若い憂愁が瞼を襲うとき/いつもあなた(森山啓)のコンミューンの詩(「戦士たちに」)を想い出した)と、「森山啓に」(階級的な仕事の中で/個人的な享楽とものを書くことより牢獄を選ばねばならぬときは/ふしぎと思い出したように、いつでもこの詩(「戦士たちに」)が愛誦されたときだった)で、森山を高く評価している。【1932年4月逮捕~1935年非転向で出獄後の作品か?】
 パリコンミューンから98年目の1969年3月30日、パリの女性がベトナム戦争に抗議して自殺した。ベトナム反戦・大学闘争をたたかう私たちは、歩道の敷石を剥がし、車道に積み上げ、機動隊が姿を見せれば、それを砕いては投げ、一息ついたときに、バリケードのなかで、「フランシーヌの場合は」(新谷のり子)を歌った。森山や槇村と同じ気持ちでパリ労働者市民との連帯と追悼を歌った。
1930年代後半~
 1937年には、戸坂潤(「文芸評論の方法について」)から、「(森山啓は)文芸学上の方法とシステムとに対して、眼に見えてタガがゆるんで来た。かくて今日彼の独自な有用性は可なり低下したようだ」と批判されている。
 1943年、『日本文学報国会会員名簿』の小説部会、詩部会には、森山啓の名前は見あたらない。
 戦後、平野謙は「(森山啓は)終始一貫プロレタリア文学擁護の論陣(を張り)…社会主義リアリズム論の日本的消化のために孤軍奮闘した人」(「文学・昭和十年前後」)であったと評し、桑尾光太郎は「『文学界』に参加(1935年)したのちの森山は、現実への無関心から体制無批判ひいては体制順応という、なし崩しの転向のコースを歩んでいった」(「森山啓の社会主義リアリズム」)と批判的に書いているが、実際のところはどうなのだろうか。
 【参考資料】「生き埋め」(『戦旗』1930年2月)、「戦士たちに(三月十八日に)」(『潮流』1935年)/「文芸評論の方法について」(戸坂潤1937年)/『昭和前期の石川県における労働運動』(1975年)/『中心から周縁へ』(上田正行2008年)/「文学・昭和十年前後」(『平野謙全集』第4巻1975年)/論文「森山啓の社会主義リアリズム」(学習院大学・桑尾光太郎)/

(12)加能作次郎
 加能作次郎は1885年に羽咋・西海村に生まれ、日清戦争(9歳)、日露戦争(19歳)、1911年大学卒業(26歳)、欧州戦争(29歳)、満州事変(46歳)、盧溝橋事件(52歳)を体験し、1941年日米開戦の年(56歳)に亡くなった。
 大学卒業後の1913年から『文章世界』(1906~20年)の編集に携わり、翻訳や文芸時評を発表し、1918年に私小説『世の中へ』で認められ、作家として活躍する。
 加能は1927年の『早稲田神楽坂』では、「ゴルキイの『夜の宿』(『どん底』、帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描く)などを実際に稽古をしたりしたものだった」と書き、学生時代は左翼的スタンスに立っていたようだ。加能の最後の作品『乳の匂ひ』(1940年)では、日清・日露の戦間期の少年時代を追憶しながら、女性の貧困と不運について同情的に書いているが、体制への迎合も批判もない。
 【参考資料】加能作次郎の著作:『世の中へ』(1918年)、『早稲田神楽坂』(1927年)、『乳の匂ひ』(1940年)

