朝鮮人差別を告発する鶴彬
鶴彬の川柳に、「母国掠め盗った 国の歴史を 復習する大声」がある。
朝鮮の子どもたちが自国の歴史をどのように学んでいたのだろうか。朝鮮総督府が発行した『初等学校 修身書』をみると、1934年の小学校6年生のために「朝鮮の施政」という項があり、「我が国は何とかして之(朝鮮)を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへましたが、たうてい自ら復興することができませんでした。…併合は、疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進し、ひいて東洋の平和を固くする」と書かれている(全文は下記)。
鶴彬は朝鮮の子どもたちが教室で大声で読まされている様子を切り取って、川柳にしている。非常に写実的である。とはいえ、鶴彬は朝鮮に渡ったことがなく、教員の仕事をしたこともないので、おそらく活動の中で知り合った朝鮮人から、その怒りのうめき声を受けとめたのだろう。
ウソを教える教科書
この『修身』で教えている韓国併合の歴史は100%ウソである。「当時朝鮮は国を韓国と称し、…我が国は何とかして之を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへました」と書かれているが、1875年江華島事件、1876年日韓修好条規、1905年独島(竹島)略奪、1910年韓国を併合し、力ずくで植民地支配していたのである。
「朝鮮人には、両国の併合を希望し、我が国の政治の下に、韓国二千萬民の危急を救ってもらひたいとねがひ出るものが多くありました」と書かれているが、1919年独立運動がたたかわれ、朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7,509人、負傷者15,849人、逮捕された者46,303人、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るとされている。また、逮捕・送検された朝鮮人は12,668人、6,417人が起訴され、3,967人が有罪判決を受けている。
「疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進した」と書かれているが、当時もいまもだれひとりとして信じないだろう。「土地調査事業」によって農民から農地を強奪し、強制連行・強制労働、「慰安婦(性奴隷)」を強制しておいて、「善政」などと、よくも言えたものだ。そしてこれを教科書に載せ、朝鮮の子どもたちに大声で読ませていたのである。
この句の他に、鶴彬は「ヨボと辱められて 怒りこみ上げる 朝鮮語となる」と詠んでいるが、日本人から「ヨボ」と呼ばれ、差別的・侮蔑的に扱われている朝鮮人の側に身を置いているからこそ、生まれた川柳である。
このように、韓国併合・植民地支配によって強いられた朝鮮人の悲哀と怒りを、ストレートに表現する鶴彬はいつ、どこで朝鮮人と接触し、朝鮮人の心の内を理解するほどの深い関係を持ったのだろうか。
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(資料)1934年『初等学校修身書』 第6学年 第11課 「朝鮮の施政(1)」
朝鮮は昔から国内に争が絶えず、又陸つヾきの大国からはしばしば圧迫を受けて、人民は常に不安にかられてゐました。
狭い海峡を隔てて相対する内地と朝鮮とは昔から浅からぬ関係にありましたが、近世に入ってからはその関係が一そう密接になって来ました。さうして朝鮮がよく治まるか治らないかは直ちに東洋の平和にかかはり、ひいては我が国の安危に重大な影響を及すやうになりました。
当時朝鮮は国を韓国と称し、国が非常に衰へてゐました。我が国は何とかして之を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへましたが、たうてい自ら復興することができませんでした。
そこで朝鮮人には、両国の併合を希望し、我が国の政治の下に、韓国二千萬民の危急を救ってもらひたいとねがひ出るものが多くありました。
このやうな事態を御覧遊ばされた両国の皇帝は、日韓併合の止むを得ないことをお認めになり、明治四十三年八月二十九日、明治天皇は韓国を大日本帝国に永久に併合し給うたのであります。併合は、当時下し給ひし「詔書」に明らかなるが如く、疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進し、ひいて東洋の平和を固くするといふ遠大な目的にあるのであります。
明治天皇は併合と同時に朝鮮の人民に対して一視同仁の恵を垂れ給ひ、朝鮮総督を置いて親しく諸政の改善をはからせ給ふこととなさいました。併合後、施政は僅かに二十余年にしかなりませんが、その間の治績は各方面に亙って驚くべきものがあります。
