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東京裁判―性暴力関係資料 37、38

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東京裁判―性暴力関係資料<資料37>
Doc2772-A-6【筆耕者注:36と37は同じ事件】
 口供書(抜萃)
 カザジュー・セシル・アギエ・ヴァレンチンヌ
 1905年11月21日アル・レザン・ヴァン(オート・ピレネ)に於て出生。
 准尉フルウレットの妻
 ジャン・カザジュ及ナスタジ・ラカアズの女
 沸国に於る住所・ゴントオ(ロテガロンヌ県)

 3月9日19時15分頃……………
「夫と私は中庭に据えられ、持物全部を剥ぎ取られ、縛られて銃尾で叩かれた。この銃は州長署から略奪したもの(今でも私は頭の皮と左の眼窩に創がある)。そして安辺橋近くへ連れて行かれた。そこで私共はまだ戦闘継続中の仏蘭西軍と日本軍との間で楯の役割をしたのであります。私達は朝までそこに居り、次いでそこから賭博場の1つへ連行されたのです」
……………

「私は先づ賭博場の1部屋に夫と共に閉ぢ込められました。そこにはレミジュロオ夫人(ペリオラ准尉の友人)、ジョベエル軍曹、一海軍主計と他の23人の仏蘭西軍も一緒にいました。この23人の軍人達は集められ、安辺橋へと引かれて行き、惨殺されました。私も1人である前記5人は私達が居った場所に押し込められた。そこで夫の眼の前で私が最初の兵卒風の襲撃を受けましたが、うまくそれに抵抗しました。

 1945年3月10日の夜中に私はレミジュロオ夫人と共に隣の部屋に移されました。そして私は日本人の乱暴を為すがままにせざるを得なかったのです。私はまた5度強姦されました。その1度はレミジュロオ夫人の目前でありました。レミジュロオ夫人は検査を受けて免れたのです。

 この出来事は次の様に行はれた。最初私はレミジュロオ夫人と一緒に側(わき)の部屋へ2人の歩哨に連れられて行った。彼等は私達を劇しく殴った。そして地べたに寝かし、彼等の1人は私の下袴を脱がせ、強姦しました。夜中に更に4回連れ出されて同じ方法で犯されました。犯罪者達は常に完全な武装をしていました。私と同じ部屋に押し込められていた私の夫は縛られていたので、誰かが捜しに来ても、何も言ふことが出来なかったし、いつも(空白)間に入らうとする度に、数多くの劇しい殴打を受けました。」
……………
       (口述人署名)
(調査官の証明及署名)
     (口供人の署名証明・証明官の署名及官印)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

東京裁判―性暴力関係資料<資料38>
E2124 DocP2772A-3
  口供書(抜萃)
 ムウレ・アルベール・ルイ
 植民地歩兵大隊長
 元第3管区及びハ・ジャン部隊司令官
 1908年8月18日マルセイユに生る
 父の名 ムウレ・アルベール
 母の名 ブラン・ジャンヌ
 住所 河内(注:ハノイ)ドン・カン街29番地及フランス・キュエル・レピュブリツク街23番地(ヴァール県)

 河江(HAGIANG)のフランス兵営は……………
「将校群の一部を喪った。フランス駐屯軍の抵抗部隊は相次いで降伏した。即ち
 ―城塞の外郭防御である印度支那保安隊の兵営ボネ・フィルジアン隊、350高地は23時間を経ずして、日本兵の手中に陥ちた。
 ―城塞は3月10日7時頃降伏す。
 ―外人部隊の兵営は8時頃。
 日本兵は直ちに殆んど全部の外人部隊の防御兵即ち45名を虐殺した。(彼等は10日の午後、朝降伏した23名と正午頃降伏した11名を虐殺した。他の虐殺が10日から20日までの間に逐次行はれ、犠牲者の総計は88名に達した)」
……………
……………

「我々が此の庭に到着したと思うまもなく、我々は日本軍の之等2分隊長、古川中尉が旅客部屋のある建物の階段を攀じ登り、其処に閉じこもるのを見た。

 やがて我々のうち誰も見識らないが、そのフランス人的態度は何等の疑ひをも起させない1人の少女が啜り泣きながら、其処から降りて来た。

 彼女が余の質問に対し答へる事が出来るやうになった時、余は彼女が姉の家で数日を送るため、ハノイより来た、トルリュイエ嬢であること、その姉は北光(BAOQUANG)駐屯地隊の1下士官の妻、デュムウラン夫人であること、北光に於ける3月9日の事件で驚かされ、3月11日、12日に黄听飛(HOANG・SUPHI)への仏軍の退却に姉と一緒に随行して来たものであることを知った。

