尹奉吉処刑地調査から9年が過ぎた。処刑地調査報告は本文と資料・写真・地図を分離して報告したが、今回は資料・写真・地図を本文中に埋め込んで、レポートを作成した。その後、書き変えねばならない新情報もないので、2010年12月の報告内容はそのままである。2018年10月14日
「尹奉吉義士処刑地の調査報告」再掲 (尹奉吉義士処刑地調査チーム 2010年12月)
(一)調査の経過
1946年3月に尹奉吉義士の遺体が発掘されて以降、処刑場所についてそれほど関心が持たれてこなかった。「ユンボンギルと天長節事件始末記」「はらから通信」では、三小牛作業場内の医王山を遠望する「東南高台」が処刑場とされてきたが、その根拠は1932年12月20日の「北国新聞」に掲載された「処刑場の写真」と1946年3月の発掘直後に遺体捜索隊が写した記念写真である。
尹奉吉義士処刑に関するさまざまな「軍報告文書」のなかに、処刑場所に関する報告、要図、写真があり、遅くとも1932年8月頃から、第九師団(金沢)で尹奉吉義士を処刑するための準備を進め、三小牛陸軍工兵作業場内の「西北谷間」の「金澤・小原間の山中道路の東方」が「交通希薄」「公衆に危険なく」「東方の断崖は高さ約七米ありて、射垜(シャダ)に通適する」として、「刑場に適当なる場所」が指定された。
2008年春、韓国のSBS放送が尹奉吉の処刑地調査をおこなった。私たちはこの放送番組を見ることが出来ないまま、今春(2010年)4月から処刑場所に関する「文書」「要図」「写真」を検討し、地図を収集し、地元住民の協力を得て、「西北谷間」の現地調査をおこなった。
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(二)「西北谷間」の検討
「死刑執行始末書(検察秘録)」「尹奉吉死刑執行顛末ノ件報告(九師密20)」「上海爆弾犯尹奉吉死刑執行竝ニ憲兵ノ警戒ニ関スル報告(憲高秘1820)」「上海爆弾犯人死刑囚尹奉吉死刑執行ニ関スル件報告通牒(金憲高秘522)」等によれば、処刑場所を三小牛陸軍工兵作業場の「西北谷間」「東方に七米突の断崖」「金沢・小原間の山中道路の東方」とし、「要図」2枚と写真3枚が添付されている。
これらの資料を原資料として、1956年等高線地図、1962年航空写真、2002年地図を検証し、現地調査をおこなった。
①1956年地図の検討
三小牛山周辺地図は1889年の等高線地図から現在のものまで、数十種類あるが、1932年当時の地形に最も近くて、わかりやすい地図は1956年の等高線地図(3000分の1)、1962年の航空写真(10000分の1)である。
現在の「西北谷間」は、1975年の農地整備によって、山を削り、谷を埋め、北部分は標高100m、南部分は140mほどに平準化され、なだらかな畑作地になり、北から南に向かって、雀谷川に沿って、上り坂の道が一直線に走っている(2002年地図)。
1956年の等高線地図を見ると、西側(野田山墓地側)に雀谷川、東側には中尾山川が南北に流れ、長坂用水に合流している。雀谷川と中尾山川の間に2本の道路が並行して通っている。南北 に走る道路の1本(西側)は斜面にあり、もう1本の道路(東側)はほぼ尾根上にある。当時の「西北谷間」は雀谷川と中尾山川を含む谷間全体と考えられる。
②「要図」と1956年地図の比較検討
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報告書に添付された「要図2」にも、西側から雀谷川(陸軍浄水池)、南北2本の道路、中尾山川が描かれていて、1956年地図と完全に一致する。
「要図1」に描かれた処刑場所(点線四角内)は尾根上の道路の東側で、中尾山川を跨ぐところにあり、1956年地図上では縦に「大桑町」と書かれている「桑」の字周辺に該当する。
③「全景写真」との比較検討
報告書に添付された3枚の写真を見ると、処刑場周辺の植生は雑草地(笹藪)である。ところどころに腕ぐらいの太さの灌木が生えているが、まばらであり、林と言えるほどの植生ではない。
1962年航空写真を見ると、中尾山川の下流部分(北)は生い繁る林で覆われているが、上流(南)は灰白色に写っており、背の低い雑草地(笹藪)が広がっている。1956年の地図には中尾山川の周辺は広葉樹、針葉樹、雑草地の記号が記されている。
したがって、写真、要図、1956年地図、1962年航空写真を検討すると、処刑地は1956年地図の中尾山川に沿って、「大桑町」の「桑」の字あたりで、1962年航空写真では灰白色に写っているあたりと推認できる。
④1956年地図と2002年地図との比較検討
2002年地図を見ると、「滑走路(1956年建設)」、「基本射撃場(1974年建設)」とその後に建設された「警備道路」によって、中尾山川の上流部分が埋め立てられ、1956年地図上の「大桑町」の「桑」の字の南側の地形がかなり変形している。