(13)西田幾多郎、暁烏敏、鈴木大拙
A 西田幾多郎
 西田幾多郎は1870年にかほく市に生まれ、第四高等中学入学・中退(20歳)、日清戦争(24歳)、日露戦争(34歳)、満州事変(61歳)、日中戦争開戦(67歳)、日米開戦(71歳)を体験し、敗戦2カ月前に75歳で亡くなった。
明治期
 上原麻有子は日清戦争前の1890年(20歳)の西田について、「出身地の石川県にある第四高等中学に在籍していました。しかし、当時の新しい学制により設立されたこの学校の教育に不満を抱き、同志と共に中途退学してしまいます」(「近代日本の哲学者、西田幾多郎にとって『自己』とは何であるか」)と書いている。ここで言う「新しい学制」とは1886年の中学校令であり、「社会上流ノ仲間ニ入ルベキモノ」、「社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルベキモノ」を養成する学校(7校)として設立され(文科省HP)、西田は抑圧的な管理教育に反撥したようだ。
日露戦争後
 外に向かっては日清戦争(24歳)、日露戦争(34歳)、国内的には自由と権利は制限され、貧富の格差の時代にあって、西田幾多郎はどのように考えていたのか。
 1904年に弟が旅順で戦死し、西田は「私は今弟の墓標の前に立って、ただ涙を流すのみである」と、不条理な死を慨嘆する手紙を友人に送っている(ETV「死を見つめる心―西田幾多郎と鈴木大拙」浅見洋×白鳥元雄)。1905年1月5日の日記(35歳)に、西田は「正午公園(兼六園)にて旅順陥落祝賀会あり、万歳の声聞こゆ。今夜は祝賀の提灯行列をなすというが、幾多の犠牲と、前途の遼遠なるを思わず、かかる馬鹿騒ぎなすとは、人心は浮薄なる者なり」(『西田幾多郎哲学論集3』上田閑照の解説)と、冷静に受けとめている。にもかかわらず、西田は1905年の『倫理学草案』では、「家族は最完全なる社会である」「国家というのは一層大なる家族的結合」と、天皇を父とする疑似家族国家観を展開し、天皇によって宣戦布告された日露戦争での弟の戦死を容認しているのである。
 1911年の『善の研究』の最終ページで、西田は「宗教は宇宙全体の上に於て絶対無限の仏陀其者に接するのである。…而してこの絶対無限の仏若しくは神を知るのは只之を愛するに因りて能くするのである、之を愛するが即ち之を知る(の)である。…神は分析や推論に因りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は信の直覚に由りて知り得るのである」と締めくくっている。まさに、この「仏陀」や「神」はやがて「天皇」となり、有無を言わさぬ「滅私奉公」の世界へと導くのである。
 1918年、西田は山本良吉宛の書翰で「萬世一系の皇室は大なる慈悲。没我、共同の象徴であると思ふ。此の深い精神をとかねばならぬと思ふ」と書き送っているが、『善の研究』からたどり着く当然の帰結であろう。
太平洋戦争期
 1935年「教育勅語ノ奉体、国体観念、日本精神ノ体現」をめざした教学刷新評議会(会長:文部大臣)が設立され、西田幾多郎、和辻哲郎、田邊元といった京都学派系の哲学者が参加している。
 日米開戦前年1940年の講演録『日本文化の問題』で、西田は「従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視されていた、各自の世界史的使命を奪われていた。…今日の東亜戦争は後世の世界史に於て一つの方向を決定するものであろう」と主張し、1937年から始まった中国侵略戦争を「植民地解放戦争」であるかのように欺瞞・讃美し、文化勲章を受けている。
 大宅壮一の『西田幾多郎の敗北』(1954年)には、西田が右翼から狙われていたかのように書かれ、小林敏明の『夏目漱石と西田幾多郎』(2017年)には、戦中の西田は自由主義者であり、軍部から利用された「被害者」であったかのように描かれている。
 しかし、文芸誌『文学界』が主宰した「近代の超克」の座談会(1942年)に京都学派が参加しており、西田自身も「国策研究会」に請われ、「世界新秩序の原理」を発表している。
 1943年の『世界新秩序の原理』のなかで、西田は「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである」、「神皇正統記が大日本は神国なり、天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない」、「日本精神の真髄は、…八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である」、「英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に倣うに至るであろう」と書いているように、西田は天皇制と侵略戦争の理論的支柱となっている。
 西田の生前最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)では、「今日の時代精神は、万軍の主の宗教(注:ユダヤ教)よりも、絶對悲願の宗教を求めるものがあるのではなからうか。仏教者の反省を求めたいと思ふのである」のあとに、脈絡もなく「世界戦争は、世界戦争を否定する為の、永遠の平和の為の、世界戦争でなければならない」と書いている。
 この言葉は、第一次世界大戦時に、「すべての戦争を終わらせるための戦争」(The war to end all wars)として、戦争推進キャンペーンとして使われており、西田は、すでに破産したこの言葉を使って、敗戦濃厚な侵略戦争を全面肯定する論陣を張り、他方では、1945年5月11日の鈴木大拙宛手紙に、「民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる」と書き送っている。西田は6月に亡くなった。
 しかしこの論理は破綻している。ここでいう「世界戦争」は日本による侵略戦争のことであり、「世界戦争」はいずれかが敗北して、一旦の決着がつくとしても、戦争をもたらす根本的な資本主義の社会システムはそのままであり、資本の危機はふたたびみたび戦争を引き寄せることは自明である。寺内さんは、戦後に編集された『西田幾多郎全集』からこの論文が削除されたと指摘しているが、むべなるかな。
 【参考資料】西田幾多郎の著作:『場所的論理と宗教的世界観』(1945年)、『世界新秩序の原理』(1943年、青空文庫)、講演録『日本文化の問題』(1940年)、『善の研究』(1911年、国会図書館デジタル)、『倫理学草案』(1905年)/寺内徹乗「西田幾多郎の知られざる闇」(『はばたき』27号2017年)、/寺内徹乗講演録「西田幾多郎とアジア太平洋戦争」(2020年2月)/小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎』(2017年)/上原麻有子「近代日本の哲学者、西田幾多郎にとって『自己』とは何であるか」(2013年、明星大学元教員)/『西田幾多郎哲学論集3、』(上田閑照の解説)/「死を見つめる心―西田幾多郎と鈴木大拙」(浅見洋×白鳥元雄、2005年ETV)/『西田幾多郎の敗北』(大宅壮一、1954年)

