「室生犀星と戦争」に関する読書メモ
1927年6月『庭を造る人』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176325
(メモ:1924年冬~1927年春)
211頁(117)[野口米次郎氏] 二十代には二十代の詩があり、三十代には三十代の詩があり、四十代五十代には人生の最終の詩があるといふ考へは間違ってゐない。段々年齢が高まり心が深くなるに従って詩もすゝんでゆくことは必然である。(注:1925年ころ、治安維持法)
315頁(169)[震災日録](赤羽)九月四日、早朝、岩淵の渡しを見るに、もはや人で一杯なり。…銃声と警鐘絶え間なし。(注:朝鮮人への襲撃か?)
1929年(40歳)『天馬の脚』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175899
序(5) 原稿は当然破棄すべきものを捨てて、自分の気に入ったものだけを本集にをさめた。…自分の変わりかけている、…あつめたものである。
26頁(27)[作家生活の不安]<全集から削除>「春」や「破戒」を読んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかった。…十年間「島崎藤村」を読んだものとして…。
31頁(29)[東洋の真実]<全集から削除> 西洋の作家(注:トルストイ、ドストエフスキーなど)は宗教風な観念に美と愛を感じてゐた。東洋の諸詩人は宗教よりも一掃手厚い真実を自然や人情の中に求めた。
90頁(59)[自叙伝]<全集から削除> 自分は此頃…自叙伝小説を書き始めた。…私は嘘を交ぜた、いい加減の美しさで捏ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、…
107頁(67)[詩壇の柱]<全集から削除> 大正三年(1914年)に出版されたこの詩集(注:「太陽の子」)の中には、今のプロレタリア詩集派の先駆的韻律と気魄とを同時に持ち合わせ、激しい一ト筋の青年福士孝次朗の炎は全巻に余燼なく燃え上がってゐた。詩は(一人の男に知恵をあたへ、一人の男に黄金のかたなをあたへ)の呼びかけから書き出して、左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記録を絶した力勁さで終ってゐる。「この男に声をあたへ/この男をゆりさまし/この男に閃きをあたへ/この男を立たしめよ」
132頁(80)[敵国の人]<全集から削除> 僕の知る限り芭蕉は一朝のさびや風流を説いた人ではない。…太平の元禄にあって、彼は社会主義者になる必要に迫られはしなかったらうが、併し彼は何よりも近代に生を享てゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。
168頁(98)[政治的情熱]<全集から削除> 今度の選挙(注:1928年か?)で、自分も労農党のM氏に一票を投じた。政治には興味を持たない自分だったが、何か旺んな情熱を感じその情熱に触れることは好ましい愉快さであった。菊池寛、藤森成吉二氏の落選には…何か腹立たしかった。…藤森氏は労働もされ、其道ににつかれたことには、自分は別に説を持ってゐる者ではあるが、…(注:藤森成吉:全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点。1933年2月 治安維持法違反で検挙)
177頁(102)[流行と不流行]<全集から削除> 此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗教的な雰囲気の中にさへ押し立てて、ジャーナリズムの惰性と麻痺とによるものと対抗する以外には立たないのである。…誠の作家は流行不流行に拘わらず、煮え湯を飲み喘ぐのも亦面白い興味のあるところであらう。
1934年『文芸林泉』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236014/15
82頁(62)[林芙美子の作品]林芙美子の「小區」を読む。…窪川稲子(注:佐多稲子)さんなどはかういふ気持ちや作風を人がらの上に多分もつ人であるが、近来こじつけて左翼的な作品にみんなあるだけを持って行かうとしてゐるのが、林芙美子をよむにつけても惜まれてならない。(注:プロレタリア文学)
517頁(282)[愛読史]昔(注:1917年・28才頃)、新潮社から「トルストイ研究」といふ薄かったが小気味よい雑誌が出てゐたころ、僕はトルストイの小説を片っ端から読み耽ってゐた。…ドストエフスキーの小説を自然に耽読するやうになった。この小説は僕に人道主義やらなにやら分からんが、妙な文学のなかにのみあるやうな宗教心をあふってくれ、僕はさういふ傾向の詩ばかり書いて暮らしていた。(注:ロシア革命の影響か?)
1935年2月『慈眼山随筆』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177039/154
119頁(66)[書物雑感]僕の「愛の詩集」はドストエフスキーを読んでゐた時分で、その影響を受けてゐた。人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかったのである。
198頁(106)[大衆物、転向の問題]今月号のどの雑誌を見ても大衆文芸が一編も掲げられてゐない。…大衆文学が発展すれば勝手にしてもいい。転向作家は転向したければすればいいのであって、人間のすることで厭なことがあれば止めればいいのだ。それを眼くじり立てて言ふほどのことはない。…かれらも皆苦労してきた人である。転向でも何でもして文学的な仕事をすればいいのだ。弱みをほじくり返すことはしたくない。(注:転向の原因には無関心)
249頁(131)[中野重治君に送る手紙](注:書かれたのは1934年なので、中野重治が検束された直後か?)
291頁(152)[晴れやかなる一瞬]文学は正義につくか汚辱につくか。二つしか道がない。(注:犀星はどっちだ!)
