『統一への道にたたずんで ある朝鮮人社会主義者の回想』
高性華著(2005年)/李宗樹訳(2019年)
目次
第一章 植民地の子
幼い日の記憶/麦飯に醤油/啓蒙運動がはじまる/新星少年団責任者 金基範と出会う
第二章 愛国者として起つ
日本へ渡る/反帝同盟の組織員になる/異国の地での逃避生活/帰郷/清津に行く/カン・チョル先生の死/南三郡に関する知らせ/二度目の帰郷 新祖国建設のために/血で染められた三・一記念行事/釜山へ脱出する
第三章 職業革命家の道
釜山市党 四地区党で活動する/職業革命家というもの/影島の有名な接触場所―化学ロータリーと二度目の試練/七・二七人民大会の成功のために/一九四八年二・七救国戦争/釜山での四度目の試練/第一地区党の責任者に/麗順 軍蜂起支持闘争と逮捕の危機/市党責任秘書として召喚される/検挙
第四葦 激動の歳月
釜山刑務所 未決囚獄房生活/三坪の獄房、四〇人の愛国者―釜山刑務所 既決囚 獄房生活/金海大渚面の農場へ行く/日本へ/母の悲報/党に召喚される/七・四南北共同声明と一〇月維新/牛島事件
第五章 信念を貫く
ソウル拘置所での生活/〇・七五坪、大田刑務所で/生と死の間で―ピストルと転向工作/やむことのない転向工作の前で/コ・ピョンテクと出会う/バク・スンチョルという若者/合房/ピョン・ヨンフン教務課長/黄金よりも尊い同志愛-死の淵から救い出してくれた同志たちの闘争/病舎へ移る/一九八七年六月抗争と良心囚たちの戦い/鉄格子の中の良心たち/無知の所産、転向工作/民主化実践家族運動協議会と良心囚後援会/大田からの最初の出所/予想もしなかった出所
第六章 新たな世の光と済州で会った賢者たち
チェジュド/済州島の若い良心たちに会う/民主主義民族統一済州連合の歓迎会/世界最長期囚の釈放/帰郷の途について/居を移す
結びにかえて
二〇〇五年、六・一五を迎えて
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
![]()
本書の概略(訳者あとがきを参考に)
1916年、韓国済州島の隣にある小さな島、牛島(ウド)で生まれた著者は早くに父親と死別し、祖母のもとで幼少時代を過ごした。著者は植民地支配下の悲惨な日々を送りながら、抗日愛国、社会進歩に目を向ける先覚者たちから影響を受ける。
「世の中には二つの階層があり、人々はそのどちらかに属しているが、それは何か?」という先生の問いかけに、「金持ちと貧乏人です」と答えるなど、普通学校(中学校)を卒業するころには民族解放と階級意識に目覚めた。
向学心が強く、渡日すると大阪の浪華商業高校(現・浪商高校)に入学、3年生(1934年、18歳ごろ)には「反帝同盟」に加わり、社会運動にたずさわり、『共産主義ABC』(ブハーリン)などの社会科学系の書籍を読んだ。
しかし日本国内で警察から追われる身となり、卒業を断念し、5年生の時(20歳)に帰国する。1936年(20歳)から、牛島で教員をしたが、日本の歴史を教えることが苦痛になり、2年後(1937年)、朝鮮半島北東部の清津(チョンジン)で自動車会社の経理職員として働いていたが、そこで白頭山の抗日遊撃隊のことを知った。1944年朝鮮南部の順天で仕事を得て、日本の敗戦と祖国光復(日帝植民地からの解放)を迎えた。
1945年(29歳)、故郷である牛島に戻り、朝鮮労働党に入党し、牛島責任秘書として活動していたが、アメリカ軍政の人民虐殺や西北青年団の襲撃などを受け、釜山に逃れ、南朝鮮労働党釜山市党の幹部として活動を継続した。著者はくりかえし検挙されそうになるが、かろうじて難を逃れ、たたかい続ける。
