島田清次郎—ブルジョア人道主義への後退か?
昨年12月29日に、島田清次郎は社会主義か、国家社会主義かについてレポートした。
島清は1920年の『二つの道』では社会主義か、国家社会主義かで揺れ動いていたが、1921年の『地上』第3部では、多少様子が変わってきたことが窺われる。その前後の情景を引用しよう。
豊之助は
<プロレタリアットと資本家、―その差違も激しいが、白色対有色の人種戦も亦、わたし共は時代の風潮以外に立脚地を求めて考へてみなくてはならない…どうもいつたいあなたは、国家や民族の差違をあまり重大視してゐないらしいのが、理解できない。…私は階級的差別を高調すると同時に、もっと地理的環境や人種的差別を重んぜずにゐられない>、
<私達は被征服階級であり、社会の下積みとなってゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不十分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送ってゐなくてはならない人間であることも事実である。…したがって私は昔から社会主義者であると共に国家主義者でした>、
<私達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じやうに私達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する>
<ダーウィンの進化論以降に於て。更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、…削除(資本家に)…同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以降に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももっとひどい誤謬であり、こっけいである>
と、主張した。
これにたいして、大河平一郎(島清)は
<貧乏と疾病と犯罪とを地上より全滅するために、…(削除)…われわれは最後迄も彼等(注:資本家)を憐れみ彼等が自ら覚醒し、内面的理解の下に、…(削除)…私共から見れば、彼等は憐憫に値する奴等ではないでせうか>
と、答えている。
さらに、浅野の寺で「自由人大集会」が開かれ、そこでのやりとりを見ておこう。
参加者から
<一切の言説の時代は過ぎ去ってゐるのである。自分がかうして議論してゐる間にも、機械は運転し、人々は身を粉にして働き食ふものがなくて疲れはてて死ぬものは死に、病気しても薬は与へられず、貧しい処女はいたる所で蹂躙されてゐるのである。ああ、この長い長い幾千年来の人類の苦悩を体感するとき、私は憤怒と憎悪に燃え立たずにゐられないものであります>
という主張にたいして、
深井は
<この不合理な社会を合理的なものとするのに、その道が革命より他にないとは同じやうに信じられないものです。…革命といふやうな、力と力の対峙によっての戦ひとその勝利よりも、更には大なる外部的制約や制度の破壊よりも、私はむしろ、私共自身が新しい生活に生まれ出ることが必要であると思はれます。私はこの意味で、資本家の方々の真心、全民衆の真心、更には全人類の真心を信ずるものであります>
と答えている。
深井の発言を聞いて、大河平一郎は
<彼(深井)の言葉を主張や思想としてよりも、彼それ自身の一つの詩(ポエム)としてうっとりとその美に魅せられてゐた>
と、同意を与えている。
この二つのやりとりから見て、1921年時点での島清の心情は、資本家の覚醒に期待しているようで、ブルジョア的人道主義への転換を開始していたのではないだろうか。