304頁(159)[風流の処刑]ナチスの焚書のなかで大抵のドイツの風流本は焚かれてしまった。(注:日本のことは書かないのか)
1936年『薔薇の羮(あつもの)』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231597
(注:1930、31年の随筆)
7頁(17)[寒蝉雑記]この茶房に来る途中、金沢にも始めてメーデー(注:1929年第1回メーデー)があったらしく、電柱に貼られたポスターが剥奪されながらも、糊強く電柱に食ひ込んでゐた。…故郷の町にも、時代の運動が遅れ馳せながら来たかと思ふと頼母しくも壮烈さを感じずにはゐられなかった。…芸術文人を友とする自分なども必ずしも先走りを勤め、鳴き立てゝも、仕方なかった。蛙が剣を持って立ったとて何の役に立たう。
51頁(39)[アスパラガスの模倣] 千九百五年代の初期の女給さんの息子は、すでに華々しく大学に通うてゐた。…お腹には凡ゆる映画と、詩と小説と音楽とマルクスやレーニンのはげ頭をつめ込んでゐた。
63頁(45)[人造人間]若し「人造人間」(注:クローンのこと)の科学的現象が完全に成績づけられるとしたら、我々人類は絶対に資本主義のもとに征服せられるに違ひない。何故なれば人造人間に要する経済上の資本は莫大な巨額に上るであらう。その充実に拠ってのみ人間が製造せられるからである。
121頁(74)[自然論]自分はどういふ時にも自然を自然のままで感じることはできない。そこに自分の気持を交へずには居られぬ。人間の感情を潜らない自然には、最早美しさを感じない。人間の悲哀感や歓喜の情を過ぎた自然であることにより、強根い美しさと、消えない微妙さを交へてゐるのである。
132頁(80)[天の美禄]自分は軽井沢にゐる間に何時も何か不安を感じてゐた。それは何時どういふ時に天災的なものがブルジョアばかり集まったこの山中を見舞ふかも分らない。天災ですら、ブルジョアを避けて通った過去の埋積が、一朝どういふ運命を携へて来るか分らないからである。
213頁(120)[文芸雑稿] 随筆は作者の心境と身辺を描くための文学である。同時に又凡ゆる文学中の散兵のやうなものであり、又それらの密集は厳然たる大なる文学でなければならぬ。
291頁(159)[人物と批評]「戦旗」の中野重治氏の小説「春さきの風」を読み、啻(ただ)に今月中の佳作ばかりでなく、最近プロレタリア文芸の作家のうちでも、最も秀れたものであることを感じた。(注:「春さきの風」は1928年3・15弾圧後の、8月執筆)
307頁(167)[将軍]彼(芥川龍之介)は此作品に於て戦争を否定し、偽悪を指摘してゐた当然打込むべきものを十分に打込むことを為し得なかったのも、時流はこれを許さないからであった。(1922年11月)
317頁(172)[既成詩壇の人々]福士幸次郎に至っては全巻中に鑿乎として輝き、彼が詩人としての本格的性根を奈何に確かりと握ってゐるかが、その数編によって物語り尽くしてゐた。
1936年『印刷庭苑 犀星随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172474
「文芸時評」の項があり、犀星は30人ほどの作家・作品について評論している。
243頁(126)[文芸時評<市井の塵埃>]島木健作の「一過程」も左翼の空気を手堅く描出し、芹沢治良氏も「風逃」でやはりさういう色彩を出し、細田源吉氏の「長雨」も留置場のことを書いてゐられた…。私はかういふ留置場や嫌疑や策動的生活がいまは全きまでに過ぎ去った事がらになつてゐるのを、何故に掘り返すのか、それが芸術としての永遠不抜なものになるのか知らと考えながら読んだ。ただ、私は私の心の痛みだけを感じたに過ぎなかった。細田源吉氏のやうな温厚な一作家にも、かういう悲しい生活の加へられてあつた事件をいたくも身につまされたのである。同時にかういふ単に人の心を痛ましめるだけで、芸術上の昂揚も喜びも感じない作品を読んだことが決して私の幸福でないやうに思はれた。
1937年9月『駱駝行』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258309
序文 私自身の新聞的記述に過ぎない随筆類は、もはや顧る必要さへないのである。
32頁(21)[駱駝行](二百三高地)七千五百人の肉と魂とで占領したこの山頂
122頁(66)[全集期の作家]自然主義時代でも文士は社会的地位を持ってゐた。国木田独歩氏や田山花袋氏、二葉亭四迷氏なども日露戦争に従軍して、愛国の文字を聞かしてゐた。…若しさういふ戦争の機会があって文学者が従軍するとしたら、恐らく全文学者が立って従軍を希望するであらうと思ふのだ。平常、文学者は何や彼やと我儘を云っても、最も熱烈に従軍するのも文学者であれば、また詳細くまなく戦争を記録するのも文学者であらう。かういふ時の文学者こそ鉄火のごとき筆を撫して一国のために戦ひ描くことを思へば、文学者の熱烈こそ、褒め讃へられるべきだと思ふ。
140頁(75)[文学四方山話<芸術院と懇話会>](芸術院について)文学と国家とを結び付けて行くべきである。そして各文学分野の人々が一丸となって一国の文学を名誉や栄達による表彰をしないで、十分な年金あるひは賞金制度によって如何にも国家らしい保護をこそ望ましいのだ。
149頁(79)[実行する文学]昨夏(1936年)、機会があって伊沢多喜男氏をはじめ近衛文麿氏、永井柳太郎氏、鳩山一郎氏などと云ふ、政界の巨頭達と一夕会見を俱にした…。
