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201801010幕末期の赤松小三郎「憲法構想」について

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幕末期の赤松小三郎「憲法構想」について

 安倍政権は明治を美化し、150年の節目として、さまざまな企画を立てているが、はたして明治はそんなに美しい時代だったのか。幕末期の開明的な憲法案を押し潰して明治維新(王政復古)が強行され、その20年後に明治憲法体制を確立し、1945年まで圧政と侵略戦争の時代を導いたのだ。明治維新直前に暗殺された赤松小三郎とその憲法構想についてレポートする。

参考文献:『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基2016年)、『明治前期の憲法構想』(江村栄一他1987年)、『憲法構想』(日本近代思想体系1989年)、『赤松小三郎』(ウィキペデイア)、『明治の憲法』(江村栄一1992年)など

(1)赤松小三郎の略歴(ウィキペディア)
 1831年に信濃国・上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれ、1848年以降、内田弥太郎(数学者)、下曽根信敦(西洋兵学者)に学び、1855年勝海舟に入門し、長崎海軍伝習所でオランダ語、航海、測量、騎兵学などを学んだ。咸臨丸への乗船を希望したが、選ばれなかった。1858年、オランダの兵書『矢ごろのかね 小銃彀率』を翻訳し出版した。

 1860年上田に戻り、1862年調練調方御用掛、1863年砲術道具製作御掛となる。1864年第一次長州征伐で江戸へ。イギリス騎兵士官・アプリン大尉から騎兵術、英語を学ぶ。1865年第二次長州征伐で大阪へ。

 1866年『英国歩兵練法』を翻訳、出版。8月「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申上候口上書」を幕府に提出。藩主の松平忠礼に藩内の身分制度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出。薩摩藩から英国兵学の教官としてスカウトされ、京都の薩摩藩邸で開塾する。

 1867年薩摩藩の依頼により『英国歩兵練法』を改訂し、新訳で出版。前福井藩主・松平春嶽に「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。島津久光と幕府にも同じ口上書を提出。9月3日、上田藩に帰国の途上暗殺される。

(2)口上書の内容
 1867年5月17日には前福井藩主・松平春嶽、薩摩藩・島津久光に建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出した。読み下し文は上田市HP、現代語訳文は上田市HP、関良基訳を参考にした。口上書は9項に分かれており、ここでは第1項に重点を置いて、赤松小三郎の憲法構想を紹介する。

①二院政議会
 読み下し文「議政局を立て、上下二局に分ち、其の下局は国の大小に応じて、諸国より数人づつ、道理の明らかなる人を、自国及び隣国人の入札(いれふだ)にて撰抽し、凡そ百三十人に命じ」「上局は堂上方・諸候・御旗本の内にて入札を以って人撰し、凡そ三十人に命じ」、「両局人撰の法は、門閥貴賎に拘らず、道理を明弁し、私なく且つ人望の帰する人を公平に撰むべし」

 赤松は定数130人の下局と定数30人の上局からなる二院制の議会(「議政局」)政治を提唱している。下局は「衆議院」に相当し、上局は、「貴族院」に相当する。

 両局の議員は、門閥や貴賤にかかわらず、道理を明らかに論じ、私欲がなく、人望のある人物を公平に選ぶこと。選挙方法については、下局は国ごとの選挙によって数人ずつ、合計130人の議員を選出するとし、普通選挙を提唱している。

 上局も、公卿、諸侯、旗本のなかからではあるが、やはり選挙で30人を選出するとした。

②議会の権限
 読み下し文「国事は総て此の両局にて決議の上、天朝へ建白し、御許容の上、天朝より国中に命じ、もし御許容なき条は、議政局にて再議し、いよいよ公平の説に帰すれば、此の令は是非とも下さざるを得ざることを天朝へ建白して、直ちに議政局より国中に布告すべし」

 両局で全ての国事を議論し、決議の上で、天朝(内閣=天皇+6人の大臣)に建白し、天朝(内閣)から国中に布告する。布告は天皇ではなく、「天朝(内閣)」がおこなうことと明記している。

 さらに、もし天朝(天皇と内閣)が反対した場合には、その法令を議政局に持ち帰って再度議論し、公正な内容にして、その法令施行の必要性を「天朝(内閣)」に報告し、ただちに議政局から国中に布告すると、議会を国権の最高機関と位置付けている。

 議会の決議事項にたいしては、「天朝(天皇と内閣)」に拒否権はなく、ここが赤松小三郎の口上書の白眉である。この点では明治憲法を超え、戦後日本国憲法に近い議会システムを考えている。

