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図書館の不自由宣言

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図書館の不自由宣言

 日本図書館協会が、コロナウイス問題を理由に、図書館利用者の名簿作成方針を打ち出した。最も敏感に、言論統制をチェックしなければならない機関が、率先して言論統制の機関に化そうとしている。すでに、石川県立図書館を管轄する石川県教育委員会で検討会議も開かないで、県立図書館を40日間にわたって閉館したことに、異を唱えてきたが、来館者名簿の作成については、かろうじて踏みとどまっていることに、図書館労働者の奮闘に感謝したい。(6/12「北陸中日」参照)

 だが、6月9日に、「金沢うみみらい図書館」を訪問したときは、入館の自由が確保されていたが、14日に訪問したところ、「名前を書け」という。

 館員に理由を尋ねると、コロナ感染が起きたら、保健所に知らせるという。「図書館の自由宣言」を知っているか、来館者名簿を他の行政機関に渡してはならないと書いてあるでしょうと、詰め寄っても、「図書館協会の指示だから」と居直る。

 しかし新聞記事では、図書館協会は「各図書館の判断に任せる」と言っているではないかと、重ねて言ってもらちがあかず、もちろん名前は書かず、玄関先で借り出し手続きをして帰ってきた。

 まさに、今回はコロナウイルス対策が理由だが、この先は国難を理由にして、閲覧制限・情報の他機関(警察)への提供へと道を開こうとしている。今こそ、図書館労働者の感性が問われている。

 この間、表現者と戦争をテーマにして学んできたが、このテーマは遠い先の話ではなく、意外と間近に迫っている問題なのではないかと感じている。



20200628『白薔薇通信』(1955年飜訳)

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20200628『白薔薇通信』(1955年飜訳)

 わたしが『白薔薇は散らず』を手にしたのは1970年代、東京渋谷古書センターの榊原書店であった。その後、何十回も転居を続けたが、この本は肌身離さず持ちつづけ、ショル兄妹はいつも私の傍にいた。
 1939年開戦3年後のドイツで、20歳代前半のショル兄妹らが反戦ビラを配布し、逮捕され、処刑された事件である。その事件の核心である『白薔薇通信』1~4号(1942年6~7月)、『全ドイツ人に訴う』(1943年1月)、『男子学友諸君! 女子学友諸君!』(1943年2月)の6種類のビラが遺され、いまも私たちに訴えている。
 時代は、1939年9月独軍ポーランド侵略=第2次世界大戦開戦、1940年4月独軍ノルウェー、デンマーク侵略、5月独軍フランス、オランダ、ベルギー侵略、1941年4月独軍ギリシャ、ユーゴ侵略、6月独ソ開戦、12月日米開戦、1942年1月1100万人のユダヤ人虐殺決定、6月~『白薔薇通信』配布、1943年2月『最後のビラ』配布―逮捕―処刑、9月イタリア降伏、1944年6月米軍ノルマンジー上陸、1945年2月ヤルタ会談、5月ドイツ降伏、8月日本降伏。
表現者の責任
 『石川県ゆかりの表現者と戦争』を執筆し終えて、ふと思うところがあり、久しぶりに開いてみたが、執筆中に開いていれば、この冊子ももう少し内容豊かなものになっただろう。何故そう思ったのか? 『白薔薇通信』第3号に書かれている表現者の責任について、次のように書かれている。

・現在の戦争遂行に寄与するすべての学問的精神的領域に於けるサボタージュ…ファシストの「権威」を国民間に高める如きあらゆる種類の文化的行事に於けるサボタージュ、
・いささかなりとも国家社会主義と関連ありそれに奉仕する造形美術の全分野に於けるサボタージュ、
・「統治」の傭兵としてその理念のため、かの褐色(ナチスの色)の虚言のために戦うすべての著作物すべての刊行物に於けるサボタージュ、
・1ペニヒといえども街頭献金にさいして犠牲にすることを止めよ(たとえそれが慈善目的なる外衣に身をやつそうとも)、
・金属、織錐、その他の回収に一物も献納することを止めよ! すべての知人を下層階級にいたるまで説き歩き、(戦争)継続の意義なきこと、戦争の勝算なきこと、国家社会主義による精神的経済的奴隷化、あらゆる道徳的宗教的価値の崩壊につき確信せしめ、消極的抵抗へと駆り立てよ!

ショル兄妹のたたかいの背景
 『ヒトラー暗殺計画・42』では42件の暗殺計画が紹介されている。『ウィキペディア』によると、第二次世界大戦が勃発後、ドイツ国防軍内にも反対派が形成され、ヒトラー暗殺やクーデターが実行された(未遂)。ソビエト連邦に軍事情報を渡すグループ(赤いオーケストラ)が存在した。ソビエト連邦の捕虜となったドイツ軍人の一部はドイツ将校同盟や自由ドイツ国民委員会を結成してドイツ国内への反ナチ宣伝をおこなった。
 また戦時下ではナチスによる統制と弾圧が強化され、学生や青少年による反ナチ運動も起こり、ショル兄妹もそのなかに数えられる。戦争終結直前の4月にはバイエルン自由行動がバイエルン州で蜂起したが、弾圧された。
 このように、ドイツ内外で反ナチ闘争が継続的に展開されていたからこそ、ショル兄妹が生まれたのである。逆に日本の戦時下で、「ショル兄妹」が生まれず、表現者が次々と戦争翼賛者となり、戦争詩・戦争小説を書き、画家が戦争画を描きつづけたのは、革命党の沈黙と屈服こそがアルファでありオメガであった。

【注:一部差別的表現があるが、原典(内垣啓一訳)に即してそのままにした】

【1】『白薔薇通信』 (1942年6月)
何よりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的(ママ)衝動に駆りたてられた専制の徒に「統治」を委ねることである。
消極的抵抗を開始せよ―抵抗すること―、諸君の持場を問わず、この無神の戦争製造機が回転をつづけることを阻止せよ、

【2】『白薔薇通信』
ポーランド征服以来この国のユダヤ人は実に三十万、野蕃きわまる方法により虐殺されたという事実である。ここに於てわれわれは人間の尊厳に加えられたよに怖るべき犯罪、全人類史に似るものなく並ぶものなき犯罪を見るのである。
十五歳より二十歳にいたる貴族出身の男系後継者はことごとくドイツの強制収容所へ強制労働のために、同年令の女子はことごとくノルウェーなるナチス親衛隊の慰安所へと拐引されたのである! 
何故にドイツ民族は、これらすべての非道非情のきわみなる犯罪に面して、かくも無感動であるのか? それにつき思いを煩わす者は皆無に近い。
何故ならば彼はその無感動の態度によって、これら凶悪の徒にかく行為する可能性を与えているのであり、彼はかくもきわみなき罪を背負える「統治」を甘受しているのであり、さらにはかかる統治がおよそ成立ち得たことに自ら罪あるのであるから! 
時いまだ遅すぎるということはない。今こそ、この数年来われわれの目が完全に開かれ相手の正体をわれわれが知っている今こそは、これら褐色(ナチス党の色)の徒党を根絶すべき絶好の機なのである。
乞う、本紙を出来限り多く複写し、さらに配布されんこと!

【3】『白薔薇通信』
ただ決定的かつ明瞭に強調さるべき一事は、各個人には全体の福祉のみならず個人の自由を確保する如き有用にして公正なる国家を要求する権利あること、これである。
必要なのはただ、確信と行動力をもつ多数の人たち、如何なる手段により目的が達せられ得るかにつき一致せる人たちの協同作業なのである。われわれはここに言う手段を自由に選択する状況には置かれていない、ただ一つの手段がわれわれの掌中に残されている―消極的抵抗。
軍需及び戦闘機関に於けるサボタージュ、ナチスによって喚起されるすべての集会、告示、祝典、統制に於けるサボタージュ。
現在の戦争遂行に寄与するすべての学問的精神的領域に於けるサボタージュ―総合大学、単科大学、実験室、研究所、技術所の如何を問わない。ファシストの「権威」を国民間に高める如きあらゆる種類の文化的行事に於けるサボタージュ。いささかなりとも国家社会主義と関連ありそれに奉仕する造形美術の全分野に於けるサボタージュ。「統治」の傭兵としてその理念のため、かの褐色の虚言のために戦うすべての著作物すべての刊行物に於けるサボタージュ。一ペニヒといえども街頭献金にさいして犠牲にすることを止めよ(たとえそれが慈善目的なる外衣に身をやつそうとも)。
金属、織錐、その他の回収に一物も献納することを止めよ! すべての知人を下層階級にいたるまで説き歩き継続の意義なきこと、戦争の勝算なきこと、国家社会主義による精神的経済的奴隷化、あらゆる道徳的宗教的価値の崩壊につき確信せしめ、消極的抵抗へと駆り立てよ!
複写及び配布を乞う!

【4】『白薔薇通信』 (1942年7月)
重傷を蒙れるドイツ精神の回復は内から達することを求めている。但しこの再生には、ドイツ民族が自ら招いたあらゆる罪の明かな認識と、ヒットラー及び彼の余りにも多き共犯者たち、党員や小物たち等に対する苛借なき戦いとが先行すべきものである。
彼らがあわよく最後の数分間に、かかる厭わしき犯罪後なお旗印をかえ、何事もなかったかの如くに振舞うことがあってはならぬ!
 われわれは沈黙しない、われわれは諸君のやましき良心である。白薔薇通信は諸君の安静を奪う!

【5】抵抗運動のビラ(1943年1月)
全ドイツ人に訴う!
数学的確実さを以てヒットラーは、ドイツ民族を深淵へと導くのである。ヒットラーは戦争には勝てない、ただひき延すことが出来る! 
ドイツ人よ! 諸君と諸君の子らはユダヤ人の受けたと同じ運命を望むのであるか? 
帝国主義的権力思想はそれがどの側から生ずるものであれ、永劫に牙を抜かれねはならぬ。一面的プロシャ的軍国主義は二度と再び権力を握ってはならぬ。ただヨーロッパ諸民族の寛容なる協同によってのみ、新建設を可能ならしめる地盤が生じ得る。
労働者階級は理性的社会主義によって、最低の奴隷状態から解放されねはならぬ。
諸君、抵抗運動を支持せよ、このビラを配布されよ!

【6】最後のビラ(1943年2月)
男子学友諸君! 女子学友諸君!
親衛隊の上級また下級幹部と党に追従する者らの演壇に背を向けよ! われわれの関心事は真正の学問と純粋な良心の自由である! いかなる嚇し道具もわれわれを畏怖させることはない、たとえ大学閉鎖を以てしても。
ドイツの名は永久に恥辱として残るであろう、もしドイツの青年がついに起上り、復讐と贖罪とを同時に果し、加害者を踏みにじり、新しき精神的ヨーロッパを建設することをせぬならば。
女子学生諸君! 男子学生諸君! われわれにドイツ民族の目は注がれている! 国民はわれわれに一八一三年ナポレオン戦役の時とひとしく、一九四三年にはナチス的恐怖を精神の力で打破することを期待しているのだ。今や東なるベレシナとスターリングラードには焔うずまき、スターリングラードの死者たちはわれわれに嘆願の声をおくる!
「いざ進めわが友よ、のろしの煙は立昇る!」
わが民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。

20200707読書メモ『アート・テロリスト バンクシー』 (毛利嘉孝著2019年12月)

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20200707読書メモ『アート・テロリスト バンクシー』(毛利嘉孝著2019年12月)

 戦中の作家について考えていて、戦中の落書きがひらめき、調べようと思っていた矢先に、『アート・テロリスト バンクシー』が目にとまり、とりあえず読んで、メモをした。戦中の落書きは「昭和特高弾圧史 5」のなかに、具体的に、大量に記録されている。
ブルー色の文字は投稿者の感想。

メモ
(028)イギリスブリストルで活動
(030)イラク戦争の反戦運動、パレスチナ問題、難民問題、反資本主義
(046)オークションビジネス批判、資本主義へのアイロニー
(048)バンクシー=①ロビン・カニンガム? ②マッシブ・アタックのメンバーのロバート・デル・ナシャ?
(051)グラフィティ=犯罪、非合法(イリーガル)、器物損壊
(052)人類史=人間は公共の場で自由に絵や文章を作って、他の人に見せてきました。こうした公共空間が国家や地方自治体あるいは私企業や土地所有者によって独占的に管理されるようになったのはごく最近のこと。都市に居住し、生活している多数の人々は、現在では都市で何かを表現する権利をほとんど奪われています。(←金沢市役所前広場)
(053)グラフィティライターやストリートアーティストたちの仕事は、空間から排除された人々が都市の景観を取り戻す試みです。
(055)匿名性の美学=一部の特権的な専門家に独占されているアートをすべての人々に解放するための重要な概念
(062)奴隷商人エドワード・コルストン(救貧院、学校、ホール、街頭の像)―ブリストル
(067)1980年―人種差別→セントポールズの暴動→反人種主義運動
(077)1999年~ロンドンへ。ネズミの絵=ホームレス、移民、難民。
(098)脱政治化した日本…ポップカルチャー(大衆文化)
(100)現在の資本主義(文化、メディア、情報サービス、金融、知的財産など非物質的生産に支えられた新しい経済)はラディカルなものや逸脱したもの、例外的なものを資本主義に組み込むことによって成長。(←組み込み得ないほどの対立物を!!!!)
(102)イスラエルとパレスチナの分離壁に絵(2005年8月)…バンクシー以前にナジ・アル=アリの「少年の絵」(1969年)
(120)私たちが今見ることができるミッキーマウスはいわば去勢されたミッキー=労働者階級の夢となったネズミ
(172)「道路を取り返せ」―トラファルガースクエアーのような街の中心地で、突然道路を封鎖してダンスパーティ(←金沢市役所前広場を取り返せ!!!!)
(172)国会議事堂前の花壇で農耕、バンクシー=チャーチル像に芝生(1990年代若者の運動)
(174)市民的不服従―根源的な不正に、市民として立ち向かうためには、現在の政治制度における法律を破らなければならないとき、法よりも自らの良心を優先する。
(184)落書き(グラフィティ)の歴史は古代ギリシャの時代まで遡る。2万年以上前の石器時代の洞窟。(大山『アゲインストリテラシー』)
(187)ドイツ哲学者のベンヤミン「文化財と呼ばれるものはどれも歴史の勝者たちの戦利品」
(190)ヒップポップ文化の4大要素=①ラップ、②DJ、③ブレイクダンス、④グラフィティ
(220)ウオーホル―資本主義的大量生産・大量消費にユートピア的な可能性を見た
(222)資本主義が隅々まで浸透することで、消費社会は管理社会に変容
(226)シチュアシオニスト(前衛芸術家)はかつてのマルクス主義のように生産や労働の現場で闘争をおこなう代わりに、消費や余暇の現場で闘争を生み出そうとした―1968年パリ5月革命
(230)2002年、バンクシーはエリザベス女王の顔を猿に変えた「モンキークイーン」→不敬→削除
(278)現在の資本主義は資本主義や社会が逸脱しているように見えるあらゆる過激なもの(政治的、道徳的)を素早く資本主義の中心に回収し、商品化=パンク資本主義(←絶対に回収されない対立的過激さを!!!!)
(293)日本はストリートカルチャーには不寛容
(294)落書きは都市の住民たちの「表現」。日本では都市の風景はほとんど私有化されている。建築物の持主が風景を占有。欧米では都市の風景は公的なもの(←広告)
(295)英語の「公的=パブリック」なものとは、個人にも行政にも属さない人々が集まって討議が出来るような開かれた空間。周縁化されている人々が尊重される空間。
(297)日本の都市にグラフィティが少ないということは、決して誇るべきことではない。落書きが一つもない整然とした空間にたいする志向は管理する側の視線を管理される側が内面化した結果。(リクルートスーツ)(←戦中の落書き。「昭和特高弾圧史」5を参照)
(299)ある表現がいいとか、悪いとか決めるのは、国家でも行政でも、ましてや警察でもありません。それは公的な議論を形成する市民の手に委ねられるべきなのです。そしてそれはアートの民主化であります。