154頁(82)[実行する文学]大臣もまた一国の文芸家とともに国家と文学といふ問題の為にも、また文運を祝福するためにも、度々会見すべきではなかろうかと思はれた。
158頁(84)[実行する文学]文学が国家的に働きかけて貰ひ、漠然たる意味ではあるが、善きを善くすべき人生の諸現象に就て、最も深き力を示されたいといふ伊沢さんの意見であった。私はこの伊沢さんの意見をよしとして…。
159頁(85)[実行する文学]政治家と我々の接触は文学の広さをひろげるし、また文学を仲間以外にひろげることも出来るからである。少くとも文学現象は最高文化であるのであるから、政治の高さとともにもうそろそろ握手をして、大臣も我々の友人としなければならないと考へてゐる。
162頁(86)[実行する文学]文学といふものにも、文学としての使命や目的がある程、文学の大きさや深さがあるのではないかと思はれ出した。人道主義でもいいし、国家主義でもいいし、感傷主義でもいいし…
163頁(86)[実行する文学]文学を利用すべき機関に必要あれば我々は力を藉し、また文学を利用してよいやうなことがらにも、我々は碌でもない潔癖を取捨てて結びつきたいのである。
165頁(87)[実行する文学]私は哈爾浜かチチハル及びそれらの地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。(注:1937年4月~)
166頁(88)[実行する文学]文学が断ち拓いてゆくべき分野が非常に広大であり、且つ甚だ国家的であることを人々は知るであらう。
222頁(116)[新年時評]「雑踏」(中央公論1937年1月)の中條百合子氏は長篇の発端とされてゐるが、左翼後期のもので私には材料それ自身が向かないものである。左翼くさいものを見ると、活字面を見るだけで、もふ飽きてしまふのである。片岡鉄兵氏の「摩擦」も左翼ものでその愛欲の一挿話が書かれてゐるが、左翼くさい故を以て又私に向かざるものであった。今日かくのごとき左翼くさいものがこの時代と何の関係のない出流れであることが、それらの小説を見ると痛烈にさう感じられた。そんな人生に食ひ付いたり未練があったりするのは、作家を退歩させるばかりである。日本に於ける左翼ものの後始末は作品的に島木健作氏で打止めにした方がよい。
1939年『あやめ文章』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1263455
35頁(22)[五十歳の夕暮れ]私もやっと五十歳になった。(注:1938年か)
73頁(41)[翡翠]事変以来、支那人は可愛相に思はれても誰も指一本ささず寧ろ同情されてゐる程であり、日本人は大国の胸をひろげるやうになり、敵国の善き民を憎む者が一人もゐないことは誇っていいことであった。
91頁(50)[永遠の飛行]先日、百十数台の飛行機が大森の空にも訪れて来たが、…上海や南京、広東の空爆の新聞記事を夏(注:1937・7・7)以来読み続けてきた私は、…。今次の戦争で、我国の飛行機が我々日常生活のなかで黙って永い間仕事をしてゐたことを、我々平常では知る由もなかったのであるが、その果敢勇猛な活躍振りを見ていかに黙って仕事をしてゐたことの尊いかを知ったのである。…大同陥落では石仏寺が無事であったことを知り、我が軍の古美術を劬(いたわる)気概にいたくも打たれた。…近時文学者の戦時的な感想には出征同胞を思ふに切、そして文学に活を入れる心構へを見ることも心嬉しいことである。…皆、勇気凜々として襟を正してゐるやうな傾きが見られる。文学者がその文学にかくまでに自信を持ってゐることも、既往に徴して全く珍しいことと言ってよい。以後、戦地に出かける文学者が続出するであらう。
101頁(55)[春は蘭は]パアル・バックの「大地」を読み、「阿部一族」や「モダン・タイムス」を見てから間もなく、今年の春は…。去春哈爾浜に…。
101頁(55)[きのふけふ]けふ、岸田国士君の「文藝春秋」の北支日本色といふ一文を読んで、…読みごたへがあって面白かった。…詩人三好達治なども…自ら進んで上海に飛び出したことも、意味深く壯としなければならぬ。…東洋では、神の名前は出さないが、何時も正義の前には戦争をするのである。
125頁(67)[文学者と画家]著作法によっても教科書に採用される詩及び文学作品は、改竄されることは勿論、それに原稿料を支払はなくてもいゝことになってゐる。
1940年『一日も此君なかるべからず 随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1143933
15頁(14)[家庭のともしび<大戦の思ひで>]世界大戦のころ私は二十二歳くらひで…。
16頁(16)[大戦の思ひで]欧州戦争中は私も戦争の詩を書いたものであるが、今から見ると読むに耐へぬ詩ばかりであった。
23頁(18)[大戦の思ひで]きのふ社用をおびて来られた人で、その翌日、もう応召されたこともあとで聞いたこともあった。…加藤愛夫といふ詩人…。…事変は文学者には文学の畑をもって近づいて来てゐることも美しいことに思はれた。
83頁(48)[燐寸]歴代の大臣は文学者とあまり離れすぎてゐるため、…大臣の方からも、文学者の方からも時々集まって晩餐くらゐ一緒にしておけば、…国民の心を心とする文学者の意見も加はる機会が作られるのである。