B 暁烏敏
 暁烏敏は1877年白山市の明達寺に生まれ、日清戦争(17歳)、日露戦争(27歳)、満州事変(54歳)、盧溝橋事件(60歳)、日米開戦(64歳)、敗戦(68歳)を体験し、1954年77歳で亡くなった。
青年期
 もともと1910年代の暁烏は真宗が近代的宗教になるためには、封建的倫理を捨てねばならないと呼びかける高光大船や藤原鉄乗らに合流し、ロシア革命を讃え、米騒動や労働運動を支持し、朝鮮植民地支配に異を唱えていたのである。しかし、その後の暁烏は国家主義に転じていく。
戦時期
 1931年、「長江貿易は日本の栄養線だ」と言って満州事変が起こされ、翌1932年の上海事変では6000人もの中国民間人を殺戮し、120万人もの避難民をだしている。しかし、当時の暁烏敏は『非戦争論者である私は、戦争が始まったら何をするか』(1931年)と問い、「ガンジーさんは、あの世界大戦の折りには、独立運動を中止して、英国のために戦費を集めたり、自ら看護兵となって、欧州の戦場に従軍せられたりしました。ガンジーさんのこの広い心がトルストイやロマン・ローランの心よりも尊いように思われます」と、ガンジーにならって、始まったばかりの中国侵略への支持と協力を宣明している。
 暁烏敏全集別巻を見ると、1942年『大東亜新秩序建設の根本』、『大東亜を築く心』、『臣民道を行く』、1943年『大御心を仰ぎまつる』、1945年『教育勅語謹承』、『勝利への一歩』の論述がある。しかし、全集に収録されているものは『大東亜新秩序建設の根本』、『大御心を仰ぎまつる』だけであり、マスコミの大本営発表を批判し、「経済統制がうまくいっていない」と愚痴をこぼし、「愛国行進曲や日の丸行進曲に落ち着きがない」と揶揄しており、これを以て暁烏敏は戦争に批判的であったかのような編集になっている。
闇に葬られた著書
 しかし暁烏敏は1928年、31年、36年、37年、38年、39年、40年、41年に朝鮮・中国にわたり布教活動をおこない、1937年に発行され、著述目録からも除外されている『皇道・神道・仏道・臣道』(北安田パンフレット第47)を読めば、暁烏がいかに戦争に全面的に協力していたかがわかる。このパンフレットは1936年に暁烏が朝鮮・ソウルの南山本願寺でおこなった説教の講演録(文庫判で、200頁)で、序文には「聖徳太子のお筆になった『十七条憲法』にたよって大日本臣民道を語った」、「近来神道といい、皇道といい、仏道といって自らを高くあげようとし、あらぬ邪道に陥っている人の多いのは臣民道を会得していないためだと思います。私共は、神道を承り、皇道を承り、仏道を承って、私共自身の臣民道を教えて頂かねばならぬと思います」と述べている。
 1936年といえば、蘆溝橋事件の直前であり、日本が本格的に中国侵略に突入して5年目の年である。このような情勢のなかで、暁烏が朝鮮や中国に渡って、天皇制を謳歌し、日本軍の宣撫工作に全面的に協力している。
 では、内容に立ち入っていこう。「我々は大日本の臣民であります。天皇陛下のやつこらと仰せられる臣民であります」と天皇に最敬礼し、「今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります」と天皇への忠誠を要求している。
 「田圃を作るものは自分が悪いところを食べて、天皇様によいものを差上げる。それが神嘗祭を持ち、新嘗祭を持っておる日本の本当の臣民であります」、「我々は…お仕事をするのである。ただ労働するのではない。仕事である。日本のあの仕事という言葉は仕(つか)へ、事(つか)へるという字である。誰に仕へ、誰に事へるのか。天皇陛下にお事へするのであります。…身体に力のあるものは身体を出し、心の働きのあるものは心を捧げ、そして天皇陛下のしろしめすところのお国の御用立ちをさしてもらうのであります。それが神ながらの道であります。だからそこに臣の道を考えてゆくところに、神の道が成就し、仏の道が成就し、天皇の御心が成就して下さるのであります」、「信ずる心も、念ずる心もすべて他力より起こさしめたまうなり、何から何まで神様仏様や天皇様のお与えものによって今日この生活をさしてもらっておるのであります。…私共は、『君が代は千代に八千代にさざれ石のいわほとなりて苔のむすまで』と心から歌わしていただける日本臣民であります」と、仏陀を天皇の奴僕にしてしまったのである。
戦後の暁烏敏
 このように暁烏敏は、国内はもとより植民地にまででかけて、天皇に身も心も捧げていたのであるが、それでは戦後をどのように迎えたのであろうか。暁烏敏全集の<思想篇9>によれば、『新発足の地盤』『仏教思想とデモクラシー』(1946年)などが敗戦直後に発表された。
 『新発足の地盤』では、「この詔書が発せられて、国民は驚き且つ悲しみ、殆ど茫然としていたが、私は念仏と共に心の平静を得て、これからだぞという希望を味あうことが出来た」と語り、自らの責任の重大さについてはほおかむりしている。『仏教思想とデモクラシー』では、「人が人(天皇)のために命を捧げるということは要らんのであります。…キリストは『汝の敵を愛せよ』というておりますが、仏教にはその『敵』さえないと説かれてあります。…皆さんの国家建設に対する熱意が尊く思われ、皆さんの精神にお宿りになっている陛下の大御心を拝して、ここで皆さんを合掌する思いであります」と、天皇を形ばかりに「批判」しながら、天皇に跪いている、醜い仏教者の姿がある。
 【参考資料】暁烏敏の著作:『非戦争論者である私は、戦争が始まったら何をするか』(1931年)、『皇道・神道・仏道・臣道』(1937年、北安田パンフレット第47)、『新発足の地盤』(1946年)、『仏教思想とデモクラシー』(1946年)

C 鈴木大拙
 鈴木大拙は1870年に金沢市で生まれ、第四高等中学入学・中退、美川で小学校教員(20歳ころ)、日清戦争(24歳)、在米時代(27~38歳)、満州事変(61歳)、日中戦争開戦(67歳)、日米開戦(71歳)、敗戦(75歳)を体験し、1966年96歳で亡くなった。
 現在(5月3日)、コロナウイルス対策という理由で、石川県内のすべての図書館が閉鎖され、知る権利(憲法13条)が抑圧されており、やむを得ずインターネット上の確かな情報を摘記することによって、鈴木大拙と戦争について確認する。
初期の大拙
 守屋友江は大拙の「米国片田舎だより」の読後感想として、「(日露戦争を挟んだ在米時代(1897~1908年)の)大拙は天皇崇拝や教育勅語を批判し、社会主義に共感を示している。しかし、日露戦争に到ると、熱烈な愛国主義的感情を吐露するようになる」、「15年戦争下では、…島国的な民族主義に閉ざされることを批判し、日本の仏教を世界的な視野で見ようとしながら、それ故にかえって『世界思想戦』として、戦争を肯定してしまう」(『禅に生きる 鈴木大拙コレクション』)と書いている。
戦時期の大拙
 市川白弦は『日本ファシズム下の宗教』で、「若き日の鈴木大拙は、『宗教とは、まず国家の存在を維持せんことを計り』という言葉を残している。さらに日本の勢力拡大を妨げる者(民族)は『邪道外道である』と言い、その相手、彼らの国を『暴国』と呼んだ。そして、『宗教の名に由りて、…正義の為に不正を代表せる国民を懲(こら)さんとするのみ』とまで書いた」と大拙を批判している。
 元永常はブライアンの『禅と戦争』を読み、「軍国主義時代に鈴木は軍人たちに,禅の精神こそ武士道の精神であると強調し、戦争の現場にいる軍人たちに戦争のイデオロギーを付与した」(『鈴木大拙における禅仏教の論理と民族主義』)と述べている。
戦後の大拙
 『霊性的日本の建設』(1946年)のなかで、大拙は「今だから脱白に公言できるが、自分等は今度の戦争は始めから負けるものと信じていた、また負けてくれれば日本のために好かろうとさへ思った」、「これは戦争終結前のものであったので、所述は自ずから限られたところがある」、「それを余りに直接にいふと当局の忌諱にふれて、出版は不可能になる」と記述しており、梅原猛は「今度の戦争が始めから負けると判っていたなら、思想家はやはりそれを公言すべきではないか。あやまった必勝の信念により日本は戦争に突入し、このあやまった必勝の信念により、絶望的な戦いを日本は長い間続けた。一日戦うことによって何万人の人の血がいたずらに流れた。思想家は、こういう状態を前にしてあえて沈黙すべきなのだろうか。それより彼はあやまった信念に固まった人間たちの蒙をといて一日も早く戦争を終わらせることに努力すべきではないだろうか」と批判している(『美と宗教の発見』2002年)。
 『北國新聞』(2014年10月9日)に、鈴木大拙が「東西間の生きる文化の懸け橋として国際平和に貢献した」という理由で、1963年のノーベル平和賞の候補に推薦されたという記事がある。戦時中に、自国の戦争に反対もしないで、「平和賞」にノミネートされて、晩年の大拙はどのような心境だったのだろうか。佐藤栄作でさえもらっている賞だから、その程度の権威である。
 【参考資料】『禅に生きる 鈴木大拙コレクション』(鈴木大拙著/守屋友江編訳)/『日本ファシズム下の宗教』(市川白弦、1975年)/『鈴木大拙における禅仏教の論理と民族主義』(元永常、2009年「印度學佛教學研究」第57巻第2号)/『禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか』(2001年、ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア)/『美と宗教の発見』(梅原猛、2002年)

