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20180127 また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

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また、ひとつ、大きな星が眼を閉じた

 昨年8月、小松のTさんが亡くなられました。Tさんは小松市教組三羽ガラスのひとりで、小松・能美地区の革新に力を尽くしていました。わたしが小松基地問題に取り組み始めてから、ときどき訪問してはいろいろ教えていただきました。

 2000年8月、大東亜聖戦大碑が除幕され、県内外から激しい批判の声があがり、「ふたたび戦争を許さない映画と講演の集い南加賀実行委員会」の会議で、Tさんは聖戦をめぐる歴史認識についてレポートし、その時の発言録を再掲し、こころからご冥福をお祈りします。
2018年1月 小松基地問題研究会

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「大東亜聖戦大碑とは」(2001年2月1日)

 私は1932年(昭和7年)の生まれで、小学校に入ったのが1939年(昭和14年)4月でした。戦争と共に生まれ、戦争と一緒に小学校を過ごした、そういう年ごろの者です。新聞などを読んでいますと、一部の人の言葉ですが、「満州事変」とか「支那事変」とかいうように、「事変」という言葉が出てきます。また「大東亜戦争」というように、「戦争」という言葉が出てきます。辞典で調べてみますと、「事変」とは「常ならぬ出来事」と書かれており、変乱、暴動、一揆などをさして言います。

 それなのに、なぜ時の政府は日中戦争について「満州事変」とか「支那事変」という言葉を使って、「戦争」という言葉を使わなかったのでしょうか。その理由は、「事変」のもう一つの使い方である、相手に対して宣戦布告をしない戦争という意味で、「事変」と言っているのです。「満州事変」でも、「支那事変」でも宣戦布告が出されていません。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争では、天皇による宣戦の詔書があります。彼らの言う「事変」と「戦争」の違いはここにあるのです。

 実際には、1937年7月7日に盧溝橋で始まった日中戦争は、どんな歴史書を見ても、「支那事変」とは書かれていません。はっきりと日中戦争と書かれています。日本だけではなく、世界中の常識です。それなのに、日本は「コトが起きたんだ。暴動だ」と、戦争ではなく事変だと当時の国民を欺いてきたのです。(先月にも、アフリカを訪問していた森首相が「支那事変」という言葉を使っていました)

<大東亜共栄圏>
 そして、1941年に、太平洋戦争が始まるのですが、時の政府は国民に対して、太平洋戦争という言葉を使用させず、大東亜戦争と呼ばせていました。その裏には、「大東亜共栄圏」の構想があったからです。政府は中国や東南アジアへの侵略戦争を正当化するために、柳条湖事件でわがものにした「満州国」、中国、仏印、タイ、ビルマ、フィリピン、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなどをまとめて、ひとつの仲よしの平和な世界を作り上げようという大義名分を掲げて、大東亜共栄圏という言葉を使ったのです。

 この時の内閣は第2次近衛内閣で、1940年7月の閣議で、大東亜共栄圏を打ち出した「基本国策要綱」を決め、侵略戦争に深々と入っていきました。

<聖戦>
 大東亜聖戦大碑には、「聖戦」と書かれていますが、本当は征服の「征」でしょう。戦争をしかけ、攻めていくことが「征戦」なのですが、それをわざわざ、「聖」という字に置き換えまして、「正義の戦い」であるかのように強調しました。

 「聖王」「聖代」「聖世」という言葉があります。「聖王」とはすぐれた天子、皇帝を意味します。「聖代」「聖世」とはすぐれた天子の御代という意味です。そのすぐれた天皇が行なう戦争だから「聖戦」と言い、そのための軍隊を「皇軍」と言い、当時の国民が正義の戦争をしていたかのようにマインドコントロールしていたのです。

<おほみいくさ>
 また碑には、「大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり」という詩がが書かれています。「おほみ」という言葉は奈良朝や平安朝の古い時代から使われていて、神様とか天皇とかを特別に尊敬して言う時の接頭語です。漢字では「大御」と書きます。その後に「軍」がつけば、「大御軍(おほみいくさ)」となり、「天皇が行なう戦争」という意味です。天皇の威徳は「大御陵威(おほみいつ)」、天皇が作った歌は「大御歌(おほみうた)」、天皇が食べる食事を「大御食(おほみけ)」と言うなど、天皇の行為を表現する接頭語には、だいたい「大御」がつきます。

<八紘為宇>
 さらに、碑の裏面には、「八紘為宇」と大きく書かれています。日本書紀の神武紀の「掩八紘而為宇(八紘を掩いて宇<いえ>と為す)」が語源です。それは中国の道教の影響を受けている言葉で、日本書紀が作られた奈良時代までに輸入されたものです。当時の歴史資料と言われるものに古事記と日本書紀があります。古事記は表音仮名まじりのものですが、日本書紀に地の文は、何処へ行っても通用する漢文で書かれています。

 「八紘」と「八荒」は同義語で、遠い地の果て、世界の隅々、国の隅々、在所の隅々ということです。天地、八方の隅々ということです。時代によって、「八紘」の範囲は具休的には違ってきます。古代では都を離れた辺境をさしますが、東北地方、北海道などはまだ含まれません。
 「八紘一宇」という標語が使われたのは1940年からで、「満州国」、中国、東南アジアなどを含めて、「八紘」と考えて、「一宇(ひとつの家)」=共栄圏にしていこうということです。一つの家をめざした時、古い言葉ですが『戸主』は誰なのか言うまでもありません。

 この言葉は昔から存在し、例えば松尾芭蕉は『奥の細道』で、「恩択八荒にあふれ四民安堵の栖<すみか>穏やかなり…」と書いています。「日光東照宮のお恵みが在所の隅々にいきわたり、穏やかで、平和なところだな…」という意味でしょう。八紘(八荒)という言葉自休は悪い言葉ではないのですが、それを昭和の軍閥が、大東亜共栄圏を作るための「正義の戦争」だと国民をだますために使ったということです。

<真に悼むには>
 太平洋戦争を記念するために作られた碑に「大東亜聖戦大碑」「八紘為宇」と刻銘した人たちは、同じ年ごろの友人・戦友が234万人も死んだことについて、きちんと哀悼の意を表せないということがあるのではないでしょうか。

 間違った政治で始まった戦争で、友人が、アジアや太平洋で死んでいったという事実をはっきりさせることによって、生き残った者として、本当に友人の死を悼むことになるのではないかと思っています。
(2001年2月1日の会合での発言に一部加筆)

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