釜山で活動中の1949年(33歳)、国家保安法違反などの容疑で検挙され釜山刑務所で服役。服役中の生活や他の囚人、看守とのやり取りなどが克明に記録されている。2年間の服役生活を終え出所するも、故郷である済州島では「逃避者」、釜山では「前科者」というレッテルを張られ、正常な社会生活が送れず、1953年(37歳)、活動場所を日本に移す。
1959年(43歳)母の死を機に、帰郷した。1961年民主党政権が樹立されたが、5月16日に朴正煕がクーデターを起こし、軍事政権が成立した。済州警察の刑事が来て家宅捜索し、そのまま連行され、20日間拘留(拷問)され、肝臓を患った。
1973年(57歳)、済州警察に連行され、一旦釈放されたが、3月31日にソウル拘置所に収監された。1974年4月、国家保安法違反容疑で無期刑を宣告された。それから釈放されるまでの20年間の苦節、収監者にたいする刑務内での処遇、特に非転向者にたいしての転向強要など、一般社会では想像できない様子を伝えている。
1993年(77歳)に、著者は非転向を貫いて釈放を勝ちとった。著者は金麗水の「竹として折れようとも/柳として曲がることなかれ/一日の生たりとて/願わくは潔き営みを」という詩を心に刻みながら、獄中死を覚悟していたのである。
本書は2005年(89歳)に出版され、著者は2013年7月に、97歳で永眠した。2019年7月に日本語訳が出版され、ようやくわたしたちに読まれるようになった。みなさんの一読をお勧めする。
感想メモ
・日帝植民地支配下の苛酷な弾圧。
・米占領軍と親日派による支配・弾圧。
・日帝が残した親日派―戦後日本の責任。
・朴正煕軍事独裁(治安体制)下の革命運動の苛酷さ。
・朴正煕独裁政権下の拷問・転向政策—3坪の部屋に40人収監(1950年)―3・1弾圧時の留置場と同じ状況。
・徐勝さん、徐宗植さんのこと。
・2005年出版—不二越訴訟関係でくり返し訪韓していた時期だが‥‥、
・出島権二さんが働いていた不二農場のことがでてくる。
高性華著(2005年)/李宗樹訳(2019年)
目次
第一章 植民地の子
幼い日の記憶/麦飯に醤油/啓蒙運動がはじまる/新星少年団責任者 金基範と出会う
第二章 愛国者として起つ
日本へ渡る/反帝同盟の組織員になる/異国の地での逃避生活/帰郷/清津に行く/カン・チョル先生の死/南三郡に関する知らせ/二度目の帰郷 新祖国建設のために/血で染められた三・一記念行事/釜山へ脱出する
第三章 職業革命家の道
釜山市党 四地区党で活動する/職業革命家というもの/影島の有名な接触場所―化学ロータリーと二度目の試練/七・二七人民大会の成功のために/一九四八年二・七救国戦争/釜山での四度目の試練/第一地区党の責任者に/麗順 軍蜂起支持闘争と逮捕の危機/市党責任秘書として召喚される/検挙
第四葦 激動の歳月
釜山刑務所 未決囚獄房生活/三坪の獄房、四〇人の愛国者―釜山刑務所 既決囚 獄房生活/金海大渚面の農場へ行く/日本へ/母の悲報/党に召喚される/七・四南北共同声明と一〇月維新/牛島事件
第五章 信念を貫く
ソウル拘置所での生活/〇・七五坪、大田刑務所で/生と死の間で―ピストルと転向工作/やむことのない転向工作の前で/コ・ピョンテクと出会う/バク・スンチョルという若者/合房/ピョン・ヨンフン教務課長/黄金よりも尊い同志愛-死の淵から救い出してくれた同志たちの闘争/病舎へ移る/一九八七年六月抗争と良心囚たちの戦い/鉄格子の中の良心たち/無知の所産、転向工作/民主化実践家族運動協議会と良心囚後援会/大田からの最初の出所/予想もしなかった出所
第六章 新たな世の光と済州で会った賢者たち
チェジュド/済州島の若い良心たちに会う/民主主義民族統一済州連合の歓迎会/世界最長期囚の釈放/帰郷の途について/居を移す
結びにかえて
二〇〇五年、六・一五を迎えて