【論考】4 石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について

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【論考】4 石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について

目次
序 ①戦争と弾圧の時代/②日本文学報国会
Ⅰ 犀星の戦争詩:①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅱ 石川県ゆかりの表現者:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤杉森久英/⑥長澤美津、永瀬清子、水芦光子/⑦深田久弥/⑧島田清次郎/⑨井上靖/⑩堀田善衛/⑪森山啓/⑫加能作次郎/⑬西田幾多郎、暁烏敏、鈴木大拙/⑭桐生悠々
Ⅲ 「戦争詩」を戦争遺産として
負の文化遺産に/後序

(14)桐生悠々

 桐生悠々は1873年に金沢で生まれ、日清戦争(21歳)、日露戦争(31歳)、欧州戦争(41歳)、満州事変(58歳)、日中開戦(64歳)を体験し、1941年日米開戦の3カ月前に亡くなった。
 徳田秋声とは同級生で、第四高等学校で共に学び、共に退学して上京した。東京法科大学政治学科(1895年~)に入学し、下野新聞(栃木県)、大阪毎日新聞(1903年~)、大阪朝日新聞(1907年~)、信濃毎日新聞(1910年~)など、ジャーナリストとしての人生を歩んだ。
 1912年(39歳)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将を批判した社説「陋習打破論―乃木将軍の殉死」を執筆し、明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な主張をくりひろげた。1914年、新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任した後も、反権力・反政友会的主張を繰り広げた。
 「反権力」というが、桐生悠々は「私たちのいうところ自由主義は、…略…マルクス流の歴史の必然性を認めず、意志の自由によって、これを翻えし得ることを信ずるものである」(1939年8月「日本の自由主義」)と、マルクス主義には距離をおいている。

1933年の桐生悠々
 桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」(1933年)は非常に有名な社説だが、内容を見ると、「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、…略…我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか」、「敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである」、「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」、「日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これ(敵機)を迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない」、「帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない」、なぜなら「航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない」と。
 この社説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、桐生悠々は同年9月に再び信濃毎日の退社を強いられ、その後の桐生悠々は亡くなるまでの8年間を愛知県で、『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」を執筆し、伏字や白紙化されたページが『他山の石』を埋めることもしばしばであった。

1938年国家総動員を歓迎
 桐生悠々は1938年の国家総動員法成立について、「終に両院を通過した。…挙国一致、即ち国民精神総動員が、これによって如実に、そして最も明に中外に向って闡明された。…私たちは一方、理論的にはこれを排しながらも、他方、実際では、その運用如何によって、我従来の資本主義に幾分かの修正を加えられるであろうことを期待して、不随意的ながらも、これを歓迎するものである」(4月)と歓迎しながら、11月には「一国一党は独裁政治の始まりと言うよりも、むしろ一国一党そのものが独裁政治である」、「一国に少なくとも二個の政党があってこそ、そこに初めて一国の国情を如実に議会の上に反射し得るのである」と大政翼運動を批判している(1938年11月5日「一国一党は独裁政治の始」)。
 盧溝橋事件1年後に桐生悠々は「天祐に馴れ過ぎた日本」(1938年7月)で、「日清及び日露の両戦争も、国内に於て戦われたのではなくて、いずれも外国領土に於て戦われたのであった。…略…若しもこれが国内で戦われたならば私たちはどれだけ悲惨なる経験を嘗めるべく余儀なくされたであろうか」と書き、日清戦争も、日露戦争も国内戦ではなく、対外戦争だったから良かったと主張しているようだ。ここでいう「天佑」とは、日本が大陸と地続きでないこと。
 続けて桐生悠々は「近代的の戦争は昔の戦争と違って、兵力のみの戦ではない。…略…これを後援する国力が充実していなければ、戦われ得ない。…略…国民は政府の要求を待つまでもなく、みずから進んで、謂うところの国民精神を総動員しなければならない」と、政府と一緒になって、戦勝のための総動員を呼びかけている。
 しかし、桐生悠々は今次の戦争に勝機はないと見ており、「飛行機に関する限り、日本は今や世界から孤立してはいない。日本海は一の堀に過ぎず、太平洋もまた一の河に過ぎないからである。…略…経済的に、資源的に、天祐に見はなされていることを思うとき、この危機を救うものはこの場合戦争にあらずして、寧ろ外交の力であらねばならない」と、敗北する前に、和平交渉に出るべきだと主張している。

1941年桐生悠々の遺言
 1940年1月の「巻頭言」で、桐生悠々は「『光輝』ある『皇紀』二千六百年を迎えて、私たち日本人は何を以てこれを祝すべく記念しなければならないだろうか。東亜新秩序の創造―これがその最も『光輝』ある記念の一であることは疑を容れない」と、侵略イデオロギーとしての「東亜新秩序」を翼賛している。
 桐生悠々は亡くなる直前の1941年9月、「…略…さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が、…略…やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」と書き遺した。

