『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』
一 死の工都
大溶鉱炉の火が落ちた。
東洋随一を誇る八幡製鉄所、黒煙、天を蓋ひ、地を閉ざしてゐた大黒煙が、ハタと杜絶えた。それで、工都八幡市の息は、バッタリ止つた。
死の工場、死の街。墓場。
広茅(こうぼう)七十余万坪、天を衝いて林立する三百有八十本の大小煙突から吐き出される、永久不断にと誰もが思ひ込んでゐた、黒、灰、白、鼠色の煙が、たたぬ、一と筋も立ち昇らない。延長実に百二十哩(マイル)の構内レールを、原鉱、石炭、骸炭、銑鉄、銅塊、煉瓦、セメント、等、々、各種の原料と製品とを、工場から工場へ、引込線から引込線へ、埠頭から埠頭へと運ぶために、間断なく構内を駆け廻ってゐる幾十輌の機関車から吐き出される煤煙も絶えた。
煙のない煙都。卒塔婆の如く黙然とつ立った大煙突!八幡は窒息した。
囂々(ごうごう)と鳴りわたる工場の大騒音。ボイラーの音、シャフトの声、調帯(ベルト)の唸り、ハンマーの響き、エンジンの呻き、炸裂する音、燃ゆる音、流れる音、落ちる音、捲き揚がる音、引き落とす音、投げつけられた音、叩かれた音。音、声、唸り、響き、呻き、轟き、その全てが熄んだ。
音なき大工場は、墓場だ。
夜が来た。電燈が灯らない。溶鉱炉、平炉、転炉から九天に放射する火の柱はサット消えた。灼熱の鉱石は、溶鉄は、炉の底に、黒く、冷たく死んでゐる。
光がない。闇だ。真暗だ。
火が消え、煙が絶え、音が熄んだ。火の町、煙の町、光の町、音響の町、八幡市は屍だ。
何という寂しさだ。深海の真底の如き沈黙!
電車も息を殺して靜かに歩む。道行く人の足音もない。人々はヒソヒソと囁く。
八幡市は寂然たる逮夜だ。
時は、大正九年二月五日。ストライキだ。二万の労働者は一斉に工場から出て行った。
明治三十年二月設立告示。三十四年起業。公称投下資本一億二千万円。構内面積七十余万坪。周囲三里余。職員一千四百、職工一万七千、臨時職夫7千人。総員二万五千人が汗と脂にまみれ、骨を削り、肉を割いて三十五万キロの銑、三十五万キロの鋼を造る。日本随一の官設工場に、突如! 反×の叫びがあがった。俄然! 虐げられた者は鉄鎖を握つて起ち上がつた。
二 無言の威嚇
帝国主義の劫火、世界大戦を契機とする労働者解放運動の嵐が全国を吹きまくる。真実の、大衆的規模に於ての、組織的な労働者の進軍だ。此の潮先に乗り、労働運動の先駆者として全国に其の羽翼を伸べかけた、当時、殆ど唯一の労働組合――友愛会が、北九州工業地帯の心臓たる八幡市に九州出張所を置いたのは大正七年。組合員二百弱。製鉄所従業員によって構成せられた最初の労働組合である。だが、その会長は芳賀種義、政友会の支部長で福岡県会議員。近代的意義に於ける社会問題、労働運動に就いて、何の造詣、何の知識があるわけではない。温和な人物――哀れなる形容詞「人格者」、「有志家」、此の男を頭目に担ぎ上げての労働組合。無意識的な協調団体とさへも謂へぬ貧弱な互助機関、初期労働組合の稚態の全部を持つてゐた。
此の眠れる友愛会の眼を啓(ひら)かせ、此の大ストライキの主役たる日本労友会組織の機縁ともなつた一つの事件がある。