172頁(93)[文学は文学の戦場に]俄然として日本ぢうが澎湃たる軍歌で湧き上がった。…戦争が文学的分野にその影響を最初にあたへたものは俳句と和歌であった。戦争のために作られたものが少しづつ表はれてゐるが、未だ手重い作品を見るべくもないのは詩人が戦争に参与してゐる数が少ないからである。…榊山潤氏の一、二の作品にそのほとばしりを見たが、大局の上からは、戦争文学の入口にまで行ってゐないのである。併し逸早くこの青年作家がそこに着目創作したといふことは認めていいことである。かういう事変下にある文学者としての私の心境はどういふふうに変わったであらうか。…私は先年満州に赴いた時、何らかの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひお持って行ったのである。…戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起って調べるのもいいであらう。だが、私はさういふがらにないことに出しゃばりたくない。
186頁(100)[自戒]かかる戦時下にあっては、私の心をしめ付けてゐるものは、ふしぎにも私自身の文学へのしめ付けであり、自戒の厳しさの中にあることである。かういふ事変下にあって私自身の文学はどう変わりようがなくても、その文学精神にぴったりとした今までに見られないものをひと筋打徹したい願ひを持ち…。戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、…私は私流に一そうみがくことを怠らなければいいのである。…作家は何か変わりかけた時分には、…作家は書かずにゐなければならず、書けないのである。
194頁(104)[小説の奥]二千六百年(注:1940年)を讃へる諸家の詩や歌を読んで美しいこけおどかしの詩句ばかりならべてあるのに、私は悲観してしまった。…私は新春とともに併せて感じるものは自分の文学もひっくるめて漠然として空虚極まるものである。無際限にひろがった空虚のなかで、私は人のやうに方向が立たず、また方向を立ててもそんなものは直ぐに壊れてしまふ状態では、全く空虚の広さの中で生きるより外はないのである。
202頁(108)[文学とラヂオ]…仏国は降伏してしまった。
211頁(112)[䔥條人]毎木曜日ごとに文部省の映画委員会に私は出向いて…
220頁(117)[平和なき文学<緑色の帽子>]まだ二十五くらゐの時分(注:1914年ごろ)…どういふ用事があったのか、私は生田長江氏を本郷の古城のような家にたずねた。(留守で会えなかった)
257頁(135)[陣をしく女流作家]戦争は文壇を真二つに叩き割った。一つは従軍文士の華々しい人気と、一つは従軍しない文士の何か淋しげな気負ひとである。…私は文士は一人のこらず何かの機会に従軍しないまでも戦地に赴いた方がいいと考へてゐる。
288頁(151)[俳句・詩・小説<詩>]毎日トルストイとドストエフスキーを読んで、新しい感激に浸ってゐた。だから「愛の詩集」(注:30歳の時)と「第二愛の詩集」にはトルストイとドストエフスキーの影響がにじみでてゐるのは当然。…おそらく今後もはや詩集を上梓することはあるまいと思ふ。
314頁(164)[女優と映画史]女の人は美しくなかったら私には感情的には何の波動も感じないのである。
1941年『花霙』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130197/101
178頁(96)~[加藤愛夫氏詩集「進軍」序]
184頁(99)~[佐藤惣之助の「従軍詩集」]評論
189頁(101)~[佐藤春夫著「戦線詩集」]評論
1942年『泥雀の歌』5月25日 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069460
184頁(98)[愛の詩集]トルストイ、ドストエフスキーを読みふけった
186頁(99)[愛の詩集]当時の私の詩集が妙に人道主義めいたいやらしい傾向を帯びてゐるのも、残念ながらロシア文学の影響
214頁(113)[小供の死]芥川が(軽井沢に)やってきたのは震災の前の年と、後の十三年。
283頁(147)[哈爾浜の章]突然日支事変が起った。私の書くものは詩にとどまることに美しさを感じ、もう、市井鬼の群からずっとはなれてその仕事は続けられた。
284頁(148)[哈爾浜の章]文学ばかりではなく、事変は一さい改変と䔥整をあたへ、日本は新しい心とその装ひとをその両面からととのへて行った、これは一さいを良くしてかかる最初の声であり、とうに此処まで来るやうに過去からだんだん積みかさねられて来たものだった。かううふときにこそ文学の温かい乳ぶさを人びとにおくらねばなぬのだ。
292頁(152)[後記?]この稿を終えた時、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が開かれた。そしてまたたく間に勝利は相ついで臻(いた)った。南方へ、シンガポールへ、怒濤は艦列をつくり迫りに迫った。
1927年6月『庭を造る人』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176325
(メモ:1924年冬~1927年春)
211頁(117)[野口米次郎氏] 二十代には二十代の詩があり、三十代には三十代の詩があり、四十代五十代には人生の最終の詩があるといふ考へは間違ってゐない。段々年齢が高まり心が深くなるに従って詩もすゝんでゆくことは必然である。(注:1925年ころ、治安維持法)
315頁(169)[震災日録](赤羽)九月四日、早朝、岩淵の渡しを見るに、もはや人で一杯なり。…銃声と警鐘絶え間なし。(注:朝鮮人への襲撃か?)