桐生悠々の思想的立場
 保阪正康(ノンフィクション作家)は、「桐生悠々は思想的に反軍部の論を主張したのではない。…略…『他山の石』の表紙の裏面には、五箇条の御誓文を必ず掲げ、…(桐生悠々は)『明治天皇は自由主義、民主主義者であらせられたのだ。五箇条の御誓文を拝読するとき、この思想はいづれの条項にも、脈々と躍動してゐる』と書いて、軍部、とくに昭和陸軍を批判したのである」と、桐生悠々は天皇主義者であったことを明らかにしている(HP「本の話WEB:自著を語る」2016年3月16日)。
 正宗白鳥は「彼(桐生悠々)はいかに生くべきか、いかに死すべきかを、身を以つて考慮した世に稀(ま)れな人のやうに、私には感銘された」(2019年9月8日『北陸中日新聞』社説より孫引き)と、桐生悠々を抵抗のジャーナリストとして評価しているが、天皇主義者としてのジャーナリストであり、戦争を推進し、勝利のために提言するジャーナリストであり、決して侵略戦争反対の人ではなかった。
(HP『ようこそわたしのホームページヘ」には、桐生悠々の論評が多数テキストにされている)

Ⅲ 戦争詩を「戦争遺産」として

 はじめて犀星の戦争詩に触れたとき、犀星への驚きでいっぱいであったが、論考の過程で、青年期の人道主義、プロレタリア文学への親和から拒絶へ、そして戦争詩人へと転換していく犀星の姿が走馬燈のように現れてきた。1940年の「もはや詩集を上梓しない」という犀星の言葉はわずか1年後のパールハーバーで棚上げにされた。この変わり身の早さは犀星の体制順応型の処世術なのか、恐怖から来る順応なのか、いずれにしても、戦争こそが犀星の詩人生命を歪めたのである。
 戦後、犀星の戦争詩については、必ずしも多くの評論がある訳ではない。批評する側も、戦争との関係では、傷を抱えながら、犀星をいたわり、戦争と表現者の関係について述べている。たとえば、中野重治は「戦争の夢魔と文学・生活とのたたかいの犀星における全像は手軽には描けない。しかしこの時期に、短い夢魔期を通過することによって犀星が一歩ないし数歩進んだこと、その可能性を胎んできたことは争えない」(1968年「戦争の五年間」)と語り、犀星(戦争詩)批判は緩く、受容している。
 富岡多恵子は『室生犀星』(1982年、ちくま学芸文庫)のなかで、「犀星が、そこでは『インテリ』ではなく『庶民』だったから」と、文化戦線の先頭で旗を振った犀星を一般市民のように格下げして、その責任を無化しようとしている。そして、富岡は「戦争の時代には、詩人は『国策』に奉仕する宣伝隊、扇動家としてしか期待されなかった」と、犀星を国策(国家)の被害者としての側面だけで捉えようとしている。
 しかし、文学者であろうが誰であろうが、政治に係わった人には、濃淡はあれ、政治的責任が発生するのは当然であり、昭和天皇が戦争責任を問われて、「私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えて、責任を回避したように、政治に係わった文学者が沈黙の世界に逃げ込んでいい訳がない。前線の将校は多くて数千の兵士を左右するに過ぎないが、戦争詩人は1億の日本人民に出征の号令をかけ、その政治的影響と責任の大きさは比肩出来ないという事実を押さえておくべきであろう。

負の「文化遺産」に
 宮本百合子は『昭和の十四年間』(1940年)で、「満州事変は昭和六(1931)年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一転廻した。昭和七(1932)年春、プロレタリア文学運動が自由を失って後、同八(1933)年運動としての形を全く失うに到った前後は、日本文学全般が一種異様の混乱に陥った」、「この年(1934年)の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた…。更に二年後の衝撃的な事件(1936年2・26事件)は、文化の危機を一般の問題として自覚させた。この時に到って作家の身辺に迫った一つの空気は前の二つの経験よりはもっとむきだしの形で生存の問題にも拘るものとして現れた。一つの息を呑んだような暗い緊張が漲ったのである」と、1930年代半ばの状況を述べている。
 その後、1937年盧溝橋事件からは本格的な戦争の時代がはじまり、それでも1940年の宮本は、「作家は、社会的な人間としての自分を自身にとり戻して、そのことで観念の奴僕ではない人間精神の積極的な可能を自身に知らなければならないであろう。…作家は創造的な批判の精神を溌溂と発揮し、文学の対象としての人間の歴史的な個性的なその動く姿を、作品のうちに正当な相互関係で甦らせなければなるまい」と、のたうち回っていたのである。
 しかし、1941年、戦争はアジア太平洋全域に拡大し、中野重治や宮本百合子は執筆を禁じられ、「社会的な人間としての自分を自身にとり戻して」、「人間精神の積極的な可能」を実現し、「創造的な批判の精神を溌溂と発揮」すべき砦は崩れ去っていたのである。その時金子光晴のように、「戦争がいけないと言えるのは、戦争が始まる日までのことだ」と、あらかじめ諦めるのではなく、その時にこそ必要なことは、非合法の出版と配布網であり、それが自国内で許されないなら、国を捨て、亡命してでも発表のケルンを確保し、国内に向けて発信するのが、古今東西の表現者の生き方だろう。
 『魚眼洞通信』7号(2018年)で、上田さんは戦争詩を「戦争という特殊な状況から生み出した文化的遺産」と受けとめて、「今後の歴史の教訓としていく」と話しているように、「戦争詩」を「文化遺産」として、曖昧さなく明らかにし、何時でも、誰でもが学び、同じ轍を踏まないための「戦争遺産」とすべきであろう。
 かつて、劇場で、ラジオで、青年たちの心を激しく揺さぶった、「臣らの歌」を、「十二月八日」を、「マニラ陥落」を、戦争の歴史と重ね合わせながら、声をあげて読(朗読)み、新たな戦争に身構える時なのではないだろうか。