20200708『石川県ゆかりの表現者と戦争 とくに、室生犀星の戦争詩について』

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20200708『石川県ゆかりの表現者と戦争 とくに、室生犀星の戦争詩について』 
注文 郵便振替口座名:アジアと小松 口座番号:00710-3-84795 頒価:300円(送料:180円)

目次
序 動機/①戦争と弾圧の時代/②日本文学報国会
Ⅰ 犀星の戦争詩/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触/
 ⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除/
Ⅱ 石川県ゆかりの表現者/①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤杉森久英/⑥永瀬清子、水芦光子、長澤美津/⑦深田久弥/
 ⑧島田清次郎/⑨井上靖/⑩堀田善衛/⑪森山啓/⑫加能作次郎/⑬西田幾多郎、暁烏敏、鈴木大拙/⑭桐生悠々/
 ⑮竹久夢二、宮本三郎
Ⅲ 「戦争詩」を戦争遺産として
年表「戦争と文化関係」
付 台湾植民地支配を讃美する、八田與一「物語」
付 鶴彬―共産主義者への軌跡      

Ⅲ 戦争詩を「戦争遺産」として
 以上、犀星の戦争詩を切り口にして、石川県ゆかりの表現者たちと戦争について述べてきたが、その目的は徒にその非をあげつらうためではなく、現在はもちろん、ふたたび戦争の時代を迎えたときに、先人の誤りから学び、私たち自身の生き方を明確に措定するためである。日本では、汚い部分を隠たがり、周りはそれを見てみぬふりをすることが美徳のような「文化」がはびこってきたが、そこからの脱却こそが求められているのではないだろうか。

 「清潔さ」を求めて戦争詩を削除した犀星、思想よりも出版を大切にした大拙、祖国防衛論に屈した秋声、帝国芸術院の軍門に降った鏡花、表現の場を求めて文学報国会に参加した重治、少年少女に戦争の夢を振りまいた深田、悲しみを喜びに書き替えられた永瀬、言論を統制する側にいた杉森、子どもたちに軍事貯金を呼びかけた井上、天皇制と東亜新秩序の理論的支柱となった西田、日帝軍隊の行く先々で布教した暁烏、天皇主義で軍部を批判した悠々、精魂込めて戦争画を描いた宮本、そして曲げなかったが故に殺された鶴彬、これらの人々の人生そのものが、上田正行言うところの「戦争遺産」(『魚眼洞通信』七号、二〇一八年)であり、私たちは、この負の遺産を現在に受け継ぎ、次世代に引き継がねばならないのではないか。
歴史的背景の再確認

 宮本百合子は『昭和の十四年間』(一九四〇年)で、一九三〇年代の状況を「満州事変は昭和六(一九三一)年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一転廻した。昭和七(一九三二)年春、プロレタリア文学運動が自由を失って後、同八(一九三三)年運動としての形を全く失うに到った前後は、日本文学全般が一種異様の混乱に陥った」、「この年(一九三四年)の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた…。更に二年後の衝撃的な事件(一九三六年2・26事件)は、文化の危機を一般の問題として自覚させた。この時に到って作家の身辺に迫った一つの空気は前の二つの経験よりはもっとむきだしの形で生存の問題にも拘るものとして現れた。一つの息を呑んだような暗い緊張が漲ったのである」と述べている。

 その後、一九三七年盧溝橋事件からは本格的な戦争の時代がはじまり、それでも一九四〇年の宮本は、「作家は、社会的な人間としての自分を自身にとり戻して、そのことで観念の奴僕ではない人間精神の積極的な可能を自身に知らなければならないであろう。…作家は創造的な批判の精神を溌溂と発揮し、文学の対象としての人間の歴史的な個性的なその動く姿を、作品のうちに正当な相互関係で甦らせなければなるまい」と、のたうち回っていたのである。

 しかし、一九四一年、戦争はアジア太平洋全域に拡大し、抵抗の作家は執筆を禁じられ、「社会的な人間としての自分を自身にとり戻して」、「人間精神の積極的な可能」を実現し、「創造的な批判の精神を溌溂と発揮」(宮本百合子)すべき砦は崩れ去っていたのである。その時金子光晴のように、「戦争がいけないと言えるのは、戦争が始まる日までのことだ」(「コスモス」一九五〇年二月、『中心から周縁へ』より孫引き)と、あらかじめ諦めるのではなく、その時にこそ必要なことは、表現活動を保障する非合法の出版と配布網であり、それが自国内で許されないなら、国を捨て、亡命してでも発表の場を確保し、国内に向けて発信するのが、古今東西の表現者の生き方だろう。

後序
 私が関心をもって見てきた郷土の人物と言えば、島田清次郎、鶴彬、八田與一、暁烏敏、尹奉吉などであり、政治的観点から親しんできたが、ここ数年、「きくはなすの会」に顔を出すようになり、そこで犀星、鏡花、秋声らの作品に接し、ついに、犀星の戦争詩に出くわし、ようやく他の郷土作家たちの姿も視野に入って来た。

 犀星記念館や秋声記念館の御厚意で幾つかの資料をいただいて、本格的な論考を始めたが、とくに、犀星記念館の学習会レジュメ「犀星の戦争詩を考える」(一九一八年、上田正行)から多くを学ぶことができた。そのレジュメは全国的視野から犀星の戦争詩を論じており、私にはそのような知見の蓄積はなく、石川県内の表現者たちと戦争に関する概略をなぞるぐらいしか出来なかった。

 この作業に取り組みながら、戦時下を生きた表現者たちの作品を、「戦争」一点で評価することのバランスの悪さを感じてきたが、それでも、作家と戦争という観点から、それぞれの表現者の作品と戦争の関係を正面から取り上げて、批評する必要性を、一層感じている。望むらくは、それぞれの作家・作品の愛読者と研究者が、表現者の戦争との係わりをレポートし、それらを集合し、コーディネートしてくれる人の生まれんことを。

 執筆時期に、新型コロナウイルスの感染拡大によって、四月中旬以降石川県内の図書館が約四〇日間完全に閉鎖され、関係資料を閲覧できず、論考の停滞を余儀なくされた。憲法二一条および「図書館の自由に関する宣言」(図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする)は軽視され、その後も入館者の名簿作成など自由がいとも簡単に制限される現代社会のもろさが露わになったようだ。

 本論考で対象化した表現者たちが生きた「戦争の時代」と同じ時代状況が指呼の間にあることを痛感している。

20200709シタベニハゴロモ観察中間報告

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20200709シタベニハゴロモ観察中間報告

 今年(2020年)のシタベニハゴロモの観察状況をお知らせします。
 最初にシタベニハゴロモの幼虫を発見したのは、5月9日で、自宅アパートのベランダに置いたプランターのナデシコです。ごま粒のような小さなもので、1~2ミリ程度でした。
 その後、5月15日に玄関先のバラの木に5~6匹群れていました。

 6月上旬には、自宅から少し離れた、D1棟・D10棟北側駐車場脇のニワウルシ(シンジュ)幼木に、多数発見し、ちょっと濃いめの石けん水を噴霧したのですが、効果はなかったようです(アメリカシロヒトリの幼虫には効果的でした)。

 その後、その区域(D1棟・D10棟北側)のニワウルシの幼木(多数)にシタベニハゴロモ幼虫がどんどんふえていき(数百匹)、6月25日には近所のおじさんから通報を受けた金沢市花と緑の課職員2人が観察に来ていました。赤色の4齢虫もちらほら見え始めており、このままだと膨大な数が成虫になっていくと思い、この日の夕方、キンチョール(ピレスロイド)を噴霧しましたが、ほとんど効果がないようでした。

 6月30日、キンチョールよりも毒性が強いゴキファイタープロ(イミプロトリン、フェノトリン、ミリスチン酸イソプロビル)を噴霧したところ、幼虫はポロポロと落下し、有効でしたが、他の無害昆虫への影響の恐れがあり、極力少量にしています。その後、7/1、7/3、7/5、7/6、7/7にゴキファイタープロを使用し、かなり減少していますが、まだまだ残っています。
 
 こうしてみていると、
①シタベニハゴロモの幼虫はニワウルシ(シンジュ)幼木以外には見られず、ニワウルシの幼木を刈り取ってしまえば、シタベニハゴロモの好餌がなくなり、成長を阻害できるのではないかと推測しています。

②逆にいえば、ニワウルシの幼木を意図的に残し、そこに集まってきた幼虫を捕獲すれば、増殖をとめることが出来るのではないかと思います。

③また、アメリカシロヒトリのフェロモントラップのように、ニワウルシの香りを使って、シタベニハゴロモをおびき寄せ捕獲するためのフェロモントラップも可能なのではないかと思います。

④また、幼虫の性格(脚力で跳ぶ)上、幼虫はニワウルシ成木の高所には着かず、低木(幼木)に限られるようです。したがって、対策が立てやすいのではないでしょうか。

 シタベニハゴロモ対策は、ひとつ目は卵塊の駆除、ふたつ目は幼虫のうちに駆除、みっつ目には成虫の駆除であり、どの段階での駆除が効率的なのか、すべてを実践することなのでしょう。

20200723やっぱり、ブドウにもシタベニハゴロモが

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20200723やっぱり、ブドウにもシタベニハゴロモが
 M団地北側のシンジュ(ニワウルシ)の幼木には、多数の幼虫に混じって、ちらほら成虫も見えてきました(富大の調査では15日視認、私は21日に視認)。2018年=7/28、2019年=8/1なので、今年は早めです。

 また、境界のフェンスに絡まって伸びているブドウのツルや葉に第4齢幼虫が多数見つかりました。このブドウは食用に栽培しているものではなく、自生しているようです。

 シタベニハゴロモがブドウを好んでいることについては、外国の例で知っていましたが、目の前のブドウのツルや葉に多数の幼虫が群れているのを初めて見ました(ああ、やっぱり)。

 石川県内には、多数のブドウ園があり、シタベニハゴロモが繁殖・拡大していくと、かなりやっかいなことになるのではないでしょうか。ネットで、「石川のブドウ園」を検索すると、珠洲市=1,羽咋市=2,宝達志水町=4、かほく市=11、津幡町=1、金沢市=2、白山市=2、小松市=4、加賀市=4で、県内には合計31件あります。

 実際的な被害の前兆であり、いよいよ対策が必要な時期が来ているのではないでしょうか。今年は、ブドウの木に群れているシタベニハゴロモの幼虫については、もう少し観察して、成虫になっても、ブドウの木に群れるのかどうか確認しようと考えています。

 写真を添付します。  





20200727 小松基地 緊急着陸報告書より

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20200727 小松基地 緊急着陸報告書より

 2017年度以前の小松基地緊急着陸報告はすでに当ブログ上に投稿してあるが、2018,2019年度の緊急着陸報告書が開示されたので、概略を記す。緊急着陸報告書には、8件の緊急着陸の記載があるが、新聞報道(北陸中日新聞)には、いずれも報道されていない。以前は新聞報道で、ある程度は緊急着陸については知り得たが(2017年4/4、7/5、7/27、10/7、10/24はマスコミ報道あり)、この2年間は、上空で起きている「危険」を一切知ることができないままである。また、2019年3月12日の百里基地所属のF4の緊急着陸は、報告書にはないが、マスコミ報道がおこなわれている。

 緊急着陸報告書記載の8件の報告のなかには、極めて危険な、重大事故一歩手前の報告がある。

 2020年3月2日の件は、3ページにわたって報告されており、その概要を記すと、日本海G空域で訓練後、「××訓練を実施した」と伏せ字にされているが、前後関係から見ると、「タッチアンドゴー」訓練だと推測される。ところが、3回目の着陸操作後、「××が点灯したまま」で、操縦士は脚系統の不具合と判断し、訓練を中止した。同僚機からは、「脚が下りているが、…××が××に比して縮んだ状態」との報告があった。これはおそらく、片方の脚が他方の脚と比べて縮んでいて、このまま着陸すれば重大事故に発展しかねない状況と思われる。滑走路に直接進入し、着陸拘束装置を使って着陸を強行した(操縦士の命が危ない!)。

 「原因・欠陥」の項には、「機体運用時等に伴う××の回転時に、××が不規則に追随することにより、切り欠き部分が××取付孔の延長線上に移動し、××収縮時に××のセンシング面端部の隙間に接触し、切り欠き部が変形した。変形した××の切り欠き部が××内径に押しつけられ、摩耗が拡大し、××に乗り上げ、3回目の着陸操作時の××伸張時にかみ込みが発生したため、最大伸張できなかったと推定する。」と記されている。