大正七年(1918年)中秋の頃、製鉄所内に起った一種のサボタージュ。各工場の現場の床上や広場に、莚を敷いて昼寝、雑談に耽(ひた)る職工約一万。計画的、組織的な怠業ではない。何が原因か、何を求むるか。それを表示するでもなく、示威的行動に出でもない。ただ、一万人が拗ねたのだ。
「不貞腐れ」、サボは二日で熄(や)んだが、此の異変を契機として、全工場には一種の不穏焦躁の気が漂ひ始めた。「俺たちをどうしてくれるんだ」と云つたやうな、反抗的空気が漲り渡つてきた。
サボの中心人物、西田健太郎は佐賀の甲種工業学校出身で製鉄所の据付工場の工手だつた。彼は一見愚鈍さうに見えて、傲頑不屈、狂熱性の青年である。演壇などで、少しく昂奮して来ると、卓子(テーブル)を破れよと叩き続けて怒号し、 終には熱涙滂沱(ぼうだ)たりと云つた純情の男だ。強烈な感激性、頑剛な突撃性、彼の特質である。五尺五六寸、鉄工らしい頑丈な体躯。ドス黒い、ヒゲむしやの角ばつた顔、グルグルとよく動く大きい眼玉がするどく光る、こんな相貌と性格とにふさわしく、彼はドモリであつた。
或日の昼食後、西田は据付工場の食堂で、突然叫び出した。吃々(きつきつ)とドモリながら、職工待遇の劣悪さを憤慨し、工場設備の不満を並べたてる。が、彼の演説に、何か、思想的の基調が侵(し)み出し、体系のある主張が聞かれたわけではなかった。取りたてゝ云へば、便所を改造しろ、食堂を奇麗にしろ、浴場もだと云つたやうな、工場労働者の初歩的な待遇改善の要求が、断片的に、勿体らしく力説せられただけに過ぎなかつた。でも、職工自身の、然かも食堂での演説は、当時の製鉄所としてはセンセーショナルな一事件であつた。
彼の感激に満ちた真摯な態度、激越な口調、素朴な要求が聴衆たる同僚に相当深い感銘を残した。彼の噂、彼の演説の評判は、工場から工場に伝へられた。其後、昼食時になると、彼は各工場の食堂に迎へられて、食卓(テーブル)を演壇に早変わりさせるやうになった。
西田の演説が大半の工場に行き渡つた結果は、二日間の、自然発生的なサボとなり、無言の威嚇に脅かされた製鉄所をして、便所、浴場、食堂等の改良に着手せしめた。
開けて八年(1919年)世界大戦は漸く終熄したが、戦時中の沸き騰(あが)るやうな好景気の余波は収まらない。全日本の産業界は殷盛(いんせい:繁盛)の頂点にあつた。輸出超過は続く、新産業、新工場は踵(くびす)を接して起る。未曾有の繁栄、日本の資本主義は急速歩で躍進を続ける。黄金の洪水だ。資本家の懐はハチ切れんばかりに豊満して行つた。
然し、残業又残業、徹夜又徹夜、疲労困憊しきつた工場労働者は、天井知らずに奔騰する物価高、生活苦にアエぎ、モガいてゐた。時、あだかも、全欧羅巴(ヨーロッパ)から、ロシアから、世界××の鯨波(ときのこえ)は、東洋へ、日本の岸にも打ち寄せて来た。巨大な労働者の群は、この世界的解放運動の怒濤に乗つた。火は点いた。燎原を焼く火の如く、威力あり、統制あるストライキが全国の工業界を風靡した。八幡市を中心とする北九州は、世界大戦を契機として勃興した鉄工業を枢軸とする近代重工業の新興地である。全日本の産業資本は此所に一集中地点を求め、工場は続出し、労働者は流れ込む地方一帯の寒村小都は湧き返る工都に化した。
此所に労働運動の生起は必然であり、不可避である。賃金値上げ、時間短縮等を中核とする要求運動の気運は次第に爛熟する。