1929年(40歳)『天馬の脚』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175899
序(5) 原稿は当然破棄すべきものを捨てて、自分の気に入ったものだけを本集にをさめた。…自分の変わりかけている、…あつめたものである。
26頁(27)[作家生活の不安]<全集から削除>「春」や「破戒」を読んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかった。…十年間「島崎藤村」を読んだものとして…。
31頁(29)[東洋の真実]<全集から削除> 西洋の作家(注:トルストイ、ドストエフスキーなど)は宗教風な観念に美と愛を感じてゐた。東洋の諸詩人は宗教よりも一掃手厚い真実を自然や人情の中に求めた。
90頁(59)[自叙伝]<全集から削除> 自分は此頃…自叙伝小説を書き始めた。…私は嘘を交ぜた、いい加減の美しさで捏ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、…
107頁(67)[詩壇の柱]<全集から削除> 大正三年(1914年)に出版されたこの詩集(注:「太陽の子」)の中には、今のプロレタリア詩集派の先駆的韻律と気魄とを同時に持ち合わせ、激しい一ト筋の青年福士孝次朗の炎は全巻に余燼なく燃え上がってゐた。詩は(一人の男に知恵をあたへ、一人の男に黄金のかたなをあたへ)の呼びかけから書き出して、左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記録を絶した力勁さで終ってゐる。「この男に声をあたへ/この男をゆりさまし/この男に閃きをあたへ/この男を立たしめよ」
132頁(80)[敵国の人]<全集から削除> 僕の知る限り芭蕉は一朝のさびや風流を説いた人ではない。…太平の元禄にあって、彼は社会主義者になる必要に迫られはしなかったらうが、併し彼は何よりも近代に生を享てゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。
168頁(98)[政治的情熱]<全集から削除> 今度の選挙(注:1928年か?)で、自分も労農党のM氏に一票を投じた。政治には興味を持たない自分だったが、何か旺んな情熱を感じその情熱に触れることは好ましい愉快さであった。菊池寛、藤森成吉二氏の落選には…何か腹立たしかった。…藤森氏は労働もされ、其道ににつかれたことには、自分は別に説を持ってゐる者ではあるが、…(注:藤森成吉:全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点。1933年2月 治安維持法違反で検挙)
177頁(102)[流行と不流行]<全集から削除> 此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗教的な雰囲気の中にさへ押し立てて、ジャーナリズムの惰性と麻痺とによるものと対抗する以外には立たないのである。…誠の作家は流行不流行に拘わらず、煮え湯を飲み喘ぐのも亦面白い興味のあるところであらう。
1934年『文芸林泉』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236014/15
82頁(62)[林芙美子の作品]林芙美子の「小區」を読む。…窪川稲子(注:佐多稲子)さんなどはかういふ気持ちや作風を人がらの上に多分もつ人であるが、近来こじつけて左翼的な作品にみんなあるだけを持って行かうとしてゐるのが、林芙美子をよむにつけても惜まれてならない。(注:プロレタリア文学)
517頁(282)[愛読史]昔(注:1917年・28才頃)、新潮社から「トルストイ研究」といふ薄かったが小気味よい雑誌が出てゐたころ、僕はトルストイの小説を片っ端から読み耽ってゐた。…ドストエフスキーの小説を自然に耽読するやうになった。この小説は僕に人道主義やらなにやら分からんが、妙な文学のなかにのみあるやうな宗教心をあふってくれ、僕はさういふ傾向の詩ばかり書いて暮らしていた。(注:ロシア革命の影響か?)
1935年2月『慈眼山随筆』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177039/154
119頁(66)[書物雑感]僕の「愛の詩集」はドストエフスキーを読んでゐた時分で、その影響を受けてゐた。人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかったのである。
198頁(106)[大衆物、転向の問題]今月号のどの雑誌を見ても大衆文芸が一編も掲げられてゐない。…大衆文学が発展すれば勝手にしてもいい。転向作家は転向したければすればいいのであって、人間のすることで厭なことがあれば止めればいいのだ。それを眼くじり立てて言ふほどのことはない。…かれらも皆苦労してきた人である。転向でも何でもして文学的な仕事をすればいいのだ。弱みをほじくり返すことはしたくない。(注:転向の原因には無関心)
249頁(131)[中野重治君に送る手紙](注:書かれたのは1934年なので、中野重治が検束された直後か?)
291頁(152)[晴れやかなる一瞬]文学は正義につくか汚辱につくか。二つしか道がない。(注:犀星はどっちだ!)