 2019年12月11日には、脚関係の不具合が原因の緊急状態だと推測される。G空域での訓練後、帰投時、接地直前に左から風圧を受け、左主脚から接地し、その後右主脚が接地した。MOBO(主要作戦基地)から「××が変形」が伝えられ、操縦者は着陸復行を実施し、洋上に出た後緊急状態を宣言した。小松飛行場に着陸後、××が根元ヒンジ部から左に70度偏向していた。

 原因として、「着陸時に風上(左)側に向いたまま(クラブ状態)に接地したことにより、××方向の外力が加わり、××が××との結合部を支点にして左方向に大きく振られた。××の振れ幅が可動範囲の限界に達し、××が折損、脱落した際に××と××が接触して固着した」と推測している。

 そのほか、操縦系統の不具合、燃料移送系統の不具合、接合部分の破断・油漏れ、油圧系統の不具合などで緊急着陸宣言が出されている。

2018.5.24│離陸10分後、意図しない機首上げ問題の発生、××に異常→緊急状態宣言→直線進入(原因)操縦系統の不具合
2018.9.19│離陸3分後、××の燃料が移送されていない→緊急状態宣言→待機空域→直線進入→××を使用し着陸(原因)燃料移送系統不具合
2018.12.4│離陸5分後、××の点灯→訓練中止→緊急状態宣言→緊急脚下げ→直線進入→拘束停止(原因)接合部破断→油漏れ
2019.8.1│G空域で、ピッチ方向に上下の振れ→××の瞬時点灯→緊急状態宣言→直線進入(原因) 油圧系統の不具合
2019.10.10│離陸30分後の帰投中、ピッチ方向への不意な機首上げ→緊急状態宣言→燃料調整→直線進入(原因)操縦系統の不具合
2019.11.28│離陸上昇中、××の点灯→緊急状態宣言→直線進入 (原因)油圧系統の不具合
2019.12.11│G空域訓練後、接地直前に、落着気味に左主脚から接地→着陸復行→緊急状態宣言→直線進入 (原因)××が折損、脱落
2020.3.2│G空域訓練後、3回目の着陸操作後、××が点灯→緊急状態宣言→直線進入→着陸拘束装置で停止(原因)脚系統の不具合

20200807腹の据わらない図書館

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20200807腹の据わらない図書館

 石川県立図書館と金沢市立玉川図書館に『石川県ゆかりの表現者と戦争』を寄贈して、1ヶ月以上たつが、未だに蔵書検索ではヒットしない(8月7日)。まあ、石川県の名高い「偉人」を批判する小冊子なので、公開するのを躊躇しているのかも知れない?。
 これまでに私が寄贈した小冊子には、『内灘から三里塚へ』(1989年)、『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉』(2012年)、『島田清次郎の実像』(2019年)、『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉(改訂版)』(2020年)があるが、それらはしっかり蔵書されている。

李登輝の訃報と八田與一
 また、同書には八田與一の実像を事細かにレポートしていることもあり、金沢偉人館に寄贈した。その後の李登輝の訃報(7月30日)に際して、学芸員の増山仁さんは、私の八田與一論を読む時間は十分にありながら、八田與一が台湾農民のために尽くしたかのように、コメントしているが(テレビ報道)、とんでもないフェイク発言である。

 また、7月31日の「北國新聞」では、編集委員の宮本南吉さんは「李登輝氏は身を粉にして台湾の水利事業に尽くした八田與一技師の思いを語り、八田技師のような『日本精神』を発揮すること…」と書いているが、李登輝の八田與一評が台湾ではどのように受け止められているのかについて、一顧だにされていない。

 たとえば、台湾大学教授の許介麟は「李登輝はストックホルム症候群だ。八田與一を顕彰するなんて奴隷根性だ」(『日本植民地統治的後遺症』2011年)とこっぴどく批判している。宮本さんは李登輝の言葉を利用して八田與一=日本精神を称揚しているが、その八田の思想を検証したことがあるのだろうか。

 1943年に発行された『水明かり 故八田與一追偲録』を見れば、
(1)「我等の希望せる戦(注:大東亜戦争)が来ました。…日本は朝鮮、シベリアを領土とし、満州国、蒙古国、北支那に根を張らねばなりません。…豪州ニューギニアを第二日本国とし、スマドラ、マレー、北ボルネオを第三日本国とします。第二日本国に千五百万人、第三日本国に五百万人、第一日本国に四千万人、朝鮮に五百万人、シベリアに五百万人の日本人を配置します。…東亜連盟の盟主は第一日本とします」(『水明り』44頁)
→好戦的侵略主義者ではないか!

(2)「(八田與一は)東亜経済調査局に行って大川周明さんに会ひたい…それから佐藤賢了さんにも会ひたいと言って居りました」(『水明り』67頁 大川周明:5・15事件で禁固五年、日本主義、南進論を主張。佐藤賢了:金沢今町出身の陸軍中将、対米英開戦論者)
→南進論、対米開戦論を支持!

(3)「現在戦争に夢中であるが、南洋各地の平和的鉱、工、農、諸事業を手分けして調査し、何時でも進出出来る様技術者が分担する必要がある」(『水明り』45頁)、
 「(八田與一は)日本が南京、上海を占領すると同時に此の揚子江を利用して発電出来ないかと云ふ計画をやり、日本軍がどんどん進んで漢口に出ますと、武昌の奥の方を締め切って発電出来ないかと計画をし、又その中に黄河の発電計画をやり、珠江についてもよく考へられて全占領地域の計画を樹てて居られました」(『水明り』63頁)、
「(八田與一は)電源の開発については、もう日本のやつも台湾のやつも高いコストになって駄目だ。スマトラのトバ湖のものが一番安い電源であらう。…将来南洋圏で工業を興すにはスマトラで興せと云ふ話をして居りました」(『水明り』67頁)
→侵略的技術者である!

(4)「棉作の方に水田を廻はしてやらう(注:水田を潰して綿花栽培)、それで今年の計画は賄って行かうと云ふ計画を樹てやう、水田を棉作に潰せば、今年の棉は植えられる、米は減るが、来年の雨期の後に生産場所を見つけてやらう」(『水明り』67頁)
→水田で生計を立てている農民のことを考えず、軍用品としての綿花栽培を進める計画!

(5)「どうしても水力電気は必要だと云ふので、内地の資本家を説いて廻らうと云ふので…東京に行って盛んに大甲渓を完成してその電力を使へと、説いて廻った事があります。会社関係や或は海軍省の方に行ったりした」「逓信省、海軍省、三井なんかを説いて廻った」(『水明り』60頁)。
 そのような中で、総督府官僚と大企業間に、「(八田與一は)視察研究のため米国へ出張せられた。而して出立の前にも滞米中も調査や視察に関して、三井物産等の工事関係会社の援助は遠慮なしに受けられ、大いに之を利用せられた相である」(『水明り』43頁)
→ダム建設は農民のためではなく、台湾進出日本企業の電力確保のためであり、官財癒着関係も!

 日帝の台湾植民地支配に順応した李登輝と八田與一を都合よく利用して、日本の台湾支配が正しかったかのように評価することの欺瞞を疑うべきであろう。

2020年8月以降の、ニワウルシ(シンジュ)成木の観察

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2020年8月以降の、ニワウルシ(シンジュ)成木の観察

西側16本、東側7本、合計に分けて数を数えています。駆除はせず、観察のみ。


8月4日=西側2匹、東側8匹、合計10匹
8月7日=西側5匹、東側30匹、合計35匹(前回調査より+25匹)
8月10日=西側21匹、東側78匹、合計99匹(前回調査より+64匹)
8月12日=富山大学調査・採取
8月13日=西側12匹、東側75匹、合計87匹(前日の採取で12匹減少)
8月17日=西側70匹,東側171匹、合計241匹(前回調査より154増加、北側幼虫0)

8月20日=西側91匹、東側171匹、合計262匹
 前回調査より21匹増加。ピークに近づいたか? 北側野ブドウの成虫はごく少数。
 北側の野ブドウの葉が黄変・落葉。シタベニハゴロモの吸汁のためか? 排泄物のためか? 乾燥が続いているためか? 排泄物がかかったニワウルシの葉も落葉している。

 8月中旬に、石川県農林水産部農業政策課に、シタベニハゴロモに関する会議資料(2009年以降)の開示を求めたが、「当該昆虫(外来昆虫シタベニハゴロモ)に関する会議が開催されておらず、議事録が存在しない」という回答が帰ってきた。何をかいわんやである。

梅軒尹奉吉義士記念館HP

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梅軒尹奉吉義士記念館HP

 8年前の2012年に発行した『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉』が韓国語に翻訳され、梅軒尹奉吉義士記念館のホームページに掲載されました。2020年発行の改訂版の韓国語訳も準備されています。

<概略の説明>
『1932년 상하이 폭탄사건 후의 윤봉길』국문 번역본 제작
"1932年 上海爆彈事件後の 尹奉吉"

매헌윤봉길의사의 상하이의거는 일본제국주의의 팽창을 막고 세계사적으로 경종을 울린 사건이었습니다. 상하이의거에 감명을 받은 장제스 총통은 카이로 회담을 통해 한국을 자유독립국으로 보장하도록 강력히 제안했고 이는 카이로선언을 통해 확증되었습니다.
 梅軒·尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海義挙は、日本帝国主義の膨張を防ぎ、世界史的に警鐘を鳴らした事件でした。上海の事件に感銘を受けた蒋介石総統は、カイロ会談を通じて韓国を自由独立国として保障するよう強く提案し、これはカイロ宣言を通じて確かめられました。

상하이의거는 장제스 뿐 아니라 세계 각국의 수많은 사람들에게 영감을 주었고 그 중에는 일본의 지식인들도 포함되어 있습니다.
 上海義挙は蒋介石だけでなく世界各国の数多くの人々にインスピレーションを与え、その中には日本の知識人たちも含まれています。

오랜 시간 윤봉길의사에 대해 연구한 일본인 재야사학자 "×××/고마쓰지역문제연구회 대표)"의 『1932년 상하이 폭탄사건 후의 윤봉길』을 기념사업회에서 국문으로 번역하였습니다.
 長年、尹奉吉義士について研究してきた日本人在野史学者「×××小松基地問題研究会代表」の『1932年上海爆弾事件後の尹奉吉』を記念事業会が韓国語に翻訳しました。

해당 자료집은 국내에 소개되지 않은 흥미로운 자료들도 확인할 수 있는데 1932년 5월 당시 일본 열차시간표를 통해 윤의사의 이동경로를 보다 상세히 추적할 수 있습니다. 추후 윤의사의 발자취를 따라갈 수 있는 소중한 자료가 아닐 수 없습니다.
 この資料集は韓国内ではまだ紹介されていない資料も確認できますが、1932年5月当時の日本の列車時刻表を通じて尹義士の移動経路をより詳しく追跡することができます。 今後、尹義士の足跡をたどることができる大切な資料に違いありません。

또한, 윤의사 순국장소인 미쓰고시 주변 등고선 지도를 1889년부터 비교하여 수록한 저자의 치밀함은 순국지의 정확도를 더욱 높이는 자료로 활용할 수 있습니다.
 また、尹義士の殉国場所である三小牛周辺など、1889年以降の等高線地図を比較して収録した著者らの緻密さは、殉国地の正確性を高める資料として活用できます。

저자의 노고에 감사드리며 본 자료집이 윤의사를 연구하는 분들에게 활발히 활용되길 기대합니다. 네이버 메일앱에서 보냈습니다.
 著者のご労苦に感謝して、本資料集が尹義士を研究する方々に活発に活用されることを期待します。梅軒尹奉吉義士記念事業会。

論考「近代日本のナショナリズム」

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論考「近代日本のナショナリズム」 

 ある機関誌(2020年8月)に投稿した原稿です。

目次:はじめに/【1】近代日本のナショナリズム(近代以前、明治初期~日清戦争、明治中期~日露戦争、日露戦争後~、昭和初期~15年戦争/【2】現代日本のナショナリズム(敗戦期、1960年代~、21世紀)/参考文献/用語について

はじめに

 2019年日帝安倍政権とマスコミは、天皇代替わりを契機にして、天皇制賛美を洪水のようにたれ流し、天皇制に日本(人)のアイデンティティ(天皇の赤子)を求めるという、天皇制・天皇教ナショナリズムを煽り、加えて日本海(東海)大和堆のイカ漁問題、領土問題(独島・釣魚台)、軍隊慰安婦・徴用工問題などで国益主義・排外主義をあおり、スポーツ=オリンピックなどで日本民族の優秀さを賞讃し、21世紀の日本ナショナリズムを形成しようとしている。
 ナショナリズムは近代的な国民国家の政治原理である。たとえば、王制を打倒したフランス革命の「自由・平等・友愛」、イギリスから独立したアメリカの「自由主義・共和主義」、ワイマール体制を打倒したドイツの「ナチズム」、明治維新後の「天皇制+国益・排外主義」、敗戦後の「象徴天皇制+9条平和主義」をナショナル・アイデンティティとして、近現代資本主義国家のもとに国民を繋ぎとめ、少数派(支配階級)が多数派(被支配階級)を支配・動員し、資本を増殖するためのイデオロギー装置として機能している。
 日本では、江戸期のように、階級が厳格に固定化され、鎖国政策下の閉鎖された社会では、ナショナリズムは適合的な政治原理にはなりえず、明治期に入り(19世紀末~20世紀初頭)、対外関係が重要になった資本主義社会で発生した。日本ナショナリズムは天皇制・天皇教、対西欧コンプレックスの克服、国益・排外主義(特に対中国・朝鮮)などで構成されてきた。
 統治機構が未確立な明治初期には、天皇・維新政府と対峙・対決する自由民権運動があったが、1882年(明治15年)、刑法第116条に大逆罪(天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス)が規定されて以降は、天皇制批判が封印され、対外戦争批判(天皇制批判を内包)が日本ナショナリズム批判の糸口とされた。したがって、日本ナショナリズムに対抗・対立する反ナショナリズムの存否は、「(天皇批判を内在化した)非戦・反戦」のあり方で確認することができる。
 明治期に形成され、今日に至る日本のナショナリズムと反ナショナリズムの歴史をおさらいすることによって、21世紀の日本ナショナリズム批判への糸口としたい。