2002年地図上の中尾山川と「警備道路」の交差点が、1956年等高線地図上の「桑」の字あたりで、1962年航空写真の灰白色部分にあたる。
⑤「全景写真」と「要図1」との比較検討
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カメラは尹奉吉義士や警備の憲兵よりも高い位置にあり、見下ろすように写している。カメラよりも低い位置に憲兵や射撃手の位置があり、さらにくぼみ(中尾山川)を挟んで尹奉吉義士が座らされている。尹奉吉義士の後方(東方)は数メートルの崖となっている。周辺は笹藪のような雑草地である。写真には尹奉吉義士から15~20メートルほど南側を東に向かって上り坂で、車が通れる程度の道が写っている。
「要図1」には、南北の細い道路(点線)上に、射撃手が配置され、尹奉吉義士の南側を東西の道(点線)が描かれている。「要図1」の東西の道(点線)と「全景写真」右側(南側)にある「上り坂の道路」は一致する。
1956年の地図にも、この中尾山川上流部分に「上り坂の道路」の一部と思われる東西の点線が描かれており、1962年航空写真の灰白色のところにも、道らしい白い筋を幾筋も認めることができる。
⑥現地調査
2010年の春から11月下旬にかけて、くりかえし地元住民とともに、三小牛演習場(西北谷間)を視察した。
「警備道路」は中尾山川が流れる谷(幅10メートル)に土管を埋設し、土盛りをして作られていた(写真)。中尾山川との交差点から南方(上流)を見ると、「基本射撃場」建設によって、谷(源流)が埋められている。谷の東西両側は数メートルの高さの崖になっている。
中尾山川と「警備道路」の交差点から北方(下流)を見ると、深い谷になっている。この谷に降りてみると、細い流れ(中尾山川の源流)が南から北に向かって流れ、土砂流出防止の土留めが設置されている。土留めの東側は数メートルの崖になっている。
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(三)結論
以上の調査・検討結果を総合すると、尹奉吉義士は尾根上の道路の東側を流れる中尾山川と「警備道路」の交差点あたりで、東側の崖を射垜(シャダ:弓を射るとき、的の背後に土を山形に築いたところ)にして処刑されたと推定される。
「警備道路」の南側の谷幅は十メートル程しかなく、「要図」の条件を満たせず、北側の谷幅は20メートル以上あり、「要図」の条件を十分に満たしている。
SBS調査チームは処刑地を[北緯36度31分31秒 東経136度40分17秒]と発表しており、私たちもほぼ同位置の結論を得たが、あくまでも推定地であり、本格的な再調査によって更に精度が高められることを期待する。
(2016年撮影)
「尹奉吉義士処刑地の調査報告」再掲 (尹奉吉義士処刑地調査チーム 2010年12月)
(一)調査の経過
1946年3月に尹奉吉義士の遺体が発掘されて以降、処刑場所についてそれほど関心が持たれてこなかった。「ユンボンギルと天長節事件始末記」「はらから通信」では、三小牛作業場内の医王山を遠望する「東南高台」が処刑場とされてきたが、その根拠は1932年12月20日の「北国新聞」に掲載された「処刑場の写真」と1946年3月の発掘直後に遺体捜索隊が写した記念写真である。
尹奉吉義士処刑に関するさまざまな「軍報告文書」のなかに、処刑場所に関する報告、要図、写真があり、遅くとも1932年8月頃から、第九師団(金沢)で尹奉吉義士を処刑するための準備を進め、三小牛陸軍工兵作業場内の「西北谷間」の「金澤・小原間の山中道路の東方」が「交通希薄」「公衆に危険なく」「東方の断崖は高さ約七米ありて、射垜(シャダ)に通適する」として、「刑場に適当なる場所」が指定された。
2008年春、韓国のSBS放送が尹奉吉の処刑地調査をおこなった。私たちはこの放送番組を見ることが出来ないまま、今春(2010年)4月から処刑場所に関する「文書」「要図」「写真」を検討し、地図を収集し、地元住民の協力を得て、「西北谷間」の現地調査をおこなった。



(二)「西北谷間」の検討
「死刑執行始末書(検察秘録)」「尹奉吉死刑執行顛末ノ件報告(九師密20)」「上海爆弾犯尹奉吉死刑執行竝ニ憲兵ノ警戒ニ関スル報告(憲高秘1820)」「上海爆弾犯人死刑囚尹奉吉死刑執行ニ関スル件報告通牒(金憲高秘522)」等によれば、処刑場所を三小牛陸軍工兵作業場の「西北谷間」「東方に七米突の断崖」「金沢・小原間の山中道路の東方」とし、「要図」2枚と写真3枚が添付されている。
これらの資料を原資料として、1956年等高線地図、1962年航空写真、2002年地図を検証し、現地調査をおこなった。
①1956年地図の検討
