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20191027 『ナチ・コネクション』を読む

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『ナチ・コネクション』を読む

 1993年、ドイツの歴史学者シュテファン・キュールは『ナチ・コネクション』(ナチとの関係という意味か)を公刊した。1999年に麻生九美さんが飜訳し、明石書店から発行された。

 私自身は、例に漏れず、大戦間のドイツとアメリカの関係をファシズム対民主主義、せいぜいで帝国主義国家間の対立程度にしか認識していなかったが、訳者の麻生九美さんの「あとがき」を読んで、「今まで明らかにされていなかったドイツとアメリカ合衆国の優生学史実の欠落部分を埋める」、「ドイツの人種衛生学者とアメリカの優生学者は親密な関係にあり、アメリカはナチスの人種政策のモデルとしての役割を果たした」(187)という解説に注目した。

 この間旧優生保護法による強制不妊(断種)手術と優生学について学んできた延長線上で、相当に難しそうな本書を石川県立図書館から借り出し、読むことにした。章を追いながら、重要そうな部分を抜き書きして、自分自身の理解に資したいと思う。 (2019年10月)

 注:( )内の数字は本書のページ数。
 注:ナチ=国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

1 「新しい」科学的人種主義
 第1章は、現代アメリカの優生思想状況を概説している。

 アメリカでは、1980年代以降の現代においても優生思想を拡散している(022)。下記に引用したように、100年前のイギリスの人類学者フランシス・ゴルトン(1822~1911)とさほどの違いはない。優生学・思想は今も「健在」なのである。そしてこのような学者を財政的に支えているのが「パイオニア財団」(アメリカ)である。

 1980年代末に、フィリープ・ラシュトン(大学教授)は「白人とアジア人は黒人よりも知的で、家族志向が強い」、ロバート・ゴードン(社会学教授)は「アメリカの黒人の犯罪率が高いのは、相対的に黒人の智能レベルが低いことに関係がある」、1991年には、ロジャー・ピアソン(人類学者)は、遺伝的に劣った人種によって白人は危険にさらされていると主張している(022)。

2 1932年以前の国際優生学運動におけるドイツとアメリカの関係
 第2章は、1932年以前のドイツとアメリカの優生学について詳述している。

 1912年のロンドンで開催された第1回国際優生学会では、「不適切」な人々の生殖を阻止する方法と、「適切」な人々の生殖を奨励する方法について議論した(039)。アメリカでは1899年にインディアナ州で、最初の断種がおこなわれたあと、カリフォルニア州、コネティカット州、ニューヨーク州、カンザス州、ノースダコタ州、オレゴン州で断種法が可決された(043)。

 ドイツの優生学研究を資金的に支えたのはアメリカのロックフェラー財団だった(048)。人類遺伝学者オトマール・F・フェアシュアーはくり返しロックフェラー財団を訪問し、財政支援を要請していた。ドイツでは左翼までが優生思想を支持していた(052)。

 アメリカでは、断種法は「劣等な人々の再生産を阻止するには最も簡単な方法」であるとして、1907~1920年(13年間)の断種手術は3233人、1921~1924年(4年間)に2689人。1930年以前の断種は年間平均で200~600件だったが、1930年代になると、年間2000~4000件と一気にはね上がった(054)。ハリー・H・ローリンは「合衆国の安寧のために断種が必要であることはすでに証明された」と主張している(055)。

3 国際的な背景―国際優生学運動を通じて支持されたナチの人種政策
 第3章では、1933年以後のドイツでの優生学運動について書かれている。

 1933年には精神的・肉体的に健康な非ユダヤ人のカップルに助成金を提供する「結婚貸付金助成法」、「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律」、犯罪者の断種と去勢を認める「危険な常習的犯罪者撲滅法」、「ドイツ農民新形成に関する法律」、遺伝的に価値ある農民に助成金を支給するための「帝国世襲農場法」、1934年に「健康管理統一法」が成立し、…さまざまな優生学的措置は実行に移されるようになった(062,063)。