【1】近代日本のナショナリズム

(1)近代以前
 古来、「すばらしい日本」、「美しい日本」、「稀有な日本」などのナショナルアイデンティティの創出がおこなわれてきた。推古天皇は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と書いて、『国書』を中国(隋)に送り(607年)、北畠親房は、『神皇正統記』(1300年代)で、「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云ふなり」と書いている。奈良時代の『風土記』や室町時代の『人国記』もナショナル・アイデンティティ捜しの書である。
 江戸期には荷田春満→賀茂真淵→本居宣長(「古道論」)→平田篤胤(「復古神道」)らの「国学」が大和心(魂)を宣揚し、1823年には、佐藤信淵は『宇内混同秘策』で、「皇国御国は、大地の最初になれる国として、世界万国の根本なり」と、天皇こそ唯一の支配者であると「自民族至上主義」を主張した。水戸学者の会澤正志斎は日本を万世一系の皇統を軸とする祭政一致の国家体制と特徴づけ、天皇の存在を根拠に日本の対外優越性を説いた。吉田松陰は忠誠対象を天皇に一元化し、藩閥政府も政党も財界もすべて「私」にすぎず、天皇のみが公共性を代表すると考えていた。
 幕末には、アメリカ、ロシアなどからの開国要求に、為す術もなく右往左往する江戸幕府に対抗する諸藩・武士階級によって、倒幕・尊王攘夷運動がはじまるが、天皇は倒幕に利用できる「玉」にすぎなかった。林子平はロシアの脅威への対抗から、朝鮮領有の必要性を説く『海国兵談』(1791年)を著し、侵略思想の萌芽が現れている。
 江戸期に入って、度量衝や通貨の標準、商業の発達、教育(寺小屋)、出版が普遍化され、「単一国家」形成の基礎が形成されたが、300藩に分かれ、各藩の領民(武士、農民・商人)は所属する藩との関係性を結んでいたが、徳川幕府はもちろん天皇にも関心は薄く、「日本」という国家意識(ナショナリズム)を形成してはいなかった。

(2)明治初期~日清戦争
 明治維新後、沖縄、北海道を包摂し、文化的・言語的共通性を確立(強制)し、国境が決められ、近代的単一国家が形成された。
 維新政府にとっては、天皇は「玉」程度の扱いだったが、自由民権運動や資本主義生産関係の形成過程で、大逆罪(1882年)で批判派をねじ伏せ、軍人勅諭(1882年)、教育勅語(1890年)、決定的には日清戦争をとおして、天皇を核とした日本ナショナリズムを大衆レベルへと浸透させていった。
 明治以降の日本ナショナリズムの第1の柱は天皇(制)にあり、例えば陸羯南(新聞『日本』1889年~)は「我が日本に在りて国民の本心は天皇を以て神と為し、臣民を以て宝と為す。神なり、故に侵すべからず。宝なり、故に軽んずべからず」と述べ、また中国を「善導」すべきとして、中国侵略を正当化する論をたてている。
 第2の柱は、幕末の攘夷運動をひきつぎ、不平等条約の解消、西洋へのキャッチアップによる近代化(帝国主義化)である。徳富蘇峰は「皇室中心主義」を称えるとともに、ペリーによる強制開国を<強姦=屈辱>と捉え、<鎖国→開国>期を日本ナショナリズムの起点とし、『大日本膨張論』(1894年)では、中国の衝突に勝利しない限り、日本の発展はあり得ないと主張し、日清戦争の目的を<自尊心の回復、欧米による認知>に置いた。
 第3の柱は周辺諸国への侵略による国益の追求に置いた。西郷隆盛は朝鮮半島の領有によって国内危機を解除する「征韓論」を称えた(1860年代)。杉田鶉山は明治政府の専制を批判し、アジアの人民解放を主張していたが、日本の近代化のためには中国・朝鮮の侵略が必要と、その主張を変えた(1880年代)。大井憲太郎は当初、韓国独立党を支援していたが、西欧諸列強への対抗手段として、大陸を領有すべきだと主張を変えた(1880年代)。
 福沢諭吉は「日清戦争は文(明)野(蛮)の戦争」と主張し、台湾割奪(1895年)後、「(抵抗者は)兵民の区別を問はず、一人も残らず誅戮(ちゅうりく)して集類なからしめ」、「内国にて民権を主張するは、外国に対して国権を張らんが為なり」などと、<民権=侵略>論を主張し、日本ナショナリズムの第2、第3の柱確立に余念がなかった。
 日露戦争時には幸徳秋水、堺利彦らとともに非戦論を主張した内村鑑三さえもが「支那(注:中国)は社交律の破壊者なり、人情の害敵なり、野蛮主義の保護者なり」と日清戦争を支持したように、この時期の日本ナショナリズムは<神権天皇制+欧化+周辺国侵略論>で構成されていた。
自由民権運動の変節
 自由民権運動は1874年の国会開設請願からはじまり、「国会開設」「地租軽減」「条約改正」を目標にし、1890年の国会開設をもって終熄した。全国津々浦々で民権結社や学習運動が起こり、国会開設請願運動、憲法起草運動が起き、1884年の秩父困民党蜂起と加波山事件がその頂点にある。秩父蜂起は、人民の参加による人民のための政治をめざし、天皇制とは相容れない「社会的平等やコミューンの思想」を孕んでいた。しかし、福沢諭吉による「脱亜論」(1885年)の影響を受け、琉球、アイヌ、朝鮮、台湾への差別・蔑視へと繋がり、大陸侵略政策批判の根拠を失い、1884年の甲申事変(朝鮮における親日クーデターの失敗)後には、民権派は政府以上に好戦的な姿勢に転じたのである。
 たとえば、筆者の義母の係累に加波山事件で投獄された横川省三がおり、1887年保安条例で「皇居3里以内接近禁止」の決定がおりた。その後の横川省三は、日露戦争開戦時(1904年)にロシア軍の東清鉄道を爆破するために満州に潜伏していたところを逮捕され、ハルピンで銃殺刑に処された。
 このように、自由民権運動は挫折し、「脱亜論」に取り込まれ、官民一体で排外主義があおりたてられ、日本ナショナリズムが形成されていったのである。
日清戦争反対論
 もともと自由民権運動には天皇制批判が孕まれており、1882年には、天皇(制)批判を封殺するために、「大逆罪(死刑)」、1885年には「爆発物取締罰則(死刑)」が施行された。秩父蜂起や加波山事件が鎮圧(1884年)され、軍人勅諭(1882年)、教育勅語(1890年)で天皇の「神聖不可侵性」が浸透し、日清戦争(1894年)を迎えるころには、天皇批判もアジア連帯論も姿を消し、戦争支持論が明治中期の社会意識となっていた。
 日清戦争反対論について見てみると、1870年代の谷干城は征韓論(外征によって士族の不満を解消し国論統一を図る)に立っていたが、日清開戦を積極的に支持する民権派とは距離をおき、支持せず、戦争終結後の戦争賠償も過大な要求はすべきではないと主張し、遼東半島割奪の要求も批判している。
 1894年、日清戦争中の勝海舟は時局談話『氷川清和』で、「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの、…支那(注:中国)は昔時から日本の師ではないか。…今日になって兄弟喧嘩をして、支那(注:中国)の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ」と語っている。
 また、当時の文学者泉鏡花は『予備兵』(1894年)、『海城発電』(1896年)、『琵琶伝』(1896年)、『凱旋祭』(1897年)で、日清戦争への不同意を明確に表現している。
 日清戦争反対論はごく少数派であり、戦争が始まると、「絵にも唄にも、支那(注:中国)人に対する憎悪が反映してきた。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、討ちて正しき國とせよ。」(生方敏郎著『明治大正見聞史』)と書かれているように、排外主義があおりたてられた。

(3)明治中期~日露戦争
 高山樗牛は日清戦争後の1897年の『太陽』誌上で、「日本国家共同体へ国民を思想的にも精神的にも強制動員し、国家的価値や国家的利益がすべてに優越する」、「西欧先進帝国主義国家との競合と対立に耐えうる強大な国家建設」(日本主義)などと主張した。この時期には、日清戦争に勝利した「大国民」としての日本民族を自画自讃し、諸列強との覇権争いに対応するための大陸侵略思想の形成と実践の段階に入っていった。
 世論は日露開戦支持一色となり、民本主義を称える吉野作造は「朝鮮の独立と帝国の自尊のために、ロシアを挫かねばならない」と主張し、「忠君愛国」の天皇制ナショナリスト海老名弾正も「(朝鮮)合同説」を称えて、ともに日露戦争を支持した。
インターナショナリズム
日清戦争期には戦争批判がほとんどなかったが(泉鏡花による厭戦小説はあるが)、日露戦争開戦の危機が深まっている1903年、幸徳秋水・堺利彦らは安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義の立場から、『平民新聞』を発行し、非戦論を展開した。
 1904年には、トルストイの『悔い改めよ』や『共産党宣言』が翻訳され、幸徳秋水はインターナショナリズム(国際主義)に大きな影響を受けている。幸徳秋水は『平民新聞』(1904年3月)の社説で、「社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。」と提言している。ここで、幸徳は自国・日本の戦争に反対し、ロシア社会民主党は「敗戦」を歓迎し、両国人民のインターナショナリズムが交差したのである。
 その後7月には、幸徳秋水は海老名弾正の「朝鮮民族の運命を観じて日韓合同説を奨説す」について、「保護国は不可也、属国は不可也」、「日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せるに非ずや」、「見よ、領土保全と称するも、合同と称するも、その結果は只ヨリ大なる日本帝国を作るに過ぎざることを」(論文「朝鮮併呑論を評す」)と、侵略(朝鮮併合)と排外主義とアジア蔑視を激しく批判した。
 作家・徳田秋声は日露戦争真っただ中の1904年に、『春の月』で「此奴(息子)も又兵隊だ。其時分は、何所の国と戦をするだらう」と、厭戦的に書き、キリスト者・木下尚江も非戦論の立場から、1908年韓国併合の動きについて、「略奪は国家の本性だ」と痛烈に批判している。

(4)日露戦争後~
 日露戦争に勝利した日帝は、大陸侵略思想の本格的な形成と、その実践としての朝鮮半島支配権の拡張に向かった。1906年山縣有朋は「国利国権の伸張は先づ清国に向かって企画せらるるものとす」「(中国侵略は)帝国の天賦の権利」、同年田中義一は「大陸国家構想(大陸に日本の活路を開く)」、1916年後藤新平の「日本膨張論」など、大陸侵攻論や大陸膨張論が日本社会を覆い尽くしていた。
 このような情勢のなかで、1910年5月25日、明治天皇暗殺計画(信州明科爆裂弾事件)が発覚し、信州の社会主義者宮下太吉ら4人が逮捕された。この事件を口実として、非戦・反戦勢力を一掃するために、日帝は幸徳大逆事件をでっち上げ、数百人の社会主義者・無政府主義者を逮捕・検挙し、翌1911年24人に死刑判決、12人を処刑し、天皇(制)の凶暴性を示したのである。
 社会主義者を一掃し、日本ナショナリズムを満展開し、韓国併合(1910年)、満蒙独立運動(1912年、15年)、第1次世界大戦参戦(1914年~)、山東出兵(1927、28年)、満州事変(1931年)へと突っ走るのである。
 1911年に幸徳秋水が処刑された後、「大正デモクラシー」が開花する。労働組合(日本労友会など)が増加し、労働争議(八幡製鉄所の大争議など)の件数・参加人数とも増加、高止まりの状態で推移している(一覧表)。『マルクス伝』、『資本論』、『空想的及科学的社会主義』、『賃労働と資本』、『労賃・価格及利潤』、『国家と革命』、『帝国主義論』など共産主義文献が多数翻訳発行され、米騒動(1918年)が全国に波及し、小作争議も増加し、安田善次郎刺殺(1921年)、原敬首相刺殺(1921年)、虎の門事件(1923年)など左右のたたかいが火花を散らしていた時代である。
 1912年から上杉慎吉と美濃部達吉の天皇機関説論争があり、美濃部達吉は「天皇は元首であるが、同時に憲法に従って政治(統治権)を行使する『機関』ともいえる。…したがって国家の『機関』である以上、天皇も『国家』意思に従わなければならない」と主張し、天皇主権=神権説を退け、1913年には機関説が勝利し、憲法は機関説で運用された。
 1917年ロシア革命でソ連が誕生したことにより、国民のなかに共産主義思想が広まり(1922年日本共産党結成)、民衆のなかに権利意識が高揚し、普通選挙権獲得に関心が集まった。天皇制及び国家神道の動揺を懸念した政府は、普通選挙法制定(1925年)に抱き合わせて、治安維持法「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を制定し、共産主義運動に致命的な規制をかけた。
 この時代は、日本ナショナリズムにたいする批判が噴出し、大逆罪(死刑)と治安維持法による恫喝と言論封殺によって、辛うじて守られていたといえる。