後序
 小学生のころ、教科書をそっちのけにして岩波書店の『少年少女文学全集』(全50巻)に読みふけり、感動のあまり、「僕も、小説を書きたい」と、原稿用紙を前にしたが、一行しか書けなかったことを覚えている。
 その後も、地元の図書館を自分の書庫のようにして、社会派系の小説を漁り、人間の情を形成し、大学入学と同時にベトナム反戦闘争の洗礼を受けて、自分の人生がきまっていった。
 私が関心をもって見てきた郷土の人物と言えば、島田清次郎、鶴彬、八田與一、暁烏敏、尹奉吉などであり、政治的観点から親しんできたが、ここ数年、故大串さんの誘いで、「×××××の会」に顔を出すようになり、そこで犀星、鏡花、秋声などの作品に接し、ついに、犀星の戦争詩と出くわし、ようやく他の郷土作家たちの姿も見えて来た。
 この論考は、秋声記念館の上田さんが「未だ誰もチャレンジしたことのないテーマだ」と、私の好奇心をくすぐった結果、生まれてきたが、後で知ったことだが、上田さんが2018年1月に「犀星の戦争詩を考える」というテーマで学習会をおこなっており、その時に集めた資料とレジュメをそっくりいただいた。レジュメを見ると、全国的視野から犀星の戦争詩を論じており、私にはそのような知見はなく、石川県内の表現者たちと戦争に関する概略をなぞるぐらいしか出来ず、結果は山々の麓にもたどり着いていないというのが実感である。
 「オイ、オイ、そりゃー、ないだろう」という声が方々から上がるだろうし、「素人なんかに任せておれるか」と、山々を登る人々が生まれんことを心から願うのみだ。
 いま、新型コロナウイルスの感染拡大によって、4月中旬以降石川県内の図書館が閉鎖され、3週間後の開館に期待したが、そのまま5月末まで延長され、関係資料を閲覧できず、論考の停滞を余儀なくされている。
 憲法13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)、憲法21条(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない)、図書館の自由に関する宣言(図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする)は反故にされ、私権がいとも簡単に制限される現代社会のもろさが露わになったようだ。
 本論考で対象化した表現者たちが生きた「戦争の時代」と同じ時代状況が指呼の間にあることを実感している。とりあえず、一旦筆を置き、6月の開館を期して執筆を継続したいと考えている。 2020年5月8日


20200509シタベニハゴロモ幼虫が出ました

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20200509シタベニハゴロモの幼虫が出ました

2018年は7月上旬、2019年は6月4日でしたが、
今年は5月9日で、ベランダのプランターのなかのナデシコの草むらでした。
発見時の大きさは、2ミリぐらいでしょう。
ふ化したばかりか、これまでで、最小です。
今後、3年目の追跡が始まります

2020年4月11日 K兄が逝く  蟻食を 噛み殺したまま 死んだ蟻(鶴彬)

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2020年4月11日 K兄が逝く    蟻食を 噛み殺したまま 死んだ蟻(鶴彬)

なんとはやい旅立ちか。
3月10日に、
手紙をくれたじゃないですか。
いつもの、荒々しいタッチで、
封筒、所狭しと、宛名を書いて、
「1932年上海爆弾事件後の尹奉吉」を送れと。
まだ読み終わらないうちに、どこへ、いってしまったのだ。

今、バッグから、「尹奉吉」を取り出して、
灯りのしたで、背を屈めて、
メガネをずらして、読んでいるのですか?
なかなかの力作でしょう。

はじめて会ったのは、いつか知らない、遠い50年ほど前、
宇井純の「公害原論」を、
バリバリのK兄がこむつかしい論陣をはっていた。

不二越強制連行訴訟にも、いつもK兄の顔。
苦労の多いたたかいに、浮かない顔のわたしに、
「飯、食ってるか」と、優しい声。うれしい声。

あれから50年、私も老けていったが、
K兄も老けていった。
原発訴訟には必ず、K兄の顔があり、必ず、K兄の手が挙がる。
しかし、あのこむつかしい話しは、ちっとも老けていなかった。

あるとき、K兄から、
苦労いっぱいの人生ノートが届き、
全部書ききってほしいと、伝えたのに、K兄は、語らずに逝ってしまった。
戻ってきて、書き加えてくれ。K兄の人生を、非妥協に。

北電を 噛み殺したまま 死んだK
靖国を 噛み殺したまま 死んだK
不二越を 噛み殺したまま 死んだK

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2018年10月22日            K・K

靖国合祀イヤです訴訟、安倍靖国違憲訴訟、戦争法違憲訴訟
 10数年前、大阪地裁で靖国合祀取り下げを求めて、靖国神社を相手に、原告10数人で裁判が始められました。
 宗教者(キリスト教、仏教者)、一般の人、いずれも父が戦死し、靖国神社に合祀されているのは、後に続けということを奨励していることなので、子どもとして宗教ゆえにも、良心的にも、その苦しみに耐えがたいという趣旨で、裁判を始めました。
 なお、富山県からは僧侶のTさんが原告に加わっていました。私は裁判が始まってから、この事実を知り、「裁判が始まる前に知っておれば、原告に加わったのに残念」という気持ちでした。

 私の父は1937年7月、北京郊外で侵略を正式に始めた盧溝橋事件の直前に召集され、同年9月、万里の長城の北方で戦傷死しました。やがて生まれてくる自分の子の顔も見ずの死でした。私も父の顔を見ていません。写真で見るのみです。母は敗戦後の混乱のなかで、非常に苦労をして私を育ててくれました。
 この合祀取り下げ裁判は絶対に勝ってもらわねばと、大阪地裁、大阪高裁へと、裁判のたびに傍聴に駆けつけておりました。しかし、地裁、高裁、最高裁とも敗れました。
 その後、安倍靖国参拝違憲訴訟に原告のひとりとして名を連ねました。しかし、大阪地裁、高裁、最高裁とも理由にもならない理由で敗訴しました。

 このたたかいの火を消すわけにはいかない。靖国イヤです訴訟の一環として、合祀取り下げ書を一斉に提出しようということになり、靖国神社宛に合祀取り下げ書を提出しました。それにたいして、靖国神社からの回答は同封したとおりです。

【平成30年10月18日/靖国神社社務所/K・K殿/合祀取り消し要求書に対し回答の件/標記の件、当神社の祭神の合祀は、当神社の極めて重要な宗教行為であり、当神社の自主的な判断に基づいて決せられるべき事柄であって、そのことにより、他者の法的利益が侵害されることはないと理解しております。よって、貴殿の要求には添いかねますので、その旨御回答申し上げます。/以上】

 戦争法が成立したいま、新たに戦死者が出れば、靖国に祀るのは宗教法人として自由であるという口実で、追加していくでしょう。靖国は、後に続けと国民に奨励するための機関です。これをどのようにして止めていくか、私に問われています。