304頁(159)[風流の処刑]ナチスの焚書のなかで大抵のドイツの風流本は焚かれてしまった。(注:日本のことは書かないのか)
1936年『薔薇の羮(あつもの)』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231597
(注:1930、31年の随筆)
7頁(17)[寒蝉雑記]この茶房に来る途中、金沢にも始めてメーデー(注:1929年第1回メーデー)があったらしく、電柱に貼られたポスターが剥奪されながらも、糊強く電柱に食ひ込んでゐた。…故郷の町にも、時代の運動が遅れ馳せながら来たかと思ふと頼母しくも壮烈さを感じずにはゐられなかった。…芸術文人を友とする自分なども必ずしも先走りを勤め、鳴き立てゝも、仕方なかった。蛙が剣を持って立ったとて何の役に立たう。
51頁(39)[アスパラガスの模倣] 千九百五年代の初期の女給さんの息子は、すでに華々しく大学に通うてゐた。…お腹には凡ゆる映画と、詩と小説と音楽とマルクスやレーニンのはげ頭をつめ込んでゐた。
63頁(45)[人造人間]若し「人造人間」(注:クローンのこと)の科学的現象が完全に成績づけられるとしたら、我々人類は絶対に資本主義のもとに征服せられるに違ひない。何故なれば人造人間に要する経済上の資本は莫大な巨額に上るであらう。その充実に拠ってのみ人間が製造せられるからである。
121頁(74)[自然論]自分はどういふ時にも自然を自然のままで感じることはできない。そこに自分の気持を交へずには居られぬ。人間の感情を潜らない自然には、最早美しさを感じない。人間の悲哀感や歓喜の情を過ぎた自然であることにより、強根い美しさと、消えない微妙さを交へてゐるのである。
132頁(80)[天の美禄]自分は軽井沢にゐる間に何時も何か不安を感じてゐた。それは何時どういふ時に天災的なものがブルジョアばかり集まったこの山中を見舞ふかも分らない。天災ですら、ブルジョアを避けて通った過去の埋積が、一朝どういふ運命を携へて来るか分らないからである。
213頁(120)[文芸雑稿] 随筆は作者の心境と身辺を描くための文学である。同時に又凡ゆる文学中の散兵のやうなものであり、又それらの密集は厳然たる大なる文学でなければならぬ。
291頁(159)[人物と批評]「戦旗」の中野重治氏の小説「春さきの風」を読み、啻(ただ)に今月中の佳作ばかりでなく、最近プロレタリア文芸の作家のうちでも、最も秀れたものであることを感じた。(注:「春さきの風」は1928年3・15弾圧後の、8月執筆)
307頁(167)[将軍]彼(芥川龍之介)は此作品に於て戦争を否定し、偽悪を指摘してゐた当然打込むべきものを十分に打込むことを為し得なかったのも、時流はこれを許さないからであった。(1922年11月)
317頁(172)[既成詩壇の人々]福士幸次郎に至っては全巻中に鑿乎として輝き、彼が詩人としての本格的性根を奈何に確かりと握ってゐるかが、その数編によって物語り尽くしてゐた。
1936年『印刷庭苑 犀星随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172474
「文芸時評」の項があり、犀星は30人ほどの作家・作品について評論している。
243頁(126)[文芸時評<市井の塵埃>]島木健作の「一過程」も左翼の空気を手堅く描出し、芹沢治良氏も「風逃」でやはりさういう色彩を出し、細田源吉氏の「長雨」も留置場のことを書いてゐられた…。私はかういふ留置場や嫌疑や策動的生活がいまは全きまでに過ぎ去った事がらになつてゐるのを、何故に掘り返すのか、それが芸術としての永遠不抜なものになるのか知らと考えながら読んだ。ただ、私は私の心の痛みだけを感じたに過ぎなかった。細田源吉氏のやうな温厚な一作家にも、かういう悲しい生活の加へられてあつた事件をいたくも身につまされたのである。同時にかういふ単に人の心を痛ましめるだけで、芸術上の昂揚も喜びも感じない作品を読んだことが決して私の幸福でないやうに思はれた。
1937年9月『駱駝行』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258309
序文 私自身の新聞的記述に過ぎない随筆類は、もはや顧る必要さへないのである。
32頁(21)[駱駝行](二百三高地)七千五百人の肉と魂とで占領したこの山頂
122頁(66)[全集期の作家]自然主義時代でも文士は社会的地位を持ってゐた。国木田独歩氏や田山花袋氏、二葉亭四迷氏なども日露戦争に従軍して、愛国の文字を聞かしてゐた。…若しさういふ戦争の機会があって文学者が従軍するとしたら、恐らく全文学者が立って従軍を希望するであらうと思ふのだ。平常、文学者は何や彼やと我儘を云っても、最も熱烈に従軍するのも文学者であれば、また詳細くまなく戦争を記録するのも文学者であらう。かういふ時の文学者こそ鉄火のごとき筆を撫して一国のために戦ひ描くことを思へば、文学者の熱烈こそ、褒め讃へられるべきだと思ふ。
140頁(75)[文学四方山話<芸術院と懇話会>](芸術院について)文学と国家とを結び付けて行くべきである。そして各文学分野の人々が一丸となって一国の文学を名誉や栄達による表彰をしないで、十分な年金あるひは賞金制度によって如何にも国家らしい保護をこそ望ましいのだ。