(5)昭和初期~15年戦争
 天皇機関説は大正から昭和の初めまで憲法学界の通説となったが、中国侵略戦争(1931年満州事変~)が始まる過程で、1935年美濃部達吉は不敬罪で告発され,『憲法撮要』など3著が発禁処分を受け、天皇機関説は政治的に葬られ、天皇主権説に逆戻りした。侵略戦争遂行のための天皇制ナショナリズムから不純物を取り除いたのである。
 大逆罪(1982年)、爆発物取締罰則(1985年)に加えて、1925年に治安維持法(国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコト)が成立し、その本格的発動は1928年3・15弾圧(1568人検挙)であり、山本宣治刺殺(1929年)、小林多喜二(1933年)や鶴彬(1938年)を獄死させ、約7万人が送検され、拷問死90人を含め、少なくとも400人強が獄死している。
 このように、日帝は弾圧と白色テロルによって人民の気孔をふさいだが、この時期(昭和初期)の労働争議は大正期よりも多発しており、1940年の産業報国会によって労働組合の活動が強制的に停止されるまで、人民の権利意識が広範かつ強固に存在していた。このような労働者人民の抵抗を内部から解体するために、文学者、画家、音楽家、宗教者、哲学者などを総動員して、日本ナショナリズムを強制したのである。
 筆者の住む石川県でいえば、詩人・室生犀星は、1943年の詩集『美以久佐(みいくさ)』の序詩では、「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」と戦勝を祈念し、「マニラ陥落」では、軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。これらの戦争詩は劇場やラジオで朗読され、国民の戦意昂揚に資した。
 真宗僧侶の暁烏敏(あけがらすはや)は1936年の説教で、「今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、…百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります」、「天皇機関説を称える人の態度を見ますと、…頭の上がった態度であります。天皇は神聖にして侵すべからずという国体明徴の道は臣民の道であります。我々はこの臣民としての自覚がなければならんのであります」と、宗教界も率先して天皇への忠誠を要求している(『皇道・神道・仏道・臣道』)。
 画家宮本三郎は1940年に中国に画家として従軍し、41年には「南苑攻撃図」、その翌年に「山下―パーシバル会見図」を描き、45年敗戦まで戦争画を多数描き続けている。
 このような文学、宗教、絵画などの表現者がこぞって体制に順応していった裏には、革命党の不在、すなわち人民に開かれた非公然の出版・配布の経験的蓄積の未成熟があるのではないだろうか。しかし、上海では「大韓民国臨時政府」(1919年~)、タイでは「自由タイ」(1943年~)、フィリピンでは「抗日人民軍=フクバラハップ」(1942年~)、マレー半島では「マラヤ人民抗日軍」(1942年~)、ビルマでは「パサパラ(反ファシスト人民自由連盟)」(1944年~)が、日帝の暴力支配のもとで結成されたたかいぬいている。
このように1931年満州事変から始まった15年戦争によって、数千万のアジア人民の殺戮、310万人の日本人兵士・市民の死をもたらしたものこそ、日本ナショナリズム(天皇制+国益・排外主義)であり、とりわけ「東亜新秩序」(「諸民族の自主独立」、「民族の伝統尊重と創造性伸暢」、「互恵経済発展」、「欧米からの植民地解放」、「同祖同族論」、「家族国家観(家長=日本、家族=諸民族)」)にもとづく戦時ナショナリズム=大東亜共栄圏構想であり、主体的側面としては革命党不在の問題を挙げねばならないだろう。
とはいえ、「大東亜共栄圏構想」は実体を伴わず、アジア市場を狙う米帝の参戦が立ちはだかり、敗戦を迎え、戦時日本ナショナリズムは破綻したのである。

【2】現代日本のナショナリズム

(6)敗戦期
 1945年に敗戦を迎えた日本で、破綻した日本ナショナリズムはどのように「変化・再編」されたのだろうか。『読売新聞』の世論調査(1948年8月15日発表)によれば、<天皇制存続=90.3%、天皇制廃止=4.0%>という結果がある。他方では、同年9月の日本世論調査研究所の文化人・議員・財界人1000人の「指導者層」を対象にしたアンケートでは、<退位賛成=約50%、退位反対=約44%>であった。ここから見えることは高学歴者のなかでは退位支持が多数を占めているものの、一般市民の天皇制支持は解体されず、天皇(制)ナショナリズムは戦後も人々の意識を支配していたことである。
 日本軍に侵略され、大きな被害を被ったアジア諸国民は天皇制廃止を主張したが、このような国民意識を把握していた米占領軍は、「間接植民地統治方式」で日本を支配するために天皇制を残し、とりあえず日帝軍部の解体・無力化を図ったのである。
 戦時期の苛酷な弾圧・投獄(前述)と転向によって、反体制組織も思想も壊滅状態であり、日帝敗北後、非転向政治犯3000人が釈放(岩波『近代日本総合年表』)されたものの、旧体制(天皇制)はもちろん、米占領軍を打倒すべき組織的主体は、あらかじめ解体されていた。他方植民地支配下の朝鮮では何万人もの活動家が亡命し、朝鮮本国に檄を発し、日帝敗北後に帰国し、民衆と共にたたかいぬいた歴史を持っている。
論壇の分裂
 戦後期の論壇には、「アメリカの民主主義に降伏するのではない、皇室中心の民主主義である」(45年9月、『毎日新聞』)、「君民一如の民主政治」(45年12月、鳩山一郎)、「国民は天皇を愛する。愛するところに真の民主主義がある」(46年4月、津田左右吉)など、民主主義と天皇制の共存論が溢れていた。
 他方では「天皇制は個人の自由を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頽廃させる」(46年3月、加藤周一)、「天皇制の由来は…悠久なものではなく、…天皇制は明治維新以来70年来のもの」(46年3月、羽仁五郎)、「天皇制は明治以後はじめて出来た」(46年9月、井上清)、「天皇制が…日本人をして…半永久的な未成年段階にとどまらせる」「天皇制廃止を目標として国民的成長」(49年、中野好夫)、「(天皇制を)倒さなければ日本人の道徳的自立は完成しない」(52年、丸山真男)と、天皇(制)にたいする賛否が拮抗していたのである。
革命党の役割と試練
 このように国論が真っ二つに分裂しているときにこそ、革命党の天皇制批判と行動が重要であった。共産党は1945年10月の「人民に訴う」のなかで、天皇制打倒・人民共和政府樹立を声明し、志賀義雄は「天皇こそ最大の戦争犯罪人」(11月)、宮本顕治は「専制君主(=天皇)の永続的支配はその民族の汚辱」(46年2月)と天皇制を批判したが、他方では野坂参三は「専制権をもたぬ天皇」(1945年4月延安で)の残存を容認し、「民主戦線によって祖国の危機を救え」(1946年1月)と祖国防衛論に陥いっていたのである。
 戦後期を迎えた共産党には、「侵略戦争の敗北を革命に転化する」という思想的・運動的準備もなく、天皇制打倒のスローガンもおろし、米占領軍に恭順の意を示しながら(解放軍規定)、ついに1950年レッドパージで壊滅的な打撃を受けたのである。
 すなわち、敗戦によって既成権力(天皇制と軍部)の権威が地に落ちた、千載一遇のチャンスに、占領軍に支えられた日帝ブルジョアジーは、戦前の<天皇制+軍部>による統治から、<象徴天皇制+民主主義+憲法9条>への転換を図って、生きのびたのである。ここに象徴天皇制という新たなナショナル・アイデンティティが形成されたのである。

(7)1960年代~
 敗戦帝国主義・日帝は1965年日韓条約を転換点として、アジア再侵略(経済的)の道を歩み始めている。共産党は米帝従属論のもとで、「日韓条約」を反米民族闘争の課題と位置づけ、革共同は「日韓条約=再植民地化」として、「日韓(条約)の本質を日帝の(再)植民地支配としてとらえ、反植民地闘争の原則的立場を確立、…植民地支配にたいする帝国主義本国プロレタリアートの国際的任務」(1966年「第3回大会報告」)と位置づけてたたかっている。
 それは、ベトナム反戦・大学闘争(帝国主義大学解体)に引き継がれ、1970年「7・7」告発によって、近代以降のアジア侵略への自己批判と現代日帝の再侵略阻止を、みずからに課したのである。
 その後の日帝は帝国主義として、法改正を繰り返しおこない、繰り返し自衛隊を派兵し、建国記念日(紀元節)を設け、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とし、教育基本法を改悪(愛国心)し、スポーツで祖国日本を讃美し、領土問題で対韓国・中国排外主義をあおり、戦前型の日本ナショナリズム(元首天皇制+国益・排外主義)へと国民を導こうとしている。

(8)21世紀の日本ナショナリズム
 かつて、日本ナショナリズムは大逆罪、爆発物取締罰則、治安維持法によって保守・強制されていたが、「象徴天皇制+民主主義+憲法9条」を内容とする戦後の日本ナショナリズムは占領軍支配下で生まれ、爆発物取締罰則、破防法(1952年)、凶器準備集合罪(1958年)、共謀罪(2017年)などの弾圧法体制によって保守・強制されている。
 その象徴天皇制は、戦後の統治システムの重要な一角を占め、日本ナショナリズムの重要な要素をなし、人民から自立心と主体性を奪ってきたが、しかし、21世紀の日帝にとって、「象徴天皇制+民主主義+憲法9条」という戦後の統治形態そのものが桎梏と化している。①解釈改憲で自衛隊を強大化し、海外に派遣してきたが、憲法9条の制約を取り払って、ストレートに対外軍事行動が出来る国への衝動に駆られている。②新型コロナウイルス問題を奇貨として、安倍政権は火事場泥棒のように、政府に権限を集中させ、国民の権利を制限する「非常事態条項」を憲法に潜り込ませようと画策している。
 ③さらに天皇を象徴から元首に変えることによって、戦後民主主義を根底から変質させ(立憲君主制へ)、内に向かっては従順な臣民へ、外に向かっては兇暴な侵略者へと変えようとしているのである。それは、まごう事なき天皇制・天皇教+国益・排外主義+戦争によって構成された戦前型日本ナショナリズムへの志向である。
 その実践的手法として、「国際貢献論」「美しい国づくり」「戦後レジームからの脱却」「新しい生活様式」などと、歯の浮くようなスローガンを並べ立てて、21世紀日本ナショナリズムを再構成しようとしているが、これに対置すべき「1970・7・7」思想(連帯し内乱へ)を、2007年「7月テーゼ」で、革共同自身が否定・清算してしまったのである。「被差別・被抑圧人民のたたかいと労働者階級の自己解放闘争を並列的に扱う傾向」、「部落出身の共産主義者は、自己をまず労働者階級解放闘争をたたかう主体として確立」などと言いなして、差別・排外主義とのたたかいを後景に押しやり、二義的な課題とし、被差別人民とりわけアジア人民との連帯・共闘論を否定した(北陸では不二越強制連行訴訟支援からの逃亡)。
 120年前の日露戦争時に、「愛国主義と軍国主義とは、諸君(ロシア社会民主党)と我等と共通の敵也」と呼びかけ、「朝鮮併呑論を評す」で、朝鮮併合を真っ向から批判した幸徳秋水の「革命的祖国敗北主義・侵略戦争を内乱へ」論をいまこそ継承し、21世紀をたたかいぬくために、早急に21世紀日本ナショナリズムを対象化するための諸論沸騰を期待したい。

参考資料
纐纈厚著『侵略戦争 歴史的事実と歴史認識』(1999年)/色川大吉著『自由民権』(1981年)/小熊英二著『<民主>と<愛国>』(2002年)/塩川伸明著『民族とネイション ナショナリズムという難問』(2008年)/植木和秀著『ナショナリズム入門』(2014年)/米原謙著『東アジアのナショナリズムと近代』(2011年)/原佑介論文「木下尚江の『大日本魂』批判」(2008年)/『大東亜聖戦大碑資料集(1)』(2001年)/『島田清次郎の実像』(2019年)/『上海爆弾事件後の尹奉吉』(2020年)/『石川県ゆかりの表現者と戦争』(2020年)/マルクス・エンゲルス著『共産党宣言』(1848年)/大澤真幸著『近代日本のナショナリズム』(2011年)/岩波『近代日本総合年表』(1968年)/山村信一論文「国民帝国とナショナル・アイデンティティの逆説」(2017年『ナショナル・アイデンティティを問い直す』所収)/『2007年7月テーゼ学習・討議資料』(前進社)/生方敏郎著『明治大正見聞史』(1979年)/「天皇制ボナパルティズム論」(1960年『本多延嘉著作選』)/泉鏡花著『予備兵』『『琵琶伝』『柳小島』など/室生犀星詩集『美以久佐(みいくさ)』(1943年)/暁烏敏著『皇道・神道・仏道・臣道』(1937年北安田パンフレット)/

20201001 論考『21世紀の日本ナショナリズム』(抄)

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20201001 論考『21世紀の日本ナショナリズム』(抄)

【X】敗戦と占領で失ったもの
 本論考の目的は21世紀現代の日本ナショナリズムの姿を明らかにすることにある。
 前稿では、天皇制ナショナリズムの形成(明治期)から、戦時ナショナリズムとその瓦解までを考察したが、本論考では、敗戦と占領による天皇制ナショナリズム瓦解後の再生過程(高度経済成長期~)と攻めぎ合い、そして21世紀現在の日本ナショナリズムの諸相について明らかにしたい。
 日帝統治能力の回復と日本ナショナリズムの回復は一体的に遂行されてきた。①その運動実態は神道政治連盟と日本会議であり、②その方向は天皇制ナショナリズムであり、③その主要な手段は学校での天皇制教育であり、④領土問題で排外主義を煽り、⑤「国際貢献」を名目にして、自衛隊の海外派兵=軍事行動(戦争)の承認、⑥反対派を取り締まる治安法体制を再建することにある。⑦その集大成こそ9条改憲にある。
 そして、私たちの課題と責任を明らかにしたい。田辺俊介によれば、ナショナリズムは純化主義+愛国主義+排外主義で構成されているという。日本人と外国人の間に境界線を設定し、外部との差異化を図り、共通する祖先の神話で純化(純化主義)し、神話を元に愛国心を組織し(愛国主義)、外部を脅威として認知し、反外国主義(排外主義)的対応をとるという。
 まさに戦前の天皇制ナショナリズムはこれに符合していたが、敗戦と占領政策によって、この構造が瓦解し、今その「再生」の過程にある。21世紀の日本ナショナリズムの現状を考察する前に、まずは、敗戦と占領期を通して、日帝が何を失ったのかについて確認したうえで、本論に入っていこう。

 まず第1に、日帝本国の経済に加えて台湾、朝鮮をはじめとした植民地(経済圏)を失った。旧植民地諸国(地域)は日帝の軍事的経済的支配から離脱し(米帝に奪われた)、宗主国―植民地の支配・被支配関係が崩れ、対等の国家間関係へと移行した。
 第2に、天皇を頂点にした独裁的政治支配の国家神道体制を失い、妥協的産物としての象徴天皇制と議会制民主主義に置き換えられた。
 第3に、対外侵略(植民地支配)と天皇制を支えていた皇軍(交戦権)は解体され、「憲法前文+9条」に置き換えられ、戦時下で呻吟していた人民はこれを受け入れ、侵略の手段(皇軍)とイデオロギー(生命線論)が否定された。
 第4に、国民を天皇制に繋ぎとめるための教育勅語が全否定され、青少年は民主主義と自由を手に入れた。
 第5に、治安体制(特高警察+治安維持法)が解体され、天皇制暴力支配の要が崩壊した。