 なお、これに関連して、戦争法違憲訴訟の原告のひとりとして、大阪地裁での戦争法裁判では、裁判所に入るときに、探知機のなかを通り、所持品検査もされるという体制がとられています。他の裁判へも広がっていくのではないかと危惧しています。
 何が何でも、大阪地裁へ参加しています。次回は10月24日。

「図書館閉館」についての石川県教育委員会の態度

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石川県教育委員会は「図書館閉館の是非」について、会議も開いていない

 5月8日の新聞報道によれば、羽咋図書館はドライブスルー方式での貸し出しをはじめており、「図書館の自由に関する宣言」にもとづく読者の権利を重視しているが、金沢市立図書館も石川県立図書館も、そのまま5月31日までの閉館継続(合計1カ月半)を決めた。

 5月12日に、石川県情報公開センターを訪問して、県立図書館の閉鎖決定に係る情報公開請求をおこなった。結果は、県立図書館を管轄する教育委員会は図書館閉鎖に係る会議を開催していないので、議事録は存在しないという回答だった。



 情報公開窓口で、いろいろ尋ねてみると、感染症対策本部会議で、谷本知事が「図書館閉鎖」を提案したが、出席していた教育長からは一言の発言も議論もなく、そのまま全面閉鎖決定に到ったという。この「対策会議」の議事録を見ると、およそ会議という性格ではなく、トップダウン(上意下達)の指示会議であり、何ともおぞましい限りである。

 県知事は図書館行政のプロではなく、したがって「図書館自由宣言」など頭の片隅にもよぎらなかったであろう。県知事の無配慮な暴走を止めるべき教育長も、行政的役割をまったく果たしていないのである。

 ここで感じたことは、行政組織は上位には極めて弱く、物が言えず、トップダウンで降りてくる政策を忠実に果たすだけの機関であり、コロナウイルス感染対策と称して、「私権制限」=戦後民主主義の否定を唯々諾々と実行するのである。

 戦前の私権制限も一夜にして生まれたのではなく、長い年月をかけて一つずつ積み上げた結果であり、今回の「私権制限」も来たるべき戦争の時代に向けての第一歩となるのであろうが、今こそ、もの言う市民を必要としている。
(5月18日から、石川県立図書館の閲覧が再開されるそうだ)

【論考】5 石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について

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【論考】5 石川県ゆかりの表現者と戦争、とくに室生犀星の戦争詩について

目次
序 ①戦争と弾圧の時代/②日本文学報国会
Ⅰ 犀星の戦争詩:①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅱ 石川県ゆかりの表現者:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤杉森久英/⑥長澤美津、永瀬清子、水芦光子/⑦深田久弥/⑧島田清次郎/⑨井上靖/⑩堀田善衛/⑪森山啓/⑫加能作次郎/⑬西田幾多郎、暁烏敏、鈴木大拙/⑭桐生悠々/⑮竹久夢二、宮本三郎
Ⅲ 「戦争詩」を戦争遺産として
負の文化遺産に/後序

(15)画家と戦争
A 竹久夢二
 竹久夢二は1884年に岡山県で生まれ、日清戦争(10歳)、日露戦争(20歳)、満州事変(47歳)を体験し、1934四年に50歳で亡くなった。金沢は二人の女性との愛を育んだ地である。

社会主義者との接点
 荒畑寒村の紹介で、平民社発行の『直言』(1905年)に、日露戦争で戦死した夫(骸骨)を偲ぶ「勝利の悲哀」が掲載されている。1907年ごろには幸徳秋水と、1914年ごろには山本宣治とも親交があった。
 1910年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続くなかで、夢二は2日間、警察に拘束された。夢二は『砂がき』(1924年)で、「その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの写真屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な絵をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた」(「青空文庫」)と、当時を述懐している。

朝鮮人虐殺に警鐘
 夢二は、1923年関東大震災での朝鮮人(中国人も)虐殺について、批判的に発信している。
 9月9日付け『都新聞』の「東京災難画信」では、「自警団遊び」のイラストを付して、
<「萬ちやん、君の顔はどうも日本人ぢやあないよ」豆腐屋の萬ちやんを掴まへて、一人の子供がさう言ふ。郊外の子供達は自警団遊びをはじめた。/「萬ちやんを敵にしやうよ」/「いやだあ僕、だつて竹槍で突くんだらう」萬ちやんは尻込みをする。/…略…/子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になつて棒切を振りまはして、通行人の萬ちやんを困らしてゐるのを見る。/ちよつとこゝで、極めて月並の宣伝標語を試みる、「子供たちよ。棒切を持つて自警団ごつこをするのは、もう止めませう」>(加藤 直樹著『九月、東京の路上で』より孫引き)
と、朝鮮人虐殺に警鐘を鳴らしている。
 夢二は『変災雑記』(『改造』1923年11月号)でも、「いつどこの関所で竹槍で刺されるか知れない自分を考えた」(『ドキュメント関東大震災』1983年)と書き、前述の『砂がき』でも、「去年9月1日から1週間ばかりの間に、夜も晝も道玄坂をすさまじい響をたてゝ下つていつた陸軍の軍用タンクの自動車は、私の頭に異常な不安を殘したと見えて、いつでも夜ふけてあの響を聞くと、實に荒唐無稽な恐怖におそはれる」と、恐怖感を吐露している。