 1934年夏、チューリッヒで開催された「国際優生学協会連盟」の会議で、ドイツの「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律(1933年断種法)」が国際的に支持された(060)。1935年に可決された「遺伝保護法」は「健全な」者と精神遅滞者との結婚を禁じた(065)。

 1935年にベルリンで開催された「国際人口科学学会」では、126の研究発表のうち、59をドイツ人学者がおこなった(067)。会議に批判的な科学者は数人しかいなかった。クラレンス・G・キャンベル(アメリカ優生学運動の特別代表)は「世界を人種的に退化させないために、人口の10%を断種する必要がある」と主張した(072)。

4 弟子からモデルへ―ドイツと合衆国の断種
 第4章は、アメリカこそがナチスの人種政策のモデルであったことを明らかにしている。

 ドイツの「断種法」(1933年)は、アメリカの「パイオニア財団」のハリー・ローリンが考案した「優生学的断種のモデル法」(1922年)に習って立案された(078)。

 アメリカの最高裁判所は「退化した子孫が犯罪を犯してから死刑にしたり、愚かさ故に飢えるに任せるのではなく、明らかに不適切な者たちが子孫を残し続けることを社会が防止出来るのならば、その方が社会全体にとってよりよいことである」(077)と主張し、ヒトラーは「今やわれわれは遺伝の法則を知っているのだから、不健康で重度の障害をもった者たちがこの世に生まれてくるのを相当程度まで防ぐことができる」(076)と述べているが、両者の主張はウリ二つである。

 1930年代を通じて、「人間改良財団」(カリフォルニア)と「アメリカ優生学協会カリフォルニア支部」は、ナチ・ドイツにとって常に重要な情報源だった(087)。1934年、「ニューヨーク州初等学校長協会」は「犯罪者と知能の低い階級」の断種を増やすよう呼びかけた(090)。「アメリカ優生学協会」の事務局長レオン・ホイットニーもヒトラーの人種政策を支持し、ヒトラーの断種政策は総統の偉大な勇気と政治家としての手腕の証明であると主張した(091)。

 『優生学ニュース』の編集者ハリー・ローリンはナチの断種プロパガンダをアメリカ大衆に紹介するために尽力し、「ヒトラーを『アメリカ優生学調査協会』の名誉会員にすべきだ」と書いている(094)。

5 ナチ・ドイツを訪問したアメリカの優生学者たち
 第5章は、1933年にナチスが権力を掌握したあとも、アメリカの優生学者・人類学者・心理学者・精神病医・遺伝学者がドイツ訪問を繰り返していたことを記している。

「アメリカ公衆衛生協会」事務局長ウィリアム・W・ピーター(106)、人種政策研究者のマリー・コップ女史(108~)、「優生学調査協会」のクラレンス・キャンベル(110)と会長のチャールズ・ゲーテ(110~)、優生学運動のマリオン・S・ノートン(113)、優生学者T・U・H・エリンジャー(113~)、優生学者ロースロップ・ストダード(117)などである。

 ドイツの新聞はアメリカの学者のドイツ訪問を熱烈に報道し、ナチの優生政策の優位性を国民に誇っていた(104)。
 コップ女史は、ドイツの人種的措置は「国家の健康をむしばむ諸条件を是正するためには緊急不可避である」と主張している(108)。エリンジャーは『遺伝ジャーナル』誌上で、「ドイツからユダヤ人という人種の遺伝的特性を排除することを目的とした大規模な繁殖計画」(114)であると説明し、アウシュビッツにガス室が設置された1942年には、「(この冷酷な行為が)遂行されたらユダヤ人問題は一世代で解決するだろう。しかし、不運な者を完全に殺害するには、遥かに慈悲深い方法ではなかったろうか」(115)と述べている。

 このように、1930年代のアメリカの優生学者はナチスと寸分違わない考えに陥っていたのである。

6 科学と人種主義―人種概念の相違がナチの人種政策にたいする姿勢に及ぼした影響
 第6章では、アメリカの優生学運動には、主流派、人種人類学者、改革派、左派の4つのグループがあり、それぞれについて説明している。