【Y】天皇ヒエラルヒーの回復
(1)神道政治連盟(1969年~)
 占領下1945年12月に、神道指令、皇室祭祀令廃止、宗教法人令が公布され、象徴天皇(制)から神社が分離され、すべての神社が民間宗教団体とされ、国家神道体制が解体された。しかし、日帝支配層にとっては、天皇と神社は有機的関係(国家神道)にあり、祭政一致の政治体制への回帰を志向する勢力が即座に形成されはじめた。
 敗戦翌年の1946年1月に、祭政一致体制の解体に不満を束ねる「神社本庁」が発足し、占領下で「奪われた天皇制」の回復にうごきだした。1967年2月11日を「建国記念日」として紀元節の復活を果たし、1968年からは元号法制化運動を開始し(1979年成立)、1969年には神道政治連盟(神政連)が設立された。神政連は<①神道の精神を以て日本国国政の基礎、②神意を奉じて経済繁栄、福祉の発展、安国の建設、③日本固有の文化伝統を護持~健全なる国民教育、④世界列国との友好親善~自主独立の民族意識の昂揚、⑤建国の精神を以て無秩序なる社会的混乱の克服>の5綱領を掲げ、皇室の尊厳護持をめざした。
 1984年には44人だった神政連所属の衆参議員は、2014年には268人、2016年には304人に達している(衆参全議員数=722人)。第二次安倍内閣には20人の閣僚中、2015年=19人、2016年=17人を数えている。神政連こそ安倍政権の右傾路線を支える母体であった。(参照:『徹底検証 日本の右翼』第17章「神道政治連盟の目指すものとその歴史」島薗進)

(2)日本会議(1997年~)
 その後、1997年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(安倍晋三事務局長)、「あたらしい歴史教科書をつくる会」(つくる会)、日本会議が結成されている。日本会議の目標は<①美しい伝統の国柄を明日の日本ヘ、②新しい時代にふさわしい新憲法を、③国の名誉と国民の命を守る政治を、④日本の感性を育む教育の創造を、⑤国の安全を高め、世界への平和貢献を、⑥共栄共生の心で結ぶ世界との友好を>であり、神政連の綱領と大差ない内容である。具体的には、①改憲、②歴史教科書、③「慰安婦」問題、④靖国参拝、⑤領土(竹島、尖閣)問題、⑥選択的夫婦別姓、⑦外国人参政権、⑧女系天皇問題などを掲げている。
 日本会議国会議員懇談会発足時の国会議員数は189人であった。その後増加し続け、2015年9月時点では281人(約40%)となっている。2019年9月発足の第4次安倍第2次改造内閣でも16人が入閣しており、日本会議内閣と言ってもいい。
 神政連と日本会議は1999年国旗・国歌法を成立させ、学校教育現場への天皇制イデオロギーの浸透を強化し、2001年「つくる会」中学歴史・公民教科書検定合格、2006年教育基本法改悪、2014年『私たちの道徳』(文科省)へと突き進んでいく。
 国家神道こそが日本における「愛国の形」であり、神政連も日本会議もこの点では一致している。 

(3)天皇主義への回帰
(A)歴史認識の前進
 日本の再侵略(戦争責任)にたいする意識化の端緒は、1953年内灘闘争に見られる。出島権二さんは国会請願時に、「内灘は朝鮮侵略のための試射場」という発言に接しており(「1953年 内灘解放区」)、内灘現地で撒かれた在日朝鮮民主愛国青年同盟や在日朝鮮統一戦線石川県委員会などのビラには、<内灘砂丘接収=朝鮮再侵略>という趣旨の記述が見られる。
 1966年、ベトナム反戦闘争のさ中に、ベ平連の小田実は「平和の倫理と論理」(『展望』1966年8月号)なかで、「過去の被害体験、加害体験を過去のすぎ去ったもの、完結したものとせず、現在、未来にわたる問題としてとらえることを、…個人がよって立つ原理―個人原理にすること」と述べている。これは「加害者意識」の最初の本格的な対象化であろう。
 1965年以降の革共同の諸論文をまとめた『勝利に向かっての試練』では、戦後体制については縷々述べられているが、戦時戦争責任は未だ対象化されてはいない。<日韓条約=再植民地化>、<ベトナム戦争=侵略戦争>と位置づけ、「反戦・反植民地闘争」としてたたかわれ、1967年10・8羽田弁天橋闘争に至る過程で、ようやく参戦国化論が形成されてきた。当時金沢大学で撒かれたビラには「ベトナム侵略戦争への加担」(1967年9月)、「加担するか、それとも闘うかだ」(1968年12月)などの加害者論が見える。
 小熊英二が「1960年代までは戦争責任への傾斜はなかった」(『平成史』)と述べているが、1970年7・7集会での華僑青年闘争委員会からの告発で、革命的左翼もようやくアジア人民への戦争責任を本格的に対象化するに至った(「血債の思想」と表現された)。
 1972年、丸木俊・位里夫妻は朝鮮人被爆者を対象化した「からす」で加害者責任を描き、同年の原水禁大会で、朝鮮人被爆者問題と戦争責任が結びつけられ、被害者の運動からふたたび加害者にならない運動に転換した。1976年栗原貞子は「ヒロシマというとき」を発表し、加害責任・戦争責任を読み込んでいる。
 1991年に元軍隊「慰安婦」金学順さんらが長い沈黙を破り、東京地裁に提訴し、1992年に宮沢首相が韓国国会で公式に謝罪した。1993年に官房長官・河野洋平は軍隊慰安婦への国家的強制を認め、謝罪した。これに反発して、安倍晋三らが「歴史検討委員会」(大東亜戦争=自衛のための戦争)を設置した。同年細川首相が15年戦争を侵略戦争だったと認め、訪韓し「反省と陳謝」を表明。1995年には村山首相が植民地支配と侵略を認める談話を発表した。
 自民党政権下で蓋をされてきた戦争と植民地支配の事実を明るみに出したが、ついに河野談話も村山談話も天皇の戦争責任には触れることが出来なかった。1996年国連人権委員会にクマラスワミ報告(戦時性奴隷に関する報告書)が提出され、教科書検定で1997年度使用のすべての中学校歴史教科書に軍隊慰安婦に関する記述が記載され、歴史的謝罪の国民的合意に向かっていた。

 

(B)出版とメディア支配
 このような太平洋戦争に関する歴史認識の一定の正常化にたいして、猛烈な反動が始まった。1996年には橋本首相が靖国参拝、藤岡信勝(自由主義史観研究会)は「教科書が教えない歴史」を産経新聞に連載し、1997年には「あたらしい歴史教科書をつくる会」(つくる会)、美しい日本の再建と誇りある国づくりをめざす「日本会議」が結成された(目標については前述)。
 1998年に小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言・戦争論』が刊行された。小林は「大東亜戦争」は西欧の植民地支配からアジアを解放する戦争として描き、「八紘一宇の政治的主張のもとに、日本は敵国の人種差別とも同盟国の人種差別とも戦っていた」などと書き殴っているが、「八紘一宇」は日本書紀にある「掩八紘而爲宇」(世界の隅々まで支配して、天皇を頂点にした一つの国にしよう)からの造語であり、他民族支配の標語であり、小林による<八紘一宇=人種差別否定>という解釈は成立しない。
 小林は最終章で、「平和とは秩序ある状態のことである。秩序を維持させるものは権力であり、暴力装置である」「国内に向かって警察、国外に向かって軍隊。この両面の暴力装置が国内に秩序を作り出す。それが平和だ」と結論づけている。『戦争論』は年齢を問わず、爆発的売れ、小林の影響を受けた『マンガ嫌韓流』(山野車輪著2005年)とともに、排外主義の裾野を広げ、右翼勢力を活気づけた。
 『ルポ百田尚樹現象』(石戸諭著2020年)のインタビューで、小林は「表現や言論を国家が制限しようとしてくる時は、国家と対決しないといけない」と語っているが、それでは「表現の不自由展・その後」(2019年)の検閲・中止問題をどのように受け止めているのだろうか。「小林よしのりライジングVol.327」には、「展示中止については、権力による「検閲」だという声も聞かれたが、今回の場合にはそれは当たらない。いま、権力の検閲よりも激しく表現の自由を侵害しているのは、民間から寄せられる抗議・恫喝・脅迫だ!」と書いているが、不当な抗議・恫喝・脅迫に屈し、展示を中止し、財政援助を取り下げたのは行政(権力)ではないのか? 結局小林は「うどん屋の釜」(湯だけ=言うだけ)にしか過ぎず、「国家との対決」は空語にしか過ぎなかった。
 2005年NHK「女性国際戦犯法廷」番組に安倍が介入し、メディアから正当な歴史認識を追放し、2012年ごろから「日本スゴイ」系TV番組が各局で放映され、日本人の優越・愛国主義が拡散されてきた。

(C)極右暴力が同伴
 2006年、「在日特権を許さない会」(在特会)が結成され、2009年には京都朝鮮第一初級学校を襲撃し、2012年以降、東京・新大久保、大阪・鶴橋などでヘイトデモが繰り返されたが、在日とともにカウンターデモで迎え撃った(2016年対策法成立)。
 2011年年末には韓国の日本大使館前に、日本軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」が設置され、翌2012年6月下旬、極右(「維新政党・新風」鈴木信行ら)が日本大使館や「戦争と女性の人権博物館」周辺などで抗議パフォーマンスをおこなった(2012年7月上旬に筆者らが日本大使館前へ向かったが、事件直後のことで警戒が厳しく、同行者が怯えて途中で引き返した)。
 2019年8月、「あいちトリエンナーレ2019」のなかの一企画として、「表現の不自由展・その後」が開催され、内外から16組の作家が参加し、その展示作品には、軍隊慰安婦問題を告発する「平和の少女像」や天皇制批判の「遠近を抱えて」(大浦信行)が含まれており、電話などでの嫌がらせ、放火教唆によって、3日後に展示中止に追い込まれた。
 この展示会は、公共施設や公共空間で検閲・規制された美術作品を集め、展示する企画であり、天皇制排外主義と戦後民主主義(表現の自由)が衝突し、戦後最大の検閲事件となった。「あいちトリエンナーレ2019」に到る過程を略述すれば、表現の自由を巡っては、2012年新宿ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件があり、その2カ月後に東京都美術館で展示中の「平和の少女像」(ミニチュア像)がこっそりと撤去された。2015年「表現の不自由展」がギャラリー古藤で開催され、「平和の少女像」も展示され、それがそのまま日本に残され、今回の出品・展示に至ったのである。
 展示会は8月1日に始まり、3日に中止され、日本内外から抗議の声が上がった。10月8日、制限だらけだったが再開され、14日に会期が終了した。
 2000年以来、金沢市内に建立された「大東亜聖戦大碑」を告発する集会が開催される度に極右勢力による威嚇を受けてきた。2009年に富山市内で『宋神道のたたかい オレの心は負けていない』の自主上映会が取り組まれ、筆者も上映会を守るためのスタッフとして参加した(このとき革共同中央従順派は逃亡した)。
 このように、極右による言論表現への威嚇とそれを口実とした行政による検閲がくり返し起きており、戦後に確立された表現の自由は厳しい局面に立たされている。表現の自由と表現の場を守るためには、主催者と表現者と参加者の共同のたたかいを必要としている。

  

(D)教育を押さえる
 1999年には、国旗・国歌法が成立し、翌2000年森喜朗首相は、過去形ではなく現在形で、「日本は天皇を中心とする神の国(=天皇が支配する国)」と暴言を吐いた。2001年小泉首相靖国参拝。同年「つくる会」が編集した中学歴史・公民教科書が検定に合格したが、それは歴史を科学的に教えるのではなく、アジア諸国への侵略戦争を肯定し、自国の「誇り」を回復するための「物語」である。明治期の天皇制ナショナリズム形成に果たした教育・学校の役割から学んでいるようだ。
 2002年のサッカー日韓ワールドカップで、スポーツナショナリズムが噴出し、スポーツと素朴な愛郷心を結合し、「国威発揚」と排外主義に利用した。同年北朝鮮が拉致関与を認めると、極右勢力は戦時期の強制連行・強制労働(徴用工)・軍隊慰安婦政策には見向きもせず、さらに排外主義が過熱していった。2006年教育基本法が改正され、教育の目標に愛国心を盛りこんだ。
 2014年に、文科省は『私たちの道徳』を公表し、全小中学校に配布し、中央教育審議会は道徳の教科化を答申した。同年、日本会議が主導し、戦前・戦中の国家神道体制を日本のあるべき姿として掲げる「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(櫻井よしこ、百田尚樹ら)を設立し、改憲に向かって突き進んでいる。

(4)生前退位と教育勅語
(A)権力行為としての生前退位
 2016年8月、平成天皇は「生前退位」を表明し、その後皇室典範が改定された。すなわち天皇が法を動かしたのであり、日本国憲法の規定に反する政治行為以外の何ものでもなかった。
 天皇は「生物学的人間」ではなく、憲法によって規定された「社会的人間」であり、人間的な「生老病死」とは無関係な「社会的存在」であり、高齢とか激務とかを理由にして、退位したり、譲位したりできるようには規定されていない。憲法に規定されていない「天皇発議」による法令改定は戦前型の天皇の権力行為であり、象徴天皇制から元首天皇制への移行形態と見るべきであろう。
 堀内哲によれば、保守論客のなかには、新自由主義グローバリズムと天皇制の矛盾・限界を見て、「日本も共和制に移行すべきだ」(橋下徹2010年)、「日本も天皇制をやめて大統領制に」(堀江貴文2005年)、「憲法から天皇は外すべき」(大前研一、呉智英)という主張も散見される。このような言説は、新自由主義グローバリズムが、世界の富を求めて資本(国家)同士が衝突する時代だからこそ生まれているのではないか。
 他方、リベラル文化人を自称する中島岳志は「次の時代の天皇制のあり方を、常に模索し続けなければならない。…天皇制を維持する最大の基盤となる」(2019.4.24「東京新聞」)と、天皇制を擁護し、共和制の議論をびびっているようだ。「生前退位」から始まった本格的な天皇制への移行を目の当たりにして、一部のリベラル文化人は国家神道=天皇制ナショナリズムに依って、国民を戦場に駆り立て、国益を追求する時代の到来から目を反らしたいのではないだろうか。

