Quantcast
Channel: アジアと小松
Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

東京裁判―性暴力関係資料 39、40

$
0
0
東京裁判―性暴力関係資料 39
E2136 Doc#P2772-G-2
  口供書
 リムーチ・フランリア
 1893年4月27日(ヲード)カルカソンヌ生れ
 父 エミル  母 バラ・アンナ
 職業 海防税関倉庫長
 住所 海防(注:ハイフォン)マレシャル・ヂョッフル

 1945年4月12日、F.F.I(仏蘭西国内軍)の資格にて逮捕され、日本憲兵は私をガンベッタ街シェル(赤貝石油会社)建物の中へ連れて行き、私が持っていた凡ての所持品を奪取し、地下の土牢へ閉ぢ込めました。この土牢の中では、我々は仏蘭西人20人ばかりと数人の安南人でした。安南人は虱だらけの疥癬患者でしたから、数日内に我々も虱だらけになりました。我々は各人1日合計150瓦(注:グラム)の米(3個の握飯)を受けていました。

 憲兵は我々に起きた時から寝るまで、日本式の坐居を強要しました。即ち足を十字に組んだままで、壁に凭れたり、姿勢を変へたりすることを禁じました。

 4月17日私は2階へ導かれ、そこで訊問が始まりました。私は日本人通弁と1憲兵から棒で頭を殴られました。この殴打は4月18日、19日及20日にも繰返されました。食物の欠乏によりまして、私は17日間も便通がありませんでした。我々の中の或る者は26日間も便所へ行きませんでした。非常に病気で衰弱し、眩暈が絶えず起き、5月10日に河内(ハノイ)の中央監獄へ移送されました。

 そこで24人を容れるために作られた1室へ45人入れられました。そこには真中にバケツを1個置き、これが便所でありました。食物は最劣等の奇麗にもせず、時には発酵した米で、腐敗していました。数枚の芋の薄片、それに乾魚の細片がお菜でありました。

 5月22日頃1日本憲兵が私を呼び、手錠をはめ、ポルネンと言ふF.F.Iの1友人と共に2人の日本兵を伴ひ、私の腕を引いて行きました。この憲兵は我々を保安警察へ連れて行き、そこで新たに訊問されました。私が否定した返答をする毎に、私は棒で激しく殴られ、両耳へマグネットを結んで、電極を当てられました。訊問で日本人は満足が与えられなかったため、マグネットが活動し、私は1時間以上の間高周波を受け、私は不規則な躍動をなし、又数度気絶致しました。

 私に託されていた或る使命の自白を得るため、この拷問は4日継続されました。最後の拷問では私は語らぬこと即ち私の首長であるヂェルリング少佐は私のした誓言を裏切らぬことを強く決意し、私は舌を強く両歯の間に咬んで居りました。強烈な1放電(鼻孔への電極)のため、私の腮(あご)は痙攣し、麻痺しました。私の舌は両側で破れ、血の波が私の口から出で、私は気絶致しました。

 牢屋へ送り返されたが、私は神経震動にかかり、舌は膨れ上がり、腮はもう動きませんでした。そして20日間と言ふものは話すこと、食物を呑み込むこともできませんでした。翌日日本人は私が話せぬことを認め、棒で殴り面白がった揚句、平手で私の性的器具を握り、非道くひねりました。非道い苦痛に冷汗が出で私は気絶しました。

 横腹を殴られて蘇生し、牢屋へ戻されました。そこで私の友達は私の腫れ上がった器具へ冷水の湿布をのせて手当てをしてくれました。これが私への最後の加刑でありました。私の首長ヂェルリング少佐は彼が耐え忍んだ虐待と艱難の結果死亡されました。

 1945年5月29日河内城内に檻禁され、私は檻禁日に15キロ体重の減退したのを認めました。私の下腹を検べた医師は私へヘルニア(脱腸)があり左方にヘルニアの尖頭があり、共に加刑又は受けた艱苦のためであると宣言しました。

 私にマグネットを掛け、私の性的器具をひねった憲兵は「アメリカ人」と冠名されていた男でありました。私は彼を見別けることができます。

      リムーヂ・フランソワ(署名)
 1946年9月18日仏官憲より調査の正式委任を受けた下記調査官の面前に於て本口供書の口述及署名を成す。
      マッソ・マルシャル少尉(署名)
 上出リムーヂ氏の署名証明の為め之を検す。
  河内1946年9月20日
戸籍課課長 g・ラリヴェール(官印及署名)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
東京裁判―性暴力関係資料 40
E2157 Doc#P2963
  写本  1947年1月7日東京に於て仏蘭西副検察官ロベール・オネト氏の面前に於て成されたる