 ここで確認しておきたいことは、この口上書中には「天子」(2回)と「天朝」(6回)を区別して使っており、天子=天皇、天朝=朝廷=天皇+内閣であり、決して天朝=天皇ではない。上田市HPの現代語訳文では意図的に「天朝=天皇」と訳している部分があり、いたずらに混乱させ、天皇の権限を強めている。

③「朝廷」(内閣)の構成
 読み下し文「第一天朝に…六人を侍せしめ、一人は大閣老にて国政を司り、一人は銭貨出納を司り、一人は外国交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相として。其れ以下の諸官吏も、皆門閥を論ぜず人撰して、天子を補佐し奉り、是れを国中の政事を司り、且つ命令を出す朝廷と定め」

 「朝廷」は天皇+6人の閣僚で構成され、閣僚は議会が選任するとしている。すなわち、閣僚は天皇によって任命されるのではなく、人民から選任されるものとしている。諸官吏(官僚)も上からの任命ではなく、人選(選任)することで、出来るかぎり民意を反映しようとしている。陸海軍を統括する軍務大臣も、議会の下位に置かれ、議会によって統制されることになる。明治憲法下では、軍は天皇の統帥権下にあり、議会に超然として存在しており、軍の暴走を喰い止めるシステムはない。

 しかも、「朝廷」で決定した命令は、天子(天皇)ではなく、「朝廷」が出すことになっており、天皇の権限肥大化を防止しようという意志が現れている。

④第1項のまとめ
 以上、第1項をまとめていえば、①上局と下局の二院制議会である。②上局も下局も公正に選挙で選任される。③議会の権限は朝廷(天皇+内閣)の上位にある。④天皇には拒否権はないく、天皇の権限肥大化の防止策が講じられている。⑤下級官吏(官僚)も選挙で選ばれ、民意の反映を促進している。

 このように、1867年(明治維新前年)の赤松小三郎「口上書」は、20年後の1889年公布の明治憲法よりもはるかに開明的内容を備えており、明治維新は赤松小三郎らの意志を裏切るような形で推進されたということが出来る。

⑤第2項以下について
 第2項以下では、主要都市に大学校、小学校を設置し、全国民への教育機会を提供すること。法律学、度量学を盛んにし、各種学校を順次増やし、国中の人民を文明人として教育すること。すべての人民を平等に扱い個性を尊重すること。農民に対する重税を軽減し、他の職種にも公平に課税すること。これまでの金貨・銀貨を改めて、日本中で通用するお金を流通させる。世界で通用する金貨、銀貨、銅貨を鋳造し、貿易の便を図ること。

 必要最小限の兵力(陸軍約28000人、海軍約3000人)を備え、軍人は庶民からも養成し、士族の割合を徐々に減らしていくこと。戦時には国中の男女を民兵として組織すること。西洋から戦艦、大砲、小銃を購入し、顧問を雇って、軍事力を強化すること。肉食を奨励し日本人の体格を改善すること。家畜も品種改良することなど、こまごまと「口上書」に書かれている。

(3)船中八策との比較
 作家の知野文哉は坂本龍馬の船中八策(1867.6)はフィクションであると指摘しているが、「船中八策」を要約すると、①大政奉還、②上下両院の設置による議会政治、③有能な人材の政治への登用、④不平等条約の改定、⑤憲法制定、⑥海軍力の増強、⑦御親兵の設置、⑧金銀の交換レートの変更、である。

 議会開設に関する坂本龍馬の提言では、「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」としか書かれておらず、ほぼ同時期(1867.5)に出された赤松小三郎の「口上書」の方がはるかに内容が具体的で、開明的である。

(4)なぜ敗北(暗殺)したのか
 赤松小三郎は1867年5月に、「口上書(憲法構想)」を書き上げて、方々に送ったが、上田藩から再三の帰国を命じられ、帰国を余儀なくされたが、帰国直前の9月、京都・東洞院通りで薩摩藩士の中村半次郎らに暗殺された。

 赤松小三郎はなぜ「憲法構想」を実現出来なかったのか。それは赤松小三郎は論客(インテリゲンチャ)ではあったが、革命家ではなかったからだろう。旧体制(幕藩体制)を打倒し、新たな体制(「憲法構想」)を実現するための組織論に欠けていたと考えられる。

 マルクスは自らの哲学を実践するために共産主義者同盟を組織した。レーニンはボリシェビキ(赤軍)を組織し、毛沢東は中国共産党(紅軍)を組織し、カストロはモンカディスタ(7・26運動)を組織し、旧体制を打倒したのである。

 私たちが学ぶべき点はここにあるのではないだろうか。明治憲法に「口上書(憲法構想)」を対置してことたれりとするのではなく、赤松小三郎の敗北(暗殺)から学び、革命的な理論とそれを実現するための党建設こそが今日的課題である。

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