(B)教育勅語の復活策動
 2017年3月に安倍政権が「(教育勅語を)憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という答弁書を閣議決定し、その後稲田朋美は国会で「教育勅語の精神は取り戻すべきだ」と語っているように、日本会議系の国会議員はこぞって教育勅語への回帰をめざしているが、これは決して「時代錯誤」と一笑に付すべきことがらではなく、日本のアイデンティティを天皇制(国家神道)に求めようとしている勢力が厳然として存在していることに危機感を持つべきである。
 貝塚茂樹(中教審専門委員・日本道徳学会副会長)は著書『戦後日本と道徳教育』(2020年)のなかで、「戦後道徳教育をいかに構築するか」と問い、「教育勅語と修身科を学問的に評価すべき」と主張し、1948年に教育勅語を排除・失効させた衆参両院の決議を「法的拘束力はない」と力説している。
 教育勅語は、「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい、一身をささげて皇室国家のためにつくせ」という内容で、戦前の皇国史観=軍国主義教育のカナメであった。教育勅語・修身科の復活を掲げる貝塚らの存在が、森友学園(塚本幼稚園・安倍昭恵が名誉校長)で幼い子供達に教育勅語を暗唱させる背景となっている。

20201006  小松基地に、F35配備か

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小松基地に、F35配備か

 2020年10月5日付『北國新聞』で、「防衛省は2021年度予算の概算要求で、新たに4機の最新鋭ステルス戦闘機F35の取得費(計402億円)を計上した。2025年度に調達予定。F35は航空自衛隊三沢基地に配備されているが、4機は別基地への配備を検討する。…最終的に計147機調達する方針で、将来的には千歳基地、小松基地などの近代化改修できないF15戦闘機と入れ替える」と報道された。

とってもうるさい
 小松基地には、50機のF15戦闘機が配備されており、そのうちの「近代化改修」できないものをF35に入れ替えることになる。『琉球新報』(2019年5月18日)は普天間基地を離陸するF35の騒音(124.5デシベル)について、「人間の聴力の限界に迫る」「騒音に沖縄では住民から悲鳴も」と報道し、『航空フアン』(2009年)では、「大型・高推力エンジンと固定エアインテークの取り合わせにより、騒音が大きくなった」と書いている。

立て続けに墜落事故
 2018年5月に自衛隊三沢基地に配備されたF35戦闘機が、1年後の2019年4月に青森県東方太平洋上で墜落した。その後、2020年5月と9月にアメリカで立て続けに墜落している。

20201017 メモ F35について

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20201017 メモ F35について

 F35には空軍仕様通常離着陸機F35A機、短距離離陸・垂直着陸機F35B機、空母艦載機F35C機がある。小松基地に配備予定はF35A機である。

導入:
 2011年12月、F35A機42機導入決定。ライセンス生産ではなく、機体の各部品を受け取って、最終組立・完成検査(FACO)
 2017年10月、米軍沖縄嘉手納基地にF35A機12機配備→騒音被害
 2017年12月、臨時F35A飛行体編成→2018年1月、三沢基地に配備(6月末7機)
 2018年12月、F35A機を105機、F35B機を42機、合計147機体制にすると決定。
 2019年3月末、302飛行隊(三沢基地)発足
 2020年度中に、301飛行隊(三沢基地)配備計画→42機配備完了
 購入価格=F35A機=108億4450万円、F35B機=140億7600万円、F35C機=139億3800万円

能力:
 F35A機の空虚重量=13290㎏、最大重量=31750㎏、最大速度=マッハ1.6(比較的低速の戦闘機)、機内燃料8278㎏、1613㍑の増槽

事故:
①2013年8月、エグリン空軍基地のF35機燃料系統の配管外れ。
②2013年、タービン・ブレードに割れ目。
③2014年6月エグリン空軍基地で、F35機のエンジン火災。
④2016年9月マウンテンホーム空軍基地で、F35機エンジン火災。
⑤2016年、射出座席事故。
⑥2016年秋、主翼内部の冷却配管の不備。
⑦2018年9月、米南部サウスカロライナ州でF35B機墜落(原因は機体の欠陥)。
⑧2019年4月、空自三沢基地(洋上135キロ)でF35A機が墜落(原因は空間識失調)。
⑨2020年5月、フロリダ州エグリン空軍基地でF35A機が墜落。
⑩2020年9月、カリフォルニア州でF35B機が空中給油中に墜落した。

2018年6月、米政府監査院の報告書


騒音:
 2019年5月16日、普天間基地を離陸するF35B機の騒音(124.5デシベル)について、「いままで経験したことのない音で、墜落したんじゃないかと思った。心臓の悪い人なら発作を起こす」(5月18日「沖縄タイムス」)と報道した。
 2020年8月18日、普天間飛行場から離陸したF35B機の騒音、緑ヶ丘保育園で111.9デシベル、普天間第2小学校で109.7デシベルを記録した。(8/21「琉球新報」)
 2019年9月12日『Esquire(エスクァイア)』編集部(ジャーナリスト=カイル・ミゾカミ)―「F35は人々の居住地近隣への配備に適さないのではないか?」
 F35機の最大離陸重量=3万0175キログラム、最大推力=4万3000lbf(1重量ポンド)
 『Stars and Stripe』の報告書によれば、アイダホ州ボイシ空港への配備検討―「近隣に暮らす272世帯約665名の住人が、1メートル弱の距離で作動する掃除機レベルの騒音に、恒常的に悩まされることになる」「自宅が居住不能になるレベルの騒音に苛まれる」「学校においては、会話が聞き取れないという状況も生まれる」。バーモント州バーリントン国際空港では962世帯の住民が騒音影響を受ける。サウスカロライナ州ビューフォート航空基地では抵抗運動が起きたが、鎮圧された。
 オランダでは、F16機よりF35機の方が騒音が小さいが、109デシベル(F16は112デシベル)。120デシベルを超える騒音がF35機で記録された。

  
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参考資料(ネット上の記事)
2012年01月09日 ブログ「アジアと小松」 F-35戦闘機の採用に反対する 
2020年10月7日 ブログ「アジアと小松」 小松基地に、F35配備か
2019年12月13日「小松市HP」F-35の試験飛行実施のお知らせ
2020年8月21日 「琉球新報」 米軍F35、部品落下事故の緑ヶ丘保育園上空を通過
2020年10月10日『ウィキペディア(Wikipedia)』F-35 (戦闘機) 事故 
2019年7月1日「沖縄タイムス+プラス」 F35-ステルス戦闘機の問題点とは?
2019年4月27日、5月3日「Record China」
2016年7月9日、 関賢太郎(航空軍事評論家)「F-35Aが弱いは大間違い?」
2019年4月15日、軍事情報戦略研究所朝鮮半島分析チーム「F35-A墜落原因は何か」
2019年4月10日、航空自衛隊のF35戦闘機、海に墜落と断定 尾翼の一部を回収
2019年9月12日、インターナショナルマガジン「Esquire(エスクァイア)」編集部―「米空軍「F-35」の騒音に近隣住民は耐えられるのか?」

『F35完全教本』(青木謙知著2018年)←石川県立図書館
『航空ファン』(2019年3月)「自衛隊航空整備の将来」(小野正春)←金沢市立図書館
『航空ファン』(2019年7月)「F35欠陥機説の真偽を探る」(井上孝司)←金沢市立図書館

入管法改正(2018年12月)から2年

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入管法改正(2018年12月)から2年

2018年入管法改定時の報道
 2年前の2018年12月に改正入管法が強行成立した。その前後の「北陸中日新聞」には、技能実習について、「単純作業、労災隠し、賃金未払い」(2018/11/7)、「深夜まで単純作業、技術学ぶは名ばかり」(11/10)、「低賃金、人権侵害、失踪」(11/14)、「月収25万円、実際は5万円(金沢の実習生)」 (11/14)、「技能実習生、劣悪現場聞き取り後回し」(11/16)、「月給15万円以下、9割超」(11/17)、「入管法改正案、ブローカーの搾取は放置」(11/17)、「実習生の解雇、救う規定なく」(11/19)、「週130時間勤務、月収9万円、実習生過酷労働くっきり」(11/20)、「外国人技能実習、長時間労働、ピンハネ」(11/27)、「入管法、審議わずか15時間余、衆院強行採決」(11/28)、「外国人実習生過酷な実態、失踪者67%最低賃金以下」(12/4)、「劣悪な労働環境鮮明、15~17年、6人自殺」(12/7)、「改正入管法成立」(12/8)、「外国人実習生ら174人、死のリスト」(12/19)、「全国100カ所に相談窓口、多言語化盛る」(12/21)などの見出しで、記事が書かれていた。

 この時期の石川県版の記事としては、「石川労働局―県内の技能実習生は4167人」(2018/5/8)、「月収25万円、実際は5万円」(11/14)、「失踪実習生5年で373人(石川)」(11/21)、「外国人就労拡大―中小企業賛成33%」(12/22)、「外国人労働相談窓口、石川など21県未設置」(2019/1/7)などがあるが、極めて低調で、突っ込んだ記事は見られなかった。

階級性の確立のために
 ブログ「アジアと小松」では、2010年頃から外国人労働者問題を注視し、「研修生・技能実習生の労働実態について」(2010/1/15)、「外国人労働者の労災発生状況(石川県)」(2010/3/28)、「外国人労働者の労働基本権を守ろう」(2011/12/5)、「外国人労働者の労災発生状況(石川県)」(2013/3/16)、「石川県内の外国人労働者の実情」(2013/4/29)、「外国人労働者に権利保障を」(2014/4/2)、「石川県内の外国人労働者の実情」(2014/9/27)、「技能実習生を食い物にするKKカメダ」(2015/11/8)、「中国人労働者への差別判決弾劾(金沢地裁)」(11/28)、「亀田事件控訴審傍聴報告」(2016/3/10)、「石川県内の外国人労働者の相談事例」(2018/11/17)、「技能実習生からの労働相談」(2018/11/23)などを投稿してきた。

労働相談票
 当会では、石川労働局に、2008年10月~2015年3月までの労働相談票の開示を請求し、(2008年度=28枚、2009年度=40枚、2010年度=46枚、2011年度=34枚、2012年度=30枚、2013年度=25枚、2014年度=49枚)外国人労働者の労働実態を明らかにしてきた。
 その後開示請求を一時中断していたが、今年の6月24日付「技能実習認定取り消し」の記事を見て、2018、19年度分の「労働相談票」の情報開示請求をおこなってきたが、開示は11月下旬までかかりそうだ。

「認定取り消し」処分
 厚生労働省のホームページを見ると(2019年以降の分)、北陸三県の技能実習生受け入れ企業(80社)のうち、大西組など8企業が法違反によって「認定取り消し」処分を受けている。その理由には、賃金未払い、時間外労働の割増賃金不払い、人権侵害行為、長時間労働、労働安全法違反などがあげられている。相変わらず、外国人実習生は劣悪な環境で働かされている実情の一端が明らかになっている。列記すると、

①2019年1月25日 アイシン新和株式会社 富山県入善町
 労働安全衛生法違反により罰金30万円に処せられ,刑罰が確定したことから,技能実習法第16条第1項第3号(同法第10条第8号)に規定する認定の取消事由に該当することとなったため。
②2019年9月6日 三郷フーズ株式会社 富山市水橋
 発酵食品を製造する設備・機械を保有しておらず,技能実習計画の必須作業である発酵作業を行っていなかったと認められることから,技能実習法第16条第1項第1号に規定する認定の取消事由に該当するため。
③2019年11月15日 かね七株式会社 富山市水橋
 技能実習計画に記載された実習予定時間を大幅に超過して技能実習を行わせていたほか,外国人技能実習機構の検査に際し,虚偽の答弁をしたことから,技能実習法第16条第1項第1号及び第5号に規定する認定の取消事由に該当するため。
④2020年1月24日 株式会社イケガミ 小松市今江町
 平成30年1月分から同年3月分までの時間外労働に係る割増賃金の不払について,名古屋入国管理局(当時)から不正行為の通知を受け,出入国又は労働に関する法令に関し不正又は著しく不当な行為が認められたことから,技能実習法第16条第1項第3号(同法第10条第9号)に規定する認定の取消事由に該当するため。
⑤2020年1月24日 株式会社ビクトリー 輪島市町野町
 認定計画に従って賃金を支払っていなかったことから,技能実習法第16条第1項第1号に規定する認定の取消事由に該当するため。
⑥2020年6月23日 株式会社大西組 白山市北安田
 技能実習生の人権を著しく侵害する行為を行ったことから,技能実習法第16条第1項第2号(同法第9条第6号)に規定する認定の取消事由に該当するため。
⑦2020年9月11日 株式会社豊盛 高岡市池田
 労働安全衛生法違反により罰金の刑に処せられ,刑が確定したことにより,出入国又は労働に関する法令に関し不正又は著しく不当な行為をしたと認められることから,技能実習法第16条第1項第3号(同法第10条第9号)及び第7号に規定する認定の取消事由に該当するため。
⑧2020年9月11日 株式会社中嶋組 富山県立山町
 技能実習生の人権を著しく侵害する行為を行ったことから,技能実習法第16条第1項第2号(同法第9条第6号)に規定する認定の取消事由に該当するため。

今後の課題
 大西組の処分について、マスコミは極めて軽く扱っており、厚労省のマスコミ発表そのままで、見出しを含めてわずかの8行しかなく、「著しく侵害された人権」には関心がないのか、一言半句も述べていないのである。
 11月下旬には「労働相談票」が開示されるので、その内容に注目していただきたい。また、コロナ情勢下の県内企業による外国人労働者(技能実習生)への不当労働行為について、さらに調査を進めたいと考えている。