三小牛山周辺地図は1889年の等高線地図から現在のものまで、数十種類あるが、1932年当時の地形に最も近くて、わかりやすい地図は1956年の等高線地図(3000分の1)、1962年の航空写真(10000分の1)である。
現在の「西北谷間」は、1975年の農地整備によって、山を削り、谷を埋め、北部分は標高100m、南部分は140mほどに平準化され、なだらかな畑作地になり、北から南に向かって、雀谷川に沿って、上り坂の道が一直線に走っている(2002年地図)。
1956年の等高線地図を見ると、西側(野田山墓地側)に雀谷川、東側には中尾山川が南北に流れ、長坂用水に合流している。雀谷川と中尾山川の間に2本の道路が並行して通っている。南北 に走る道路の1本(西側)は斜面にあり、もう1本の道路(東側)はほぼ尾根上にある。当時の「西北谷間」は雀谷川と中尾山川を含む谷間全体と考えられる。
②「要図」と1956年地図の比較検討





報告書に添付された「要図2」にも、西側から雀谷川(陸軍浄水池)、南北2本の道路、中尾山川が描かれていて、1956年地図と完全に一致する。
「要図1」に描かれた処刑場所(点線四角内)は尾根上の道路の東側で、中尾山川を跨ぐところにあり、1956年地図上では縦に「大桑町」と書かれている「桑」の字周辺に該当する。
③「全景写真」との比較検討
報告書に添付された3枚の写真を見ると、処刑場周辺の植生は雑草地(笹藪)である。ところどころに腕ぐらいの太さの灌木が生えているが、まばらであり、林と言えるほどの植生ではない。
1962年航空写真を見ると、中尾山川の下流部分(北)は生い繁る林で覆われているが、上流(南)は灰白色に写っており、背の低い雑草地(笹藪)が広がっている。1956年の地図には中尾山川の周辺は広葉樹、針葉樹、雑草地の記号が記されている。
したがって、写真、要図、1956年地図、1962年航空写真を検討すると、処刑地は1956年地図の中尾山川に沿って、「大桑町」の「桑」の字あたりで、1962年航空写真では灰白色に写っているあたりと推認できる。
④1956年地図と2002年地図との比較検討
2002年地図を見ると、「滑走路(1956年建設)」、「基本射撃場(1974年建設)」とその後に建設された「警備道路」によって、中尾山川の上流部分が埋め立てられ、1956年地図上の「大桑町」の「桑」の字の南側の地形がかなり変形している。
2002年地図上の中尾山川と「警備道路」の交差点が、1956年等高線地図上の「桑」の字あたりで、1962年航空写真の灰白色部分にあたる。
⑤「全景写真」と「要図1」との比較検討


カメラは尹奉吉義士や警備の憲兵よりも高い位置にあり、見下ろすように写している。カメラよりも低い位置に憲兵や射撃手の位置があり、さらにくぼみ(中尾山川)を挟んで尹奉吉義士が座らされている。尹奉吉義士の後方(東方)は数メートルの崖となっている。周辺は笹藪のような雑草地である。写真には尹奉吉義士から15~20メートルほど南側を東に向かって上り坂で、車が通れる程度の道が写っている。
「要図1」には、南北の細い道路(点線)上に、射撃手が配置され、尹奉吉義士の南側を東西の道(点線)が描かれている。「要図1」の東西の道(点線)と「全景写真」右側(南側)にある「上り坂の道路」は一致する。
1956年の地図にも、この中尾山川上流部分に「上り坂の道路」の一部と思われる東西の点線が描かれており、1962年航空写真の灰白色のところにも、道らしい白い筋を幾筋も認めることができる。
⑥現地調査
2010年の春から11月下旬にかけて、くりかえし地元住民とともに、三小牛演習場(西北谷間)を視察した。
「警備道路」は中尾山川が流れる谷(幅10メートル)に土管を埋設し、土盛りをして作られていた(写真)。中尾山川との交差点から南方(上流)を見ると、「基本射撃場」建設によって、谷(源流)が埋められている。谷の東西両側は数メートルの高さの崖になっている。
中尾山川と「警備道路」の交差点から北方(下流)を見ると、深い谷になっている。この谷に降りてみると、細い流れ(中尾山川の源流)が南から北に向かって流れ、土砂流出防止の土留めが設置されている。土留めの東側は数メートルの崖になっている。



(三)結論
以上の調査・検討結果を総合すると、尹奉吉義士は尾根上の道路の東側を流れる中尾山川と「警備道路」の交差点あたりで、東側の崖を射垜(シャダ:弓を射るとき、的の背後に土を山形に築いたところ)にして処刑されたと推定される。
「警備道路」の南側の谷幅は十メートル程しかなく、「要図」の条件を満たせず、北側の谷幅は20メートル以上あり、「要図」の条件を十分に満たしている。
SBS調査チームは処刑地を[北緯36度31分31秒 東経136度40分17秒]と発表しており、私たちもほぼ同位置の結論を得たが、あくまでも推定地であり、本格的な再調査によって更に精度が高められることを期待する。