149頁(79)[実行する文学]昨夏(1936年)、機会があって伊沢多喜男氏をはじめ近衛文麿氏、永井柳太郎氏、鳩山一郎氏などと云ふ、政界の巨頭達と一夕会見を俱にした…。
154頁(82)[実行する文学]大臣もまた一国の文芸家とともに国家と文学といふ問題の為にも、また文運を祝福するためにも、度々会見すべきではなかろうかと思はれた。
158頁(84)[実行する文学]文学が国家的に働きかけて貰ひ、漠然たる意味ではあるが、善きを善くすべき人生の諸現象に就て、最も深き力を示されたいといふ伊沢さんの意見であった。私はこの伊沢さんの意見をよしとして…。
159頁(85)[実行する文学]政治家と我々の接触は文学の広さをひろげるし、また文学を仲間以外にひろげることも出来るからである。少くとも文学現象は最高文化であるのであるから、政治の高さとともにもうそろそろ握手をして、大臣も我々の友人としなければならないと考へてゐる。
162頁(86)[実行する文学]文学といふものにも、文学としての使命や目的がある程、文学の大きさや深さがあるのではないかと思はれ出した。人道主義でもいいし、国家主義でもいいし、感傷主義でもいいし…
163頁(86)[実行する文学]文学を利用すべき機関に必要あれば我々は力を藉し、また文学を利用してよいやうなことがらにも、我々は碌でもない潔癖を取捨てて結びつきたいのである。
165頁(87)[実行する文学]私は哈爾浜かチチハル及びそれらの地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。(注:1937年4月~)
166頁(88)[実行する文学]文学が断ち拓いてゆくべき分野が非常に広大であり、且つ甚だ国家的であることを人々は知るであらう。
222頁(116)[新年時評]「雑踏」(中央公論1937年1月)の中條百合子氏は長篇の発端とされてゐるが、左翼後期のもので私には材料それ自身が向かないものである。左翼くさいものを見ると、活字面を見るだけで、もふ飽きてしまふのである。片岡鉄兵氏の「摩擦」も左翼ものでその愛欲の一挿話が書かれてゐるが、左翼くさい故を以て又私に向かざるものであった。今日かくのごとき左翼くさいものがこの時代と何の関係のない出流れであることが、それらの小説を見ると痛烈にさう感じられた。そんな人生に食ひ付いたり未練があったりするのは、作家を退歩させるばかりである。日本に於ける左翼ものの後始末は作品的に島木健作氏で打止めにした方がよい。
1939年『あやめ文章』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1263455
35頁(22)[五十歳の夕暮れ]私もやっと五十歳になった。(注:1938年か)
73頁(41)[翡翠]事変以来、支那人は可愛相に思はれても誰も指一本ささず寧ろ同情されてゐる程であり、日本人は大国の胸をひろげるやうになり、敵国の善き民を憎む者が一人もゐないことは誇っていいことであった。
91頁(50)[永遠の飛行]先日、百十数台の飛行機が大森の空にも訪れて来たが、…上海や南京、広東の空爆の新聞記事を夏(注:1937・7・7)以来読み続けてきた私は、…。今次の戦争で、我国の飛行機が我々日常生活のなかで黙って永い間仕事をしてゐたことを、我々平常では知る由もなかったのであるが、その果敢勇猛な活躍振りを見ていかに黙って仕事をしてゐたことの尊いかを知ったのである。…大同陥落では石仏寺が無事であったことを知り、我が軍の古美術を劬(いたわる)気概にいたくも打たれた。…近時文学者の戦時的な感想には出征同胞を思ふに切、そして文学に活を入れる心構へを見ることも心嬉しいことである。…皆、勇気凜々として襟を正してゐるやうな傾きが見られる。文学者がその文学にかくまでに自信を持ってゐることも、既往に徴して全く珍しいことと言ってよい。以後、戦地に出かける文学者が続出するであらう。
101頁(55)[春は蘭は]パアル・バックの「大地」を読み、「阿部一族」や「モダン・タイムス」を見てから間もなく、今年の春は…。去春哈爾浜に…。
101頁(55)[きのふけふ]けふ、岸田国士君の「文藝春秋」の北支日本色といふ一文を読んで、…読みごたへがあって面白かった。…詩人三好達治なども…自ら進んで上海に飛び出したことも、意味深く壯としなければならぬ。…東洋では、神の名前は出さないが、何時も正義の前には戦争をするのである。
125頁(67)[文学者と画家]著作法によっても教科書に採用される詩及び文学作品は、改竄されることは勿論、それに原稿料を支払はなくてもいゝことになってゐる。
1940年『一日も此君なかるべからず 随筆集』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1143933
15頁(14)[家庭のともしび<大戦の思ひで>]世界大戦のころ私は二十二歳くらひで…。
16頁(16)[大戦の思ひで]欧州戦争中は私も戦争の詩を書いたものであるが、今から見ると読むに耐へぬ詩ばかりであった。
23頁(18)[大戦の思ひで]きのふ社用をおびて来られた人で、その翌日、もう応召されたこともあとで聞いたこともあった。…加藤愛夫といふ詩人…。…事変は文学者には文学の畑をもって近づいて来てゐることも美しいことに思はれた。
