『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』(2)
三 口火を点ずる者
此の年八月十日、「アニキトク」の急電を受けて、私は東京から八幡に帰つた。
瀕死の長兄の枕頭に、また忌中の幾日かを私は懶う(ものう)く過ごした。然し、私は眼を閉ぢてはゐない。労働都市八幡の状勢をぢつと凝視してゐた。
戦争、鉄価の大暴騰、製鉄所は未曾有の活気を呈してゐる。労働者の数は此の二三年間に倍増した。割増、戦時手当等の柔かい鞭で叩かれながら、職工は息をも吐(つ)かずに働き続けてゐる。製鉄所の利得は四五千万円を唱へる。だが、此の繁栄の裏に、燃ゆるが如き不平不満が、煤煙と機械油とに汚れた労働服の裡に生成しつゝあつた。
叩けば響き、押せば動くのだ。
それを抑えてゐるものは何だ。官設工場特有の根強き官僚的、××的支配力である。殊に、数年前の全国民を驚倒せしめ、憤怒せしめた押川長官時代の疑獄事件以後の製鉄所当局の緊張振りは、職工に対する堅固なる統制となり、労働者の組織化を極力抑制してゐる。同時に、官設工場従業員の持つ一種の官僚的矜持、空疎な××主義的精神が、底から湧き上がつてくる賃金奴隷としての反抗意識を抑圧し、やゝともすれば、自己欺瞞の陶酔に陥る。加ふるに、空前の好景気。脈々たる抗心を胸底に蔵しながら、各種の原由に制縛(せいばく)せられて、爆発の端緒を掴み得ないで居る。
叩けば響き、押せば動く。が、叩く者がゐない。グツと一と押し、力強く押し出す手がない。
巨巌は山嶺に横たわる。グツと一と押しだ。あとは急坂を逆落としに……。然し、放つておけば窒息だ。衝戟(しょうげき)がいる。血の出る衝戟が。
当時の私は、苦難多き工場、鉱山労働の体験を基礎に、サンジカリズムの思想を吸収し、生来の反逆心を何ものによってか爆発させねば止まれぬ私であつた。寸時、興味を持ちかけてゐた政治運動に飽きて、生死を賭しての経済闘争に転向せんとする転機に立つてゐた。
気運は動いてゐる。導火を作り、たゞ点火するのみだ。私はハッパの導火線を敷き始める。
単独演説、会場――枝光の野天の芝居小屋を借り入れ、「労働問題演説会」の立看板や貼りビラを、工藤勇雄といふ青年と二人で市中に配布して、その日――八月三十日を待った。八幡市最初の労働問題公開演説会だ。予期の如く、労働者、市民の感興(かんきょう)を沸かせ、当局者に異常のショックを与へた。二十八日、警察署から寸時来い。何のこつた。署長の演説中止の勧告――命令を言下に拒絶した。警察は押しつぶす心算、私は無理にもやる決心。対立状態が続いて、三十日の正午頃、会場が天井のない掛小屋に過ぎないから、屋外集会と見なして禁止する。たつてやるなら検束だ。ビラも早速剥ぎ取れといふ厳命を受けた。
定刻の七時には群衆数千。会場前の大通を埋めた。口惜しいが仕方がない。会場入口に「其筋の命令に依り、已むを得ず中止」と大書して私は自宅に引上げた。
北本町五丁目、巡査派出所の前側に開業してゐた薬店、次兄の家が私の当時の居所である。僅かに十数間を隔てる交番署には、八幡署長野村某が出張して警戒の指揮に当つて居る。五間道路いつぱい、交番署を中心に身動きもならぬほど詰めかけた群衆は、禁止命令の不当を鳴らして喧々囂々。数十名が交番署に押しかけて、署長に厳談した。八時頃、私は家の前の路傍にビール箱を積み上げて、其上に登つた。
怒号三十分、群衆は無暗(むやみ)に拍手する。私も聊(いささ)か溜飲を下げた。「幾度、禁止されても、屹度やる。同志は私を扶けて目的を貫徹させろ」といふ言葉に応じて、三人の青年が家に入った。加藤義雄、田崎恕、黒野貞幹の三君、何れもストライキの中堅として奮闘した人々である。
其夜、前田の映画常設館日本館で、九月七日演説会再開の協議成る。当時までには五六人の同志も出来、警察も今度は干渉の口実がない。聴衆三千人、私の他に、七八人の同志が簡単な感想を述べ、全部で三時間。私は労働運動の目的、組合結成の急を強調して、「組合組織の一兵卒として犬馬の労に就く」ことを誓ひ、同志を募つて二十人を得た。
其夜から連日連夜の協議会だ。殆んど不眠不休で組合組織の具体案を造る。当時、製鉄所を退いて郷里に帰つてゐた西田健太郎も、新聞で知つたと云つて、八幡に出て来て我々に協力した。
四 労友会生る