 「主流派の優生学者」は、白人のなかの「退化」分子を排除することを好み、異種交配は予防すべきだと主張した。「改革派の優生学者」は、民族的基盤よりも個人淘汰を支持することによって、ナチスとの関係を断とうとした(132)。しかし、最近では、どちらのグループの優生学者も本質的には人種主義者だったことを認めている。ふたつのグループの境界線はきわめて流動的で、最終的な結論はしばしば同じだったからである(132)。

 主流派の優生学者の大半は反ユダヤ主義者であり(134)、人種人類学者は、「人種は本質的に同等ではない」という考えに基づき、北方人種の優越性を確信し、反ユダヤ主義に執着していた(135)。

 改革派の優生学者は、人種人類学者とナチスの露骨な民族的人種主義とは距離をおき(136)、ナチの反ユダヤ主義を批判しながら、同時にナチの優生計画を支持した(138)。左派については次章で扱う。

7 合衆国の優生学を変化させたナチの人種政策
 第7章では、左派の主張を整理している。

 左派の遺伝学者は、黒人とユダヤ人を差別する「科学的根拠」に疑問を抱き、人種間に差異はないと主張していたが、「有能な」個人の生殖を支持し、「劣等な」人々の再生産を予防する事によって、人類という人種全体の改良はなされるべきだと考えていた(140)。

 1939年8月、エディンバラで開催された「第7回国際遺伝学会議」で、左派の優生学者と遺伝学者はナチの人種政策に反対する決議文(「遺伝学者のマニフェスト」)を準備することに成功した。「マニフェスト」は効果的な産児制限と女性解放を求め、経済的・政治的変革の重要性を強調し、民族的少数派にたいする差別を非難した(142)。

8 ナチ・ドイツがアメリカの支持を求めた事と、アメリカの支持が果たした役割
 第8章では、ナチが国際的評価を非常に気にしていたことを述べている。

 1930年代半ば、ナチ政府はアメリカの精神病医フォスター・ケネディとハリー・H・ローリンに名誉博士号を授与した。ケネディは「合衆国安楽死協会」のメンバーとして、精神障がい者の抹殺を支持し、「欠陥を持って生まれた人間の安楽死を合法化すること」は世の中のためであると考えていた(153)。

 2016年に津久井やまゆり園・虐殺事件での植松聖の主張「重度の障がい者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」「重度の障がい者は安楽死させるべき」と合同である。

 1935年6月、ナチスの「人種政策局」は「イングランド、合衆国、そして日本においてさえ、学会はナチズムの人種イデオロギーをきわめて積極的に受け入れ」ていると言及している(159)。ドイツ国民は、ナチの政策にたいする外部からの批判はユダヤ人の陰謀の結果だと見なした(167)。

9 ドイツとアメリカの優生学者の関係の一時的な途絶
 第9章では、第2次世界大戦中からその後の優生学運動について書いている。

 1935年9月、ナチ政府が「ニュルンベルク法(帝国公民法、血統保護法)」と呼ばれる法律を可決したことによって、アメリカ優生学運動は反ユダヤ主義がナチズムの人種イデオロギーの重要な要素だったことを悟った。「帝国公民法」は「ドイツあるいはその同族の血統を持つ者だけが帝国市民たり得る」と規定して、ユダヤ人を排除した。「血統保護法」はユダヤ人とドイツあるいはその同族の血統を持つ市民との結婚を禁止する法律だった。(170)

 1938年11月9日から10日にかけて、ドイツ系ユダヤ人にたいして、組織的大虐殺「帝国水晶の夜」事件がおきた。177のシナゴーグ(教会)、7500のユダヤ人の商店・企業が襲撃され、96人が虐殺された。ユダヤ人は社会生活に参加することを禁じられ、ユダヤの子どもはもはや公立学校に通えなくなった。1939年には、ユダヤ人がアパートメントを借りることが出来る地区を制限し、強制労働を課し、黄色いダヴィデの星の着用を義務付ける布告が出された(170)。