83頁(48)[燐寸]歴代の大臣は文学者とあまり離れすぎてゐるため、…大臣の方からも、文学者の方からも時々集まって晩餐くらゐ一緒にしておけば、…国民の心を心とする文学者の意見も加はる機会が作られるのである。
172頁(93)[文学は文学の戦場に]俄然として日本ぢうが澎湃たる軍歌で湧き上がった。…戦争が文学的分野にその影響を最初にあたへたものは俳句と和歌であった。戦争のために作られたものが少しづつ表はれてゐるが、未だ手重い作品を見るべくもないのは詩人が戦争に参与してゐる数が少ないからである。…榊山潤氏の一、二の作品にそのほとばしりを見たが、大局の上からは、戦争文学の入口にまで行ってゐないのである。併し逸早くこの青年作家がそこに着目創作したといふことは認めていいことである。かういう事変下にある文学者としての私の心境はどういふふうに変わったであらうか。…私は先年満州に赴いた時、何らかの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひお持って行ったのである。…戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起って調べるのもいいであらう。だが、私はさういふがらにないことに出しゃばりたくない。
186頁(100)[自戒]かかる戦時下にあっては、私の心をしめ付けてゐるものは、ふしぎにも私自身の文学へのしめ付けであり、自戒の厳しさの中にあることである。かういふ事変下にあって私自身の文学はどう変わりようがなくても、その文学精神にぴったりとした今までに見られないものをひと筋打徹したい願ひを持ち…。戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、…私は私流に一そうみがくことを怠らなければいいのである。…作家は何か変わりかけた時分には、…作家は書かずにゐなければならず、書けないのである。
194頁(104)[小説の奥]二千六百年(注:1940年)を讃へる諸家の詩や歌を読んで美しいこけおどかしの詩句ばかりならべてあるのに、私は悲観してしまった。…私は新春とともに併せて感じるものは自分の文学もひっくるめて漠然として空虚極まるものである。無際限にひろがった空虚のなかで、私は人のやうに方向が立たず、また方向を立ててもそんなものは直ぐに壊れてしまふ状態では、全く空虚の広さの中で生きるより外はないのである。
202頁(108)[文学とラヂオ]…仏国は降伏してしまった。
211頁(112)[䔥條人]毎木曜日ごとに文部省の映画委員会に私は出向いて…
220頁(117)[平和なき文学<緑色の帽子>]まだ二十五くらゐの時分(注:1914年ごろ)…どういふ用事があったのか、私は生田長江氏を本郷の古城のような家にたずねた。(留守で会えなかった)
257頁(135)[陣をしく女流作家]戦争は文壇を真二つに叩き割った。一つは従軍文士の華々しい人気と、一つは従軍しない文士の何か淋しげな気負ひとである。…私は文士は一人のこらず何かの機会に従軍しないまでも戦地に赴いた方がいいと考へてゐる。
288頁(151)[俳句・詩・小説<詩>]毎日トルストイとドストエフスキーを読んで、新しい感激に浸ってゐた。だから「愛の詩集」(注:30歳の時)と「第二愛の詩集」にはトルストイとドストエフスキーの影響がにじみでてゐるのは当然。…おそらく今後もはや詩集を上梓することはあるまいと思ふ。
314頁(164)[女優と映画史]女の人は美しくなかったら私には感情的には何の波動も感じないのである。
1941年『花霙』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130197/101
178頁(96)~[加藤愛夫氏詩集「進軍」序]
184頁(99)~[佐藤惣之助の「従軍詩集」]評論
189頁(101)~[佐藤春夫著「戦線詩集」]評論
1942年『泥雀の歌』5月25日 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069460
184頁(98)[愛の詩集]トルストイ、ドストエフスキーを読みふけった
186頁(99)[愛の詩集]当時の私の詩集が妙に人道主義めいたいやらしい傾向を帯びてゐるのも、残念ながらロシア文学の影響
214頁(113)[小供の死]芥川が(軽井沢に)やってきたのは震災の前の年と、後の十三年。
283頁(147)[哈爾浜の章]突然日支事変が起った。私の書くものは詩にとどまることに美しさを感じ、もう、市井鬼の群からずっとはなれてその仕事は続けられた。
284頁(148)[哈爾浜の章]文学ばかりではなく、事変は一さい改変と䔥整をあたへ、日本は新しい心とその装ひとをその両面からととのへて行った、これは一さいを良くしてかかる最初の声であり、とうに此処まで来るやうに過去からだんだん積みかさねられて来たものだった。かううふときにこそ文学の温かい乳ぶさを人びとにおくらねばなぬのだ。
292頁(152)[後記?]この稿を終えた時、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が開かれた。そしてまたたく間に勝利は相ついで臻(いた)った。南方へ、シンガポールへ、怒濤は艦列をつくり迫りに迫った。