十月十六日、中町の弥生座で「日本労友会」の発開式。会員六百名は、製鉄所、旭ガラス、安川電気、安田製釘等、八幡市の大工場を網羅する鉄工場労働者である。会則によって選挙の結果、会長浅原健三、副会長西田健太郎、理事四人は田崎、吉村、伊藤、相原。中央委員三十名。会費は月額十五銭。
此の夜、八幡警察署は全力を挙げて厳戒し、乗ずべき間隙(すき)を狙つてゐたが、記念演説会も無事に済んだ。日本労友会万歳の声は、八幡市の労働界を震撼した。斯くて我等の牙城はなつた。全員の意気は揚がり、闘志は次第に昂(たかぶ)つて行つた。戦時手当の本給繰入による賃金の値上、八時間労働制の実施等は中央委員会其他の会合に於ける論議の中心問題となつた。
十二月初旬には、愈々(いよいよ)要求運動を開始せざるを得ない状勢になったが、尋常の手段で要求を貫徹し得る見込は固よりない。製鉄所当局の態度は極めて強硬である。更に当局の計画せる労友会破戒の画策が次第に具体化しつゝありとの情報は、我々の戦意を弥(いや)が上にも唆り立てた。(注:唆す=そそのかす)労友会の誕生、その躍進的な成長振りに脅威せられた当局は、十一月下旬から、工手、筆工、組長、伍長等の上級職工を中心に、御用団体を作つて、我等――労友会に対抗せしめんと、着々準備を進めてゐる。此の長官始め幹部総掛りの労友会破壊策に抗争するためにも、我々は一戦を覚悟しなければならぬ。然も、開戦は一日も早いが有利である。
此の見通しの上に、十二月初め、我々の戦意はもはや動かし難きものになつた。然し、労友会結成後、日は浅く、組合の基礎は未だ十分には固まってゐない。具体的な戦闘準備も不充分だ。私は要求運動の具体化を尚早と見て、半月ばかりは、軽燥(けいそう)な爆発の抑制に力(つと)めた。が、二十日頃になると、奔流の勢ひは区々たる人力で堰き止めらるべくもないことが明瞭になった。十二月二十五、六日、歳暮大売り出しの広告幟が朔風にハタめく頃、最後の腹はきまつた。突進!
全組合員を挙げて、嵐の前の静寂裡に、具体的戦闘準備が音もなく整へ続けられて行つた。
八年は暮れ、九年(1920年)を迎へた。
一月上旬、私は、理事会の決議に基いて、単身上京した。製鉄所長官白仁武に会つて、「その腹を探る」役目を帯びて。
三 口火を点ずる者
此の年八月十日、「アニキトク」の急電を受けて、私は東京から八幡に帰つた。
瀕死の長兄の枕頭に、また忌中の幾日かを私は懶う(ものう)く過ごした。然し、私は眼を閉ぢてはゐない。労働都市八幡の状勢をぢつと凝視してゐた。
戦争、鉄価の大暴騰、製鉄所は未曾有の活気を呈してゐる。労働者の数は此の二三年間に倍増した。割増、戦時手当等の柔かい鞭で叩かれながら、職工は息をも吐(つ)かずに働き続けてゐる。製鉄所の利得は四五千万円を唱へる。だが、此の繁栄の裏に、燃ゆるが如き不平不満が、煤煙と機械油とに汚れた労働服の裡に生成しつゝあつた。
叩けば響き、押せば動くのだ。
それを抑えてゐるものは何だ。官設工場特有の根強き官僚的、××的支配力である。殊に、数年前の全国民を驚倒せしめ、憤怒せしめた押川長官時代の疑獄事件以後の製鉄所当局の緊張振りは、職工に対する堅固なる統制となり、労働者の組織化を極力抑制してゐる。同時に、官設工場従業員の持つ一種の官僚的矜持、空疎な××主義的精神が、底から湧き上がつてくる賃金奴隷としての反抗意識を抑圧し、やゝともすれば、自己欺瞞の陶酔に陥る。加ふるに、空前の好景気。脈々たる抗心を胸底に蔵しながら、各種の原由に制縛(せいばく)せられて、爆発の端緒を掴み得ないで居る。
叩けば響き、押せば動く。が、叩く者がゐない。グツと一と押し、力強く押し出す手がない。
巨巌は山嶺に横たわる。グツと一と押しだ。あとは急坂を逆落としに……。然し、放つておけば窒息だ。衝戟(しょうげき)がいる。血の出る衝戟が。
当時の私は、苦難多き工場、鉱山労働の体験を基礎に、サンジカリズムの思想を吸収し、生来の反逆心を何ものによってか爆発させねば止まれぬ私であつた。寸時、興味を持ちかけてゐた政治運動に飽きて、生死を賭しての経済闘争に転向せんとする転機に立つてゐた。
気運は動いてゐる。導火を作り、たゞ点火するのみだ。私はハッパの導火線を敷き始める。
