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20180101 新年メッセージ

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2018年1月 新年メッセージ

 2018年が開けました。新しい年を迎えて、90年前の鶴彬のメッセージを送ります。

 鶴彬は1930年に徴兵され、翌1931年に「七聯隊赤化事件」(治安維持法違反)の主犯として逮捕・投獄されました。1929年6月に発行された『川柳人』200号への投稿で、青年鶴彬・コムニスト鶴彬の問題意識が最もよくわかる評論です。

 1933年刑期を終え、除隊(12月)し、活動を再開しましたが、1938年12月治安維持法容疑で検挙、翌1939年8月獄死しました。29歳。

芸術における美の階級性と宣伝性 プロレタリア川柳入門のイロハに就いて
鶴 彬

 ····最近の川柳神秘主義紳士諸君らは吾々に対して、プロレタリア川柳の審美論をしきりに要求している。これは吾々にとって笑止千万な要求である。――芸術が芸術として、哲学、科学、宗教、政治、法律、教育等の社会的文化的価値と共に一個の文化価値たり得るという事は、これらの部門における各々本質的価値よりも異なった本質価値をもつからである。

 即ち、芸術とは哲学そのもの自体でもない。科学の相対性原理でもない「美的感情」―感情のクライマックス―を唯一の内容としているのだ。これは、総て芸術入門のイロハだ。

 だが、吾々の忘れてならない事は、こうした入門式イロハではなく、この入門式イロハより出発する芸術の社会的価値の正しい検討でなければならないのだ。

 ····芸術における美とは、その芸術家が属する環境言い換えれば、その階級的立場に立って、初めて決定されるのだ。

 即ち、野口米次郎の場合、現実労働を遊離する、動かずに食い得る、階級的立場に属する故に、お上品な神秘的美感を表現し、森山啓は、現実労働に従事する、働かずして食うことの出来ない階級的立場に属する故に、戦闘的な、プロレタリア的美感に迫り切った詩を創るのだ。…芸術における二様の美とは、各々その芸術の属する、階級的立場によって決定される…実に芸術とは、当時の社会機構を超越して、独立に存在するものではない。

 それは必ず、社会の下部機構としての経済的過程の流動、変革につれて流れ動いているのである。それは常に階級的対立がもたらす階級的対立の枠の中に華咲いて来ているものである。

 ····万葉の歌が、如何に、古代的生産関係における支配階級―貴族階級の立場によって恋愛や哀別や無情や非情を歌いあげているかを、又、野口米次郎や北原白秋の詩が如何に資本主義に依属する知識階級の観念的主観的神秘性や浪漫性を如実に物語っているかを。

 古代封建時代に創られた作者不明の民謡が、如何に当時の農民の偽らざる感情を率直に表現しているかを、そして資本主義生産関係の矛盾によって生成したプロレタリアの芸術が、如何にプロレタリアの感情と意志と希望とを、何よりも先に描かねばならなかった事を、それを吾々は知らねばならない。

 芸術とは、常に階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、感情である。

 ····即ち、一定の階級的イデオロギーの表現は一般読者を対象として、アッピールしはじめる。それは主観主義者共が如何に拒否しようとも、否定すべからざる客観的事実である。

 ····吾々は武者小路実篤の小説を読む、そこに何を発見するか、日く、武者小路式な神秘主義人道主義的イデオロギーの露骨な表現だ。彼はその作品を社会化する事によって、武者小路式なるイデオロギーを一般読者に伝染し、そのイデオロギー下に組織してしまうのだ。

 だが、吾々が先に示したように、必ず一定の階級的立場に結びついていなければならない。この意味において、武者小路の作品は如何なる階級のために役割りするか。

 一言にして言えば、それはブルジョアジィのために役立つのである。先づ、見るがいい。彼の宗教の平和主義思想によって、一切の被圧迫階級の反抗や不満を宗教的観念幻想境に導き入れる。

 そしてあらゆる事物を、生命とか無限とかの漠然とした言葉によって神秘化(吾々の言葉をもって言えば朦朧化)してしまうのだ。これは吾々の見地よりして、ブルジョワジイを護る武器となるものだ。

 考へても見よ、吾々は武者小路式な、いわゆる「新しき村」式な人道主義によって、資本主義がもたらす深刻なる飢餓、失業、病苦の状態から救はれるであろうか。

 否否否、断じて否だ。吾々はその飢餓、失業、病苦から身を救う為には、かく吾々を飢餓、失業、病苦に陥し入れた社会的原因を正しく見とらねばならない。

 それが資本の集中化、小資本家の没落、外国資本主義との市場獲得競争による敗退、生産の過剰、生産合理化、操業短縮等の矛盾による事をはっきり学びとり、それと闘うべき客観的戦術を打ち立てる事によってのみ、資本主義の生産手段の独占の不合理、それによる労働力の搾取、その他一切の矛盾を崩壊せしめる事が可能なのだ。にも拘らず、武者小路式人道主義は、かかる客観的実践的理論をひらりと跳躍し、無抵抗的なる平和的なる「新しき村」式社会を強調する。

 これは明らかに反プロレタリア的ブルジョア幻想主義である。それは同時にブルジョア的自由主義の宣伝で、組織である。

 ゲーテを見よ、タゴールを見よ、芭蕉を見よ、一切が、貴族的神秘主義、知識階級的神秘主義の実情であり、組織である。バルザックやモオパッサンや田山花袋は、初期資本主義的知識階級、イデオロギーの組織を、横山利一や池谷信三郎は、没落的資本主義知識階級イデオロギーの伝染を、各々その階級的の立場に忠実なる役割を果しているではないか。

 自然主義は、その絶望的なる主観的世界観の下に、新感覚派はその頽廃的感覚遊戯の下に、ブルジョア生産関係がもたらす複雑なる放射線上の舞踏を続けているのだ。

 吾々はかゝる――彼らが無意識たると否とを問はず――認識の下に、芸術における芸術性、観情性、組織性を意識的に採り上げる。―――一定の階級的イデオロギーのアジプロの為に働かぬ芸術は、この世に一つあり得ないのだ。

 吾々は唯それを意識的に行う。ブルジョア芸術家は無意識的に行うだけだ。プロレタリア芸術の××××××××はかくの如きものとして理解されねばならぬ。

 プロレタリア芸術のアジプロの役割を、その知識的階級的お上品さをもって、芸術は何物にも利用されてはならぬと囀る。吾が神秘主義紳士諸君及び其の一派のふんどし担ぎ、其の抗議は、かゝる芸術の宣伝性、××性の正しき把握の下に一蹴されねばならぬ。

 尚、彼らは、吾々の芸術闘争を中傷する為に、詩を捨てて実践に走れとか、詩を創るより田を作れなどという古くさい抗議を申込んでいるが、それは以上によって明らかにされたところの芸術闘争の実践性を理解出来ない愚劣なたわごとである。

 愛嬌多き神秘主義川柳家諸君! 吾々は諸君に次の如き挨拶を送ることが出来る。

 芸術闘争は、プロレタリア文化確立のための、それ自身の闘争である。詩を創る者は常に田を作らねばならないのだ。――――さて、結論はこうだ!

 芸術における美とは、その芸術家の階級的立場によって決定される。

 それは、その故に、常に一定の階級的イデオロギーの表現であり、宣伝であり、×情である。あらねばならぬ。プロレタリア川柳は××――××に結びつかねばならぬ。

 そして吾々が、特に卒業しなければならぬプロレタリア芸術入門のイロハの中のイロハでなければならぬ。(岡田一杜著『川柳人 鬼才鶴彬の生涯』より孫引き)

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