日中戦争と夢二
 日中戦争(満州事変~上海事変)がはじまった1931年、夢二は渡米し、1年3カ月間西海岸各地で個展を開き、その後(1932年9月)ヨーロッパに渡り、1933年に帰国した。
 『暗い時代の人々』(森まゆみ)のなかで、滞米中、邦字新聞『日米』でストライキがあり、このとき夢二は労働者の側に付いて、経営者と対立したと書いているが、滞米中の日記には見あたらない。
 1932年2月25日の日記に、「日米戦争が始まったらどうするか」と問われた夢二は、「メキシコへでも逃げて(社会主義と)生死を共にしますよ」と答えている。メキシコはトロツキーを受け入れ(1936年~)、佐野碩(インターナショナルの訳詞者)も亡命している(1939年~)。
 5月の午餐会で、夢二は「日本が領土を拡げたのなら、日本国民は苦労を増したのだ。…我々artistは美の領土をいくら拡げても一兵卒も殺さない、我々に敵はない!」と語り、喝采を受けている。
 夢二がドイツで放浪生活をしていた、1933年3月21日の日記で、「猶太(ユダヤ)人の橄欖(かんらん)の葉を入れたボルシュもう食へない。ナッチに追はれて店をしめていったのであらう」と、ナチスの民族排外主義を指摘し、「避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアが何を仕出かすか、日本といひ、心がかりではある」と、ナチスと日本を串刺しにして批判している。1923年関東大震災後の朝鮮人虐殺を思い描いたのだろう。
 1933年2月に小林多喜二が殺され、夢二は九月に帰国したが、翌年4月18日に、「新聞をやめたが、…新聞なんか読み続けることは悪いことだ」と書いているように、社会的記事は皆無となり、死期を意識した記事が多い。1934年9月に亡くなった。
 秋山清は夢二を偲んで、「画家としての凝視と現実への社会的批判の態度、それを根底とするユートピア的思考、自由を抑止する権力への不同調、…」(『暗い時代の人々』から孫引き)と追悼しているが、しかし、帰国後の夢二は生死と想い出に関心が集中し、日帝批判がほとんどなくなっている。

【参考資料】ブログ「てくてく 牛込神楽坂」/加藤直樹著『九月、東京の路上で』(2014年)/『ドキュメント関東大震災』(1983)/竹久夢二『砂がき』(1924年、青空文庫)/『暗い時代の人々』(森まゆみ、2017年)/『夢二日記』4

左から「勝利の悲哀」、「自警団遊び」、「砂がき」
  

B 宮本三郎
 宮本三郎は1905年に小松市で生まれ、満州事変(26歳)、日中開戦(32歳)、日米開戦(36歳)、敗戦(40歳)を体験し、1974年に69歳で亡くなった。

『時代』という魔物
 宮本が1973年に「私の50年はまた、『時代』という魔物の強圧に対応できるような自分の中の『気質』の発見への模索…」(HP「宮本三郎美術館」)と書いた時、ほとんどの評者はこの一文をもって、戦争記録画は不本意ながら描かされたと「納得」したようである。美術評論家の桑原住雄は「(宮本の主題は)戦争賛美ではなく、人間の苦しみ」と評し、弾圧されたからやむなく戦争画を描かされたと言いたげである。
 しかし、これほどの大作を、不本意のまま描くことができるのだろうか。宮本はノートに「描くということは、歓喜を見いだしてこそ始められることである」と記しており、画家宮本の人生を通しての、描くことの姿勢を表していると思う。

戦争画家として
 宮本は1940年に戦争画家として中国(華北方面)に従軍し、41年には献納画として「南苑攻撃」を聖戦美術展に出品している。その翌年の42年に「山下―パーシバル会見図」を大東亜戦争美術展に出品し、45年まで戦争画を描き続けている。
 1944年9月28日に「美術展覧会取扱要項」が発表され、二科展などが中止させられた。同年十月に、二科評議員会員の会議が開かれ、洋画家・向井潤吉によれば、「(宮本は)この際、潔く解散しよう」と主張し、反対を抑えて解散を決めたのである。宮本には表現の場・二科展を守り抜こうという気は全くなく、政府の意志を体現して二科展を解散したのである。
 戦後、ほとんどの戦争画が消えていくなかで、宮本の戦争画は別格に扱われており、それは作品そのものの完成度の高さから来ると言われている。

戦争記録画の役割
 竹内伊知(元小松市長)は「『山下―パーシバル会談』の写実は当時の私達軍国少年の脳裡には余りにも強烈な刻印をきざんでいました」(『まいどさん』紙上)と語っているように、現実に戦争賛美の役割を果たしており、宮本の戦争画を見て、戦争に駆り立てられた少年たちが多数いたのである。
 宮本が書き残した「時代という魔物の強圧」とは、もしかしたら敗戦のことであり、天皇制が後退した戦後民主主義を「魔物の強圧」と感じていたのではないだろうか。そして、それ以後の宮本の絵が変わったと考えるのは曲解であろうか。

芸術の階級性
 以上のように、宮本三郎は日本の侵略戦争を謳歌する戦争画家として、一時代を風靡したことは厳然たる事実である。今日、その時代の宮本と作品にたいして、どのような評価を与えるのか、明確にしなければならない。この問題について、検討と評価を回避することは芸術をもてあそぶ、最も非文化的な行為と言われても仕方がない。
 時代が階級社会であるかぎり、芸術も階級性を帯びる。宮本三郎、硲伊之助、高光一也は侵略戦争を「聖戦」として描いた。ピカソは人民の側にたって、戦争を描いた。日本の少年たちは、宮本の戦争画を観て、「聖戦(征戦)」の決意を固めた。世界の人々は、ピカソの「ゲルニカ」(1937年)を観て、戦争反対の決意を固めている。

【宮本三郎の戦争画】1941年 「南苑攻撃」/1942年 「香港ニコルソン付近の激戦」、「セレベスの落下傘部隊の激戦図」、「山下・パーシバル両司令官会見図」/1943年 「大本営御親臨の大元帥陛下」、「海軍落下傘部隊メナド奇襲」/1944年 「盛厚王殿下の肖像画」、「シンガポール英軍降伏使節」/1945年 「レイテ沖海戦」、「大東亜会議図」(未完成)
【参考資料】「戦争賛美画家・宮本三郎」(ブログ「アジアと小松」、2010年)/HP「宮本三郎美術館」

左から、宮本三郎「山下―パーシバル会談」、高光一也「イナンジョンの戦」、硲伊之助「臨安攻略」
  














20200604いよいよ、虫たちの季節

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いよいよ、虫たちの季節が来た。

5月9日に、ゴマ粒ほどのシタベニハゴロモの幼虫を発見してから、ときどき見ていたのだが、
6月4日、ニワウルシ(シンジュ)の幼木に、群れるように吸い付いているシタベニハゴロモの幼虫を見つけた。

6月1日には、フェロモントラップに捕まっているアメリカシロヒトリの成虫4匹。

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