単独演説、会場――枝光の野天の芝居小屋を借り入れ、「労働問題演説会」の立看板や貼りビラを、工藤勇雄といふ青年と二人で市中に配布して、その日――八月三十日を待った。八幡市最初の労働問題公開演説会だ。予期の如く、労働者、市民の感興(かんきょう)を沸かせ、当局者に異常のショックを与へた。二十八日、警察署から寸時来い。何のこつた。署長の演説中止の勧告――命令を言下に拒絶した。警察は押しつぶす心算、私は無理にもやる決心。対立状態が続いて、三十日の正午頃、会場が天井のない掛小屋に過ぎないから、屋外集会と見なして禁止する。たつてやるなら検束だ。ビラも早速剥ぎ取れといふ厳命を受けた。
定刻の七時には群衆数千。会場前の大通を埋めた。口惜しいが仕方がない。会場入口に「其筋の命令に依り、已むを得ず中止」と大書して私は自宅に引上げた。
北本町五丁目、巡査派出所の前側に開業してゐた薬店、次兄の家が私の当時の居所である。僅かに十数間を隔てる交番署には、八幡署長野村某が出張して警戒の指揮に当つて居る。五間道路いつぱい、交番署を中心に身動きもならぬほど詰めかけた群衆は、禁止命令の不当を鳴らして喧々囂々。数十名が交番署に押しかけて、署長に厳談した。八時頃、私は家の前の路傍にビール箱を積み上げて、其上に登つた。
怒号三十分、群衆は無暗(むやみ)に拍手する。私も聊(いささ)か溜飲を下げた。「幾度、禁止されても、屹度やる。同志は私を扶けて目的を貫徹させろ」といふ言葉に応じて、三人の青年が家に入った。加藤義雄、田崎恕、黒野貞幹の三君、何れもストライキの中堅として奮闘した人々である。
其夜、前田の映画常設館日本館で、九月七日演説会再開の協議成る。当時までには五六人の同志も出来、警察も今度は干渉の口実がない。聴衆三千人、私の他に、七八人の同志が簡単な感想を述べ、全部で三時間。私は労働運動の目的、組合結成の急を強調して、「組合組織の一兵卒として犬馬の労に就く」ことを誓ひ、同志を募つて二十人を得た。
其夜から連日連夜の協議会だ。殆んど不眠不休で組合組織の具体案を造る。当時、製鉄所を退いて郷里に帰つてゐた西田健太郎も、新聞で知つたと云つて、八幡に出て来て我々に協力した。
四 労友会生る
十月十六日、中町の弥生座で「日本労友会」の発開式。会員六百名は、製鉄所、旭ガラス、安川電気、安田製釘等、八幡市の大工場を網羅する鉄工場労働者である。会則によって選挙の結果、会長浅原健三、副会長西田健太郎、理事四人は田崎、吉村、伊藤、相原。中央委員三十名。会費は月額十五銭。
此の夜、八幡警察署は全力を挙げて厳戒し、乗ずべき間隙(すき)を狙つてゐたが、記念演説会も無事に済んだ。日本労友会万歳の声は、八幡市の労働界を震撼した。斯くて我等の牙城はなつた。全員の意気は揚がり、闘志は次第に昂(たかぶ)つて行つた。戦時手当の本給繰入による賃金の値上、八時間労働制の実施等は中央委員会其他の会合に於ける論議の中心問題となつた。
十二月初旬には、愈々(いよいよ)要求運動を開始せざるを得ない状勢になったが、尋常の手段で要求を貫徹し得る見込は固よりない。製鉄所当局の態度は極めて強硬である。更に当局の計画せる労友会破戒の画策が次第に具体化しつゝありとの情報は、我々の戦意を弥(いや)が上にも唆り立てた。(注:唆す=そそのかす)労友会の誕生、その躍進的な成長振りに脅威せられた当局は、十一月下旬から、工手、筆工、組長、伍長等の上級職工を中心に、御用団体を作つて、我等――労友会に対抗せしめんと、着々準備を進めてゐる。此の長官始め幹部総掛りの労友会破壊策に抗争するためにも、我々は一戦を覚悟しなければならぬ。然も、開戦は一日も早いが有利である。
此の見通しの上に、十二月初め、我々の戦意はもはや動かし難きものになつた。然し、労友会結成後、日は浅く、組合の基礎は未だ十分には固まってゐない。具体的な戦闘準備も不充分だ。私は要求運動の具体化を尚早と見て、半月ばかりは、軽燥(けいそう)な爆発の抑制に力(つと)めた。が、二十日頃になると、奔流の勢ひは区々たる人力で堰き止めらるべくもないことが明瞭になった。十二月二十五、六日、歳暮大売り出しの広告幟が朔風にハタめく頃、最後の腹はきまつた。突進!
全組合員を挙げて、嵐の前の静寂裡に、具体的戦闘準備が音もなく整へ続けられて行つた。
八年は暮れ、九年(1920年)を迎へた。
一月上旬、私は、理事会の決議に基いて、単身上京した。製鉄所長官白仁武に会つて、「その腹を探る」役目を帯びて。