 トルリュイエ嬢が我々に話していた間に、古川中尉が両手に1つづつ鞄を持って階段から降りてきた。

 彼は凶暴に此の少女を我々から引離した。
 我々は15分後、我々が既に見識っていたデュムウラン夫人が涙ながらに階段の露台の下に現はれるのを見た。」
……………
……………

「17日夜、我々は黄听飛にかへった。此等2人の女性は水も食物もなしに放っておかれたが、苦しめられはしなかった。

 彼女等の苦痛は17日の夜再び始まった。其の時我々は又日本部隊の暴行から彼女等を免れさせるため不可能事を為した。

 18日の朝、彼女等は我々から引き離され、駐屯所に移された。其処で日本兵等の中央に据えられた2つの寝台が彼女等に割り当てられた。

 約50人が寝ていた此の小部屋で彼女等は恐るべき苦痛を忍従した。
 此の小部屋から離れるのを厳重に監視され、妨げられた彼女等は50人の粗野な日本兵の思ふままであった。

 昼となく夜となく、彼女等は次から次へと占領者全部の面前で各自の気まぐれを忍ばなければならなかった。」
……………
……………

「カボニ大隊長は1945年3月27日に、コック・パイに監禁され、先づ、シン・マンに投獄され、4月初旬に黄听飛を経て河江に移された。

 4月6日黄听飛に到着して彼は此等2人の若い女性の痛ましい運命を自身の眼で確認し且デユムウラン夫人と手短かな談話を交えた。

 彼は彼女自身から直接聞いたことを私に語ったのでありますが、日本兵は飽き足りるまで彼女等を辱めることに甘んぜず、何事につけても彼女等をひどく殴打した事又妹は理性を失ひ始めたこと。」
……………
……………

「1945年5月7日、余と共に監禁せられたるフランス軍人即ちヴァイヤン、ジャンスネル及びカゾウラ大尉、ヴィレ見習士官、ポワツヴィン憲兵の面前で、澤野少佐はデユムウラン夫人及び其の妹は黄听飛から脱走したと云ふ事を余に知らせた。デユムウラン夫人は妊娠中であり、又彼女等は此の地方について何も知らないので、余は若干の驚きを表はした。それ故に彼は余に、彼女等が「躁鬱病の発作」を起こしていた事、然し彼女等を捜索中であり、やかて再び探し出すであろうとの旨を返答した。

 2日後、彼は余の質問に対し、依然として彼女等を捜索中である旨を答えた。
 1945年5月17日、澤野少佐は決定的に河江を去り、彼の後任者は我々を見に来ることを怠った。

5月末、越流(VIET RI)に、次いで河内(注:ハノイ)に移された我々は日本の降伏まで、且つそれ以後でさえも、デユムウラン夫人及びトルリュイエ嬢の消息に接しなかった。

 漸く1946年の初め頃になり、1945年4月28日、29日に、日本軍に占領されて居った饗迷(HAN NEI)屯営地に対し、クラン少佐のフランス支隊により行はれた襲撃への復讐として、之等2人の若い女性は、1945年5月初旬、古川中尉自身に依って行はれなかったとしても、彼の命令により虐殺された事を土人の情報により知った。

 土人の話の1つは、彼女等は饗迷に通ずる小径上で、黄听飛屯営地から数百米の所で斬首されたことを、他の話は彼女等は黄听飛の知州(郡長)官署の邸で銃殺されたと云ふことを述べている。」

    ルーレ・アルベール(署名)
  (調査官の証明及署名)
  (口供人の署名証明、証明官の署名及官印)
 書類第2772A-3号
   証
 余水谷乙吉は余が仏蘭西語及日本語に精通せる者なること竝に仏蘭西語原文及び日本語原文を対照の上右は本書類を真実に且正確に翻訳せるものなるを確証せることを茲に証す。
    水谷乙吉 O Mizutani
昭和21年12月31日


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