 第2次世界大戦が勃発するまで、ドイツは同じ「白人である北方人種の血統」に属する国家とは戦火を交えたくないと主張していたが、ナチスは人種構成が同じ国に侵略を開始したことによって、ドイツとアメリカの優生学運動の関係は緊張した。合衆国がドイツと日本を敵国として参戦したことによって、ドイツとアメリカの優生学者の関係は完全に切れた。(174)。

 第2次世界大戦中に、数百万人にのぼるユダヤ人やロマ(ジプシー)、そして障がい者が排除されたことによって、ナチスの人種政策にたいする評価は完壁に失墜した。「アメリカ優生学協会」のメンバーは、かつてナチの人種政策を支持したことからわが身を引き離す道を探った。改革派の優生学者はナチの優生学的人種主義を支持した過去を隠蔽し、政治的に極右だったごく少数の、しかも急速に評判を落とした者だけがナチスの政策を支持したのだと主張した(175)。

 改革派以外の優生学者でも、かつてナチス・ドイツを支持したことに良心の呵責を感じた者はさらに少数だった。彼らは1930年代の優生学的措置を手本とすべきだとする見解を捨てず、1970年代の終わりに、「自発的断種協会」で指導的立場にあったマリアン・オールデンと、「アメリカ優生学協会」の事務局長だったレオン・ホイットニーは、自分たちがナチスの人種政策を支持したことを誇らしげに回想している(175)。

 1946年の「ニュルンベルク医師裁判」で、政府主唱の大虐殺に関与したとして告発されたドイツ人の人種衛生学者はほんの数名にすぎなかった。告発された学者たちは「劣等分子」を排除したのはドイツだけではなかったことを立証するために、合衆国の例を持ち出した(176)。

 ミュンヘン近郊のハール州立精神病院院長として数百人におよぶ精神障がい者と身体障がい者を殺害した責任を問われたヘルマン・プファンミュラーは「これらの法律が基盤とした思想は数世紀も前からあった」と反論した(176)。

 ドイツの人種衛生学者の一部は、アメリカの同業者と接触していたことが幸いし、ナチ・ドイツ崩壊後まもなく、彼らは国際的な科学界に復帰した(177)。ナハツハイムは、「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の所長という地位を引き継いだ(177)。フェアシュア―はメンゲレとの通信文をすべて破棄し、ベルリンでメンゲレが助手をつとめていたことも、メンゲレから生物学的医学標本を受けとっていたことも、一切否定し、「ナチズムの人種にたいする狂信ぶりには公然と反対していた」とウソをつき、罪を逃れ、1951年にミュンスター大学の人類遺伝学教授となり、その後すぐ、「ドイツ人類協会」の会長に選任された(179)。

1946年から55年の間に、フリッツ・レンツ、ギュンター・ユスト、ハインリヒ・シャーデは、それぞれ人類遺伝学、人類学、精神医学の教授としてドイツ大学に復職している(179)。

 1949年という早い時期に、精神科医カール・ボンヘッファーは断種計画を復活させようとした。優生学者のハンス・ハルムゼンとハンス・ナハツハイムも、断種法にはナチズムのもとで履行された時とは別個の価値があったと主張した(180)。

 一方、日本では1947年に加藤シヅエ(社会党)らは、障がい者を対象に強制不妊(断種)手術を認める優生保護法案を提出し、1948年全会一致で成立させ、その後1992年までに2万5000人に強制不妊(断種)手術をおこなった。

 「ニュルンベルグ医師法廷」に立たされたナチの人種衛生学者のうちの何人かを、アメリカ軍当局が軍関係の研究のために採用しようとした(177)。日本の731部隊を免罪したのと同じ扱いだった。

10 むすび
 著者キュールの結論は、大虐殺の根柢にあった人種改良のイデオロギーは決してドイツの科学者だけのものではなかったということである。

 アメリカでは、現在も「パイオニア財団」は人種間の遺伝的差異に科学的な研究成果を提供することに関わり、ナチの措置に科学的根拠を与えた初期の諸研究と酷似した研究に財政援助をおこなっている。(185)。

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