   供述書
 私はガブリラグ・フェルナンと言ひ、巴里にて1918年1月1日に生れ、文科大学入学資格者にて法学士。私は仏蘭西陸軍士官にて印度支那戦犯局代表であります。私は西貢メイエー路181番に住んで居ります。

 戦犯容疑者調査事務所の委任を受け、私の職務実行により、総合的徴証を調べ、之の徴証により日本軍に依って印度支那に於て犯された戦犯の智識を得ることができました。之等犯罪は非常な数であり、之等に関する徴証は大部なものでありますから、之に付き完全な1陳述を入ることは問題と●し難いでありませう。更に或るものは証人の無いこと反(注:友?)連合国軍上陸を予見し、日本人により行はれた彼等の文書の組織的破毀により今日も亦将来も知られないまま残るでしやう。私は自由及個人的尊厳、略奪、窃盗、各種の虐待及殺人をも別となし顕著な事実のあるもののみを述べませう。

 私は特に次を指摘したくあります。
 1、憲兵隊署内及俘虜収容所に於て犯された残虐行為。
 2、俘虜及一般民間人の殺戮。

 印度支那に於ける日本の司令部が仏蘭西民衆を諸都市の連合国軍空襲を度々最も受け容い個所へ集中すれば、憲兵隊はその残虐さを以て有名であった。数百人の仏蘭西人は牢に入れられ、普通法による監禁人よりも悪い制度に服せしめられた。

 即ち狭い所に傷々しい衛生条件の下に囲まれ、衣服なく、医療の手当なく、水なく、時には数週間食物を断たれ、最も度々嫌忌すべき不潔な条件下に、過分に塩辛き小さいにぎり飯1個が全部で、それだけしか受けなかった。訊問の名を籍りて最も多数な拷問が組織的に加へられた、即ち傷害及骨折を来たす棍棒による殴打、発火した燐寸を爪の下へ差し込むこと、巻き煙草及燃えて居る布切れを頭巾として火傷を負はせること、角の鋭い木材による加刑、水責め、電気責め、親指で吊り下げること等々であった。

 これらの生活条件と拷問が多数の拘禁者を死に到らしめたのであります。それは致命的な拷問を受けたか、或は虐待と病気のため精根尽き果て、獄に居る間に絶命したか、いづれかであります。憲兵隊が猛威を振っていた河内(HANOI)、海防(HAIPHONG)、ヴィン(VINH)、順化(HUE)、西貢(SAIGON)、プノンペン(PNOMPENH)等凡ゆる所で、凡ゆる境遇のフランス人数百名が各連合国市民若干名と同様侮辱的な待遇を受け、その結果死による以外に救はれる道がなかった人が多かったのであります。確定的な死から日本の敗戦によって逃がれることの出来た人々も、骨と皮ばかりの状態になり、徹底的に健康を傷(そこ)なって、憲兵隊の獄舎から出て来たのであります。記録を検討すれば、印度支那で憲兵隊の各地方支部に於て行はれて居た方法の同一であることが明らかとなります。

 俘虜収容所に於て行はれた残虐行為は憲兵隊で常習的となって居ったそれに勝るとも劣らぬものであります。将校も兵卒もそこでは徒刑囚のやうに防御工事のため強制的に働かされた。急速にその数を増した病人までも労働を強ひられ、極く些細の過失に対しても、棍棒、鉄棒を以て殴打されました。俘虜は殆ど食物も支給されず、医者の手当もなく、放棄され、彼等自らが不完全な手段により、非常に骨を折って建てたバラックの中に動物のように閉ぢ込められ、非常に骨のおれる労働に従わせられたため、死ぬものが非常に多かった。例へばトンキンの和平(HOA BINH)収容所では50日の期間に、98名でありました。

 又殊に印度支那の多くの地方では、日本兵が俘虜を虐殺しました。諒山(LANGSON)ではブリエール・ド・リル堡塁の60人の防衛隊員が戦闘直後、銃殺され、銃剣で止めを刺されました。