鶴彬の川柳に、「母国掠め盗った 国の歴史を 復習する大声」がある。
朝鮮の子どもたちが自国の歴史をどのように学んでいたのだろうか。朝鮮総督府が発行した『初等学校 修身書』をみると、1934年の小学校6年生のために「朝鮮の施政」という項があり、「我が国は何とかして之(朝鮮)を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへましたが、たうてい自ら復興することができませんでした。…併合は、疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進し、ひいて東洋の平和を固くする」と書かれている(全文は下記)。
鶴彬は朝鮮の子どもたちが教室で大声で読まされている様子を切り取って、川柳にしている。非常に写実的である。とはいえ、鶴彬は朝鮮に渡ったことがなく、教員の仕事をしたこともないので、おそらく活動の中で知り合った朝鮮人から、その怒りのうめき声を受けとめたのだろう。
ウソを教える教科書
この『修身』で教えている韓国併合の歴史は100%ウソである。「当時朝鮮は国を韓国と称し、…我が国は何とかして之を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへました」と書かれているが、1875年江華島事件、1876年日韓修好条規、1905年独島(竹島)略奪、1910年韓国を併合し、力ずくで植民地支配していたのである。
「朝鮮人には、両国の併合を希望し、我が国の政治の下に、韓国二千萬民の危急を救ってもらひたいとねがひ出るものが多くありました」と書かれているが、1919年独立運動がたたかわれ、朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7,509人、負傷者15,849人、逮捕された者46,303人、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るとされている。また、逮捕・送検された朝鮮人は12,668人、6,417人が起訴され、3,967人が有罪判決を受けている。
「疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進した」と書かれているが、当時もいまもだれひとりとして信じないだろう。「土地調査事業」によって農民から農地を強奪し、強制連行・強制労働、「慰安婦(性奴隷)」を強制しておいて、「善政」などと、よくも言えたものだ。そしてこれを教科書に載せ、朝鮮の子どもたちに大声で読ませていたのである。
この句の他に、鶴彬は「ヨボと辱められて 怒りこみ上げる 朝鮮語となる」と詠んでいるが、日本人から「ヨボ」と呼ばれ、差別的・侮蔑的に扱われている朝鮮人の側に身を置いているからこそ、生まれた川柳である。
このように、韓国併合・植民地支配によって強いられた朝鮮人の悲哀と怒りを、ストレートに表現する鶴彬はいつ、どこで朝鮮人と接触し、朝鮮人の心の内を理解するほどの深い関係を持ったのだろうか。
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(資料)1934年『初等学校修身書』 第6学年 第11課 「朝鮮の施政(1)」
朝鮮は昔から国内に争が絶えず、又陸つヾきの大国からはしばしば圧迫を受けて、人民は常に不安にかられてゐました。
狭い海峡を隔てて相対する内地と朝鮮とは昔から浅からぬ関係にありましたが、近世に入ってからはその関係が一そう密接になって来ました。さうして朝鮮がよく治まるか治らないかは直ちに東洋の平和にかかはり、ひいては我が国の安危に重大な影響を及すやうになりました。
当時朝鮮は国を韓国と称し、国が非常に衰へてゐました。我が国は何とかして之を復興せしめたいと思ひ、種々力をそへましたが、たうてい自ら復興することができませんでした。
そこで朝鮮人には、両国の併合を希望し、我が国の政治の下に、韓国二千萬民の危急を救ってもらひたいとねがひ出るものが多くありました。
このやうな事態を御覧遊ばされた両国の皇帝は、日韓併合の止むを得ないことをお認めになり、明治四十三年八月二十九日、明治天皇は韓国を大日本帝国に永久に併合し給うたのであります。併合は、当時下し給ひし「詔書」に明らかなるが如く、疲弊した韓国の民衆を帝国の善政の下に置き、民衆の康福を増進し、ひいて東洋の平和を固くするといふ遠大な目的にあるのであります。
明治天皇は併合と同時に朝鮮の人民に対して一視同仁の恵を垂れ給ひ、朝鮮総督を置いて親しく諸政の改善をはからせ給ふこととなさいました。併合後、施政は僅かに二十余年にしかなりませんが、その間の治績は各方面に亙って驚くべきものがあります。