(注:差別的用語が散見されるが、歴史的作品であり、そのままにした)
一 死の工都
大溶鉱炉の火が落ちた。
東洋随一を誇る八幡製鉄所、黒煙、天を蓋ひ、地を閉ざしてゐた大黒煙が、ハタと杜絶えた。それで、工都八幡市の息は、バッタリ止つた。
死の工場、死の街。墓場。
広茅(こうぼう)七十余万坪、天を衝いて林立する三百有八十本の大小煙突から吐き出される、永久不断にと誰もが思ひ込んでゐた、黒、灰、白、鼠色の煙が、たたぬ、一と筋も立ち昇らない。延長実に百二十哩(マイル)の構内レールを、原鉱、石炭、骸炭、銑鉄、銅塊、煉瓦、セメント、等、々、各種の原料と製品とを、工場から工場へ、引込線から引込線へ、埠頭から埠頭へと運ぶために、間断なく構内を駆け廻ってゐる幾十輌の機関車から吐き出される煤煙も絶えた。
煙のない煙都。卒塔婆の如く黙然とつ立った大煙突!八幡は窒息した。
囂々(ごうごう)と鳴りわたる工場の大騒音。ボイラーの音、シャフトの声、調帯(ベルト)の唸り、ハンマーの響き、エンジンの呻き、炸裂する音、燃ゆる音、流れる音、落ちる音、捲き揚がる音、引き落とす音、投げつけられた音、叩かれた音。音、声、唸り、響き、呻き、轟き、その全てが熄んだ。
音なき大工場は、墓場だ。
夜が来た。電燈が灯らない。溶鉱炉、平炉、転炉から九天に放射する火の柱はサット消えた。灼熱の鉱石は、溶鉄は、炉の底に、黒く、冷たく死んでゐる。
光がない。闇だ。真暗だ。
火が消え、煙が絶え、音が熄んだ。火の町、煙の町、光の町、音響の町、八幡市は屍だ。
何という寂しさだ。深海の真底の如き沈黙!
電車も息を殺して靜かに歩む。道行く人の足音もない。人々はヒソヒソと囁く。
八幡市は寂然たる逮夜だ。
時は、大正九年二月五日。ストライキだ。二万の労働者は一斉に工場から出て行った。
明治三十年二月設立告示。三十四年起業。公称投下資本一億二千万円。構内面積七十余万坪。周囲三里余。職員一千四百、職工一万七千、臨時職夫7千人。総員二万五千人が汗と脂にまみれ、骨を削り、肉を割いて三十五万キロの銑、三十五万キロの鋼を造る。日本随一の官設工場に、突如! 反×の叫びがあがった。俄然! 虐げられた者は鉄鎖を握つて起ち上がつた。
二 無言の威嚇
帝国主義の劫火、世界大戦を契機とする労働者解放運動の嵐が全国を吹きまくる。真実の、大衆的規模に於ての、組織的な労働者の進軍だ。此の潮先に乗り、労働運動の先駆者として全国に其の羽翼を伸べかけた、当時、殆ど唯一の労働組合――友愛会が、北九州工業地帯の心臓たる八幡市に九州出張所を置いたのは大正七年。組合員二百弱。製鉄所従業員によって構成せられた最初の労働組合である。だが、その会長は芳賀種義、政友会の支部長で福岡県会議員。近代的意義に於ける社会問題、労働運動に就いて、何の造詣、何の知識があるわけではない。温和な人物――哀れなる形容詞「人格者」、「有志家」、此の男を頭目に担ぎ上げての労働組合。無意識的な協調団体とさへも謂へぬ貧弱な互助機関、初期労働組合の稚態の全部を持つてゐた。
此の眠れる友愛会の眼を啓(ひら)かせ、此の大ストライキの主役たる日本労友会組織の機縁ともなつた一つの事件がある。
大正七年(1918年)中秋の頃、製鉄所内に起った一種のサボタージュ。各工場の現場の床上や広場に、莚を敷いて昼寝、雑談に耽(ひた)る職工約一万。計画的、組織的な怠業ではない。何が原因か、何を求むるか。それを表示するでもなく、示威的行動に出でもない。ただ、一万人が拗ねたのだ。