 同じく諒山の域内(CITADELLE)では仏蘭西人俘虜200名以上が殺戮されました。処刑は連続的に50名づつを束にして行ひ、刑執行人は軍刀、銃剣、鶴嘴等を用ひて、処刑を行ひ、●●者達に対しては飽くまで執拗であった。2●目の束の時には、もう新しい犠(いけにえ)は血の流れる大地を踏んで居た。

 諒山市内の他の各地区に於ても、俘虜、民間人の虐殺が行はれました。犠牲者の中にはルモニエ将軍、ロベール大●、州理事官も居りました。また生まれて数ヶ月の1人の赤ん坊の如きまで、奇蹟的に殺戮を免れた母親の腕に、その打砕かれた頭蓋骨を抱かれて居りました。

 同登(DONG DANG)では3日間の戦闘の後、守備隊は降伏し、その勇戦に対して、日本軍将校連から賞詞を受けました。それから間もなく守備隊長の大尉がその部下の眼前で虐殺されました。続いて他の守備隊員は残らず軍刀と銃剣で処刑され、次が同登の欧州人全部といふ順番でした。この虐殺の唯一の生残者である上等兵クロンが大尉とその部下の50名の死刑を記述して居ります。

 定立(DINH LAP)では生き残った仏蘭西人全部は安南人射撃兵と同様に殺戮された。先安(TIEN YEN)、河檜(HA COI)、潭河(DAM HA)でも同様の俘虜殺戮があった。特にこの最後の哨所(訳者云ふ潭河を指す)では、安南人哨兵4名と欧羅巴人1名とが生きながら火焙りに処せられたと証言は報じている。

 前記の殺戮はシヅメ(鎮目)大佐指揮の第37師団225聯隊の仕業でありました。
 同じ師団に属する226連隊も、就中シン・マン(XIN MAN)、黄忻飛(HOANG SU PHI)及び河江(HA GIANG)の殺戮をその業績として数へられているが、ここでは仏人俘虜約100名が虐殺されました。

 前記の各地では仏蘭西人女子に対する陵辱行為も若干行はれました。ある夫人と14歳になるその妹とは強制的に数週間、約50名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました。その1人は発狂しました。彼女達は2人ともその後処刑されました。また別の例では、フランスで15歳になる1少女とその母親が強姦されて、殺害されたといふ例もあります。更にまた数地方では原住民婦女子は売淫行為を強制せられました。

 日本軍の他の1部隊、第21師団の地区でも仏蘭西人俘虜の殺戮は頻繁であった。特に河内(HA NOI)地方を去って支那へ向ふことを企て、遂に甚大なる損害の代償に於てこれに成功した、アレッサンドリ将軍の諸部隊の後尾への追撃戦闘の最中にこれが行はれた。松(TONG)では俘虜の仏蘭西人5名、安南人射撃兵12名が処刑されました。新貴(TAN QUI)では仏蘭西人俘虜14名軍刀と銃剣で殺されました。唯一の生残者であるジュパン伍長がこの殺戮を叙述して居ます。

 俘虜の死刑は安拝(YEN BAY)、富寿(PHU TO)、山羅(SOV LA)、来珠(LAI CHAU)、マリタオ(MALITAO)、等でも行はれました。最後に老檛地方では、これも同じく第21師団占領下のタケック(TAKHEK)の町では欧州人住民の男は殆ど全部虐殺されました。斯うして55名の仏蘭西人が処刑されたのであります。
 犠牲者の中には司教が2名、理事官、婦人2名、子供が1人含まれて居ります。

 目下西貢に拘禁中の第37師団参謀長恒吉大佐は戦犯調査官の面前に於ける訊問中、第37師団長長野中将が鎮目大佐の部隊に対し、諒山の戦闘及び虐殺の終了後、賞詞を与へたと言明し、且つ中将はこの虐殺おば戦争行為と見做しているものの如くであると言った点を私は附言しなければならない。

 且つまた、恒吉大佐は印度支那派遣日本軍司令官土橋中将が諒山の俘虜虐殺の報告を受けたとき、「このことは予が知らないで居たやうにして置け」と云ったとその言葉をその儘指摘して居ります。

 私は以上の宣言が偽りなきことを誓約の下に確認いたします。
  印度支那連合戦犯局委員  大尉 エフ・ガブリラーグ(署名)
1947年1月7日(火曜日)東京にて口供書受領  仏蘭西検察官 ロベール・オネト

Viewing all articles
Browse latest Browse all 919

Trending Articles