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


本書の概略(訳者あとがきを参考に)
1916年、韓国済州島の隣にある小さな島、牛島(ウド)で生まれた著者は早くに父親と死別し、祖母のもとで幼少時代を過ごした。著者は植民地支配下の悲惨な日々を送りながら、抗日愛国、社会進歩に目を向ける先覚者たちから影響を受ける。
「世の中には二つの階層があり、人々はそのどちらかに属しているが、それは何か?」という先生の問いかけに、「金持ちと貧乏人です」と答えるなど、普通学校(中学校)を卒業するころには民族解放と階級意識に目覚めた。
向学心が強く、渡日すると大阪の浪華商業高校(現・浪商高校)に入学、3年生(1934年、18歳ごろ)には「反帝同盟」に加わり、社会運動にたずさわり、『共産主義ABC』(ブハーリン)などの社会科学系の書籍を読んだ。
しかし日本国内で警察から追われる身となり、卒業を断念し、5年生の時(20歳)に帰国する。1936年(20歳)から、牛島で教員をしたが、日本の歴史を教えることが苦痛になり、2年後(1937年)、朝鮮半島北東部の清津(チョンジン)で自動車会社の経理職員として働いていたが、そこで白頭山の抗日遊撃隊のことを知った。1944年朝鮮南部の順天で仕事を得て、日本の敗戦と祖国光復(日帝植民地からの解放)を迎えた。
1945年(29歳)、故郷である牛島に戻り、朝鮮労働党に入党し、牛島責任秘書として活動していたが、アメリカ軍政の人民虐殺や西北青年団の襲撃などを受け、釜山に逃れ、南朝鮮労働党釜山市党の幹部として活動を継続した。著者はくりかえし検挙されそうになるが、かろうじて難を逃れ、たたかい続ける。
釜山で活動中の1949年(33歳)、国家保安法違反などの容疑で検挙され釜山刑務所で服役。服役中の生活や他の囚人、看守とのやり取りなどが克明に記録されている。2年間の服役生活を終え出所するも、故郷である済州島では「逃避者」、釜山では「前科者」というレッテルを張られ、正常な社会生活が送れず、1953年(37歳)、活動場所を日本に移す。
1959年(43歳)母の死を機に、帰郷した。1961年民主党政権が樹立されたが、5月16日に朴正煕がクーデターを起こし、軍事政権が成立した。済州警察の刑事が来て家宅捜索し、そのまま連行され、20日間拘留(拷問)され、肝臓を患った。
1973年(57歳)、済州警察に連行され、一旦釈放されたが、3月31日にソウル拘置所に収監された。1974年4月、国家保安法違反容疑で無期刑を宣告された。それから釈放されるまでの20年間の苦節、収監者にたいする刑務内での処遇、特に非転向者にたいしての転向強要など、一般社会では想像できない様子を伝えている。
1993年(77歳)に、著者は非転向を貫いて釈放を勝ちとった。著者は金麗水の「竹として折れようとも/柳として曲がることなかれ/一日の生たりとて/願わくは潔き営みを」という詩を心に刻みながら、獄中死を覚悟していたのである。
本書は2005年(89歳)に出版され、著者は2013年7月に、97歳で永眠した。2019年7月に日本語訳が出版され、ようやくわたしたちに読まれるようになった。みなさんの一読をお勧めする。
感想メモ
・日帝植民地支配下の苛酷な弾圧。
・米占領軍と親日派による支配・弾圧。
・日帝が残した親日派―戦後日本の責任。
・朴正煕軍事独裁(治安体制)下の革命運動の苛酷さ。
・朴正煕独裁政権下の拷問・転向政策—3坪の部屋に40人収監(1950年)―3・1弾圧時の留置場と同じ状況。
・徐勝さん、徐宗植さんのこと。
・2005年出版—不二越訴訟関係でくり返し訪韓していた時期だが‥‥、
・出島権二さんが働いていた不二農場のことがでてくる。