「不貞腐れ」、サボは二日で熄(や)んだが、此の異変を契機として、全工場には一種の不穏焦躁の気が漂ひ始めた。「俺たちをどうしてくれるんだ」と云つたやうな、反抗的空気が漲り渡つてきた。
サボの中心人物、西田健太郎は佐賀の甲種工業学校出身で製鉄所の据付工場の工手だつた。彼は一見愚鈍さうに見えて、傲頑不屈、狂熱性の青年である。演壇などで、少しく昂奮して来ると、卓子(テーブル)を破れよと叩き続けて怒号し、 終には熱涙滂沱(ぼうだ)たりと云つた純情の男だ。強烈な感激性、頑剛な突撃性、彼の特質である。五尺五六寸、鉄工らしい頑丈な体躯。ドス黒い、ヒゲむしやの角ばつた顔、グルグルとよく動く大きい眼玉がするどく光る、こんな相貌と性格とにふさわしく、彼はドモリであつた。
或日の昼食後、西田は据付工場の食堂で、突然叫び出した。吃々(きつきつ)とドモリながら、職工待遇の劣悪さを憤慨し、工場設備の不満を並べたてる。が、彼の演説に、何か、思想的の基調が侵(し)み出し、体系のある主張が聞かれたわけではなかった。取りたてゝ云へば、便所を改造しろ、食堂を奇麗にしろ、浴場もだと云つたやうな、工場労働者の初歩的な待遇改善の要求が、断片的に、勿体らしく力説せられただけに過ぎなかつた。でも、職工自身の、然かも食堂での演説は、当時の製鉄所としてはセンセーショナルな一事件であつた。
彼の感激に満ちた真摯な態度、激越な口調、素朴な要求が聴衆たる同僚に相当深い感銘を残した。彼の噂、彼の演説の評判は、工場から工場に伝へられた。其後、昼食時になると、彼は各工場の食堂に迎へられて、食卓(テーブル)を演壇に早変わりさせるやうになった。
西田の演説が大半の工場に行き渡つた結果は、二日間の、自然発生的なサボとなり、無言の威嚇に脅かされた製鉄所をして、便所、浴場、食堂等の改良に着手せしめた。
開けて八年(1919年)世界大戦は漸く終熄したが、戦時中の沸き騰(あが)るやうな好景気の余波は収まらない。全日本の産業界は殷盛(いんせい:繁盛)の頂点にあつた。輸出超過は続く、新産業、新工場は踵(くびす)を接して起る。未曾有の繁栄、日本の資本主義は急速歩で躍進を続ける。黄金の洪水だ。資本家の懐はハチ切れんばかりに豊満して行つた。
然し、残業又残業、徹夜又徹夜、疲労困憊しきつた工場労働者は、天井知らずに奔騰する物価高、生活苦にアエぎ、モガいてゐた。時、あだかも、全欧羅巴(ヨーロッパ)から、ロシアから、世界××の鯨波(ときのこえ)は、東洋へ、日本の岸にも打ち寄せて来た。巨大な労働者の群は、この世界的解放運動の怒濤に乗つた。火は点いた。燎原を焼く火の如く、威力あり、統制あるストライキが全国の工業界を風靡した。八幡市を中心とする北九州は、世界大戦を契機として勃興した鉄工業を枢軸とする近代重工業の新興地である。全日本の産業資本は此所に一集中地点を求め、工場は続出し、労働者は流れ込む地方一帯の寒村小都は湧き返る工都に化した。
此所に労働運動の生起は必然であり、不可避である。賃金値上げ、時間短縮等を中核とする要求運動の気運は次第に爛熟する。
(注:差別的用語が散見されるが、歴史的作品であり、そのままにした)