20201102大和堆での中国漁船の操業について

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20201102大和堆での中国漁船の操業について

 商業新聞は「スルメイカ漁場で違法操業 大和堆 中国船急増」(2020/10/6)、「違法中国船 絶えず 大和堆操業 守って」(2020/10/7)、「大和堆問題で不満噴出」(2020/10/22)などの見出しで、中国排外主義をあおり立てている。
 9月頃から能登半島沖の大和堆西側で中国漁船がスルメイカ漁をおこなっていることについて、水産庁が日本漁船に同海域での操業自粛を求めたことから、漁業関係者から「日本の排他的経済水域(EEZ)内であり、中国漁船を排除して日本漁船の操業の自由を」などという不満の声があがっている。

大和堆西側
 問題の大和堆西側がいかなる海域なのかについて、まずは明確にしておきたい。日本海(東海)はロシア、朝鮮(韓国、北朝鮮)、日本に囲まれており、相互間に400海里(720㎞)の隔たりがないので、等距離線によってEEZラインを引くことになっている。
 ネット上に散乱する日本のEEZに関する画像は独島(竹島)を日本の領土として線が引かれた「第1図」が多く使われていて、大和堆はもちろん北大和堆の南半分も日本EEZ内であるかのように印象づけている。

    第1図                            第2図
 

日韓暫定水域
 しかし、独島(竹島)が韓国(朝鮮)の領土なのか、日本の領土なのかによって、EEZラインは「第2図」のように2本描くことができる。赤色が日本が主張するEEZラインであり、青色が韓国(朝鮮)が主張するEEZラインである。
 この混乱を暫定的に「解決」するために、1998年に、日韓間で「日韓暫定水域」(第3図)が確認され、日韓漁業共同委員会を設置し、操業条件や資源保護を協議、勧告することになった。
 この「第3図」に、大和堆を書き込むと「第4図」のとおり、北大和堆は日本EEZの北方外側にあり、大和堆の西方半分は「日韓暫定水域」すなわち朝鮮(韓国・北朝鮮)EEZに含まれている。水産庁は大和堆西側での操業自粛を日本船に求めたのは、大和堆西側が「日韓暫定水域」であり、日韓漁業共同委員会の管理下にあり、日本単独で中国漁船を排除することが許されないからである。この程度のことは、日本海域で操業している漁業関係者は理解しなければならない。

    第3図                             第4図
 

独島(竹島)は日本の領土ではない
 2018年10月8日のブログ「アジアと小松」で「太政官決定と磯竹島略図をめぐる独島(竹島)論争について」をご覧いただければ、独島(竹島)が韓国(朝鮮)領であることは理解していただけるだろう。ならば、北大和堆も大和堆の西側も日本の排他的経済水域(EEZ)ではなく、「第2図」の青線を日韓(朝)双方が同意し、EEZラインとするのが合理的思考ではないだろうか。
 すなわち、北大和堆と大和堆の西側半分を朝鮮(韓国・北朝鮮)のEEZ管理下に置いた上で、日韓朝ロの漁業関係者による操業のあり方を調整すればよいのである。すでに、大和堆の問題で何回か投稿しているので、そちらも読んでいただければ幸いである。

20201105 志賀原発訴訟傍聴報告

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20201105 志賀原発訴訟傍聴報告

 久しぶりに、朝からいい天気だった。今日は7月から4ヵ月ぶりの志賀原発訴訟の口頭弁論の日であり、その前に尹奉吉暗葬地を訪問した。
 11月の氷雨と木枯らしで、落ち葉が散り敷き、墓石は冷たく濡れていた。携帯傘をそっとかざして、冷え切った尹奉吉の身体を雨から守ってあげたい気分に襲われた。

 前回(7月)の口頭弁論では、傍聴券の抽選には当たったが、抽選に外れた遠方からの傍聴希望者に譲り渡し、近くの泉鏡花記念館と金沢文芸館に立ち寄って帰途についた。この日、新裁判長が着任し、従前通り、規制委員会の結論待ちの姿勢だったという。
 今回も傍聴枠36人に希望者が40人を超え、一部の原告が原告席に移動して、全員が傍聴席に着くことができた。裁判長は、前回同様の方針で、原告の意見陳述を聞いた後、早々と次回期日指定に入った。被告北陸電力は1日でも後にずらそうと3月を主張したが、2021年2月4日14時に決まった。

 



2018~2020年 みどり住宅のシタベニハゴロモ観察と駆除について

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2018~2020年 みどり住宅のシタベニハゴロモ観察と駆除について
                                       2020年11月9日作成

 2018年以降3年間、シタベニハゴロモについて調査と駆除をおこなってきたが、ほぼその生態がわかってきた。みどり住宅には、①成虫が吸汁対象とするニワウルシ成木32本、②幼虫が吸汁できる多数のニワウルシ幼木やノブドウ、③住宅の軒下など雨のかからない卵塊の越冬地があり、シタベニハゴロモが繁殖しやすい条件がすべて整っている。



天敵もなく繁殖力も強い
 3年間の駆除データ(右グラフ)に見られるとおり、2.5メートル以下に降りてきた成虫について、2018年=約1000匹、2019年=約1800匹、2020年=約2900匹を駆除し、卵塊も削除したが、2.5メートル以上の高所で多数の成虫が生き残り、産卵し、翌年孵化たと思われる。
 有効な天敵はおらず、ときどき蜘蛛の巣にかかっている成虫がいたり、カマキリや蜂に捕まっている成虫を見かけたが、非常にまれなケースのようである。結局は、人の手で駆除していくしかないようだ。



来年の対策
 幼虫の発見が5月上旬なので、孵化時期は4月中・下旬ではないかと推測される。幼虫が成虫になるまでのあいだ、とくに好んで群棲するのはニワウルシ(シンジュ)の幼木とノブドウであることがわかった。
 この点から、第1に、ニワウルシ幼木を4月中に刈り取ってしまえば、幼虫の好餌が排除され、成長を困難にさせるのではないかと思う。
 第2に、幼虫は低木に群がって、確実に手の届く範囲に棲息しており、幼虫段階で数を減らすことができる。手段は捕虫網と薬剤だが、環境負荷をかけないようにしなければならない。
 第3に、成虫は主として高所に棲息するので、手の施しようがなく、高所から降りてくる成虫を蠅叩きが届く範囲(2.5メートル以下)で、たたき落としてきたが、柄の長い捕虫網で高所の成虫を捕獲するか、掻き落として落下させて、駆除しなければならない。
 第4に、秋口になり、交尾が始まり、産み付けられた卵塊を削ぎ落としていくことである。高所の卵塊は手が届かないので、産卵前の成虫をできるだけ下方に誘導しておく必要がある。

20201118 危機に直面する表現の自由

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20201118危機に直面する表現の自由
 4月中旬から5月7日まで、石川県立図書館がコロナウイルスを理由にして閉鎖された。ちょうど、『石川県ゆかりの表現者と戦争』を執筆中で、図書館資料がなければ一歩も進まないという状況下で、県立図書館と何回かやりとりをおこなったが、らちがあかなかった。

 5月11日に、県立図書館の閉鎖を決定した会議議事録の開示を請求すたが、回答は「当該文書は、作成していないため、存在しない」というものだった。会議を開かずに、図書館の閉鎖を決定したのか、議事録を作成しなかったのかはわからないが、長期の閉館という図書館の自殺行為に関する決定過程を利用者・市民に知らせないという「独裁的手法」がまかり通ることに危機感を覚えた。

 ▽「図書館の自由宣言」はどこへ
 戦前治安維持法下では、捜査対象者が読んだ本や雑誌を調べる「思想掛検事」がおり、無条件に利用者情報が警察に渡っていた。私の父も、少年時代(1920年代)に呉竹文庫に通い、「死線をこえて」(賀川豊彦1921年)、「自由組合論」(賀川豊彦1921年)、「戦争か平和か」(ヘンリー・タフト1921年)、「信教の自由と学問の独立」(ルツァツチ1915年)、「獄中記」(大杉栄1919年)、「レーニンとトロツキー」(山川均1921年)、「ナポレオンの人格と運命」(中沢 臨川1920年)などを読んでいて、その貸し出しリスト(現在は非公開)が遺されていた。父は、その頃から特高にマークされていたのだろう。

 戦前の思想統制の反省から、1954年に①「資料収集の自由」、②「資料提供の自由」、③「検閲反対」を内容とする「図書館の自由宣言」が出された。その後、警察の捜査を理由に図書館利用者のプライバシーを侵害する事件が多発し、④「利用者の秘密を守る」が加えられて今日に至っている。

 日本図書館協会の調査によれば、1995年には全973館のうち12館が警察に個人情報を提供し、79館が拒否し、2011年には全931館のうち113館が提供し、74館が拒否している。

 『批判的思考力を育てる学校図書館』(2020年)の第4章「図書館利用記録とプライバシー」から具体的事例を見ると、1995年の地下鉄サリン事件の捜査で、国立国会図書館に利用記録の提供(任意)を求めたが、図書館はこれを拒否した。その後差押令状を持って来館し、大量の利用申し込み書(53万件)、資料請求票(75万件)、複写申込書(30万件)を押収した。

 最近でも、「北海道新聞」の調査(2019年6月、道内の15館対象)によれば、「8市が提供、7市が提供しない」と回答しているように、警察への利用者情報の任意提供が進み、2020年コロナウイルス下で、長期閉館や利用者の記名を求めるなど、「図書館の自由宣言」を自ら侵している状況が進行している。

 「北陸中日新聞」も、2019年1月31日、9月16日の「こちら特報部」で詳論しているが、石川県内の図書館については全く調査もしていないようだ。

 ▽日本学術会議
 2020年10月、菅政権は日本学術会議の新会員候補者(105人)中の6人を任命しなかった(後述)。この6人は共謀罪、安全保障関連法、辺野古埋め立て、特定秘密保護法などに反対を表明しており、政府は戦前の日本文学報国会で作家たちをコントロールしたように、学術会議を体制順応型の組織に改編し、学問・表現の自由を規制し始めたのである。

 学術会議会員の任用拒否こそ戦時文化統制への回帰である。戦時期までの検閲・発禁体制を見ると、1869年出版条例、1873年新聞紙発行条目、1875年讒謗律、同年新聞紙条例、1893年出版法、1909年新聞紙法、1921年興行場及興行取締心得、1926年日本文藝家協会、1936年不穏文書臨時取締法、1937年国民精神総動員計画、同年帝国芸術院、同年文化勲章令、1938年国家総動員法、同年ペン部隊結成、1939年映画法、1940年情報局設置、同年体制翼賛会結成、1941年新聞紙等掲載制限令、同年言論・出版・集会・結社等臨時取締法、1942年日本文学報国会設立へと検閲と動員のための法律や機関が次々とつくられており、学術会議会員の任用拒否を手始めにして、文化統制の時代に突入しようとしている。

 ▽極右暴力の横行
 2006年、「在日特権を許さない会」(在特会)が結成され、2009年には京都朝鮮第一初級学校を襲撃し、2012年以降、東京・新大久保、大阪・鶴橋などでヘイトデモを繰り返したが、在日とともにカウンターデモで迎え撃ち封じ込めた(2016年対策法成立)。

 金沢でも、2000年に建立された「大東亜聖戦大碑」を告発する集会や尹奉吉義士追悼集会が開催される度に極右勢力による威嚇を受けてきた。富山でも『宋神道のたたかい オレの心は負けていない』の自主上映会(2009年)が取り組まれたとき、不二越訴訟支援北陸連絡会もスタッフとして参加し、上映会を守り抜いた(このとき革共同中央従順派は上映会防衛から逃亡し、会場周辺でうろうろしていた)。

 2011年には韓国の日本大使館前に、日本軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」が設置され、翌2012年6月下旬、極右「維新政党・新風」が日本大使館や「戦争と女性の人権博物館」周辺などで抗議パフォーマンスをおこなった(2012年7月上旬に筆者らが日本大使館前へ向かったが、事件直後のことで警戒が厳しく、同行者が怯えて途中で引き返した)。

 同年、「維新政党・新風」は金沢野田山の尹奉吉殉国碑でもパフォーマンスをおこない、説明板に傷をつけて帰った。

 このように、極右による言論表現への威嚇がくり返し起きており、戦後に確立された表現の自由は厳しい局面に立たされている。

 ▽表現の不自由展
 2019年8月、「あいちトリエンナーレ2019」のなかの一企画として、「表現の不自由展・その後」が開催され、内外から16組の作家が参加し、その展示作品には、軍隊慰安婦問題を告発する「平和の少女像」や天皇制批判の「遠近を抱えて」(大浦信行)が含まれており、電話などでの嫌がらせ、放火教唆によって、3日後に展示中止に追い込まれた。

 この展示会は、公共施設や公共空間で検閲・規制された美術作品を集め、展示する企画であり、天皇制排外主義と戦後民主主義(表現の自由)が衝突し、戦後最大の検閲事件となった。展示会は8月1日に始まり、3日に中止され、日本内外から抗議の声が上がった。10月8日、制限だらけだったが再開され、14日に会期が終了した。

 私たちの、表現にたいする執念が問われている。

『オレの心は負けてない』

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ドキュメンタリー映画『オレの心は負けてない』のお知らせ
無料配信期間 2020年11月24日〜12月16日

 2009年8月8日、富山で、「オレの心は負けていない」の自主上映会があり、参加しましたが、多数の極右が押しかけてきていて、私も会場防衛に加わって、結局この映画を見ることができませんでした。11月24日から12月16日までYoutubeで見ることができるというので、11年ぶりに楽しみにしています。

<チラシより>
 在日朝鮮人で唯一人、日本政府に謝罪と賠償を求めて10年の裁判をたたかった宋神道さんは2017年12月16日に亡くなりました。裁判の過程で人々との信頼関係を取り戻し被害回復を果たして行った宋神道さんと支える会の姿を収めたドキュメンタリー映画『オレの心は負けてない』を、宋さんの誕生日である11月24日から命日の12月16日までYoutubeで無料公開します。
 この機会に是非、たくさんの方々に見ていただき、宋さんがニ度と戦争をしてはならないと、平和を訴えた意味を再確認し、記憶していただきたいと思います。

URL https://youtu.be/gZzc516D7IQ

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